おまたせしました!京阪2000系

やっと京阪2000系が登場しました。新型という意識がありますが、登場が昭和34年とか。もうそんなになるのか、と感慨を持ちますが当時とすれば先進のデザインだったと改めて感心しました。薀蓄はお任せしますが澤村氏の逝去が悔やまれて仕方ありません。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part9  ミュンヘンからエリトリアへ

5月27日 第4日目 その2

① ミュンヘン中央駅集合 13:00(Sバーン)→13:38 ミュンヘン空港
② ミュンヘン 15:55(MS788)→19:40 カイロ
③ カイロ 23:16(MS833)→3:05 アスマラ→ホテル

ミュンヘン中央駅で全員集合後、地下鉄に乗車してミュンヘン空港に向かいました。市内から乗り換えなし、所要時間は約30分強と便利で近い空港です。地下鉄ホームから地上に出るとすぐに搭乗する第2ターミナルの入口です。
1995年に開港したミュンヘン空港は、市内から28キロに位置します。ドイツでは、フランクフルト空港に次いでの利用客でヨーロッパでは第7番目となっています。

早速搭乗手続きを済まして、出発待合ロビーでビールを飲みながら搭乗を待ちました。▲ 機内食、左はMS788、右はMS833です。同じエジプト航空ですがメニューは違っていました。ただどちらもアルコールの機内サービスはありません。カイロで乗り継ぎ時にビールを求めましたが、空港内売店でも売っていません。これにはビール好きのO氏共々参りました。ミュンヘン出発時にウイスキー等のアルコール調達は必要だったと、気づいたのは遅かったようです。
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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part8  ミュンヘンの路面電車に乗って

5月27日 第4日目 その1

① 路面電車撮影9:00→11:45ホテル
② ミュンヘン中央駅集合13:00(Sバーン)→13:38ミュンヘン空港
③ ミュンヘン15:55(MS788)→19:40カイロ
④ カイロ23:16(MS833)→3:05アスマラ→ホテル

今日も朝食はホテル代に含まれたバイキングです。ミュンヘンインターシティホテルはフランクフルトとメニューは同様に十分満足できます。明日には未開の地にいます。向うに行ったらどんなものが食べられるのか分かりませんので、しっかりと栄養補給しました。

▲ ドイツの伝統的な焼き菓子プレッツェルを中心に各種のパン、ヨーロッパらしく多種のジャム、チーズ、ヨーグルト、そして紅茶等々が並びます。ちょっと日本とは違ったメニューは楽しめましたが、新鮮野菜が欠如しているのはなぜでしょうか、生野菜を食べる習慣はないのですかね。

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エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part7  ミュンヘンは、オクトーバーフェスト

9月26日 第3日目 その2

着いたミュンヘンは、世界最大のビール祭り「オクトーバーフェスト」の真っ最中でした。これを目当てにミュンヘンに来たわけではなく、エリトリア鉄道の乗車と撮影が目的でたまたま開催日と重なった訳です。着いたミュンヘン駅構内も民族衣装を着た参加者がたくさんおられました。
今日は、
エリトリア鉄道へ同行させていただくW大鉄研OBのO氏ご夫妻と、もう一人のN氏と16時30分に待ち合わせて、一緒にビール祭りに行くことになっています。まずは、腹ごしらいと路面電車撮影のロケハンに向かいました。


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阪神電車の追加

その昔のものが総本家さんの所に保管されていました。残念ながら5001+5002はないとの事。そのうち富士写真店さんに探してもらいましょう。ヘッドマークは古いほうが精悍ですね。何しろ梅田・三宮間25分で走ったのです。それも正真正銘のノンストップ特急だったのです。元町までが27分。この頃の阪急特急はまだ三宮の手前、春日野道あたりを走っていたのですが、残念ながら阪神は地下線のため置き去りにした阪急を見ることは不可能でした。この301形(3011系とも言う)のシートが沈み込むようなクッションで、これも忘れられない思い出です。国電の急行電車はこの頃、阪神間何分で走っていたのでしょうか?モハ52、80系共に旧性能車時代ですが、私鉄には負けていなかったように思います。
1958年は旧ヘッドマークで3連だった。(甲蜷・?下り先端)

1958年は旧ヘッドマークで3連だった。(甲子園下り先端)

1959年秋には4連3本3連1本に組み替えられた。
1959年秋には4連3本3連1本に組み替えられた。
ステンレス車体の試作を汽車会社に提案されたが・・・・・・
ステンレス車体の試作を汽車会社に提案されたが・・・・・・
どこかの大螯・?研が見螯・?来ていた。台車はKS59.空気バネ。
どこかの大学鉄研が見学に来ていた。台車はKS59.空気バネ。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part6  ICEに乗って、フランクフルトからミュンヘンへ

