2009年 秋の中国一人旅 Part3 調兵山へ

今日、10月3日は、中国では、旧暦8月15日の中秋節を迎えています。この満月の祭りは、9~10世紀頃から始まったと言われています。古代中国の皇帝が、秋の季節にお月見を祭る礼から由来します。

中秋節は、自宅で、月餅を食べたり、名月を楽しんだりして、家族円満を祝う日です。中国人にとっては、家族の親睦や民族の団結、国家の統一を祈念する願いの日でもあります。中国の新年(春節)に次いで重要な年中行事です。今回の旅先でも、これでもかというほどの月餅が、街中で売られていました。値段は、1個1元前後の庶民用から、100元もする高級贈答品まで、さまざまです。飲食店では、年間の売上利益の大半を稼ぐそうです。

これが、日本に伝わり、月見団子になったのでしょうね。今夜は、晴れて満月です。皆様方は、どんな名月の夜を楽しんで、おられますでしょうか。

第4日目 9月20日

約36時間余りの夜行寝台列車の旅を満喫して、瀋陽駅に降り立ちました。瀋陽駅、中文では沈阳站(シャンヤンジャン)は、南満州鉄道時代の1910年に奉天駅として、完成しました。沈阳市は、遼寧省の省都であり、人口約740万人と、中国東北部の最大都市です。 続きを読む

2009年 秋の中国鉄路一人旅 Part2 瀋陽へT186

『慶祝 新中国誕生60周年』
今日は、10月1日、中華人民共和国の国慶節です。特に今年は、建国60周年を迎えると言うことで、連日これでもかと、祝日に備えての準備等の様子を、TV放映していました。ホテル、商店、食堂は勿論、街路灯にも赤い国旗が、掲げられています。パトカーも多く、街中、公安官だらけで、警備も厳重です。日本人の私には、関係ないわと思っていたら、後日えらい目に会いました。

第2~4日目 9月18日~20日

深圳20:18発、瀋陽行きのT186列車発車まで、十分な時間があります。今後の予定は、切符が買えてからで良いと思っていたので、瀋陽のホテルをインターネット予約したりで、疲れない程度に街をウロウロしました。
乗車前の1時間前までに駅に行けば良いと、夕食を裏町で食べて、ゆっくりとしていたら、タクシーが拾えません。そうだ、深圳の夕方からは、道路が渋滞するので、空車が拾えないのを、すっかり忘れていました。ドジの始まりでした。重いスーツケースを持って、遠い地鉄駅まで向かいました。

それでも、地鉄に乗ってしまえば、わずか1駅3分です。発車40分前には待合室に入れました。夜行列車は、大体30分前に改札が始まります。まだ、家族連れは少なく、学生らしい若者が多数です。にぎわう様子を撮っていたら、早速、公安官の撮影禁止の声が聞こえました。

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JR日光線の旅 (Ⅰ)

東武日光線の「特急スペーシア」、新宿~東武日光間のJR、東武相互乗入れの「特急日光、きぬがわ号」の影に隠れて影が薄いJR日光線であるが、東北新幹線宇都宮経由で日光に行く乗客が、ジャパンレールパスを利用する外国人観光客を中心に意外多く存在する。また「青春18」のシーズンになると日本人の観光客も増加する。また、日光市、鹿沼市と県都宇都宮市を結ぶ都市間連絡路線の役割を持ち、宇都宮市への通勤、通学、買い物等の利用客も多い。日光線を観光路線としての魅力を高めるとともに、沿線の活性化を目指し、日光、下野大沢、文挟の各駅の整備と107系の塗装変更が行われている。そんなJR日光線を8月21日(金曜日)夏休みを取り「青春18」で見学した。

いつもの出勤時と同じ時間に家を出て、午前中は烏山線に乗るか、黒磯で交流電車を見るか迷ったが、烏山線は5年前に行った時と変化がないため黒磯に行くことにした。赤羽から乗車した湘南新宿ラインE231系15連(1610E)から宇都宮で211系5連(1545M)に乗換え、黒磯で暫く待つと郡山発の2123Mがロングシートのクハ700-1251+クモハ701-1251の2連で到着した。黒磯から先の東北本線はED75が10両位の客車を引いていたことを知る世代にとっては誠に寂しい限りであった。折り返しの電車まで駅の外に出ると東野交通「那須ロープウェイ」行が、元大阪市交通局の南港コスモスクエアのシャトルバスとして使用されていたバスで到着した。平成の1桁頃、登山で利用した時には元京阪バスの京都定観で走っていたバスが、塗分けをチョット変えただけで車内の成田山のお札もそのままで走っており、乗物には全く興味のない嫁さんまでがビックリしていた。それも1両や2両ではなく、1形式1両、1形式2両の珍しい車両も含めて12両も在籍していた。

 

上/クハ700-1025+クモハ701-1025 下/クモハ700-1025 天下の東北本線の普通列車が2両編成とは寂しい。

【たまにはバス① 東野交通の元大阪市バスと京阪バス】

 

栃木221167 元大阪市バス南港コスモスクエアシャトルバス(4年式PMP618P

 

栃木2284  元京阪バス定期観光 京22225554年式RC321P

                                             

2285  元京阪バス定期観光 京22253355年式RC321P

 

栃木22460  元京阪バス定期観光 京22324658年式PRC721P)/京阪バスでは1型式1両の車であった。

 

栃木22464  元京阪バス京都定期観光 京22324458年式PRC321P)/京阪バスでは1型式2両であったが車体メーカーが異なっていた。

ここで取り上げた元京阪バスは既に廃車されている。京阪バス時代の登録番号は車台番号から割り出した。

11時55分発の1550Mで宇都宮に戻り、乗車予定の日光線13時33分発845Mまで駅の外に出ると関東自動車の元大阪市バスがきた。845Mは2両編成でクハ107+クモハ106の2連で部活帰りの学生で満員であったが、鹿沼と今市でまとまった降車があり、日光到着時には座席の半分が空いている状態であった。

【たまにはバス② 関東自動車の元大阪市バス】

 

宇都宮2007065年式ULV224K

 

宇都宮2007936年式UHU2MLAA

 

宇都宮2007986年式ULV224K

帰りの852Mまでの1時間、JR、東武双方の日光駅を見学したが、JR駅と東武駅のほぼ中間地点に新宿、東武日光間の直通運転の記念プレートが設置されていた。852Mは4両編成で、外国人観光客、「青春18」の客で座席が半分位埋まった。当初の予定では文挟駅で途中下車して、改築された駅舎を見学する予定であったが、外の蒸し暑さを想像するだけで下車する気がしなくなり、そのまま宇都宮まで乗車して帰った。「青春18」で出かけると、天候と気分次第で「また今度」と思ってしまうのは年の所為であろうか。帰宅後、文挟駅と下野大沢駅の改築状況が気になり、9月9日(水曜日)改めて確認に行く羽目になった。

歴 史

日光線の歴史は古く、明治23年6月1日、日本鉄道日光線として宇都宮~今市間を開業、同年8月1日今市~日光間が開業した。明治39年11月「鉄道国有法」により国有化され、国内各地から日光に行く唯一の手段として活況を呈していたが、昭和4年10月東武鉄道日光線が全通すると競合関係になり、従来より所要時間を1時間も短縮した上野~日光間を2時間27分で結ぶ準急列車が登場した。ちなみに、東武特急の浅草~東武日光間の所要時間は2時間18分であった。

戦時体制の強化により、「準急」「東武特急」ともに消滅したが、戦後、世の中が落着くと再び競争が激化して、昭和25年6月上野~日光間の臨時快速を運転開始、昭和31年には当時開発されたばかりのキハ44800形(後のキハ55)による準急「日光」の運転開始。昭和33年4月には電化が完成。昭和34年9月、151系並の装備を有した157系「日光形」が落成し、準急「日光」を置換えた。昭和44年4月、157系が「日光号」から撤退し急行型の165系に置換え。昭和57年11月のダイヤ改正で急行「日光」が廃止され定期の優等列車は消滅した。以降、国鉄→JR東日本は、東北新幹線宇都宮乗換え日光線ルートをPRしていたが、東武に比べると所要時間では勝るものの、乗り換えの煩わしさと高額な運賃が災いして東京周辺の人は東武の利用が一般的であった。平成18年3月18日のダイヤ改正より栗橋駅の東武、JR間に設置された渡り線を経由してJRと東武の相互乗入れにより、新宿~東武日光・鬼怒川温泉間の直通運転が開始された。これによりJR東日本は日光線の観光客輸送を諦めたかに見えたが、今回日光線を観光路線として再度見直しすることになったことは喜ばしい限りである。

【現 状】

宇都宮~日光間24往復(朝の1本は小金井始発)、宇都宮~鹿沼間4往復運転されている。朝夕は宇都宮~鹿沼間で最少18分まで間隔が縮まるが昼間は1時間間隔である。営業キロ40.5km、中間駅は鶴田、鹿沼、文挟、下野大沢、今市の5駅で、全駅交換可能である。鶴田~鹿沼間は9.5kmと長く、鹿沼市とJRにより中間駅を設置する計画があるが、住民からは「そんなとこに駅作っても誰が乗るねん」という意見があり、かつての栗東新駅と同じ構図である。文挟が無人の他は有人駅で下野大沢は委託駅である。

宇都宮駅の標高が約150mに対し日光駅の標高は533mである。宇都宮~鹿沼間はほぼ平坦線、鹿沼~今市間は10~20‰、今市~日光間は20~25‰の勾配が続き、旧形時代はモーター音高らかに登っていったが、107系は120KWのMT54のモーター音も軽やかに勾配を登っていく。文挟~下野大沢間は牧場の直ぐ横を走る区間があり、中に入れてもらえれば牛を入れての撮影が可能である。

競合路線として、宇都宮駅~日光東照宮間に関東自動車がほぼ1時間に1本運転されているが、途中のルートが日光線とは異なり、運行距離が長いため行楽シーズンは交通渋滞に巻き込まれやすいのと、運賃がJRより高いので通しで利用する人は少ない。以前は30分間隔で運行され、元観光バスの車両を使用していたが、現在は通常の路線車である。宇都宮~鹿沼間はラッシュ時10分、昼間20分間隔で頻繁に運転されており、運賃はJRより高いが、両市の中心部を通りドアtoドアで利用できるため乗客が多い。宇都宮、鹿沼ともに市の中心部は東武の駅付近で、バスはJR宇都宮駅から東武宇都宮駅、JR鹿沼駅の近く通り東武新鹿沼駅の少し先の新鹿沼出張所が終点である。以前は昼間も10分間隔で運転されていた。また、宇都宮~鶴田間は市内線のバスが頻繁に運転されている。

