エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part18  希望へのエリトリア鉄道の今は その9

第8日目 10月1

① アスマラ6:20(列車)→7:00 Shegereni8:00(列車)→10:33アスマラ
② アスマラ着後。機関区見学、アスマラ11:40(Bus)→13:00ギンダ
③ 
ギンダ(列車)→
マイ・アタル→17:20ギンダ(Bus)→アスマラ


今日は、エリトリア鉄道撮影前半ツアー最終日です。深夜にミュンヘンに戻ります。

朝は、いつものように夜明け前の出発でした。
アスマラ駅からツアー特別列車に乗車しました。今日の編成は、440式マレー機008号機+客車Ⅲクラス04号車+有蓋車+無蓋車の短編成です。
日の出を見ながら約40分をかけて、次の交換できるShegereniまでの海抜差約180mを逆行で下りました。この駅は、アスマラ到着第1日目に訪れましたループ線の途中にあります。
直通ブレーキがないため、客車側ではベテランの親父さんが手ブレーキを巧みに回して減速調整を行っていました。
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阪神電車の旧型鋼製車(その1)

河さん、準特急さんの要望に応えるべく1959年前後のNEOPAN SSを透かし見て選び出してみた。画調が一定しないのは、その日の天候に勘頼みの露出が追随しなかったこと、自家現像によるスカタン等、もろもろの原因に起因する事であるのでお許し下さい。(その1)は尼崎車庫での撮影である。この時期、老人以外にも車庫訪問した先輩方が沢山おられ、同じ角度で撮影された画も多い。珍しいものではないと思うがその昔、須磨の大人が「50年もすれば貴重な記録になる」と言って、預けておいたフィルムを渡してくれた事が思い出される。ほとんどオシャカになった中で、先日紹介の淡路交通、神戸電鉄は生き残り組の一齣である。

阪神電車本線系の客車は普通系と急行系に分類される。1959101日現在(以下、基準日)のメモに基付いて話を進めてみよう。普通系とされた車種は60170110011101111111211141号型の7群である。共通点は主電動機が37.3Kw600V)×4個、連結器がトムリンソン、制御器が701号型を除きGE、東芝のPCPM型自動加速式、制動装置はAMMで、SMEであったものは戦後AMMに改造、長編成化に備えた。701号型は支線用で、主電動機出力は同様、制動装置はRL7型非常弁付きの直通制動(SME)、制御器はGEMK 型手動加速式であった。基準日には7091両が貨車(事業用・救援車)として残存していた。1958年度末に7027072両が残っていたが、195957日廃車となり本線系統(伝法、海岸、武庫川線を含む)から姿を消している。急行系は801831851861881号型の5群で、共通点は主電動機が48.5kw600V)×4個、連結器はバンドン、制御器はGE、東芝のPCPM型自動加速式、制動装置はAMMであった。

基準日に本線上をどれだけ疾走していたのか、普通系は601号型原型12両復旧型6両、1001号型7両、1101号型系47両、計72両で、急行系は801型原型25両、復旧型4両、831型原型14両、復旧型6両、8517両、86116両、88129両、計101両、合計173両となる。3車種について原型と復旧型があるが、復旧型とは被災車復旧に当り車体前頭(乗務員室部分)に手を加えたものである。その姿は写真を見て頂ければ一目瞭然である。被災とは火災、戦災などで焼失した車両を、一旦廃車手続きをした後に復帰させ、台枠などを再用し新設計の車体を造ったものである。終戦直後の混乱期、新車は63形以外認められない時代にとった苦肉の策である。

尼崎車庫へ調査に伺った時、目に止まった車両を許可なしに撮影した。咎められることなく、京阪守口車庫での行為と同じである。今では考えられないことが許され(放任)ていたことになる。比較的写りの良いものとしたので全型式となっていないが、欠けたものは(その2)の走行写真でお許しを乞うことにしよう。尚、50015002号は新造ジェットカーと併結可能工事のため入場中のもので、残念ながら走行する姿を見つけることは出来なかった。

 

廃車を待っている2両、前部カップラーなし

廃車を待っている2両、前部カップラーなし

木造車の鋼体化、大量50両が同タイプ
木造車の鋼体化、大量50両が同タイプ
801号型の原型、入場荳・?為ステップなし
801号型の原型、入場中の為ステップなし
831号型の原型
831号型の原型
831号型の復旧型
831号型の復旧型
先の851型との違いを探してみよう
藤本君の851型との違いを探してみよう
戦時体制では制御車10両新造、戦後電装なる
戦時体制では制御車10両新造、戦後電装なる
新造ジェットカーと併結のため入場荳
新造ジェットカーと併結のため入場中
改造前のためどのようになったか?
改造前のためどのようになったか?

烏丸車庫廃車体、そして・・・・・・

烏丸車庫の廃車群

 

西村雅幸さんの大奮闘で浜大津のイベントは幕を閉じた。今回の様に感動の場の連続は生まれて初めてであった。西村さん、ご苦労さまでした。暫くゆっくり休養なさって下さい。

200形の廃車群で車号が分かるのが北端の215と南端の203である。215の廃車日付は195371日付、2031954515日付となっている。1954年は老人が洛北高校入学の年で、須磨の大人は朱雀高校最終学年(高3)と思われる。下総町電停(西南角には鞍馬口病院、東南角は交通局鞍馬口変電所)東入る南側に木造2階建ての近畿予備校があった。老人の実兄も1年お世話になった当時、京都で最も著名であった予備校であった。話はそれたが、廃車日付からみれば1954年葵祭頃には並べられていたのであろう。

