銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)

引き続き過去の車両とヤマサ醤油の入換機を紹介する。

デハ101

昭和14年日本鉄道自動車で作られた木製ボギー車で、東武鬼怒川線の前身、下野電気鉄道のデハ103が履いていた軌間762㎜の雨宮製作所製の台車を1067㎜に改軌したものを履いている。昭和27年に日本鉄道自動車で鋼体化改造が行われ、半鋼製の新製車体に乗せ換えた。小形のため晩年は多客時の3両編成の中間でトレーラーとして使用されていた。平成11年に廃車となった。解体はされずに笠上黒生駅の側線に留置され倉庫として使用されているが荒廃が激しく、夏場は雑草が生い茂り、特徴ある雨宮製作所製の台車の観察すらままならない。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

デハ201

昭和24年に入線した車両で、前身は京成電鉄モ二7(大正14年雨宮製作所製)ということになっている。モ二7の経歴がやや複雑で、大正14年雨宮製作所製のモハ43がモハ300形として鋼体化された時に、不要となった木製車体を無蓋電動貨車モ二7に載せて有蓋電動貨車に改造の上行商電車に使用されていた。昭和22年高砂車庫の火災でモハ46と共に焼失して廃車。モ二7の台枠にモハ46の台車を1067㎜に改軌し、これに木製の新製車体を載せてできたのがデハ201である。長らく主力として活躍し、晩年は車体の老朽化によりベニヤ板を、後には鋼板を貼りつけていたが昭和54年に廃車された。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

デハ501

昭和47年に西武鉄道所沢工場で整備の上入線した車両で、前身は上田丸子電鉄丸子線で使用されていたモハ2321が前身であるが、更に前身があり元を正せば近江鉄道のクハ23である。これがまた複雑で大正14年彦根~多賀間電化時に新製された電1形1~5の後身クハ21形(初代)21~25の鋼体化名目で昭和18年日本鉄道自動車に発注した。戦時中のため完成したのは戦後の昭和22年となり、しかも電装品がなく実質付随車であった。全長12mの小型車のため2年後の昭和24年に早くも23と25が上田丸子電鉄に売却され、運転台取付と電装が行われてモハ23、25となった。昭和25年の改番でモハ2321、2322となり、丸子線で元飯山鉄道のガソリンカーをトレーラー化したサハ41を挟みMTMの3連で使用され、2321のパンタ側、2322の非パンタ側が貫通化された。昭和44年4月19日丸子線廃止後は別所線に移り、サハ41は同線で使用されたが、2321と2322は使用されることなく、2321は銚子電鉄に売却、2322は廃車となった。銚子電鉄では初のパンタグラフ、蛍光灯、4個モーター(75Kw×4)車で、多客時にデハ301の間にサハ代用のデハ101を挟んだ3両編成でも活躍したが、4個モーターのため消費電力が大きいことと車体が小さいことが致命傷となり、平成11年に廃車となった。車体は犬吠駅の電車レストランに転用されたが痛みが激しくなっている。

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

上田丸子電鉄丸子線時代 モハ2311  昭和45年3月25日 上田東駅

ハフ1、2

大正12年、銚子鉄道開業時に新製されたハ二1、2が老朽化したため、車体を新製して乗せ換えたものである。多客時の増結用として使用された他、電車不足時にデキ3に引かれて営業運転に就いたこともあった。デハ701、702の入線後余剰となり、昭和53年に廃車となった。窓構造は、ハフ2が2段上昇式、ハフ1が下降窓となっていたが、ハフ2は後日の改造と思われる。

 

昭和40年3月25日   仲ノ町

ヤマサ醤油の入換機/1号機

仲ノ町駅を出て左手銚子駅方面に向かい、一つ目の踏切を渡ると「ヤマサ醤油」の工場がある。ここには以前使用されていたドイツ製の機関車が大切に保存されているので、銚子電鉄を見学された時は是非こちらも見学していただきたい。

「ヤマサ醤油」は一般人の見学を受付けており「機関車を見学させて欲しい」と伝えると「どうぞ」と言われて中に入る。門を入って直ぐ左手、売店との間のショーケースの中に展示されており、外から見ていたところ「中に入っていいですよ」と言われ、時間の経つのを忘れて見学した。1920年(大正9年)オットー・ドイッツ社(De:Deutz  AG)製で通称「オットー機関車」と呼ばれていた。昭和31年12月に入線し、39年まで銚子駅~工場間の専用線で使用されていた。それ以前は千葉市の「参松工業」という水飴等の製造会社で使用されており、更に前歴が有りそうである。画像でもお判りいただけると思うが、車輪幅より車体幅が狭く、元は762㎜で使用されていたとも思われる。静岡県の堀之内軌道(762㎜で堀之内駅~池新田間を営業、堀之内は現在の菊川)の機関車が同形である。

 

2号機

銚子電鉄を初めて訪れたのは、昭和40年3月京阪沿線の高校の時で、仲ノ町車庫を見学して外川を往復しただけであったが、2号機を撮影している。こちらも「オットー機関車」に負けず劣らず小さい機関車で「日本牽引車」で作られ建設省に納入内の1両という以外は不明である。ちなみに銚子電鉄のデキ3の「3」はヤマサ醤油の機関車の追番を意味している。

今後の予定

デハ701、702、801の3両は、国交省関東運輸局より是正勧告対象車両に指定されたため、早急に代替車両を導入する必要性に迫られた。当初は京王電鉄井の頭線の3000系が検討されていたようであるが諸般の事情で流れてしまい、京王電鉄井の頭線3000系導入により余剰となる伊予鉄道のモハ820形+クハ850形を2編成導入することになった。費用が占めて約1億円かかるとかで、費用捻出のため車両支援オーナー制度を設けた。内容は1人1口10万円(最大10口100万円)を支払うと1口に付き1年間有効の全線優待乗車券を発行するというものである。(銚子~外川間の6か月通勤定期は60270円)

伊予鉄道モハ820形の前身は京王帝都電鉄デハ2060形、クハ850形はサハ2500形・2550形で、生まれ故郷の近くに戻ってくることになり、京王ファンの方にとっては楽しみが1つ増えたのではないだろうか。銚子電鉄での形式はデハ2000形+クハ2500形が予定されている。

「濡れ煎餅」と「たい焼き」

銚子電鉄の濡れ煎餅は経営危機のおかげですっかり有名になり、犬吠駅の売店では電車の乗客の他、観光バスやマイカーで来た観光客も購入するため売切れになることがある。仲ノ町、観音、笠上黒生、外川の各駅でも販売されているので、こちらでの購入をお勧めする。確かにおいしく家族にも好評で「濡れ煎餅」の購入を口実に出かけることができそうである。尚、「濡れ煎餅」には特注品の「ヤマサ醤油」が使用されているそうである。観音駅の「たい焼」は「濡れ煎餅」の影に隠れてしまったが、こちらも中々のもので、1枚90円は関東地区では最安値だそうである。有人駅から乗車する場合、駅員氏に伝えておけば観音駅で受け取ることができる。「ヤマサ醤油」の売店に「醤油ソフトクリーム」が販売されていたので「物は試し」と食べてみたが「醤油味のソフトクリーム」という感じの微妙な味であった。

