2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part6 厳寒の三道嶺 2の2

第5日目 2月26日

①三和酒店(チャーター車・撮影)8:00→ 19:20三和酒店
②三和酒店 19:25(チャーター車)→21:10哈密駅
③哈密23:35(K9781)→8:20乌鲁木齐(ウルムチ)

昨夜は話し込んでしまったので起床時間はまだ夢の中でした。ご迷惑をおかけしました。
朝1番の撮影は、ずらりとズリ捨て列車が並ぶ西駅です。外温はマイナス20℃。撮影場所⑩

▲ 8:40、ズリ捨て列車が出発したくを始める西駅。左からJS8194号機、おいてJS8080・6261・8225号機です
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2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part5 厳寒の三道嶺2の1

第4日目 2月25日

①蘭州16:01(T295次)→6:34哈密
②哈密駅前 7:58(チャーター車)→9:13三道嶺三和酒店
③ 三和酒店(チャーター車・撮影)→21:30
三和酒店

T295次哈密到着後は、列車編成を再確認していましたが、合流する一行の到着を待つために哈密駅横にある庶民食堂に入りました。

この日の朝食は、店頭で蒸されていた肉饅頭が美味しそうでしたので、これにしました。食べていると、合流する一行の引率者の陳さんから連絡が入りましたので、我々の場所を告げて待ちました。
疲れた様子で来られた一行のS氏からウルムチ(乌鲁木齐)から乗車するはずだったK9782次は、運休なって別の列車で着きましたとのお言葉です。K9782次は、ウルムチから1585キロも先のカシュガル(喀什) から来る列車が、ウルムチで折り返して哈密に向かう運用になっています。カシュガル~ウルムチ間で大雪による列車遅延が生じて、K9782次が運行できなかったようです。
仕方なくS氏一行は、無座客ととして食堂車に行き30元(約400円)を支払い、椅子に座ってテーブルに頭を置いて仮眠したと言われました。しょっぱなから中国鉄路の寒い洗礼を受けられたようです。
一緒に朝食を食べた後、陳さんがどこからか借りた4WDパジェロに乗車して三道嶺へと向かいました。哈密から三道嶺までは約80キロ、高速道路を走り宿泊する市内のホテルまで1時間15分で着きました。ホテルで宿泊登録を済ませてから、陳さんお奨めの撮影場所「東露天掘」へ行きました。
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T295次 2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part4 蘭州

第3・4日目 2月24・25日
①蘭州駅(Taxi)→中山橋(徒歩)→中山橋
②中山橋(徒歩)→磨沟沿老字号牛肉面(徒歩・Taxi)→五泉山公園
③五泉山公園(バス)→兰州站(蘭州駅)

快晴の朝を迎えました。夕方のT295次の発車は16:01。十分に時間があります。沿線で走行写真を撮りたいが、黄河も見てみたいとの準特急先輩のご提案がありました。土地勘もなく約6~8キロはあるらしいので駅前からTaxiで向かう事にしましたが、白タクでもないのに目的地の中山橋までは20元(約260円)との提示です。Taxiが少ないので観光客と見て、ぼったくりですが値切ってもしれているので「可以=まあいいわ」と、しぶしぶ言って乗り込みました。

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2011年 冬から春への中国鉄路の旅  Part3 Z55次乗車で北京西から兰州へ

一昨日はアップロードしようとした途端にゆらゆらです。すぐにTVを見ますと大惨事を見ることになりました。東日本巨大地震に遭遇され被災された多くの皆様、謹んでお見舞い申し上げます。私も阪神大地震の時は神戸支店勤務でしたので、地震の恐怖を体験しております。これから再建への道のりは、遠く険しく辛い日々の連続となりれますが、どうか希望を忘れずに頑張ってください。何もお手伝いすることができませんが、心より祈っております。

第2・3日目 2月23・24日

①京倫飯店12:27(Taxi)→12:49北京西站
②北京西14:35(Z55次)→7:23兰州(蘭州)


北京西站は首都の主要駅ながら未だに地铁が開通していません。途中までは地铁、後はTaxi利用となりますと、重いスーツケース類を持っての階段の上り下りは年寄りには苦痛で体力激減となります。三道嶺に着くまでにダウンしてはなりません。ホテルからTaxi利用で向かいました。普段は渋滞が慢性化している北京市内ですが、今日はスムーズに走行でき、北京西站には余裕の到着です。距離12.7キロ、所要時間22分、料金は32元(約420円)と日本の10分の一でした。 続きを読む

2011年 冬から春への中国鉄路の旅 Part2 中国鉄道博物館正陽門館&ハイブリッド路面電車

第2日目 2月23日

①永安里9:45(地铁)→建国門→10:10前門
②前門 11:15(地铁)→建国門→11:40永安里
③ 京倫飯店12:27(Taxi)→12:49北京西站
④北京西14:35(Z55次)→7:23兰州(蘭州)

今日から三道嶺へ向けての乗り鉄旅の始まりです。北京西站発のZ55次発車まで十分な時間がありますのでホテルの部屋に荷物を置いて前門(天安門広場入口)に先日オープンした「中国鉄道博物館正陽門館」を見学に行く事にしました。
▲ ホテルの朝食は、115元(約1500円) もしますので年金生活者には大金です。そんな我々にはホテル裏にある庶民食堂がピッタリします。今日の朝食は、肉包子(肉饅頭)@4元とお粥@2元にしました。これで一人6元(約80円)です。
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2011年 冬から春への中国鉄路の旅 Part1 三道嶺への旅立ち

第1日目 2月22日

①長岡天神6:30(阪急)→6:46南茨木6:52(大阪モノレール)→7:17大阪空港
②伊丹8:25(JL3002)→9:40成田10:45(JL863)→14:00(現時)北京
③北京空港 14:40(空港快速)→15:10三元橋15:15(地铁)→15:30国貿

昨年末に全検のため半月間ドック入りの結果、点検責任者より老朽化のため本線走行は難しい。しばしの休養を命じられました。おとなしく時たまローカル線、入換え作業に終始しておりましたが、どうも我慢なりません。鉄分補給には荒走行が必要と思っておりましたら、準特急先輩より『天山山脈をバックに走る「建設形」を友人2名と撮りに行くが一緒に行かないか』とのありがたいお誘いがありました。

