懐かしの電蒸運転
この言葉もすっかり“死語”になった感があります。非電化区間の電化工事が進み、まもなく営業開始という頃、電機の試運転と乗務員訓練を兼ねて、電機+蒸機が牽引する列車がありました。電化に当たっては、“オイラン車”という建築限界・車両限界を測定する特別な列車もありましたが、電蒸運転は定期列車で行われていたことが特徴で、また蒸機は非常時の牽引用で、通常はブラ下がっていただけで、協調運転ではありませんでした。当時は、特別な関心もなく、来たら撮っていただけでしたが、いまとなっては、昭和の時代に限られた線区、限られた時期だけに見られた貴重な記録だと思っています。▲呉線小屋浦を行く電蒸運転、呉線は昭和45年10月に電化が完成、9月に最後のC59・C62の撮影に行くと、盛んに電蒸運転が行われていた。624レを牽くEF58 44+C62 17(昭和45年9月)
▲こちらは東北本線、盛岡以北の電化工事が終わり、東北本線全線電化の前に、貨物列車で電蒸運転が行なわれていた。360レを牽くED75 128+C60 17 小繋~小鳥谷 (昭和43年8月)
▲呉線626レを牽くEF58 18+C59 164 安芸幸崎~忠海 ▲▲後追いで見る。当時はいつでも見られるEF58よりもC59のほうがずっと貴重で、もう少し早く来ればと悔やんだものだった。
▲呉線の朝ラッシュ時の列車は、多くが電蒸運転だった。621レを牽くEF58 18+C62 37(昭和45年9月)
▲荷1043レは、D51 787の前にEF58 85が付いていた。D51なら、電機が付いたほうが良い記録になると、変なところで納得した。安芸幸崎~忠海(昭和45年9月)▲呉線の電化と同時期に、鹿児島本線も完全電化が成っている。貨物列車6393レを牽く、ED76 1010+D51 536 隈之城~木場茶屋 (昭和45年8月)
▲西鹿児島近くのシラス台地を行く、ED76+C60 17の牽く144レ 鹿児島本線には、DD51も運転されていたが、EL+DLの“電燃”運転はなかった。上伊集院~薩摩松元(昭和45年9月)
総本家青信号特派員様
横川を通過する下り「はやぶさ」のEF60509+C62(多分40であるが、メモ紛失)電蒸運転です。架線の下とはいえ単独蒸機でなく前に電機がつくとがっかりしたことを覚えています。この日「みずほ」も電蒸運転でした。「玄海」のC60の前にDD51がついたのも撮ったことがありますが、これも愕然(ちょっと大袈裟かな)としました。
準特急さま
またまた貴重な写真、ありがとうございます。電機はブルトレ塗装ですが、EF60であることが、準特急さんらしいところですね。電化前、わざわざ蒸機の最後の姿を撮りに行ったのに、電機はホントに邪魔でした。私も準特急さんと同時期だと思いますが、広島~小郡の電化直前に、小郡で乗車列車を撮ると、もうEF60が単機で牽いていました。初めて見たブルトレ塗装で、これはこれで感激しました。
それではこれをナンというの?
またまた貴重な写真、ありがとうございます。これは、まだ架線が張られる前ですね。なら、本務のDD51に、前補機のD51が連結された列車となると思います。