 

ステンレス製のキハ35905と並んだデハ301

 

準急「犬吠号」新宿行 

台湾鉄道全線乗車の旅 Part14 内湾線

湯口徹大先生の、鉄道友の会「島秀雄記念優秀著作賞」受賞を記念しての、クローバー会の祝賀会に参加後、自宅でTVを見ていますと、台風8号が台湾に上陸して、大きな被害が出ているとのニュースを見ました。

台湾の河川は、山から海までが、極めて短く、標高差が大きく、また直線が多くなっているので、普通の降雨でも、一気に濁流となります。そのために、川幅を広くとっていますが、台風時や、最近のゲリラ豪雨は、想定外の水量となって、鐡道橋梁に重大な被害を及ぼし、山間部では、土砂崩れが多発しています。

直ぐに、インターネットで、現地被害を見てみましたら、史上最悪の被害が、各地で続出しています。大きな土石流で、村自体が埋まり、数100名の不明が伝えられています。河川際の8階建てものホテルが倒壊して、激流に飲み込まれたニュースを見られた方も多いと思いますが、場所は、台湾南東部の南廻線(台東~枋寮)、知本温泉のホテル金師飯店です。

現在、懸命の復旧作業が行われていまして、被害を受けた、台鐡各線も開通見込みですが、南廻線は、橋梁流失もあり、被害が甚大で、開通見込みすら、たっていません。

台鐡の大動脈、西部幹線は、台北~新營間で、優等列車の折返し運転をしている状況です。早く復旧した高鐡新幹線が、増発と、普通車の全車自由席対応で、旅客輸送を代行しています。

日本の豪雨での被害も、多大ですが、日本と比べて、地形が自然災害にあいやすい台湾は、もっと大変な状況です。不幸にも、災害にあわれた両国の方々に、ご冥福と、1日も早い復興をお祈りいたします。

さて、台湾鉄道全線乗車の旅も、第11日目の5月30日、最終日を迎えていました。この日は、内湾線と、台北の奥座敷、烏來温泉のトロッコ列車乗車を目指しました。2回に分けて投稿します。

5月30日(第11日目)
① 台北7:30-(自強號1005)→8:40新竹   180元
② 新竹駅前9:10-(連絡バス)→9:35竹東駅前 48元
③ 竹東10:15-(區間車3249)→10:39内灣   18元
④ 内灣11:45-(區間車3252)→12:06竹東    9元
⑤ 竹東駅前12:15-(連絡バス)→12:40新竹駅前 48元

明日は、帰国日です。台湾鉄道全線走破を目指し、残された日は、今日一日だけです。未乗車区間は、灣線のみと、なりました。勿論、林口線も残っているのですが、こちらは、貨物線で、平日のみ朝夕2本のDCが運行されていますが、営業路線と位置づけていないため、運賃無料となっています。予想外の端午の節句4連休もありましたので、乗りたくとも運行していません。これは、次回としました。

内灣線も、台湾新幹線開業に伴い、竹中駅から高鐡竹中駅への連絡線建設、新竹~竹中高架化、新駅設置等のMTR化のため、2007年3月より、新竹~竹東間の運行が停止されており、バス代行となっています。
工事は、一応2011年完成予定ですが、台湾新幹線の例もあります。国家交通部のチェックも厳格です。その他、過去の例を考慮する、難しいと予測されますが、淡水線のようにMTR化されれば、台鐡でなくなってしまいます。


今日も朝早くにホテルを出発し、台北駅に向かいました。自強號に乗車、昨夜下車した新竹駅をもう1度視察後、代行バス停を探しました。バス停前の朝食屋で、美味しそうな肉まんを買い求めて乗車、バスは、高速道路圣由で、竹東駅に約25分で到着しました。




内灣線は、日本統治下の戦争末期1941年に建設が始まりましたが、資材不足もあって、完成に至らず、、戦後の1947年に新竹~竹東間が開通しました。1950年、合興まで延長、1951年、 内湾まで延長され、全線開通しました。石灰、セメント等の輸送が多かった時は、黒字優良路線でしたが、貨物輸送が途切れた今は、通勤・観光支線となっています。

竹東駅は、煉瓦造りに瓦屋根の一風変わった駅舎です。島式ホーム1面、単式ホーム1面があり、かつては、にぎわったであろう貨物ヤードもあります。そのヤードに1両のタンク車が、留置してありました。察するに、竹東~内湾を往復するDR1023+DR1020、2両1編成の、燃料補給用とみましたが、どうでしょうか。



竹東駅を超満員で発車したDCは、2つの長い鉄橋を渡り、なだらかな登り勾配をゆっくりと走行しますが、九讃頭駅を過ぎると、急に25‰勾配区間に入ります。トンネルを抜け、着いた駅は、かつては、台鐡で唯一だった、スイッチバックの合興です。

石灰石を運ぶ、珍しい空中ロープウェーもあったという構内は、公園化されて、引込線には、旧客車も展示されていました。ホームは、なんと、25‰勾配線上に位置しています。


合興駅からは、右へ右へと、登りカーブが続きます。月台もカーブした富貴駅。1962年に、南河駅として開業したが、2003年に同じ内灣線の栄華駅と合わせて『栄華富貴』=華やかに栄え、財産地位、身分が高いという縁起の良い名前に変えたが、地名を無視した名前になったと、住民反発を招いた、いわく因縁の駅です。右方上がりの駅ですから、それだけでも良いような気もします。



どんどんと、山を登り、町並みが見え出すと、終点の内湾駅に到着です。ここでも、DCと、記念写真を撮るギャル多数がいます。とうとう車内で、話していた女子高校生にも、日本人と会うのは、初めてだったとかで、一緒に記念写真を撮りたいと、言われました。それも、数組からのオファがきました。大陸は、数10回は、行っています。韓国も数回行っていますが、こんな事は、初めてです。やっぱり、どこか台湾は、違ってますね。



駅前は、鐡道以外でも来た、観光客で一杯です。道路の両側は、飲食店がずらりと並んでいます。大陸から移住した人が多く、結構、はじめて見る料理が多く、片っ端から食べました。豚を数匹、丸焼きして並べて、ナイフで切りながら、売っているのは、びっくりしました。これも、中々、旨かったです。


先がありますので、次の折返し列車で、内湾線を後にしましたが、合興駅にも寄りたかったし、また、ゆっくりと来たい所でした。  Part15へ続く

台湾鉄道全線乗車の旅 Part13 苗栗鉄道博物館

5月29日(第10日目)