昨年10月に北京駅で、往路切符はあったが復路切符が確保できず断念した「三道嶺」への撮影旅行です。二つ返事で是非ともの同行をお願いしました。
打ち合わせの結果、「三道嶺」訪問日は、2月25・26日と決まりました。日程の融通ができる準特急先輩と私は、前もって22日に日本を出発して北京で合流後鉄路で「三道嶺」へと向かい、ご友人一行は1日遅れの23日出発、北京で国内線に乗り継ぎウルムチへ、ここからは瀋陽から来られる通訳兼案内人の引率で夜行列車寝台に乗車して「三道嶺」の玄関、哈密駅で我々と合流する予定となりました。

準特急先輩からは、ご友人一行と合流前後の鉄路・宿泊先・帰路のウルムチ→北京の航空券の手配を一任されましたが、中々思うようになりませんでした。 続きを読む

山陽電車(4)西代-長田間 神戸高速鉄道建設

前回の投稿記事の話から1年後、神戸高速鉄道への乗り入れ工事が本格化しました。西代-長田間の工事は、専用・併用軌道の付替え工事を伴い、複雑でした。長田-兵庫間の内、長田-大開通り間は、山陽併用軌道の北側道路を掘削すればよく、普通の工事だったと思います。また大開通り-兵庫間は工事が無く、高速鉄道開通時に廃線するだけでした。
さて西代-長田間ですが、工事の順序は大きく分けて、下記の地図の①~③のようなものでした。
①大道通り-長田間の民家・商店の立退き、道路の北側への移設、道路下を堀削し地下建設。
②蓮池町-大道通り間の道路の移設、上記①と合わせて専用軌道の付替え線建設、運行開始。
③運行停止の専用・併用軌道を堀削、地下進入線と地下工事開始。完成後は開通まで新線を使った試運転。西代駅では付替え線と新線との並行運転が見られました。

▼①の部分の工事の様子です。カメラは西南向きです。すぐ横の併用軌道を2700系が進む。

▼専用軌道の横での付替え線建設です。既に一部の軌道が完成し、支柱も立っています。②の部分です。東向き、右手に工場群が。

▼こちらは、専用軌道から併用軌道に変わる付近、軌道と付替え線の間にスペースもあります。西南向き。

▼それからさらに5ケ月後。すでに付替え線での運行が始まっていました。西代駅のすぐ東側です。右手の専用線の線路はすっかり撤去されてしまいました。手前の信号機はもう使われてはいないのでしょう。新線予定地に早くも架線支柱が立っていました。北東向き。

▼上と同じ場所、逆に西向きです。付替え線に2700系が進入して行くきました。左手の信号機はやはり使われていませんね。後方に西代車庫の電車が見えます。

▼専用軌道のあった部分はすっかり堀起こされました。地下への傾斜進入部分。少し遠くに地下への入口が見えます。東向き、右手は工場群。


▼付替え線を行く200型です。後方の建物は、神戸市立蓮池小学校、震災では大きな被害を受けました。西向き。

▼地下入り口付近から西側の、西代駅方面を眺めました。

▼併用軌道の始まりの部分です。機材・資材が溢れています。北東向き。

▼併用軌道はすぐには撤去しなかったようです。小屋、機・資材で軌道も少し哀れな姿に見えます。

▼新湊川の手前でカーブして、長田駅で元の軌道に戻ります。カーブ部分の下も地下工事です。付替え線東側の様子です。

▼カーブ付近を行く、共に2700系ですが顔が異なります。住民の南北への移動用に、簡易の踏切が何箇所か造られていました。

▼長田駅と新湊川の手前でカーブして、元の軌道に繋がります。付替え線はすべて専用軌道となりました。

▼それから1年。工事が完成、試運転が開始されました。阪急と山陽。左手は付替え線です。神戸高速開通時の廃止が勿体無いクロスがあります。

▼こちらは山陽の試運転列車。

▼当然のことながら、阪神も試運転。須磨浦で折り返しての帰りです。 

▼神戸高速鉄道線向けの山陽の主力電車が通常運行。地下からは試運転の2700系が上がって来ました。 
▼構想以来、完成まで何年掛かったことでしょうか。神戸の中心部で山陽、阪急、阪神の相互乗り入れ、神戸電鉄ともイージーな乗り換え。山陽電車の夢がかなった開通は1968年4月7日でした。

200型の話題に始まった山陽電車。併用軌道の話のついでに神戸高速鉄道建設なども紹介しました。時と機会を改めて、60年代前半の山陽電車車両も紹介してみたいと思います。それから神戸市電も。

山陽電車(3)西代-兵庫間の道路併用軌道

 

三度び夾雑物・山陽電車です。西代駅東方約200m付近から、終点の電鉄兵庫まで約2kmの区間は、道路併用軌道です。大型車といえども、特急といえども、制限速度は35km/時でした。下記に、専用・併用軌道、神戸高速鉄道建設完成時までの短期的な付替え線、そして神戸高速鉄道の路線などを図示しています。そしてこの道路併用軌道は、1968(昭和43)年4月7日(日曜日、この日は筆者の結婚記念日)の神戸高速鉄道の開通に伴い、創業以来58年で消滅しました。

それでは、西代駅から兵庫駅までを順に写真で追ってみましょう。
▼西代駅を出た上り・兵庫行き(北東方向に向く)が専用軌道終わりの地点を行きます。正面突き当たりに西代車庫があり、その右をカーブして板宿方面に向かいます。今電車が走っている付近が高速鉄道の地下入り口になります(板宿・東須磨間の地下線延長前まで)。そのために、本線をすぐ北側に退避移動させ、付替えました。

▼上の写真から、方向を180度転じて見た、こちらが併用軌道の大道通りです。下り・姫路行き(南西方向に向く)の各停が、間もなく専用軌道に進入します。左の更地は、神戸高速鉄道建設のために、立ち退きをした民家・商店の跡です。右側の民家や商店・工場前は舗装されていません。車の通行防止の為でしょうか。

▼併用軌道を更に北東に進むと、新湊川の手前まで緩い登りになります。最新の上り・大型特急車が、間も無く、併用軌道区間唯一の駅長田に進入します。

▼長田駅は島式のホームです。下り特急車2005が出発です。短いがこの区間は専用軌道です。看板と簡易の柵で道路と区分です。後ろの白い大きな建屋は神戸市電長田工場です。

▼木造の粗末な駅舎、東須磨からの高校3年間の通学はこの駅でお世話になりました。

▼上り兵庫行き300型が、長田駅を出発。神戸市電との交差点西南側にあった、トヨタの販売店前を通り過ぎ、クロスを渡ります。架線にはデッドセクションがあります。山陽は1,500V、市電は600Vのためです。

