江若運転会 いきなり絶好調

「江若鉄道再現模型運転会」、いよいよ本日29日(土)からオープンしました。事前の予告に加え、当日朝に地元紙で大きく紹介されたこともあって、開場直後から続々の人出です。
当時を懐かしむ江若OB、熱心に質問するご婦人、食い入るように見つめる子どもなどなど、会場は熱気に包まれました。少々のことでは動じない、あの乙訓老人をして、「つい涙ぐんだ」の言葉を漏らすほど、見るものに感動を与えました。まさに鉄道の持つ、限りない魅力でしょう。新聞社の取材も引きも切らず、ついには今季セ・リーグ優勝チームの親会社の新聞社まで駆けつける始末でした。
夕方、ようやく人並みは途絶えましたが、入りも入ったり、同館のイベントで最高の有料入場者を記録しました。製作者の西村さんも応対に大童でしたが、”この疲れは、快い疲れ”と言い残し、夜の巷に消え行ったのでありました。

京都新聞、産経新聞の紹介記事。取材に当たってもクローバー会のネットワークが発揮された

江若記事 お詫びをふたつ

江若運転会の様子を報告する前に、お詫びをふたつ。
〔15737〕でDC5連回送のダブレット授受通過を、「ひら」号回送とお伝えしましたが、本日、その写真に載っておられた元駅員氏に、再度、館の方が取材したところ、この回送は、「県立膳所高校の全校登山行事が比良山であり、その下山輸送のための回送」であるとの証言を得ました。「ひら」号回送ではありませんので訂正します。
改めて写真を見返すと、「ひら」の場合、回送時から「ひら」のヘッドマークを掲げていました。ここで、気になるのは、膳所高校なら、国鉄貨物線を通ってそのまま膳所まで行ったのかとも妄想しますが、やはり浜大津で乗り換え石坂線で戻ったのでしょうね。

「ひら」号の回送でなく、高校団体輸送の迎え回送でした

もうひとつの訂正は、〔15824〕の写真キャプションで、「鉄道模型雑誌の編集長」などと書きましたが、本日、ご本人から”編集長ちゃいまっせ、雇われ編集部員でっせ”と言われました。なにか、私の会社時代の哀歓をそのまま生き写すようで、思わず感じ入りました。謹んで訂正します。

江若鉄道廃止以来42年

湖西線建設の前段としての江若鉄道廃止は1969年11月1日だから42年になる。今まで出したものもあるとは思うが、現在デジタル化済を何枚かご覧頂こう。


ハフ7か8の室内 1953年当時

小生が初めて江若に見参したのは1953年、高校1年生だった。当時京都の(新制)高校は、旧制中学校時代の琵琶湖艇庫とボートを受継いだが、小生の朱雀高校は旧高等女学校だから、そんなものはない。しかし各校は他校とボートを融通し合い、全員がほぼ一回はボートを漕げる全校大会があった。舵だけはボート部員が担当し、漕ぐのは後に競艇場ができる場所である。その機会に近くの三井寺下庫を訪ねたのである。

その時は大した写真がないが、ハフ7か8の車内をご覧頂きたい。クロスシートは戦時中もこのまま過ごしたことが分るが、背摺りが木製である。余談だがやはり戦時中・敗戦後の混乱期も転換クロスのままだった京阪1000型も、背摺りはベニヤ板を曲げたものだった。


1118牽引の貨物列車
夏季水泳客用臨時列車 ホハ102+104+103の編成の末尾にハフ7を連結 1955年

水泳列車牽引のC111が給水中、1118が三井寺下-浜大津を往復する 

C111牽引のホハ列車 高島町の手前 
DC301が入換中

ナハ1959が86に牽かれ浜大津に これでも甲種輸送ではあろう 1960年7月9日

最終時点での水泳列車 オハ1957~1960に転換クロスのオハ27の5両をDD1351が牽く 1969年7月27日舞子南口


浜大津-京都間の特殊補充券

江若鉄道は膳所乗り入れにより国鉄との連帯運輸接続を大津から膳所に変更したから、膳所経由ならどこでも乗車券が発券できるが、浜大津-京都なんぞの区間を買う物好きはいない=当然常備券はない。そこで無理を言って発券して貰ったら特殊補充券での手書きだった。それも浜大津に特殊補充券の常備がなく、次の回送列車で三井寺下の本社から運んでくる騒ぎ?で、温厚な駅員は「こんな券を作るのは何年ぶりか」ととつぶやいていた。ついでながら浜大津は駅から駅舎から何から何まですべて国鉄財産で、江若は借家人に過ぎず、機関車への給水も三井寺下に戻って行っていた。
この時点国鉄線の湖側が更に埋め立てられたが以前は線路のすぐ側まで湖だった 1955年

膳所(旧馬場)-浜大津(旧大津)の3線軌道の敷地は琵琶湖を埋め立て、太湖汽船を経由して長浜に結ぶ連絡線で、湖東線開通までは旅客営業の幹線(東海道線)だったが、大津電車軌道の大津-膳所開業(1913年3月1日)で貨物線に。電車は湖側の鉄道院線を3線化して乗り入れたのだが、持ち主は国鉄だから、1日何本かの貨物が通るときは電車側が全線一閉塞とあってダイヤを空けねばならず、その際は電車の間隔が約20分ほど開く。貨物線でも所属は東海道線(の一部)である。

江若鉄道は当初国鉄大津(現在の)を起点に1919年8月19日免許を取得。その区間は大津市東浦町-湊町(浜大津)-福井県三宅村で、近江今津以北は旧鯖街道とはいえ旅客貨物とも僅少の為断念(免許失効1936年4月23日)したのは知られている。大津市内は浜大津との高低差克服のため、浜大津-膳所(スイッチバック)大津という極端な迂回ルートで、こっちを知る人は少ない。しかし貨物はともかく、旅客にはおよそ現実性のないルートとあって施行期限を何度も更新し免許失効を避けながら、他方で浜大津-膳所間の乗り入れは戦前から懇願していた。