① 高鐡台北7:30-(高鐡407)→8:27高鐡台中
② 新烏日8:47-(區間快車3807)→9:27二水
③ 二水9:59-(區間快車3806)→10:29彰化
④ 彰化13:14-(自強號1016)→14:06苗栗
⑤ 苗栗16:37-(自強號1029)→17:33彰化
⑥ 彰化17:57-(区間車2554)→19:54竹南
⑦ 竹南20:28-(自強號1036)→21:55台北

彰化機関区
見学後は、彰化駅内のセブンイレブンで、阿里山の『奮起湖便當』が売ってありましたので、現地のと同じなのかなと購入して、東部幹線の自強號の主力プッシュプル式のE1000系に乗車しました。

便當の中身は、奮起湖駅で買ったものとは違っていましたが、何種類かはあるのかと、食しました。今日は10元安くて、55元(約160円)です。今回の訪台旅行での昼食は、平渓線の十分駅前食堂以外は、全て駅弁でした。貧乏旅行には、この価格は、本当に助かります。そして、何よりも、旨い!

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台湾鉄道全線乗車の旅 Part12 二水鉄道公園、彰化機関区

第10日目 5月29日
① 高鐡台北7:30-(高鐡407)→8:27高鐡台中 595元
② 新烏日8:47-(區間快車3807)→9:27二水  63元
③ 二水9:59-(區間快車3806)→10:29彰化   47元
④ 彰化13:14-(自強號1016)→14:06苗栗   162元
⑤ 苗栗16:37-(自強號1029)→17:33彰化    125元
⑥ 彰化17:57-(区間車2554)→19:54竹南    126元
⑦ 竹南20:28-(自強號1036)→21:55台北    223元
合計1,341元

昨日で、台湾鉄路一周周遊券は、使用完了しました。購入額は、1,200元(約3,500円)でした。
実際に単票で購入した場合は、①台北(自強號)→花蓮 445元 ②花蓮(自強號)→台東 355元 ③台東(復興號)→高雄 234元 ④高雄(自強號)→台中 470元 ⑤台中(自強號)→台北 375元 合計1,879元(約5,450円)でしたので、679元(約1,950円)お得になりました。

それにしても、台鐡の運賃・料金は、安い。日本であれば、同距離で、運賃だけでも7,350円はする。各列車の料金を加算すれば、20,000円は、超える。日本の約6分の1程度です。 続きを読む

門司港 再訪

以前、下関駅のことについて思い出を書いたところ、準特急さんやK.H.生さんから暖かいコメントをいただきました。こうなれば、関門海峡を挟んだ門司側も書かねばと、最近訪れた門司港のことについて書いてみます。

関門トンネルを抜けて到着するのは門司だが、鹿児島本線は2駅東にある門司港を起点としている。
関門トンネルが開通する昭和17年までは、現・門司は大里であり、現・門司港が門司を名乗り、すべての客貨はここから連絡船で下関へ渡って行った。
九州の鉄道の嚆矢は明治22年の博多~久留米間の九州鉄道の開業だが、2年後には門司~博多~久留米~熊本が開業している。九州鉄道の本社も門司に置かれた。以来、国有化後も、九州の鉄道の管理機構は門司鉄道管理局、九州総局と名を変えても終始門司にあり、門司は九州の玄関でもあり、管理上の中枢でもあった。
関門トンネルの開通後は、その任を現・門司に譲り、門司港と名を改めた門司は、重要文化財に指定される大正3年の二代目駅舎を中心に、かつての栄華をとどめているに過ぎなかった。

昭和47年の門司港駅。ホーム両側に夜行客レが停車中。

まったく変わらない現在の門司港駅。

機関区も以前は門司港にあったが、私が訪れた昭和40年代前半、機関区は門司にあったため、撮影で門司港を訪れることもなかった。しかし、九州内を発着する夜行列車、鹿児島行き急行「はやと」(43-10改正で「かいもん」に改称)、また鹿児島・都城行き121レ(鹿児島・肥薩・吉都線経由)、西鹿児島行き521レ(日豊本線経由)、長崎・佐世保行き行き521レの普通3本、計4本の島内夜行は、すべて門司港始発であった。いずれも撮影地に向かうのに好適な列車で、翌日の撮影のための気力・体力の温存のため、座席の確保は必須で、必ず門司港まで出向いた。今も変わらない古くて暗い待合室で時間をつぶし、改札が始まると、頭端式の長いホームを、リュックを担いで走って目指す進行方向右手窓際の座席を確保したものだ。
どの列車も北九州での帰宅列車も兼ねており、門司、小倉からかなりの乗車があった。なかでも、究極の混雑として忘れられないのは、昭和42年3月に乗った「はやと」で、門司港を出るときはパラパラだったものの、門司、小倉、戸畑、八幡、折尾と停車駅ごとにどんどん人が乗ってくる。深夜にもかかわらず博多からも乗り込んできて車内は異様なほどの超満員。二人掛けの座席に大人3人、子供1人が座る有り様(当時の筆者は高校2年生で、体重は50kgそこそこのスリムな体型であったからこそ)、シートの間にも立ち客があって、横になることはもちろん、まったく身動きできないまま、一睡もできずに朝を迎えたことがあった。ちょうど長距離の鉄道輸送量がピークを迎える時代で、夜行といえども信じられないほどの混み具合だった。

社会人になっても比較的行きやすい北九州は、2、3年に一度は訪れていたが、門司からは、門司港に戻ることなく、小倉、博多へと向かっていた。
それが、最近、ひょんなことから門司港を訪れることになった。きっかけは、JR西日本の「西日本パス」。JR西日本・四国・九州の北半分が特急も乗り放題のフリー切符、ただし、二人以上の発売のため、やむを得ず?家人同行となったが、グリーン用を奮発した(と言っても3日用が20,000円だからホントにお徳)。
N700系グリーン車で着いた博多は、数日間も降り続く土砂降りの雨。案の定、その30分後に鹿児島本線は線路冠水ですべて運転抑止。乗車予定の「ゆふいんの森」も運休となった。西鉄も運休、高速道路が土砂崩れで高速バスも運休、市外へ出る術がない中、唯一動いていた新幹線で小倉へ戻り、路線バスで門司港へ入り、豪雨のお蔭で想定外の門司港再訪が実現した。
門司港駅周辺は、散在する近代建築を生かして、門司港レトロ地区として再生し、観光地として売り出し中である。かつてのうら寂れた門司港地区は、多くの観光客が闊歩する街に変身した。場所柄、韓国、中国からの観光客もたいへん多い。

