こんなんあるでぇ

例によって撮った時期はあいまいですが、昭和48年1月頃です。同行者がいますので覚えていれば確定できます。

早朝に通勤客や通学客で混み合う?南大嶺駅

2009年 秋の中国一人旅 Paet10 鉄媒鉱務局 調兵山へ

第9日目  9月25日

今日も、モーニングコールより早く、4時に起きました。外はまだ真っ暗です。バスタブにゆっくりと浸かって、全身を目覚めさせました。

5:00に大明へ向けての、回送列車の始発があります。列車番号は、Hを頭につけたH111です。夜間撮影を試みましたが、前照灯が明るすぎて、ハレーションを起こしました。失敗です。真っ暗の中、出発していきました。
▲ 111が出発後の静かなホーム
▲ ようやく、薄明るくなりかけた、5:32に王千に向けて、YS1772牽引のPC5両の回送列車H211。出発直前まで連結せず、入念な検査を続けていました。 続きを読む

2009年 秋の中国一人旅 Part9 再び、鉄媒鉱務局 調兵山へ

第8日目  9月24日

旅も終わりに近づくと、ようやく緊張感が出てきました。遅すぎた感がありますが、5時のモーニングコールよりも早く起きられました。2日後に同じホテルに宿泊しますので、荷物は預けて、最小限の荷物を持って、チェックアウトしました。
6時30分発、調兵山行きのバスは、発車を待っていましたので、急いで、屋台の朝食を買い込んで、乗車しました。さすが、この時間に渋滞はありません。運賃は、25元(325円)、タクシーの10分の1以下です。

▲ この中型バスですが、最後部右座席前の席が、撤去してあり、広々とした特等席があります。乗車される方は、お薦めします。8:10には、調兵山駅から少し離れた、長距離バスターミナルに着きました。所要時間1時間40分です。
 鉄と同様タイプの、綺麗な調兵山バスターミナルです。
▲ チェックインした駅前ホテルの部屋から見た調兵山駅です。地平線には、ボタ山も見えます。


この時間ですと、大明・王千・大青から到着する列車3本を撮れます。タクシーで、駅に向かいました。まず、駅2階の旅行社で、2日分の撮影料を支払い、許可証を受け取りました。

天気も上々です。今日は、調兵山から、出きる限り徒歩で行こうと、線路沿いを歩き始めました。
▲ まず、やってきたのは、YS1770牽引の、大明から8:34着の104列車。

▲ 続いて、バック運転ながら、YS1771牽引の、王千から8:45着の204列車。日本では、こんな場所からの撮影は、今はできません。ここでは、線路=生活道路でもあります。機関手も慣れたもので、手を振ってくれます。気持ちよく撮影できるのが、鉄媒鉱務局線のいいところです。ただ、遅れたり、ダイヤの分らない貨物や業務車両も走行していますので、十分な注意が必要です。

▲ この後、調兵山~三家子間にホームもあり、全列車停車するのに駅無の無い駅に着くと、撫順炭鉱線で見たのと同じような業務用DCが走行してきました。
▲ 大青からの308列車は、東風4型7721が、5両のPCを牽引してきました。

一服後は、調兵山から、大明・王千へ向けて、走ってくるのを待ち受けます。朝のこの区間は、直線で、やや斜めからの順光で、バッチリですが、今日は、天気は良すぎて、温度が高く、SLは出発後には、直ぐに力行を止めてしまいますので、肝心の煙が出ません。やはり、冬場が良さそうです。
▲ 調兵山~三家子間の無名駅を出発する、YS1770牽引の、王千行きの203列車

▲ 次発のYS1771牽引の、大明行きの103列車

調兵山駅にも近いお薦め撮影地です。約3キロ、徒歩で40分程度です。邪魔ものもなく、直線が続いています。



その後、三家子から大隆まで2キロを歩きました。大隆では、東風5B型0039牽引の石炭貨物がいました。客車列車だけでなく、DL牽引ですが貨物列車も結構走行しています。

ここで、一旦、バスで調兵山に戻り、ホテルにチェックイン後、余分な荷物を置いて、しばし休憩しました。昼食後にタクシーで暁南駅に向かい、13:22発車の206列車を狙いました。
 ここでは、朝に大青から308列車を牽引していた東風4型7721が、単行で来ていて、206列車の10分前に発車しました。

▲ この7721号機は、大隆から14:45に橋南を通過して、暁南に戻りました。そして、15:40に15両の石炭貨物を牽引して、橋南から大隆へと向かいましたので、多分、大隆からは、渡り線を圣由して、中国鉄路の大青操作場へと行ったと想像できます。

これが、この機関車の運用なら、もし308列車が、SLの場合、貨物牽引も有りかも知れません。もう少し、機関車の運用を調べる必要が、ありそうです。

▲ 暁南駅を発車して、築堤を行く、YS1770牽引の206列車

▲ この後、線路沿いを橋南駅方面に約4キロを歩きました。途中で、朝見た業務用のDC1両が走ってきたので、トウモロコシ畑の中を走行するシーンをおさめました。

▲ ボタ山をバックに撮りたかったのですが、この頃より、雲天模様となり、霞がかってきました。夕焼けの中を走行するシーンも、期待できなくなっていました。
仕方なく、ホームの無い橋南駅で、17:20発の調兵山行き208列車を待ちました。

17:36 三家子で下車。28分間停車です。大明からの列車が、着いているはずでしたが、遅れていました。この時間は、調兵山から大青行きの列車も三家子駅に着きます。列車が、3本も停車する、夕刻のゴールデンタイムです。しかし、刻々と夕闇が近づいてきます。調兵山の日没は早いのです。

三家子~調兵山間の無名駅での発車も撮ってみたかったので、先に発車する列車に乗換えて向かいました。しかし、夜間撮影を試みましたが、デジカメでは初めてです。3列車を撮りましたが、停車時間も短く、お見せできるような写真は、撮れませんでした。未熟です。


▲ 闇世の中を調兵山駅に向かって歩き、ここで、夜間撮影の練習に励みました。帰国したら、福田大先生に教授してもらわないといけません。

明朝も、撮影チャンスは、たくさんあります。今日は、歩きまくって疲れました。明日は、タクシーをチャーターして、ピックアップした撮影地と、撮影時刻を再確認して、早めの睡眠としました。 Part10 へ続く

こんなんあるでぇ

昭和39年2月の備後落合駅。

木次線から芸備線に乗り換え広島へ出るまでの間、この駅で駅弁を買った。山間の駅に似合わない二段重ねの幕の内弁当に驚いたのを覚えている。

写真は芸備線を上ってきた8620+c58重連貨物

2009年 秋の中国一人旅 Part8 瀋撫城際列車

今日から、大リーグでは、プレーオフに、日本でもCSが始まりました。鉄道に次に、大好きな野球の熱戦に見入っています。旅行記のアップロードもあります。撮影にはもってこいの秋晴れが続き、待望の車が納車されたのに、中々、出て行く決心がつかず、迷っているぶんしゅうです。

第7日目 9月23日 その2

ジテを撮り終えた頃より、空模様が怪しくなってきました。ポツポツと雨が降り出したので、撮影場所を、留置線から検車区に変えて、凸型電機を撮っていると、職員の偉いさんから、許可なし撮影は、ダメと言う風な態度で、何か言われました。

600型は、主力のELだが、休車が目立っています。

600型のトップナンバー

多分、職員輸送用と思われます。

これは、珍品です。

ここでの撮影は、切り上げて、タクシーで来た未舗装の泥んこ道を、歩きました。まず。今の日本では、存在しないような悪路です。舗装された駅前道路とは、雲泥の差です。

しばらく歩くと、自転車タクシーが、昼食に自宅に戻ってきたのを見つけました。撫順駅まで乗りたいと言うと、2つ返事でOKが出ました。5元(65円)です。濡れなくて良いので、助かりました。乗ること、約30分で、撫順駅着撫順北駅も、みて見たかったので、頼みましたが、遠すぎるので、ここで降りて欲しいと言われました。仕方なく、ここからは、普通のタクシーです。撫順北駅までは、7元(91円)でした。


撫順北駅は、立派な駅です。中国には、約25年前から来ていますが、ここ5~6年の空港、鉄道駅の変貌ぶりは、驚くばかりです。何と言っても、ホームのかさ上げ工事が、進められたのは、旅行者にとって、乗り降りが、大変楽になりました。まだ、田舎の駅では、低いホームがあって、重いスーツケースを、エイヤャーと持ち上げるのは、誰もが難儀します。

