昭和の電車 改訂版(59)ー近鉄5201系ー 投稿日時: 2020年3月23日 投稿者: 米手作市 近鉄と言えばwakuhiroさんとどですかでんさんに解説と思い出をお願いします。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(140)ー神戸有馬電鉄テン1号ー 昭和の電車 改訂版(133)ー遠州鉄道モハ1ー 昭和の電車 改訂版(108)ー京成クハ2000型ー 昭和の電車 改訂版(81)ー京成電鉄1500型ー 昭和の電車 改訂版(75)ー相模鉄道キハ1000系ー 昭和の電車 改訂版(63)ー国鉄クモハ73型ー 昭和の電車 改訂版(31)ー相模鉄道モハ5000型ー 昭和の電車 改訂版(9)ー国鉄クハ79066ー
ご指名により古い写真をひっくり返しました。写真は1970年10月当麻寺付近の二上山をバックにしたものです。車両が小さくて申し訳ありませんが5201系の吉野行き急行です。大和高田の祖父母宅へ行く時利用していました。6600系列と比べて異様といえる井手達で、窓の大きなところや屋根の白さがやけに目立っていました。運転席のひさしは無くなっていました、「大鉄」とは異なる「吉野鉄道」という重厚なイメージがある車両です。 返信 ↓
wakuhiro様 この辺りは何度か来たことがありますが、wakuhiroさんの写真は自然豊かな風景の中の5201系の急行で貴重です。あっぱれと思います。当然前後して6600系等も撮られたと思いますので発表していただければ幸いです。ところでこの系列の車両は全車名古屋線に行き、一部がそのまま残ったのでしょうか、白塚で撮ったク6502です。撮影は1968年10月1日でDRFCの熱心な方に連れられて行った時の記録です。この後、再度、改軌して養老線(現養老鉄道)に行き1977年頃までに廃車されたようです。 返信 ↓
お二人に近鉄に関しては無知な私からの質問です。 関先生の画ではわかりにくかったのですが、wakuhiroさんの写真で「1mを越える窓」がよく解りました。準特急さんの写真の車輌は窓は大きいのですがタテの窓枠が入っています。この車輌も同族ですか? 返信 ↓
準特急様の言われるように6601系も撮っていました。型式は控えていないのですが、ク6671系+モ6651系+モ6601系と思います(間違っていたらどなたか訂正願います)、3連の準急です。昨年もこの辺りに出掛けました、住宅が増えていますがまだ自然の風景は部分的に残っています、南大阪線らしい風景です。なお、5201系の動向は関先生の記事以上の知識が無く、よくわかりません、詳細ご存知の方よろしくお願いいたします。車両の窓は、私の写真では小さくてよく判りませんが細いタテの枠が入っています、6502も同族ですね。 返信 ↓
戦時中に全車が名古屋線に転属したということですが、どのようにして運ばれて行ったのでしょう。その頃は南大阪線も名古屋線も狭軌だったので、吉野口で国鉄に入り王寺へ抜けてか、道明寺線で大和川を渡り柏原でか、国鉄関西本線に引き込んでで回送したんでしょうか。というと加太の峠も通ったことになり加太会の一員としては猿のおしっこ木にかかることになります。 橿原神宮で台車を履き替え八木の短絡線を通り青山隧道を抜け中川でまた履き替えるのは、ご婦人と子供しか残ってなかった戦時中では無理のように思いますので。 返信 ↓
wakuhiro様 6600系の写真有難うございます。この電車は鈍重な感じでしたが、日本初の20m車と聞いたことがあります。南大阪線は地味なイメージですが、いい場所があったのですね。こういう写真は出版社でも例えば近鉄特集などで欲しいと思います。DRFCで貴重な写真は保存して欲しいですがそういう制度があるのかどうかわかりません。ところで以前に問題提起しましたが電車の形式は6600なのか6601なのか、型(形)なのか、系なのか会社や車両によっても異なるようですね。 返信 ↓
ご指名により古い写真をひっくり返しました。写真は1970年10月当麻寺付近の二上山をバックにしたものです。車両が小さくて申し訳ありませんが5201系の吉野行き急行です。大和高田の祖父母宅へ行く時利用していました。6600系列と比べて異様といえる井手達で、窓の大きなところや屋根の白さがやけに目立っていました。運転席のひさしは無くなっていました、「大鉄」とは異なる「吉野鉄道」という重厚なイメージがある車両です。
wakuhiro様
この辺りは何度か来たことがありますが、wakuhiroさんの写真は自然豊かな風景の中の5201系の急行で貴重です。あっぱれと思います。当然前後して6600系等も撮られたと思いますので発表していただければ幸いです。ところでこの系列の車両は全車名古屋線に行き、一部がそのまま残ったのでしょうか、白塚で撮ったク6502です。撮影は1968年10月1日でDRFCの熱心な方に連れられて行った時の記録です。この後、再度、改軌して養老線(現養老鉄道)に行き1977年頃までに廃車されたようです。
お二人に近鉄に関しては無知な私からの質問です。
関先生の画ではわかりにくかったのですが、wakuhiroさんの写真で「1mを越える窓」がよく解りました。準特急さんの写真の車輌は窓は大きいのですがタテの窓枠が入っています。この車輌も同族ですか?
準特急様の言われるように6601系も撮っていました。型式は控えていないのですが、ク6671系+モ6651系+モ6601系と思います(間違っていたらどなたか訂正願います)、3連の準急です。昨年もこの辺りに出掛けました、住宅が増えていますがまだ自然の風景は部分的に残っています、南大阪線らしい風景です。なお、5201系の動向は関先生の記事以上の知識が無く、よくわかりません、詳細ご存知の方よろしくお願いいたします。車両の窓は、私の写真では小さくてよく判りませんが細いタテの枠が入っています、6502も同族ですね。
戦時中に全車が名古屋線に転属したということですが、どのようにして運ばれて行ったのでしょう。その頃は南大阪線も名古屋線も狭軌だったので、吉野口で国鉄に入り王寺へ抜けてか、道明寺線で大和川を渡り柏原でか、国鉄関西本線に引き込んでで回送したんでしょうか。というと加太の峠も通ったことになり加太会の一員としては猿のおしっこ木にかかることになります。
橿原神宮で台車を履き替え八木の短絡線を通り青山隧道を抜け中川でまた履き替えるのは、ご婦人と子供しか残ってなかった戦時中では無理のように思いますので。
wakuhiro様
6600系の写真有難うございます。この電車は鈍重な感じでしたが、日本初の20m車と聞いたことがあります。南大阪線は地味なイメージですが、いい場所があったのですね。こういう写真は出版社でも例えば近鉄特集などで欲しいと思います。DRFCで貴重な写真は保存して欲しいですがそういう制度があるのかどうかわかりません。ところで以前に問題提起しましたが電車の形式は6600なのか6601なのか、型(形)なのか、系なのか会社や車両によっても異なるようですね。