1953年度廃車5209215217258268に見合う新車は3月登場の8008668705両、1954年廃車8203204242246264274278293に見合う新車は5月登場の87188010両となる。2年度に亘りに廃車となったものの内、9両が烏丸車庫に集められ部品取りや解体の日を待っていたのであろう。部品取りと言うのは195512月新製の881890は、制御器その他、再使用可能なものを外し次期の新車に再利用されたのであった。鉄や金属類は専門業者に、木部は風呂屋に払下げられた。老人の下鴨の生家の隣家(南側)は稲荷湯と言う銭湯、風呂屋であった。中高校のころ時々風呂屋の親父(石川県出身)は烏丸車庫からゴムタイヤの荷車で、200型の木部廃材を運び込み燃料としていた。因みに302195843日廃車となっている。

「諸悪の根源」と言われたブリル79E型に似た住友製鋼所製の台車を採用した200300形、前後左右によく揺れゆれた。でも1形のブリル21E形の前後の揺さぶりよりましだったかな?江若鉄道の事と言い、久しぶりに半世紀以前の事を思い出すことが出来た。

西村さん、有難う!よくやって下さった。1本〆をする前に聞いた話では有料入場者数は987人、これに招待者数を加えると優に1,000人を超えた訳だ。江若鉄道関係の伝播は、新聞で知った人が電話で次々と伝えて言ってくださった力によるものが大きいと思う。これこそが、鉄道が地域に密着している最高の事例と言えるのではないか!

 

江若鉄道イベント 盛況のうちに閉幕しました

会員諸兄のご支援、ご協力のおかげで5日間のイベントは無事終了いたしました。毎日感動の場面があり、製作者冥利に尽きる展示会でした。また遠路にもかかわらず 多くの会員諸兄が浜大津に来て頂き、感謝申し上げます。さて 来場者へのアンケートを簡単に集計しましたので 概要をご報告しておきます。

1.来場者の年齢分布 (滋賀鉄道模型愛好会の運転会との併設での来場者です)

80歳以上   13名                                                                             70歳代    12名                                                                 60歳代    35名                                                                  50歳代    38名                                                                 40歳代    43名                                                                30歳代    22名                                                                20歳代     2名                                                                20歳未満   18名   計183名  

江若が廃止されたのは昭和44年で 42年前のことですから40歳代前半の人は生まれたばかり、40歳代後半の人は幼稚園から小学校低学年です。従って江若をかすかにでも覚えているのは50歳代以上と言えます。当然ですが「なつかしい」という感想は50歳代以上の多くの方が書いておられます。特筆すべきは80歳以上の方が車椅子やつえを頼りに会場に来ていただいたことです。60歳代以上の方は通学に利用していた方も多いようです。

2.来場者の住所は?

大津市内     99名                                                             滋賀県内     30名                                                             滋賀県外     55名  計184名                                                      県外では京都市30名、京都府下10名、大阪府下 6名、東京都 2名、最も遠い方は盛岡市(仕事で来ていた)の人でした。

3.イベントを何で知ったか?

大津市の広報         50名                                                             インターネット         15名                                                            新聞               60名 (京都新聞 21名、産経、読売各2名、毎日1名、なぜか福井新聞1名)                知らなかった。通りがかり  16名                                                      その他(知人・友人から 10名、チラシ 5名、テレビの広報 5名、大津線感謝祭のパンフ 3名  など)  

大津市の広報を見た大津市民が多かったが、京都新聞の影響も大きかった。

4.江若鉄道を知っているかどうか?

見たり、乗ったりしてよく知っている        88名                                            あったのは知っているが 詳しくは知らない   73名                                            知らなかった                     20名   計181名

江若鉄道の名前だけでも知っている人を含めれば161名と多く まだ忘れ去られていないのは喜ばしい。

自画自賛になりますが、特に中高年、高齢者の記述には 「感激した」「涙が出た」「年甲斐もなくはしゃいでしまった」「また来年も見たい」などのうれしいお言葉が多く見られました。

以上

あと1日! 江若鉄道再現模型運転会

当会K副会長 感涙にむせぶ
絶好調の江若鉄道再現模型運転会、小雨に見舞われた本日も、朝から来場者が引きも切らず、老若男女、家族連れから独り者まで、続々の来場となりました。
そんななか、午後まもなく、一人のご老婦人がお見えになり、袋から何やら取り出されたものは、なんと遺影でした。聞くと、数年前に亡くなられたご主人は、永く江若にお勤めだった方とのことで、本日は、江若の再現された姿を亡きご主人にも見せるため、遺影を持って来られたとのこと。
周りでこの話を聞いていた一同は、感動にひたり、なかでも、乙訓老人と同じく、ちょっとのことでは動じない、副会長さんも思わず、目頭を押さえられ涙した、という次第。
これほど左様に、来場者を感動と涙の渦に巻き込んだ江若鉄道再現模型運転会、残された日は、6日(日)一日のみ、まだの方はどうぞお見逃しなく!

西村さんは今日も来場者に丁寧な説明をされていた

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part17  希望へのエリトリア鉄道の今は その8

第7日目 9月30日 その2

① マッサワ5:30(Bus)→6:15 アーチ橋7:15(列車)→9:20マイ・アタル
マイ・アタル(列車)10:44→13:02ダマス14:00→15:43バレサ
③ バレサ16:12(列車)→17:53ギンダ
(Bus)18:00→19:30アスマラ

10:44、貨車から客車に乗り換えてマイ・アタル駅を発車しました。客車は、木造車に外板を鉄板を貼り付けた車両で、車内はご覧のように木製ベンチのクロスシートです。窓はガラスはなく、木製のルーバーを引き上げてアフリカの強烈な日差しを遮断するようになっていました。乗車したのは3等車でしたが、かつては豪華な革張りシートの1・2等車もあったそうです。



