マルーンさんも認める阪急今津線沿線の有名校の同窓会は高齢の先生の出席し易い武庫之荘で行われた。桜の名所は4月8日では少し遅かったことは前回(2016.6.7デジ青72252「今春の撮影」)報告の通りであるが、もう一つ武庫之荘駅で今昔定点対比を考えていた。昔の撮影をした頃のプロ野球阪急ブレーブスのことと併せて報告したい。
武庫之荘駅での昔の記録は1968年10月17日で高速神戸発大阪梅田行き特急である。この日も西宮球場で行われた阪急-巨人の日本シリーズのPR、案内のため特急列車にヘッドマークが取りつけられていた。よく見ると駅のホーム柵には枕木が利用されており待合室もホームの中ほどにあるだけである。不便な感じもするが何となく昭和の時代の暖かさも感じられる。他の駅も概ねこのようんなのんびりしたものであった。電車は1034-1057の7連で今から見ると古さを感じる車両であるが半鋼製(阪急では全鋼製が多かったが)、吊り掛け車から全金製、カルダン車に発展した最初のグループで非常に近代的車両に思えた。それが、今では2代目1000系ができており時の経過の速さを感じる。ところで7両中前3両が3扉で後ろ4両が4扉であるが駅のアナウンスや乗車位置表示など混乱のないように誘導できていたのだろうか。会社によっては編成された車両のそれぞれの長さや扉の数がマチマチのところも多かったように思う。整列していたのに到着した車両の整列位置に扉がなくてお客は憤慨しながら両サイドの扉に向かって分散していったという話を聞いたことがある。
現在の武庫之荘駅は橋上連絡通路ができ雨除けのひさしがホーム一杯に張りめぐらされてより安全快適になっている。定点撮影の本家である総本家さんや兵庫ふるさと通信員さんのように過去の写真を持参したり、レンズの焦点距離を合わせる様なことはなく、相変わらずいい加減に撮影した。そのうちの1枚は嵐山に向かう宝塚発今津線経由直通特急「爽風(かぜ)号」でかつての710系複電圧車による「歌劇号」と桂までは同じルートである。
2016.4.8 宝塚発今津線経由嵐山行き直通特急7017 ▼
1034の特急を撮影した前日の10月16日には西宮球場で日本シリーズ第3戦を見ている。監督は川上と西本。3回表、巨人の3番王が2ランホームランを打ち、次打者4番長嶋と握手するシーンで打たれた阪急米田と一塁手スペンサーは唖然としている。王はこの日5回にもホームランを打っており巨人が9対4で勝っている。米田と並ぶもう一人のエースの梶本は私の生まれた釜戸の近くの多治見の出身ということで一緒に写真を撮ってもらったことがある。スペンサーは弱かった阪急を強くした外国人選手である。私はアンチ巨人であるが、王、長嶋は人間的に好きである。それにしても今シーズンはほぼソフトバンクの優勝が決まり、在阪球団の不甲斐ない戦いぶりをテレビ観戦する気がしない。▼
6回表が終わった時のスコアボードである。結局巨人が9対4で勝利。勝利投手は国鉄から来たカネヤンこと金田正一で後年東京稲城にある読売カンツリークラブの風呂場で出会ったことがある。このシリーズは巨人が4勝2敗でチャンピオンとなっている。昭和の雰囲気を感じるスコアボードや外野観覧席であるが、阪急ブレーブスも1988年のシーズン後に消滅し、西宮球場も今はない。▼
当時の阪急電車は西宮球場で野球が行われる時は特急列車にブレーブスのヘッドマークをつけていた。京都線の特急はヘッドマークを2個つけて通常クロスシート車であったが、神戸線のそれはヘッドマークが1個だけで810系の一部にクロスシート車があったがほとんどがロングシート車で京都線との特急の格差を感じていた。そのような中で神戸線特急のブレーブスヘッドマークはそれなりに貫録を感じたがブレーブス自身灰色のチームと言われ西宮北口駅には途中経過を表すボードも置かれていたが、どれほど熱心に見る人がいたかは疑問である。パ・リーグでは近鉄(オリックスの一部)や東映(日本ハム)も弱かった。強かったのは西鉄(西武)、南海(ソフトバンク)であった。コダックで撮った2020であるが、退色、カビ等で復元がうまくいかずご覧の通りである。2000系の1963年以前製造の車両は昇圧のため2丁パンタを1丁にしていた。2000系は現在の阪急車両群の基本スタイルを作った車両で1000系列共々当時の新型車両で斬新なスタイルと性能を誇っていた。この頃の車両の発展に対して、武庫之荘界隈はまだ吊掛け車の似合う(?)昔ながらの田舎であった。
