【15856】江若運転会 いきなり絶好調

「江若鉄道再現模型運転会」、いよいよ本日29日(土)からオープンしました。事前の予告に加え、当日朝に地元紙で大きく紹介されたこともあって、開場直後から続々の人出です。
当時を懐かしむ江若OB、熱心に質問するご婦人、食い入るように見つめる子どもなどなど、会場は熱気に包まれました。少々のことでは動じない、あの乙訓老人をして、「つい涙ぐんだ」の言葉を漏らすほど、見るものに感動を与えました。まさに鉄道の持つ、限りない魅力でしょう。新聞社の取材も引きも切らず、ついには今季セ・リーグ優勝チームの親会社の新聞社まで駆けつける始末でした。
夕方、ようやく人並みは途絶えましたが、入りも入ったり、同館のイベントで最高の有料入場者を記録しました。製作者の西村さんも応対に大童でしたが、”この疲れは、快い疲れ”と言い残し、夜の巷に消え行ったのでありました。

京都新聞、産経新聞の紹介記事。取材に当たってもクローバー会のネットワークが発揮された


【15850】江若記事 お詫びをふたつ

江若運転会の様子を報告する前に、お詫びをふたつ。
〔15737〕でDC5連回送のダブレット授受通過を、「ひら」号回送とお伝えしましたが、本日、その写真に載っておられた元駅員氏に、再度、館の方が取材したところ、この回送は、「県立膳所高校の全校登山行事が比良山であり、その下山輸送のための回送」であるとの証言を得ました。「ひら」号回送ではありませんので訂正します。
改めて写真を見返すと、「ひら」の場合、回送時から「ひら」のヘッドマークを掲げていました。ここで、気になるのは、膳所高校なら、国鉄貨物線を通ってそのまま膳所まで行ったのかとも妄想しますが、やはり浜大津で乗り換え石坂線で戻ったのでしょうね。

「ひら」号の回送でなく、高校団体輸送の迎え回送でした

もうひとつの訂正は、〔15824〕の写真キャプションで、「鉄道模型雑誌の編集長」などと書きましたが、本日、ご本人から”編集長ちゃいまっせ、雇われ編集部員でっせ”と言われました。なにか、私の会社時代の哀歓をそのまま生き写すようで、思わず感じ入りました。謹んで訂正します。


【15831】江若鉄道廃止以来42年

湖西線建設の前段としての江若鉄道廃止は1969年11月1日だから42年になる。今まで出したものもあるとは思うが、現在デジタル化済を何枚かご覧頂こう。


ハフ7か8の室内 1953年当時

小生が初めて江若に見参したのは1953年、高校1年生だった。当時京都の(新制)高校は、旧制中学校時代の琵琶湖艇庫とボートを受継いだが、小生の朱雀高校は旧高等女学校だから、そんなものはない。しかし各校は他校とボートを融通し合い、全員がほぼ一回はボートを漕げる全校大会があった。舵だけはボート部員が担当し、漕ぐのは後に競艇場ができる場所である。その機会に近くの三井寺下庫を訪ねたのである。

その時は大した写真がないが、ハフ7か8の車内をご覧頂きたい。クロスシートは戦時中もこのまま過ごしたことが分るが、背摺りが木製である。余談だがやはり戦時中・敗戦後の混乱期も転換クロスのままだった京阪1000型も、背摺りはベニヤ板を曲げたものだった。


