阪急1300型 投稿日時: 2015年4月29日 投稿者: 米手作市 記憶が正しければ、昭和30年代の京都線で走っていたカッコイイ電車です。 屋根の張り上げ部に外気取り入れ用のルーバーが並び、無骨なデイ100とは違って大阪へ誘ってくれているような素敵な電車でした。 でも、あの電車が17m足らずのこの車両とは思えないので違ったのでしょうか? 710もロングシート化してありましたが座席は奥行きが広く、ソファーに掛けているようで大好きな阪急電車でした。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 関連記事がありません。
小学校2年の時から時々新京阪東向日町まで乗る機会があった。3年からは一人でお使いに行くようになった。その時に時々京阪電車の急行で500型に挟まれている電車によく似た電車に出会うことがあった。それは京阪では1200型、新京阪では300型で、新京阪は京阪の新線だと思っており、つまり京阪神急行電鉄なるものがあるなんて知らなかった。まして新京阪300型が千里山線用に新造されたことも知らなかった。中学高学年になった頃、大阪へ電車見物に行くようになったが、新京阪300型に出会うことがなくなった。高校進学と共に奥野利夫さん宅にお邪魔するようになり、「新京阪300型を見なくなったが・・・・・」、と質問したとき、「今その1300型を700形の中間車に改造しているよ」、と教えて貰った。同志社入学報告に伺ったとき、700形3連車が出たことを教わり、初めて千里山線探訪が出来た。この時に隣の小父さんから大正期に京阪が千里山で土地分譲をしたことを聞いていたので、噴水を見に行った事を今も忘れられない。 千里山線については山岳電車だとの感想を得た。昨年春秋2回、千里山線に久しぶりに訪れてみたが、新幹線高架下区間は狭い線路敷き利用の淡路駅交差部改良工事施工に大童であった。えらい遺産を新京阪鉄道は残したものだと思っている。将に京阪カーブ鉄道である。 返信 ↓
こんな電車があったのですね。1300型と云えば米手先輩仰るとおりとばかり思っていました。 京阪神急行電鉄五十年史を見てみますと、101頁京都線車両の変遷の項の末尾に「その後、長期間、車両の新造は無く昭和十八年六月、半鋼製制御客車三〇〇型五両が竣功した。この車両は戦時中の資材統制の影響を受け、P・6型よりやや小型で車体の長さ一六米の中型車である」と書かれていますが、このことでしょうか? 返信 ↓
マルーンさん、そうなのです、京阪神急行になり戦後、宝塚線に300型が居たものですから、京阪が分離した後で1300型に改番しました。この時に制御車フイ500型も1500型に改番、その他貴賓車500号の1500号化、デイの連れ合いとなった550型の1550型化など、鴨祈高校鉄道研究部部長であった兄に教えてもらいました。兄は純粋の戦中派で、飛行機マニアでしたが、戦後の一時、旧制中学物象班員として鉄道マニアであった班長の下で鉄道模型に手を染めていました。学区制改革で最終年は新制高校鉄道研究部に所属、自動車に熱を上げていましたが、部員の鉄ちゃんから情報収集するや9歳下の弟に流してくれていたのです。 ついでに千里山線ですが、新京阪鉄道は北大阪鉄道として創立、それを新京阪鉄道として淀川右岸に新線建設の為に京阪は買収したのであるが、北大阪電鉄設立目的の中に霊園開設の一項があったものの、大阪市が阿倍野地区で斎場設置と共に周辺の墓地分譲計画と重複したので住宅地分譲に変更したことを、隣のおじさんから教わり、母の死により田舎の墓地に納骨したこともあり、千里山で墓地計画のあったところとはどんな地か見に行ったのであった。老人は幼いときから好奇心に駆られあちこちをうろついているが、ポン友に加えてくれた吉川さんにこの話をしたところ、京王電鉄にもあった、その地は多摩地区で数箇所あり、千里山のように特定されていないようだ。名古屋ではよく知られている話があるが、現在の名古屋地下鉄車庫の近所、とだけ言っておこう。4月30日に満77歳になったが、年とると脱線話が多く申し訳ない。 返信 ↓
乙訓の大老様、有り難うございます。よく分かりました。 千里山も大変良い住宅地ですが、そういう歴史があったのですね。住宅公団の団地に星形住宅なるものがあったことを思い出しました。(現在は取り壊されたと思いますが・・・) 現千里線は、新千里山延伸(現南千里)、北千里延伸、日本万国博覧会の際は万国博西口駅仮設、その後山田駅設置、モノレール開業、等々色々ありましたですね。一度、p6で下りをノッチを入れずに走れるか試したことがあります。ブレーキを緩めると下り坂で動くには動きますが、ゆっくり過ぎなので、結果ノッチを入れました。(大昔の話です) 北千里から箕面延伸なんて話は、見事無くなりました。千里ニュータウンは、人口減少が進み、千里中央中心の街になっていますね。 今後ともご教示をよろしくお願いいたします。 返信 ↓
