昭和の電車 改訂版(94)ー近鉄ビスタ10100系ー 投稿日時: 2020年7月26日 投稿者: 米手作市 手持ちの写真を貼っておきます。 皆様のビスタカー写真も見せてください。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(102)ー近鉄モ5621ー 昭和の電車 改訂版(81)ー京成電鉄1500型ー 昭和の電車 改訂版(75)ー相模鉄道キハ1000系ー 昭和の電車 改訂版(58)ー南海デニ502号ー 昭和の電車 改訂版(46)ー京阪びわこ号60型ー 昭和の電車 改訂版(23)ー京福電鉄モボ101型ー 昭和の電車 改訂版(3)阪神電鉄3011型 昭和の電車 改訂版(1)大阪市電901
通勤電車の乗客数も元に戻りかけ、コロナも終息に近づいたかなと思ったのですが、そう簡単にはいかないようです。仕事もまたテレワークに戻し、大阪から70Km離れた自宅でStayHomeです。個人的には往復4時間の通勤時間が無くなるというメリットもあり、自宅でも情報交換に不自由が無いとなると、新しい仕事のスタイルになりますね。 ビスタカー10000系は憧れの的でした、実際乗る機会は無かったのですが見るだけでもワクワクしたものです。ただ、国分での事故以来片方のブルドック顔が元に戻らなかったのが残念です。 10100については、さよなら運転の3重連が残っていました、A+C+Bで通常の営業運転ではお目にかかれなかった編成です。1978年4月の八木駅出発後の後追いになります。 返信 ↓
貫通型先頭車もそろえたと関先生がお書きなので「どんなんかな?」と思ったところ、「こんなんや!」と出てきました。米手さん有り難うございます。 非貫通の前面はアメリカ的というか独特の顔でしたね。 wakuhiroさんからのさよなら運転の三重連、迫力もありこれまた貴重ですね! 返信 ↓
マルーンさま、誤解があるといけないと思い補足します。関先生がおっしゃっているのはⅡ世10100系の貫通型で下記に添付しました進行方向前3両の「C編成」のことと思います。Ⅱ世は「A編成」と「B編成」が片方流線形で関先生の絵の通り、「C編成」が両側貫通となります。米手さんの載せられた貫通型写真は10000系中間(ビスタドーム)車が先頭となった10003又は10005です、Tc車が先頭になっていた5両編成の時の写真ですね。 返信 ↓
wakuhiroさん 私は近鉄のことがよく解りません。 「国分での事故」とはなんでしょうか?10000系が起こした事故ですか?それとも10100系の事故ですか?教えてください。 ついでながら10005の右にある建設中の家は、叔父が建てている家です。もう60年も前の事ですが、なんと今でも存在していました。GoogleEarthの写真で見るとほぼ原型であります。叔父はこの後、東生駒へ家を建てて転居し、そこで亡くなりました。この場所は久宝寺口と弥刀の中間です。 返信 ↓
米手作市さま、叔父さまの家が残っているとはすごいですね、今久宝寺口は大阪中央環状線(道路)との立体交差で高架駅となっています、周りの景色はすっかり変わっていると思います。いまとなっては記憶が薄れてきていますが、「国分の事故」とは、今の「河内国分」駅に待避中の列車に特急(10000系)が正面衝突した事故です、原因はよく知りません新聞記事を垣間見た程度でした。運転手の方が亡くなったはずです、10000系も正面が大破して貫通型に変更されました。このためブルドック顔は片方のみとなってしまいました、悲惨な事故です。変更後の顔の写真はあいにく持っていません。 返信 ↓
「国分事故」とは、1966(昭和41)年11月12日に河内国分駅で、1番線で特急退避のため停車中の名張行準急(1480系3連)に、後続の特急10000系7連が追突した事故です。原因は特急運転士(死亡)の信号冒進(ポイントがまだ2番線側に開いておらず、よって場内信号は1、2番線とも赤のところ、停止せず冒進)とされています。対策として近鉄では当時検討していたATSの導入を決め、翌年から各線に設置しました。この年は本事故の数カ月前に京阪の蒲生信号所でも信号冒進による事故が起こり、各社にATSの設置を促す結果となりました。 追突で大破した10007の前頭部は、18200系のような、貫通扉の両側に特急標識と行先を分けた形に改造されましたが、その後4年ほどで10000系は廃車となってしまいました。従って私も残念ながら改造後の写真はありません。 またこの貫通扉も実際には使われなかったと思います。(当時すでに10000系は週末の阪伊特急のみの限定運用だったため。) 返信 ↓
wakuhiro様、まほろばの鉄趣味住人様 関先生の10100系が10000系に逸れてきたような感じですが、まず、国分事故の車両10007はこれじゃないですか。1968年11月8日伊勢中川駅を出発する宇治山田行き特急です。 返信 ↓