1118牽引の貨物列車
夏季水泳客用臨時列車 ホハ102+104+103の編成の末尾にハフ7を連結 1955年

水泳列車牽引のC111が給水中、1118が三井寺下-浜大津を往復する 

C111牽引のホハ列車 高島町の手前 
DC301が入換中

ナハ1959が86に牽かれ浜大津に これでも甲種輸送ではあろう 1960年7月9日

最終時点での水泳列車 オハ1957~1960に転換クロスのオハ27の5両をDD1351が牽く 1969年7月27日舞子南口


浜大津-京都間の特殊補充券

江若鉄道は膳所乗り入れにより国鉄との連帯運輸接続を大津から膳所に変更したから、膳所経由ならどこでも乗車券が発券できるが、浜大津-京都なんぞの区間を買う物好きはいない=当然常備券はない。そこで無理を言って発券して貰ったら特殊補充券での手書きだった。それも浜大津に特殊補充券の常備がなく、次の回送列車で三井寺下の本社から運んでくる騒ぎ?で、温厚な駅員は「こんな券を作るのは何年ぶりか」ととつぶやいていた。ついでながら浜大津は駅から駅舎から何から何まですべて国鉄財産で、江若は借家人に過ぎず、機関車への給水も三井寺下に戻って行っていた。
この時点国鉄線の湖側が更に埋め立てられたが以前は線路のすぐ側まで湖だった 1955年

膳所(旧馬場)-浜大津(旧大津)の3線軌道の敷地は琵琶湖を埋め立て、太湖汽船を経由して長浜に結ぶ連絡線で、湖東線開通までは旅客営業の幹線(東海道線)だったが、大津電車軌道の大津-膳所開業(1913年3月1日)で貨物線に。電車は湖側の鉄道院線を3線化して乗り入れたのだが、持ち主は国鉄だから、1日何本かの貨物が通るときは電車側が全線一閉塞とあってダイヤを空けねばならず、その際は電車の間隔が約20分ほど開く。貨物線でも所属は東海道線(の一部)である。

江若鉄道は当初国鉄大津(現在の)を起点に1919年8月19日免許を取得。その区間は大津市東浦町-湊町(浜大津)-福井県三宅村で、近江今津以北は旧鯖街道とはいえ旅客貨物とも僅少の為断念(免許失効1936年4月23日)したのは知られている。大津市内は浜大津との高低差克服のため、浜大津-膳所(スイッチバック)大津という極端な迂回ルートで、こっちを知る人は少ない。しかし貨物はともかく、旅客にはおよそ現実性のないルートとあって施行期限を何度も更新し免許失効を避けながら、他方で浜大津-膳所間の乗り入れは戦前から懇願していた。

国鉄は湖側を更に埋め立てて新たに1線を貼付け、これを国鉄貨物と江若が共用し、現在の3線部分を京阪(専用)に譲る、という案を固守。膳所で国鉄と接続は出来はするものの、江若の負担額に比し乗客増はさして望めず、採算に合う筈もないのを見越した「嫌がらせ」だったかもしれない。

やっと1日2往復の浜大津-膳所乗り入れが成就したのは敗戦後で、免許は1946年12月26日だが、これもディーゼル燃料確保と同じく米軍キャンプ輸送の「悪乗り」だった可能性が強い。1947年1月25日運輸開始だが、およそ通勤通学を外れた時間帯にしか運行させてもらえず、当然乗客は少なく、1962年度4,313人(1列車平均2.96人)、1963年度3,779人(同2.59人)という有様。1965年7月10日廃止された。

なお江若鉄道は最後まで浜大津貨物線の貨物輸送受託を目論んでいたようで、国鉄に先駆けDD1351(国鉄機と違って各機関が独立して片台車を駆動)を、大金出して購入し、その後も増備したのもその含みだったと聞く。確かに国鉄が直営せず委託あるいは譲渡したほうが合理的な線区であるのは、山陽鉄道以来のメチャ古い歴史も共通する和田岬線(正式には山陽線の一部)と双璧で、なぜか国鉄は手離さなかった。この貨物線廃止は江若廃止に2日先立つ1969年10月30日で、京阪は3線式の内側レールを外し、目出度く借家人から脱却した。