▲ アテンダントさんが客車内でカーテンを付けて何やらしていると思っていましたら、昼食のバーガーが出てきました。イタリア語で言えば、”パニーノ”になるそうですが、パンがホテル同様に硬くて美味しくありません。「かんてき=七輪」は、パンにはさむ具材の卵とジャガイモを茹でるために積んでいたのですね。



▲ 13:02、マッサワからの最初の峠(海抜480m)を越えて、人家の集落があるダマス駅に到着しました。タンクローリー車が待っていて、給水が始まりました。撮影地点はこちらです。
ここでも直ぐに元気な子供たちが集まってきました。子供たちは「ペンが欲しい」と、要求してきますが、現地代理店の担当者からは、「けっして渡さないように。なぜかと言うと、全員に渡さないと争いが起こる。」と言います。確かに言われるとおりです。仕方がないので、O氏の奥さんと家内とで日本の歌を歌ってのスキンシップをとっていました。笑顔が可愛いい子供たちばかりでした。


▲ R1からは離れたダマスの街ですが、川沿いに畑も見られ、トラクターがあります。教会もありました。
列車が停車すると、子供たちが集まってきます。今度は機関士にペットボトルのおねだりです。機関士が空ボトルを投げると奪い合いが始まっていました。これがあるので、現地代理店の担当者が注意していたのですね。何に使うのか分かりませんが、廃棄物でも必要なくらい、多分何もないのでしょうね。


乾いた河川にかかるアーチ橋を渡るフォットラン用の特別列車。川底は最近、流れた跡がありましたので、たまに雨が降るようです。


▲ 蛇行する川に沿って走行を続け、15:43、マッサワから57.1キロ、海抜620mのバラサに到着しました。珍しく木々の茂ったオアシスのような駅です。かつての給水設備が無事なようで、タンクローリー車は不必要でした。撮影地点はこちらです。
子供が数人いるのですが、周りに耕作地はあっても人家はありません。どこから来たのか不思議でした。


▲ バラサを出発してしばらく行くと急停車しました。見ると、ラクダ6頭が線路上を歩いています。汽笛を鳴らしても線路上から離れません。困ったものです。放牧主が来て移動させましたが、ラクダの放牧が行われていました。ラクダといえば、砂漠を行くシーンを思い浮かべますが、ここでは荒野の丘です。鋭い針がある木の若芽を器用に食べていました。


▲ ゆっくりと渓谷を登っていきます。トンネルもあります。室内灯もなく真っ暗となりますが、ぱっと明るくなると、「キャー、ギャー」と大騒ぎです。しばらく使われていないトンネル内はコウモリの巣となっていました。明るくなると、10羽ほどのコウモリが車内に入っていました。

その後、渓谷でのフォトランがありましたが、川底で撮影を続けていましたら、現地代理店の担当者が血相を変えて、「早く岸に上がれ!上がれ!」と、川の上流を指差して叫んできます。急いで岸に上がると、上流から泥色の濁流が流れてきました。
どうやら上流で夕立があったようです。降った雨を山に溜めておく木々がない大地です。 乾いた河川が、突然の濁流となって襲ってきます。この時も深さ30~50cmはありましたので、まず歩行はできません。危ないところでした。


▲ これから先がエリトリア鉄道のハイライトですが、夕日が山へと沈みましたので、今日は撮影終了です。17:53、マッサワから69.4キロ、海抜902mのギンダ駅に到着後、バスに乗り換えて涼しいアスマラへと戻りました。左下は、途中で乗ってきた原住民家族、客扱いの正式運行はしていませんが、走る時は適当に?乗車許可させているようでした。
▲ 今夜の夕食は宿泊しているホテルのレストランでした。少しエリトリアにも慣れてきたので、ウェートレスさんからのお奨め料理を聞いて注文しました。左上はトマト入りサラダ、右上はベーコンとジャガイモのスープ、下はジィルジィル(牛肉のトマト煮)と主食のインジェラ(酸味のあるクレープ)です。メニューに記載されていても当日できないとか、それほどバリエーションがありません。グルメは今一の感がありましたが、冷たいアスマラビールを飲めましたので、十分満足しました。
 Part18  へ続く

ドイツ鉄道のローカル線

 ぶんしゅう氏からドイツ鉄道のローカル線事情を、とお尋ねがあった。老人は1988年に路面電車同好会に入会して以来、ドイツ市電の姿を知りたいと思った。従って彼の要望に応えることが出来ないと思うのだが、2003年ドイツ一周旅行をした時、各地の駅で見たローカル線で走っているであろうと思われる気動車を紹介しよう。

お多分に漏れずドイツのローカル線もほとんどが非電化線である。本線筋が民有化された後、閑散線(旧東ドイツ圏に多い)は第3セクターとなり、それらの新しい車両は白に緑の塗分けが多いので見分け易い。ドイツでローカル線用と言えば日本のキハ01のモデルとなった4輪車が知られているが、2003年初めて旧東ドイツ圏でお目にかかったが、事業用車として側線で昼寝をしている姿のみであった。4輪車については、須磨の老人が詳しいので蘊蓄を語ってくれると思う。

老人が初めて見ることが出来た気動車は1996年、シュトラスブルグ(フランス領、本来語尾はブールと発音する)から国境であるライン河を越えて最初の駅、ケールで行き違った国境連絡列車であった。フランス、ドイツの国境区間は交流ながら電圧が異なり、ローカル列車はDCによる運転もあり、写真①628系と称する2両固定編成が運転されていた。2両の内1両の区画1/3が1等、1/3・2等、1/3自転車持込スペースであった。2003年には旧東ドイツ圏ハレ→ハルバーシュタット間でも乗ったが、なかなかの優れものであった。発車は押ボタン、運転手は窓から半身を乗り出し後方確認である。最大速度は120キロ、自動運転である。停車はオフとした後、横のボタンを押し減速、更に別のボタンを押す。日本の様に階段緩めをして停車寸前に全緩めチョイ入れの名人芸なしで、ガガガッゴッツンで停車した。液体式か電気式なのか分からぬままである。