国鉄は湖側を更に埋め立てて新たに1線を貼付け、これを国鉄貨物と江若が共用し、現在の3線部分を京阪(専用)に譲る、という案を固守。膳所で国鉄と接続は出来はするものの、江若の負担額に比し乗客増はさして望めず、採算に合う筈もないのを見越した「嫌がらせ」だったかもしれない。

やっと1日2往復の浜大津-膳所乗り入れが成就したのは敗戦後で、免許は1946年12月26日だが、これもディーゼル燃料確保と同じく米軍キャンプ輸送の「悪乗り」だった可能性が強い。1947年1月25日運輸開始だが、およそ通勤通学を外れた時間帯にしか運行させてもらえず、当然乗客は少なく、1962年度4,313人(1列車平均2.96人)、1963年度3,779人(同2.59人)という有様。1965年7月10日廃止された。

なお江若鉄道は最後まで浜大津貨物線の貨物輸送受託を目論んでいたようで、国鉄に先駆けDD1351(国鉄機と違って各機関が独立して片台車を駆動)を、大金出して購入し、その後も増備したのもその含みだったと聞く。確かに国鉄が直営せず委託あるいは譲渡したほうが合理的な線区であるのは、山陽鉄道以来のメチャ古い歴史も共通する和田岬線(正式には山陽線の一部)と双璧で、なぜか国鉄は手離さなかった。この貨物線廃止は江若廃止に2日先立つ1969年10月30日で、京阪は3線式の内側レールを外し、目出度く借家人から脱却した。

「江若鉄道再現模型運転会」開場

いよいよ29日(土)からオープンです。前日まで行われた整備・試運転も完了、江若鉄道の車輌・駅が、ゆかりの地で40年ぶりに模型でよみがえります。江若に関する写真・資料も用意、さらに、大阪通信員さん、大津の86さんが隠匿・死蔵していた部品類も会場を飾ります。
西村さんが寝食を忘れてこの3年間打ち込んだ、入魂の「江若鉄道再現模型運転会」、余計な言葉はもう不要、この眼で確かめに浜大津へ!
会場:スカイプラザ浜大津6階(京阪浜大津駅と直結、琵琶湖側のビル内エレベーターで6階へ TEL 077-525-0022)
会期:10月29日(土)、30日(日)、11月3日(木・祝)、5日(土)、6日(日)の5日間

三井寺下駅の再現ゾーン。このリアリティは見ないことには分からない

鉄道模型雑誌の編集長みずから取材に。新聞社の取材も行われた

私と江若鉄道

総本家青信号特派員さまの記事に、当時を思い出して資料をあさってみました。

私も1030日、111日と撮影に行っていました。当時高3で、30日は木曜日、授業が終わって出かけたのか、浜大津駅付近で撮影、111日は三井寺-滋賀の間と最終のサヨナラ列車を浜大津で撮影していました。沿線風景もなくお見せできるような写真はありませんので、江若鉄道にちなんだグッズを紹介させていただこうと思います。

廃線の日から何日か経ったある日、父が大きな紙包みを持って帰ってきました。何かと思って開けてみると、江若鉄道のサボと三井寺下駅?にあった「危険品ご注意」の看板、それに乗車券が何枚か入っていました。父の知り合いに江若鉄道の本社の事務の方がいて、私が鉄道趣味だということを知ってくれたのです。

サボは写真の3種類、1枚は総本家青信号特派員さまも「江若あれこれ話しその1」で触れられている快速「ひら号」、裏面が、冬のスキーシーズンに同様に運転された快速「マキノ号」、もう1枚はただの快速となっていますので、朝の浜大津行き、夕方の近江今津行き各1本定期運行されていた(廃止時)快速に使われていたものと思います。

危険ご注意の看板は上に鎖、または針金でぶら下げるようになっているので、改札口の上にあったのではないかと思います。

また、切符はいろいろありましたが、面白いものをあげてみました。上段左は当時の国鉄との連絡切符、江若は昭和22年から40年まで膳所駅に乗り入れしていましたが、本数少なく、この切符の連絡は大津駅、徒歩で15分程度かかる離れた駅を連絡する切符でした。上段右は、普通の硬券ですがよく見ていただくと運賃20円と書いた上に運賃変更のスタンプが押してあります。日付は昭和441026日となっており、いつから運賃改定されたのか分かりませんが、昭和424月の時刻表見ると既にこの区間運賃は30円となっていて2年以上経っているのにまだ以前印刷したものが残っていたのです。

左中、下段は京阪との連絡切符で、これは浜大津の駅が京阪、江若で隣接しているため、本来の形かと思いますが、近江木戸は快速も止まらない駅で、わざわざ大阪からの連絡切符を作るような需要があったとは思えません。また、右中、下段は駅名が記入できるようになっているのですが、本来は中段の形で、堅田駅に常備されていて、発売の際に行き先をスタンプ、または手書きで書いたと思われますが、下段のものはどの駅に置いてあったのでしょうか?

今回のイベント案内いただき、久しぶりに私の青春時代も思い出させてくれました。最後に廃止翌日の新聞の切り抜きを添付しました。当日楽しみにしております。

江若鉄道 懐かしの写真展&鉄道模型展まで、あと2日!