▼こちらは上と同じ場所を、逆に見ています。交差点を渡り長田駅に進入する下り姫路行き特急です。車を避けた為にデッドセクション内で山陽電車が急停車し、動けなくなったのを、通学時1、2度見ました。後続列車の後押しで漸く動くことができました。市電が立ち往生した場合は人力に頼ったとか聞いたことがあります。

▼こちらも交差点を過ぎ、長田駅に進入する下り・各停垂水行きです。パンタは1個。車の接近にひやひやしながらも無事にデッドセクションを通過。820型の区間運転列車は垂水行き。区間運転は明石(西新町)行きなど。昔は須磨折り返しもあったように思います。

▼北行き神戸市電が今まさにデッドセクションを通ります。市電の線路と平行に設けられたポール付きのものものしい設備は、あまり長く続かなったようです。上の写真(1963年)にも、一つ下の写真(1967年)にも見られません。右手奥の工事は神戸高速鉄道の建設工事です。北行の市電は突き当たりの看板前を直角に右手方向に曲がり、東向きに五番町・上沢町に向かいます。

▼南行神戸市電が交差点を渡りすぎました。この頃になると車が増え、市電の運行も大変となって来ました。三輪軽トラ等も見られます。南に向かうと、すぐ右手に長田工場がありました。

▼交差点を過ぎ、長田と兵庫のちょうど中間地点、ビオフェルミン本社・工場前をさらに少し進むと、大開通りに向かう三差路地点です。神戸高速鉄道は、このあたりの地下を右方向にカーブしてゆきます。軌道上の工事区間はここまでです。ビオフェルミンの本社と工場のこの建物は、阪神淡路大震災で完全に倒壊してしまいました。西方向に向かう特急。横を走るのはマツダのキャロルか。

▼正面に兵庫駅が見えて来ました。1965(昭和40)年頃はまだ車は少なかったようです。埃っぽくだだっ広い通りでした。兵庫駅(東方向)に向かう850型。架線の支柱は幅広道路の左右にあり、スパン線ビームの長さも相当なものです。

▼4面のホームを持つ兵庫駅。北側には貨物線が1本。ホームの西側先端部分は屋根は無く、枕木を積み上げその上に板張りの粗末な造りでした。神戸の中心部から西に外れた場末の感じがします。右の高架は国鉄兵庫駅、EF58が見えます。

▼兵庫駅前には、神戸市電兵庫線の終点がありました。山陽兵庫駅改札口はちょうど左手の付近に。右手には国鉄の高架線が。

▼国鉄兵庫駅の高架ホームから眺めました。山陽電車との連絡通路は無く、東側の改札を出ると、雨天でも傘をさして市電脇を渡り、高架下の連絡通路を通り国鉄に乗り換えました。西側の広い駅前広場を渡り、兵庫駅へ向かう連絡用として、山陽の改札口が西側に増設されたのは後年だったと記憶しています。この場所からは隠れて見えませんが、右隅にその屋根部分が辛うじて写っています。遠くには湊川公園のタワーが見えます。このタワーも確か震災で倒壊したのかな。

長々と続きましたが、夾雑物の話はまだまだ終わりではありません。神戸高速鉄道建設の為、、短期間だが西代-長田間で本線を退避すべく付替え線が設置されました。埋もれているそれらの写真を、千載一遇のこの時とばかりに公開準備中です。毛嫌いせずお楽しみに。

山陽電車 200型の再生300型

 

 

 前回、山陽電車の社報掲載文で200型を紹介しました通り、愛嬌のある車でしたが、如何せん輸送力増強には不適合な車でした。しかしながら作りが良く、廃車するには惜しいので、車体を広幅に更新し、台車や制御機器も再利用するということで、1962年夏から秋にかけて、300型に生まれ変わりました。第1次車300~305の6両は、川崎車両で更新した車体を運び込み、自社西新町工場で完成させました。これには大分時間が掛かったと聞いたことがあります。製造銘板も山陽電鉄でした。附番は200→300、201→301とはならず、200、201、208、209、210、211の6両で300~305の6両を製造したようでした。

▼下は、生まれて間もない303+304です。 行き先表示板には神戸・明石(西新町)とあります。神戸市内の終点駅名を『兵庫』と書かず、『神戸』と標記していました。『明石』も( )つきです。『明石』にはもうひとつ(東二見)行もありました。
▼やはり真新しい301他の網干行が、高架の姫路駅を発車したところです。オールMの3連です。

▼上の写真から2年後、第2次車306から315まで10両が揃いました。電鉄須磨駅です。

▼須磨から明石まで海岸べりに沿って、国鉄と並走します。奥に見えるコンクリート造りは、写真の2ケ月後に開通した、国鉄鷹取-西明石間複々線化の新しい列車線です。既存線は山陽電車線に接して向こう側の平地上です。道路の左はすぐ海岸です。

▼のどかで穏やかな海に漁船を見つつ、海岸沿いを走る300型です。複々線化工事中の場所に立ち、上から見下ろしました。パンタが3個、勇ましく見えます。

▼こちらは、道路併用軌道の長田-兵庫間、大開通りです。左側で神戸高速鉄道への地下工事が始まっています。砂ぼこりの多い、だだっ広い道路でした。車の通行が少なく、遠くに兵庫駅を出発した200型が見えます。

▼上の写真と同じ号車の折り返し。今度は姫路行になっています。場所は先ほどよりだいぶん兵庫駅寄りです。

▼第2次以降、製造組立の全てを川崎車両で実施。第4次まで合計28両が生まれました。その内、6両は中間電動車330型です。筆者の当時の記録では曖昧な所が沢山でした。

 大手術を受けたその割にはピンピンと元気な乙訓の老人が、自宅に戻るやいなや鉄道ピクトリアル誌327号と528号を送り届けて下さいました。その中に、やはり亀井一男さんが記述の200、300のデータがあり、移り変わりの様子がはっきりしました。整理したのが次の図です。鉄道ピクトリアル誌 No.327 1976.11 を主として参考にしました。