後日ウルムからフライブルグへ向かう途中、ドナウ川源流沿いの曲がりくねった区間でも乗った。途中駅で小学生の団体が30人ばかり乗って来た。座席のない子供たちは我々が乗っている合造車になだれ込み、無人の1等座席をてんでんに占拠してしまった。そこへ大柄のおばちゃん車掌が出現、子供たちを2等車に追い込んだ。後で見に行くと3人掛けで収まっていた。教師は知らん顔、これがドイツ流らしい。これらの2両編成、1996年に乗った時は白に窓廻り淡青の2トーンであったが、民有化(ドイツ鉄道)後、写真②赤主体に裾まわり白の標準色となり、旧東ドイツ圏でも見られるようになった。非電化ローカル線の標準的な列車編成は、写真③DL牽引の客車列車で、これはペンテルツーク(振子:行ったり、来たり)運転、最後尾車は制御車なのである。

ドイツ中部ライプチィッヒから西へ約50㎞、ナウムブルグと言う人口3万の元城下町がある。この町の市電はイヴェントに合わせての不定期運転。RE(地域急行、日本なら快速)で到着したらホーム反対側に、写真④低床4輪車が停車していた。車体長は確実に10m超のもので日本ならボギー車となるものだ。このあたりの第3セクターが、ドイツ鉄道の駅に乗り入れているのであった。これは日本にない姿である。

ドレスデンから西へ100km強、ツビカウと言う人口11万の都市がある。駅に到着すれば反対ホームに、写真⑤3車体連接車が停車中。よく見れば前後は1軸台車。中央は4軸ボギー構造になっている。このDCが駅外れから、写真⑥3線軌条で市の中心部に乗り入れている。そして、この第3セクターは市電乗り入れのみならず、大都市へ直行するため、写真⑦本線急行用DCも保有していた。

ドレスデンから西へ245km、エルフルトと言う人口20万人の都市がある。駅の東隣にインターシティホテルがあり、駅から南へ電車通りを5分も歩けば繁華街(居酒屋あり)であり、とても便利なところだ。老人は朝9時20分に駅ホームに出てみたら、写真⑧満員の大型DC重連が到着した。まず人が出て、次いで自転車族が降車するのを目の当たりにした。第3セクターに転換された沿線からの通勤客であった。これと同型車両を環境都市で知られるフライブルグでも見た。テレビ放映では、休日はDCで郊外へサイクリングに行くのが楽しみだ、との市民の声が紹介されていた。

 

国境で出会ったVT628系DC

国境で出会ったVT628系DC

繝・?カル専用の2両固定編成
ローカル専用の2両固定編成
DL牽引の振蜷・?成
DL牽引の振子編成
車長は10M超の第3セクターのDC
車長は10M超の第3セクターのDC
右・市内乗り入れDC、左・ICE-3
右・市内乗り入れDC、左・ICE-3
市電は1m軌間、DCは標準軌
市電は1m軌間、DCは標準軌
車籍は第3セクター、亜幹線急行用、時速160㌔で走る
車籍は第3セクター、亜幹線急行用、時速160㌔で走る
大型DCの車長は客車並みか
大型DCの車長は客車並みか

烏丸車庫の廃車群

江若の残骸写真に乙訓ご老人のコメントを頂いたが、烏丸車庫では300型ばかりをご覧になった由。9月に後期高齢者に仲間入りし、余命いくばくかと指を数えだした老人も烏丸車庫で主として200型廃車群を見ているので、乙訓ご老人の少し前かもしれない。ネガカバーの日付の入った部分がちぎれて撮影日が分らないが、恐らく1浪中で、烏丸鞍馬口附近にあった近畿予備校に通学中(というと聞こえ?がいいが、殆んど登校せず、映画館に入り浸り、あるいは撮影に勢を出していた。ただ奈良本辰也門下の若い教員による日本近・現代史は欠かさず聞いたが、受験には全く関係ない)であろうから、1955年―56年前になる。なおこの時点まだ300型は現役で、同日にも営業運転中の302を撮っている。


これが木製客車なら1両ずつ撮っているんだが

526の後は300型であろう

これはおまけ 

この烏丸車庫跡もいまでは一部がバスターミナル、あとはショッピングセンターに成り果てた。

廃止1年半後の三井寺下


真ん中で屋根裏を露呈している残骸はキハ51か52

1971年5月5日、我々の仲間、I君(その後消息を聞かないが元気でいるかしら)の結婚式が在住地の大津であった。で、二次会に皆して江若鉄道三井寺下庫(跡)に車で乗り付けた。まだ建物も残ってはいたが、祭日とあって人気はなかった。構内は解体済の残骸が山の如く、大げさに言えば足の踏み場もないほど。解体を待つ車両は数両。この時点では、売れる車両はとうに姿を消していたのである。

悲惨な残骸の山に、一同言葉もなくただ立ち尽くすだけだった。


窓ガラスは投石で割られている キニ9は最終日の飾りつけが残ったままだが窓枠は撤去
再起しなかったキハ21(←キハ079←42537←42217←42050)

三井寺下庫はその後整地されて駐車場になり、全く面影が失われたのを記憶している。

江若あれこれ話 (3)

昭和44年10月31日 営業最終日の午後
当日は、午前に前記のように近江今津まで往復、午後からは、同志社北小松学舎でのDRFC江若お別れ合宿が始まります。いったん京都へ戻り、BOXで集合のあと、ヘッドマークを携え、合宿参加者22名とともに、再び江若を目指しました。