wakuhiro様 残ったブルドック顔はこの10001ですね。ブルドックより優しそうだと思います。撮影は1968年11月8日でwakuhiroさんのご実家だったと思いますが大和八木に停車中の宇治山田行き特急の後部です。 返信 ↓
準特急様、まほろばの鉄趣味住人様、貴重な情報・写真をありがとうございます。特に10007はおでこが盛り上がっているのがよく分かります。ここで訂正しておきます「正面衝突」ではなく「追突」でしたお詫びいたします。 返信 ↓
準特急様 復旧改造後の10007の貴重なショット、ありがとうございます。 国分事故から話題がビスタ1世こと10000系に逸れてしまいましたが、1編成のみで運用上も継子扱い、そして事故にまで遭遇した1世とは異なり、ビスタ2世こと10100系は、長期間に亘って近鉄特急のフラッグシップとして、18編成とも事故の影響もなく(総谷トンネル事故では上り難波・京都行に10118Fが連結されてしましたが、先頭ではなかったので無事でした。)、ずっと活躍を続けました。 当時近鉄がスポンサーだったTV番組「近鉄金曜劇場」では、番組開始と同時に「♪ キーン、キーン、近鉄ヒュ~ン、そらきた2階ので~んしゃ。」のCMソングとともに、10100系が画面上を縦横無尽に疾走していました。当初の名阪ノンストップから新幹線開業後は阪伊・名伊に、そして晩年は京都・橿原・奈良線にも入線し、ファンのみならず沿線住民そして遠来の観光客にも親しまれ、近鉄特急を世に知らしめた功績は大きいと思います。 連接車という構造上の制約?もあって、他社への転用や保存もなく消え去ったのは本当に残念ですね。 返信 ↓
まほろばの鉄趣味住人様 有難うございます。近鉄は大き過ぎてとても把握できませんが10100系上本町行き特急A編成先頭モ10102です。この赤目口は周囲に家がほとんどなく今でもこの程度の写真は撮れると思います。1968年9月19日ホームからの撮影です。 返信 ↓
まほろばの鉄趣味住人様 もう一つ1968年11月28日伊賀神戸で撮影した上本町行き特急B編成モ10107です。こちらは上本町よりが貫通タイプですが、両端が貫通タイプのC編成は多分撮ったことがありません。ところで楠トシエの京阪特急や伴久美子の南海電車の歌は実際にラジオで聞いたことがありますが、TVのキーンキーン近鉄ヒューンは知りませんでした。先日亡くなられた関根潤三のいた近鉄パールズは覚えています。 返信 ↓
準特急様 数々の写真、ありがとうございます。C編成が最も多かった(8編成、AとBは各5編成)のに撮っておられないというのは、偶然かもしれませんがちょっと不思議ですね。 また話題が逸れていきそうですが、CMの「♪ キーン、キーン、近鉄ヒュ~ン・・・」の部分は、歌詞各節の最後のリフレイン(繰り返し)のところです。他社のCMソングでは「♪ なァーん、なァーん、南海電車・・・」や「♪ 天満橋から三条へ、ジリリン、ピリピリ、ポ~ッポ・・・」(京阪)と同じですね。「金曜劇場」のオープニングでは、イントロ数小節のあといきなりこの部分が出る形に編集されていたようです。また阿部野橋駅に設置された最初の特急券自販機(感熱紙?で正方形に近い形の券)でも、発券中にこの部分が電子音で流れていました。 これら3社のCMソングは、いずれも三木鶏郎氏の作詞・作曲で、作られた時期も近く、(京阪、南海、近鉄の順)それだけに似ているところもあります。 (七五調 -ただし南海は一部七七調ありですがー 四句のあと、リフレインで印象づける点など 。) ところで、近鉄バファローズの応援歌(♪ 飛ぶ雲、飛ぶ声、飛ぶボール・・・)は私も覚えておりますが、それこそ「パ・リーグのお荷物」と言われていた、パールズ時代の歌をご存じなのでしょうか!? 返信 ↓
通勤電車の乗客数も元に戻りかけ、コロナも終息に近づいたかなと思ったのですが、そう簡単にはいかないようです。仕事もまたテレワークに戻し、大阪から70Km離れた自宅でStayHomeです。個人的には往復4時間の通勤時間が無くなるというメリットもあり、自宅でも情報交換に不自由が無いとなると、新しい仕事のスタイルになりますね。
ビスタカー10000系は憧れの的でした、実際乗る機会は無かったのですが見るだけでもワクワクしたものです。ただ、国分での事故以来片方のブルドック顔が元に戻らなかったのが残念です。
10100については、さよなら運転の3重連が残っていました、A+C+Bで通常の営業運転ではお目にかかれなかった編成です。1978年4月の八木駅出発後の後追いになります。
貫通型先頭車もそろえたと関先生がお書きなので「どんなんかな?」と思ったところ、「こんなんや!」と出てきました。米手さん有り難うございます。
非貫通の前面はアメリカ的というか独特の顔でしたね。
wakuhiroさんからのさよなら運転の三重連、迫力もありこれまた貴重ですね!