江若鉄道、懐かしの写真展&鉄道模型展まで、あと2日となりました。’68年度生 西村雅幸君の力作、50両の車両の模型展示展、同じく’68年度生 福田静二君の写真展が開催されます。今日は、搬入準備を行います。西村君は、三原の自宅から車に展示物を乗せて向かっておられます。開催日には、会員皆様方のご来場をお待ち申し上げております。



江若あれこれ話 (2)

江若鉄道、思い返せば、鉄道趣味活動の原点でもあったと思います。
廃止されたのは昭和44年11月1日、私は現役の2年生でした。眼にするもの、すべてを吸収したい世代、しかも大学は紛争で6月からずっと封鎖中、これ幸いにと毎日のように江若へ通ったものでした。中でも、営業最終の10月31日から、さよなら運転の行われた11月1日にかけて、沿線の同志社北小松学舎で、DRFCメンバーとともに合宿を行い、メンバーとともに最後を見届けたことが、ひときわ心に残ります。何回かに分けて、江若の最後の2日間を写真とともに振り返ってみました。

営業最終日10月31日の朝一番列車は21+51+52+8の4両編成。最終日を待たずに、譲渡車輌は転属してしまい、廃車予定の車輌だけでのやり繰りだった

話は江若営業最終の前日、10月30日の晩から始まる。
家で明日からことを何気に思案していた時だった。ふと思いついたのが「江若にDRFCのヘッドマークを着けてみたい」だった。と言っても、時間も金もないから、有り物で作るしかない。
ベースは写真の木製パネルを流用、これに画用紙を貼り、マジックインクでレタリング、周囲をクリスマスツリーのモールで飾ると、何とか見られるヘッドマークが出来上がった。締めて費用はゼロ、もちろん江若の許可も何も無いが、ぶっつけ本番、何とかなるだろう。徹夜の作業になってしまい、出来上がったときは夜が明けきっていた。
叡山駅で交換した52列車は、キハ11+ハフ、この列車はただ一本の和邇始発の列車

霧の堅田駅で。時計を気にする駅長がタブレットを持って、交換列車に備える

近江今津に着くと、大勢の高校生が下車し、集札口を埋め尽くす
さて、10月31日、京津線の一番電車に乗って、浜大津を目指した。
10月27日から、昼間の列車はすべて運休して代行バスになっていた。列車は朝夕にしか運転されていないから、最後の日に、朝の列車で近江今津まで往復したい。数回は近江今津まで行ったことはあるが、クルマに同乗して行ったもので、北小松以北、終点まではまだ乗車した経験がない。何としても朝の列車で近江今津まで往復し、最初で最後の終点往復を果たしたかった。
浜大津から6時15発の第一列車に乗った。車輌にはすでにモールで飾りつけがされていた。車窓から見る光景は、淡い霧に包まれていたが、陽が昇るに従って、霧も晴れてきて青空が広がってきた。キラキラ輝く湖面の反射が、徹夜した眼にはまぶしい。各駅には、廃止を伝える看板が置かれ、モールで飾られたメッセージボードもある。いよいよその現実を実感する。
交換する列車は、いつもどおり通学生を中心に満員。各駅に停車するたびに、駅名標を中心にして写真を撮り続ける。列車は、7時50分近江今津に着いた。浜大津から所要1時間35分、現在なら同区間を湖西線新快速で半分以下の40分で走ってしまう。折り返しの8列車までの30分、終点の光景を撮り続ける。朝の最終がこの列車で、それを逃すと15時30分までない。

40年後の今もまだ残る近江今津の駅舎、廃止の看板が立てかけられている

各駅に掲げられた廃止のメッセージボード。当時、流行り出した”タイポス”という書体を使ったボードで、少し江若のセンスを感じた

広い近江今津駅、長いホームの先端に乗ってきた1列車の編成が見える

名残を惜しんでいた女子高校生が、駅員とともに記念写真に収まっていた

折り返しの8列車にも近江今津から乗客が乗り込んだ
ホームでは、いかにも最終日らしい光景が展開されている。すがすがしい、というか、ちょっと胸が締め付けられるようなシーンだ。その後、最終日を好んで撮りに出かけるようになったのも、この近江今津駅の体験が原点になっているようにも思う。
折り返しの8時20分発8列車で去るが、編成は行きと同じ4両編成、最初は空いていたが、各駅で乗車が続いた。途中で徹夜の疲れでいつしか寝入ってしまい、終点の浜大津で我に返ると、車内は超満員になっていた。

近江今津を発車した8列車の先頭車両、超ロングシートに客はまばら

先頭はキハ52、半室の運転室の横は、格好の展望室だった

新旭~安曇川間で江若最長の安曇川鉄橋を渡る

安曇川に到着する。上下列車の交換があり、多くの乗客が待ち受ける。構内には明日からの代行バスが待機している

北小松で5列車キハ11と交換する。この時間帯になると、カメラを提げた乗客も増えてきた

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part15  希望へのエリトリア鉄道の今は その6

第6日目 9月29日 その2

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

昼食後は午前中に撮ったシーンが順光でなかったのでもう一度撮ろうと引換して、再度ホテルの屋上に上がっての撮影会です。ドイツ人鉄ちゃんのこだわりは続きました。

▲ ポートアイランドからタウルド島へと向かう列車です。右のバスが走っている後方が港の駅です。

この後は、列車に乗っていくか、そのままバスで移動するのかの選択を求められましたので、ためらうことなく列車にしましたが、ご覧のとおり客車はつないでいません。2軸の貨車に積込まれて、ガタンゴトンと、ゆっくりアスマラ方面に向かいました。ここであまりの暑さに、こだわりのドイツ人が一人脱落しました。貨車内でも熱中症でダウンするスタッフも出てきたりで、過酷な環境でした。
続きを読む

関西 新快速 物語 発刊のお知らせ

1冊の本が届いていました。開けると、’68年生福田静二君から、先輩は神足駅(現;長岡京近くでよく在来線の写真を撮っておられたので、新快速が走り出した頃の写真があれば使わして欲しいと依頼のあった、” 関西 新快速 物語 ” が入っていました。
幼少期より、そして通学時代には父親が国鉄マンでありましたので、大幅家族割引のある国鉄に乗っておりました。当時の神足駅は普通しか止まらない駅で、80系が高速で通過するのを見送っていました。見送る電車はその後113・115系、153系、117系、221系と変っていきましたが、この本を読んでいくと、その頃の自分自信を思い起こしてくれました。
この本は、福田君が編集協力されました。掲載写真は福田君以外に、DRFC-OBの佐竹保雄、鶴絋明両先輩、井原実氏も写真提供をされておられます。是非、本屋に立ち寄りの際はご覧ください。良ければ、お買い求めください。

江若 あれこれ話 (1)

