ある駅から探索を開始
先般のクローバー会の豊橋ツアー、参加の皆さんとともに楽しんできました。晩は豊橋駅の居酒屋で、名物の味噌煮込みおでんで気勢を上げたあと解散となりましたが、その日、私はは豊橋に泊まって、翌日は一人で飯田線へ行きました。飯田線は、旧型電機・電車が走っていた頃には、よく訪れたましたが、それらが消えてからは全く足を踏み入れたことがなく、今回、約50年ぶりの飯田線入りとなりました。2扉、転換クロスの213系5000代車は、超ガラガラで、窓から見える渓谷美とともに、実に快適な乗り鉄一人旅となりました。思い出に残る駅や、以前から憧れていた駅に下車して、周辺を自分勝手に思いのままの街歩きを楽しみました。▲雨に洗われて新緑の鮮やかさを増す飯田線、乗車して一時間あまり、ある駅に到着し下車した。島式ホームには、乗車の313系、交換の213系と、飯田線の現有形式が顔を揃えた。
▲豊橋7:32発の507Mに乗車、車内は高校生で超満員。▲▲乗車30分余り、ある駅に着くと高校生全員が下車してしまい車内は乗客ゼロ状態。▲▲▲途中から雨が本降りに。濡れた窓に「ながしのじょう」の駅名が。奈良の駅研さん投稿の“城”の付く駅名でも分かるように、飯田線には、あと野田城もあって戦国時代の歴史を感じさせる。▲豊橋から乗車すること、一時間余り、着いたある駅は「本長篠」だった。終着でもあり、イヤでも降りざるを得ないが、もうひとつ、駅の周囲で見たいものがあった。
▲本長篠駅舎、一日乗車人数は約250人、駅は委託駅員が詰めていた。▲▲駅前を並行する旧道を歩いてみる。とくに古い町並みはなく散髪屋と医院だけが目立っていた。
▲ 「本長篠」定点対比 下車の目的は廃線跡だった。昭和43年まで豊橋鉄道田口線が、ここ本長篠から分岐していた。山深い飯田線から、さらに奥地へ入って行く私鉄に興味が湧いた。事実、素掘りのトンネルや高い煉瓦橋脚の鉄橋など、野趣豊かな路線だったが、訪問は叶わなかった。せめて本長篠での定点対比だけ試みたかった。左は、「鉄道ファン」から転載の豊橋鉄道の本長篠駅、右はその現況で、本長篠駅の本屋側に当たる。背後の屋根の形状で同一地点と分かる。
▲近くの長篠郵便局に立ち寄り、記念の押印。この先、廃線跡は雰囲気の良い道路となり、1キロぐらい先には橋脚跡も残っているらしいが、この雨では、たちまち戦意喪失、駅へ戻って、おとなしく次の列車を待った。
豊橋鉄道田口線は、DRFC入学直前、1966年3月12日、茨城交通、日立電鉄の帰りに訪れました。
東京23時34分発、大阪行、145レに乗り、豊橋で下車(4時56分着)、5時55分発の辰野行で本長篠(6時50分着)で降りて、6時54分発、田口線の清崎行に乗り換えました。
途中、三河海老で交換した本長篠行、モハ36です。
45分で清崎に就きました。本来の終点は、1つ先の三河田口ですが、水害で不通になり、バス代行になっていました。
帰りは、鳳来寺で途中下車して、モハ15+モハ14を撮影しました。
本長篠に戻り、9時11分発平岡行で中部天竜に向かいました。
本長篠駅の豊橋行です。左に先程乗ってきた、田口線の電車が見えます。
この電車は、前日の14時9分発に豊橋を発車して、辰野に21時2分に到着後、21時23分発飯田行となり、飯田に23時48分に到着します。翌日、5時36分発の初発の豊橋行になり、豊橋に10時16分に到着します。(本長篠は、9時15分発)
藤本様
さすがに藤本さんは大学入学前に、もう田口線に行っておられたのですか。しかも終点まで乗られているとは‥‥。この写真では、クモハ43の隣にチラリと田口線が見えています。やはり本屋の屋根の形状は同じでした。
中部天竜で、ED17、ED18を撮影後、豊橋に戻り、14時1分発の「いこま」に乗りました。満員でしたが、蒲郡で座れました。
最初の写真が漏れていました。
本長篠、6時54分発、清崎行、モハ37です。
総本家青信号特派員様
イベント後に飯田線に乗車されたのですね。行動力に感服です。
こういった「ぶらり旅」シリーズも読んでいて面白いです。
「城・・・」をご紹介いただけましたので、リンクを貼らせていただきます。https://drfc-ob.com/wp/archives/143826
駅名喫茶店、いろいろなメニューを用意しています。準備が整い次第、提供していこうと思います。引き続き、よろしくお願いいたします。
奈良の駅研さま
はい、“行動する年寄り”を目指しています。「城」のつく駅名も事前に参考にさせてもらいました。野田城、長篠城と、二つ駅名が続くのも、飯田線沿線の歴史を偲ばせますね。
総本家青信号特派員様
遅くなりましたが投稿いたします。豊橋鉄道田口線では貴重な体験をしました。東北旅行の途上1968年8月28日に本長篠-清崎間を往復しましたが、この日は日本列島を縦断した台風20号の降雨帯が東海地方に形成され、滝のような集中豪雨の中を走行し、いつ運休になってもおかしくない状況でした。案の定、翌日8月29日に水害による土砂崩れで三河海老-清崎間が運転休止となり、9月1日には本長篠-三河田口間の全区間が廃線となりました。結果として運転最終日に乗車したことになりました。
その後の行程は台風20号と並走する形で豊橋から東京まで「第2なにわ」に乗車し、上野で「第4十和田」に乗り換え、先頭の11号車の自由席に乗車しましたが、車掌も回ってこなく乗客は下車した盛岡まで1車両に私1人だけの貸切でした。現在なら当然の如く計画運休となると思いますが、日本の生活を担っていた、この頃の鉄道は本当に強かったと思います。