いろいろな車輌に当会のヘッドマークを付けて楽しんだ

三井寺下機関区長の手でヘッドマークがキハ51に取り付けられる

他の車輌にも江若、鉄道友の会からの華やかな装飾がされた

14時に三井寺車庫に到着、構内に置かれた車輌は、ほとんどがモールで飾られている。まず機関区長にあいさつ、さっそくヘッドマークのことを切り出した。何の抵抗もなく、あっさり快諾していただき、夕方の初発となる浜大津15時35分発の15列車に付けてもらうことになった。それ以降に発車する後続の列車には優先的に会社製作のヘッドマークが取り付けられたため、たまたま初発の列車には何の装飾も無かった。会員の見守るなか、機関区長の手でがっちりキハ51にDRFCのヘッドマークが取り付けられた。浜大津から、この15列車に全員で乗車する。各駅ホームで待ち受ける乗客・駅員の眼は一様にヘッドマークに注がれ、運転室後部に陣取った我々は、してやったりの笑顔がこぼれる。列車は16時13分に北小松に到着、陽も山の向こうに落ち、暮色のなかでの交換を見送って学舎へ向かった。

浜大津駅で発車を待つ15列車。キハ51+ハフ8

15列車が滋賀駅に到着。〔15737〕で紹介の駅員氏か?

北小松駅に到着した15列車。多くの小学生が下車した

北小松で交換したキハ11+ハフ2の20列車

夕食後、本日のメインイベント、北小松駅での送別式典が執り行われた。まず、浜大津行きの最終となる、20時59分発26列車の到着を全員の拍手で迎える。T中さんのマイクから江若廃止のアナウンスがホームに響く。そして、運転士、車掌の皆さんに、当会特製の江若アルバムを贈呈した。この列車は、北小松で増結作業があり、その作業が手間取って、発車するものと思って全員で拍手すると、全く動く様子もなく、間の抜けた出発式となったが、なんとか無事に26列車を送り出した。つぎの近江今津行きの最終まで1時間余りがあり、その間、会長のS井さんから、北小松駅員の3名にパネル写真を贈呈し、長年の労をねぎらう。そしていよいよ22時過ぎ、営業最終列車となる25列車がキハ51+ハフ8で到着、盛大な拍手で出迎える。この時になって急にT中さんのマイクが故障、急遽、声のバカでかいことでは右に出るものはないS田さんが地声を張り上げ、車内から好奇の目を集める。この列車でも運転士・車掌にアルバムを贈呈する。そして、22時03分、我々の”次はしらひげ~”の連呼のなか、列車は近江今津へ向けて最後の旅路についた。
その後、狂い出したT田さんら数人は、クルマに飛び乗り、深夜の国道をブッ飛ばして25列車を追い抜き、踏切で25列車に向かって”バンザイ”を叫んだと言う。これを聞いた付近の人たちは恐怖におののき、寝巻き姿の人まで飛び出し、付近は一時騒乱状態になったと言う。つくづく、バンザイの好きな会であった。

夜の北小松駅で増結を待つキハ21、江若最後の夜だった

エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part16  希望へのエリトリア鉄道の今は その7

第7日目 9月30日 その1

①  マッサワ5:30(Bus)→6:15 アーチ橋7:15(列車)→9:20
マイ・アタル
② 
マイ・アタル(列車)10:44→13:02ダマス14:00→15:43バレサ
③ バレサ16:12(列車)→17:53ギンダ
(Bus)18:00→19:30アスマラ

今日は、早朝5時のレストラン集合で、朝食後の5時30分過ぎにはバスに乗って、まだ真っ暗な夜明け前のマッサワを出発しました。

▲ ようやく明るくなった6:15、昨日夕方に最後の撮影をしたアーチ橋に到着しました。道路にはコンクリート橋が架けられて大型トラックも往来しますが、庶民の足は、ロバが牽く荷車です。
乾いた河川は住民の通行路でもあります。撮っている間にいくつもの往来がありました。


▲ エリトリア鉄道のマッサワ側のハイライトは、石で組まれた頑丈な最長のアーチ橋です。木の名前が分からないのですが、この木の下には長い針を付けた”まきびし”が落ちていました。靴で踏むと、ぐさりと靴底を貫いて足裏を刺します。足元に気をつけて歩きました。
約一時間の撮影タイムが終わると、昨夕同様にまた貨車に乗り換えました。


▲ 貨車内には、お湯を沸かす「かんてき」、大量のミネラルウオータ、コーラと冷やす氷も積込まれています。そして、現地人の若い21歳と25歳のアテンダントさんも乗車されて、車内は華やかになりました。この氷は、火照った身体を冷やすのに役立ち、アテンダントさんに何度もお願いして、アイスピックで氷を砕いていただきました。


▲ 線路際に昨日とは違っての難民部落が出現しました。手をふったり、走ったりの大勢の元気な子供たちがいます。家と言うより小屋やテントの様子からかなり長期間の難民生活がうかがえました。


▲ 8:20、それまで並走していたR1号線とは分かれて、灼熱乾燥地獄の荒野に入っていきました。一旦停車して、1カットの撮影です。標高はまだ海抜66mです。

8:28、再び乗り込み荒野を行きます。途中、破壊された駅舎がありました。マッサワから19.6キロのドガリ駅跡です。


9:20、先で客車を連結すると言われていたマイ・アタル駅に到着しました。マッサワから29.4キロ、海抜181m、荒野の真ん中の駅で、周囲に人家は全くありません。交換駅だったのでしょうね。ここまで来ますとマッサワとは違って、べったりした不快な高温の塩風はなくなりましたが、気温はどんどん上がっていきます。
ここで貨車から搭載物の移動です。側線には、無数の貨車が放置されていました。撮影地点はこちらです。