マルーンさま、誤解があるといけないと思い補足します。関先生がおっしゃっているのはⅡ世10100系の貫通型で下記に添付しました進行方向前3両の「C編成」のことと思います。Ⅱ世は「A編成」と「B編成」が片方流線形で関先生の絵の通り、「C編成」が両側貫通となります。米手さんの載せられた貫通型写真は10000系中間(ビスタドーム)車が先頭となった10003又は10005です、Tc車が先頭になっていた5両編成の時の写真ですね。
wakuhiro様
ご教示有り難うございます。
さすがに近鉄は車種も多く、頭の整理が大変になりますね。
近鉄特急は今でも古い車両から、「ひのとり」までバラエティーに富んで、楽しいですね。
wakuhiroさん
私は近鉄のことがよく解りません。
「国分での事故」とはなんでしょうか?10000系が起こした事故ですか?それとも10100系の事故ですか?教えてください。
ついでながら10005の右にある建設中の家は、叔父が建てている家です。もう60年も前の事ですが、なんと今でも存在していました。GoogleEarthの写真で見るとほぼ原型であります。叔父はこの後、東生駒へ家を建てて転居し、そこで亡くなりました。この場所は久宝寺口と弥刀の中間です。
米手作市さま、叔父さまの家が残っているとはすごいですね、今久宝寺口は大阪中央環状線(道路)との立体交差で高架駅となっています、周りの景色はすっかり変わっていると思います。いまとなっては記憶が薄れてきていますが、「国分の事故」とは、今の「河内国分」駅に待避中の列車に特急(10000系)が正面衝突した事故です、原因はよく知りません新聞記事を垣間見た程度でした。運転手の方が亡くなったはずです、10000系も正面が大破して貫通型に変更されました。このためブルドック顔は片方のみとなってしまいました、悲惨な事故です。変更後の顔の写真はあいにく持っていません。
「国分事故」とは、1966(昭和41)年11月12日に河内国分駅で、1番線で特急退避のため停車中の名張行準急(1480系3連)に、後続の特急10000系7連が追突した事故です。原因は特急運転士(死亡)の信号冒進(ポイントがまだ2番線側に開いておらず、よって場内信号は1、2番線とも赤のところ、停止せず冒進)とされています。対策として近鉄では当時検討していたATSの導入を決め、翌年から各線に設置しました。この年は本事故の数カ月前に京阪の蒲生信号所でも信号冒進による事故が起こり、各社にATSの設置を促す結果となりました。
追突で大破した10007の前頭部は、18200系のような、貫通扉の両側に特急標識と行先を分けた形に改造されましたが、その後4年ほどで10000系は廃車となってしまいました。従って私も残念ながら改造後の写真はありません。
またこの貫通扉も実際には使われなかったと思います。(当時すでに10000系は週末の阪伊特急のみの限定運用だったため。)
追伸:当時の報道です。
https://mainichi.jp/articles/20161108/oog/00m/040/077000c
wakuhiro様、まほろばの鉄趣味住人様
関先生の10100系が10000系に逸れてきたような感じですが、まず、国分事故の車両10007はこれじゃないですか。1968年11月8日伊勢中川駅を出発する宇治山田行き特急です。
wakuhiro様
残ったブルドック顔はこの10001ですね。ブルドックより優しそうだと思います。撮影は1968年11月8日でwakuhiroさんのご実家だったと思いますが大和八木に停車中の宇治山田行き特急の後部です。