江若鉄道再現模型運転会もいよいよ近づいて来ましたね。製作者の西村さんの高まる気持ち、如何ばかりでしょうか。遅まきながら、応援シリーズとして、自分勝手な”江若あれこれ話”を載せることにしました。皆さんもぜひ江若の思い出をお寄せください。
今回は、先般、運転会会場のスカイプラザ浜大津へ打合せに行った際に、館の方から聞いた”ちょっといい話”。

滋賀駅を通過しようとする「ひら」回送。機関助士が身を乗り出し授受の用意をしている

5122+5010+5121の総括編成にキハ52、キハ15を連結した5両編成。江若の最大編成だ
ここに写っているシーン、実は昨年から同館の廊下に展示されている写真だが、ある日のこと、古老がお見えになり、この写真をぜひ譲ってほしいとおっしゃったそうな。
この写真は滋賀駅での通過シーンで、タブレットの授受が行われている。江若では、朝ラッシュ時に快速列車が運転され、通過駅もあった。しかし、日中はすべて各駅停車だから、このようなシーンは見られない。唯一通過シーンが日中に見られたのは、春秋の登山シーズンに、帰途に就く登山客のために運転された北小松発浜大津行き臨時「ひら」号の運転時だった。天候などに左右されたが、夕方に浜大津行きが3本程度設定され、編成も単行から、総括編成と呼ばれた3両編成まで、さまざまであった。
この写真は、滋賀駅における回送列車の通過シーンで、三井寺下で仕立てられた編成は、何本かの「ひら」を併結しているため、最大の5両編成であった。
さて、くだんの一件、正解は、お見えになった方は、右側でタブレットを渡している駅員氏だったのである。自分の姿が入った写真を館で偶然に見られたという次第。館の方は、もう一枚焼き増して、その方に渡されたそうだ。何気に写した写真が、40年ぶりで写った本人へ蘇ったのである。

「ひら」回送の後部。DRFCのメンバーが見える。昭和44年10月10日のこの日は、京阪「びわこ」号の臨時電車が走り、みんなで錦織車庫まで追い掛けてきて、その後にすぐ近くの滋賀駅を訪れた

昭和45年3月の小湊鉄道

10月10日【15353】「デジ青で外回り鉄」でkawanaka_t氏より出張時業務終了後に海土有木で撮影された画像を紹介があったが、用務先が千葉県市原市方面の場合は小湊鉄道に行かれる方が多いようである。前回の私の場合は業務終了予定時刻を15時頃と予想して、上総山田~光風台間の養老川鉄橋か、上総牛久~上総川間間で撮影しようと思っていたところ、午前中に終わったため大原まで横断することができた。

 小湊鉄道を初めて訪れたのは昭和45年3月のことで、キハ200形は201~206の6両のみで、それ以前に製作された車両も日常的に運用に就いており、特に元国鉄キハ41000形はキハ200形と共に主力として活躍していた。撮影した画像から当時を振り返ってみた。

 キハ100形(100、101)
昭和8年に2両新製された16m級車で、同じ年に新製された鉄道省のキハ36900形(→キハ41000形)と同サイズであった。当初の呼称は「ジハ」であった。ジハ100が川崎車輌、ジハ101が日本車輌で作られた。当初はガソリンエンジン(コンチネンタル16H)であったが、昭和16年に天然ガス動車となり、昭和25年に日野DMF54Iに換装されディーゼル化、昭和31年にDMF13に換装された。
湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP90にジハ101の新製時の写真、P91に昭和34年に撮影されたジハ100の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。運転席窓の庇は、戦後の車体更新、ヘッドライトの移設時も撤去されず、この車のトレードマークになっていた。キハ200形の増備により、昭和47年2月廃車になった。

 キハ41000形(41001~41004)
昭和24年、国鉄で廃車になったキハ41000形を4両譲受け、25年に富士産業で機関を日野DA55に換装の上使用した。昭和30年にはDMF13に換装した。主力として活躍したが、キハ200形の増備により41003、41004が昭和48年7月に、41001、41002が50年5月に廃車になった。

 キハ6100形(6100、6101)
国鉄で廃車になったクハ6100形の6100と6101を昭和31年3月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ6100形は元青梅電鐡のモハ100形で、101、102が大正15年日本車輌、103~106が昭和3年川崎造船所で作られた。青梅電鐡は昭和19年4月1日鉄道省に買収されたが、電気機器の相違から同年11月に電装解除されクハとなった。戦後も早い時期に整理の対象になり、昭和28年6月1日の改番まで残ったのは元モハ102のクハ6100とモハ104のクハ6101の2両のみで昭和30年1月廃車になった。佐竹先輩の「私鉄買収国電」のP27にクハ6100、P28にクハ6101の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。
気動車への改造は6100が日本車輌、6101は帝国車両で行われ、正面窓は当時流行の2枚窓になった。他車がツートンカラーに変更後も茶色のままで、晩年は貨物列車の牽引に使用されていた。廃車は6100が昭和49年10月、6101が昭和52年12月である。

  キハ5800形(5800、5801)
国鉄で廃車になったクハ5800形の5800、5801を昭和35年2月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ5800形(5800~5804)は元三信鉄道のデ301形(301~305)であるが、車歴を辿ると大正3年まで遡る。飯田線天竜峡~三河川合間の三信鉄道は、昭和7年10月天竜峡~門島間の開業を皮切りに部分開業を重ね昭和12年8月大嵐~小和田間の開通により全通した。この開通により現在の飯田線の豊橋~辰野間が結ばれた。
クハ5800、5801の前身は鉄道省の大正3年日本車輌製のモニ3009、3010で、昭和9年9月廃車後、三信鉄道に譲渡され、昭和11年4月日本車輌で鋼体化の上、デ301、302となった。扉間には窓に合わせたゆったりしたクロスシートが並ぶ車内は長距離運転に相応しいものであった。昭和18年8月1日辰野~天竜峡間の伊那電鉄、三河川合~大海間の鳳来寺鉄道、大海~豊橋間の豊川鉄道と共に買収され飯田線となった。
301は昭和26年12月、302は27年1月に電装解除の上、片運化されクモハ(クハ代用のモハ)301、302となり、昭和28年6月1日の改番でクハ5800、5801となった。クハ化の際に連結器が密連になり、伊那松島区の配置となりモハ14等の国鉄型モハとMT編成を組み、中部天竜~名古屋間の臨時快速「天竜号」に使用されることもあった。昭和34年2月全車廃車され、5800、5801が小湊鉄道、5802が伊豆箱根鉄道、5803、5804が大井川鉄道で再起した。
飯田線時代のクハ5800、580iの写真は「私鉄買収国電」のP103に掲載されているのでご覧いただきたい。
キハ5800は平成9年6月30日付けで廃車され、現在も五井機関区で保管されているが、私鉄時代の飯田線の生き証人として電車に復元の上、然るべき場所(例えば佐久間レールパーク跡地に飯田線所縁の車両を集めて博物館を作る等)で保存できないものかと思う。
キハ5801は昭和52年12月に廃車されている。