▲ 機回しが行われました。オープンデッキの客車ですので最後尾を望みましたが、残念ながら機関車の次の連結でした。

▲ 次は、機関車への石炭補充です。ズタ袋に入れた石炭を貨車から機関車まで運んで積みます。水は、タンクローリー車が待機していて、ホースで給水します。独立戦争前は給水設備もあって困らなかったのですが、破壊されて給水車が必要になりました。給水と石炭運びは停車する度に行われましたが、とにかく多くの人手のいる作業を人力作戦で、行っていました。この列車を走らせるために、一体何人の現地の人々がたずさわっているのでしょうか。

約1時間20分の停車の後、ようやくアスマラ方向に向けて出発しました。
 Part17  へ続く

南海22000型とか・・・

私鉄音痴の私にとって南海電鉄は遙か彼方の電車です。と思って読んでいくと、この春乗った“天空”の事でした。なるほど第二の人生が華やかでうらやましい限りではあります。ズームカーの意味も初めて知りました。ア~恥ずかし!!

十和田観光電鉄、廃線へ!

今朝のテレビで来年3月31日でもって鉄道事業を廃止すると報じられた。その理由は東北新幹線の青森延長により、十和田湖観光のルートが変わったことよる鉄道利用者減少に加え、東日本大震災に兼業部門の大幅な業績ダウンにより鉄道事業の赤字を支え切れなくなった、としている。「デ元青」でも何度か伝えられた鉄道が消えることは寂しいおもいでならない。これが引き金となり、三陸海岸をめぐる鉄道が廃線にならないように祈っている。

江若運転会 いきなり絶好調

「江若鉄道再現模型運転会」、いよいよ本日29日(土)からオープンしました。事前の予告に加え、当日朝に地元紙で大きく紹介されたこともあって、開場直後から続々の人出です。
当時を懐かしむ江若OB、熱心に質問するご婦人、食い入るように見つめる子どもなどなど、会場は熱気に包まれました。少々のことでは動じない、あの乙訓老人をして、「つい涙ぐんだ」の言葉を漏らすほど、見るものに感動を与えました。まさに鉄道の持つ、限りない魅力でしょう。新聞社の取材も引きも切らず、ついには今季セ・リーグ優勝チームの親会社の新聞社まで駆けつける始末でした。
夕方、ようやく人並みは途絶えましたが、入りも入ったり、同館のイベントで最高の有料入場者を記録しました。製作者の西村さんも応対に大童でしたが、”この疲れは、快い疲れ”と言い残し、夜の巷に消え行ったのでありました。

京都新聞、産経新聞の紹介記事。取材に当たってもクローバー会のネットワークが発揮された

江若記事 お詫びをふたつ

江若運転会の様子を報告する前に、お詫びをふたつ。
〔15737〕でDC5連回送のダブレット授受通過を、「ひら」号回送とお伝えしましたが、本日、その写真に載っておられた元駅員氏に、再度、館の方が取材したところ、この回送は、「県立膳所高校の全校登山行事が比良山であり、その下山輸送のための回送」であるとの証言を得ました。「ひら」号回送ではありませんので訂正します。
改めて写真を見返すと、「ひら」の場合、回送時から「ひら」のヘッドマークを掲げていました。ここで、気になるのは、膳所高校なら、国鉄貨物線を通ってそのまま膳所まで行ったのかとも妄想しますが、やはり浜大津で乗り換え石坂線で戻ったのでしょうね。

「ひら」号の回送でなく、高校団体輸送の迎え回送でした

もうひとつの訂正は、〔15824〕の写真キャプションで、「鉄道模型雑誌の編集長」などと書きましたが、本日、ご本人から”編集長ちゃいまっせ、雇われ編集部員でっせ”と言われました。なにか、私の会社時代の哀歓をそのまま生き写すようで、思わず感じ入りました。謹んで訂正します。

江若鉄道廃止以来42年

湖西線建設の前段としての江若鉄道廃止は1969年11月1日だから42年になる。今まで出したものもあるとは思うが、現在デジタル化済を何枚かご覧頂こう。


ハフ7か8の室内 1953年当時

小生が初めて江若に見参したのは1953年、高校1年生だった。当時京都の(新制)高校は、旧制中学校時代の琵琶湖艇庫とボートを受継いだが、小生の朱雀高校は旧高等女学校だから、そんなものはない。しかし各校は他校とボートを融通し合い、全員がほぼ一回はボートを漕げる全校大会があった。舵だけはボート部員が担当し、漕ぐのは後に競艇場ができる場所である。その機会に近くの三井寺下庫を訪ねたのである。

その時は大した写真がないが、ハフ7か8の車内をご覧頂きたい。クロスシートは戦時中もこのまま過ごしたことが分るが、背摺りが木製である。余談だがやはり戦時中・敗戦後の混乱期も転換クロスのままだった京阪1000型も、背摺りはベニヤ板を曲げたものだった。


1118牽引の貨物列車
夏季水泳客用臨時列車 ホハ102+104+103の編成の末尾にハフ7を連結 1955年

水泳列車牽引のC111が給水中、1118が三井寺下-浜大津を往復する 

C111牽引のホハ列車 高島町の手前 
DC301が入換中

ナハ1959が86に牽かれ浜大津に これでも甲種輸送ではあろう 1960年7月9日

最終時点での水泳列車 オハ1957~1960に転換クロスのオハ27の5両をDD1351が牽く 1969年7月27日舞子南口


浜大津-京都間の特殊補充券

江若鉄道は膳所乗り入れにより国鉄との連帯運輸接続を大津から膳所に変更したから、膳所経由ならどこでも乗車券が発券できるが、浜大津-京都なんぞの区間を買う物好きはいない=当然常備券はない。そこで無理を言って発券して貰ったら特殊補充券での手書きだった。それも浜大津に特殊補充券の常備がなく、次の回送列車で三井寺下の本社から運んでくる騒ぎ?で、温厚な駅員は「こんな券を作るのは何年ぶりか」ととつぶやいていた。ついでながら浜大津は駅から駅舎から何から何まですべて国鉄財産で、江若は借家人に過ぎず、機関車への給水も三井寺下に戻って行っていた。
この時点国鉄線の湖側が更に埋め立てられたが以前は線路のすぐ側まで湖だった 1955年