【15824】「江若鉄道再現模型運転会」開場

いよいよ29日(土)からオープンです。前日まで行われた整備・試運転も完了、江若鉄道の車輌・駅が、ゆかりの地で40年ぶりに模型でよみがえります。江若に関する写真・資料も用意、さらに、大阪通信員さん、大津の86さんが隠匿・死蔵していた部品類も会場を飾ります。
西村さんが寝食を忘れてこの3年間打ち込んだ、入魂の「江若鉄道再現模型運転会」、余計な言葉はもう不要、この眼で確かめに浜大津へ!
会場:スカイプラザ浜大津6階(京阪浜大津駅と直結、琵琶湖側のビル内エレベーターで6階へ TEL 077-525-0022)
会期:10月29日(土)、30日(日)、11月3日(木・祝)、5日(土)、6日(日)の5日間

三井寺下駅の再現ゾーン。このリアリティは見ないことには分からない

鉄道模型雑誌の編集長みずから取材に。新聞社の取材も行われた


【15808】私と江若鉄道

総本家青信号特派員さまの記事に、当時を思い出して資料をあさってみました。

私も1030日、111日と撮影に行っていました。当時高3で、30日は木曜日、授業が終わって出かけたのか、浜大津駅付近で撮影、111日は三井寺-滋賀の間と最終のサヨナラ列車を浜大津で撮影していました。沿線風景もなくお見せできるような写真はありませんので、江若鉄道にちなんだグッズを紹介させていただこうと思います。

廃線の日から何日か経ったある日、父が大きな紙包みを持って帰ってきました。何かと思って開けてみると、江若鉄道のサボと三井寺下駅?にあった「危険品ご注意」の看板、それに乗車券が何枚か入っていました。父の知り合いに江若鉄道の本社の事務の方がいて、私が鉄道趣味だということを知ってくれたのです。

サボは写真の3種類、1枚は総本家青信号特派員さまも「江若あれこれ話しその1」で触れられている快速「ひら号」、裏面が、冬のスキーシーズンに同様に運転された快速「マキノ号」、もう1枚はただの快速となっていますので、朝の浜大津行き、夕方の近江今津行き各1本定期運行されていた(廃止時)快速に使われていたものと思います。

危険ご注意の看板は上に鎖、または針金でぶら下げるようになっているので、改札口の上にあったのではないかと思います。

また、切符はいろいろありましたが、面白いものをあげてみました。上段左は当時の国鉄との連絡切符、江若は昭和22年から40年まで膳所駅に乗り入れしていましたが、本数少なく、この切符の連絡は大津駅、徒歩で15分程度かかる離れた駅を連絡する切符でした。上段右は、普通の硬券ですがよく見ていただくと運賃20円と書いた上に運賃変更のスタンプが押してあります。日付は昭和441026日となっており、いつから運賃改定されたのか分かりませんが、昭和424月の時刻表見ると既にこの区間運賃は30円となっていて2年以上経っているのにまだ以前印刷したものが残っていたのです。

左中、下段は京阪との連絡切符で、これは浜大津の駅が京阪、江若で隣接しているため、本来の形かと思いますが、近江木戸は快速も止まらない駅で、わざわざ大阪からの連絡切符を作るような需要があったとは思えません。また、右中、下段は駅名が記入できるようになっているのですが、本来は中段の形で、堅田駅に常備されていて、発売の際に行き先をスタンプ、または手書きで書いたと思われますが、下段のものはどの駅に置いてあったのでしょうか?

今回のイベント案内いただき、久しぶりに私の青春時代も思い出させてくれました。最後に廃止翌日の新聞の切り抜きを添付しました。当日楽しみにしております。


【15801】江若鉄道 懐かしの写真展&鉄道模型展まで、あと2日!