 キハ200形(201~214)
昭和45年3月時点では201~206の6両在籍していたが、その後の増備車も含めて解説する。
キハ20と同系であるが最大の違いは、窓配置もさることながら、ロングシートと自動扉ではないだろうか。余談になるが8月30日に乗車時、上総中野を発車後のアナウンスの前に元国鉄で使用していたものと同じメロディー(♪パパパパパーン・♪パパパパーン・♪パパパパパパパパーン)が流れ思わず感激した。
201、202が昭和36年12月、203、204が38年4月、205、206が38年12月、207~210が45年12月、211、212が50年3月、213、214が52年10月に作られ、メーカーはすべて日本車輌である。45年製の207以降は扉の形状が変わり、211以降は窓がユニットサッシになっている。209と210以外は冷房改造されており、209は休車となっている。

 

電車改造の気動車
気動車改造の電車は、戦後電化したローカル私鉄を中心によく見られたが、その逆は非常に少ない。車体構造が電車と気動車とでは全く異なり、車体が重く無理をしてエンジンを取り付けても出力不足となるからである。国鉄でも北海道でオハ62とオハフ62にエンジンを取付けてキハ40(→キハ08)、キハ45(→キハ09)を製作したが、重すぎて狩勝峠が越せない等の運用上の支障があり早くに姿を消した。キハ6100、6101、キハ5800、5801の4両は数少ない改造例として貴重な存在である。

 他の改造例は、南武線の前身の南武鉄道のクハ210形の213、214(昭和15年木南車輌製)が、23年に関東鉄道の前身の常総筑波鉄道に貸し渡され、25年に正式に譲渡後、客車(ホハフ201、202)として使用、28年自社で気動車化してキハ40084、40085となった。常総線で使用されていたがキハ40084は44年筑波線に転属、47年に2両とも廃車となった。いずれも元買収国電というのが興味深い。

 入線しなかったDL
非電化の私鉄では大抵貨物列車の牽引用に蒸気機関車を保有し、時代の流れと共にDLと交替した。小湊鉄道はDLを購入せずキハ6100、6101を貨物列車の牽引に使用した。貨物の量もさほど多くなく、重量の重いキハ6100は機関車代わりに丁度よかったのかもしれない。

 蒸気機関車は1号機、2号機(大正13年ボールドウィン製)B104(明治27年ベイヤーピーコック製)の3両が千葉県の文化財に指定され、五井機関区の敷地内に屋根付で保存されている。

交換駅について
五井~上総中野間は39.1㎞あるが、五井~上総牛久間16.4㎞間の途中駅6駅の内交換ができないのは上総三又のみで、これも近々交換駅に改良される予定になっている。一方、上総牛久~上総中野間22.7㎞間の交換可能駅はゼロでこの間は1列車しか入れない。かつては上総鶴舞(上総牛久から2つ目)、高滝(同4つ目)、里見(同5つ目)、月﨑(同7つ目)、養老渓谷(同9つ目)とほぼ1駅毎に交換可能であった。養老渓谷以外は分岐器をロックしてあるだけであり、近々里見駅の交換復活工事が予定されているが、さほど難しい話ではないと思われる。

続・阪神電車の追加

10月3日の【15073】「阪神ジェットカー5211型」の記事からtsurukame先輩投稿の「阪神電車3011および5200系」「阪神ジェットカー、御影-石屋川間高架上」、乙訓の長老投稿の「阪神電車の追加」、河 昭一郎様、準特急様のコメント等を興味深く拝読させていただいた。

私も僅かであるが撮影した記憶がありネガ探しをした。京都から阪神電車までは遠かったのと、我々世代が撮影した頃は魅力の小型車は第一線を退き、ラッシュ時と武庫川線で細々と運行されていた程度で、本線はオール新性能車となっていたことも足が遠のく原因であったと思われる。一方国道線は、運行回数が極端に少なかった上甲子園以西は別にして、北大阪線、甲子園線を含めて割に訪れているのは、元々路面系が好きであったのと、金魚鉢の魅力に惹かれたからであろう。

5108+5201+5202 (昭和40年11月6日/野田)



 当時本線普通は早朝、深夜2連、それ以外の時間帯は3連であった。

  5236他3連(昭和39年11月3日/野田)
 
 5231形は5201形の増備車として昭和36年~38年にかけて1500Ⅴ昇圧即応車として24両作られ、昇圧後は2両固定編成になった。

5151他4連(昭和52年4月17日/西宮)

 昭和39年に1500Ⅴ昇圧即応車として、昇圧後も奇数編成時の単独走行可能車両としてわずか2両作られた。

3512+3511の西大阪線特急(昭和40年11月6日/甲子園)
 昭和40年9月から49年11月まで運転され、途中停車駅は尼崎、西宮、三宮であった。現在の近鉄奈良線直通快速急行の元祖とも言うべき列車であったが、乗客が少なく9年で廃止された。

3501形(3501~3520)は両運の3301形(3301~3304)と共に昭和33年から34年にかけて新製された優等列車用の車両である。

7810-7910+7909-7809の特急(昭和40年11月6日/甲子園)