準特急様、まほろばの鉄趣味住人様、貴重な情報・写真をありがとうございます。特に10007はおでこが盛り上がっているのがよく分かります。ここで訂正しておきます「正面衝突」ではなく「追突」でしたお詫びいたします。
京阪の蒲生事故は良く覚えていますが、同じ頃にこんな大事故があったとは知りませんでした。wakuhiroさん、準特急さん、まほろばの鉄趣味住人様、ありがとうございました。
準特急様
復旧改造後の10007の貴重なショット、ありがとうございます。
国分事故から話題がビスタ1世こと10000系に逸れてしまいましたが、1編成のみで運用上も継子扱い、そして事故にまで遭遇した1世とは異なり、ビスタ2世こと10100系は、長期間に亘って近鉄特急のフラッグシップとして、18編成とも事故の影響もなく(総谷トンネル事故では上り難波・京都行に10118Fが連結されてしましたが、先頭ではなかったので無事でした。)、ずっと活躍を続けました。
当時近鉄がスポンサーだったTV番組「近鉄金曜劇場」では、番組開始と同時に「♪ キーン、キーン、近鉄ヒュ~ン、そらきた2階ので~んしゃ。」のCMソングとともに、10100系が画面上を縦横無尽に疾走していました。当初の名阪ノンストップから新幹線開業後は阪伊・名伊に、そして晩年は京都・橿原・奈良線にも入線し、ファンのみならず沿線住民そして遠来の観光客にも親しまれ、近鉄特急を世に知らしめた功績は大きいと思います。
連接車という構造上の制約?もあって、他社への転用や保存もなく消え去ったのは本当に残念ですね。
まほろばの鉄趣味住人様
有難うございます。近鉄は大き過ぎてとても把握できませんが10100系上本町行き特急A編成先頭モ10102です。この赤目口は周囲に家がほとんどなく今でもこの程度の写真は撮れると思います。1968年9月19日ホームからの撮影です。
写真添付忘れて大変失礼しました。
まほろばの鉄趣味住人様
もう一つ1968年11月28日伊賀神戸で撮影した上本町行き特急B編成モ10107です。こちらは上本町よりが貫通タイプですが、両端が貫通タイプのC編成は多分撮ったことがありません。ところで楠トシエの京阪特急や伴久美子の南海電車の歌は実際にラジオで聞いたことがありますが、TVのキーンキーン近鉄ヒューンは知りませんでした。先日亡くなられた関根潤三のいた近鉄パールズは覚えています。
準特急様
数々の写真、ありがとうございます。C編成が最も多かった(8編成、AとBは各5編成)のに撮っておられないというのは、偶然かもしれませんがちょっと不思議ですね。
また話題が逸れていきそうですが、CMの「♪ キーン、キーン、近鉄ヒュ~ン・・・」の部分は、歌詞各節の最後のリフレイン(繰り返し)のところです。他社のCMソングでは「♪ なァーん、なァーん、南海電車・・・」や「♪ 天満橋から三条へ、ジリリン、ピリピリ、ポ~ッポ・・・」(京阪)と同じですね。「金曜劇場」のオープニングでは、イントロ数小節のあといきなりこの部分が出る形に編集されていたようです。また阿部野橋駅に設置された最初の特急券自販機(感熱紙?で正方形に近い形の券)でも、発券中にこの部分が電子音で流れていました。
これら3社のCMソングは、いずれも三木鶏郎氏の作詞・作曲で、作られた時期も近く、(京阪、南海、近鉄の順)それだけに似ているところもあります。
(七五調 -ただし南海は一部七七調ありですがー 四句のあと、リフレインで印象づける点など 。)
ところで、近鉄バファローズの応援歌(♪ 飛ぶ雲、飛ぶ声、飛ぶボール・・・)は私も覚えておりますが、それこそ「パ・リーグのお荷物」と言われていた、パールズ時代の歌をご存じなのでしょうか!?
遅ればせながら、こんな写真がありました。いつ、どこで撮ったのか解りません。