江若鉄道、懐かしの写真展&鉄道模型展まで、あと2日となりました。’68年度生 西村雅幸君の力作、50両の車両の模型展示展、同じく’68年度生 福田静二君の写真展が開催されます。今日は、搬入準備を行います。西村君は、三原の自宅から車に展示物を乗せて向かっておられます。開催日には、会員皆様方のご来場をお待ち申し上げております。




【15780】江若あれこれ話 (2)

江若鉄道、思い返せば、鉄道趣味活動の原点でもあったと思います。
廃止されたのは昭和44年11月1日、私は現役の2年生でした。眼にするもの、すべてを吸収したい世代、しかも大学は紛争で6月からずっと封鎖中、これ幸いにと毎日のように江若へ通ったものでした。中でも、営業最終の10月31日から、さよなら運転の行われた11月1日にかけて、沿線の同志社北小松学舎で、DRFCメンバーとともに合宿を行い、メンバーとともに最後を見届けたことが、ひときわ心に残ります。何回かに分けて、江若の最後の2日間を写真とともに振り返ってみました。

営業最終日10月31日の朝一番列車は21+51+52+8の4両編成。最終日を待たずに、譲渡車輌は転属してしまい、廃車予定の車輌だけでのやり繰りだった

話は江若営業最終の前日、10月30日の晩から始まる。
家で明日からことを何気に思案していた時だった。ふと思いついたのが「江若にDRFCのヘッドマークを着けてみたい」だった。と言っても、時間も金もないから、有り物で作るしかない。
ベースは写真の木製パネルを流用、これに画用紙を貼り、マジックインクでレタリング、周囲をクリスマスツリーのモールで飾ると、何とか見られるヘッドマークが出来上がった。締めて費用はゼロ、もちろん江若の許可も何も無いが、ぶっつけ本番、何とかなるだろう。徹夜の作業になってしまい、出来上がったときは夜が明けきっていた。
叡山駅で交換した52列車は、キハ11+ハフ、この列車はただ一本の和邇始発の列車

霧の堅田駅で。時計を気にする駅長がタブレットを持って、交換列車に備える

近江今津に着くと、大勢の高校生が下車し、集札口を埋め尽くす
さて、10月31日、京津線の一番電車に乗って、浜大津を目指した。
10月27日から、昼間の列車はすべて運休して代行バスになっていた。列車は朝夕にしか運転されていないから、最後の日に、朝の列車で近江今津まで往復したい。数回は近江今津まで行ったことはあるが、クルマに同乗して行ったもので、北小松以北、終点まではまだ乗車した経験がない。何としても朝の列車で近江今津まで往復し、最初で最後の終点往復を果たしたかった。
浜大津から6時15発の第一列車に乗った。車輌にはすでにモールで飾りつけがされていた。車窓から見る光景は、淡い霧に包まれていたが、陽が昇るに従って、霧も晴れてきて青空が広がってきた。キラキラ輝く湖面の反射が、徹夜した眼にはまぶしい。各駅には、廃止を伝える看板が置かれ、モールで飾られたメッセージボードもある。いよいよその現実を実感する。
交換する列車は、いつもどおり通学生を中心に満員。各駅に停車するたびに、駅名標を中心にして写真を撮り続ける。列車は、7時50分近江今津に着いた。浜大津から所要1時間35分、現在なら同区間を湖西線新快速で半分以下の40分で走ってしまう。折り返しの8列車までの30分、終点の光景を撮り続ける。朝の最終がこの列車で、それを逃すと15時30分までない。

40年後の今もまだ残る近江今津の駅舎、廃止の看板が立てかけられている

各駅に掲げられた廃止のメッセージボード。当時、流行り出した”タイポス”という書体を使ったボードで、少し江若のセンスを感じた

広い近江今津駅、長いホームの先端に乗ってきた1列車の編成が見える

名残を惜しんでいた女子高校生が、駅員とともに記念写真に収まっていた

折り返しの8列車にも近江今津から乗客が乗り込んだ
ホームでは、いかにも最終日らしい光景が展開されている。すがすがしい、というか、ちょっと胸が締め付けられるようなシーンだ。その後、最終日を好んで撮りに出かけるようになったのも、この近江今津駅の体験が原点になっているようにも思う。
折り返しの8時20分発8列車で去るが、編成は行きと同じ4両編成、最初は空いていたが、各駅で乗車が続いた。途中で徹夜の疲れでいつしか寝入ってしまい、終点の浜大津で我に返ると、車内は超満員になっていた。