膳所(旧馬場)-浜大津(旧大津)の3線軌道の敷地は琵琶湖を埋め立て、太湖汽船を経由して長浜に結ぶ連絡線で、湖東線開通までは旅客営業の幹線(東海道線)だったが、大津電車軌道の大津-膳所開業(1913年3月1日)で貨物線に。電車は湖側の鉄道院線を3線化して乗り入れたのだが、持ち主は国鉄だから、1日何本かの貨物が通るときは電車側が全線一閉塞とあってダイヤを空けねばならず、その際は電車の間隔が約20分ほど開く。貨物線でも所属は東海道線(の一部)である。

江若鉄道は当初国鉄大津(現在の)を起点に1919年8月19日免許を取得。その区間は大津市東浦町-湊町(浜大津)-福井県三宅村で、近江今津以北は旧鯖街道とはいえ旅客貨物とも僅少の為断念(免許失効1936年4月23日)したのは知られている。大津市内は浜大津との高低差克服のため、浜大津-膳所(スイッチバック)大津という極端な迂回ルートで、こっちを知る人は少ない。しかし貨物はともかく、旅客にはおよそ現実性のないルートとあって施行期限を何度も更新し免許失効を避けながら、他方で浜大津-膳所間の乗り入れは戦前から懇願していた。

国鉄は湖側を更に埋め立てて新たに1線を貼付け、これを国鉄貨物と江若が共用し、現在の3線部分を京阪(専用)に譲る、という案を固守。膳所で国鉄と接続は出来はするものの、江若の負担額に比し乗客増はさして望めず、採算に合う筈もないのを見越した「嫌がらせ」だったかもしれない。

やっと1日2往復の浜大津-膳所乗り入れが成就したのは敗戦後で、免許は1946年12月26日だが、これもディーゼル燃料確保と同じく米軍キャンプ輸送の「悪乗り」だった可能性が強い。1947年1月25日運輸開始だが、およそ通勤通学を外れた時間帯にしか運行させてもらえず、当然乗客は少なく、1962年度4,313人(1列車平均2.96人)、1963年度3,779人(同2.59人)という有様。1965年7月10日廃止された。

なお江若鉄道は最後まで浜大津貨物線の貨物輸送受託を目論んでいたようで、国鉄に先駆けDD1351(国鉄機と違って各機関が独立して片台車を駆動)を、大金出して購入し、その後も増備したのもその含みだったと聞く。確かに国鉄が直営せず委託あるいは譲渡したほうが合理的な線区であるのは、山陽鉄道以来のメチャ古い歴史も共通する和田岬線(正式には山陽線の一部)と双璧で、なぜか国鉄は手離さなかった。この貨物線廃止は江若廃止に2日先立つ1969年10月30日で、京阪は3線式の内側レールを外し、目出度く借家人から脱却した。

「江若鉄道再現模型運転会」開場

いよいよ29日(土)からオープンです。前日まで行われた整備・試運転も完了、江若鉄道の車輌・駅が、ゆかりの地で40年ぶりに模型でよみがえります。江若に関する写真・資料も用意、さらに、大阪通信員さん、大津の86さんが隠匿・死蔵していた部品類も会場を飾ります。
西村さんが寝食を忘れてこの3年間打ち込んだ、入魂の「江若鉄道再現模型運転会」、余計な言葉はもう不要、この眼で確かめに浜大津へ!
会場:スカイプラザ浜大津6階(京阪浜大津駅と直結、琵琶湖側のビル内エレベーターで6階へ TEL 077-525-0022)
会期:10月29日(土)、30日(日)、11月3日(木・祝)、5日(土)、6日(日)の5日間

三井寺下駅の再現ゾーン。このリアリティは見ないことには分からない

鉄道模型雑誌の編集長みずから取材に。新聞社の取材も行われた

私と江若鉄道

総本家青信号特派員さまの記事に、当時を思い出して資料をあさってみました。

私も1030日、111日と撮影に行っていました。当時高3で、30日は木曜日、授業が終わって出かけたのか、浜大津駅付近で撮影、111日は三井寺-滋賀の間と最終のサヨナラ列車を浜大津で撮影していました。沿線風景もなくお見せできるような写真はありませんので、江若鉄道にちなんだグッズを紹介させていただこうと思います。

廃線の日から何日か経ったある日、父が大きな紙包みを持って帰ってきました。何かと思って開けてみると、江若鉄道のサボと三井寺下駅?にあった「危険品ご注意」の看板、それに乗車券が何枚か入っていました。父の知り合いに江若鉄道の本社の事務の方がいて、私が鉄道趣味だということを知ってくれたのです。

サボは写真の3種類、1枚は総本家青信号特派員さまも「江若あれこれ話しその1」で触れられている快速「ひら号」、裏面が、冬のスキーシーズンに同様に運転された快速「マキノ号」、もう1枚はただの快速となっていますので、朝の浜大津行き、夕方の近江今津行き各1本定期運行されていた(廃止時)快速に使われていたものと思います。

危険ご注意の看板は上に鎖、または針金でぶら下げるようになっているので、改札口の上にあったのではないかと思います。

また、切符はいろいろありましたが、面白いものをあげてみました。上段左は当時の国鉄との連絡切符、江若は昭和22年から40年まで膳所駅に乗り入れしていましたが、本数少なく、この切符の連絡は大津駅、徒歩で15分程度かかる離れた駅を連絡する切符でした。上段右は、普通の硬券ですがよく見ていただくと運賃20円と書いた上に運賃変更のスタンプが押してあります。日付は昭和441026日となっており、いつから運賃改定されたのか分かりませんが、昭和424月の時刻表見ると既にこの区間運賃は30円となっていて2年以上経っているのにまだ以前印刷したものが残っていたのです。

左中、下段は京阪との連絡切符で、これは浜大津の駅が京阪、江若で隣接しているため、本来の形かと思いますが、近江木戸は快速も止まらない駅で、わざわざ大阪からの連絡切符を作るような需要があったとは思えません。また、右中、下段は駅名が記入できるようになっているのですが、本来は中段の形で、堅田駅に常備されていて、発売の際に行き先をスタンプ、または手書きで書いたと思われますが、下段のものはどの駅に置いてあったのでしょうか?