1967.6.6武庫之荘-西宮北口 神戸三宮行き特急2020▼
武庫川を渡って武庫之荘に向かう開発される前のこのあたりでは神戸線の6~7連の車両全部を真横から写すことができた。少年の姿や案山子の見える田圃の風景を走る920系6連の普通列車神戸三宮行き。比較的駅間距離が長く直線区間の多い神戸線では600ボルト時代から普通列車でも高速で走っていた。1967.6.6 武庫之荘-西宮北口▼
今日は阪急を引き継いだオリックスに入団したイチローが日米通算であるがピート・ローズを破る4257安打を記録したニュースが流れた日である。
準特急さま
スコアボードに並ぶ両チームの選手名をなつかしく拝見しました。こういう写真があるということは カメラ持参で観戦に行かれたわけですね。ところで武庫之荘駅の現在の写真が脱落しているようなので、修復をお願いします。
西村雅幸殿
失礼しました。痴呆が進行中ですね。野球観戦にカメラ持参は事実ですが、実際は撮影のついでに野球を見に行ったようなものです。同じことですが広島市民球場の最後の頃広島電鉄撮影中に阪神-広島戦を見に行っています。この時はナイトゲームと思って一度ホテルに向かって球場横を歩いている時に「一番センター赤星」という球場アナウンスを聞いてあわてて観戦したことがあります。
準特急様
いやぁー、懐かしい記録の数々を有り難うございました。
その一葉ずつが感慨深く、そして懐かしい思い出がいろいろ目に浮かびます。
旧1000系の梅田方が3扉、神戸方が2扉という時代があったのですね。武庫之荘周辺のシーン、今昔の感一入ですね。
今昔の感と言えば、懐かしの阪急ブレーブス、懐かしくて涙が出てきます。西宮球場は今は亡く、「阪急西宮ガーデンズ」として、沢山のお客様で賑わっています。その4階の屋上広場の一角にホームベースの跡が記されていますが、気付く人は少ないでしょう。6階の東宝シネマズの横に阪急ギャラリーがあり、日本一のフラッグやユニホーム等ブレーブスが思い出されるコーナーがあります。是非機会をつくってご案内させて貰いたいものです。
スコアボード古くて懐かしい。選手名も。西宮球場は競輪場も併設、そのバンク跡が芝生を削って見苦しかったし、照明灯も暗かった、試合によっては、観客数が数えられるぐらいの日もあった。しかし、強かった。でも巨人には・・・悔しい!!
人工芝へ、ブレービー君の導入、アストロビジョン設置、観客席大改装等々手を入れた。50年初の日本一、翌年から宿敵巨人を二年続けて破っての日本一。嬉しかったぁー。年間観客数100万人を目指して全社上げて頑張った。ようやく100万人が定着し始めた頃、突然の球団譲渡!?!?昭和から平成へ時代は変わっていきました・・・今は昔
もう読まれたかもしれませんが。お勧めを2冊
・増山実(同志社卒)著「勇者達への伝言」 今はハルキ文庫から出ています
・福本豊著「阪急ブレーブス 光を超えた影法師」 ベースボールマガジン社
また、語り合える機会をお願いします。有り難うございました。
マルーン様
阪急ブレーブスの思い出、楽しく拝見しました。当時、私はそれほどプロ野球に興味は持っていませんでしたが、とにかく地味で、目立たないブレーブスが、西本監督、上田監督になってから、頭角をあらわし、ついには憎き読売ジャイアンツを撃破したのは、今でも印象に残っています。まさに東京vs関西の縮図だったと思います。
読売撃破の翌年ですが、阪急はヤクルトと日本シリーズで対戦、3勝3負で迎えた最終戦、ヤクルト大杉の打った大飛球がホームランの判定、上田監督が猛抗議し、実に一時間以上にわたって中断したのは、さらに印象に残っています。