ライトアップされた門司港レトロ地区。

レトロ地区の中心にある門司港駅。駅舎として初の重要文化財に指定。

賑やかな展示の門司港駅。ゼロキロポストもある。

鉄道関係の施設としては、九州鉄道記念館がある。本館は前述の九州鉄道本社であり、実物車両は、59634、C591、EF1035、ED721、キハ0741、クハ481-603、クハネ581-8が展示されている。いずれも、屋根付きの下に、たいへん美しい状態で保存されている。特筆すべきは、電車・気動車はすべて車内見学OKなこと。クハネ581には、ちゃんと昼間座席と夜間寝台が再現されている。
もうひとつ、最近門司港に加わったのが、門司港レトロ観光列車「潮風号」だ。廃止された臨港貨物線を再生し、平成筑豊鉄道が運行事業者となって、もと南阿蘇鉄道のDB11がプッシュプルとなってトラ改造のトロッコ客車2両を牽いている。シーズンのみの運行だが、30分ヘッドの高頻度運転で、訪れた日も豪雨後の決して恵まれた天候ではなかったが、そこそこの乗客で賑わいを見せていた。

まるでホームに停車中のような九州鉄道記念館の月光形。

レトロ地区を横断する潮風号。

台湾鉄道全線乗車の旅 Part11 集集線

第9日目 5月28日

第9日目となると疲れも溜まってくるようですが、好きな事をしている時は、不思議と朝早くに目覚めます。今日から4連休ともなると、駅や列車の混雑は避けられません。早めに行けば、集集線で、途中下車も走行写真も撮影できます。予定を早めて、徒歩で台中駅に向かいました。朝食は途中の朝食屋で、美味しそうな品々を買い求めました。

① 台中7:04-(區間車2435)→8:07二水
② 二水8:17-(區間車 3805)→9:03車埕
③ 車埕10:23-(區間車3808)→10:38集集
④ 集集12:24-(區間車3810)→13:26彰化
⑤ 彰化13:38-(區間快3108)→13:55台中
⑥ 台中15:29-(自強號1022)→17:45台北


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大西顧問とC61を撮影に行った日

関東連絡網でのロギング太郎さん、掲示板【3295】での準特急さんの書込みの通り、伊勢崎市華蔵寺公園遊園地に保存されているC6120が現役に復帰することになった。関西では梅小路蒸気機関車館にC61の2号機が動態保存されており、館内展示運転に使用されている。

今から36年前の昭和49年5月12日、C612の引く臨時列車「白鷺号」が京都~姫路間に運転され、青信号特派員さん、井原 実さん、私の3名で加古川まで撮影に出かけた時、現地で偶然大西顧問にお会いし、その後も同一行動を取られた。撮影場所を加古川にしたのは、下り列車と上り列車の間に別府鉄道に行こうと考えたからである。当日の行程を振り返ると、加古川到着後、駅の姫路寄りで下りの「白鷺号」を撮影。その後加古川機関区を見学して高砂線野口経由で別府港へ。機関区を見学後、DD1351の引く土山線の貨物列車と近くを走る山陽電鉄を撮影。野口に戻り、徒歩で山陽本線の線路際に出て上りの「白鷺号」を撮影した。当時、大西顧問は「鉄道友の会京都支部」の支部長の要職に就かれており、休日は友の会の行事、模型の運転会、ライフワークにされていた京電の研究等でご多忙な中お付き合いいただき楽しく1日を過すことができた。

 

下り「白鷺号」加古川駅西方

 

上り「白鷺号」加古川~東加古川間

 

下り特急「しおじ2号」広島行

 

下り新快速

 

上り貨物列車 

下り「白鷺号」を撮影後、加古川機関区を訪問、さすがにキハ06はいなかったが、当時の配置はキハ20/16両、キハ25/1両、キハ30/12両、キハ35/5両、キハ36/2両、キハユニ15/3両の計39両で、ラッシュ対策で通勤型が約半数を占めていた。

 

キハユニ153/キハユニ15は3、6、9が配置されていた。3は、昭和27年8月汽車会社で新製された電気式気動車の試作車キハ44002が前身で最初の配置は木更津区。昭和32年12月大宮工場で液体式と車体の前半分を郵便、荷物室に改造し、鳥取区に配置。その後岡山に移り、昭和48年に加古川区に配置され、昭和55年7月に廃車になるまで在籍した。正面の窓ガラスが小さいものに取り替えられ、不細工なスタイルになってしまった。

 

キハユニ156/昭和28年3月日車で新製された電気式気動車の量産車でキハ44005が前身で最初の配置は木更津区。上窓がHゴム支持の2段窓となった。昭和33年3月大宮工場で液体式と車体の前半分を郵便、荷物室に改造し、加古川区に配置され、56年2月廃車になるまで在籍した。

 

キハ2038/昭和32年9月東急車両で新製され、和歌山区に配置、その後亀山区を経て加古川区の配置となり昭和55年9月の廃車まで在籍した。

 

スエ3165/書類上は昭和44年高砂工場でマニ3274を救援車に改造したことになっているが、現車は張上げ屋根で明らかに違っており、実際の種車はマニ3211である。

 

加古川から高砂線野口から別府鉄道に乗換え、終点の別府港で機関区を見学した。次の列車で野口に戻っても上りの「白鷺号」まで時間があるため、直ぐ近くを走る山陽電鉄を撮影した。

 

285+271+270/250形として旧100形の機器を流用して誕生した形式で、昭和26年~29年にかけて250~257、34年~26年にかけて270~289が川崎車両で作られた。前者と後者ではスタイルが大きく異なることと、車号が離れているため、便宜上270形と呼ばれていた。

 

318+317+316/300形として旧200形の機器を流用して誕生した形式で、昭和37年~43年にかけて、300~321、330~335の28両が川崎車両で作られた。

 

3016+3017+3556+3608/昭和42年に神戸高速鉄道を介して阪急、阪神電鉄との相互乗入れ対応車として作られた車両で、中間の3556を除き現在も健在である。

 

DD1351牽引の土山線貨物列車/元江若鉄道のDD1351で昭和32年12月汽車会社製。国鉄のDD13に先駆けて作られたことで有名な機関車である。別府鉄道には昭和45年2月に入線した。

 

DC301/元江若鉄道のDC301で昭和29年12月新三菱三原車両製。江若鉄道が昭和39年廃止された熊延鉄道よりDC25を購入したため余剰になり、別府鉄道に売却されたものである。

 

キハ2/元三岐鉄道のキハ5で昭和6年7月日車製。昭和40年6月に入線し、昭和59年1月31日廃止まで在籍した。元野口線円長寺駅付近の公園に保存されているが状態は悪そうである。

 

キハ3/元三岐鉄道のキハ二6が前身。更に前身があり佐久鉄道キホハ二56として誕生、国鉄買収によりキハ40605→キハ二40706となり昭和17年に廃車、昭和19年に三岐鉄道に入線した。製造年はキハ2より1年早く昭和5年11月日車製である。廃止後は佐久市に里帰りし、キホハニ56に復元の上、成知公園(小海線滑津駅徒歩5分)に保存されている。