9月27日 第3日目 その1

フランクフルト9:54(ICE529)→13:09ミュンヘン

平日朝の路面電車やフランクフルト中央駅の光景も見たいとICEの乗車時刻は遅めの9:54にしていました。
この切符はご覧のようにOnline-Ticketです。DB(ドイツ鉄道)のホームページから日本の自宅で事前に購入しましたが、初めてのOB切符購入です。何も分からずに購入挑戦を試みましたが英文で、さっぱり分かりません。英語の堪能な知人に聞きに行ったりして、インターネットでの購入方法を理解して手に出来るまでには1週間を要しました。

【初めてのOBの乗車券購入】
皆様ご存知のとおり、ドイツ国内のみを安く利用するには、 ジャーマンレイルパスがあります。通用日数は、4~10日間を選択でき、2人用のツインパスならさらにお得ですが、今回は行き帰りの各1回のみですので対象外です。

選択できる対象乗車券はには、①バーンカード②シュパープライス③ダウアー・シュベツアルの3種がありました。

①は、普通運賃が25%割引 と50%割引の2種類がありますが、2等ですと450ユーロ以上でないとモトがとれないため、また前もってバーンカードを購入しておかねばならず面倒ですので外しました。
②は、往復の乗車券で、特定列車に有効、週末限定等々制約がありましたので、これも外しました。
結局③しか選択肢は残りませんが、これも列車ごとに発売枚数が限定されています。変更や払い戻しは受けられませんが、今回は乗車日が確定しているので、これに決めてインターネットで獲得することにしました。

検索すると、同じICEでも列車ごとに違う料金が出ていました。日本なら乗車する「のぞみ」の時間帯によって異なる料金設定がされているようなものです。そして2人だとさらに割引料金が設定されています。日本でも季節や週末限定、ローカルから都会へ等々の格安切符が設定されていますが、さらに細かくの料金設定です。これはお得だと購入に進みましたが、最後にユーザー名とパスワード等を聞いてきました。あらかじめ名前・乗車・TEL・決済するクレジット番号等を登録してからログインに必要なカスタマー№を受け取らなければならなかったようです。また1からやり直しです。

そんな訳で英文の確認やらでPCのプリンターから切符を印刷できるまで、1週間もかかってしまいました。出発前に一苦労しました。 続きを読む

伊香保電車の絵はがき

[15364]伊香保電車のバスカードを藤本哲男氏が紹介されました。この中の1枚を見て 一連の絵はがきが手元にあることを思い出しました。あかぎ出版が製作された絵はがきです。高崎の書店で入手したものです。その包装(カラー)と7枚の絵はがきを紹介します。高崎銀行街を行く19号の写真がバスカードのものと同じです。

 

撮影場所と撮影者はそれぞれの写真に添え書きされていますが、あいにく撮影年月日は不明です。

このあかぎ出版からは他にも「アプトの道 碓井線」の8枚組絵はがきや写真集「足尾線の詩 思い出のSLと子供たち」が発行されています。足尾線の写真集 (A5版112ページ 1800円)は総本家特派員殿はじめ諸兄好みの 人のいる鉄道風景が数多く収録された好著です。ご希望があれば貸し出し致します。なおあかぎ出版の住所は下記のとおりです。

〒379-2301群馬県太田市藪塚本町大字藪塚1499-6 fax 0277-78-6273    akagipbl@bi.mbn.or.jp

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part5    路面電車に乗ってフランクフルト市内観光

第2日目 9月25日その3

 

交通博物館視察後は、再び路面電車に乗ってフランクフルト市内観光と撮影をすることにしました。
Schwanheim Reinlandstrasse12:15(Line12)→13:19Hugo-Junkers-Strabe
③ Hugo-Junkers-Strab13:23(Line12)→13:34Eissporthalle/Festplatz


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伊香保の電車のバスカード

9月30日、乙訓の長老投稿の【15057】「老人、伊香保温泉に遊ぶ」に関連して、西村雅幸さんが10月4日【15086】「伊香保の電車について」で平形眼科医院に保存されている電車の紹介があった。東武鉄道伊香保線、渋川~伊香保間が廃止されたのは昭和31年12月29日で、実に半世紀以上に亘って保存されているが、普段のメンテナンスが行き届いており極めて良好な状態である。
電車廃止後は東武鉄道のバスに代替されたが、群馬県内のバス路線撤退により、グループ会社の関越交通に引継がれた。
電車の伊香保終点の場所は、バスターミナルの下の原沢医院の辺りだそうである。
昨年所用で高崎行った時、駅前のバス案内所に伊香保軌道線のバスカードが販売されていたので購入した。発売元は関越交通であるが、群馬県下の殆どのバス会社で使用可能である。

 
 伊香保線の前身は伊香保電気軌道として明治43年渋川駅前~伊香保間を開業し、大正2年11月に渋川駅前~伊香保間12.6㎞を開業した。撮影場所の八幡裏は渋川駅前から2.9㎞の地点で、市街地を過ぎて本格的な山登りに差し掛かった地点である。
 