近江今津を発車した8列車の先頭車両、超ロングシートに客はまばら

先頭はキハ52、半室の運転室の横は、格好の展望室だった

新旭~安曇川間で江若最長の安曇川鉄橋を渡る

安曇川に到着する。上下列車の交換があり、多くの乗客が待ち受ける。構内には明日からの代行バスが待機している

北小松で5列車キハ11と交換する。この時間帯になると、カメラを提げた乗客も増えてきた


【15655】エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part15  希望へのエリトリア鉄道の今は その6

第6日目 9月29日 その2
アスマラ (Bus)→9:10マッサワ

昼食後は午前中に撮ったシーンが順光でなかったのでもう一度撮ろうと引換して、再度ホテルの屋上に上がっての撮影会です。ドイツ人鉄ちゃんのこだわりは続きました。

▲ ポートアイランドからタウルド島へと向かう列車です。右のバスが走っている後方が港の駅です。

この後は、列車に乗っていくか、そのままバスで移動するのかの選択を求められましたので、ためらうことなく列車にしましたが、ご覧のとおり客車はつないでいません。2軸の貨車に積込まれて、ガタンゴトンと、ゆっくりアスマラ方面に向かいました。ここであまりの暑さに、こだわりのドイツ人が一人脱落しました。貨車内でも熱中症でダウンするスタッフも出てきたりで、過酷な環境でした。



▲ マッサワの街を出ると、あたりは荒涼たるアフリカの荒地が広がっていきます。そしてそこには、戦争で落ち延びてきた難民の部落が点在する、光景がありました。



▲ 難民部落も住めない過酷な大地が広がっていく未開の大地です。撮影地点は、こちらです。



▲ 大雨の時に現れる河川にかかる、エリトリア鉄道最長のアーチ橋。羊の放牧は子供の仕事です。木陰で休みながら、疲れているのか、虚ろな視線を投げかけていました。撮影地点はこちらです。

▲ この橋は、エリトリア紙幣10ナクファの裏面デザインに使われています。Fiat Ural製のトラックを1994年に改造したレールトラックが貨物列車を牽引しています。機関区では見かけませんでしたが、まだ現役で動かせるそうです。須磨の大老様、必見です。

▲ エリトリアの紙幣には、人々が力を合わせて独立を勝ち取った歴史から、
この国の9つの民族、庶民の姿が描かれています。歴史上の有名人や政治家などが描かれた紙幣が多い中、とても珍しいと言われています。(注;20ナクファ紙幣もありましたが、うっかり現地で使ってしまいました。)


▲ フォトラン列車が止まる度にたくさんの子供たちが集まってきます。辺りに農作物の耕作地は見当たりません。水が流れている川もありません。どうやって生活しているのでしょうか。しかし、子供たちは元気そうで、笑顔も見えました。


▲ 17:50、乾いた大地に日が沈んでいきます。乾燥していますので、空があまり赤くにはなりません。”ヌキ”をするには沈む方向が難しい位置です。もう少し待てば、もう少し何とかなるのですが、機関車が水切れになったそうで、今日はこれで打ち切りでした。皆さんも暑さに参っていましたので、執拗にもう1回走らせてと嘆願することは、ありませんでした。


▲  19:30から波止場での夜間撮影となりましたが、着いた瞬間に街中停電です。仕方なく乗ってきたバスの前照灯で照らしての撮影でしたのでもう1つでした。上は、ようやく電気が点いた20時過ぎの撮影です。