小学校2年の時から時々新京阪東向日町まで乗る機会があった。3年からは一人でお使いに行くようになった。その時に時々京阪電車の急行で500型に挟まれている電車によく似た電車に出会うことがあった。それは京阪では1200型、新京阪では300型で、新京阪は京阪の新線だと思っており、つまり京阪神急行電鉄なるものがあるなんて知らなかった。まして新京阪300型が千里山線用に新造されたことも知らなかった。中学高学年になった頃、大阪へ電車見物に行くようになったが、新京阪300型に出会うことがなくなった。高校進学と共に奥野利夫さん宅にお邪魔するようになり、「新京阪300型を見なくなったが・・・・・」、と質問したとき、「今その1300型を700形の中間車に改造しているよ」、と教えて貰った。同志社入学報告に伺ったとき、700形3連車が出たことを教わり、初めて千里山線探訪が出来た。この時に隣の小父さんから大正期に京阪が千里山で土地分譲をしたことを聞いていたので、噴水を見に行った事を今も忘れられない。
千里山線については山岳電車だとの感想を得た。昨年春秋2回、千里山線に久しぶりに訪れてみたが、新幹線高架下区間は狭い線路敷き利用の淡路駅交差部改良工事施工に大童であった。えらい遺産を新京阪鉄道は残したものだと思っている。将に京阪カーブ鉄道である。
こんな電車があったのですね。1300型と云えば米手先輩仰るとおりとばかり思っていました。
京阪神急行電鉄五十年史を見てみますと、101頁京都線車両の変遷の項の末尾に「その後、長期間、車両の新造は無く昭和十八年六月、半鋼製制御客車三〇〇型五両が竣功した。この車両は戦時中の資材統制の影響を受け、P・6型よりやや小型で車体の長さ一六米の中型車である」と書かれていますが、このことでしょうか?
マルーンさん、そうなのです、京阪神急行になり戦後、宝塚線に300型が居たものですから、京阪が分離した後で1300型に改番しました。この時に制御車フイ500型も1500型に改番、その他貴賓車500号の1500号化、デイの連れ合いとなった550型の1550型化など、鴨祈高校鉄道研究部部長であった兄に教えてもらいました。兄は純粋の戦中派で、飛行機マニアでしたが、戦後の一時、旧制中学物象班員として鉄道マニアであった班長の下で鉄道模型に手を染めていました。学区制改革で最終年は新制高校鉄道研究部に所属、自動車に熱を上げていましたが、部員の鉄ちゃんから情報収集するや9歳下の弟に流してくれていたのです。
ついでに千里山線ですが、新京阪鉄道は北大阪鉄道として創立、それを新京阪鉄道として淀川右岸に新線建設の為に京阪は買収したのであるが、北大阪電鉄設立目的の中に霊園開設の一項があったものの、大阪市が阿倍野地区で斎場設置と共に周辺の墓地分譲計画と重複したので住宅地分譲に変更したことを、隣のおじさんから教わり、母の死により田舎の墓地に納骨したこともあり、千里山で墓地計画のあったところとはどんな地か見に行ったのであった。老人は幼いときから好奇心に駆られあちこちをうろついているが、ポン友に加えてくれた吉川さんにこの話をしたところ、京王電鉄にもあった、その地は多摩地区で数箇所あり、千里山のように特定されていないようだ。名古屋ではよく知られている話があるが、現在の名古屋地下鉄車庫の近所、とだけ言っておこう。4月30日に満77歳になったが、年とると脱線話が多く申し訳ない。
乙訓の大老様、有り難うございます。よく分かりました。
千里山も大変良い住宅地ですが、そういう歴史があったのですね。住宅公団の団地に星形住宅なるものがあったことを思い出しました。(現在は取り壊されたと思いますが・・・)
現千里線は、新千里山延伸(現南千里)、北千里延伸、日本万国博覧会の際は万国博西口駅仮設、その後山田駅設置、モノレール開業、等々色々ありましたですね。一度、p6で下りをノッチを入れずに走れるか試したことがあります。ブレーキを緩めると下り坂で動くには動きますが、ゆっくり過ぎなので、結果ノッチを入れました。(大昔の話です)
北千里から箕面延伸なんて話は、見事無くなりました。千里ニュータウンは、人口減少が進み、千里中央中心の街になっていますね。
今後ともご教示をよろしくお願いいたします。