 

高崎線は群馬馬車鉄道として高崎~渋川間を軌間576㎜で開業し、明治41年8月高崎水力電気に吸収合併、明治43年9月全線電化と1067㎜に改軌が完成した。営業キロは20.9㎞で写真の九蔵町は高崎駅前から1.2㎞の地点である。 

渋川駅~伊香保温泉間は現在でも1時間に3本程度運行されている。伊香保温泉終点のバス停は温泉街の中心で、ロープウェイのりばに隣接した地点である。
距離は短いが観光路線のため、東武時代は貸切り改造車も使用されていた。

  東武の伊香保温泉バス停 (昭和59年10月23日)

  東武時代の前後扉の路線車 (昭和59年12月27日)

 
    貸切車を転用した車両 (昭和59年8月25日)

 

   貸切車に中扉を増設した車両  (昭和60年7月28日)

高崎駅からは群馬バスが運行されており、新幹線利用の場合、上越線に乗り換えることなく、直接伊香保温泉にアクセスできるが、1日5往復(土休日は伊香保方面6本)と本数が少ないのが難点である。伊香保温泉のバス停は関越交通とは別の場所で温泉街の中心からは少し離れている。関越交通の一部の便がここまで乗り入れており、バス停の名称は伊香保榛名口となっている。

  群馬バスの伊香保温泉バス停(昭和60年1月15日)

  群馬バスのターミナルに乗入れた東武バス。バス停の名称は伊香保榛名口(昭和60年1月15日)

  群馬バスの車両。東急グループのロゴが付いているが、現在はグループから分離されている。(昭和59年10月23日)

デジ青で外回り鉄

KAWANAKAです。

昔(1966)には、青信号の弟分「補機」が誕生し小回りの利いた発行がされていた。今では関東のDRFC連絡網として、デジ青の弟分というべきe-drfcが会員中で存在している。そのなかで寝台特急「曙太郎」(初代)氏が「外回りをすると、色んな風景に出合います。それがサラリーマンのオイシイところなのか?。最近撮った「外回り鉄」の一部をどうぞ。」と書き込みをされていて、外回りの時にふとであった風景を描写されている。

小生と高校時時代から同期であるF本氏も、仕事が早く片付いたし帰るのには時間があったからと、本人は外回り鉄と称していないがデジ青で掲載されています。

小生もそんなに外回り鉄の機会に恵まれているのではないですが、また内容はアカデミックでもないですが、それでも外回り鉄をします。みなさん停年になった人は別としてやはり外回り鉄と思いますが、小生も先日外回り鉄の機会に恵まれたので、帰るのに時間があったわけではないが回った。

10月3日、五井に出張があって、15時に現場解散となった。みなさん五井から東京へ向かわれれたのですが、小生は別れて何処まで行けるかと小港鉄道に乗ることにした。丁度良い時間に列車があって、海士有木くらいが限界と考えて日が傾きかける時間に動き出した。

海士有木は2つめの駅で、小港の雰囲気が味わえる最短の場所であると思った。

では外回り鉄をどうぞ。

海士有木から歩いて1分。上総村上の踏み切りから次の下り列車。この踏み切りは至って交通量が多く、道路を渡るのが一苦労。

車両が見えてかかなり経ってから警報機がなり、言わば詰まらん写真ですが撮り放題。見ると向こうに彼岸花が咲いている。まだ明るいのでつぎはそれを入れようと・・・。

ところが現場は側溝があり水が溜まっている。小生は大体水に落ちる性質なので諦めて反対側へ、秋の夕暮れが近いなかを捕ることができました。手前に季節の花があればよかったですが。

あとは駅へ戻ります。線路が綺麗です。

帰りの時間まで少し時間があります。もう1本撮ってから。

海士有木の小さな駅に五井行きが入ってきました。乗客は2人、社内には数人がいました。

それまでの時間、平日は有人、休日は無人、土曜は半分だけ有人の駅の業務委託を受けたおばさん駅員と雑談で時間を潰します。乗客とはみんな顔見知りで、帰ってきた客にお帰りと声を掛けたりしている。都会では見えられないこの風景が懐かしい。

いよいよ乗車の列車が来ます。閑散としたホームに入線の単行を撮ろうとしたら年配の乗客が・・・。おばさん「ちょいと写真と撮っているから下がってあげなさいよ」、おじさん、乗ることに一生懸命で聞こえません。

少し先頭が画面から出たところで、ライトのハレーションが起こらないこと確認して1枚。この日最後の撮影です。雰囲気が出たでしょうか。

急いでこの列車に乗って、おせわになったおばさんを1枚。

外回り鉄は仕事の疲れを忘れさせますね。おばさん、またお世話になります。

外回り終了です。

流された鉄橋の下の廃線跡 (3)