今夜の夕食もクーラーなしのレストランでした。おまけに楽しみにしていた、冷えたビールは売り切れです。配給制のようですぐになくなるらしいです。体力は消耗するばかり、回復できません。マッサワの熱帯の暑さは、以前に7月の台湾で、37度湿度80%を経験しましたが、それよりもこたえます。アスマラの快適さとのあまりのギャップ差に苦しんだ1日でした。


【15745】関西 新快速 物語 発刊のお知らせ

1冊の本が届いていました。開けると、’68年生福田静二君から、先輩は神足駅(現;長岡京近くでよく在来線の写真を撮っておられたので、新快速が走り出した頃の写真があれば使わして欲しいと依頼のあった、” 関西 新快速 物語 ” が入っていました。
幼少期より、そして通学時代には父親が国鉄マンでありましたので、大幅家族割引のある国鉄に乗っておりました。当時の神足駅は普通しか止まらない駅で、80系が高速で通過するのを見送っていました。見送る電車はその後113・115系、153系、117系、221系と変っていきましたが、この本を読んでいくと、その頃の自分自信を思い起こしてくれました。
この本は、福田君が編集協力されました。掲載写真は福田君以外に、DRFC-OBの佐竹保雄、鶴絋明両先輩、井原実氏も写真提供をされておられます。是非、本屋に立ち寄りの際はご覧ください。良ければ、お買い求めください。


【15737】江若 あれこれ話 (1)

江若鉄道再現模型運転会もいよいよ近づいて来ましたね。製作者の西村さんの高まる気持ち、如何ばかりでしょうか。遅まきながら、応援シリーズとして、自分勝手な”江若あれこれ話”を載せることにしました。皆さんもぜひ江若の思い出をお寄せください。
今回は、先般、運転会会場のスカイプラザ浜大津へ打合せに行った際に、館の方から聞いた”ちょっといい話”。

滋賀駅を通過しようとする「ひら」回送。機関助士が身を乗り出し授受の用意をしている

5122+5010+5121の総括編成にキハ52、キハ15を連結した5両編成。江若の最大編成だ
ここに写っているシーン、実は昨年から同館の廊下に展示されている写真だが、ある日のこと、古老がお見えになり、この写真をぜひ譲ってほしいとおっしゃったそうな。
この写真は滋賀駅での通過シーンで、タブレットの授受が行われている。江若では、朝ラッシュ時に快速列車が運転され、通過駅もあった。しかし、日中はすべて各駅停車だから、このようなシーンは見られない。唯一通過シーンが日中に見られたのは、春秋の登山シーズンに、帰途に就く登山客のために運転された北小松発浜大津行き臨時「ひら」号の運転時だった。天候などに左右されたが、夕方に浜大津行きが3本程度設定され、編成も単行から、総括編成と呼ばれた3両編成まで、さまざまであった。
この写真は、滋賀駅における回送列車の通過シーンで、三井寺下で仕立てられた編成は、何本かの「ひら」を併結しているため、最大の5両編成であった。
さて、くだんの一件、正解は、お見えになった方は、右側でタブレットを渡している駅員氏だったのである。自分の姿が入った写真を館で偶然に見られたという次第。館の方は、もう一枚焼き増して、その方に渡されたそうだ。何気に写した写真が、40年ぶりで写った本人へ蘇ったのである。

「ひら」回送の後部。DRFCのメンバーが見える。昭和44年10月10日のこの日は、京阪「びわこ」号の臨時電車が走り、みんなで錦織車庫まで追い掛けてきて、その後にすぐ近くの滋賀駅を訪れた


【15631】昭和45年3月の小湊鉄道

10月10日【15353】「デジ青で外回り鉄」でkawanaka_t氏より出張時業務終了後に海土有木で撮影された画像を紹介があったが、用務先が千葉県市原市方面の場合は小湊鉄道に行かれる方が多いようである。前回の私の場合は業務終了予定時刻を15時頃と予想して、上総山田~光風台間の養老川鉄橋か、上総牛久~上総川間間で撮影しようと思っていたところ、午前中に終わったため大原まで横断することができた。

