フロ54 その後

29 40-10-21[ 
鼓滝駅を発車した妙見口行 28+29 / (40-10-21)

「昭和の電車」シリーズは「フロ54」で今年の締めくくりとなったが、同車のその後の経過等について述べてみたい。
昭和32年12月能勢電に譲渡され29となり、同時に譲渡された電動車28(元デロ28)とコンビを組んだ。
廃車直前に阪急からの借入車24+25と車号を振替え、41年9月30日付けで廃車になった。

多田駅で下り列車と交換する29+28 川西能勢口行 / (40-11-15) 29 40-11-15

29の相棒28 / (40-12-22) 川西能勢口
28は阪急時代も同一車号である。 28 40-12-22

阪急からの借入車25と車号を振替えた29 / (40-10-21) 25-2 41-10-21

〔「デロ」「フロ」の称号についての補足〕
称号については長老の解説通りであるが、車両を振り返りながら補足する。
大正10年4月1日、北大阪電鉄が十三~豊津間開業時に、1~8の8両を新製した。
2年後の大正12年4月1日、北大阪電鉄は新京阪電鉄に譲渡され、P-1(PはPassenger Carの略)と呼ばれた。

大正14年2月梅鉢鐵工所で8~13の6両が新製され、P-4と呼ばれた。
ちなみにP-2、P-3は何故か存在しない。

大正15年3月汽車会社で14~18の5両が新製され、P-5Aと呼ばれた。
スタイルが少し変化して正面3枚窓の中央が高くなった。

引続き昭和2年3月、19~21が田中車輌、22~24が梅鉢鐵工所で、25~28が汽車会社で新製されP-5Bと呼ばれた。

昭和4年3月、最終増備車としてモーターなしの制御車として51~56の6両が汽車会社で新製され、P-5Tと呼ばれた。

昭和3年1月16日淡路~高槻町間開業時に全線1500Ⅴにされ、P-4、P-5は昇圧改造をされたが、1~8のP-1は改造されず、1、2、4の3両は信貴生駒電鉄に譲渡、3、5~8は愛宕山鉄道に貸与され、後に譲渡された。

当時、監督官庁であった鉄道省より会社に対し、形式称号を明らかにするよう指示があり、昭和4年6月下記のように制定された。
小形電動客車(P-1)デハ
小形電動客車(P-4、P-5)デロ、小形付随客車(含制御車)フロ
大形電動客車 デイ、大形付随車(含制御車)フイ、貴賓用付随客車 フキ
無蓋付随貨車 ト、電気機関車 デキ、有蓋電動貨車 デワ、無蓋電動貨車デト
電動魚菜車 デハ二

愛宕山鉄道貸与中のP-1の5両は3→1、5~8→2~5に改番されてデハ1~5となった。
P-4は9→29、10→30に改番され、デロ11~30、フロ51~55となった。

昭和7年3月頃から連結運転の常態化により貫通幌の取付、片運化、54以外のフロの運転台撤去が行われ、種々の形態ができ、スタイルを見ただけで車号が判る状態となったが詳細は省略する。

デロ25とフロ55は昭和11年4月千里山で焼失し、足回りを流用して翌12年流線形車体の201+601(後の251)が製作された。

戦後の動きは、32年10月から12月にかけて下記の8両が能勢電に譲渡された。( )は能勢電の車号。
11(10)、14(14)、21(11)、22(13)、23(15)、27(12)、28(28)、54(29)

36年5月から8月にかけて下記の6両が能勢電に貸与された。( )は能勢電の車号。
18(22)、19(24)、24(20)、51(21)、52(23)、53(25)
51~53は運転台が撤去されていたが、貸与時に21と25は妙見口寄りに、23は能勢口寄りに復活した。