 

ハフ7/元三岐鉄道のハフ16が前身。更に前身があり、神中鉄道(現在の相模鉄道)の開業に際し、ハ24として大正14年に汽車会社で作られた車両で、昭和24年三岐鉄道に売却、別府鉄道には昭和34年に入線した。入線以来土山線の混合列車に使用され、最終日まで健在であった。廃止後は相模鉄道に里帰りし、かしわ台車両基地で小名浜臨港鉄道から里帰りしたSL3号機(大正15年汽車会社製)と連結されて保存されている。

 

野口駅での記念撮影/折り返し時間待ちのキハ2のデッキで記念撮影をした。左から青信号特派員さん、大西顧問、大西顧問と同行の友の会会員、井原 実さん、私。大西顧問は外出される時は必ずスーツ、帽子着用の正装であった。よく館林まで東武の蒸機の撮影に出かけられていたが、その時も正装で行かれていたのであろう。

「1080」見学記

総本家 青信号特派員さんより、日鉄鉱業㈱葛生鉱業所で保管されている1080号機がJR西日本に譲渡され、梅小路蒸気機関車館で保存されるという嬉しいニュースをお伝えいただいた。17年前の平成4年11月28日、現地を見学に行った時のことを書いてみたい。

場所は東武鉄道佐野線の終点葛生駅から約7キロ離れた山の中で、町営バスが1日数本運行されていたが、主に通学生のためのもので実用的ではなかった。徒歩で行くには遠すぎるため往復タクシーを利用し、撮影が終わるまで待ってもらった。鉱業所と葛生駅の先、上白石貨物駅を結んでいた専用線は、前年の平成3年11月26日に廃止され、既にレールは撤去され、僅かに1080が格納されている車庫と、取り残されたように貨車が留置されている部分のみ残っていた。

車庫の扉を開けて機関車を見せていただいたが、埃が付着していたものの非常に美しく磨かれており、火を入れれば直ぐに走れる状態のように思えた。案内していただいた方の話によると、過去に「わたらせ渓谷鐡道」で走らせる計画があったそうである。

譲渡先は、常識的に考えるとJR東日本にされるところであるが、あえてJR西日本を選択されたのは、大宮鉄博で展示されるよりも、梅小路での「動態保存」を期待されたからであろう。

 

1080の正面/狭い車庫に格納されているため、このような写真しか撮れなかったが、秋に梅小路での再会を楽しみにしている。 

 

1080が格納されている車庫

 

取り残されたように留置されていた貨車

 

葛生駅から徒歩10分の嘉多山公園に保存されている東武30号機/東武鉄道が発注した機関車で1914年(大正3年)英国ベイヤーピーコック社製。

 

佐野線の電車(←館林 モハ3557-クハ3657+モハ3564-クハ3664)

モハ3050系は4両固定編成の3050形と2両固定編成の3550形があり、昭和46年から48年にかけて旧5400系(モハ5400形、クハ450形等)の主要機器、台車を流用して車体を新製した車両で、野田線と伊勢崎線館林以北、佐野線、小泉線、桐生線で使用された。足回りの老朽化と冷房化不能のため平成8年までに廃車された。現在は8000系を3連にしてワンマン改造した800系が運用されている。

【韓国】非武装地帯の放置SL 復元展示       工-’79 山下敬司

半世紀以上非武装地帯に放置されていた京義線長湍駅SL(登録文化祭第78号)が
59年ぶりに化粧直しして一般に公開された。

臨津江(イムジンガン)の通称「帰らざる橋」の隣の上り線側橋梁跡の延長線上に、復元SLが保存された。

先日訪問してみた。

当日はあいにくの雨だったが、観光客は結構いた。

雨のせいもあるが、鉄の色がさび色を帯びて茶色っぽい。

だが、煙室などは原型をとどめている。

穴は戦争時に被弾した弾痕だとのこと。1000発以上の弾丸が貫通していたそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正面側から見る。

正面には観覧用に陸橋が設置されている。全体的にはさすがに痛みがひどい。

 

放置されていた間に、煙室の中に木が生えていたそうだ。

その木がここに植えられている。

現在、南北の交流は冷めていて、国境を列車が走ることはなくなってしまったが、

北朝鮮の体制が変わり、また列車が走る日が来ることを祈るばかりだ。

韓国1971年その4

 ソウルの南約40km、世界遺産の町水原。今は地下鉄も開通してソウルのベッドタウンと化したが、当時でも列車に乗ると簡単に行けた。4月26日、同行の友人と別れて一人やってきた。今回、紹介するナロー762ミリゲージの存在は勿論知らなかったが、小生の1週間後の5月2日にここをグループで訪れた訪問記が鉄道ピクトリアル1971年9月号No255に掲載されているのでお持ちの方は参考にされたし。このナロー鉄道は水原を拠点に西は南仁川まで52km、東は驪州まで73.4kmあり、西側は7往復、東側は5往復の列車が運行されていた。形式はヒョーキと称しており、ハングル字のナンバープレートでも判読できるが、何故ヒョーキと称したのかご存知の方が居られたらご教示願いたい。なお、蒸気機関車のヒョーキ11形は汽車会社蒸気機関車製造史昭和47年交友社発行によると1D1形テンダ機関車を、昭和12年に7両(Nos.900~906)、昭和19年に2両(Nos.910~911)を朝鮮鉄道株式会社に製造納入したとあり、それらの一部を撮影したものと思われる。なお、本機の設計は高田隆雄氏の処女作との記述あり。他の車両も日本製が多いと思われるが、研究不足でこれまた、ご教示いただければ幸いです。

ヒョーキ11-7 番号7だけの表示である

ヒョーキ11-7牽引混合列車の出発

ヒョーキ11-8

ヒョーキ11-14 戦時設計のドームと2軸テンダ特徴

休車中のヒョーキ8-28タンクロコ

庫内のヒョーキ1

客車18016

客車内 板張りシーと裸電球 凡その大きさがわかる

台湾鉄道全線乗車の旅 Part10 花蓮→台中

5月27日
① 花蓮9:45-(自強號1051)→12:16台東
② 台東12:40-(復興號 174)→15:50高雄
③ 高雄16:30-(自強號 1034)→19:02台中

 

訪台して8日目、初めて、雨の朝を迎えました。涼しそうなので。傘をさしながら、ホテル周辺をゆっくりと、朝の散歩を楽しみました。そして、ホテル内での朝食後、花蓮駅に向かいました。

駅中では、ナローゲージ時代の写真が展示されていました。写真は、陽に焼けてセピア調になっていましたが、それが過去を物語っているように、思えました。撮りましたので、転載させていただきます。