▼200型の台車、BW-1。

▼200型のおしまいは、流線型車両が海風を切りカーブを駆け抜けて行く姿です。下は第1次の203+202です。残念ながら第1次車両のカラー写真はありませんでした。

▼風光明媚な場所は関西一でしょう。高台を走る場所は一等地。南海にも紀勢線にも負けないくらいです。 

次回は、京都の方々には遠くて、神戸の西片隅の様子など疎い方のために、西代から神戸・兵庫までの道路併用軌道区間、神戸市電との交差無電区間、兵庫駅などをカラーで紹介しましょう。

雪景色(3)花輪線

 筆者の好きな写真の一つです。バックの山が墨絵のようです。同志社大卒業間際までゼミの研究室に拘束され、やっと開放された日から4、5日間出掛け、帰宅した翌日が卒業式の慌しさでした。



 初年兵の年末は体調不良で、撮影行は中止。
2年目の正月休みに出掛けたのが、花輪線を始めとする東北の雪の中でした。竜ケ森のヒュッテに1泊して撮影しました。天気は良くて快調でした。

 総本家青信号特派員さんはユースホテル愛好者でしたが、私はステーションホテル愛好者でした。これは湯口先輩から教わった方法で、駅のベンチに寝泊りする方法です。先輩が50数回の日本記録保持者、私は35,6回で第2位です。寝袋、炊事道具、食料(米、缶詰、リプトンのオニオンスープの素など)、燃料(ガソリン)、夏は蚊取り線香、冬はカイロ持参です。ガソリンは4Lほどポリタンクに入れ旅客列車で運んでいました。今では恐ろしくてできないことです。荷物が多くて、当時56kgの体に40kgのリュックでした。駅の台秤で計りました。

 翌年も出掛け、花森線でのホテルは竜ケ森ヒュッテでした。自炊せずとも食堂があり、大助かりでした。

 盛岡発の臨時『銀嶺』号です。シーズン中、竜ケ森まで1日一往復でした。前々日に山田線でラッセル車を押していた盛岡区所属の86が、客車3両を曳いて山を登って来ました。

 上の写真を撮影後山を下り、次の貨物を待っていると、二人連れが竜ケ森から線路中央を歩いてきました。近づいてきた人はなんと、ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんではないですか。全く偶然の出会いでした。次の列車撮影までの時間に、ヒュッテの食堂で撮った記念写真です。50年前のこと故に、肖像権無視で公開します。この日一日で彼等は消えて行きました。残った私は再度ヒュッテに泊り、翌日も撮影でした。


  スキーヤーは全て列車で来ます。付近の道路は空いていました。降車がすみ、乗車を始めたのが上の写真です。ところが時間がかかってしまい、ドアーが凍りつきました。ヤカンの湯で溶かしてやっと出発でした。


 
スキー場へは右手に進み、ヒュッテを通り過ぎ、山に向かいます。
翌日は、岩手松尾、大更方面に向け、山を下りながら撮影しました。



 雪景色シリーズも投稿を急がないと、春になってしまいそうです。カラーフィルムに限定して絞込み、先を急ぎましょう。次は山田線、釜石線、大船渡線です。モノクロの米坂線はまた別の機会にします。

ユースで巡った鉄道旅 -6-

続いて横浜にあったユニークなユースホステルの紹介を。

現在も横浜・山下公園に保存・係留されている氷川丸には、かつてユースホステルが併設されていました。氷川丸は、1930年に建造された12000トン級の大型客貨船で、永らくアメリカ航路で活躍、昭和35年に運航が終了したあとは、山下公園に係留され、内部はそのまま宿泊設備として転用されました。3等船室は、2段ベッド、相部屋で、改造もなしにそのままユースに転用が可能でした。

泊まったのは昭和42年8月、高校3年生でした。夜行鈍行で東上、まず国府津で御殿場線のD52を撮ったあと、横浜へ向かいました。関東方面に向かうのは中学校の修学旅行以来でした。

 

御殿場線のD52が国府津駅で発車を待っている。当時、御殿場線にはDCも走っていたが、客車列車は、貨物とともに、国府津区のD52が牽いていた。40年以上前とはいえ、東京から80キロ足らずのところに、こんな大型蒸機がいたこと自体、信じられないことだった。走行中は撮らず、もっぱら駅と機関区での撮影に終始した。右に当時愛用していたリュックが見える。

 

ユースで食事後、夜の山下公園へ出かけ、氷川丸を夜間撮影した。今も氷川丸は、全く同じ位置に停泊したままだ。船体の塗装は、当時スカイブルーだが、現在は、航行当時の黒に塗り替えられている。内部は新たにリニューアルされ、宿泊設備はなくなったようだ。

 

 横浜駅の東口。三代目として昭和3年にできた駅舎で、建設当時は最大級の駅舎で、西口はまだ全く未開拓だった。昭和55年に現在の駅ビルになり、駅前は高速道路が高架で通り、大型デパートや高層ビルが林立する。以前の掲示板に米手作市さんが横浜駅の東口に触れられていたが、東口駅前は横浜の玄関口と言いながら、古びた工場・倉庫ばかりで、引込み線が延びるだけの荒涼とした光景が広がっていた。

 

その後、都内へ行き、都電に乗って須田町まで行き、交通博物館を見学した。あとは物見遊山で、皇居前や当時、日本で最初の高層ビル、完成直前の霞が関ビルを見物に行った。なにせ関西では高層ビルというものは全くなかった時代、さすが日本の首都だと感嘆したものだ。東京駅前で都電を写そうとするが、このように車に邪魔されてうまく写せなかった。ただ、却って車に時代を感じるかもしれない。よく見ると、八重洲側の大丸が入店していた駅ビルは建設中のようだ。それがもう取り壊されるぐらいに時代は過ぎてしまった。

 

ユースで巡った鉄道旅 -5-

雪の長野で寺に泊まる

前回は、旅館に併設されたユースを紹介しましたが、今回は寺院のユースです。広い寺院の部屋を利用したユースホステルは、全国にたくさんあり、私も各地で泊まった経験があります。ただ設備・食事ともイマイチのところが多く、いい目をした思い出は全く残っていません。

ここで採り上げたのは、長野・善光寺の中にあった塔頭の教授院というユースホステル。ここに泊まったのは高校2年のとき、最初で最後となるスキーに友人と飯山線戸狩へ行き、その後に一人で泊まったところ。だだっ広い部屋に、満足な暖房もなく、寒さに震えて眠ったことしか印象に残っていません。朝、出発しようとすると、濡れたままにした長靴が凍ってしまい、滑りそうになりながら、駅への坂道を急ぎました。

 