阪急に残った車両は順次廃車され、嵐山線用として最後まで残っていた15、16、26、56の4両が38年3月に廃車された。

30は新製時の姿に復元すると共に車号を元の10に戻して「宝塚ファミリーランド」で保存されていたが、閉鎖後正雀工場に移されている。

私自身、嵐山線で走っているのを見ているが、中学生の頃でもあり撮影にまでは至っていない。

宝塚ファミリーランドで展示保存中の10 / (38-9-23) 38-9-23 10-1 10 

〔能勢電時代〕
能勢電時代については、22年11月21日【10416】「ホール時代最末期の能勢電」で紹介済で、重複する部分があるが解説する。

*32年譲受け車
←能勢口 11+10、13+12、15+14、29+28の2連を組み、10~15は2個モーター、28は4個モーター、29はモーターなしの制御車である。
偶数車は、能勢口寄り非貫通、妙見口寄り貫通の両運で入線当初は単行で使用されたこともある。奇数車は逆で、運転台は妙見口寄りの片運である。
41年1月25日にパンタ化され、偶数車の連結面と13の運転台寄りに設置された。
15+14は41年12月1日付けで、その他の車両は42年10月31日付で廃車になった。

ポール時代の11+10/(40-11-15) 絹延橋
元21(昭和2年田中車輌)+11(大正14年梅鉢鐵工所) 11-2 40-11-15

パンタ化後/ (41-10-21) 平野 Negative0000

13+12/ (40-11-15) 鼓滝
元22(昭和2年梅鉢鐵工所)+27(昭和2年汽車会社) 13-2 40-11-15

パンタ化後 Negative0001 (3)

15+14/ (40-12-22) 鼓滝
元23(昭和2年梅鉢鐵工所)+14(大正15年汽車会社)
15 40-12-22

パンタ化後休車中の14の連結面/ (41-10-21) 平野
ヘッドライトは撤去されているが、連結面にも運転台があったことが判る。
Negative0000 (2)

休車中の15/ (41-10-21) 平野
15 41-11-25

*36年借入車
←能勢口 20+21、23+22、24+25の2連を組み、偶数車は4個モーター、奇数車はモーターなしの制御車である。
全車片運で電動車は運転台側非貫通であるが、制御車は運転台側にも貫通扉がある。
パンタ化の際は、20と24は運転台側(能勢口寄り)に、22は連結面に設置された。

41年9月30日付で阪急に返還と同時に廃車になったが、現車は阪急に戻ることなく平野車庫で解体された。

20+21/上(40-12-22)絹延橋 下(40-11-15)絹延橋~川西能勢口
元24(昭和2年梅鉢鐵工所)+51(昭和4年汽車会社)
20-2 40-12-22
20 41-11-15

昭和41年9月30日付で阪急に返還後、平野車庫で解体待ち/ (41-10-21)
Negative0001 (2)

23+22/ (40-12-22) 鼓滝
元52(昭和4年汽車会社)+18(大正15年汽車会社)
23 40-12-22

24+25→車号振替28+29/ (41-10-21)
元18(大正15年汽車会社)+52(昭和4年汽車会社)
28 41-10-21
Negative0001

〔その他〕
戦時中の昭和18年川崎車輌で千里線の輸送力増強用として16m級の300形(301~305)が新製された。当初は電動車で計画されていたが、電装品が入手できないためP-6のTcとして使用され、「デイ」「デロ」のような称号、「P-」で始まる略称は付けられなかった。
もし付けられていれば、中形を表す新称号として「フニ」となっていたのではなかろうか。
300形は昭和25年の改番で1300形となり、31年に700形の中間車に改造され、750形に改番された。

戦後も「P-」の略称が継続されていれば、700系は「P-7」、710系は「P-8」、1300系は「P-9」、1600系は「P6-N」、2300系は「P-10A」、2800系は「P-10B」、3300系は「P-11」と続いていたと思われる。

フロ54 その後」への1件のフィードバック

  1. 藤本様、
    ご教授、ありがとうございました。
    今さら聞けない鉄道知識として、P-1シリーズがありました。これで分かりました。

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