7801形と7901形はラッシュ時の準急、急行に運用されていた小型車の代替として昭和38年から46年に作られ、
Mc車の7801形とT車の7901形がユニットを組み、Mc-T-T-Mcの4連で使用されていた。
初期に作られた車両はラッシュ用として割切りから、車体は簡素な作りで、乗務員扉の後ろの窓部分に座席がなく、車内の蛍光灯はカバーがなく間隔が空いており、T車の台車は小型車のものを流用した。完成後はラッシュ時のみならず、昼間の特急、急行にも日常的に使用されていた。画像の7810-7910+7909-7809は昭和38年川崎車輌製である。

7812-7912+7911-7811の急行(昭和40年11月6日/野田)
 
7812-7912は昭和39年汽車会社製、7911-7811は昭和39年川崎車輌製である。
 

853単行の武庫川線(昭和39年11月4日)
851形(851~857)は昭和11年日本車輌製で、その後作られた861形(861~867)、881形(881~910)と共に戦後3011形が登場するまでの間、阪神を代表する車両であった。
左側の線路は、戦時中西ノ宮~洲崎間に建設された貨物線の名残で3線式である。

今度は阪急2100

京都線の2300に乗ったのは大宮から東へ河原町までの延伸が完成したときでした。高校の授業を抜け出して、阪急からもらった「全線無料券」を使ってのただ乗り旅行に出かけました。といっても時間の関係で梅田折り返しがせいぜいだったのが今でも残念でなりません。

このとき乗ったのが2300、京阪の2000や阪神の5200と同じ高性能電車に地下鉄の開通と相まって新時代の空気を胸一杯に吸い込んだのを覚えています。しかし、下降式窓なのがなぜか古いイメージで、市電の500型と同じやな、とおかしな感心もしました。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part14  希望へのエリトリア鉄道の今は その5

第6日目 9月29日 その1

アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

今日は、エリトリア鉄道の紅海に面した始発駅マッサワにBusで向かうので早く起きてください、5:30に朝食ですと言われましたので、気合を入れて5時前には起床して荷物もまとめてホテル1階にあるレストランに行きましたが、開いていません。こんなに早くに朝食を準備するのは従業員にとっては、ありえないことなのでしょうね。

悪びれもなく起きてきた従業員が準備をやりだしましたが、パンと牛乳、コーヒーをかけ込んでの夜明け前の出発でした。

▲ 高原に昇る朝日を見ながら、Busは、いろは坂連続の下り坂を走り続けました。途中いくつかの集落を見ましたが、砂漠地帯に入ると人家はありません。
出発する前は18℃程度だった気温はぐんぐん上がって30℃を超え熱帯の暑さがやってきました。車内冷房が欲しいところですが、原住人は慣れっこなのか、設備はあっても入れてはくれません。窓を開けて温風で凌ぐしかありませんでした。暑さに弱い私は、既に青信号点滅状態です。


▲ 9:10、所要時間約3時間、標高差約2,350mを下って、港湾都市マッサワに到着しました。気温は35度を超えて、塩っけたっぷりの浜風も混じっての、うだるような暑さで、もうタマリマセン。
昨日、山を下りて行った422式54号機がフォトランの準備を整えて、待っていました。撮影場所はオールド駅といわれるこちらです。


▲ エリトリア鉄道マッサワ側の始点は、マッサワ市内から海の道を渡ったタウルド島から、まだ先のポートアイランドにありました。ここで船から降ろされた荷物を積載して遠くアスマラへと運ぶのが、エリトリア鉄道の使命でした。

▲ ウウルド島のオールド駅の他にポートアイランドにも現在はバス停で使用されているホーム屋根のある簡易駅が残っていました。撮影地点はこちらです。ここから先は船着場ヤードです。



▲ 何回もこれでもかと、かつての最盛期の走行を再現できるのがフォトランのウリです。
停泊しているフェリーに入っての撮影や海べりのホテル屋上からの撮影も地元旅行代理店の根回しができているので全てOKでした。

ここマッサワから最盛期には、何と1日30往復もの列車が運行されていました。
しかし、30年間にわたる独立戦争では、マッサワは軍事拠点であったため、戦闘によって街の大半が破壊され、鉄道も運行を停止させられました。

左の写真、背景にある破壊された建物は、旧イタリア銀行です。四面をバルコニーに囲まれ細部の装飾にも贅を尽くされた建築でした。
これから全室スイートの高級ホテルとして復元されるらしいです。


▲ こちらも破壊された旧皇帝宮殿です。かつてエチオピアの皇帝が、海軍士官学校の卒業式のために毎年マッサワを訪れた際に使用したそうです。マッサワのうだるような暑さをしのぐため、建物は、通気をよくする広々としたアーチやドームがつけられています。建物はエリトリア政府の所有で、廃墟のまま保存されていました


▲ 一旦宿泊するホテルにチェックインしました。リゾート風に建てられた部屋は、クーラーがよく効いていてホッとしました。しばし、体力回復タイムです。
天井から蚊帳が取り付けられていました。昔、幼少期には蚊の多い京都の夏には欠かせないものでした。おしゃれな蚊帳に家内も大喜びでしたが、蚊は好きではありません。持ってきた携帯用電子蚊とりをセットしました。
昼食は、別のホテルのレストランでしたが、やはりクーラーはありません。料理は、またスパゲティですが、 ピラフもありました。久しぶりのご飯です。少し落ち着きました。   Part15  へ続く

ムスカウ森林鉄道訪問記

初めて投稿させていただきます。諸先輩方の投稿、毎日楽しみにしており、私も何か投稿したいと思っていたのですが、皆様方のレベルの高い内容に見合うものがなく、月日が経ってしまいました。今年3月で退職し、自由な時間もでき、6月終わりから7月にかけて8日間、ドイツの旧東ドイツザクセン地方の狭軌SL鉄道を訪問してきましたので、恥ずかしながら思い切って記事にしてみました。今回の旅行の一番の目的はムスカウ森林鉄道(以下WEMと略)を訪問することで、まずはこれから紹介させていただこうと思います。
ドレスデンから東に2時間余り行ったヴァイスヴァッサーという町から、ポーランドとの国境にあるバドムスカウと、クロムラウという町への2系統の路線があり、観光路線として今年の場合、422~103日までの間、週末の土日、78月には加えて木金曜日にも運転され、その中で主に月初めの土日だけがSLの運転日、それ以外はDLの運転となります。SLが見られるのは特別のイベント日を含め今年は18日間のみの運転となります。7月は23日の土日に運転されこれに合わせて訪問したわけです。