駅正面右側が、切符売場です。ぶらりと、真新しい掲示板を見ていると、瀋撫城際列車の時刻表がありました。撫順北~瀋陽を走る区間列車です。現在時刻は、14:00、丁度、撫順北駅14:39発、瀋陽行きの列車があります。ラッキーです。

蒸気は、現在運行中です。下記は、計画です。今は、1編成が往復していますが、2編成に増車されたら、運行本数も増えると。みました。

これらを考慮すると、近い将来は、下記になります。作成してみました。こうなれば、瀋陽のホテルに宿泊して、朝夕の撫順炭鉱線を撮影して、日帰り可能です。

列車番号をメモって、窓口に向かいました。撫順北駅に停車する列車は、多くありません。しかし、切符売場は、他の駅の倍以上の広さがあり、天井も高くて、明るくなっています。営業している窓口は、10数ヶ所のうち、3箇所だけでした。待っている人も数名で、ガランとしています。

女子大生と思しき4人がいる窓口が、一番早そうに見えたので、後に並びながら聞いてみました。国慶節休みに4人で、どこかに行きたいようですが、中々、求める切符がありません。窓口の職員は、キーボードをたたいて、代替の列車を探してくれますが、モニターに出てくるのは、希望列車があっても、空席は、1~2名程度です。

田舎の駅です。のんびりしています。何度も何度も、諦めずに空席を探してくれています。これは、付き合いきれないと、彼女達に断ってから、今日のこの列車の切符を1枚欲しい。できれば1等車(軟座)を言って、メモを見せました。直ぐに発券されました。

瀋撫城際列車4396列車切符 1等車 17元(221円)

購入後、正面入口から待合室に入りました。入った正面には、『貴方が、瀋撫城際列車に乗ることを歓迎します。』とのスローガンの看板がありました。良く見ますと、2008年11月に工事着手、2009年7月30日公式開通営業開始。瀋撫城際鉄路全距離は66.1キロ、列車名は、『和諧号』、最高速度120km/h、最短所要時間49分。全区間には、18の駅がある。等々の紹介文が書かれていました。

まだ、開通してのホヤホヤです。14:07瀋陽からの折返し列車が、到着しました。そして、その車両は、昨年8月に、北京北駅から万里の長城へと向かって登場した『長城和諧号と同じ車両です。


この列車は、オリンピック前に、北京北駅に行き、乗車を試みましたが、丁度北駅がリニューアルオープン3日前で、乗車できなかった悔しい思い出があります。ここで、乗車できるとは思いませんでした。

出札は、発車10分前に始まりました。乗客は、数十名とわずかです。先頭車から、写真を撮りながら、ぎりぎりで乗車しました。
編成は、両端がプッシュプルのDLで、1等車3両+餐車+2等車3両の9両編成です。
NDJ30003A+ZY010068+ZY010069+ZY010070+CA080125+ZE010071+ZE010072
+ZE010073+NDJ3-0003B


大きな窓が印象的な車両ですが、餐車は、ひときわ大きい窓になっています。ただ、最短49分の乗車時間です。餐車は、必要ありません。
天井が高く、明るい広々とした車内は、とても快適です。1等、2等とも、CRH2(はやて型)の技術を応用した座席回転シートになっています。ピッチもまずまずです。

定刻に発車、新しく線路を引き直したのが、バラスの白色で分ります。高架線をゆっくりと走行します。撫順駅は、やはり停車しません。撫順炭鉱線と並行します。
乗客が少ないのは、宣伝不足と、本数が少なく、運賃もバスの10元(130円)と比べると割高なのが原因でしょうが、バスは、最短でも1時間30分前後かかります。両都市は、渋滞が多く、これからももっと遅れることは、必死です。これに比べると、この列車の乗り心地は、雲泥の差です。車内販売が、何回も来るので、ビールを2本も飲めました。

しかし、この線は、複線電化してあります。この車両よりも、CRH2(はやて型)を走らせた方が、もっと早く、到達時間も30分以下が、可能でしょう。3倍以上もの時間のかかるバスからの、利用者移動となる事は、北京~天津間の新幹線で実証済みです。頻繁に満席で走っているバスです。需要は十分ありますので、数年後に来る時は、そうなっているでしょうね。


瀋陽到着後
、ホームで撮影をしていると、公安から注意されました。普段、こういった事は、あまりありません。やはり、建国60周年という国慶節が近づいているので、かなりナーバスになっているのでしょうね。好き好んで、注意しているとは、思えませんでしたので、目に入らぬように撮ることにしました。

明日からは、1泊2日の調兵山行きです。早く起きられるように、朝5時のモ-ニングコールを頼みました。 Part9 へ続く

2009年 秋の中国一人旅 Part7 ジテ発見!

祝 鉄道の日
皆様方は、どのようにこの記念日をお過ごしでしょうか。  
   

第7日目  9月23日 その1
人の不幸は、酒飲みには、格好のアテです。昨夜の反省会は、失意に反して、大いに盛り上がり、今日も緊張感不足の出発です。ジテを探しての撫順行きです。

▲ いつもの瀋陽駅前バスターミナルに向かって歩いていると、途中の街角に、何と調兵山行きのバスが止まっていました。乗務員に聞くと、6:30~18:30の間、約40分間隔で運行していると言います。では、バスターミナルに記載されていた時刻表は、一体何だったのか? 不思議です。明日は、調兵山へ1泊2日の撮影予定です。直通バスがあれば、これが1番です。 続きを読む

2009年 秋の中国一人旅 Part6 再び調兵山へ

国内撮影旅行向けに、4WDでオフロードOK、どこでもキャンピングできる車が、納車されました。ローカル線は、列車本数の激変から、朝夕しか撮影チャンスがない事が多くなりましたが、これで、早朝や夕刻でも好きな場所で、撮影できます。写真撮影の腕が上がると良いのですが、やはり、センスの問題解決には、持って生まれたものがあります。感性には、自信がありませんので、行動力で補うしかありませんが、老力には、限りがあって、これも難しい。
しかし、難しいばかり言っていると、何もできませんので、動き始めます。秋の紅葉前線も始まっています。追いかけての、撮影レポートをご報告したいと思っております。

第6日目その2 9月22日

思いもかけず、鉄煤蒸気機関車博物館を見学できた後、約20分で、14:20に調兵山駅に着きました。丁度、この時刻は、14:26に大青へ、14:39に大明へ、14:51には王千への3本ものSL列車が、発車する良い時間です。YS1770,1771,1772と連番で、3両が止まっていました。

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2009年 秋の秋の中国一人旅 Part5 鉄媒蒸気機関車博物館

第6日目 9月22日 その1

昨日と同様、快晴の朝を迎えましたが、今日も寝過ごしました。いつも撮影旅行中は、夜明けとともに行動を開始していますが、どうも今回は、緊張感が足りません。

今日の行き先は、調兵山と決めていたのですが、先日バスターミナルで、調兵山行きの時刻表を見ましたら、13:20発の1日1本だけの記載しかありませんでした。確か、インターネットで見ると、1時間に1本ぐらい出ているとあったのですが…。また、聞けばよかったのですが、鉄嶺市までバスで行って、調兵山行きのバスに乗継利用する事にしました。今回、これが正解でした。

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2009年 秋の中国一人旅 Part4 撫順炭鉱線へ

今朝は、大型台風18号(Melor)が、知多半島に上陸、本州を横断し、大きな被害をもたらしましたが、皆様方は、大丈夫でしたでしょうか。避けられない自然災害とはいえ、不幸にも被害に遭われた方々に、お見舞いを申し上げます。

第5日目 9月21日

昨日は、調兵山のSLが無事走行している事が確認できました。と、なると、次の確認事項として、今年度で閉鎖が決まっていて、運用は激減するだろうと、言われている撫順炭鉱線を走るジテの現状です。これが分からないと、今後の予定が立てられません。SL撮影料3日分を支払っていますが、こちらの方が先行しなければと、まず陽駅に行きました。

できれば、列車で行こうと思いました。瀋陽~撫順間には、時刻表には、掲載されていない区間列車が、未確認ですが、走行しているそうです。切符売場は、長蛇の列ですので、走行しているのかどうかを聞くには、30分以上並んで、待つ事が必要です。
長い時間を待つのは、面倒です。駅のキヨスクおばちゃんに聞いてみる事にしました。しかし、私の言っている事は、理解してくれたのですが、おばちゃんが返答してくれている意味が、さっぱり分かりません。何度も聞き直していると、わざわざ職場を離れて、私の前まで来てくれました。そして、駅正面を指さして、行ってみなさいと言っています。