朝の長野駅で写した181系電車、長野発上野行「あさま」。昭和41年10月にデビューしてから1年余りしか経っていないから、モノクロ写真で見ても車体が輝いているのが分かる。ボンネットに太い帯を入れた181系を見たのは、これが初めてだった。151系に比べて、何か足りないと思ったら、低トンネル対応で運転台上部の前灯がなかったのだった。

長野駅舎は、まだ善光寺をイメージした寺院建築風だった。その後、1996年に長野新幹線に合わせて駅舎が新しくなった。このような地域色豊かな駅舎も今や少なくなってしまった。長野電鉄の駅もまだ地上だった。駅裏にも長野機関区、長野工場が広がっていたが、ここもすっかり撤去され昔日の面影はない。

  

長野駅で写したあとは、篠ノ井線姨捨へ向かった。その頃の「鉄道ファン」撮影地ガイドに紹介されたところで、陰影を利かせた記事のような写真を撮りたくてやって来た。篠ノ井線は寸前に旅客列車は無煙化されており、貨物のみが長野区の特徴あるスタイルのD51が牽いていた。姨捨のスイッチバックの駅構内、眼下に広がる善光寺平の光景、さすがは日本三大車窓のことはある雄大な風景だ。桑ノ原信号場へ向かっていると途中でトンネルがあり、高校生では一人で通り抜ける度胸もなく、急斜面を登って、トンネル上の道路を目指した。フーフー言いながら、下へ降りた途端に、D51の牽く貨物が迫ってきた。

スキーで訪れた飯山線、しかし、ここは蒸機に執心する高校生、まずは飯山機関区を訪れC56を撮影する。この日も、すごい雪、というか飯山線ではごく普通の降り方だろうが、駅はうず高い雪で埋まっていた。駅で写したのが、スキー臨時急行「信越銀嶺2号」C11211+旧型客車3両。この頃のスキー臨時列車には、地域名を冠した「○○銀嶺」の愛称が多かった。「信越銀嶺」は、上野を夜に出て早朝に豊野まで急行として運転、以降は普通となり、スキー場のある戸狩で終着となる。写真は、飯山駅に停車中の上り列車で、昼行列車で上野を目指す。飯山線は冬季にスキー列車で忙しく、機関車も他区から借り入れしてしのいでいる。この機も美濃太田区から借り入れられた。

 

東京から鹿児島までの旅

KAWANAKAです。

そろそろ我が関東の故郷になってしまいそうな佐倉点描でもと思っていましたが、YHや西村氏の投稿に刺激されて九州の写真を探しました。そこに吉都線など南九州があるはずなのですが、引越しを重ねるうちにどこにあるのかわからず、その代わりこんな写真を見つけました。アルバムに整理する途中だったようですが、編成の記録などはどこかに紛れ込んでわかりません。録音テープも行方知れず。

年代の人は、懐かんで見てもらえれば幸甚です。大きな1枚窓を開放し風を全体に浴びて旅の空気に浸り、見知らぬ人との出会いやハプニングを楽しむ。夜明けの寒さに目覚め、ホームの洗面で葉を磨く、こんな古き良き旅を思い出した訳です。

また、いささか汚い写真は多いのですが、何せ写真をスキャン/取り直ししての掲示なのでご容赦を。また、だらだら長いですが、それくらいの旅程と思えば容赦いただけるかなと思います。

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ダイヤ改正が間近に迫った金曜日、大阪から大垣経由で東京着、ここから長駆鹿児島を目指します。今まで乗った桜島高千穂(昔はこの名前ではなかったが・・・)とは違い、食堂車もないので、これからずっと4食駅弁にお世話になります。

東京駅12番ホームです。当時は一般的なゴハチの牽引です。入線した客車の先頭に立ち、いよいよ出発。

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沿線ではカメラを向けている人がいます。車内放送を録音している人もいます。そんな中を東海道をジョイント音も高らかに一路西下します。

熱海を過ぎると興奮は一段落、変化の少ない東海道をひた走ります。

昼になったので東海軒の駅弁を買っています。小生はこの時期が東海道で駅弁の購入した最後位になりましょう。名古屋の中村屋の弁当の包みはいつも面白いですが、このときはそこまで腹持ちがせず途中での購入です。皆さんデッキから降りて買っています。

列車はいくつかすれ違いをしながら只管、走り続けます。岐阜を出ると次は大津です。

この間のいくつかのすれ違いが写真に残っています。

・上りの桜島と離合

・新幹線が追い抜く

・しらさぎと離合

大阪に着くのは夕方。

これから列車は趣を夜行列車に変えていきます。

「おおさか~、おおさか~。列車がよく停まるまでお待ちください・・・」デッキドアが手動であるので時間に競っている人は飛び降ります。今ではそんな危険なこと、となるでしょうが。

大阪駅では8分の停車。給水をします。

その間に弁当を仕入れたり、まあ色々あります。鉄道は出会いと別れがつき物。このころのよき風物でしょうか。お婆さんが車内の人に挨拶をしています。

・8分停車

・さようなら、お気をつけて

・スチームはよいか。いよいよ夜汽車に。冷えるので十分な暖房が必要。懐かしいSGの湯気。

・夜行列車

昔は、このように過ごすのが普通でしたね。寝台車なんて高嶺の花。学生は普通列車でごろんと行くのが当たり前でしたなあ。

山陽を西に向かってひた走ります。途中停車駅で特急寝台に通過追越されていきます。

まだ、乗客が眠りの中にあるころ、本州と分かれていよいよ九州に。

長駆がんばってきたゴハチとお別れです。

乗務員もご苦労様でした。

九州に入った列車は小倉で分割、それぞれ別の鉄路を歩みます。熊本廻りの桜島を見送り、高千穂単独となります。列車の各としては、まあ、準急なんでしょうね。

列車は長旅の乗客を乗せて日豊路を南下します。

途中でほとんどの人が入れ替わります。もっとも東京から通しで乗ってくる人は誰もいませんが、さすがに単調な列車の旅は疲れます。

みどりと離合。単線なので格上列車に進路を譲ります。ヒマな乗客は気分転換、通過列車を見送ります。発車したってデッキから乗れますからまあ暢気なものですね。

・青井岳通過。こんどはこっちが格上です。

・長旅はさすがに疲れる。

いよいよ最終コース。桜島が見えると終着です。

車内はガラガラ、つり広告の「新しいひかり」の掲示が皮肉です。

・焼くムラがあって、どうもこのときは焼きをミスったみたいです。桜島が見えてきました。

1.5メガメートルの旅はこれで終わります。西鹿児島に着くと、旅情もなくあっという間に回送です。西鹿児島の写真は手元にないのでこれで終わりとします。

小生はこれから、鹿児島をふらついて、博多まで夜行で北上、つばめで帰阪することになりました。しんどかったが面白かった、また行こう、と言いたいのですが、もうあの列車は居ないのですね。九州ではこういう事態がまたすぐ起こります。しかし、こんな旅があってもええではないですか。