その時は、私は外出先のテレビで抗議の発端を見て、自宅へ戻ってテレビをつけたら、まだ抗議が続いていたことを覚えています。
中断後の再試合では、もう糸も切れてしまい、ヤクルトに大敗、これで阪急の日本一も途絶えました。
会員ではないのですが、失礼して宜しいですか。素晴らしい記事、情報を拝見しておりまして、今回は思わずコメントさせていただきました。
電車の3扉、2扉の混結も珍しく、整列乗車(○○○)の駅表示に従って並んでいると、大変だったかと。駅でのご案内は、どのようにされていたのか、今となっては、想像の世界ですが、それが許される昭和の世界も、また懐かしくありますね。
運転関係では、どこにも負けないATSは、まだ車警だったのか?未だ健在のアイデントラも導入前だったのか?興味は尽きません。前に乗るとぶつかった時、危ない、後ろに乗ると、追突が怖いとか言って母との乗車は、常に真ん中の車両でした。たまたま、梅田からの帰り道、特急が満員で、最前部に、北口で乗り換えた普通車の運転席では、車警が「ピューンィ、ピューンィ」赤いランプが灯ったり、白いランプが灯ったり、賑やかだったような記憶があります。多分、1965年頃、私は、8歳でした。
準特急様
付け加えます。2020の勇者マーク、素敵ですね。懐かしく嬉しいです。
マルーン様
いろいろと思い出や情報を有難うございます。
西宮ガーデンズは行ったことはありませんが、このあたりは私にとっても思い出の地であります。一度訪問したいと思います。西宮球場の近くにはもう一つ阪急電鉄(当時は京阪神急行電鉄だったでしょうか)経営の西宮球技場がありました。現在近鉄花園ラグビー場で行われている全国高校ラグビーがここで行われていました。見に行ったことがあります。高校ラグビーの歴史を見ると昔は同志社中学というのがよく優勝して強かったのですね。ブレーブスの勇者マークもマルーンに映えて綺麗に見えますが、遠い昔のカラー写真でピントボケもありご容赦下さい。
2016cat様
思い出のコメント有難うございます。1965年8歳といえば多少早かったかもしれませんが電車好きの少年としてはいろいろ楽しい時期ではなかったでしょうか。高性能車両が続々登場し、900、920など古豪も健在で最も面白い時代であった様な気がします。阪急電車では戦後の阪急スタイルを確立した710、810の吊り掛け車、1000、1010、1100、1300等1000系列高性能車、1000系列の車体に旧型車のモーターを使った1200、1600等吊り掛け車が2扉から3扉に改造されていた時期に2扉、3扉の混結編成が見られました。ターミナルや主要駅ではそれなりに案内や誘導があったと思われますが中間駅などどうであったかはよくわかりません。尚、1300等には一部新造当初から3扉車もあったようです。より安全対策を施した現在の電車でも先頭車は事故の時危険であるということは変わらないと思いますが、先頭車両運転席後ろは電車少年のみならず電車爺にとっても定位置で時に微妙に場所の取り合いにもなります。車警は私も聞いたことがありますが、ATSのことなどはよくわかっておりません。とにかく神戸線は今津線と異なり電車のスピードが印象に残っております。
準特急様、ありがとうございます。本当に楽しい時期でした。電車も、バスも新世代に。と言ってもイイほどの時期でした。当時の阪急920とか810とか、ドアの下部に外付けの引き手がついていたりした事や、阪急バスの運転士さんも、電車と同じ詰襟だった事が懐かしく思い出されます。
夏は開襟シャツの襟元に社章バッチが光り、阪急バスでは、多分、古い無事故の運転士さんが着けていたと思うのですが、金のクリップが付いたバッチでした。
電車と言えば、車掌台側は、ガラスがなく、担当者氏名名札が柱に表示されていて、指差喚呼も活発で、何とかっこいい仕事かと感じたものでした。
バスは、芦屋市内線の岩園団地回りが、新設。ワンマンカー(いすゞ)が走り出しました。
