福岡・北九州 路面電車 いま・むかし 〔5〕

 小倉・魚町

砂津で撮ったあと、小倉駅前へ戻ってきた。ふつう、大都市の駅前には路面電車の姿が欠かせないが、小倉駅前にはなく、300メートルほど離れた勝山通(国道199号)を通り過ぎるだけで、駅前に立ち寄ることはなかった。その後にできたモノレールも、今でこそ駅の内部まで乗り入れているが、開業当時は、この勝山通止まりで、徒歩連絡を強いられた。北九州線が駅前へ寄らなかった理由は、もともと合併する前の北九州5市の都市間の連絡が目的だったことと、以前の小倉駅は、現在とは違うところにあり、現在の小倉駅ができた当時、駅前はまだ未発達で、小倉の繁華街は、勝山通沿いにあったことに拠るのだろう。
60210 031sy北九州一の繁華街、銀天街と交差する「魚町」から西を見ている。バックの大きな建物は、井筒屋百貨店、ちょうど電光掲示は「さよなら電車展」の催事を案内している。北九州線の電車の塗装はよく変わったが、廃止前は、エンジに、前面に警戒色の黄の矢形と、暑苦しい色だった。


60212 448sy現在の「魚町」付近、井筒屋はそのままの外観で、軌道こそなくなったものの、さすがに平成時代の廃止だけに、周囲には、それほどの変化は見られない。
60210 030sy60212 445syo(上)「魚町」から東を見る。この区間、ご覧のように、自動車は東行きの一方通行になっている。当時、路面電車が走る併用道路での自動車一方通行は、この大門~米町だけと言われた。電車と自動車が正対して走ることになり、事故時のリスクが大きかった。この現象は、京都市電伏見線の一部でも見られたが、こちらは軌道が道路の片側に寄っていたからである。(下)現在の同方向を見る。旧写真に写っている背後の歩道橋は、前述のように、当時、モノレールは現在の平和通(当時・小倉)までの開業で、小倉駅とは、この歩道橋を通って行くようになっていた。現在では、モノレールも駅の内部まで達したため、歩道橋はごくシンプルなもの架け替えられている。
60210 008sy60212 454sy(上)魚町からは狭軌の北方線が出ていた。日豊線の城野駅前を経て北方までの4.7キロの支線で、前身は小倉電気軌道という別会社での開業だった。北九州線とは、魚町でT字に接しているが、軌間が違うから、つながってはいない。こんな孤島の支線にも連接車がちゃんと走っているのが、いかにも西鉄らしいが、北九州線の全廃よりひと足早く、昭和55年に廃止になっている。その後、ほぼ同一経路上にモノレールが敷設される。(下)井筒屋百貨店の東側が、北方線の乗り場だった。両側に歩道ができて、車道部分は狭くなったが、こんな狭いところで、電車が発着していたとは驚くばかりだった。

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