WEM600mmゲージで、ヴァイスヴァッサー周辺に点在する工場に資材を運ぶため、1895年に設立されました。19783月に廃止され、車両は売却、線路も撤去されましたが、1984年に愛好家が保存に乗り出し、まず、ヴァイスヴァッサー付近の300mの線路を使い、ディーゼル機関車による運行を始めました。その後、徐々に路線を延長、1995年のWEM百周年にヴァイスヴァッサーとバドムスカウの間を復活、さらに静態保存されていた1918年製99-3317号を復元し観光路線として再開しました。その後、1998年に1912年製99-3312号を加え、現在は、この2台のSLと数台(3台?)のディーゼル機関車が運行され、さらに2台のSLが保存されています。

私がここを知ったのは今から34年前のこと、勤めていた硝子会社から硝子製造機械のプラント建設で当時東ドイツであったヴァイスヴァッサーに行った時のことでした。ホテルはバドムスカウにあり、工場への行き帰りの車の中から、並行する線路に小さなSLが走っているのを見つけたのです。当時は共産党政権下で、ポーランドとの国境に近いこのあたりでは、我々資本主義者はいつも当局の監視のもとにあって、とても写真を撮れる環境ではありませんでした。2か月余りの滞在の後帰国しましたが、どうもその後もこの小さなSLの存在が気になっていました。それから20数年後、何がきっかけだったのかは忘れましたが、ウェブサイトでこの鉄道のHPを発見、それ以来何とか機会を見ては訪問したいと思いながら、やっと今回その夢が果たせました。

訪れた73日はあいにくの雨、日本の猛暑が恋しくなるような肌寒い天気でした。駅から10分ほどのところにあるWEMの駅は発車の20分前なのに人影はまばらです。雨のせいかと思っていると、駐車場にバスが入ってきてぞろぞろ人が降りてきて、10:00発のバドムスカウ行きは30人くらいが乗りこみました。

ヴァイスヴァッサーで発車を待つ99-3312号

ク繝・?ラウ行き99-3317

 

途中5つの駅に停まりますが、乗り降りする人は無く、森の中を走り、35分で終点のバドムスカウに到着。ここは周りに何もなく、水を補給して機廻しし、10分ほどで出発します。ここから歩いて20分位のところに、世界遺産の城がありますが、雨も激しくなり、全員がそのまま乗車したようです。この後も雨は止まず、めげてしまって沿線からの撮影はあきらめ、駅付近で発車の様子を撮るだけになってしまいました。

バドムスカウ終点

バドムスカウで水の補給する99-3312号

二便、三便のバドムスカウ行き、クロムラウ行きはほとんど乗る人がなく、この鉄道は、ボランティアによって運営されているので、採算は関係ないのかもしれませんが、100年前の車両が現役で走るという貴重なものなのに少しさびしい気がしました。

このほかこの時のドイツ旅行ではチタウ狭軌鉄道、フィヒテルベルグ鉄道を訪問、その後1011日から20日までドイツを再訪、ハルツ狭軌鉄道、モリー鉄道などを訪れました。また、機会があれば発表させていただきたいと思います。

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part13  希望へのエリトリア鉄道の今は その4

第5日目 9月28日 その4
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

【ディーゼルカーとディーゼル機関車】
ディーゼルカーは、小型1両と大型2両がいました。このツアーは蒸気機関車撮影が主でした。構内撮影が許可されていた9月28日と、10月1日の空き時間を利用して撮りましたので、両日撮影分をまとめて紹介させていただきます。

しかし、私ごとき博学ない者には、説明ができかねます。幸いにして、クローバー会には、内燃機関車の第一人者であられます 「須磨の大老」さまがいらっしゃいます。ここでは写真にとどめて、説明はお任せいたしたいと思っております。お手数をおかけしますが、よろしくお願い申しあげます。





▲ ディーゼルカー№2。車内にはカウンターが設置されていましたので、簡単な飲食が提供されていたのでしょうか。車両ドアが外開きの観音ドアだったのにはびっくりしました。




▲ 工場兼車庫を入っていきますと、ディーゼルカー№7ディーゼル機関車25Dがいました。№7の車内は、№2とは違って、一方方向にシートが並んでいました。ドアは開きませんでしたので、よじ登っての撮影です。転換クロスなのか分かりません。25Dには、「FRIED.KRUPP 1957」の銘板がありました。



▲ 車庫に入ってすぐに会った、なぜか愛らしい小型ディーゼルカー№2、多分作業用に使用されたのでしょうね。


▲ 大型ディーゼル機関車27D、これもクリップ製ですね。1957年製造のようですので、1番新しい機関車なのでしょうか。

以上が、軌道や車庫にあった内燃車両です。ホテルに帰るのでバスに乗るよう指示がありましたので戻ると駐車場端にトラックに乗せられたDLが2台ありました。少し待ってもらって撮りに走りました。

▲ 銘版を見ますと、1937年とあります。構内用に使用されたものと思われます。これから修理にでも出すのか、それともどこかに持っていくのか分かりませんでした。

今夜の夕食は何だろうと思っていましたら、ホテルから歩いて近くのイタリアンレストランに行きました。席に座ると、メニュー表を渡されて好きなものを注文してくださいとの事です。
日本のツアーと違って、既に注文されている食事を食べるのではなく各自の好みに任されていました。と、言ってもメニューはパスタかピザぐらいしかありません。適当に別々のピザを注文して、皆で回して食べました。
途中で外に出てみますと、街中を散歩する人がたくさんおられます。イタリアでは夕食後に街をそぞろ歩く習慣があるそうですが、アスマラでも同じような習慣が継承されていて、住民たちから「アスマリーノ」と呼ばれているそうです。