有急は、大阪駅北口のグランフロント辺りの寂しい空き地から出ていたと思います。とにかく、何もかもが新鮮でしたが、タクシーだけは、国道夙川から配車の相互タクシーがサービス良しとして贔屓にしていたようです。つまらない話、本当に汗顔の至りです。
小生は1960年12月山科から塚口に引っ越し、翌年4月から神戸に勤務。1965年結婚して一旦六甲、すぐ伊丹でも宝塚に隣接した中野に転居。三宮への通勤は当初阪急伊丹、塚口経由だったが、その後阪神バス(尼宝線)を経由し、阪急武庫之荘からと変更し、1979年塚口に戻って退職まで。従って武庫之荘は十数年お世話になった。この間阪急特急も4両からラッシュ時10両になった。
武庫之荘南側は小生が利用し始めた当時全く人家に乏しく、当然改札口もなかったから、今とは根本的な様変わりである。かなり西側を南北に走り、阪急をオーバークロスする尼宝線(道路)は、元来何もない田んぼを阪神が買収し、国道線と同じ路面電車を一直線に宝塚まで敷設する予定だったが、電車をあきらめて自社バス専用道路兼有料道路として開設したものである。かなり後まで道路脇に阪神のマークが入ったコンクリートの用地杭が見られたが、4車線化拡幅で消滅した。
この道路は戦時中買収されて一般道路になったが、阪神バスの利権は厳として継続し、伊丹、尼崎の市バスが若干走行はするものの、阪急バスは原則路線が設定できない。宝塚駅前が一新されるまで、阪神バスがここに一番大きな顔をして乗り込み、一番いい場所で乗降していたのは、これが原因である。
西宮北口もこの間大きく変身した。有名な平面クロス消失=駅舎高架化と、西宮球場の廃止が主因だが、この球場は木製バンカー仮設での競輪もやっていた。その終了直後の乗降は敗戦直後さながらの無法ぶりで、勿論駅員や助役は総動員されているものの、歯が立たない。特急のドアが開いたとたんに、下車客など目もくれず競輪でスッテ不機嫌極まる手合いが、猛烈な勢いで突っ込んでくるから、女子供でなくともたまったもんじゃない。阪急側はコントロールを初めから諦めて、各停への乗り換え客は下車ホーム側に誘導していたから、駅通路高架化後は階段を2回上下せねばならない。それも競輪撤退で昔話と化した。なおお客様のガラは競馬、競輪、競艇の順だとか。
阪神大震災後の三宮行き代行バスはこの球場前から発着した。これも忘れられない想い出で、最長3時間を要し、気分が悪くなった女性もいた。
湯口 徹様
いろいろ参考となるお話を有難うございます。いつぞや湯口様からは山科の人は京都に行く時に「京都に行ってくる」といっていたといわれてなるほどと思ったことがあります。昭和2~30年代はまだ人の動き、特に子供たちは自分たちの住む徒歩圏内が中心でしたので山科から京都の中心地へ行くことは正月休みや百貨店での買い物などを除きそう多くはない時代のことであったと思います。私も子供の頃は電車通学でしたが、記憶にあるのは自分の家の近所や通学路と阪急今津線宝塚-西宮北口間の線路際くらいでした。従いまして湯口様の新婚時代にお住まいでした伊丹市の宝塚市に近い中野とか尼宝道路の存在は全く知りませんでした。私も仁川と武庫川の合流地点に近い所に住んでおりましてバスは阪急バスの独占で阪神バスを見ることはありませんでした。ただそういえば国鉄の宝塚付近でステンレスの鱗のような模様の阪神バスを見たことがあり、「なんでこんなところに阪神バスが来てるんや」と思ったことがありました。今回のデジ青投稿のブレーブスマーク付きの2020は武庫之荘駅の西側ですが後方の橋があるいは尼宝道路ではないかと思っております。私の現在利用する京王線もギャンブル路線ですが、ガラの順位は湯口様おっしゃるのと逆と思っていました。まだ、自動出改札機などない時代ですが、タダ乗り常習の競馬客は混雑する出改札を通る時に後ろを指して「後ろ、後ろ」といいながら後ろにいる仲間があたかも切符を持っているようにいいながらサッと逃げようとしたという話を聞いたことがあります。最近はギャンブル客のマナーよりも酔客、特に60歳代の駅員への暴力と痴漢が多い様ですね。どこかの私鉄で始めた現在の女性専用車もあっという間にひろがりました。