なお、この取材の前に高田氏も単独で走破されており、小生は京都から大阪まで併乗しました。弁当でも差し入れすればよかったかな(古い話ですが、高田さん、覚えておられたらごめんです)。南九州の記録は写真が見つかれば掲示するかなと思っています。

なお乗車は3月1日と記憶します。

吉都線と霧島連山

連日 霧島連山の新燃岳の噴火が報じられています。学生時代の最後 昭和49年3月に九州を巡り 吉都線のC55, 山野線のC56などとの出会いがなつかしく思い出されます。当時のメモを紛失し、撮影場所や列車名が判りませんが、高崎新田、日向前田、高原あたりであったと思います。そのときは霧島連山としか認識がなく、どの頂きが何岳なのか判然としませんが、とにかく天候に恵まれて 山が美しかったのが印象的でした。現在は宮崎自動車道がこのあたりを走っているようで、多分景色は大きく変わっているのでしょう。

 キハ17、キハ20

 D51

 C55、オハユニ61

 門デフD51

 高原にて 

 D51

平成16年2月に広島から鹿児島まで 日本エアコミューター(JAC)で飛んだことがあります。36人乗りのプロペラ機で 低空を飛んでゆくため 地上の様子が手に取るように見えて 1時間の飛行中 地図と見比べながらずっと外を見ていました。鹿児島に着く手前で霧島連山の上を飛びます。それぞれの山頂が 上空から見るとまさに火口であることがよくわかり 感動しました。この写真も何岳かわからないのですが 新燃岳ではないようです。広島西飛行場も今は営業終了し、コミューター便もなくなってしまって寂しいかぎりです。 

特派員さんの「ユースの旅シリーズ」に刺激されて投稿しました。 

ユースで巡った鉄道旅 -4-

豪雪の会津柳津

もうひとつ、雪にまつわる一件を。
雪を求めてよく行ったのが只見線でした。利用したのが会津柳津駅近くの春江荘というユースホステル。会津柳津には温泉があり、円蔵寺の門前町でもあり、只見川に沿って温泉宿がいくつか建っています。ユースもそのひとつで、副業としてユースも営業していました。この形態は全国でよく見られ、旅館の一室をユースに流用しているだけに、場合によっては結構な設備です。このユースはいつ行っても宿泊客はほとんどなく、一人で広い和室を独占し、温泉にも入って、只見線の旅を満喫したものです。この春江荘ユースホステル、その後、湖畔荘という名に改名されたものの、今は廃業したのか、旅館のリストにも見当たりませんでした。
只見線は昭和46年の夏に行って以来、お気に入りの路線となり、47年からは、毎年雪を求めて只見線を訪れ、ユースにも連泊して、只見線の良さをしみじみ味わったものでした。ところが暖冬続きで、真冬の2月にも全く雪がなく、地肌が見えているという年もあり、只見線らしい大雪が見られたのは、昭和49年に行った時だけ、この時はもう社会人で、会社を終えた金曜日の晩に、新幹線、上野発夜行で只見線を目指しますが、途中の雪で大幅に遅れ、只見線に着いたのは、昼前になっていました。

只見線は、当時、貨物のみがC11牽引で残っていたが、なんと、その貨物はすべて運休だった。勢い、DC列車や駅でのスナップを撮るしかないが、逆にそれが、只見線の良さをしみじみ感じさせてくれた。40年足らず前の光景だが、福島県の山奥は、いかにも東北という、木村伊兵衛が撮るような光景が広がっていた。

駅長に見送られて、雪を載せたDC列車が会津柳津を出発する。後部はキハ23だが、当時、只見線の運行を担当する会津若松運転区には、キハ16、キハ18、キハ51、キハユニ18と言った希少な車種があり、気動車としても興味深い線区だった。

会津柳津駅は、二面三線の典型的な国鉄式の駅。気象板を掲出した光景も思い出のシーンになってしまった。現在、駅は交換設備も撤去されて棒線化され、無人駅になっているという。駅前にはC11244が静態保存されている。

2日間、只見線に居て、結局蒸機を写せたのは、この排雪列車だけだった。駅でラッセルが通ると聞き、会津宮下近くの鉄橋で待つ。突然、列車がやって来て、鉄橋から、豪快に雪が落として行った。その後、日中線へ向かったものの、その日、日中線は全列車運休(と言っても日中は走らない、朝夕の数往復のみだが)。駅で見たテレビは、東北地方11年ぶりの大雪と報じていた。帰る時、喜多方から上野行き急行に乗ろうとしたところ、部分運休を知らされ、会津若松まで初めてタクシーの代行輸送を経験し、這う這うの体で帰ってきた。

ユースで巡った鉄道旅 -3-

厳寒の北湯沢ユース

厳しい寒さが続いています。Tsurukameさんに習って寒さに関する一件を。

冬の北海道へも、学生時代、ユースを利用して何回か訪れたことがあります。ただ、冬と言っても、授業・試験はちゃんと済ませてからになりますから、すべて3月の訪問でした。1・2月と比べると、多少はマシになっていますが、内地から来た人間には、まだ寒さがこたえます。

昭和46年3月、本掲示板でも活動されている西村さんや、津田さんと一緒に渡道し、その日は北湯沢ユースホステルに泊まりました。北湯沢と言っても、ピンと来る人は少なくなったかも知れません。昭和61年に廃止になった胆振線にあった駅です。伊達紋別から乗車時間約50分、倶知安から約1時間40分程度の距離にあり、駅のすぐ近くに北湯沢ユースホステルがありました。胆振線が廃止されてからは、ほとんど顧られることもなくなりました。

内陸部にあって、とにかく寒かったことを覚えています。朝、ユースの寒暖計を見ると、-15℃を指していました。厳冬期に-30℃以下まで下がる北海道としては、屁のような気温でしょうが、私が実際に寒暖計で確認できた気温としては最低気温でした。