全くの余談であるが、東野交通のバスは東武宇都宮駅が始発でJR宇都宮駅を経由して各方面に運転されており、鉄道では大回りになる宇都宮~真岡、宇都宮~益子間は利用者が多く、本数もそれなりにある。面白いは宇都宮方面行の方向幕で「東武宇都宮」ではなく「宇都宮東武」と表示されている。京都市バスや京阪バスの「三条京阪」と同じ思想であろう。ところが江若鉄道のバスは「京阪三条」となっていた。宇都宮~茂木間もJRバスが運転されており、こちらもそこそこの本数があり、かつては茨城交通茨城線の終点御前山まで、更には水戸駅まで行く便もあった。

 

シックな佇まいのJR日光駅

 

上から正面玄関、待合室、駅名板、4カ国語で書かれた団体出口の案内板

 

ロッジ風の東武日光駅

 

相互乗入れ記念プレート(双方の日光駅の中間地点にある)

 

改築された下野大沢駅

 

改築された文挟駅 

下野大沢、文挟の両駅が改築されたのは、元々駅舎が老朽化しており改築の時期にきていたのと、規模が小さく簡単に改築が可能であったためであろう。鶴田、鹿沼、今市の各駅は規模がそれなりに大きいため当面は現状のままと思われる。

JR日光線の旅 (Ⅱ)

引き続き車両について解説する。

「小山車両センター」に日光線専用車両として、クモハ107+クハ106が8編成(1~8)16両配置されている。レトロ調への塗装変更が進行中で、9月9日時点では1、2、5の3編成が完了している。旧塗装は日光線の「N」をデザインした塗装で決して悪くはないと思っている。編成は2両、4両が主体で、日光行の終電と日光発の初電は6両といわれているが確認はしていない。昼間の1時間ヘッドの時は2両と4両編成が各1本ずつ2本で運用され、朝夕は2両、4両編成が各1本ずつ加わり4本で運用される。この編成は昼間宇都宮駅南側の留置線にパンタが上がった状態で停められている。

107系は、日光線と両毛線等の北関東地区のローカル線用として、昭和63年から平成3年にかけて急行形の165系の台車、主電動機、冷房装置等の主要部品を流用して国鉄工場(当時の大宮、大井、大船、新津、長野の各工場)で製作された電車で、経歴簿上は改造車ではなく新車扱いである。日光線の8編成は、165系の置換え用として昭和63年6月から順次投入された。クモハ107-4~8の5両は新製時より前位に霜取パンタを装備し、1~3も翌年追加された。高崎区の配置車両は霜取パンタがなく耐雪ブレーキを装備しており100番台に区分され101~119の19編成38両が在籍する。101~105は0番台と同じ窓配置であるが、平成元年9月以降製作の106~119は戸袋窓がなくなり扉間大窓3枚となった。日光線用の0番代とは併結可能で、時折小山区に貸出され日光線を走っている。 

座席はセミクロスシート対応の窓配置であるにもかかわらずロングシートで、観光客の多い日光線、吾妻線、上越線を走るのに何故オールロングにしたのか疑問を感じる。現在では不要となったが高崎区の車両は横軽通過対策がされており、方向幕には長野、軽井沢、石打、越後湯沢が入っている。前述の横軽通過対策と併せて、臨時列車等で使用する予定があったのであろう。高崎区で高崎~黒磯間を直通する運用が1往復存在する。

 

クハ106-3+クモハ107-3+クハ106-2+クモハ107-2  日光

 

クモハ107-1+クハ106-1+クモハ107-2+クハ106-2 日光

 

クハ106-7+クモハ107-7+クハ106-3+クモハ107-3  文挟

 

クハ106-5+クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-5  宇都宮

 

クモハ107-6+クハ106-6  文挟

 

クモハ105-5+クハ106-5  宇都宮

【参考】高崎区の107系

 

クモハ107-101+クハ106-101  横川行(20.12.22高崎駅)

 

クモハ107-109他4連 桐生行(20.12.22高崎駅)

 

クハ106-106+クモハ107-106  高崎行(21.1.8 群馬八幡~安中)

旧形国電末期の日光線

オール旧形時代の昭和42年と43年、東武日光軌道線の撮影に行った時に乗車しているが何故か撮影していない。恐らく乗車したのが撮影可能な時間でなかったかも知れない。末期の47年12月から51年1月にかけて5回宇都宮駅で撮影している。

昭和44年3月末の国鉄車両配置表によると、小山電車区の旧形国電の配置は、クモハ41038、045、096、113、クモハ40054、クハ55400、サハ57049の7両で6両使用1両予備であった。

当時の運用は下記の通りであった。

小金井(回送)宇都宮21:50(845M)日光着22:31()5:18(822M)宇都宮着5:566:05(821M)日光着6:507:00(824M)宇都宮着7:457:56(825M)鹿沼着8:118:16(828M)宇都宮着8:31(回送)小金井

編成記録

←宇都宮

47.12.12 55400+41045+41096+41038+57049+40054

48.5.13   55400+41096+40054+41045+57049+41113

51.1.4    40054+41113+57049+41045+55400+41096

 

昭和47年12月12日の編成

各車両について

 

クモハ41038(昭和12年11月新潟鐵工製、昭和52年1月25日廃車)

                                                                    

クモハ41045(昭和13年10月日本車輌製、昭和51年5月28日廃車) 

 

クモハ41096(昭和10年6月日車支店でモハ40129として新製、11年4月40049に改番、昭和19年7月片運化改造で41096に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

クモハ41113(昭和11年2月日本車輌でモハ40066として新製、昭和19年8月片運化改造で41113に改番、昭和52年1月25日廃車)

 

クモハ40054(昭和10年6月田中車輌でモハ40134として新製、11年4月40054に改番、昭和51年3月新性能化後国府津電車区の職員輸送用として使用、JR東日本に引継がれ、平成19年5月から青梅鉄道公園に展示保存)

 

クハ55400(昭和10年6月汽車支店でクハ55110として新製、11年4月55030に改番、42年5月55400に改番、昭和51年5月28日廃車)

 

サハ57049(昭和8年8月日本車輌でサロハ56002として新製、昭和18年3月戦時改造で57049に改番、昭和51年5月28日廃車)

2009年 秋の中国鉄路 一人旅 Part1 旅立ち

今年は、5月の台湾鉄路全線乗車の後、6月には、広州→深圳→香港→上海→杭州→天津と、早くから、暑い旅を続けましたので、疲れた老体を休めておりましたが、夏も終わり、秋風が心地よい頃となると、じっとできなくなっってきました。
ストレスは、身体に悪いので、ぼちぼちどこかへ行こうと、計画を練っていましたら、いつものように、家の用事ができて、行けません。オープンにしてある航空券の手配をしようとすると、今度は、『鉄道撮影に便利な、ご希望のキャンピングができるる中古車が、見つかりました。』と、電話がきました。車を見に行ったり、登録手続き等々で、また出られなくなってしまいました。仕方ありません、またまた、計画なしに、とにかく出かけてから行程は決めようと、出発の前々日に決めました

とりあえずのフライトの到着地を迷っていました。ナローゲージのSL芭石鉄道も良いし、早川先輩が満州に行かれて、遭遇されたジテを私も見てみたい。調兵山のSLも再会したいと、迷いに迷った末、瀋陽行きを申し込みましたが、オープンにしていた航空券は広州行きで、以前にはできた経路変更がJALの都合で、できなくなっていました。
こうなれば、意地でも瀋陽を目指そうと、中国鉄路の時刻表を見ますと、深圳から瀋陽北行きの列車が、1本あります。しかし、国慶節(中国の建国記念日)休みが近く、この切符が購入できるかは、分かりません。なかったら、なったらで、成混鉄路や、海南島への鉄道連絡船もあると、楽観的に考えて、出発する事にしました。

しかし、JALに電話すると、あれほど空席が続いていたのに、『当日は満席です。前日はあります。』との、思いもかけない返事です。仕方ありません。大急ぎで、旅支度をして、翌日には関空へと向かいました。

第1日目 9月17日

広州からは、CRHで深圳へと向かい、到着後、直ぐに、切符売場に並び、後席2席を、残すのみの瀋陽行きの軟座寝台切符を、手に入れることが、できました。

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893-2さんへ質問

トップタイトルの写真が紀州鉄道に変わりましたが、「まもなくお別れ・・・」と気になるキャプションがついています。

まもなくお別れは紀州鉄道なのかキハなのかどちらでしょうか?