準特急様
盛り上がっていますね、武庫之荘界隈に関する話題で。阪急武庫之荘駅利用者がもう一名いました。1967(昭和52)年12月から1975(昭和50)年12月まででした。ですから準特急さんの一番top画像の頃になります。神戸から出生地尼崎市の、武庫之荘6丁目に転宅して来ました。一時期尼崎市北部の西昆陽から、早朝割引10円の伊丹市バスで伊丹経由の時期もありましたが、千葉県に移るまでの10年近くの利用でした。
同じ駅を利用する、湯口先輩とは、一二度お会いしたことがありました。湯口さんは下りホーム、私は上りホームで、一度だか線路越しに向かいのホームから声掛けしたことがありました。その後千葉から戻り、1996年から隣駅の塚口を利用し現在に至っています。湯口さんはかなり前から塚口に戻られていましたので再び同じ駅の利用となりました。なお、湯口さんのお宅と拙宅は当時南塚口町7丁目で、距離はおよそ300mくらいでしたか。その後神戸に移られましたが、いろいろご縁がありました。
利用した割りに武庫之荘駅の写真は、ここ最近を除いて当時は皆無です。これより数年前の、西宮北口-夙川、芦屋川付近がありますのでその内アップします。
阪急ブレーブスと言えば、小生は1950(昭和25)年ごろ『阪急ブレーブス子ども会』に参加していましたので、ユニフォームを着て、西宮球場グラウンドで野球をしたこともあります。ブレーブスのユニフォームは黒色で白のタテ縞、胸にHの文字、ハイセンスなのか、どうかは子供心に判りませんでした。ベンチでは大男のスタルヒンや天保、戸倉、浜崎監督などを見た記憶があります。二リーグ分裂前です。川上や藤村、別所、別当、土井垣選手と共に、日光写真でよく焼き付けたものです。
西宮球場ほど多目的に使用されたグラウンドもまたありません。板張りの競輪場の話は湯口先輩の話があり省略しますが、初夏から秋まで、アトラクションが目白押しでした。花火大会、吹奏楽、今のマーチングコンテ、自衛隊の吹奏楽の夕べ、たそがれコンサート、その他諸々、催されなかったのは水泳大会と宝塚歌劇位かと言われていました。
ある時、自衛隊の野外演奏で、チャイコフスキー作曲『序曲1812年』が演奏されました。自衛隊の大砲を持ち込みました。曲の後半でナポレオンに勝ったロシア軍が祝砲を放つ場面です。勿論空砲です。屋内ホールでは絶対真似のできない特別企画です。かっこよかったですね。腹だけでなく球場全体がズドーンと響きわたりました。次の瞬間、なんとスコアボード横の大看板が見事に吹っ飛びました。幸いけが人が無くてすみましたが。観客一同大興奮でした。
当時の兵庫県の高校球児は恵まれていました。県大会に甲子園、西宮球場が使用されるのです。2016年3月、21世紀枠で図らずも出場できた県立長田高校の当時は弱い野球でした。西宮球場や甲子園球場でコールド負けしていました。その西宮球場も無くなり、最近は県大会に甲子園を使うこともなくなりました。年寄りの昔話にお付き合い下さいまして有難うございました。
tsurukame様
待ってました。懐かしい話を有難うございます。神戸線のローカル駅をDRFC-OBの重鎮が時を同じくして利用されていたのですね。上下ホームの声の掛け合いとは何となく楽しそうな雰囲気を感じます。しかもご自宅が近かったとは驚きです。tsurukame様は一時期尼崎市北部の西昆陽にお住まいとありますが、実は仁川と武庫川の合流地点に近い私の当時の拙宅は宝塚市と西宮市と尼崎市の市境にありまして、小中学校は宝塚へ、高校は西宮へ行きましたが、正式な住所は尼崎市西昆陽田近野でした。大学への願書もその住所で出しております。現在は西宮市になっているようです。湯口 徹様は現在須磨にお住まいですが、須磨の駅前で偶然にお会いしたことがあります。須磨海岸での撮影の帰りでした。