9:35、樹林駅を始発した自強號(日立製のDR3000型6連)が,入線してきました。3両が1ユニットで、前後は、各310HPの動力車、中間車は、電源用で、270HPのエンジンを搭載しています。
花蓮駅では、大勢の降車客がありました。乗車客も多く、発車前には、満席状態となりました。そのためか、花蓮駅を停車する全列車とも10分前後の、停車時間となっています。

今日も海側の窓席なので、気がねなくカメラを車窓に向けられますと、思っていたら、今日も隣の乗客は、かわいい台北○○大学の女子学生です。
昨日と、同じパターンで、面接試験やら、休暇には、日本に行きたい、日本のことを教えて下さいと、質問攻めは、台東駅まで、続きました。ナロー時代の話を聞きますと、『生まれていなかったので、知らない。』と、あっさり片付けられました。それでも、沿線案内は、英語も交えて、親切に説明してくれます。

列車は、花蓮駅を出ると、大きな河川をわたり、海から遠ざかり、標高2000mを超える山々をバックに、花蓮渓沿いの水田地帯を走行します。その後は、山間に入り、トンネルを抜け、サミットを通過して、いくつもの河川を渡り、また豊かな農作畑の中を南下します。この繰り返しが続きます。

非電化の単線ですので、途中駅では、逆方向の列車との、交換があります。R100型に牽引された無空調のTRK3200型、現存するDCとしては、最古参の東急製DR2700とも交換をしました。
東部幹線の非電化区間は、レトロ車両の宝庫です。車窓も、海・山・農作地と絶妙の調和を見せてくれます。自然と鉄道が一体化しています。しかし、旅情豊かなこの路線も、もう直ぐ電化工事が始まります。電車が走り、冷房がないレトロ車両は、淘汰されるでしょう。

やがて、列車は、広いヤードに入りました。その中に、台東駅がありました。駅前は、これでもかと、思える広さです。花蓮駅と同様に、改軌の際に、町外れの広い土地がある場所に、駅を移しもした。新しい台東駅は、豊かな自然にいっぱいの、公園の中にあります。

 

台東駅での乗継時間に、駅コンコースと、周辺をまわってから、台鐡一番といわれている名物、池上駅弁を購入しました。日本にも輸出されている池上米は、台湾の魚沼産コシヒカリと言われていて、この炊き上げたご飯に、地元産の美味しいたくさんの具材が、敷き詰められた駅弁は、本当に旨かったです。

台東駅からは、R124號に牽引された10両編成の復興號で、高雄を目指します。この列車もほぼ満席状態でしたが、運よく隣の席は、ようやく空席になり、静かに旅情を楽しめると、思ったら、通路反対側に座っていた、女子大生と中学生の姉妹から、やはり、アプローチをかけられました。

私の席は、山側だったので、海側に座っている彼女達に、気兼ねなく写真を撮るには、都合良かったので、誘いにのりました。『親戚の住む台東の、東約33キロの太平上に浮かぶ孤島『緑島』に行って来た。海底から吹き出る温泉もあって、とても素晴らしいところです。おじさんも行きなさい。』と、詳しく、観光案内をした後も、『長い陸橋をわたりますよ。』『海が見えて綺麗ですよ。』等々、沿線案内を続けてくれます。

南迴線は、海に面した断崖絶壁を、はうように走行します。絶景、絶景の連続です。日本の鐡道でも。好んで海沿い乗車しましたが、これほどの雄大な車窓は、ありません。何回も訪れたい路線の1つになりました。途中、下は絶壁の有名な多良駅がありましたが、残念ながら廃駅となったそうです。

彼女達が、静かになったなと思ったら、話疲れたのか、寝ています。高雄駅手前の屏東駅で、『良い旅を続けてね。』と、かわいい笑顔を残して、降りて行きました。

高雄駅での乗継時間に、前々日、開館時間前で見れなかった、旧高雄駅舎に行きました。何か、高雄駅の歴史とか、沿線各駅で見た昔の写真等が展示してあるのかと期待しましたが、中は、鐡道とは、関係のないガラクタだらけです。これなら、ホームで、発着する車両を見ていた方が、良かったですね。

ホームに降りると、すでに列車は、入線していました。かなりの混みようです。指定席に行くと、やはり、無座券を持っての先客が座っていましたが、直ぐに空けてくれました。立席客の多くは、大学生です。台湾に着いてから知ったのですが、明日から端午の節句休みなのです。

日本では、新暦の5月5日と毎年決まっていますが、多くのアジアの国では、旧暦です。こういった祝日は、毎年違っています。今年は、5月28日(木)が、その日で、多くの企業や学校は、29日も休みにして、土日を入れての4連休にしています。このために、授業を終えた大学生が、旅行や帰省で、大挙して、駅に来ているのです。

今日の終着駅、台中駅では、もっと大変な事になりました。降りるのに、一苦労です。マナーの良い学生ばかりなので、出口ドアまで、何とかたどり着けましたが、デッキまで一杯です。降りると、ご覧のとおり、長蛇の列で、乗り込もうとしていますが、とても全員乗り切れません。次の列車を待っていました。

駅の待合室も満席状態です。その待合室奥に何やら、気になる店屋を見つけました。店屋の名前は、『台鐡本舗』です。入ってみると、鐡道関係の書物やグッズの数々が、並べられています。訪台後、街を散策する度に、必ず本屋を見つけては、鉄道雑誌がないか探したり、尋ねたりしていました。嘉義で、蘇照旭著の『阿里山森林鐡路傳奇』と、台北駅売店で、『鐡道旅行』を買えましたが、見つける事はできませんでした。

聞けば、最近オープンしたばかりで、台北駅、高雄駅にもあると言います。結構、駅中は、うろうろしていたのですが、全く気づきませんでした。欲しい物は、山ほどあります。しかし、とても持てそうにありません。とにかく今、即刻欲しい時刻表と、撮影に便利なダイヤグラフを本にしたのだけにして、後は予約を入れて、台中を離れる際に購入する事にしました。

今夜のホテルは、駅近くですが、雨も降ってきましたし、もう夜です。駅前のタクシーに乗って、前回の事のないように、何度も運転手と確認して、向かいました。

そして、今夜の夕食は、勿論、台中の夜市です。何ヶ所かあるので、ホテルのフロントで、1番近い夜市『一中街』を選んでもらって、出かけました。

明日は、ローカル線の集集線と、彰化扇形の機関区の見学予定です。 Part11へ続く

台湾鉄道全線乗車の旅 Part9 高雄→花蓮

第7日目 5月26日

① 技撃館7:12-(MTR)→7:22大寮
② 大寮7:28-(MTR)→7:46美麗島
③ 美麗島7:52-(MTR)→8:08小港
④ 小港8:40-(MTR)→8:42高雄國際機場
⑤ 高雄國際機場9:16-(MTR)→9:36高雄車站
⑥ 高雄車站9:52-(MTR)→美麗島9:54
⑦ 美麗島10:04-(MTR)→10:12技撃館
⑧ 技撃館10:50-(MTR)→10:58美麗島
⑨ 美麗島11:10-(MTR)→11:22左營
⑩ 左營12:00-(台湾高鐡434)→14:00台北
⑪ 台北14:30-(台鐡自強號『太魯閣號』1063)→16:45花蓮