 小湊鉄道を初めて訪れたのは昭和45年3月のことで、キハ200形は201~206の6両のみで、それ以前に製作された車両も日常的に運用に就いており、特に元国鉄キハ41000形はキハ200形と共に主力として活躍していた。撮影した画像から当時を振り返ってみた。

 キハ100形(100、101)
昭和8年に2両新製された16m級車で、同じ年に新製された鉄道省のキハ36900形(→キハ41000形)と同サイズであった。当初の呼称は「ジハ」であった。ジハ100が川崎車輌、ジハ101が日本車輌で作られた。当初はガソリンエンジン(コンチネンタル16H)であったが、昭和16年に天然ガス動車となり、昭和25年に日野DMF54Iに換装されディーゼル化、昭和31年にDMF13に換装された。
湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP90にジハ101の新製時の写真、P91に昭和34年に撮影されたジハ100の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。運転席窓の庇は、戦後の車体更新、ヘッドライトの移設時も撤去されず、この車のトレードマークになっていた。キハ200形の増備により、昭和47年2月廃車になった。

 キハ41000形(41001~41004)
昭和24年、国鉄で廃車になったキハ41000形を4両譲受け、25年に富士産業で機関を日野DA55に換装の上使用した。昭和30年にはDMF13に換装した。主力として活躍したが、キハ200形の増備により41003、41004が昭和48年7月に、41001、41002が50年5月に廃車になった。

 キハ6100形(6100、6101)
国鉄で廃車になったクハ6100形の6100と6101を昭和31年3月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ6100形は元青梅電鐡のモハ100形で、101、102が大正15年日本車輌、103~106が昭和3年川崎造船所で作られた。青梅電鐡は昭和19年4月1日鉄道省に買収されたが、電気機器の相違から同年11月に電装解除されクハとなった。戦後も早い時期に整理の対象になり、昭和28年6月1日の改番まで残ったのは元モハ102のクハ6100とモハ104のクハ6101の2両のみで昭和30年1月廃車になった。佐竹先輩の「私鉄買収国電」のP27にクハ6100、P28にクハ6101の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。
気動車への改造は6100が日本車輌、6101は帝国車両で行われ、正面窓は当時流行の2枚窓になった。他車がツートンカラーに変更後も茶色のままで、晩年は貨物列車の牽引に使用されていた。廃車は6100が昭和49年10月、6101が昭和52年12月である。

  キハ5800形(5800、5801)
国鉄で廃車になったクハ5800形の5800、5801を昭和35年2月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ5800形(5800~5804)は元三信鉄道のデ301形(301~305)であるが、車歴を辿ると大正3年まで遡る。飯田線天竜峡~三河川合間の三信鉄道は、昭和7年10月天竜峡~門島間の開業を皮切りに部分開業を重ね昭和12年8月大嵐~小和田間の開通により全通した。この開通により現在の飯田線の豊橋~辰野間が結ばれた。
クハ5800、5801の前身は鉄道省の大正3年日本車輌製のモニ3009、3010で、昭和9年9月廃車後、三信鉄道に譲渡され、昭和11年4月日本車輌で鋼体化の上、デ301、302となった。扉間には窓に合わせたゆったりしたクロスシートが並ぶ車内は長距離運転に相応しいものであった。昭和18年8月1日辰野~天竜峡間の伊那電鉄、三河川合~大海間の鳳来寺鉄道、大海~豊橋間の豊川鉄道と共に買収され飯田線となった。
301は昭和26年12月、302は27年1月に電装解除の上、片運化されクモハ(クハ代用のモハ)301、302となり、昭和28年6月1日の改番でクハ5800、5801となった。クハ化の際に連結器が密連になり、伊那松島区の配置となりモハ14等の国鉄型モハとMT編成を組み、中部天竜~名古屋間の臨時快速「天竜号」に使用されることもあった。昭和34年2月全車廃車され、5800、5801が小湊鉄道、5802が伊豆箱根鉄道、5803、5804が大井川鉄道で再起した。
飯田線時代のクハ5800、580iの写真は「私鉄買収国電」のP103に掲載されているのでご覧いただきたい。
キハ5800は平成9年6月30日付けで廃車され、現在も五井機関区で保管されているが、私鉄時代の飯田線の生き証人として電車に復元の上、然るべき場所(例えば佐久間レールパーク跡地に飯田線所縁の車両を集めて博物館を作る等)で保存できないものかと思う。
キハ5801は昭和52年12月に廃車されている。