今回の台風で被害の大きかった新宮は、熊野川の河口であり、上流から筏を組んで運ばれてきた木材の集散地として栄えてきました。しかし、河口が三角州のため、水深が浅く、木材を搬出する港湾設備には恵まれませんでした。そこで、天然の良港を持つ、近隣の勝浦(現・紀伊勝浦)まで、鉄道で運搬する計画が持ち上がりました。

新宮市内の市田川を渡る混合列車。この区間は線路移設で廃棄された。

このように新宮鉄道は、木材輸送を目的として明治期に会社設立された。軽便鉄道法に基づいて、明治44年から建設工事が始められ、大正2年に新宮~勝浦間15.5kmが全通した。紀伊半島の鉄道の第一号であり、県都の和歌山でも、この時点で、南海鉄道、紀和鉄道(現・和歌山線)は開業していたものの、和歌山以南の現・紀勢本線は全く未開業の状態で、紀伊半島の先端で、文字通り陸の孤島として、鉄道開業したことは驚きに値する。
新宮鉄道のように、他の線と連絡しない鉄道線は明治期によく見られる。その多くは、石炭、鉱石、木材などを集散地へ運搬するための貨物輸送が主眼であった。開業後、客貨分離、ガソリンカーの導入など近代化にも着手した。勝浦からは、大阪商船の旅客船が大阪、神戸を結んだ。ところが国有鉄道による紀伊半島一周構想が持ち上がり、熊野市から新宮、勝浦を経て串本へ至る紀勢中線に計画の中に組み込まれた新宮鉄道は、昭和9年に国有化されることになった。ただ、国有化されたものの、紀勢本線は未開業で、他の線と連絡の無いことには変わりなく、新宮鉄道からの引継ぎ車両のほか、鉄道省から蒸機や客車が船送され、バッファ式連結器に取り替えて使用された。
その後、紀勢中線全通に向けて、改良工事が実施された。新宮付近は、大幅な移設が行われたほか、前回の廃トンネルや、前々回紹介の那智川橋梁もこの時の改良工事で廃棄されたものである。(終)

松林に沿って伸びる線路。現在もこの面影は残っている。

新宮駅構内。現在駅の駅前広場あたりにあった。(いずれも『目で見る熊野・新宮の百年』より転載)

阪神ジェット・カー、御影-石屋川間高架上

 前回に続き、5100系、5200系です。デジタル青信号の投稿ついでに、保存の阪神フォルダ内を見ていたら、新しい発見がありました。
 1962.3.25撮影、
御影駅西方、石屋川駅まで続いている留置線、施設完成前の高架上です。 また、このフィルムは、ビネガーシンドロームなど、全く影響がない正常な状態のFuji Neopan ss safty  です。たくさんのビネガーシンドローム被害のフィルムの中に、こんなのがあるから、いよいよもってビネガーシンドロームが解らなくなります。 1. 5100系、5101 、石屋川駅寄り

 関係者でもない私が、どのようにしてこの地点に行ったか覚えていません。昨今では撮影不可能な位置です。当時とは言え、まさかホーム端から歩いたとは思えず、高架下の昇降階段から昇ったのではないかと思われます。また、この場所も阪神大震災では大きな被害を受けました。

 

 

2.  52005214他、石屋川-御影駅の中間辺り

 3.  5200系5212他、御影駅近く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part4    フランクフルト交通博物館

第2日目 9月25日その2

中央駅前 10:18(トラム)→10:45 博物Schwanheim Reinlandstrasse

こじんまりした博物館と聞いてきましたがそのとおりでした。入館して早々に自動券販機の洗礼に会いましたが、すぐに係員が寄り添ってきて丁寧に取り扱い方法を教えていただきました。

入場券は3€(ユーロ)ですので、日本円で約300円ほど、リーナズブルです。


▲ 全盛期は36系統があったそうです。右は入館受付台です。
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房総半島横断の旅Ⅰ


 
上総中野駅での小湊鉄道といすみ鉄道の乗り継ぎ

 8月25日、所用で千葉県市原市に行った。葛飾区からはさほど遠くはないが、HPの表紙を飾っていた幕張車両センターの113系が撮影できるかもしれないと思い、早めに千葉駅に到着したが、来るのは元京浜東北線の209系ばかりであった。直ぐに撮影を切り上げて内房線の電車で木更津に行くと、久留里線のキハ3062+キハ381003の2連が到着したところで、大急ぎで撮影後、五井駅近くの用務先に向かった。

 所用は順調に捗り午前中に終わり、このまま帰るには早過ぎるので小湊鉄道といすみ鉄道を乗り継ぎ房総半島を横断して帰ろうと思った。駅で「房総半島横断切符」を購入する時「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスターが目に留まった。内容は千葉県内と鹿島線の鹿島サッカースタジアムまでのJRの普通列車、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で、特急券を買えば特急にも乗車可能で値段は1800円というものであった。「横断切符」は1600円で途中下車自由であるが、200円プラスするだけで松戸まで乗れるので、早速購入して小湊鉄道のホームに行くと11時40分発の上総牛久行が発車するところであった。車両はキハ202(昭和36年日車製)で座席が半分位埋まる位の乗客であった。27分で到着すると駅前には大多喜行のバスが停車しており、5名の乗客が乗り換えた。また後続の上総中野行に乗り換える客が4名いた。