よろしくお願い致します。

久留里線の旅

8月12日(水曜日)夏休みを取り、「青春18」を利用して久留里線に乗車した。東京都内の千葉県に最も近いところに住みながら久留里線は初乗車であった。他にも小湊鉄道の上総牛久~上総中野間、いすみ鉄道全線が未乗区間として残っているので近々乗車したいと思っている。

今回の目的は、久留里線の乗車のみであるため、いつもより1時間以上遅く、8時に出発。仕事で千葉市や市原市に行く時は、金町から千葉まで京成で行くが、今回は新松戸から武蔵野線、西船橋経由千葉へ。千葉駅で降りると9時32分発木更津行(155M)が湘南色に塗り替えられた113系4連+スカ色の4連で停車しており乗車予定の電車を1本遅らせて撮影。撮影後この電車に乗ったが、間に合うと思っていた木更津駅10時6分発の上総亀山行(929D)にタッチの差で接続しないことが判明し、一旦蘇我で降りて駅撮りをすることにした。京葉線の201系、205系の初期車、電留線のE257系を撮影後、横須賀線から直通のE217系15連で木更津に到着。車両基地(正式名称は幕張車両センター木更津派出所)に、旧国鉄色に塗り替えられたキハ3098が停まっており、駐輪場から撮影した。エンジンが駆動しており、次の運用に入ることは間違いなく、時刻表を確認の上、帰りに久留里駅で撮影することにした。

11時52分発上総亀山行(931D)は、キハ381002+キハ384の2連で座席ほぼ満席であった。次の駅は「祇園」。住宅街の無人駅であるが、由来は京都の「祇園」から来ており、平 影清が京を偲んで住居のあった付近を「祇園村」と呼んだと伝えられている。京都出身者としては、ストレートに「祇園」ではなく「上総祇園」にしてもらいたいところ。上総清川、東清川と棒線の無人駅に停車して、次の横田は交換駅であるが、対向列車はなくタブレットを交換して直ぐ発車。東横田、馬来田、下郡、小櫃、俵田と棒線の駅(馬来田が簡易委託の他は無人)が続き、ほどなく久留里に到着して上りの木更津行(キハ371002+キハ383)と交換。駅の手前に県立高校があり、ここの通学客が久留里線最大のお得意様である。この先の乗客は数える程で、山間部に入り、平山、上総松丘と棒線の無人駅を過ぎ、トンネルを抜けて終点の上総亀山に到着した。降りたのは約10名で、同業者が1人、親子鉄が2人、亀山温泉に行くと思われる観光客が2人、残りが地元客で、おばさん1人が駅前から黄和田車庫行のバスに乗り継いだ。一昨年まではここから安房鴨川行の路線バスがあり、房総半島の横断が可能であったが、千葉駅~安房鴨川間の高速バス「カピーナ号」が途中からローカルバスに変身して役割を引き継いでいる。(バス停は駅前にはなく徒歩5分位のところにある)折り返しの938Dまで1時間以上あり周辺を散策して時間を潰した。

帰りは旧国鉄色のキハ3098を撮るため久留里で一旦降りたが、ここでも待ち時間が約1時間あり、久留里城を見学しようと思ったが、片道30分もかかるので周辺の散策に切り替えた。久留里止まりの937Dは、予想通りキハ3098+キハ381001であった。駅舎側の上総亀山方面行のホームに停まったので、駅長氏に上りホームから撮影してもよいか尋ねたところ「向こうのホームには行かないで」とのこと。同業者が5名程おり、一般客も携帯電話で盛んに撮影していた。そのキハ30であるが今時珍しい非冷房車であった。横田での交換はこちらが先着で、3分停車のため急ぎ下りホームから撮影したがモロ逆光であった。交換した下り列車はキハ372+キハ381であった。

木更津到着後、折り返しの941Dを駅の千葉寄りの踏切で撮影するべく時刻表を確認すると、内房線の198Mと同時発車である。加速は電車の方が良いので先に通過するだろうと思ったが、電車は8両編成のため、タッチの差でキハ30は撮影できなかった。今回の主目的は久留里線の乗り潰しであったが、千葉駅で湘南色の113系を撮影したため乗車が1本遅れてしまい、走行写真は撮影できなかった。次の「18」の時には走行を中心に撮影したいと思っている。横田~東清川間の小櫃川鉄橋あたりが狙い目と思われ、馬来田までは日東交通の路線バスが並行して走っているため利用可能である。久留里以遠の山間区間は、景色は良いが列車本数が少なく時間のロスが大きいのが難点である。

 

湘南色のマリ117編成(Tc111-2152M113-2072M112-2072Tc111-2056)千葉

 

クハ201-110他10連  蘇我/関西ではリニューアルされて新車のような顔をして走っている201系であるが、JR東日本では京葉線に10連×4本、中央線に10連×2本の60両が残るのみ。

 

クハ205-3他10連  蘇我/205系の1次車で窓が上段下降、下段上昇の2段窓が特徴

上総亀山駅で折り返し発車待ちのキハ384+キハ381002

 

上総亀山駅

 

黄和田車庫行の君津市コミニュテイーバス。道路交通法80条適用のため白ナンバー。

久留里駅

 

横田駅で交換したキハ372+キハ381

 

木更津駅を発車したキハ3098+キハ381001であるが、同時発車の電車のためキハ3098は撮れなかった。

歴 史

明治43年6月千葉県の臨時県議会決議で千葉県営久留里軽便鉄道として建設が決まり、大正元年12月28日、木更津~久留里間を762㎜で開業。大正12年9月1日、関東大震災による被害の復旧費の増大と大正11年に制定された改正鉄道敷設法の「木更津より久留里、大多喜を経て大原に至る鉄道」のルート上にあるため無償で国に譲渡され、鉄道省久留里線となった。昭和5年8月20日762㎜から1067㎜に改軌。昭和11年3月25日久留里~上総亀山間が延伸開業したが、昭和19年12月16日不要不急路線として休止され、昭和22年4月1日営業を再開した。

現 状

木更津~上総亀山間13往復、木更津~久留里間4往復、計17往復運転されている。終日ほぼ1時間間隔であるが時間帯により2時間近く空くことがあり、本数が減る久留里~上総亀山間はその傾向が強い。

首都圏では珍しくタブレット閉塞方式を採用しており、交換可能駅は横田と久留里の2ヶ所のため最高3列車しか運行ができない。以前は馬来田、小櫃、上総松丘も交換可能で、駅構内やホームにその痕跡が残っている。乗客は通勤、通学での利用が多く、特に久留里の県立高校の生徒は他に公共交通機関の通学手段がない。列車の編成は平日ラッシュ時3~4連、昼間2連で、学休期は終日2連である。但し、行楽シーズンの休日は昼間でも4連になることがある。昼間は乗客が少ないためワンマン化されても不思議でないが、全便ツーマンで運行されているのは、人員削減に反対している千葉動労との関係であろう。久留里線に限らず千葉支社管轄の各線では、3月中旬に毎年のようにストライキが行われ、間引き運転や運休が行われるが、久留里線は運休となる。

地元の人は久留里線のことを「パー線」と呼んでおり、語源は「久留里線」→「クルクルパー線」→「パー線」から来ている。速度が遅い上、本数が少なく不便であることから、このような表現になったのであろう。

車 両

幕張車両センター木更津派出所にキハ30形3両、キハ37形3両、キハ38形7両、計13両が配置されている。いずれも久留里線のみで見られる形式である。

キハ30形(62、98、100)

昭和36年~41年に非電化通勤路線向けに製作されたキハ35、36の両運転台バージョンである。キハ35(片運トイレ付)が258両、キハ36(片運トイレ無)が49両、キハ30(両運トイレ無)が106両、合計413両作られたが、JRで生き残っているのは上記3両のみである。98は旧国鉄色に塗り替えられ7月4日から運転され、残り2両も塗装変更される予定である。今時珍しい非冷房車である。

 

キハ3896/上 木更津、下 横田

キハ37形(2、1002、1003)

キハ37形は、昭和58年地方交通線用の量産先行車として新製された気動車で、1、1001が新潟鉄工、2、1002、1003が富士重工で新製され、前車が加古川線、後車が久留里線に配置された。1、2はトイレ付で1000番台はトイレ無しである。その後の増備はなく5両の新製で終わってしまった。加古川線の2両は山陰の後藤総合運転所に転属し、山陰本線、境港線で使用されたが今年1月に廃車となった。久留里線の3両は平成10年に冷房改造され引続き使用されているがトイレは閉鎖されている。

 

キハ371002/久留里

キハ38形(1~4、1001~1003)

昭和61年から62年にかけてキハ35の改造名義で台車、主要部品を流用して、トイレ付4両、トイレ無し3両の計7両が国鉄工場で作られた。

当初は高崎区に配置され八高線で使用されていたが、平成8年3月、高麗川~八王子間電化時に、非電化区間の高麗川~高崎間の車両も新系列のキハ110系に置き換えられたため、久留里線に転属してきた。冷房は改造当初から付いている。トイレは閉鎖されている。

 

キハ383/久留里

 

キハ381002/上総亀山

小櫃駅の直ぐ近くの公民館にC12287が保存されているのが見える。ちなみにC12287は昭和22年9月日本車輛製で当初後藤寺区に配置され、その後鹿児島区に転属し、昭和59年6月南延岡区で廃車となった機関車で、今回は時間の関係で見に行けなかったが、次回は是非訪れたいと思っている。久留里線の気動車化以前や貨物列車にC12が使用されていたということで保存されている。

韓国1971年その5(総括)

 韓国1971年その5は総括と言うよりはこれまでの積み残し分です。まず、コダックのネガカラーで撮った慶州の入れ替え中のディーゼル機関車とミカ3蒸機、そして客車です。保存状態が悪い上に次に続く白黒も含め、パソコンの操作技量も低く、見辛くて申し訳ありません。

1971.4.23 慶州

1971.4.23慶州

1971.4.23慶州 1971.4.23慶州

 

1971.4.26 ソウル近郊 客車

ソウル近郊で見た客車。窓の形が何となく京阪の貴賓車16に似ている。

1971.4.26旧ソウル駅舎

 ソウル駅舎と当時の市民。1925年完成で東京駅に似た赤レンガ建物は新ソウル駅完成の2003年まで使われていたとか。

1971.4.25南山

 南山に保存されたソウル市電。

1971.4.26 水原

 鉄道近代化PRボード。日本の鶴見川付近を行く20系ブルートレイン。

1971.4.24 東大邱

 1971年4月には韓国大統領選挙が行われた。画面が小さくて恐縮ですが、一番右が再選を果たした朴正熙氏。その隣りが、先日死去し、23日に国葬が行われた金大中氏。初挑戦で惜敗とのこと。その後の拉致事件、死刑判決、南北首脳会談、ノーベル平和賞受賞は最近の新聞等でご存知のとおり。当時、選挙ポスターは白黒であった。

豊橋鉄道田口線

湯口先輩の【3776】「1953年高校生東京へ その9(最終回)」で、豊橋駅で撮影された「田口鉄道モハ36」の画像について、【3825】でK.H生さんよりコメントあった。田口鉄道→豊橋鉄道田口線は、昭和41年3月23日、京阪沿線の高校在学中に一度だけ訪れたことがあり、その時の模様等を書いてみたい。