今日は、台湾新幹線太魯閣號に初乗車です。切符は、20日台北駅で、すでに買い求めていましたので、乗車までの間は、昨日に全線乗車できなかったMTRと、保存されている高雄旧駅舎見学です。

早起きして、シャワー後、荷物をホテルに預けて、まずは、橘線の終点大寮駅を目指しました。終点手前で、地上に出ると、車庫がありました。それからは、高架線を走り、大寮駅到着です。駅前を見渡しましたが、まだ開発中のようで、遠方に町並みが見える程度です。

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韓国1971年その3

 慶州、東大邱に続き今回は水原、ソウルの鉄道風景を紹介したい。水原はナローゲージの鉄道が見られたが、これは次回としたい。数年前に水原まで乗り鉄したが、通勤電車が走っており、風景の激変に驚く。この1971年はまだ、夜12時以降は外出禁止令が出されていた。日本では東京都知事は美濃部さんの時代であり、韓国の年配の方は、それを非難し、反共色が強かった。水原駅前には韓国鉄道近代化のあるべき姿のひとつであろうか日本のブルートレインがPRボードに見られた。韓国は客車列車が多く、台湾などと同じようにアメリカGE製のディーゼル機関車がブンブンと大きな音をたてて走っていた。客車の一部には25メートルくらいある米軍が持ち込んだと言われるダブルルーフの客車も結構見られた。

1971.4.26 水原 ディーゼル機関車に牽引される客車列車

 

1971.4.26 水原出発 釜山行き観光号

1971.4.26 水原 日本のキハ20タイプの気動車

1971.4.26 水原 機関車の直ぐ後ろに見える大型ダブルルーフ客車は米軍の持込

1971.4.26 ソウル駅北側 戦前の鮮鉄特急「あかつき」は釜山~京城(ソウル)であったが、急行「ひかり」「のぞみ」はさらに満鉄方面へ、急行「大陸」、「興亜」は北京に向かっていた。

 

 

 

台湾鉄路全線乗車の旅 Part8 高雄地鉄

第6日目 5月25日

嘉義16:10-(区間車3165)→18:03高雄

 台湾鐡路全線乗車の旅も、中盤6日目の朝をむかえた。昨日は、フル稼働だったので、老体を休めなければ、この蒸し暑さには、身がもちません。台湾は、温泉大国でもあります。丁度、バスで、約1時間ほどに、台湾屈指の珍しい泥温泉の、関子嶺温泉がある。平渓線で、CK124を撮影した時に、知り合った若い日本人夫婦も薦めていた。バスターミナルもホテルから、徒歩5分となれば、行ってみるしかない。

ただ、台湾の路線バスの運転は、日本ではお目にかからないほど、すごい。急カーブをもろともせずにタイヤを鳴らしながら、突っ走る。北台湾で経験済みです。ここもそうなんだろうと、覚悟して乗車しましたら、昨日の田野列車に、毛が生えたような、うすのろ走行です。これは、寝るしかないと、運転手に下車駅を言って、揺れるがままに任せました。

車内に響きわたる運転手からの、アナウンスで起こされました。あたりの景色は、市内地から山の中です。川を挟んで、古びた温泉旅館が並んでいます。先まで行くと、さまざまな浴場を完備した、近代的なスパ温泉があるのですが、手短にバス停前の温泉旅館に入ったのが、間違いでした。

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台湾鉄路全線乗車の旅 Part7 渓湖糖廠

第5日目 5月24日 その3

阿里山鉄道嘉義車庫を出た私たちは、快速道路1号線から19号線に入り、戦前、台湾を南北に分けた濁水渓に架かる 西螺大へと向かいました。

約1時間で、西螺大橋に着きました。しかし、朝からのバイク相乗りは、初体験もあって、かなり疲れてきました。おまけに、この暑さです。意識が、ぼ~として、走行中でも、眠気が襲ってきます。危険と思い、ここで、しばしの休憩をお願いしました。 続きを読む

台湾鉄路全線乗車の旅 Part 6 阿里山鉄路嘉義車庫

第5日目 5月24日 その2

嘉義市内戻ると、彼は行きつけの庶民食堂に連れて行ってくれました。地元人でないと、こういったところへは、行けません。食事後、顔を洗いたいと、近くの勤め先の、阿里山鉄道嘉義車庫へ向かいました。
日曜日ですので、門は閉まっていましたが、彼は、ポケットからコードレスキーを取り出して、開けて入っていきました。予定には、なかった車庫見学が、実現しました。


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下関駅を想う

写真展が終わって腑抜けた気持ちを引き締めるためにも、せっせと投稿へコメントを寄せていますが、やはりここらで自身の思いも披瀝してみたくなりました。以前のK.H.生さんの寄稿「山陽線西部の117系」のなかの下関駅への思いが心に残ります。
鉄道趣味人生にターニングポイントになった駅、というのがあると思います。私の場合、下関駅がそのひとつになっているのです。

今から40年以上前の昭和40年9月、高校1年生の私は山科の大築堤に立っていた。新幹線開業後で、特急こそ消えたものの、まだ急行列車は健在であった。京津線で御陵まで行き、駅前の道を南下して築堤を駆け上がって行った。今なら築堤に立ち入れば即警察沙汰だろうが、当時は自由に入れて、しかも撮影者はほんの2、3人という状態だった。そのとき、近くにいた撮影者から声を掛けられた。京都の人間だと言うと梅小路のC51の写真を交換してほしいと言う。鉄道雑誌の巻末にも必ず写真交換コーナーがあり、写真交換が盛んな時代だった。
C51の写真を送ってあげると、返礼に写真が2枚送られてきた。そのうちの1枚が、下関駅で撮影されたC62の牽く「さくら」の到着シーンだった。京都からほとんど出たことのない身にとって、彼の地の写真は実に衝撃的に映った。印刷した雑誌では得られない、ナマ写真の迫力は違っていた。135ミリの望遠で下からあおったC62の迫力、朝の斜光線を浴びた20系客車の輝き、手旗を振る作業員の表情、すべてが鉄道への憧れを満たすのに十分な内容だった。「いつかはこんな写真を撮ってみたい」、40年以上も鉄道写真を撮り続ける端緒になったのが、人からもらった下関駅の写真だった。ちなみに声を掛けてきた撮影者は、大阪市在住の広瀬さんという方で、その頃の鉄道ピクトリアルの写真コンクールの常連だった。今ごろどうされているのか…。