寒かったことだけは覚えていても、ユースの印象は全く残っていません。ネットで調べてみると、ごく最近まで営業を続けていたことが分かりましたが、今は休業となっていました。

ここでの目的は、倶知安区の二つ目玉の9600を撮ることだった。朝飯前にちょうど貨物列車がやって来るので、起床後すぐに、みんなで駅へ向かった。新雪も多く、遠方へ歩く気力もなく、駅近くで日和るしかなかった。寒気を震わせるようにして、二つ目玉を輝かせた9600が通り過ぎて行った。

北湯沢駅の外観。当時運転されていた急行の停車駅でもあり、交換設備もあって、ローカル線の駅としては、そこそこ賑わいのあった駅である。上記の9600貨物を撮ったあと、ユースへ戻って朝食をとり、キハ22単行で、C62重連を撮るべく倶知安へ向かった。

倶知安へ向かう途中、御園駅でのカット。乗った列車の前に、キハ22が増結されるシーンだ。当時、北海道のDCは、途中駅での増結・解結が頻繁に行われていた。極端な例になると、始発を単行で発車したのに、交換駅ごとに、1両ずつ増結し、終点に着いた時には、4~5両になっていることもあった。少ない気動車をやり繰りし、両運のキハ22ならではの運用だが、よく要員も確保できたとの思いが強い。しかも、交換列車から解結して、反対列車に増結するという離れ技で、そのため、増・解結に費やす停車時間のロスも多かった。

 

雪景色(1)奥羽本線矢立峠・秋田県側

  今冬は各地で積雪が多いようです。ところが大阪湾に面した地域、兵庫県南西部、大阪府では滅多に降らないし積もらない。わが街でも今冬まだ雪を見ていません。この現象は昔も同じで、雪見たさによく雪国へ出掛けたものです。
 
拙著HP(ホームページ)にも、初期の作である奥羽本線を始めとする雪景色のページがあるのですが、これらはページを改良する必要があります。スタイルが現在の標準と異なり写真の数も少ないのです。時刻表やダイアグラム、古い地図の掲載もありません。改良の準備で、新たに写真やダイアも用意しました。先にデジ青でもご覧ください。
 
暖かい部屋でネットを楽しんでいる皆さん。眠気を少しは覚ませるように、寒くて冷たい画像をお届けします。筆者の暖かい配慮に感謝しながらご覧いただければ幸いです。 

(画像をクリックして、大きな画面でご覧ください。)

 奥羽本線の難所のひとつが矢立峠です。大館から弘前までの44.2kmの内、大館から順に10‰、14.7‰と上りこう配が続き、陣場矢立峠間は25‰です。この難所も1970(昭和45)年11月に矢立トンネルが完成し陣場、津軽湯ノ沢駅も場所を移動して一直線の新線に付け替えられました。さらに翌年には電化と一部複線化もでき、難所が消え去りました。
 (なお余談ながら、この地図からは、大鰐・碇ヶ関・陣場・白沢各駅から沢山の林用軌道が施設されていたのが解ります)

   1965年当時の牽引機はC60(客車用)、稀にC61(客車用)、DF50(急行「日本海」、急行「第12津軽」、客車)、D51(貨物用)、補機はD51(弘前、大館機関区)でした。

 列車には下り及び上りの旅客、貨物ともに陣場-碇ヶ関間でD51の補機が付きます。長大貨物には大館から、さらに陣場からも付きますのでダブル補機です。碇ヶ関からの上り列車にはダブル補機が偶に見られました。急行「日本海」の牽引はDF50ですが、下りは大館から、上りは大鰐からD51補機が付きました。急行「第12津軽」に補機は付きません。

珍しいC61【仙】牽引の客車です。激しい吹雪の中でした。

 補機の方向転換は行われず、常に大館向きですから、矢立峠の下り列車は逆向きで後押しして峠を上ります。ダブル補機も同様です。C605の牽引とD51の補機で、客車列車が通過しました。

貨物は牽引・補機共にD51でした。これは短い編成です。

長大貨物には、大館から、陣場からさらにD51補機が加わります。トップと合わせればD51三重連です。

 

陣場駅舎の屋根は内も外も立派なツララでした。

 峠に矢立温泉があり、奥羽線鉄橋下の雪深い谷間にひっそりと眠っているようなたたずまいでした。画面上部と左端に見えるのが、それぞれ鉄橋と橋脚の一部です。1965年の大晦日の泊まりはここでした。真っ赤な鉄泉の為、手拭は旅館のものを使い、重くて長細い板でできた湯船の蓋を一枚ずつ捲って入浴した記憶があります。
 部屋の窓から鉄橋を行く列車が良く見えました。撮影したのですが窓枠が邪魔でうまく撮れませんでした。
 翌日
1966年の元日は、矢立峠の青森県側で撮影です。

ユースで巡った鉄道旅 -2-

宿泊第一号ユース

下関にある火の山ユースホステル、これが記念すべき第一号ユースでした。時は昭和42年3月、ウラ若き高校2年生にとってドキドキの一泊でした。

2週間に及ぶ九州一周旅行の最初の宿泊地で、当日は新大阪から急行「つくし」に乗り、糸崎区でC59・C62を写し、広島から夜行で初めての九州入り、若松・門司区で写したあと下関に戻り、まだ走っていた山陽電軌で御裳川(みもすそがわ)まで行き、山手にある火の山ユースホステルへ向かいました。

公営のユースで、設備・食事は申し分なし。さすがに高校生の一人旅にとっては、ユース名物のミーティングに参加する勇気もなく、ベッドの中で小さくなっていました。屋上から見ると、関門海峡を行き来する船舶の光跡が美しく、三脚で夜間撮影したことは覚えていますが、この頃は、国鉄型にしか興味がなく、乗車した山陽電軌の写真は全く写していないのが悔やまれます。検索すると、火の山ユースホステルはまだ営業を続けていることが分かりました。

 

直流電化の西端駅、下関はさまざまな列車が交錯する結節点として賑わっていた。午前7時、クハ181のトップナンバー車を先頭にした「第一しおじ」が、多数の見送りを受け、新大阪へ向けて発車するところ。東海道新幹線の開業で、151系が大挙して山陽本線に移り、一時はその181系がED73に牽かれて交流区間の博多まで乗入れしていたが、その後、交直両用の481系ができて181系乗入れは中止されている。下関を始終点とする特急は「しおじ」2往復だけにはなっていたが、客車列車は、必ず機関車の交代があり、下関の比重はまだ重いものがあった。