 ところで五井から上総中野まで行く列車は、平日は9時22分、12時21分、16時の3本しかない。一つ手前の養老渓谷行が5本、途中の上総牛久行が20本、里見行が1本、早朝の上総牛久発上総中野行が1本である。土曜日と休日は上総中野行が6本、養老渓谷行が3本となる。
一方、上総牛久~大多喜間にはバスは8往復(休日6往復)運行されている他に牛久~小湊、勝浦間の急行バス5往復も利用可能で、所要時間、運賃共にバスの方が断然有利である。(鉄道は最も接続の良いもので70分、運賃1250円、バスは普通便40分、急行は途中ノンストップで23分、運賃680円)

昭和50年4月時点の列車本数は、上総中野行13本、養老渓谷行3本、上総牛久行平日5本、休日2本で、上総牛久を境に五井方面は乗客が著しく増加し、上総中野方面は全くその逆になったことが判る。
五井~上総牛久間には上総村上、海土有木、上総三又、上総山田、光風台、馬立と6駅あるが、上総三又以外全部交換可能で、上総三又も近々交換可能する工事が開始される。一方上総牛久以遠は、途中駅のポイントを全部鎖錠して、上総中野までを一閉塞としたため、この区間は1列車しか入線できなくなっている。行楽シーズンの増発もままならない状況のため、近々里見駅の交換を復活させる工事が開始される予定である。養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着したので、次に乗る上総中野行のこの程度の乗客数だろうと思っていたところ、ほぼ満席であった。この先は無人駅が続くが、春には桜が美しいところである。養老渓谷で10名程降りたが、いくら夏休み中とは言え、平日でこの状態とは驚きであった。養老渓谷を発車したところで車掌嬢が切符の回収にきたが、ほとんどが「パワフル×スマイルちばフリーパス」を持っており、「房総半島横断切符」の乗客もいた。暫くすると乗り継ぎのいすみ鉄道が到着したが、こちらもほぼ満員であった。いすみ鉄道は車両が小さいので写真を撮っていると座れないのではないかと思ったが、何とか座れた。いすみ鉄道のホームの横の線路が小湊鉄道と繋がっており、その気になれば直通運転は難しい話ではない。

 14時丁度にそれぞれ満員の乗客を乗せた双方の列車がタイフォンを軽く鳴らして発車した。大多喜駅では車庫からキハ52が顔を出しており、途中下車して撮影しようかと思ったが、夕方までに帰る必要があったので今回はパスして大原まで乗車した。千葉行の普通列車までの間、駅近くの踏切で撮影後帰宅した。

 
 「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスター/千葉県内のJR、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で1800円は安い。また、特急券を買えば特急に乗車可能というのは「青春18」より使い勝手が良い。


 
C439編成クハ2092157/113系に替わって房総の普通列車の主力となった元京浜東北線の209系。ラッシュ時には京浜東北線時代と同じ10両編成が見られる。



キハ3062、下 キハ30100/木更津派出にキハ30の62、98、100の3両が配置され久留里線で使用されている。旧塗装に変更されておりファンには人気が高い。冷房は無いが夏でも日常的に使用されている。
小湊鉄道五井機関区/車両は昭和36年から52年にかけて6次に分けて製作されたキハ200形(201~214)に車種統一されている。209と210以外は冷房改造されている。209は休車中。


最初に乗車した五井駅11時40分上総牛久行のキハ202隣の無蓋車はバッファーの跡があり相当古い。

上総牛久駅で折り返すキハ202/昭和36年日本車両製の1次車で車齢は50年を超えているが手入れが良いため古さを感じない。 上総牛久駅

 手書きの高速バスの時刻表/五井~羽田空港間は頻繁に運行されている。上総牛久駅からは羽田空港経由横浜行が5往復運行されている。


 上総牛久駅 


 
五井~新宿間の高速バスのポスター


 上総中野行と交換の養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着/キハ214(昭和52年日本車両製)


 ほぼ満席で上総中野に到着したキハ212(昭和52年日本車両製)


 
上総中野駅/左の建物はトイレ

  
 間もなく上総中野駅に到着するいすみ鉄道キハ206


 キハ206/昭和63年3月国鉄木原線から転換時にキハ101~107として富士重工で新製。当初はセミクロスシートであったが、ロングシートに改造時にキハ201~207に改番。キハ204は余剰のため廃車になり、上総中川駅の近くの「ポッポの丘」で売店として使用されながら保存されている。左側の線路は小湊鉄道と繋がっている。