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2009年 秋の中国一人旅 Part3 調兵山へ

今日、10月3日は、中国では、旧暦8月15日の中秋節を迎えています。この満月の祭りは、9~10世紀頃から始まったと言われています。古代中国の皇帝が、秋の季節にお月見を祭る礼から由来します。

中秋節は、自宅で、月餅を食べたり、名月を楽しんだりして、家族円満を祝う日です。中国人にとっては、家族の親睦や民族の団結、国家の統一を祈念する願いの日でもあります。中国の新年(春節)に次いで重要な年中行事です。今回の旅先でも、これでもかというほどの月餅が、街中で売られていました。値段は、1個1元前後の庶民用から、100元もする高級贈答品まで、さまざまです。飲食店では、年間の売上利益の大半を稼ぐそうです。

これが、日本に伝わり、月見団子になったのでしょうね。今夜は、晴れて満月です。皆様方は、どんな名月の夜を楽しんで、おられますでしょうか。

第4日目 9月20日

約36時間余りの夜行寝台列車の旅を満喫して、瀋陽駅に降り立ちました。瀋陽駅、中文では沈阳站(シャンヤンジャン)は、南満州鉄道時代の1910年に奉天駅として、完成しました。沈阳市は、遼寧省の省都であり、人口約740万人と、中国東北部の最大都市です。 続きを読む

2009年 秋の中国鉄路一人旅 Part2 瀋陽へT186

『慶祝 新中国誕生60周年』
今日は、10月1日、中華人民共和国の国慶節です。特に今年は、建国60周年を迎えると言うことで、連日これでもかと、祝日に備えての準備等の様子を、TV放映していました。ホテル、商店、食堂は勿論、街路灯にも赤い国旗が、掲げられています。パトカーも多く、街中、公安官だらけで、警備も厳重です。日本人の私には、関係ないわと思っていたら、後日えらい目に会いました。

第2~4日目 9月18日~20日

深圳20:18発、瀋陽行きのT186列車発車まで、十分な時間があります。今後の予定は、切符が買えてからで良いと思っていたので、瀋陽のホテルをインターネット予約したりで、疲れない程度に街をウロウロしました。
乗車前の1時間前までに駅に行けば良いと、夕食を裏町で食べて、ゆっくりとしていたら、タクシーが拾えません。そうだ、深圳の夕方からは、道路が渋滞するので、空車が拾えないのを、すっかり忘れていました。ドジの始まりでした。重いスーツケースを持って、遠い地鉄駅まで向かいました。

それでも、地鉄に乗ってしまえば、わずか1駅3分です。発車40分前には待合室に入れました。夜行列車は、大体30分前に改札が始まります。まだ、家族連れは少なく、学生らしい若者が多数です。にぎわう様子を撮っていたら、早速、公安官の撮影禁止の声が聞こえました。

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JR日光線の旅 (Ⅰ)

東武日光線の「特急スペーシア」、新宿~東武日光間のJR、東武相互乗入れの「特急日光、きぬがわ号」の影に隠れて影が薄いJR日光線であるが、東北新幹線宇都宮経由で日光に行く乗客が、ジャパンレールパスを利用する外国人観光客を中心に意外多く存在する。また「青春18」のシーズンになると日本人の観光客も増加する。また、日光市、鹿沼市と県都宇都宮市を結ぶ都市間連絡路線の役割を持ち、宇都宮市への通勤、通学、買い物等の利用客も多い。日光線を観光路線としての魅力を高めるとともに、沿線の活性化を目指し、日光、下野大沢、文挟の各駅の整備と107系の塗装変更が行われている。そんなJR日光線を8月21日(金曜日)夏休みを取り「青春18」で見学した。

いつもの出勤時と同じ時間に家を出て、午前中は烏山線に乗るか、黒磯で交流電車を見るか迷ったが、烏山線は5年前に行った時と変化がないため黒磯に行くことにした。赤羽から乗車した湘南新宿ラインE231系15連(1610E)から宇都宮で211系5連(1545M)に乗換え、黒磯で暫く待つと郡山発の2123Mがロングシートのクハ700-1251+クモハ701-1251の2連で到着した。黒磯から先の東北本線はED75が10両位の客車を引いていたことを知る世代にとっては誠に寂しい限りであった。折り返しの電車まで駅の外に出ると東野交通「那須ロープウェイ」行が、元大阪市交通局の南港コスモスクエアのシャトルバスとして使用されていたバスで到着した。平成の1桁頃、登山で利用した時には元京阪バスの京都定観で走っていたバスが、塗分けをチョット変えただけで車内の成田山のお札もそのままで走っており、乗物には全く興味のない嫁さんまでがビックリしていた。それも1両や2両ではなく、1形式1両、1形式2両の珍しい車両も含めて12両も在籍していた。

 

上/クハ700-1025+クモハ701-1025 下/クモハ700-1025 天下の東北本線の普通列車が2両編成とは寂しい。

【たまにはバス① 東野交通の元大阪市バスと京阪バス】

 

栃木221167 元大阪市バス南港コスモスクエアシャトルバス(4年式PMP618P

 

栃木2284  元京阪バス定期観光 京22225554年式RC321P

                                             

2285  元京阪バス定期観光 京22253355年式RC321P

 

栃木22460  元京阪バス定期観光 京22324658年式PRC721P)/京阪バスでは1型式1両の車であった。

 

栃木22464  元京阪バス京都定期観光 京22324458年式PRC321P)/京阪バスでは1型式2両であったが車体メーカーが異なっていた。

ここで取り上げた元京阪バスは既に廃車されている。京阪バス時代の登録番号は車台番号から割り出した。

11時55分発の1550Mで宇都宮に戻り、乗車予定の日光線13時33分発845Mまで駅の外に出ると関東自動車の元大阪市バスがきた。845Mは2両編成でクハ107+クモハ106の2連で部活帰りの学生で満員であったが、鹿沼と今市でまとまった降車があり、日光到着時には座席の半分が空いている状態であった。

【たまにはバス② 関東自動車の元大阪市バス】

 

宇都宮2007065年式ULV224K

 

宇都宮2007936年式UHU2MLAA

 

宇都宮2007986年式ULV224K

帰りの852Mまでの1時間、JR、東武双方の日光駅を見学したが、JR駅と東武駅のほぼ中間地点に新宿、東武日光間の直通運転の記念プレートが設置されていた。852Mは4両編成で、外国人観光客、「青春18」の客で座席が半分位埋まった。当初の予定では文挟駅で途中下車して、改築された駅舎を見学する予定であったが、外の蒸し暑さを想像するだけで下車する気がしなくなり、そのまま宇都宮まで乗車して帰った。「青春18」で出かけると、天候と気分次第で「また今度」と思ってしまうのは年の所為であろうか。帰宅後、文挟駅と下野大沢駅の改築状況が気になり、9月9日(水曜日)改めて確認に行く羽目になった。

歴 史

日光線の歴史は古く、明治23年6月1日、日本鉄道日光線として宇都宮~今市間を開業、同年8月1日今市~日光間が開業した。明治39年11月「鉄道国有法」により国有化され、国内各地から日光に行く唯一の手段として活況を呈していたが、昭和4年10月東武鉄道日光線が全通すると競合関係になり、従来より所要時間を1時間も短縮した上野~日光間を2時間27分で結ぶ準急列車が登場した。ちなみに、東武特急の浅草~東武日光間の所要時間は2時間18分であった。

戦時体制の強化により、「準急」「東武特急」ともに消滅したが、戦後、世の中が落着くと再び競争が激化して、昭和25年6月上野~日光間の臨時快速を運転開始、昭和31年には当時開発されたばかりのキハ44800形(後のキハ55)による準急「日光」の運転開始。昭和33年4月には電化が完成。昭和34年9月、151系並の装備を有した157系「日光形」が落成し、準急「日光」を置換えた。昭和44年4月、157系が「日光号」から撤退し急行型の165系に置換え。昭和57年11月のダイヤ改正で急行「日光」が廃止され定期の優等列車は消滅した。以降、国鉄→JR東日本は、東北新幹線宇都宮乗換え日光線ルートをPRしていたが、東武に比べると所要時間では勝るものの、乗り換えの煩わしさと高額な運賃が災いして東京周辺の人は東武の利用が一般的であった。平成18年3月18日のダイヤ改正より栗橋駅の東武、JR間に設置された渡り線を経由してJRと東武の相互乗入れにより、新宿~東武日光・鬼怒川温泉間の直通運転が開始された。これによりJR東日本は日光線の観光客輸送を諦めたかに見えたが、今回日光線を観光路線として再度見直しすることになったことは喜ばしい限りである。