植民地として支配されていた国の文化が受け入れられたのは、搾取や争いが起こったイギリスやエチオピアと違って、イタリアは道路整備や都市計画などの街づくりや職業訓練を行い、産業を残したからと考えられています。また歴史的にも古来から様々な文化が交差する土地でもありました。それぞれの文化を柔軟に取り入れる国民性は、現在にも受け継がれてきているのでした。

貨車と客車につきましては、 乗車もいたしましたので、その中でご紹介させていただきます。   Part14  へ続く

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part12  希望へのエリトリア鉄道の今は その3

第5日目 9月28日 その3
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アスマラ駅に着くと、ツアーの皆さんも市内観光でストレス気味だったのでしょうか、飛ぶように機関区に向かわれていました。


▲ アスマラ駅の航空写真です。ご覧のように蒸気機関車の車庫・修理等を行う工場と、ディーゼル車と機関車の車庫・工場とは駅の左右に分けて設置されていました。

エリトリア鉄道は、かつてアスマラが終点ではなく、この先まで遠く延伸され、隣国の鉄道と結ぶ計画まであったそうです。上空からアスマラ以降の路線跡を探してみましたが、独立戦争等で破壊され痕跡が見つかりません。市内を移動している時に線路跡を1部見ましたが、街中を走るマレー機の姿を見てみたかったですね。
ただ、アスマラから延伸された104km地点のケレン駅は、典型的なイタリア建築物として、大切に保存されているそうで、駅は現在、バスステーションとして使用されているようです。こちらに案内があります。
続きを読む

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part11  歴史が息づき、文明が交差する街、アスマラ

第5日目 9月28日 その2

① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

SL撮影後はアスマラ市内観光です。標高約2,350mに位置するアスマラは、年間平均気温が17℃と、訪問時も湿気もなく快適な気候でした。古くより商業の中心地で、1897年に首都となり、イタリアが第二のローマとして開発しました。市内には植民地時代に建築された多くのアールデコ建築物が、戦下に会わず数多く残されていました。

アスマラは、アフリカの奴隷制時代につけられた名前です。ティグリーニャ語で、その意味するところは、「女たちが男たちを団結させた」というものであり、これは、当時の(奴隷制時代の)女(母)たちが、奴隷商人から自らの娘や息子を守るために、男たちを団結させたという逸話からきているそうです。


▲ 市内のどこからでも見えるので、ランドマークにもなっているカトリック大聖堂、同行のドイツ人が執拗にシャッターをきっていたのは、世界でも有数の奇抜な建築物の一つ、1938年にイタリア人建築家Giuseppe Pettazziの設計で建てられた飛行機形のガソリンスタンドです。かつて「世界一豪華なガソリンスタンド」と呼ばれたそうで、支柱がない設計は、さすがクリエイティブなデザインに優れたイタリア作品と感心しました。

ブーゲンビリアやジャカランダが咲き乱れる街角には、美しい煉瓦作りのヴィラや、斬新な現代建築があちこちに見られ、イタリアの遺産とアフリカの風土が溶け合った独特の魅力を醸し出しています。建築や歴史の好きな人にはこたえられないでしょうね。
続きを読む

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part10  希望へのエリトリア鉄道の今は その1

第5日目 9月28日 その1

① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アフリカの東部『アフリカの角』 と呼ばれる部分に位置するエリトリアは、日本の企業がはじめてアフリカに進出した国(当時はエチオピア領)でもあります。1960年代に、銅鉱生産のために鉱山会社が進出しました。
( ※ 地図は、財団法人 愛知県国際協会で発行された ”世界の国を知る・世界の国から学ぶ わたしたちの地球と未来 -エリトリア-” からの転載です 。)

1890年にエリトリアは、公式にイタリアの植民地となりましたが、それ以前にイタリアが一方的に植民地宣言してより、紅海に面した港湾都市マッサワからの鉄道建設が1887年に始まり、1991年首都アスマラまでが開業になりました。東アフリカでは最も早く建設された鉄道でした。

マッサワからアスマラまでの直線距離ではわずか約60キロですが、アスマラは海抜約2,350mもあり、鉄道建設工事は難業を極めました。30のトンネル、65もの橋梁が必要で、建設資材や車両は1869年に開通したスエズ運河を通って運ばれました。赤線がエリトリア鉄道の路線です。
続きを読む

中国鉄路のバイブル 『中国鉄道大全』 発行のご紹介

日頃、「デジ青」を見ていただいております阿部真之氏が、最新の中国鉄路を紹介した本を、10月18日に発行されました。昨日、発行元より早速に本が届きましたので、ご紹介させていただきます。本の名前は、『中国鉄道大全』です。

阿部氏は現在、广州に勤務お住いで、どちらかと言うと乗り鉄派で、時間があれば中国鉄路に乗車して各地を漫遊されておられます。それだけに最新情報については精通しておられ、中国鉄路を知る第一人者のお一人です。中国各地で見られ取材された、中身の濃い実体験談が、ぎっしりと満載されています。
長距離列車の旅、奥地に残る蒸気機関車、ナローゲージ地方鉄道、活躍中の車両、都市交通や鉄道博物館等々、もれなく紹介されています。これをお読みになられたら、読者も中国鉄路通になられます。この本は、中国鉄路のバイブルになると言っても過言ではありません。

この本、実はもっと早くに出版される予定でしたが、例の鉄道事故で掲載内容の変更を余儀なくされてずれ込んだそうです。掲載内容を読むと苦労の跡が分かります。
中国鉄路にご興味がおありの方は、是非買ってみてください。ご推薦申し上げます。

私も協力を依頼されて、写真を提供しております。
阿部氏のホームページは、中国鉄道倶楽部です。最新情報はこちらでもご覧できます。

▲ これがその本ですが、私の住む長岡京市のしょぼい本屋には売っていませんでした。大きな書店でないと取り扱いはないようです。