 
大多喜駅で交換したキハ205


 大原駅/JRの駅とは分離されている。


 特急「わかしお13号」/大原

房総半島横断の旅Ⅱ


 ポッポの丘の住人達


8月30日は夏休みであった。前回(8月25日)大多喜で見たキハ52125に是非乗ってみたいと思っていたので、再度房総半島を横断することにした。幸いこの日の午前中キハ52125が大多喜~大原間を臨時普通列車で運転されるので、大原から入り、撮影後に乗車して、上総中川駅近くの地元の卵や農産物の販売施設「ポッポの丘」で売店として使用されている車両を見学後、上総中野から小湊鉄道で五井に抜けるコースを考えた。ネックとなるのが小湊鉄道の運転本数で、上総中野発の列車は6時55分、10時45分、14時、17時15分の4本しかなく、14時発に照準を合わせて、沿線での撮影はパスして次回とした。

金町から下り電車に乗り、次の松戸で「パワフル×スマイルちばフリーパス」を購入した。新松戸、海浜幕張、蘇我、上総一ノ宮の各駅で乗り換え、大原に10時33分に到着し、10時39分発いすみ鉄道上総中野行に乗り換えた。次の西大原で降りて、大多喜方面に1キロほど歩いたところでキハ52125を撮影したが、普通列車として運転されているためヘッドマークはない。駅に戻り大原で折り返してきたキハ52に乗車したところ、同社の鳥塚社長が車掌として乗務しておられた。次の上総東で交換待ちの時に「社長さん自ら車掌をされて恐縮しています」と声をかけたところ「結構楽しいですよ」と答えられた。扉の開閉、車内アナウンス、観光案内、車内補充券、記念乗車券の販売と大忙しであったが、社長自ら車掌をされている会社は、観光鉄道ではあるかもしれないが、通常の鉄道ではここだけであろう。
車内は大糸線時代と全く変わらないが、ポスターは更に古い国鉄時代のものに取り換えられており、それもきわめて貴重なものばかりで感激する。通常ポスター類は掲示期間が過ぎると廃棄されてしまうので、本当によく残ったものと思う。これらのポスターを見るだけでもキハ52に乗る価値はあると思った。
上総中川で降りる時に社長(兼車掌)にDRFCクローバー会会員であることと「デジタル青信号」のことを伝えたところ「是非また来てください」と言われ、「今度は仲間と来ます」と答えた。
駅前の道路を大原寄りに少し戻り、踏切を渡って約15分歩いた最初の信号の所で、丘の上に元北陸鉄道のモハ3752といすみ鉄道のキハ204が見えた。更に歩くこと10分で「ポッポの丘」に到着した。ここは「ファームリゾート鶏卵牧場」の販売施設として5月1日にオープンしたもので、庭先卵や地元農家の野菜等が保存車両の車内で販売されている。いすみ鉄道キハ204、北陸鉄道モハ3752、万葉線デ7052の3両が販売施設として利用され、元JR西日本の小型DLが動態保存されており、ポッポ=蒸気機関車はない。北陸の車両が房総にあるのも不思議な感じがしないでもないが、往復1時間弱かけても見学に行く価値は十分あり、今後大切に保存されることを切に願う次第である。
駅に戻り、ほぼ満席の上総中野行(キハ202)に乗り、上総中野で8分で接続の14時発五井行(キハ212)に乗り継いだ。こちらもほぼ満席で、途中駅からの乗車もあり立客も出る程であった。折角の機会であるので途中で降りて撮影したいが、景色の良い上総牛久までは列車本数が少なく帰りが遅くなってしまう。最初の交換駅は上総山田のため、手前の光風台で降りて上総山田~光風台間の養老川の鉄橋で撮影しようと思ったが、時間的に厳しいので更に一つ手前の馬立で降りて、撮影場所探しでウロウロしている間に列車が来てしまった。次の列車で五井に行き、乗車したキハ207、入替中のキハ206+キハ213を撮影した。
113系はネット上では内房線と外房線で走ることになっており、今朝は本千葉駅で待っていたのであるが、来たのは209系であった。もう一度千葉駅に行き、来なければ諦めようと思った。案内表示を見ると17時10分発成東行が3扉8両となっており、待つことにした。その間211系が2本発車したがカメラを向けている人は見なかった。こちらも間もなく千葉地区から転属の予定で、行き先は中央東線とも新潟地区とも言われており、まだ決定には至っていないようである。
到着ホームの先端にはすでに多くの人がいたが、皆さんヘッドマークが目当てなのであろう。私自身も半ば諦めていたので最後になって撮影できたのは本当にラッキーであった。

 2日間とも房総半島を駆け足で横断したが、来春は横断しなくても、菜の花、桜を入れてまったりと撮影をしたいと思っている。小湊に行かない小湊鉄道と木更津に行かない旧国鉄木原線(→いすみ鉄道)が上総中野でドッキングした時点でお互いに工事を止めてしまい、その後も名前だけが残ったというのが何ともユニークで、もし両線ともに予定通り完成していたら上総中野は房総半島の一大ターミナルになっていただろう等と想像を巡らせた。 