【現 状】

宇都宮~日光間24往復(朝の1本は小金井始発)、宇都宮~鹿沼間4往復運転されている。朝夕は宇都宮~鹿沼間で最少18分まで間隔が縮まるが昼間は1時間間隔である。営業キロ40.5km、中間駅は鶴田、鹿沼、文挟、下野大沢、今市の5駅で、全駅交換可能である。鶴田~鹿沼間は9.5kmと長く、鹿沼市とJRにより中間駅を設置する計画があるが、住民からは「そんなとこに駅作っても誰が乗るねん」という意見があり、かつての栗東新駅と同じ構図である。文挟が無人の他は有人駅で下野大沢は委託駅である。

宇都宮駅の標高が約150mに対し日光駅の標高は533mである。宇都宮~鹿沼間はほぼ平坦線、鹿沼~今市間は10~20‰、今市~日光間は20~25‰の勾配が続き、旧形時代はモーター音高らかに登っていったが、107系は120KWのMT54のモーター音も軽やかに勾配を登っていく。文挟~下野大沢間は牧場の直ぐ横を走る区間があり、中に入れてもらえれば牛を入れての撮影が可能である。

競合路線として、宇都宮駅~日光東照宮間に関東自動車がほぼ1時間に1本運転されているが、途中のルートが日光線とは異なり、運行距離が長いため行楽シーズンは交通渋滞に巻き込まれやすいのと、運賃がJRより高いので通しで利用する人は少ない。以前は30分間隔で運行され、元観光バスの車両を使用していたが、現在は通常の路線車である。宇都宮~鹿沼間はラッシュ時10分、昼間20分間隔で頻繁に運転されており、運賃はJRより高いが、両市の中心部を通りドアtoドアで利用できるため乗客が多い。宇都宮、鹿沼ともに市の中心部は東武の駅付近で、バスはJR宇都宮駅から東武宇都宮駅、JR鹿沼駅の近く通り東武新鹿沼駅の少し先の新鹿沼出張所が終点である。以前は昼間も10分間隔で運転されていた。また、宇都宮~鶴田間は市内線のバスが頻繁に運転されている。

全くの余談であるが、東野交通のバスは東武宇都宮駅が始発でJR宇都宮駅を経由して各方面に運転されており、鉄道では大回りになる宇都宮~真岡、宇都宮~益子間は利用者が多く、本数もそれなりにある。面白いは宇都宮方面行の方向幕で「東武宇都宮」ではなく「宇都宮東武」と表示されている。京都市バスや京阪バスの「三条京阪」と同じ思想であろう。ところが江若鉄道のバスは「京阪三条」となっていた。宇都宮~茂木間もJRバスが運転されており、こちらもそこそこの本数があり、かつては茨城交通茨城線の終点御前山まで、更には水戸駅まで行く便もあった。

 

シックな佇まいのJR日光駅

 

上から正面玄関、待合室、駅名板、4カ国語で書かれた団体出口の案内板

 

ロッジ風の東武日光駅

 

相互乗入れ記念プレート(双方の日光駅の中間地点にある)

 

改築された下野大沢駅

 

改築された文挟駅 

下野大沢、文挟の両駅が改築されたのは、元々駅舎が老朽化しており改築の時期にきていたのと、規模が小さく簡単に改築が可能であったためであろう。鶴田、鹿沼、今市の各駅は規模がそれなりに大きいため当面は現状のままと思われる。

JR日光線の旅 (Ⅱ)

引き続き車両について解説する。

「小山車両センター」に日光線専用車両として、クモハ107+クハ106が8編成(1~8)16両配置されている。レトロ調への塗装変更が進行中で、9月9日時点では1、2、5の3編成が完了している。旧塗装は日光線の「N」をデザインした塗装で決して悪くはないと思っている。編成は2両、4両が主体で、日光行の終電と日光発の初電は6両といわれているが確認はしていない。昼間の1時間ヘッドの時は2両と4両編成が各1本ずつ2本で運用され、朝夕は2両、4両編成が各1本ずつ加わり4本で運用される。この編成は昼間宇都宮駅南側の留置線にパンタが上がった状態で停められている。

107系は、日光線と両毛線等の北関東地区のローカル線用として、昭和63年から平成3年にかけて急行形の165系の台車、主電動機、冷房装置等の主要部品を流用して国鉄工場(当時の大宮、大井、大船、新津、長野の各工場)で製作された電車で、経歴簿上は改造車ではなく新車扱いである。日光線の8編成は、165系の置換え用として昭和63年6月から順次投入された。クモハ107-4~8の5両は新製時より前位に霜取パンタを装備し、1~3も翌年追加された。高崎区の配置車両は霜取パンタがなく耐雪ブレーキを装備しており100番台に区分され101~119の19編成38両が在籍する。101~105は0番台と同じ窓配置であるが、平成元年9月以降製作の106~119は戸袋窓がなくなり扉間大窓3枚となった。日光線用の0番代とは併結可能で、時折小山区に貸出され日光線を走っている。 

座席はセミクロスシート対応の窓配置であるにもかかわらずロングシートで、観光客の多い日光線、吾妻線、上越線を走るのに何故オールロングにしたのか疑問を感じる。現在では不要となったが高崎区の車両は横軽通過対策がされており、方向幕には長野、軽井沢、石打、越後湯沢が入っている。前述の横軽通過対策と併せて、臨時列車等で使用する予定があったのであろう。高崎区で高崎~黒磯間を直通する運用が1往復存在する。

 

クハ106-3+クモハ107-3+クハ106-2+クモハ107-2  日光

 

クモハ107-1+クハ106-1+クモハ107-2+クハ106-2 日光

 

クハ106-7+クモハ107-7+クハ106-3+クモハ107-3  文挟

 

クハ106-5+クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-6+クハ106-6  文挟

 

クモハ105-5+クハ106-5  宇都宮

【参考】高崎区の107系

 

クモハ107-101+クハ106-101  横川行(20.12.22高崎駅)

 

クモハ107-109他4連 桐生行(20.12.22高崎駅)

 

クハ106-106+クモハ107-106  高崎行(21.1.8 群馬八幡~安中)

旧形国電末期の日光線

オール旧形時代の昭和42年と43年、東武日光軌道線の撮影に行った時に乗車しているが何故か撮影していない。恐らく乗車したのが撮影可能な時間でなかったかも知れない。末期の47年12月から51年1月にかけて5回宇都宮駅で撮影している。

昭和44年3月末の国鉄車両配置表によると、小山電車区の旧形国電の配置は、クモハ41038、045、096、113、クモハ40054、クハ55400、サハ57049の7両で6両使用1両予備であった。

当時の運用は下記の通りであった。

小金井(回送)宇都宮21:50(845M)日光着22:31()5:18(822M)宇都宮着5:566:05(821M)日光着6:507:00(824M)宇都宮着7:457:56(825M)鹿沼着8:118:16(828M)宇都宮着8:31(回送)小金井

編成記録

←宇都宮

47.12.12 55400+41045+41096+41038+57049+40054

48.5.13   55400+41096+40054+41045+57049+41113

51.1.4    40054+41113+57049+41045+55400+41096

 

昭和47年12月12日の編成

各車両について

 

クモハ41038(昭和12年11月新潟鐵工製、昭和52年1月25日廃車)

                                                                    

クモハ41045(昭和13年10月日本車輌製、昭和51年5月28日廃車) 

 

クモハ41096(昭和10年6月日車支店でモハ40129として新製、11年4月40049に改番、昭和19年7月片運化改造で41096に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

クモハ41113(昭和11年2月日本車輌でモハ40066として新製、昭和19年8月片運化改造で41113に改番、昭和52年1月25日廃車)

 

クモハ40054(昭和10年6月田中車輌でモハ40134として新製、11年4月40054に改番、昭和51年3月新性能化後国府津電車区の職員輸送用として使用、JR東日本に引継がれ、平成19年5月から青梅鉄道公園に展示保存)

 

クハ55400(昭和10年6月汽車支店でクハ55110として新製、11年4月55030に改番、42年5月55400に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

サハ57049(昭和8年8月日本車輌でサロハ56002として新製、昭和18年3月戦時改造で57049に改番、昭和51年5月28日廃車)