 キハ200形(201~214)
昭和45年3月時点では201~206の6両在籍していたが、その後の増備車も含めて解説する。
キハ20と同系であるが最大の違いは、窓配置もさることながら、ロングシートと自動扉ではないだろうか。余談になるが8月30日に乗車時、上総中野を発車後のアナウンスの前に元国鉄で使用していたものと同じメロディー(♪パパパパパーン・♪パパパパーン・♪パパパパパパパパーン)が流れ思わず感激した。
201、202が昭和36年12月、203、204が38年4月、205、206が38年12月、207~210が45年12月、211、212が50年3月、213、214が52年10月に作られ、メーカーはすべて日本車輌である。45年製の207以降は扉の形状が変わり、211以降は窓がユニットサッシになっている。209と210以外は冷房改造されており、209は休車となっている。

 

電車改造の気動車
気動車改造の電車は、戦後電化したローカル私鉄を中心によく見られたが、その逆は非常に少ない。車体構造が電車と気動車とでは全く異なり、車体が重く無理をしてエンジンを取り付けても出力不足となるからである。国鉄でも北海道でオハ62とオハフ62にエンジンを取付けてキハ40(→キハ08)、キハ45(→キハ09)を製作したが、重すぎて狩勝峠が越せない等の運用上の支障があり早くに姿を消した。キハ6100、6101、キハ5800、5801の4両は数少ない改造例として貴重な存在である。

 他の改造例は、南武線の前身の南武鉄道のクハ210形の213、214(昭和15年木南車輌製)が、23年に関東鉄道の前身の常総筑波鉄道に貸し渡され、25年に正式に譲渡後、客車(ホハフ201、202)として使用、28年自社で気動車化してキハ40084、40085となった。常総線で使用されていたがキハ40084は44年筑波線に転属、47年に2両とも廃車となった。いずれも元買収国電というのが興味深い。

 入線しなかったDL
非電化の私鉄では大抵貨物列車の牽引用に蒸気機関車を保有し、時代の流れと共にDLと交替した。小湊鉄道はDLを購入せずキハ6100、6101を貨物列車の牽引に使用した。貨物の量もさほど多くなく、重量の重いキハ6100は機関車代わりに丁度よかったのかもしれない。

 蒸気機関車は1号機、2号機(大正13年ボールドウィン製)B104(明治27年ベイヤーピーコック製)の3両が千葉県の文化財に指定され、五井機関区の敷地内に屋根付で保存されている。

交換駅について
五井~上総中野間は39.1㎞あるが、五井~上総牛久間16.4㎞間の途中駅6駅の内交換ができないのは上総三又のみで、これも近々交換駅に改良される予定になっている。一方、上総牛久~上総中野間22.7㎞間の交換可能駅はゼロでこの間は1列車しか入れない。かつては上総鶴舞(上総牛久から2つ目)、高滝(同4つ目)、里見(同5つ目)、月﨑(同7つ目)、養老渓谷(同9つ目)とほぼ1駅毎に交換可能であった。養老渓谷以外は分岐器をロックしてあるだけであり、近々里見駅の交換復活工事が予定されているが、さほど難しい話ではないと思われる。