豊橋鉄道田口線の沿革を簡単に記すと、大正14年5月 豊川鉄道専務倉田藤四郎氏、田口町長関谷守男氏、旧内務省官吏平松雅夫氏ら発起人により田口鉄道敷設免許申請書を鉄道大臣に提出。大正15年11月 豊川鉄道長篠(現大海)~田口間の蒸気鉄道施設が認可。分岐駅を長篠から鳳来寺口(現本長篠)に変更し、経路も変更したところ急勾配となったため、動力を蒸気から電気に変更して再申請して受理された。設立時の資本金300万円の内訳は宮内省125万円(25000株)、豊川鉄道75万円、鳳来寺鉄道20万円、鳳来寺12.5万円とこれだけで約80%を占め、地元やその有力者の出資は僅かであった。宮内省の出資比率が高いのは、段戸御料林の森林鉄道と田口鉄道を接続させて御料林の経営を抜本的に発展させる目論見があったためである。尚、宮内省は戦後解体により同省の所有株式は地元が引き受けた。本社は豊川鉄道、鳳来寺鉄道と同一場所の豊橋市花田町に置かれたが、戦争末期の7月27日、戦災のため鳳来寺駅に移転した。

昭和3年5月、工事に着手し、昭和7年12月全線が開通した。昭和18年8月1日、豊川、鳳来寺鉄道は鉄道省に買収され、田口鉄道は対象外となったが、列車の運行は引き続き鉄道省に委託された。昭和26年4月1日より本長篠で飯田線の電車と併結により、豊橋まで直通運転の開始。昭和27年5月運行委託が終了。昭和31年10月豊橋鉄道と合併し同社の田口線となった。車両管理を委託していた国鉄豊川分工場が閉鎖されたため、昭和38年3月24日をもって豊橋直通運転が廃止された。

昭和39年12月田口線のバス化計画が発表、それに伴い、地元住民、製材業者を中心に廃止反対運動が展開された。昭和40年9月17日、清崎~三河田口間水害のため不通になりバス代行となった。昭和43年7月19日、全線の運輸営業廃止が認可、廃止直前の8月29日に台風10号の大雨による田峯~清崎間の路盤流失のため三河海老~清崎間が不通となり、清崎駅にモ36が取り残された。最終日の8月31日は本長篠~三河海老間で、モ15による「さよなら運転」が実施された。

昭和41年3月23日に訪れた時の状況

前日まで、日立電鉄、茨城交通、関東鉄道の各線の乗り歩きをして東京駅23時30分発大阪行に乗車して4時56分豊橋に到着。飯田線下りの一番電車は5時36分発の新城行であったが、本長篠まで行かないのでパスして、次の5時55分発辰野行の最後部クハユニ56011に乗車した。本長篠到着は6時50分で、駅舎寄りの1番線には6時54分発清崎行(モハ37)が停車しており、早朝のためか乗客は僅かであった。清崎~三河田口間は昨年の9月の水害以降不通となりバス代行になっていた。鳳来寺駅を過ぎ、ほぼ中間の三河海老でモハ15+モハ14の上り列車と交換、駅の本長篠寄りに小さな車庫がありモハ38が顔を出していた。程なく清崎に到着したが何もない山の中の駅であった。写真撮影後再びモハ37に乗り鳳来寺で下車。先程三河海老で交換したモハ15+モハ14が本長篠~鳳来寺間の折り返し運用に入り、隣のホームに停車していた。せっかくここまで来たのだからお寺でも見学しようと思っていたが、ここから更にバスで20分位かかると聞いてあっさりパス。電車撮影後モハ15に乗り本長篠に戻った。この後、クモハ51800+クハ47071+クモハ61003+クハ18003の621M平岡行(後2両三河川合で切離し)で中部天竜に行き、ED17、ED18を撮影後豊橋に戻り、急行「いこま」で京都に戻った。また、クモハ51800の車内の標記は改造前のクモハ51042のままであった。

車両

昭和7年開業時の車両は電気機関車1両(デキ53)、電車2両(モハ101、102→モハ36、37)の僅か3両であったが、豊川、鳳来寺鉄道と共通で使用され、同社の車両は豊橋~三河川合間の豊川、鳳来寺鉄道で使用され、豊川鉄道のモハ10形が使用されていた。昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲受け、更に豊橋鉄道合併後の昭和31年10月、福塩線で使用されていたモハ1610(元豊川鉄道モハ31)を購入、その他、昭和30年に団体輸送用に作られた木製単車(サハ201)が1両在籍したが、昭和37年に廃車された。

デキ53

昭和4年4月、田口鉄道開業時に日本車輛、東洋電機で新製された。デキ53の「53」は、鳳来寺鉄道デキ50、豊川鉄道デキ51、52、54と一連の車号が付番されたためである。前述の4両が鉄道省に買収後も田口鉄道所有機として引き続き飯田線で活躍し、昭和27年5月以降は田口鉄道線内のみの使用となった。豊橋鉄道合併後田口線の貨物減少により昭和40年7月渥美線に転属、昭和43年11月1日の改番でデキ451となり、昭和59年、渥美線貨物営業廃止により廃車された。

 

昭和43年4月4日  高師

 

昭和45年3月9日  高師

モ10形(14、15)

前述の通り、昭和27年5月自主運行開始にあたり、国鉄から元豊川鉄道のモハ10形(14、15)を譲り受けたもの。モハ10形は大正15年豊川鉄道、鳳来寺鉄道電化時に豊川鉄道向けとして5両、鳳来寺鉄道向け1両の6両新製された。当初はモハ1形と称していたが昭和13年の改番でモハ10形に改番され、鳳来寺鉄道所属車はモハ10、豊川鉄道所属車はモハ11~15となった。戦後モハ11、12は部品が調達できず昭和24年に廃車、残り4両も昭和26年4月に廃車となったが、モハ10、13が大井川鉄道に譲渡されモハ201、202として再起した。「モハ」→「モ」への改称は昭和39年7月に実施されている。モ14は当初田峰駅跡に保存されていたが、昭和53年田口町の奥三河資料館に移動し、田口線で使用されていた備品等共に大切に保存されている。私はまだ訪れたことはないがリタイヤ後廃線跡の探訪を兼ねて是非訪れてみたい。

 

昭和41年3月23日   三河海老

 

昭和41年3月23日   鳳来寺

モ30形(36、37、38)

モ36とモ37は昭和4年田口鉄道の開業時にモハ101形101、102として日本車輌で新製された車両で、昭和13年豊川鉄道の同形車と同一形式に改番され、モハ36、モハ37となった。豊川鉄道のモハ30形は31~33の3両で34、35としてもよかったのであるが、あえて36以降に付番したのは会社の違いを意識したものと思われる。昭和27年5月自主運行になるまでは飯田線で使用されていた。田口線と飯田線の直通運転は昭和26年4月1日に開始されているので、それに合わせて国鉄形との機器の統一と密連化が実施されたものと思われる。田口鉄道に返還後も引き続き国鉄形と併結で豊橋直通運用に使用されていたが、乗務員室が狭く国鉄の運転士から嫌われたため常に後部に連結されていた、乗入廃止後、連結器は自連に戻された。田口線廃止後は渥美線に転属し、600Vに降圧、車体更新が実施され、窓がアルミサッシとなった。昭和43年11月の改番でモ1711、1712となり、モ1711は平成3年、モ1712は昭和62年に廃車された。

 

昭和41年3月23日   本長篠

 

昭和41年3月23日   清崎

 

モ36→モ1711に改番後  昭和60年3月24日 高師

 

モ37→モ1712に改番後  昭和60年3月24日 三河田原

モ38は豊橋鉄道と合併後の昭和31年10月、豊橋直通車の増強のため、福塩線で使用されていた、モハ1610を購入したものある。元を正せば元豊川鉄道モハ31で、モ36、37とは生まれも育ちも同じで、国鉄に買収後、昭和28年6月の改番でモハ1610となった。湯口先輩がお書きになった【4015】「1954年高校修学旅行その2」に福山駅で撮影された旧豊川鉄道買収車モハ1600形の画像があるのでご覧いただきたい。購入時に豊川分工場で車体更新を実施し、窓のアルミサッシ化、蛍光灯化等が実施された。昭和41年4月に一足早く渥美線に転属し、昭和43年11月の改番でモ1713となった。

 

昭和41年9月1日   高師

 

昭和43年4月4日   高師

 

昭和45年3月9日   高師

台湾鉄道全線乗車の旅 Part15 烏来トロッコ列車

台風8号直撃で、史上最悪の被害の出た台湾ですが、屏東・南廻線において、橋梁・道床が流されたりで、復旧には、3~6ケ月が必要とのコメントが出ています。暑さが過ぎる11月頃に、再訪台したいと、思っておりますが、行程は考慮しなければならないようです。8月中の土日は、集集線にCK124が、運行していますので、また、即決で出ようかなと、思ったりしています。

内灣線の乗車も終わり、平日朝夕のみ、無料の2本のDCが、走行している林口線を除いては、一応、台湾鉄道全線乗車の旅は、完了しました。今日の昼からは、おまけの烏來温泉で走っている、台車鐡道の乗車です。

5月31日(第11日目)

⑥ 新竹13:09-(自強號)→14:20台北   180元
⑦ 台北駅-(MTR)→新店
⑧ 新店駅前 -(バス)→烏來
⑨ 烏來-(連絡バス)→新店駅前
⑩新店駅前 -(MTR)→台北駅

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銚子電鉄を訪ねて(Ⅰ)

7月30日(木曜日)夏休みを取って「青春18」利用で銚子電鉄の見学に行ったので近況等を報告する。自宅をいつもより約1時間遅く7時30分部活に行く息子と一緒に出発。我孫子と成田で乗換えて、銚子には10時59分に到着した。11時18分発の電車は元伊予鉄道のデハ801で、近々伊予鉄道から転入車が入線すると廃車にされる予定である。車内はおばさんグループが2組乗車しており満席である。ワンマン運転であるが、係員が乗車して切符を販売しており1日乗車券が飛ぶように売れていた。外川まで乗車して写真を撮りながら歩いて銚子まで戻る予定で、片道運賃を寄付するつもりで1日乗車券を購入した。係員は交換駅の笠上黒生で降りて、上り電車に乗ったので、銚子~笠上黒生間は実質ツーマン運行である。それにしても夏休み期間中とはいえ平日の昼間にこれだけ乗客があれば上々である。笠上黒生で桃太郎電鉄ラッピングのデハ1001と交換、犬吠で多くの乗客が降りて外川に到着した。引上げ線にワム80000改造のオープン客車ユ101が、隣の線には元鶴見臨港鉄道買収国電デハ301が停まっていたが、いずれも休車状態であった。デハ301は屋根に櫓を取付けて架線点検車として使用されていた。