2009年 秋の中国鉄路 一人旅 Part1 旅立ち

今年は、5月の台湾鉄路全線乗車の後、6月には、広州→深圳→香港→上海→杭州→天津と、早くから、暑い旅を続けましたので、疲れた老体を休めておりましたが、夏も終わり、秋風が心地よい頃となると、じっとできなくなっってきました。
ストレスは、身体に悪いので、ぼちぼちどこかへ行こうと、計画を練っていましたら、いつものように、家の用事ができて、行けません。オープンにしてある航空券の手配をしようとすると、今度は、『鉄道撮影に便利な、ご希望のキャンピングができるる中古車が、見つかりました。』と、電話がきました。車を見に行ったり、登録手続き等々で、また出られなくなってしまいました。仕方ありません、またまた、計画なしに、とにかく出かけてから行程は決めようと、出発の前々日に決めました

とりあえずのフライトの到着地を迷っていました。ナローゲージのSL芭石鉄道も良いし、早川先輩が満州に行かれて、遭遇されたジテを私も見てみたい。調兵山のSLも再会したいと、迷いに迷った末、瀋陽行きを申し込みましたが、オープンにしていた航空券は広州行きで、以前にはできた経路変更がJALの都合で、できなくなっていました。
こうなれば、意地でも瀋陽を目指そうと、中国鉄路の時刻表を見ますと、深圳から瀋陽北行きの列車が、1本あります。しかし、国慶節(中国の建国記念日)休みが近く、この切符が購入できるかは、分かりません。なかったら、なったらで、成混鉄路や、海南島への鉄道連絡船もあると、楽観的に考えて、出発する事にしました。

しかし、JALに電話すると、あれほど空席が続いていたのに、『当日は満席です。前日はあります。』との、思いもかけない返事です。仕方ありません。大急ぎで、旅支度をして、翌日には関空へと向かいました。

第1日目 9月17日

広州からは、CRHで深圳へと向かい、到着後、直ぐに、切符売場に並び、後席2席を、残すのみの瀋陽行きの軟座寝台切符を、手に入れることが、できました。

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893-2さんへ質問

トップタイトルの写真が紀州鉄道に変わりましたが、「まもなくお別れ・・・」と気になるキャプションがついています。

まもなくお別れは紀州鉄道なのかキハなのかどちらでしょうか?

よろしくお願い致します。

久留里線の旅

8月12日(水曜日)夏休みを取り、「青春18」を利用して久留里線に乗車した。東京都内の千葉県に最も近いところに住みながら久留里線は初乗車であった。他にも小湊鉄道の上総牛久~上総中野間、いすみ鉄道全線が未乗区間として残っているので近々乗車したいと思っている。

今回の目的は、久留里線の乗車のみであるため、いつもより1時間以上遅く、8時に出発。仕事で千葉市や市原市に行く時は、金町から千葉まで京成で行くが、今回は新松戸から武蔵野線、西船橋経由千葉へ。千葉駅で降りると9時32分発木更津行(155M)が湘南色に塗り替えられた113系4連+スカ色の4連で停車しており乗車予定の電車を1本遅らせて撮影。撮影後この電車に乗ったが、間に合うと思っていた木更津駅10時6分発の上総亀山行(929D)にタッチの差で接続しないことが判明し、一旦蘇我で降りて駅撮りをすることにした。京葉線の201系、205系の初期車、電留線のE257系を撮影後、横須賀線から直通のE217系15連で木更津に到着。車両基地(正式名称は幕張車両センター木更津派出所)に、旧国鉄色に塗り替えられたキハ3098が停まっており、駐輪場から撮影した。エンジンが駆動しており、次の運用に入ることは間違いなく、時刻表を確認の上、帰りに久留里駅で撮影することにした。

11時52分発上総亀山行(931D)は、キハ381002+キハ384の2連で座席ほぼ満席であった。次の駅は「祇園」。住宅街の無人駅であるが、由来は京都の「祇園」から来ており、平 影清が京を偲んで住居のあった付近を「祇園村」と呼んだと伝えられている。京都出身者としては、ストレートに「祇園」ではなく「上総祇園」にしてもらいたいところ。上総清川、東清川と棒線の無人駅に停車して、次の横田は交換駅であるが、対向列車はなくタブレットを交換して直ぐ発車。東横田、馬来田、下郡、小櫃、俵田と棒線の駅(馬来田が簡易委託の他は無人)が続き、ほどなく久留里に到着して上りの木更津行(キハ371002+キハ383)と交換。駅の手前に県立高校があり、ここの通学客が久留里線最大のお得意様である。この先の乗客は数える程で、山間部に入り、平山、上総松丘と棒線の無人駅を過ぎ、トンネルを抜けて終点の上総亀山に到着した。降りたのは約10名で、同業者が1人、親子鉄が2人、亀山温泉に行くと思われる観光客が2人、残りが地元客で、おばさん1人が駅前から黄和田車庫行のバスに乗り継いだ。一昨年まではここから安房鴨川行の路線バスがあり、房総半島の横断が可能であったが、千葉駅~安房鴨川間の高速バス「カピーナ号」が途中からローカルバスに変身して役割を引き継いでいる。(バス停は駅前にはなく徒歩5分位のところにある)折り返しの938Dまで1時間以上あり周辺を散策して時間を潰した。

帰りは旧国鉄色のキハ3098を撮るため久留里で一旦降りたが、ここでも待ち時間が約1時間あり、久留里城を見学しようと思ったが、片道30分もかかるので周辺の散策に切り替えた。久留里止まりの937Dは、予想通りキハ3098+キハ381001であった。駅舎側の上総亀山方面行のホームに停まったので、駅長氏に上りホームから撮影してもよいか尋ねたところ「向こうのホームには行かないで」とのこと。同業者が5名程おり、一般客も携帯電話で盛んに撮影していた。そのキハ30であるが今時珍しい非冷房車であった。横田での交換はこちらが先着で、3分停車のため急ぎ下りホームから撮影したがモロ逆光であった。交換した下り列車はキハ372+キハ381であった。

木更津到着後、折り返しの941Dを駅の千葉寄りの踏切で撮影するべく時刻表を確認すると、内房線の198Mと同時発車である。加速は電車の方が良いので先に通過するだろうと思ったが、電車は8両編成のため、タッチの差でキハ30は撮影できなかった。今回の主目的は久留里線の乗り潰しであったが、千葉駅で湘南色の113系を撮影したため乗車が1本遅れてしまい、走行写真は撮影できなかった。次の「18」の時には走行を中心に撮影したいと思っている。横田~東清川間の小櫃川鉄橋あたりが狙い目と思われ、馬来田までは日東交通の路線バスが並行して走っているため利用可能である。久留里以遠の山間区間は、景色は良いが列車本数が少なく時間のロスが大きいのが難点である。

 

湘南色のマリ117編成(Tc111-2152M113-2072M112-2072Tc111-2056)千葉

 

クハ201-110他10連  蘇我/関西ではリニューアルされて新車のような顔をして走っている201系であるが、JR東日本では京葉線に10連×4本、中央線に10連×2本の60両が残るのみ。

 

クハ205-3他10連  蘇我/205系の1次車で窓が上段下降、下段上昇の2段窓が特徴

上総亀山駅で折り返し発車待ちのキハ384+キハ381002

 

上総亀山駅

 

黄和田車庫行の君津市コミニュテイーバス。道路交通法80条適用のため白ナンバー。

久留里駅

 

横田駅で交換したキハ372+キハ381

 

木更津駅を発車したキハ3098+キハ381001であるが、同時発車の電車のためキハ3098は撮れなかった。

歴 史

明治43年6月千葉県の臨時県議会決議で千葉県営久留里軽便鉄道として建設が決まり、大正元年12月28日、木更津~久留里間を762㎜で開業。大正12年9月1日、関東大震災による被害の復旧費の増大と大正11年に制定された改正鉄道敷設法の「木更津より久留里、大多喜を経て大原に至る鉄道」のルート上にあるため無償で国に譲渡され、鉄道省久留里線となった。昭和5年8月20日762㎜から1067㎜に改軌。昭和11年3月25日久留里~上総亀山間が延伸開業したが、昭和19年12月16日不要不急路線として休止され、昭和22年4月1日営業を再開した。

現 状

木更津~上総亀山間13往復、木更津~久留里間4往復、計17往復運転されている。終日ほぼ1時間間隔であるが時間帯により2時間近く空くことがあり、本数が減る久留里~上総亀山間はその傾向が強い。