阪急ブレーブスのHマークの黒いユニホームはブロマイドで知っているのみですが、確か黒人のレインズという選手が始めての外国人首位打者か何かのタイトルをとり、黒人が黒のユニホームを着ていたので全体が黒かったような覚えがあります。歌劇は全国的に有名で小林一三の独創的私鉄経営の成功例と思いますが、野球は電車(?)と比べて人気がなかったようですね。何とか経営を成り立たせようとしたのでしょうか西宮球場は多目的公演会場でもあったのですね。ここの素うどんは10円でしたが凄くうまかったことを覚えています。ところで私の高校は野球で甲子園に出場したことはありますが、全国大会ではなく兵庫県大会でいつも初戦か次の試合で負けていました。また、楽しい懐かしい話をご披露下さい。
準特急様
いましたね。ゲインズ、首位打者タイトルを獲りました。それにレインズも同時代に。その後バルボン、スペンサー、etc.、etc.。ブレーブスは外人選手活躍の先駆け球団でした。お陰で毎年ビリの弱小球団が西本監督や上田監督の手腕もあって、日本シリーズを開催できる球団にまで発展したのですね。
でも、私は1947年以来足掛け70年、大の巨人ファンです。
監督:三原、水原 投手:藤本、別所、中尾、多田
捕手:内堀、武宮 内野手:川上、千葉、宇野、平井、山川
外野手:呉、小松原、青田、平山
残念ながらこれくらいしか思い出せません。何故覚えているかと言えば、これらの選手の日光写真です。
今で言うL版サイズの木枠にガラスの入った写真乾版に、ネガと感度の弱い印画紙を挟み、太陽に向けて焼き付けるのです。覚えていませんが、5分前後でできたのではないでしょうか。但し、野球選手以外のネガ、例えば鉄道、蒸気機関車、電車のネガはありませんでした。あれば良かったに。
tsurukame様
こうなると私も思い出す選手がいます。巨人には関西出身の選手が思った以上にいました。別所、青田以外にも投手の大友、古くは沢村もそうですね。もう少し後の時代ですが京都の某大学出で国松なんて選手もいました。土井、高田。さらに時代が進むと駒田、松本、清原、桑田、吉村、元木等々関西出身の巨人選手は沢山いました。ところで多分tsurukame様も御存知だと思いますが、日系米人で広田という捕手がいましてその後に背番号9をつけた兵庫鳴尾高校出身の藤尾が後釜となりました。この選手の実家は歯医者さんで私の通った小学校の直ぐ近くにあります。藤尾はある日その当時の高校出のスラッガーと言われた大阪浪商出身の巨人外野手坂崎をつれて野球教室をやってくれたことがあります。戦後10年の頃で日本のプロ野球はアメリカには全く歯が立たない時代でしたが坂崎の姿は野球の好きな少年達に希望をもたらしてくれるあこがれの選手でした。その藤尾と同級生が慶応大学から阪急に来て一度ホ-ムラン王になったことがある中田です。藤尾の後の捕手は今回のスコアボ-ドに名前が出ている森です。当時の巨人は阪急や他球団のように外国人を入れなくても強かったように思います。昭和30年頃は日系米人もいろいろな球団にいまして巨人にいたエンディ宮本や与那嶺なども印象的な選手でした。日光写真は漫画の様なものを焼いたように記憶しておりますが、野球選手については新聞紙に包んだ名刺くらいのブロマイドを購入し裏に1等とか2等などの刻印があれば当たりで手札くらいのものが賞品となりそれを喜んだものです。1等に当たると今でいうB5版かA4版くらいの大きさの総天然色の写真をもらったような記憶があります。その1等でもらった川上一塁手のカラーは多分色を付けて作ったものでカラー写真ではないと思います。最後に若し間違っていたらごめんなさい、乙訓の老人様も大の巨人ファンとお聞きしたような気がしますがそうでしたでしょうか。今回は全く電車に関係のない話で失礼しました。
管理者に怒られるかもしれませんが、時にはこんな話もいいもんです。藤尾も坂崎もいましたね。浪商、PLなど懐かしい高名です。そのPLは悲しい状況で今夏の予選を迎えるそうです。
乙訓の老人は間違いなく巨人ファンです。DRFCの何かの会合のある時も、今日の試合は巨人が勝ったかどうか心配されている、そんな時が何回かありました。