 「パワフル×スマイルちばフリーパス」の広告/蘇我


 キハ52125/西大原~上総東


 キハ207/上総東


 キハ52125/上総東




 車内のポスター


 ポッポの丘/上総中川駅から徒歩25分


 協三工業製のDL/動態保存で約50mの線路を走る
 
  いすみ鉄道キハ204(昭和63年富士重工)


 北陸鉄道モハ3752(昭和26年広瀬車両)/加南線のクロスシート車として新製、昭和39年石川総線に転属し、その時にロングシート化された。昭和58年に車体更新され現在のスタイルとなり、平成19年10月に廃車になった。


 万葉線(←加越能鉄道新湊線)デ7052(昭和36年日本車両)/窓配置が不自然なのは富山地鉄市内線のデ7000形の中扉の位置を後部に変更したためであるが、何故最初から前後扉車として作らなかったのか不思議である。


 キハ212(昭和50年日本車両)/上総中野
 満員のため冷房が効かなかったため窓が全て開いている。


 馬立駅


 キハ211(昭和50年日本車両)/馬立~上総牛久


 キハ207(昭和45年日本車両)/五井


 クハ113-2049他8連/千葉(千葉寄りの先頭車)
 
 クハ113-242/千葉(銚子寄りの先頭車)


 クハ210-3040他5連/千葉
211系は5両編成17本配置され、総武本線、成田線で使用されているが、間もなく209系に置き換えられ他線区に転属する。


 
クモハ211-3040/千葉
廃車になった201系のパンタを増設した車両が9編成存在する。

 
 ありがとう113系記念弁当

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅  Part3  フランクフルト交通博物館へ

9月25日 第2日目 その1

中央駅前10:18(トラム)→10:45
博物Schwanheim Reinlandstrasse

エリトリアへは、明後日にミュンヘンから向かいます。今日はゆっくりと、フランクフルト市内を見てまわることにしていましたので、乙訓の老人様(以下ご老公)に路面電車についてご教授をいただいておりました。宿泊先のインターシティホテルで、チェックインからチェックアウトまでの3日間を無料で乗車できる市内交通パスをいただきましたので、フランクフルト交通博物館へ行くことにしました。


▲ フランクフルトの市内交通には、Sバーン(近郊電車)、Uバーン(地下鉄)とトラム(路面電車)があります。路面電車だけの路線図がなかったので、全市内交通案内パンフをもとに作成しました。

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駅風景 富山地鉄五百石駅

初めての投稿で失礼します。先輩諸氏の投稿内容がすばらしいので、ちょっと恥ずかしいですが、富山地鉄の駅が、なにやら趣きがあるので、なくならないうちに写真に撮っていた矢先に、新しい駅舎に建て替えるために五百石駅の駅舎がなくなりました。虫の知らせか、解体工事開始の1ヶ月前にあたる今年の2月6日に写真を撮りに行けたのでホットしています。

外観は左右対称のモダンな感じで、特に正面の車寄せの上にある屋根の形がモダンな雰囲気を出しています。富山地鉄の他の駅でも、このような屋根の駅があります。この駅舎は昭和6年(1931年)生まれで今年で80歳でした。車寄せの屋根を支える柱もしっかりしており、80歳とは思えません。

立山線の前身は立山軽便鉄道として大正2年に滑川から五百石間で開業したものです。富山の出版社桂書房から出版されている草卓人著の「富山廃線紀行」で立山軽便鉄道の項で開業当初の五百石駅は現在の駅の北東にある立山製紙の工場内であったと記載されています。この本によるとその後、富山市へ直行できないために乗客減となって経営改善のため富山地鉄の前身である富山電気鉄道と合併をします。これが昭和6年で、この時にこの駅舎が生まれたと思われます。駅の位置も現在の位置に変わったと思われます。

 

富山軽便鉄道は五百石駅から先は立山駅(たちやまと読む)が終点で、現在の岩峅寺駅のところでした。現在の富山地鉄五百石と岩峅寺の区間は立山軽便鉄道の線路を改軌、電化されたものです。

五百石駅の周辺には立山町役場があり、立山町の中心地となっています。駅員さんに話を聞くと、立山町役場に行く人が時々終点の立山アルペンルート出発点である立山駅まで行く人が時々あるそうです。考えてみれば、事情を知らなかったら立山町役場の最寄り駅が名前が同じ立山駅と思うのは無理もないことだと思います。まさか、五百石駅が最寄り駅とはとは思わないでしょう。

富山地鉄では旧駅舎を記念して「ありがとう五百石駅舎記念乗車券・入場券」として乗車券2枚、入場券1枚で700円で発売しています。台紙付で切符は硬券で駅舎の絵がかかれたものです。詳しくは富山地鉄のホームページにありますので興味のある方は一度見てください。また、「富山廃線紀行」は興味深い本で富山の桂書房から出版されており、ホームページもありますので、これも一度見てください。10月8日時点で残部小となっていました。やはり、このような本は売れるようです。