人からもらった下関駅のC62「さくら」。今も大事に貼ってある。

 

その1年半後、意外に早く下関駅訪問が実現する。高校2年生のとき、初めて一人で行った長距離の撮影旅行、夜行列車で迎えた早朝に下関駅に下車した。高架のホームから朝陽が昇り始めた関門海峡が望める。こんな大きな駅で海のすぐ側にある駅というのも珍しいことだ。下関は直流区間の終端で、181系特急、153系急行が続発、客車を牽くEF58は下関機関区に39両が集結し、最大のEF58配置区だった。興奮を抑え切れずに駅で写しまくったのは言うまでもない。この日は、門司区、若松区を巡って、初めてのユースホステル宿泊として、市内の火の山ユースホステルに泊まったのも印象深い。
この日のことには後日談がある。下関駅の旧駅舎が建て替えされるのを惜しんで、旧駅の思い出文集の募集があった。この日の印象を纏めて送ったところ、日の出の写真とともに掲載されたのも思い出深い。
K.H.生さんも書かれているように、三角屋根の特徴ある下関駅駅舎は、2006年に放火で全焼した。前述の文集はその建て替えに際して発行されたものだった。1999年には駅の自由通路を暴走してきた自動車に多数の乗客が轢き殺される事件が出るなど、旧駅の末期には不幸な出来事が続いた。

その後、何度も下関駅を通ったが、通過するだけで、駅に降り立つこともなくなった。しかし、下関駅を出て、機関区を眺めながらぐんぐん下っていき、関門トンネルに吸い込まれ、いよいよ九州へ踏み込むという感慨は、本州最西端の下関ならではの思い出だった。

 

ホームから関門海峡に昇る朝陽が眺められた

下関駅で発車を待つ「第一しおじ」。先頭はクハ181-1

多くの人の旧駅の思いが詰まった文集

台湾鉄路全線乗車の旅 Part5  烏樹林糖廠

続編を投稿するのを、サボってました。今度は、中国本土の鉄道乗車の旅を楽しんでいたからです。何度も乗っていますが、今回も出会いや、発見がありました。詳細については、台湾鉄路の旅が、終わってから、載せますので、よろしくお願いします。

第5日目 5月24日 その1
阿里山鉄路乗車で、出会ったDLの運転手は、約束の朝8時に、愛車にまたがり、ホテルに迎えに来てくれました。ヘルメットを、かぶっての、初めてのバイク相乗りです。走行中に落ちないかと、心配・緊張の連続でした。日曜日とあって、走行する車が少ないので、50~70km/hで、快走します。日本では、真夏と思える日差しを浴びています。生暖かい風を受けての走行ですが、暑さは、やわらぎました。

バイクの多い台湾です。国道を見ますと、バイク専用の車線があります。一路、台湾鉄路(略;台鉄)沿いの快速道路1号線を南下、烏樹林を目指しました。途中で、台鉄後壁駅に立ち寄りました。次回のために、駅前のバス発車時刻を見ておこうと、探してみましたが、案の定、バス停すら、見つけられません。彼が送ってくれなかったと思うと、感謝、感謝です。

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レトロ横濱撮影記

昨日、関東在住のDRFCクローバー会の3名、レトロ横濱を撮影してまいりましたので、ご報告いたします。

前日の土曜日の天気予報では、曇りの予報でした。

当日9時に、東海道線川崎駅下りホーム神戸方先端に集合したのは、準特急さん・新所沢都民さん・小生 デカンショまつり号の3名です。

品川から横浜への回送がまだということで、一旦、東海道線で横浜へ、横浜から京浜急行で一駅品川側の神奈川に戻り、思い思いの場所で、回送を待つこと30分強。いよいよEF641001+旧型客車7両+EF65501の回送が来ました。(一枚目の写真)

その後、京急神奈川駅で、再集合。残り少なくなった京急OLD1000系で上大岡へ、そこから京急自慢の2100系快特で金沢文庫。こんどは、800系の普通に乗換え、次の撮影地の最寄り駅安針塚へ。安針塚へ着いたには、小雨が降り出していました。傘をお忘れの準特急さんは、駅近くスーパーで、ビニール傘をご購入。糧食を補給の上、帝国海軍 横須賀鎮守府がおかれた横須賀軍港時代は、要塞地帯ということで到底、撮影が許されなかったであろう場所で、レトロ横濱1号を待つこと小一時間。この頃には、雨はすっかり本降りに・・・・この雨の中、雨に煙る横須賀軍港を背景に、EF65501をおしりにつけたレトロ横濱1号がやってきました。(二枚目の写真)

さらに、待つことしばし、隣の横須賀で折り返しのEF65501を先頭にしたレトロ横浜2号を撮影。(三枚目の写真)  元来、EF16などを置き換えるために生まれ、イベント用に茶色に塗られたEF641001より、特急専用機として生を受けたEF65501のほうが、いいと思うのは、私だけでしょうか?

ずぶぬれになったあと、安針塚に戻り、再度、京急利用。今度は、600系と、毎回乗車する車が違いました。一駅乗った後、逸見で下車。横須賀のどぶ板通りならぬシャッター通りを通って、雨の中、横須賀駅へ。

この後の撮影も躊躇するくらいの雨でしたので、3・4号は、安置欲に駅撮りすることに一同異議なし!上り横須賀線の車中の人になり、ロケハンしながら大船へ。長時間停車する大船は、既に大勢の鉄に占拠されていました。再度、流浪の民となり、東逗子に戻り、ここで、3・4号を迎え撃つことにしました。

雨の中、東逗子駅久里浜側先端でレトロ横濱3号を待ちました。四枚目は、帽子をかぶった準特急さんとEF641001のツーショットです。私の本命は、EF65501のお尻でした。準特急さんすみません。

今度は、東京方に移動し、レトロ横濱4号を待ちます。駅員の方から親切にも、ちょうど15時10分の通過時刻は、下りの電車とかぶるよというアドバイスをいただきましたが、もうここまで来たら動けません。運を天に任せて、レトロ横濱4号を待ちました。運よく横須賀発が1分の延。かぶられず撮影することができました。五枚目・六枚目。

撮影終了した頃、同じくクローバー会の逗子在住のシグマ太郎さんが長靴姿でご登場。しばしの逢瀬を楽しみました。

以上、レトロ横濱撮影記でした。

 

台湾鉄路全線乗車の旅 Part4 阿里山森林鉄路Ⅱ

第4日目 5月23日

① 沼平4:40→4:55祝山
② 祝山5:50→6:05沼平
③ 阿里山12:00→14:26トンネル
④ 樟脳寮15:05→16:09嘉義

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