首都圏では珍しくタブレット閉塞方式を採用しており、交換可能駅は横田と久留里の2ヶ所のため最高3列車しか運行ができない。以前は馬来田、小櫃、上総松丘も交換可能で、駅構内やホームにその痕跡が残っている。乗客は通勤、通学での利用が多く、特に久留里の県立高校の生徒は他に公共交通機関の通学手段がない。列車の編成は平日ラッシュ時3~4連、昼間2連で、学休期は終日2連である。但し、行楽シーズンの休日は昼間でも4連になることがある。昼間は乗客が少ないためワンマン化されても不思議でないが、全便ツーマンで運行されているのは、人員削減に反対している千葉動労との関係であろう。久留里線に限らず千葉支社管轄の各線では、3月中旬に毎年のようにストライキが行われ、間引き運転や運休が行われるが、久留里線は運休となる。

地元の人は久留里線のことを「パー線」と呼んでおり、語源は「久留里線」→「クルクルパー線」→「パー線」から来ている。速度が遅い上、本数が少なく不便であることから、このような表現になったのであろう。

車 両

幕張車両センター木更津派出所にキハ30形3両、キハ37形3両、キハ38形7両、計13両が配置されている。いずれも久留里線のみで見られる形式である。

キハ30形(62、98、100)

昭和36年~41年に非電化通勤路線向けに製作されたキハ35、36の両運転台バージョンである。キハ35(片運トイレ付)が258両、キハ36(片運トイレ無)が49両、キハ30(両運トイレ無)が106両、合計413両作られたが、JRで生き残っているのは上記3両のみである。98は旧国鉄色に塗り替えられ7月4日から運転され、残り2両も塗装変更される予定である。今時珍しい非冷房車である。

 

キハ3896/上 木更津、下 横田

キハ37形(2、1002、1003)

キハ37形は、昭和58年地方交通線用の量産先行車として新製された気動車で、1、1001が新潟鉄工、2、1002、1003が富士重工で新製され、前車が加古川線、後車が久留里線に配置された。1、2はトイレ付で1000番台はトイレ無しである。その後の増備はなく5両の新製で終わってしまった。加古川線の2両は山陰の後藤総合運転所に転属し、山陰本線、境港線で使用されたが今年1月に廃車となった。久留里線の3両は平成10年に冷房改造され引続き使用されているがトイレは閉鎖されている。

 

キハ371002/久留里

キハ38形(1~4、1001~1003)

昭和61年から62年にかけてキハ35の改造名義で台車、主要部品を流用して、トイレ付4両、トイレ無し3両の計7両が国鉄工場で作られた。

当初は高崎区に配置され八高線で使用されていたが、平成8年3月、高麗川~八王子間電化時に、非電化区間の高麗川~高崎間の車両も新系列のキハ110系に置き換えられたため、久留里線に転属してきた。冷房は改造当初から付いている。トイレは閉鎖されている。

 

キハ383/久留里

 

キハ381002/上総亀山

小櫃駅の直ぐ近くの公民館にC12287が保存されているのが見える。ちなみにC12287は昭和22年9月日本車輛製で当初後藤寺区に配置され、その後鹿児島区に転属し、昭和59年6月南延岡区で廃車となった機関車で、今回は時間の関係で見に行けなかったが、次回は是非訪れたいと思っている。久留里線の気動車化以前や貨物列車にC12が使用されていたということで保存されている。

韓国1971年その5(総括)

 韓国1971年その5は総括と言うよりはこれまでの積み残し分です。まず、コダックのネガカラーで撮った慶州の入れ替え中のディーゼル機関車とミカ3蒸機、そして客車です。保存状態が悪い上に次に続く白黒も含め、パソコンの操作技量も低く、見辛くて申し訳ありません。

1971.4.23 慶州

1971.4.23慶州

1971.4.23慶州 1971.4.23慶州

 

1971.4.26 ソウル近郊 客車

ソウル近郊で見た客車。窓の形が何となく京阪の貴賓車16に似ている。

1971.4.26旧ソウル駅舎

 ソウル駅舎と当時の市民。1925年完成で東京駅に似た赤レンガ建物は新ソウル駅完成の2003年まで使われていたとか。

1971.4.25南山

 南山に保存されたソウル市電。

1971.4.26 水原

 鉄道近代化PRボード。日本の鶴見川付近を行く20系ブルートレイン。

1971.4.24 東大邱

 1971年4月には韓国大統領選挙が行われた。画面が小さくて恐縮ですが、一番右が再選を果たした朴正熙氏。その隣りが、先日死去し、23日に国葬が行われた金大中氏。初挑戦で惜敗とのこと。その後の拉致事件、死刑判決、南北首脳会談、ノーベル平和賞受賞は最近の新聞等でご存知のとおり。当時、選挙ポスターは白黒であった。

豊橋鉄道田口線

湯口先輩の【3776】「1953年高校生東京へ その9(最終回)」で、豊橋駅で撮影された「田口鉄道モハ36」の画像について、【3825】でK.H生さんよりコメントあった。田口鉄道→豊橋鉄道田口線は、昭和41年3月23日、京阪沿線の高校在学中に一度だけ訪れたことがあり、その時の模様等を書いてみたい。

豊橋鉄道田口線の沿革を簡単に記すと、大正14年5月 豊川鉄道専務倉田藤四郎氏、田口町長関谷守男氏、旧内務省官吏平松雅夫氏ら発起人により田口鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣に提出。大正15年11月 豊川鉄道長篠(現大海)~田口間の蒸気鉄道施設が認可。分岐駅を長篠から鳳来寺口(現本長篠)に変更し、経路も変更したところ急勾配となったため、動力を蒸気から電気に変更して再申請して受理された。設立時の資本金300万円の内訳は宮内省125万円(25000株)、豊川鉄道75万円、鳳来寺鉄道20万円、鳳来寺12.5万円とこれだけで約80%を占め、地元やその有力者の出資は僅かであった。宮内省の出資比率が高いのは、段戸御料林の森林鉄道と田口鉄道を接続させて御料林の経営を抜本的に発展させる目論見があったためである。尚、宮内省は戦後解体により同省の所有株式は地元が引き受けた。本社は豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同一場所の豊橋市花田町に置かれたが、戦争末期の7月27日、戦災のため鳳来寺駅に移転した。

昭和3年5月、工事に着手し、昭和7年12月全線が開通した。昭和18年8月1日、豊川、鳳来寺鉄道は鉄道省に買収され、田口鉄道は対象外となったが、列車の運行は引き続き鉄道省に委託された。昭和26年4月1日より本長篠で飯田線の電車と併結により、豊橋まで直通運転の開始。昭和27年5月運行委託が終了。昭和31年10月豊橋鉄道と合併し同社の田口線となった。車両管理を委託していた国鉄豊川分工場が閉鎖されたため、昭和38年3月24日をもって豊橋直通運転が廃止された。

昭和39年12月田口線のバス化計画が発表、それに伴い、地元住民、製材業者を中心に廃止反対運動が展開された。昭和40年9月17日、清崎~三河田口間水害のため不通になりバス代行となった。昭和43年7月19日、全線の運輸営業廃止が認可、廃止直前の8月29日に台風10号の大雨による田峯~清崎間の路盤流失のため三河海老~清崎間が不通となり、清崎駅にモ36が取り残された。最終日の8月31日は本長篠~三河海老間で、モ15による「さよなら運転」が実施された。

昭和41年3月23日に訪れた時の状況

前日まで、日立電鉄、茨城交通、関東鉄道の各線の乗り歩きをして東京駅23時30分発大阪行に乗車して4時56分豊橋に到着。飯田線下りの一番電車は5時36分発の新城行であったが、本長篠まで行かないのでパスして、次の5時55分発辰野行の最後部クハユニ56011に乗車した。本長篠到着は6時50分で、駅舎寄りの1番線には6時54分発清崎行(モハ37)が停車しており、早朝のためか乗客は僅かであった。清崎~三河田口間は昨年の9月の水害以降不通となりバス代行になっていた。鳳来寺駅を過ぎ、ほぼ中間の三河海老でモハ15+モハ14の上り列車と交換、駅の本長篠寄りに小さな車庫がありモハ38が顔を出していた。程なく清崎に到着したが何もない山の中の駅であった。写真撮影後再びモハ37に乗り鳳来寺で下車。先程三河海老で交換したモハ15+モハ14が本長篠~鳳来寺間の折り返し運用に入り、隣のホームに停車していた。せっかくここまで来たのだからお寺でも見学しようと思っていたが、ここから更にバスで20分位かかると聞いてあっさりパス。電車撮影後モハ15に乗り本長篠に戻った。この後、クモハ51800+クハ47071+クモハ61003+クハ18003の621M平岡行(後2両三河川合で切離し)で中部天竜に行き、ED17、ED18を撮影後豊橋に戻り、急行「いこま」で京都に戻った。また、クモハ51800の車内の標記は改造前のクモハ51042のままであった。