ここからは撮影しながら銚子まで歩いて戻るが、現役の頃のように線路内や犬走りを歩くと警察沙汰になりかねないので平行する道路を歩く。曇りの天気予報が外れてガンガン照りで、とにかく蒸し暑い。犬吠駅の近くの踏切で撮影後、構内の元相模鉄道モ二2022の車体を利用したレストランで食事をしようと思ったが営業日は土日祝日のみである。建物の中の普通のレストランで食事をして家族の土産に濡れ煎餅を購入した。次の君ガ浜と海鹿島の間で灯台を入れて撮影できる場所を探したが、線路と道路が結構離れているため見つからなかった。そのうちに暑さでバテ気味になってきたので、笠上黒生まで戻ったところで、灯台を入れての撮影と後半の笠上黒生~銚子間は次回ということにした。ここには廃車になったデハ101が留置されており、特徴ある台車を撮影しようと思ったが、雑草が生い茂っているため近づくことすらままならない。再度デハ801に乗車して車庫のある仲ノ町で下車。ここは車庫見学用の入場券を購入すれば見学が可能である。およそファンとは思えない中年のご夫婦や親子3世代家族が見学しており、見学者用の休憩所、トイレが設置されていた。AGE製のデキ3は綺麗に整備されていたが、ビューゲルが修理中のため付いてなかった。当日運用に就いていなかったデハ1002、701、702が停車していたが、702の停車位置が悪く次回に期待したい。デハ701、702は元近江鉄道のモハ51、52で、伊予鉄道から転入車と代替で廃車される予定である。またモハ702はワンマン改造されていないため大口団体輸送時の増結用になっている。その後、すぐ近くのヤマサ醤油の工場で保存されているオットー機関車を見学後、113系4連の成田線経由千葉行きで帰途に就いた。

歴 史

銚子電鉄の歴史を簡単に述べると、大正2年12月銚子遊覧鉄道として銚子~犬吠間開業。業績不振と鉄材高騰により僅か4年後の大正6年11年に廃業してレールを売却。廃線跡は地元の旅館の送迎バス専用道路として使用。大正11年9月銚子鉄道創立。大正12年7月銚子~犬吠~外川間を開業。大正14年7月電化(DC600V)。昭和23年8月銚子電気鉄道に社名変更。以降の昭和時代の細かい動きは省略する。

昭和35年11月、京成電鉄系の千葉交通の資本下に入る。昭和38年9月重役会で営業廃止を決定したが、ほぼ同時に廃止反対規成同盟が結成され廃止決定は撤回される。昭和41年12月集電装置をトロリーポールからビューゲルに変更。昭和51年2月観音駅に直営売店を開設し食品製造販売業を開始。たい焼きの販売を行い、マスコミでも大きく取り上げられる。昭和56年12月6日、礼宮様が銚子~外川間をご乗車になる。(下りモハ701、上りモハ702)

平成2年1月、経営権が京成電鉄系の千葉交通から東金市の総合建設業内野屋工務店に移り、同社社長内山健冶郎氏が社長に就任する。銚子電鉄を観光鉄道として再生すべく駅舎をメルヘンチックなものに建替えを推進。銚子駅のJRとの乗換口、観音、君ヶ浜、犬吠が完成、併せて車両の塗装変更を実施。平成10年6月内野屋工務店が自己破産を申請して事実上破産する。その後も内山氏が社長に留まったが、平成15年会社の金を横領したとして解任。平成18年8月、会社の金を約1億1千万円横領容疑で警察に逮捕された。このことにより、県と銚子市が補助金の支給を停止、加えて金融機関が融資を凍結したため、資金不足に陥り電車の法定検査が実施できず、同社のHP上で「濡れ煎餅を買って下さい。電車の修理代を稼がなくちゃいけないんです」の文章で、濡れ煎餅の購入による支援を呼びかけた。マスコミによる報道も手伝って、支援をしようという人々から濡れ煎餅の注文が殺到して一時は製造が追いつかずパニック状態になったが、車両の法定検査費用の目処がついた。しかしながら設備の老朽化は如何ともし難く、平成18年10月に実施された国土交通省の保安監査において、踏切の不具合、枕木約1500本の腐食が指摘され、11月に同省より安全確保に関する改善命令が出された。翌年1月この問題解決を支援するため地元有志を中心に「銚子電鉄サポーターズ」が結成され、枕木交換、踏切設備の改善に限定したサポート基金の募集を行った。こちらも相当な成果があり、枕木交換、踏切設備の改善が実施され、同年4月、国交省に対し改善措置完了報告を提出した。

世の中何が幸いするか判らない。経営危機によるHPでの支援の呼びかけ、濡れ煎餅、サポーターズクラブ等で全国的にすっかり有名になり、観光客の乗車の増加、バスツアーのコースに銚子電鉄の乗車が組み込まれる等、今や銚子市の経済効果増大にも大きく寄与しており、個人的には上下分離方式等の検討がされてもよいのではないかと思っている。

運転・運賃

上下各36本が約30分間隔(等間隔ではない)で運転されており、ほぼ中間の笠上黒生で交換する。(必ず下り優先で到着する)営業キロは6.4㎞、全線の所要時間は約20分である。中間駅が8カ所あり、駅間距離が1キロを超えるのは君ヶ浜~海鹿島間の1.1キロ間のみである。全線、全駅が銚子市に属しており銚子市の市内電車の役割を果たしている。運賃は最低運賃1㎞まで150円、全線310円と地方私鉄の標準的な運賃であるが、途中駅が多く、距離の割に時間がかかるため高いという感じはしない。全線乗降自由、濡れ煎餅1枚、沿線の観光施設割引券付のフリー切符は620円、銚子~犬吠・外川間の往復割引乗車券は540円である。

車 両

電車6両(内1両は事業用として使用)客車1両、電気機関車1両が在籍する。

デハ301

昭和5年新潟鉄工所で鶴見臨港鉄道モハ100形モハ105として新製。昭和15年の改番でモハ110形115となった。昭和18年7月1日戦時買収で鉄道省の所有となったが車号の変更はなかった。引き続き鶴見線で使用されていたが昭和23年5月1日DC600Vから1500Vに昇圧により失職し、昭和24年3月28日付で廃車。昭和26年日本鉄道自動車で銚子電鉄向けに直接制御に改造の上入線した。主力として活躍していたが、元営団地下鉄2000形改造のデハ1000形が入線すると予備車となり、屋根上に作業台を設置して架線点検修理車として使用された。現在は休車状態で外川駅に留置されておりこのまま廃車されると思われるが、昭和一桁作られた電車の生き残りとして貴重な存在である。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   外川

デハ701・702

昭和3年川崎造船所で近江鉄道デユワ101、102として新製。デユワは国鉄流に言えばモユニであるが、形態的には貨車に近く、郵便室付電動貨車と言うほうが適切で、車体は木製であった。近江鉄道発行の記念乗車券の中にデユワが多賀大社から伊勢神宮に向かう団体客を乗せた12両編成の木製客車の両端に付き犬上川の鉄橋を渡る写真があった。

昭和16年5月日本鉄道自動車で鋼体化と旅客車化が行われ、デハ51、52となった。昭和36年3月片運化と正面の2枚窓化が行われた。銚子電鉄には昭和53年1月西武所沢工場で再度両運転台付に改造の上入線した。701は平成6年11月にワンマン改造されたが、702は未改造で団体輸送時の増結用となっている。702の塗装は平成19年11月の全検時に昭和30年代前半頃のスカイブルーと薄いグレーとなった。701と702を連結した場合は総括制御が可能であるが、他形式車と連結した場合は各車両に運転士が乗務して協調運転を行う。今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

昭和58年6月14日   外川

 

平成21年7月30日   仲ノ町

デハ801

昭和25年帝国車両で伊予鉄道クハ406として新製、昭和37年電動車化してモハ106となり昭和60年3月廃車となった。昭和61年2月に入線し同年12月ワンマン化された。この車も今年度伊予鉄道から転入車が入ると廃車になる予定である。

 

平成21年7月30日   犬吠

デハ1001、1002

元営団地下鉄の銀座線、丸の内線の方南町支線で使用されていた2000形で、1435㎜ゲージ、第3軌条集電のため、平成6年京王重機で改造の上入線した。元々片運車のため1001の車体は昭和35年帝国車両製の2046と2033の前面、1002の車体は昭和34年日立製作所製の2040と2039の前面を取り付けて両運化、電装品は営団3000形、台車は富士急行5700形(←元小田急2200形)から流用した。塗装は、1001は「桃太郎電鉄」のラッピング、1002は「鉄子」塗装となっている。

 

平成21年7月30日   犬吠  

 

平成21年7月30日   仲ノ町

ユ101

NHKの朝の連ドラ「澪つくし」で銚子の町が舞台となり注目を浴びたことから、昭和60年に導入された。種車は昭和44年日本車輛と輸送機工業で新製されたワム80000形183983で、昭和60年に大宮工場で改造された。形式の「ユ」は遊覧車を表し、この種の車両としては、四国の予土線の「清流しまんと号」に次いで2番目、民鉄では初めてであった。残念ながら現在は外川駅で休車状態になっているが、是非復活させて有効に活用していただきたい。

 

平成21年7月30日   外川

デキ3

大正12年ドイツのアルゲマイネ社製の小型電機で、重量10t、全長4.47mで、昭和16年に宇部の沖之山炭鉱から入線した。銚子駅から仲ノ町駅に隣接するヤマサ醤油に入る貨車の牽引がメインであったが、電車が不足時にハフを引いて営業運転に使用されたこともあった。貨物列車は昭和59年の国鉄車扱貨物廃止時に廃止されたが、廃車されることなく継続してメンテナンスが行われており、同社のマスコット的存在になっている。

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

平成21年7月30日   仲ノ町

 

仲ノ町車庫見学記念入場券

 

犬吠駅の電車レストラン(営業は土・日・祝日のみのようである)

銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)

引き続き過去の車両とヤマサ醤油の入換機を紹介する。

デハ101

昭和14年日本鉄道自動車で作られた木製ボギー車で、東武鬼怒川線の前身、下野電気鉄道のデハ103が履いていた軌間762㎜の雨宮製作所製の台車を1067㎜に改軌したものを履いている。昭和27年に日本鉄道自動車で鋼体化改造が行われ、半鋼製の新製車体に乗せ換えた。小形のため晩年は多客時の3両編成の中間でトレーラーとして使用されていた。平成11年に廃車となった。解体はされずに笠上黒生駅の側線に留置され倉庫として使用されているが荒廃が激しく、夏場は雑草が生い茂り、特徴ある雨宮製作所製の台車の観察すらままならない。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