 

 

 

 

流された鉄橋の下の廃線跡 (2)

前回は、新宮鉄道の知られざる橋脚・橋台跡を記しましたが、よく知られているのは、現・紀勢本線の那智~宇久井~紀伊佐野、三輪崎~新宮に寄り添うようにして残っている廃トンネル群です。ただ、いずれも車内から確認するのは困難で、やはり歩いて探索するしかありません。

道路に転用された大狗子・小狗子トンネル。内部はコンクリートで巻かれている。

袖摺トンネルは煉瓦造りのポ-タルが残り、原型をとどめる。

那智~宇久井間にある大狗子・小狗子トンネルは、廃棄後、道路に転用され今も内部を通行可能で、現在の国道とも並行しているのでアプローチも容易である。宇久井~紀伊佐野にある袖摺トンネルは廃棄されたままだが、すぐ横を国道が通り、金網のすき間からトンネル跡にアプローチすることができる。
大変なのは、三輪崎~新宮間にある御手洗・稲荷山トンネルだ。現在線の横にあるものの、現在線は、切り立った海岸線ギリギリの狭隘部を走り、しかも途中にはトンネルがあって、探索者のマナーとしても、現在線のトンネルくぐりは避けたい。そこで、すぐ近くの熊野古道を歩き、見当を付けた付近から山林に入り、道なき道を藪漕ぎして、難行の末、ようやく廃トンネル跡に辿りついた。途中の密林の中を歩いていると、なぜか真新しいリュックが木のそばに置いてある。あたりを見渡しても人影らしきものは見えない。一瞬体が凍りついた。今でも、その持ち主がどうなったのか謎のままだ。
あと、以前は三輪崎駅付近は、痕跡がかなり残っていたが、付近に大型の商業施設が出来て、面影は残っていない。
また新宮駅付近は大きくルート変更された。当時の駅は、現在駅の正面あたりにあり、ここから途中の貨物駅を経由して海岸沿いへ直結していたが、現在は市街地を斜めに横切るルートに変更された。勝浦駅も現在の駅前広場あたり、構内も現在の勝浦町役場付近まで伸びていた。

人知れず眠る稲荷山トンネル。坑口の煉瓦が崩落し内部が露出している。

昔の出来事-九州

KAWANAKAです。

引越しを繰り返し、東西に出張所(最近は高崎も追加)を持っているとどこに何を仕舞い込んでいるのか分からなくなりました。整理しなければ・・・と思いネガなんかを整理し始めていますが、準特急先輩が佐土原のC61と言われるので探しました。

ネガはまだどこかのダンボールに入っているのか追跡できていませんが、古いアルバムが書籍の中からでききてその中に写真がありました。ネガが出てきたら改めてとなりますが、今から40年前の出来事を掘り返してみたいと思います。

写真がボヤボヤなのでアルバムの落書きと合わせて撮影しそれをPCの画面で再生しました。鑑賞に耐えない内容ですが、古い時代のDRFC卒業してOBとなったころの出来事としてみていただければと思います。昭和47年の5月の頃と思います。

 

これが、準特急先輩が拘っている場面です。真ん中に準特急先輩が写っています。3人は小生とy川氏、準特急先輩です。青井岳鉄橋の下(だったか)にある国民宿舎での書き込みを掲載しています。このC61が復活することになるとはユメユメ思っていませんでしたが。

 

南九州から始まった旅は中九州へ。準特急先輩の書き込みとその証拠写真。撮影場所もきちんと記録されています。

 

最後は北九州へ、準特急先輩はつばめ→新幹線で帰京され、残りはy川氏の会社の寮に泊まって撮影を続けることに。ところがy氏は休暇は罷りならん、出社せよとの社命。仕方なく小生は単身で冷水を通り熊本から阿蘇経由で大分に戻りフェリーで帰阪することになりました。

昔の話です。鉄道そのものとは余り関係がないかもしれませんが、写真、集めた硬券の入場券や冷水、高森の思い出やもろもろのものが生涯の宝物となっています。

阪神電車3011および5200系

久しぶりに投稿します。3012他3011系編成、梅田行き特急の後部です。
手ブレの写真、おまけにフィルムの痛みが酷いものです。
本線甲子園-久寿川間、1961年2月19日。

5216+5215神戸方面に向かっています。前部です。
行き先、列車種別共に表示がありません。
同上区間、同じ。
解説を、詳しい方にお願いします。

5001(初期)型(通称アマガエルとか)の写真は、持ち合わせがありませんでした。

追伸
3月以来、超多忙で本誌投稿がままなりませんでした。
10月にそれらから解放されました。時々投稿を再開します。宜しくお願いします。