車両

昭和7年開業時の車両は電気機関車1両(デキ53)、電車2両(モハ101、102→モハ36、37)の僅か3両であったが、豊川、鳳来寺鉄道と共通で使用され、同社の車両は豊橋~三河川合間の豊川、鳳来寺鉄道で使用され、豊川鉄道のモハ10形が使用されていた。昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲受け、更に豊橋鉄道合併後の昭和31年10月、福塩線で使用されていたモハ1610(元豊川鉄道モハ31)を購入、その他、昭和30年に団体輸送用に作られた木製単車(サハ201)が1両在籍したが、昭和37年に廃車された。

デキ53

昭和4年4月、田口鉄道開業時に日本車輛、東洋電機で新製された。デキ53の「53」は、鳳来寺鉄道デキ50、豊川鉄道デキ51、52、54と一連の車号が付番されたためである。前述の4両が鉄道省に買収後も田口鉄道所有機として引き続き飯田線で活躍し、昭和27年5月以降は田口鉄道線内のみの使用となった。豊橋鉄道合併後田口線の貨物減少により昭和40年7月渥美線に転属、昭和43年11月1日の改番でデキ451となり、昭和59年、渥美線貨物営業廃止により廃車された。

 

昭和43年4月4日  高師

 

昭和45年3月9日  高師

モ10形(14、15)

前述の通り、昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲り受けたもの。モハ10形は大正15年豊川鉄道、鳳来寺鉄道電化時に豊川鉄道向けとして5両、鳳来寺鉄道向け1両の6両新製された。当初はモハ1形と称していたが昭和13年の改番でモハ10形に改番され、鳳来寺鉄道所属車はモハ10、豊川鉄道所属車はモハ11~15となった。戦後モハ11、12は部品が調達できず昭和24年に廃車、残り4両も昭和26年4月に廃車となったが、モハ10、13が大井川鉄道に譲渡されモハ201、202として再起した。「モハ」→「モ」への改称は昭和39年7月に実施されている。モ14は当初田峰駅跡に保存されていたが、昭和53年田口町の奥三河資料館に移動し、田口線で使用されていた備品等共に大切に保存されている。私はまだ訪れたことはないがリタイヤ後廃線跡の探訪を兼ねて是非訪れてみたい。

 

昭和41年3月23日   三河海老

 

昭和41年3月23日   鳳来寺

モ30形(36、37、38)

モ36とモ37は昭和4年田口鉄道の開業時にモハ101形101、102として日本車輌で新製された車両で、昭和13年豊川鉄道の同形車と同一形式に改番され、モハ36、モハ37となった。豊川鉄道のモハ30形は31~33の3両で34、35としてもよかったのであるが、あえて36以降に付番したのは会社の違いを意識したものと思われる。昭和27年5月自主運行になるまでは飯田線で使用されていた。田口線と飯田線の直通運転は昭和26年4月1日に開始されているので、それに合わせて国鉄形との機器の統一と密連化が実施されたものと思われる。田口鉄道に返還後も引き続き国鉄形と併結で豊橋直通運用に使用されていたが、乗務員室が狭く国鉄の運転士から嫌われたため常に後部に連結されていた、乗入廃止後、連結器は自連に戻された。田口線廃止後は渥美線に転属し、600Vに降圧、車体更新が実施され、窓がアルミサッシとなった。昭和43年11月の改番でモ1711、1712となり、モ1711は平成3年、モ1712は昭和62年に廃車された。

 

昭和41年3月23日   本長篠

 

昭和41年3月23日   清崎

 

モ36→モ1711に改番後  昭和60年3月24日 高師

 

モ37→モ1712に改番後  昭和60年3月24日 三河田原

モ38は豊橋鉄道と合併後の昭和31年10月、豊橋直通車の増強のため、福塩線で使用されていた、モハ1610を購入したものある。元を正せば元豊川鉄道モハ31で、モ36、37とは生まれも育ちも同じで、国鉄に買収後、昭和28年6月の改番でモハ1610となった。湯口先輩がお書きになった【4015】「1954年高校修学旅行その2」に福山駅で撮影された旧豊川鉄道買収車モハ1600形の画像があるのでご覧いただきたい。購入時に豊川分工場で車体更新を実施し、窓のアルミサッシ化、蛍光灯化等が実施された。昭和41年4月に一足早く渥美線に転属し、昭和43年11月の改番でモ1713となった。

 

昭和41年9月1日   高師

 

昭和43年4月4日   高師

 

昭和45年3月9日   高師

台湾鉄道全線乗車の旅 Part15 烏来トロッコ列車

台風8号直撃で、史上最悪の被害の出た台湾ですが、屏東・南廻線において、橋梁・道床が流されたりで、復旧には、3~6ケ月が必要とのコメントが出ています。暑さが過ぎる11月頃に、再訪台したいと、思っておりますが、行程は考慮しなければならないようです。8月中の土日は、集集線にCK124が、運行していますので、また、即決で出ようかなと、思ったりしています。

内灣線の乗車も終わり、平日朝夕のみ、無料の2本のDCが、走行している林口線を除いては、一応、台湾鉄道全線乗車の旅は、完了しました。今日の昼からは、おまけの烏來温泉で走っている、台車鐡道の乗車です。

5月31日(第11日目)

⑥ 新竹13:09-(自強號)→14:20台北   180元
⑦ 台北駅-(MTR)→新店
⑧ 新店駅前 -(バス)→烏來
⑨ 烏來-(連絡バス)→新店駅前
⑩新店駅前 -(MTR)→台北駅

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銚子電鉄を訪ねて(Ⅰ)

7月30日(木曜日)夏休みを取って「青春18」利用で銚子電鉄の見学に行ったので近況等を報告する。自宅をいつもより約1時間遅く7時30分部活に行く息子と一緒に出発。我孫子と成田で乗換えて、銚子には10時59分に到着した。11時18分発の電車は元伊予鉄道のデハ801で、近々伊予鉄道から転入車が入線すると廃車にされる予定である。車内はおばさんグループが2組乗車しており満席である。ワンマン運転であるが、係員が乗車して切符を販売しており1日乗車券が飛ぶように売れていた。外川まで乗車して写真を撮りながら歩いて銚子まで戻る予定で、片道運賃を寄付するつもりで1日乗車券を購入した。係員は交換駅の笠上黒生で降りて、上り電車に乗ったので、銚子~笠上黒生間は実質ツーマン運行である。それにしても夏休み期間中とはいえ平日の昼間にこれだけ乗客があれば上々である。笠上黒生で桃太郎電鉄ラッピングのデハ1001と交換、犬吠で多くの乗客が降りて外川に到着した。引上げ線にワム80000改造のオープン客車ユ101が、隣の線には元鶴見臨港鉄道買収国電デハ301が停まっていたが、いずれも休車状態であった。デハ301は屋根に櫓を取付けて架線点検車として使用されていた。

ここからは撮影しながら銚子まで歩いて戻るが、現役の頃のように線路内や犬走りを歩くと警察沙汰になりかねないので平行する道路を歩く。曇りの天気予報が外れてガンガン照りで、とにかく蒸し暑い。犬吠駅の近くの踏切で撮影後、構内の元相模鉄道モ二2022の車体を利用したレストランで食事をしようと思ったが営業日は土日祝日のみである。建物の中の普通のレストランで食事をして家族の土産に濡れ煎餅を購入した。次の君ガ浜と海鹿島の間で灯台を入れて撮影できる場所を探したが、線路と道路が結構離れているため見つからなかった。そのうちに暑さでバテ気味になってきたので、笠上黒生まで戻ったところで、灯台を入れての撮影と後半の笠上黒生~銚子間は次回ということにした。ここには廃車になったデハ101が留置されており、特徴ある台車を撮影しようと思ったが、雑草が生い茂っているため近づくことすらままならない。再度デハ801に乗車して車庫のある仲ノ町で下車。ここは車庫見学用の入場券を購入すれば見学が可能である。およそファンとは思えない中年のご夫婦や親子3世代家族が見学しており、見学者用の休憩所、トイレが設置されていた。AGE製のデキ3は綺麗に整備されていたが、ビューゲルが修理中のため付いてなかった。当日運用に就いていなかったデハ1002、701、702が停車していたが、702の停車位置が悪く次回に期待したい。デハ701、702は元近江鉄道のモハ51、52で、伊予鉄道から転入車と代替で廃車される予定である。またモハ702はワンマン改造されていないため大口団体輸送時の増結用になっている。その後、すぐ近くのヤマサ醤油の工場で保存されているオットー機関車を見学後、113系4連の成田線経由千葉行きで帰途に就いた。