デハ201

昭和24年に入線した車両で、前身は京成電鉄モ二7(大正14年雨宮製作所製)ということになっている。モ二7の経歴がやや複雑で、大正14年雨宮製作所製のモハ43がモハ300形として鋼体化された時に、不要となった木製車体を無蓋電動貨車モ二7に載せて有蓋電動貨車に改造の上行商電車に使用されていた。昭和22年高砂車庫の火災でモハ46と共に焼失して廃車。モ二7の台枠にモハ46の台車を1067㎜に改軌し、これに木製の新製車体を載せてできたのがデハ201である。長らく主力として活躍し、晩年は車体の老朽化によりベニヤ板を、後には鋼板を貼りつけていたが昭和54年に廃車された。

 

昭和40年3月26日   仲ノ町

デハ501

昭和47年に西武鉄道所沢工場で整備の上入線した車両で、前身は上田丸子電鉄丸子線で使用されていたモハ2321が前身であるが、更に前身があり元を正せば近江鉄道のクハ23である。これがまた複雑で大正14年彦根~多賀間電化時に新製された電1形1~5の後身クハ21形(初代)21~25の鋼体化名目で昭和18年日本鉄道自動車に発注した。戦時中のため完成したのは戦後の昭和22年となり、しかも電装品がなく実質付随車であった。全長12mの小型車のため2年後の昭和24年に早くも23と25が上田丸子電鉄に売却され、運転台取付と電装が行われてモハ23、25となった。昭和25年の改番でモハ2321、2322となり、丸子線で元飯山鉄道のガソリンカーをトレーラー化したサハ41を挟みMTMの3連で使用され、2321のパンタ側、2322の非パンタ側が貫通化された。昭和44年4月19日丸子線廃止後は別所線に移り、サハ41は同線で使用されたが、2321と2322は使用されることなく、2321は銚子電鉄に売却、2322は廃車となった。銚子電鉄では初のパンタグラフ、蛍光灯、4個モーター(75Kw×4)車で、多客時にデハ301の間にサハ代用のデハ101を挟んだ3両編成でも活躍したが、4個モーターのため消費電力が大きいことと車体が小さいことが致命傷となり、平成11年に廃車となった。車体は犬吠駅の電車レストランに転用されたが痛みが激しくなっている。

 

昭和58年6月14日   仲ノ町

 

上田丸子電鉄丸子線時代 モハ2311  昭和45年3月25日 上田東駅

ハフ1、2

大正12年、銚子鉄道開業時に新製されたハ二1、2が老朽化したため、車体を新製して乗せ換えたものである。多客時の増結用として使用された他、電車不足時にデキ3に引かれて営業運転に就いたこともあった。デハ701、702の入線後余剰となり、昭和53年に廃車となった。窓構造は、ハフ2が2段上昇式、ハフ1が下降窓となっていたが、ハフ2は後日の改造と思われる。

 

昭和40年3月25日   仲ノ町

ヤマサ醤油の入換機/1号機

仲ノ町駅を出て左手銚子駅方面に向かい、一つ目の踏切を渡ると「ヤマサ醤油」の工場がある。ここには以前使用されていたドイツ製の機関車が大切に保存されているので、銚子電鉄を見学された時は是非こちらも見学していただきたい。

「ヤマサ醤油」は一般人の見学を受付けており「機関車を見学させて欲しい」と伝えると「どうぞ」と言われて中に入る。門を入って直ぐ左手、売店との間のショーケースの中に展示されており、外から見ていたところ「中に入っていいですよ」と言われ、時間の経つのを忘れて見学した。1920年(大正9年)オットー・ドイッツ社(De:Deutz  AG)製で通称「オットー機関車」と呼ばれていた。昭和31年12月に入線し、39年まで銚子駅~工場間の専用線で使用されていた。それ以前は千葉市の「参松工業」という水飴等の製造会社で使用されており、更に前歴が有りそうである。画像でもお判りいただけると思うが、車輪幅より車体幅が狭く、元は762㎜で使用されていたとも思われる。静岡県の堀之内軌道(762㎜で堀之内駅~池新田間を営業、堀之内は現在の菊川)の機関車が同形である。

 

2号機

銚子電鉄を初めて訪れたのは、昭和40年3月京阪沿線の高校の時で、仲ノ町車庫を見学して外川を往復しただけであったが、2号機を撮影している。こちらも「オットー機関車」に負けず劣らず小さい機関車で「日本牽引車」で作られ建設省に納入内の1両という以外は不明である。ちなみに銚子電鉄のデキ3の「3」はヤマサ醤油の機関車の追番を意味している。

今後の予定

デハ701、702、801の3両は、国交省関東運輸局より是正勧告対象車両に指定されたため、早急に代替車両を導入する必要性に迫られた。当初は京王電鉄井の頭線の3000系が検討されていたようであるが諸般の事情で流れてしまい、京王電鉄井の頭線3000系導入により余剰となる伊予鉄道のモハ820形+クハ850形を2編成導入することになった。費用が占めて約1億円かかるとかで、費用捻出のため車両支援オーナー制度を設けた。内容は1人1口10万円(最大10口100万円)を支払うと1口に付き1年間有効の全線優待乗車券を発行するというものである。(銚子~外川間の6か月通勤定期は60270円)

伊予鉄道モハ820形の前身は京王帝都電鉄デハ2060形、クハ850形はサハ2500形・2550形で、生まれ故郷の近くに戻ってくることになり、京王ファンの方にとっては楽しみが1つ増えたのではないだろうか。銚子電鉄での形式はデハ2000形+クハ2500形が予定されている。

「濡れ煎餅」と「たい焼き」

銚子電鉄の濡れ煎餅は経営危機のおかげですっかり有名になり、犬吠駅の売店では電車の乗客の他、観光バスやマイカーで来た観光客も購入するため売切れになることがある。仲ノ町、観音、笠上黒生、外川の各駅でも販売されているので、こちらでの購入をお勧めする。確かにおいしく家族にも好評で「濡れ煎餅」の購入を口実に出かけることができそうである。尚、「濡れ煎餅」には特注品の「ヤマサ醤油」が使用されているそうである。観音駅の「たい焼」は「濡れ煎餅」の影に隠れてしまったが、こちらも中々のもので、1枚90円は関東地区では最安値だそうである。有人駅から乗車する場合、駅員氏に伝えておけば観音駅で受け取ることができる。「ヤマサ醤油」の売店に「醤油ソフトクリーム」が販売されていたので「物は試し」と食べてみたが「醤油味のソフトクリーム」という感じの微妙な味であった。

 

ステンレス製のキハ35905と並んだデハ301

 

準急「犬吠号」新宿行 

台湾鉄道全線乗車の旅 Part14 内湾線

湯口徹大先生の、鉄道友の会「島秀雄記念優秀著作賞」受賞を記念しての、クローバー会の祝賀会に参加後、自宅でTVを見ていますと、台風8号が台湾に上陸して、大きな被害が出ているとのニュースを見ました。

台湾の河川は、山から海までが、極めて短く、標高差が大きく、また直線が多くなっているので、普通の降雨でも、一気に濁流となります。そのために、川幅を広くとっていますが、台風時や、最近のゲリラ豪雨は、想定外の水量となって、鐡道橋梁に重大な被害を及ぼし、山間部では、土砂崩れが多発しています。

直ぐに、インターネットで、現地被害を見てみましたら、史上最悪の被害が、各地で続出しています。大きな土石流で、村自体が埋まり、数100名の不明が伝えられています。河川際の8階建てものホテルが倒壊して、激流に飲み込まれたニュースを見られた方も多いと思いますが、場所は、台湾南東部の南廻線(台東~枋寮)、知本温泉のホテル金師飯店です。

現在、懸命の復旧作業が行われていまして、被害を受けた、台鐡各線も開通見込みですが、南廻線は、橋梁流失もあり、被害が甚大で、開通見込みすら、たっていません。

台鐡の大動脈、西部幹線は、台北~新營間で、優等列車の折返し運転をしている状況です。早く復旧した高鐡新幹線が、増発と、普通車の全車自由席対応で、旅客輸送を代行しています。

日本の豪雨での被害も、多大ですが、日本と比べて、地形が自然災害にあいやすい台湾は、もっと大変な状況です。不幸にも、災害にあわれた両国の方々に、ご冥福と、1日も早い復興をお祈りいたします。

さて、台湾鉄道全線乗車の旅も、第11日目の5月30日、最終日を迎えていました。この日は、内湾線と、台北の奥座敷、烏來温泉のトロッコ列車乗車を目指しました。2回に分けて投稿します。

5月30日(第11日目)
① 台北7:30-(自強號1005)→8:40新竹   180元
② 新竹駅前9:10-(連絡バス)→9:35竹東駅前 48元
③ 竹東10:15-(區間車3249)→10:39内灣   18元
④ 内灣11:45-(區間車3252)→12:06竹東    9元
⑤ 竹東駅前12:15-(連絡バス)→12:40新竹駅前 48元

明日は、帰国日です。台湾鉄道全線走破を目指し、残された日は、今日一日だけです。未乗車区間は、灣線のみと、なりました。勿論、林口線も残っているのですが、こちらは、貨物線で、平日のみ朝夕2本のDCが運行されていますが、営業路線と位置づけていないため、運賃無料となっています。予想外の端午の節句4連休もありましたので、乗りたくとも運行していません。これは、次回としました。

内灣線も、台湾新幹線開業に伴い、竹中駅から高鐡竹中駅への連絡線建設、新竹~竹中高架化、新駅設置等のMTR化のため、2007年3月より、新竹~竹東間の運行が停止されており、バス代行となっています。
工事は、一応2011年完成予定ですが、台湾新幹線の例もあります。国家交通部のチェックも厳格です。その他、過去の例を考慮する、難しいと予測されますが、淡水線のようにMTR化されれば、台鐡でなくなってしまいます。


今日も朝早くにホテルを出発し、台北駅に向かいました。自強號に乗車、昨夜下車した新竹駅をもう1度視察後、代行バス停を探しました。バス停前の朝食屋で、美味しそうな肉まんを買い求めて乗車、バスは、高速道路圣由で、竹東駅に約25分で到着しました。