 

当時の下関には、こんな旧型国電も発着していた。下関発宇部線経由の小郡行き2958M、クモハ12024+クモハ41083+クハ16418という、宇部新川電車区の17mロングシート車・20mクロスシート車の混成編成だ。山陽本線を直通せず、宇部地域の中心駅である宇部新川を経由する列車で、現在でこそ、このような設定はないが、最近まで、同様の経由の列車は九州内から発着する421系電車などで残っていた。

 

山陽本線からC59・C62などの大形蒸機は消えてから久しいが、下関ではまだ蒸機が見られた。それは、山陰本線の客車列車を牽く長門区のD51で、とくにラッシュ時はまだD51の牽く客車列車が幅を利かせていた。下関発長門市行き842レ、D51692〔長〕。左は久留米発下関行き236M、クハ421-77ほか。

民國100年のはじめに、台湾へ2

 台湾でナローゲージ(五分仔車)のトロッコに初めて乗りました。台湾では、かつて精糖工場輸送のナローゲージ鉄道が数多くありましたが、現在ではほとんど役割を終えて、かつての日本の軽便鉄道のように廃線になっていきました。

 しかし、その一部は観光用に残り、中には蒸気機関車の運用を行うところもあります。 

 今回は、台湾糖業公司の2箇所、高雄花卉農園と圓林の溪湖花卉文化園區に行ってきました。

 

 高雄はMRTの橋頭糖廠駅からすぐ、往復切符のみで80元、始発は10時半から、あと11時半、13時半、15時半、16時半の最終まであり、帰りもそれぞれの30分後に出るパターンです。ただし、定期列車は土日のみで、平日は団体予約を受けることとされています。機関車の銘板を見るとドイツ製ということはわかりましたが、この手の車には全く知識がありませんのでわかりませんでした。トロッコはもとは貨車のようでしょうが、観光用に改造されています。路線は片道7分弱田舎道を走り結構本格的です。遊園地鉄道ではないので当然といえば当然でしょう。

 路線は、西部幹線としばらく並行するので、特急や鈍行電車からもよく見えます。特急(自強号)から眺めていると橋頭駅の手前で観光用塗装を施していない機関車がたくさん車庫に留まっているのが見えて「しまった」と思いました。また機会があれば撮影してみたいと思いました。

 

 次いで、圓林の溪湖花卉文化園區中心です。こちらは少し行きにくく、圓林駅を降りて左に暫く歩き、圓林客運(バス)の溪湖生きで30分程度まず乗ります。そこを降りてからさらに10分歩くと到着です。

 こちらは、かなり本格的で路線も片道約15分、9時の始発から16時30分の最終まで7本、うち2本は蒸気機関車による牽引です。初発の9時は私一人の貸切状態でした。高雄と同様切符は往復券のみで100元。土日のみの定期運行、平日は団体予約のみです。団体観光客も結構いるようでしたので、平日も走っていることと思います。ディーゼル機関車はロッドが懐かしい1967年の日立製でした。客車はやはり観光用に改造したものでした。車庫にオリジナルと思われる客車もあり、私にはそちらの方がよかったのですが、観光トレインですのでそうはいきません。

 

溪湖糖廠の五分仔車
溪湖糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
橋頭糖廠の五分仔車
溪湖糖廠のDL
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溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
溪湖糖廠のSL、1948年ベルギー製で現役
渓湖糖廠の廃車体
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民國100年のはじめに台湾へ

354次普快 金崙駅

354次普快 金崙駅

 成人の日の連休に台湾へ行ってまいりました。

 夜、台北に着くと結構寒い。ダウンジャケットやコートを着ている人も結構います。着いた日に夜行の急行(CK63次)で台東へ向かいましたが、車内の寒いこと。足元の暖房がほしいと思いました。ところが南の高雄や台南まで行くと日中はかなり暖かく、彰化駅の温度計は25℃でした。

 12月22日にダイヤ改正があり、花蓮台東間の普快199次、200次の旧型客車は復興型の空調付客車に置き換えられました。時間と列車番号はそのままで区間車となっています。西部幹線の復興号もなくなっており、このタイプの客車は余剰となったものと考えられます。

  あと、1月2日に新線の沙崙線が開業しました。これは台南から終点の沙崙まで全て通勤電車が走ります。終点の沙崙は高鉄(台湾新幹線)台南駅に直結しています。

 

 旧型客車ですが、南廻線(台東-枋寮)の2往復はそのまま残っていました。普快352次、353次、354次、355次全て2両編成で、割合は日本製とインド製と半々でした。南廻線は新しい線なのでトンネルが多いのですが、太麻里-大武の間は太平洋を眼下にとても気持ちのよい線です。ただし私が乗った1月7日は曇りでしたが。数年前まで旧型客車を冷房化して冷気平快として運用されていた35SPK2300型客車が加禄駅の構内に大量に留置されていました。

 旧型客車といっても製造は1970年前後、たたずまいは10系客車のようです。もしもスハ44の10系客車タイプがあればこのようになっていただろうという形です。シートはビニールクロスの回転式で、阪急6300系のような棒の足置きがあるタイプもあります。

 

 沙崙線にも乗ってみましたが、8日までは無料の体験乗車ができました。何と太っ腹のことと思いました。そのまま高鉄台南から新幹線で高雄まで戻り、釣掛式EMU1200型の自強号(特急)に乗ります。次いで週末だけ運用されているEMU300で始発の斗南から自強1024次で台北まで向かいます。EMU300も釣掛式車両です。これらの電車は釣掛式といえども特急車なので、空調固定窓、絨毯敷、リクライニングシートで快適です。EMU300はイタリア製でEMU1200も台湾で更新したとはいえ元は南アフリカ製、他の形式では日立や日本車両、韓国製もありなかなか多彩です。

 今回、日本製の最新振子電車TEMU1000型タロコ号にも乗ることができました。こちらは、JR九州の885系をもとに作られたことは有名です。実際よく似ています。台湾鉄路管理局はTEMU1000型を136両増備し、2012年から就役させるとアナウンスしています。

 

普快客車35SPK32700の車内
普快客車35SPK32700の車内
開業間もない紗崙駅
開業間もない紗崙駅
EMU1200型 高雄駅
EMU1200型 高雄駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型 斗南駅
EMU300型の車内
EMU300型の車内
タロコ号 TEMU1000型 台中駅
タロコ号 TEMU1000型 台中駅