歴 史

銚子電鉄の歴史を簡単に述べると、大正2年12月銚子遊覧鉄道として銚子~犬吠間開業。業績不振と鉄材高騰により僅か4年後の大正6年11年に廃業してレールを売却。廃線跡は地元の旅館の送迎バス専用道路として使用。大正11年9月銚子鉄道創立。大正12年7月銚子~犬吠~外川間を開業。大正14年7月電化(DC600V)。昭和23年8月銚子電気鉄道に社名変更。以降の昭和時代の細かい動きは省略する。

昭和35年11月、京成電鉄系の千葉交通の資本下に入る。昭和38年9月重役会で営業廃止を決定したが、ほぼ同時に廃止反対規成同盟が結成され廃止決定は撤回される。昭和41年12月集電装置をトロリーポールからビューゲルに変更。昭和51年2月観音駅に直営売店を開設し食品製造販売業を開始。たい焼きの販売を行い、マスコミでも大きく取り上げられる。昭和56年12月6日、礼宮様が銚子~外川間をご乗車になる。(下りモハ701、上りモハ702)

平成2年1月、経営権が京成電鉄系の千葉交通から東金市の総合建設業内野屋工務店に移り、同社社長内山健冶郎氏が社長に就任する。銚子電鉄を観光鉄道として再生すべく駅舎をメルヘンチックなものに建替えを推進。銚子駅のJRとの乗換口、観音、君ヶ浜、犬吠が完成、併せて車両の塗装変更を実施。平成10年6月内野屋工務店が自己破産を申請して事実上破産する。その後も内山氏が社長に留まったが、平成15年会社の金を横領したとして解任。平成18年8月、会社の金を約1億1千万円横領容疑で警察に逮捕された。このことにより、県と銚子市が補助金の支給を停止、加えて金融機関が融資を凍結したため、資金不足に陥り電車の法定検査が実施できず、同社のHP上で「濡れ煎餅を買って下さい。電車の修理代を稼がなくちゃいけないんです」の文章で、濡れ煎餅の購入による支援を呼びかけた。マスコミによる報道も手伝って、支援をしようという人々から濡れ煎餅の注文が殺到して一時は製造が追いつかずパニック状態になったが、車両の法定検査費用の目処がついた。しかしながら設備の老朽化は如何ともし難く、平成18年10月に実施された国土交通省の保安監査において、踏切の不具合、枕木約1500本の腐食が指摘され、11月に同省より安全確保に関する改善命令が出された。翌年1月この問題解決を支援するため地元有志を中心に「銚子電鉄サポーターズ」が結成され、枕木交換、踏切設備の改善に限定したサポート基金の募集を行った。こちらも相当な成果があり、枕木交換、踏切設備の改善が実施され、同年4月、国交省に対し改善措置完了報告を提出した。

世の中何が幸いするか判らない。経営危機によるHPでの支援の呼びかけ、濡れ煎餅、サポーターズクラブ等で全国的にすっかり有名になり、観光客の乗車の増加、バスツアーのコースに銚子電鉄の乗車が組み込まれる等、今や銚子市の経済効果増大にも大きく寄与しており、個人的には上下分離方式等の検討がされてもよいのではないかと思っている。

運転・運賃

上下各36本が約30分間隔(等間隔ではない)で運転されており、ほぼ中間の笠上黒生で交換する。(必ず下り優先で到着する)営業キロは6.4㎞、全線の所要時間は約20分である。中間駅が8カ所あり、駅間距離が1キロを超えるのは君ヶ浜~海鹿島間の1.1キロ間のみである。全線、全駅が銚子市に属しており銚子市の市内電車の役割を果たしている。運賃は最低運賃1㎞まで150円、全線310円と地方私鉄の標準的な運賃であるが、途中駅が多く、距離の割に時間がかかるため高いという感じはしない。全線乗降自由、濡れ煎餅1枚、沿線の観光施設割引券付のフリー切符は620円、銚子~犬吠・外川間の往復割引乗車券は540円である。

車 両

電車6両(内1両は事業用として使用)客車1両、電気機関車1両が在籍する。

デハ301

昭和5年新潟鉄工所で鶴見臨港鉄道モハ100形モハ105として新製。昭和15年の改番でモハ110形115となった。昭和18年7月1日戦時買収で鉄道省の所有となったが車号の変更はなかった。引き続き鶴見線で使用されていたが昭和23年5月1日DC600Vから1500Vに昇圧により失職し、昭和24年3月28日付で廃車。昭和26年日本鉄道自動車で銚子電鉄向けに直接制御に改造の上入線した。主力として活躍していたが、元営団地下鉄2000形改造のデハ1000形が入線すると予備車となり、屋根上に作業台を設置して架線点検修理車として使用された。現在は休車状態で外川駅に留置されておりこのまま廃車されると思われるが、昭和一桁作られた電車の生き残りとして貴重な存在である。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   外川

デハ701・702

昭和3年川崎造船所で近江鉄道デユワ101、102として新製。デユワは国鉄流に言えばモユニであるが、形態的には貨車に近く、郵便室付電動貨車と言うほうが適切で、車体は木製であった。近江鉄道発行の記念乗車券の中にデユワが多賀大社から伊勢神宮に向かう団体客を乗せた12両編成の木製客車の両端に付き犬上川の鉄橋を渡る写真があった。

昭和16年5月日本鉄道自動車で鋼体化と旅客車化が行われ、デハ51、52となった。昭和36年3月片運化と正面の2枚窓化が行われた。銚子電鉄には昭和53年1月西武所沢工場で再度両運転台付に改造の上入線した。701は平成6年11月にワンマン改造されたが、702は未改造で団体輸送時の増結用となっている。702の塗装は平成19年11月の全検時に昭和30年代前半頃のスカイブルーと薄いグレーとなった。701と702を連結した場合は総括制御が可能であるが、他形式車と連結した場合は各車両に運転士が乗務して協調運転を行う。今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

昭和58年6月14日   外川

 

平成21年7月30日   仲ノ町

デハ801

昭和25年帝国車両で伊予鉄道クハ406として新製、昭和37年電動車化してモハ106となり昭和60年3月廃車となった。昭和61年2月に入線し同年12月ワンマン化された。この車も今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

平成21年7月30日   犬吠

デハ1001、1002

元営団地下鉄の銀座線、丸の内線の方南町支線で使用されていた2000形で、1435㎜ゲージ、第3軌条集電のため、平成6年京王重機で改造の上入線した。元々片運車のため1001の車体は昭和35年帝国車両製の2046と2033の前面、1002の車体は昭和34年日立製作所製の2040と2039の前面を取り付けて両運化、電装品は営団3000形、台車は富士急行5700形(←元小田急2200形)から流用した。塗装は、1001は「桃太郎電鉄」のラッピング、1002は「鉄子」塗装となっている。

 

平成21年7月30日   犬吠  

 

平成21年7月30日   仲ノ町

ユ101

NHKの朝の連ドラ「澪つくし」で銚子の町が舞台となり注目を浴びたことから、昭和60年に導入された。種車は昭和44年日本車輛と輸送機工業で新製されたワム80000形183983で、昭和60年に大宮工場で改造された。形式の「ユ」は遊覧車を表し、この種の車両としては、四国の予土線の「清流しまんと号」に次いで2番目、民鉄では初めてであった。残念ながら現在は外川駅で休車状態になっているが、是非復活させて有効に活用していただきたい。

 

平成21年7月30日   外川

デキ3

大正12年ドイツのアルゲマイネ社製の小型電機で、重量10t、全長4.47mで、昭和16年に宇部の沖之山炭鉱から入線した。銚子駅から仲ノ町駅に隣接するヤマサ醤油に入る貨車の牽引がメインであったが、電車が不足時にハフを引いて営業運転に使用されたこともあった。貨物列車は昭和59年の国鉄車扱貨物廃止時に廃止されたが、廃車されることなく継続してメンテナンスが行われており、同社のマスコット的存在になっている。

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   仲ノ町

 

仲ノ町車庫見学記念入場券

 

犬吠駅の電車レストラン(営業は土・日・祝日のみのようである)