内灣線は、日本統治下の戦争末期1941年に建設が始まりましたが、資材不足もあって、完成に至らず、、戦後の1947年に新竹~竹東間が開通しました。1950年、合興まで延長、1951年、 内湾まで延長され、全線開通しました。石灰、セメント等の輸送が多かった時は、黒字優良路線でしたが、貨物輸送が途切れた今は、通勤・観光支線となっています。

竹東駅は、煉瓦造りに瓦屋根の一風変わった駅舎です。島式ホーム1面、単式ホーム1面があり、かつては、にぎわったであろう貨物ヤードもあります。そのヤードに1両のタンク車が、留置してありました。察するに、竹東~内湾を往復するDR1023+DR1020、2両1編成の、燃料補給用とみましたが、どうでしょうか。



竹東駅を超満員で発車したDCは、2つの長い鉄橋を渡り、なだらかな登り勾配をゆっくりと走行しますが、九讃頭駅を過ぎると、急に25‰勾配区間に入ります。トンネルを抜け、着いた駅は、かつては、台鐡で唯一だった、スイッチバックの合興です。

石灰石を運ぶ、珍しい空中ロープウェーもあったという構内は、公園化されて、引込線には、旧客車も展示されていました。ホームは、なんと、25‰勾配線上に位置しています。


合興駅からは、右へ右へと、登りカーブが続きます。月台もカーブした富貴駅。1962年に、南河駅として開業したが、2003年に同じ内灣線の栄華駅と合わせて『栄華富貴』=華やかに栄え、財産地位、身分が高いという縁起の良い名前に変えたが、地名を無視した名前になったと、住民反発を招いた、いわく因縁の駅です。右方上がりの駅ですから、それだけでも良いような気もします。



どんどんと、山を登り、町並みが見え出すと、終点の内湾駅に到着です。ここでも、DCと、記念写真を撮るギャル多数がいます。とうとう車内で、話していた女子高校生にも、日本人と会うのは、初めてだったとかで、一緒に記念写真を撮りたいと、言われました。それも、数組からのオファがきました。大陸は、数10回は、行っています。韓国も数回行っていますが、こんな事は、初めてです。やっぱり、どこか台湾は、違ってますね。



駅前は、鐡道以外でも来た、観光客で一杯です。道路の両側は、飲食店がずらりと並んでいます。大陸から移住した人が多く、結構、はじめて見る料理が多く、片っ端から食べました。豚を数匹、丸焼きして並べて、ナイフで切りながら、売っているのは、びっくりしました。これも、中々、旨かったです。


先がありますので、次の折返し列車で、内湾線を後にしましたが、合興駅にも寄りたかったし、また、ゆっくりと来たい所でした。  Part15へ続く

台湾鉄道全線乗車の旅 Part13 苗栗鉄道博物館

5月29日(第10日目)

① 高鐡台北7:30-(高鐡407)→8:27高鐡台中
② 新烏日8:47-(區間快車3807)→9:27二水
③ 二水9:59-(區間快車3806)→10:29彰化
④ 彰化13:14-(自強號1016)→14:06苗栗
⑤ 苗栗16:37-(自強號1029)→17:33彰化
⑥ 彰化17:57-(区間車2554)→19:54竹南
⑦ 竹南20:28-(自強號1036)→21:55台北

彰化機関区
見学後は、彰化駅内のセブンイレブンで、阿里山の『奮起湖便當』が売ってありましたので、現地のと同じなのかなと購入して、東部幹線の自強號の主力プッシュプル式のE1000系に乗車しました。

便當の中身は、奮起湖駅で買ったものとは違っていましたが、何種類かはあるのかと、食しました。今日は10元安くて、55元(約160円)です。今回の訪台旅行での昼食は、平渓線の十分駅前食堂以外は、全て駅弁でした。貧乏旅行には、この価格は、本当に助かります。そして、何よりも、旨い!

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台湾鉄道全線乗車の旅 Part12 二水鉄道公園、彰化機関区

第10日目 5月29日
① 高鐡台北7:30-(高鐡407)→8:27高鐡台中 595元
② 新烏日8:47-(區間快車3807)→9:27二水  63元
③ 二水9:59-(區間快車3806)→10:29彰化   47元
④ 彰化13:14-(自強號1016)→14:06苗栗   162元
⑤ 苗栗16:37-(自強號1029)→17:33彰化    125元
⑥ 彰化17:57-(区間車2554)→19:54竹南    126元
⑦ 竹南20:28-(自強號1036)→21:55台北    223元
合計1,341元

昨日で、台湾鉄路一周周遊券は、使用完了しました。購入額は、1,200元(約3,500円)でした。
実際に単票で購入した場合は、①台北(自強號)→花蓮 445元 ②花蓮(自強號)→台東 355元 ③台東(復興號)→高雄 234元 ④高雄(自強號)→台中 470元 ⑤台中(自強號)→台北 375元 合計1,879元(約5,450円)でしたので、679元(約1,950円)お得になりました。

それにしても、台鐡の運賃・料金は、安い。日本であれば、同距離で、運賃だけでも7,350円はする。各列車の料金を加算すれば、20,000円は、超える。日本の約6分の1程度です。 続きを読む

門司港 再訪

以前、下関駅のことについて思い出を書いたところ、準特急さんやK.H.生さんから暖かいコメントをいただきました。こうなれば、関門海峡を挟んだ門司側も書かねばと、最近訪れた門司港のことについて書いてみます。

関門トンネルを抜けて到着するのは門司だが、鹿児島本線は2駅東にある門司港を起点としている。
関門トンネルが開通する昭和17年までは、現・門司は大里であり、現・門司港が門司を名乗り、すべての客貨はここから連絡船で下関へ渡って行った。
九州の鉄道の嚆矢は明治22年の博多~久留米間の九州鉄道の開業だが、2年後には門司~博多~久留米~熊本が開業している。九州鉄道の本社も門司に置かれた。以来、国有化後も、九州の鉄道の管理機構は門司鉄道管理局、九州総局と名を変えても終始門司にあり、門司は九州の玄関でもあり、管理上の中枢でもあった。
関門トンネルの開通後は、その任を現・門司に譲り、門司港と名を改めた門司は、重要文化財に指定される大正3年の二代目駅舎を中心に、かつての栄華をとどめているに過ぎなかった。

昭和47年の門司港駅。ホーム両側に夜行客レが停車中。

まったく変わらない現在の門司港駅。

機関区も以前は門司港にあったが、私が訪れた昭和40年代前半、機関区は門司にあったため、撮影で門司港を訪れることもなかった。しかし、九州内を発着する夜行列車、鹿児島行き急行「はやと」(43-10改正で「かいもん」に改称)、また鹿児島・都城行き121レ(鹿児島・肥薩・吉都線経由)、西鹿児島行き521レ(日豊本線経由)、長崎・佐世保行き行き521レの普通3本、計4本の島内夜行は、すべて門司港始発であった。いずれも撮影地に向かうのに好適な列車で、翌日の撮影のための気力・体力の温存のため、座席の確保は必須で、必ず門司港まで出向いた。今も変わらない古くて暗い待合室で時間をつぶし、改札が始まると、頭端式の長いホームを、リュックを担いで走って目指す進行方向右手窓際の座席を確保したものだ。
どの列車も北九州での帰宅列車も兼ねており、門司、小倉からかなりの乗車があった。なかでも、究極の混雑として忘れられないのは、昭和42年3月に乗った「はやと」で、門司港を出るときはパラパラだったものの、門司、小倉、戸畑、八幡、折尾と停車駅ごとにどんどん人が乗ってくる。深夜にもかかわらず博多からも乗り込んできて車内は異様なほどの超満員。二人掛けの座席に大人3人、子供1人が座る有り様(当時の筆者は高校2年生で、体重は50kgそこそこのスリムな体型であったからこそ)、シートの間にも立ち客があって、横になることはもちろん、まったく身動きできないまま、一睡もできずに朝を迎えたことがあった。ちょうど長距離の鉄道輸送量がピークを迎える時代で、夜行といえども信じられないほどの混み具合だった。

社会人になっても比較的行きやすい北九州は、2、3年に一度は訪れていたが、門司からは、門司港に戻ることなく、小倉、博多へと向かっていた。
それが、最近、ひょんなことから門司港を訪れることになった。きっかけは、JR西日本の「西日本パス」。JR西日本・四国・九州の北半分が特急も乗り放題のフリー切符、ただし、二人以上の発売のため、やむを得ず?家人同行となったが、グリーン用を奮発した(と言っても3日用が20,000円だからホントにお徳)。
N700系グリーン車で着いた博多は、数日間も降り続く土砂降りの雨。案の定、その30分後に鹿児島本線は線路冠水ですべて運転抑止。乗車予定の「ゆふいんの森」も運休となった。西鉄も運休、高速道路が土砂崩れで高速バスも運休、市外へ出る術がない中、唯一動いていた新幹線で小倉へ戻り、路線バスで門司港へ入り、豪雨のお蔭で想定外の門司港再訪が実現した。
門司港駅周辺は、散在する近代建築を生かして、門司港レトロ地区として再生し、観光地として売り出し中である。かつてのうら寂れた門司港地区は、多くの観光客が闊歩する街に変身した。場所柄、韓国、中国からの観光客もたいへん多い。

ライトアップされた門司港レトロ地区。

レトロ地区の中心にある門司港駅。駅舎として初の重要文化財に指定。

賑やかな展示の門司港駅。ゼロキロポストもある。

鉄道関係の施設としては、九州鉄道記念館がある。本館は前述の九州鉄道本社であり、実物車両は、59634、C591、EF1035、ED721、キハ0741、クハ481-603、クハネ581-8が展示されている。いずれも、屋根付きの下に、たいへん美しい状態で保存されている。特筆すべきは、電車・気動車はすべて車内見学OKなこと。クハネ581には、ちゃんと昼間座席と夜間寝台が再現されている。
もうひとつ、最近門司港に加わったのが、門司港レトロ観光列車「潮風号」だ。廃止された臨港貨物線を再生し、平成筑豊鉄道が運行事業者となって、もと南阿蘇鉄道のDB11がプッシュプルとなってトラ改造のトロッコ客車2両を牽いている。シーズンのみの運行だが、30分ヘッドの高頻度運転で、訪れた日も豪雨後の決して恵まれた天候ではなかったが、そこそこの乗客で賑わいを見せていた。

まるでホームに停車中のような九州鉄道記念館の月光形。

レトロ地区を横断する潮風号。

台湾鉄道全線乗車の旅 Part11 集集線

第9日目 5月28日

第9日目となると疲れも溜まってくるようですが、好きな事をしている時は、不思議と朝早くに目覚めます。今日から4連休ともなると、駅や列車の混雑は避けられません。早めに行けば、集集線で、途中下車も走行写真も撮影できます。予定を早めて、徒歩で台中駅に向かいました。朝食は途中の朝食屋で、美味しそうな品々を買い求めました。

① 台中7:04-(區間車2435)→8:07二水
② 二水8:17-(區間車 3805)→9:03車埕
③ 車埕10:23-(區間車3808)→10:38集集
④ 集集12:24-(區間車3810)→13:26彰化
⑤ 彰化13:38-(區間快3108)→13:55台中
⑥ 台中15:29-(自強號1022)→17:45台北


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大西顧問とC61を撮影に行った日

関東連絡網でのロギング太郎さん、掲示板【3295】での準特急さんの書込みの通り、伊勢崎市華蔵寺公園遊園地に保存されているC6120が現役に復帰することになった。関西では梅小路蒸気機関車館にC61の2号機が動態保存されており、館内展示運転に使用されている。

今から36年前の昭和49年5月12日、C612の引く臨時列車「白鷺号」が京都~姫路間に運転され、青信号特派員さん、井原 実さん、私の3名で加古川まで撮影に出かけた時、現地で偶然大西顧問にお会いし、その後も同一行動を取られた。撮影場所を加古川にしたのは、下り列車と上り列車の間に別府鉄道に行こうと考えたからである。当日の行程を振り返ると、加古川到着後、駅の姫路寄りで下りの「白鷺号」を撮影。その後加古川機関区を見学して高砂線野口経由で別府港へ。機関区を見学後、DD1351の引く土山線の貨物列車と近くを走る山陽電鉄を撮影。野口に戻り、徒歩で山陽本線の線路際に出て上りの「白鷺号」を撮影した。当時、大西顧問は「鉄道友の会京都支部」の支部長の要職に就かれており、休日は友の会の行事、模型の運転会、ライフワークにされていた京電の研究等でご多忙な中お付き合いいただき楽しく1日を過すことができた。

 

下り「白鷺号」加古川駅西方

 

上り「白鷺号」加古川~東加古川間

 

下り特急「しおじ2号」広島行

 

下り新快速

 

上り貨物列車 

下り「白鷺号」を撮影後、加古川機関区を訪問、さすがにキハ06はいなかったが、当時の配置はキハ20/16両、キハ25/1両、キハ30/12両、キハ35/5両、キハ36/2両、キハユニ15/3両の計39両で、ラッシュ対策で通勤型が約半数を占めていた。

 

キハユニ153/キハユニ15は3、6、9が配置されていた。3は、昭和27年8月汽車会社で新製された電気式気動車の試作車キハ44002が前身で最初の配置は木更津区。昭和32年12月大宮工場で液体式と車体の前半分を郵便、荷物室に改造し、鳥取区に配置。その後岡山に移り、昭和48年に加古川区に配置され、昭和55年7月に廃車になるまで在籍した。正面の窓ガラスが小さいものに取り替えられ、不細工なスタイルになってしまった。

 

キハユニ156/昭和28年3月日車で新製された電気式気動車の量産車でキハ44005が前身で最初の配置は木更津区。上窓がHゴム支持の2段窓となった。昭和33年3月大宮工場で液体式と車体の前半分を郵便、荷物室に改造し、加古川区に配置され、56年2月廃車になるまで在籍した。

 

キハ2038/昭和32年9月東急車両で新製され、和歌山区に配置、その後亀山区を経て加古川区の配置となり昭和55年9月の廃車まで在籍した。

 

スエ3165/書類上は昭和44年高砂工場でマニ3274を救援車に改造したことになっているが、現車は張上げ屋根で明らかに違っており、実際の種車はマニ3211である。

 

加古川から高砂線野口から別府鉄道に乗換え、終点の別府港で機関区を見学した。次の列車で野口に戻っても上りの「白鷺号」まで時間があるため、直ぐ近くを走る山陽電鉄を撮影した。

 

285+271+270/250形として旧100形の機器を流用して誕生した形式で、昭和26年~29年にかけて250~257、34年~26年にかけて270~289が川崎車両で作られた。前者と後者ではスタイルが大きく異なることと、車号が離れているため、便宜上270形と呼ばれていた。

 

318+317+316/300形として旧200形の機器を流用して誕生した形式で、昭和37年~43年にかけて、300~321、330~335の28両が川崎車両で作られた。

 

3016+3017+3556+3608/昭和42年に神戸高速鉄道を介して阪急、阪神電鉄との相互乗入れ対応車として作られた車両で、中間の3556を除き現在も健在である。

 

DD1351牽引の土山線貨物列車/元江若鉄道のDD1351で昭和32年12月汽車会社製。国鉄のDD13に先駆けて作られたことで有名な機関車である。別府鉄道には昭和45年2月に入線した。

 

DC301/元江若鉄道のDC301で昭和29年12月新三菱三原車両製。江若鉄道が昭和39年廃止された熊延鉄道よりDC25を購入したため余剰になり、別府鉄道に売却されたものである。

 

キハ2/元三岐鉄道のキハ5で昭和6年7月日車製。昭和40年6月に入線し、昭和59年1月31日廃止まで在籍した。元野口線円長寺駅付近の公園に保存されているが状態は悪そうである。

 

キハ3/元三岐鉄道のキハ二6が前身。更に前身があり佐久鉄道キホハ二56として誕生、国鉄買収によりキハ40605→キハ二40706となり昭和17年に廃車、昭和19年に三岐鉄道に入線した。製造年はキハ2より1年早く昭和5年11月日車製である。廃止後は佐久市に里帰りし、キホハニ56に復元の上、成知公園(小海線滑津駅徒歩5分)に保存されている。

 

ハフ7/元三岐鉄道のハフ16が前身。更に前身があり、神中鉄道(現在の相模鉄道)の開業に際し、ハ24として大正14年に汽車会社で作られた車両で、昭和24年三岐鉄道に売却、別府鉄道には昭和34年に入線した。入線以来土山線の混合列車に使用され、最終日まで健在であった。廃止後は相模鉄道に里帰りし、かしわ台車両基地で小名浜臨港鉄道から里帰りしたSL3号機(大正15年汽車会社製)と連結されて保存されている。

 

野口駅での記念撮影/折り返し時間待ちのキハ2のデッキで記念撮影をした。左から青信号特派員さん、大西顧問、大西顧問と同行の友の会会員、井原 実さん、私。大西顧問は外出される時は必ずスーツ、帽子着用の正装であった。よく館林まで東武の蒸機の撮影に出かけられていたが、その時も正装で行かれていたのであろう。

「1080」見学記

総本家 青信号特派員さんより、日鉄鉱業㈱葛生鉱業所で保管されている1080号機がJR西日本に譲渡され、梅小路蒸気機関車館で保存されるという嬉しいニュースをお伝えいただいた。17年前の平成4年11月28日、現地を見学に行った時のことを書いてみたい。

場所は東武鉄道佐野線の終点葛生駅から約7キロ離れた山の中で、町営バスが1日数本運行されていたが、主に通学生のためのもので実用的ではなかった。徒歩で行くには遠すぎるため往復タクシーを利用し、撮影が終わるまで待ってもらった。鉱業所と葛生駅の先、上白石貨物駅を結んでいた専用線は、前年の平成3年11月26日に廃止され、既にレールは撤去され、僅かに1080が格納されている車庫と、取り残されたように貨車が留置されている部分のみ残っていた。

車庫の扉を開けて機関車を見せていただいたが、埃が付着していたものの非常に美しく磨かれており、火を入れれば直ぐに走れる状態のように思えた。案内していただいた方の話によると、過去に「わたらせ渓谷鐡道」で走らせる計画があったそうである。

譲渡先は、常識的に考えるとJR東日本にされるところであるが、あえてJR西日本を選択されたのは、大宮鉄博で展示されるよりも、梅小路での「動態保存」を期待されたからであろう。

 

1080の正面/狭い車庫に格納されているため、このような写真しか撮れなかったが、秋に梅小路での再会を楽しみにしている。 

 

1080が格納されている車庫

 

取り残されたように留置されていた貨車

 

葛生駅から徒歩10分の嘉多山公園に保存されている東武30号機/東武鉄道が発注した機関車で1914年(大正3年)英国ベイヤーピーコック社製。

 

佐野線の電車(←館林 モハ3557-クハ3657+モハ3564-クハ3664)

モハ3050系は4両固定編成の3050形と2両固定編成の3550形があり、昭和46年から48年にかけて旧5400系(モハ5400形、クハ450形等)の主要機器、台車を流用して車体を新製した車両で、野田線と伊勢崎線館林以北、佐野線、小泉線、桐生線で使用された。足回りの老朽化と冷房化不能のため平成8年までに廃車された。現在は8000系を3連にしてワンマン改造した800系が運用されている。

【韓国】非武装地帯の放置SL 復元展示       工-’79 山下敬司

半世紀以上非武装地帯に放置されていた京義線長湍駅SL(登録文化祭第78号)が
59年ぶりに化粧直しして一般に公開された。

臨津江(イムジンガン)の通称「帰らざる橋」の隣の上り線側橋梁跡の延長線上に、復元SLが保存された。

先日訪問してみた。

当日はあいにくの雨だったが、観光客は結構いた。

雨のせいもあるが、鉄の色がさび色を帯びて茶色っぽい。

だが、煙室などは原型をとどめている。

穴は戦争時に被弾した弾痕だとのこと。1000発以上の弾丸が貫通していたそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正面側から見る。

正面には観覧用に陸橋が設置されている。全体的にはさすがに痛みがひどい。

 

放置されていた間に、煙室の中に木が生えていたそうだ。

その木がここに植えられている。

現在、南北の交流は冷めていて、国境を列車が走ることはなくなってしまったが、

北朝鮮の体制が変わり、また列車が走る日が来ることを祈るばかりだ。