今回のイベント案内いただき、久しぶりに私の青春時代も思い出させてくれました。最後に廃止翌日の新聞の切り抜きを添付しました。当日楽しみにしております。

江若鉄道 懐かしの写真展&鉄道模型展まで、あと2日!

江若鉄道、懐かしの写真展&鉄道模型展まで、あと2日となりました。’68年度生 西村雅幸君の力作、50両の車両の模型展示展、同じく’68年度生 福田静二君の写真展が開催されます。今日は、搬入準備を行います。西村君は、三原の自宅から車に展示物を乗せて向かっておられます。開催日には、会員皆様方のご来場をお待ち申し上げております。



江若あれこれ話 (2)

江若鉄道、思い返せば、鉄道趣味活動の原点でもあったと思います。
廃止されたのは昭和44年11月1日、私は現役の2年生でした。眼にするもの、すべてを吸収したい世代、しかも大学は紛争で6月からずっと封鎖中、これ幸いにと毎日のように江若へ通ったものでした。中でも、営業最終の10月31日から、さよなら運転の行われた11月1日にかけて、沿線の同志社北小松学舎で、DRFCメンバーとともに合宿を行い、メンバーとともに最後を見届けたことが、ひときわ心に残ります。何回かに分けて、江若の最後の2日間を写真とともに振り返ってみました。

営業最終日10月31日の朝一番列車は21+51+52+8の4両編成。最終日を待たずに、譲渡車輌は転属してしまい、廃車予定の車輌だけでのやり繰りだった

話は江若営業最終の前日、10月30日の晩から始まる。
家で明日からことを何気に思案していた時だった。ふと思いついたのが「江若にDRFCのヘッドマークを着けてみたい」だった。と言っても、時間も金もないから、有り物で作るしかない。
ベースは写真の木製パネルを流用、これに画用紙を貼り、マジックインクでレタリング、周囲をクリスマスツリーのモールで飾ると、何とか見られるヘッドマークが出来上がった。締めて費用はゼロ、もちろん江若の許可も何も無いが、ぶっつけ本番、何とかなるだろう。徹夜の作業になってしまい、出来上がったときは夜が明けきっていた。
叡山駅で交換した52列車は、キハ11+ハフ、この列車はただ一本の和邇始発の列車

霧の堅田駅で。時計を気にする駅長がタブレットを持って、交換列車に備える

近江今津に着くと、大勢の高校生が下車し、集札口を埋め尽くす
さて、10月31日、京津線の一番電車に乗って、浜大津を目指した。
10月27日から、昼間の列車はすべて運休して代行バスになっていた。列車は朝夕にしか運転されていないから、最後の日に、朝の列車で近江今津まで往復したい。数回は近江今津まで行ったことはあるが、クルマに同乗して行ったもので、北小松以北、終点まではまだ乗車した経験がない。何としても朝の列車で近江今津まで往復し、最初で最後の終点往復を果たしたかった。
浜大津から6時15発の第一列車に乗った。車輌にはすでにモールで飾りつけがされていた。車窓から見る光景は、淡い霧に包まれていたが、陽が昇るに従って、霧も晴れてきて青空が広がってきた。キラキラ輝く湖面の反射が、徹夜した眼にはまぶしい。各駅には、廃止を伝える看板が置かれ、モールで飾られたメッセージボードもある。いよいよその現実を実感する。
交換する列車は、いつもどおり通学生を中心に満員。各駅に停車するたびに、駅名標を中心にして写真を撮り続ける。列車は、7時50分近江今津に着いた。浜大津から所要1時間35分、現在なら同区間を湖西線新快速で半分以下の40分で走ってしまう。折り返しの8列車までの30分、終点の光景を撮り続ける。朝の最終がこの列車で、それを逃すと15時30分までない。

40年後の今もまだ残る近江今津の駅舎、廃止の看板が立てかけられている

各駅に掲げられた廃止のメッセージボード。当時、流行り出した”タイポス”という書体を使ったボードで、少し江若のセンスを感じた

広い近江今津駅、長いホームの先端に乗ってきた1列車の編成が見える

名残を惜しんでいた女子高校生が、駅員とともに記念写真に収まっていた

折り返しの8列車にも近江今津から乗客が乗り込んだ
ホームでは、いかにも最終日らしい光景が展開されている。すがすがしい、というか、ちょっと胸が締め付けられるようなシーンだ。その後、最終日を好んで撮りに出かけるようになったのも、この近江今津駅の体験が原点になっているようにも思う。
折り返しの8時20分発8列車で去るが、編成は行きと同じ4両編成、最初は空いていたが、各駅で乗車が続いた。途中で徹夜の疲れでいつしか寝入ってしまい、終点の浜大津で我に返ると、車内は超満員になっていた。

近江今津を発車した8列車の先頭車両、超ロングシートに客はまばら

先頭はキハ52、半室の運転室の横は、格好の展望室だった

新旭~安曇川間で江若最長の安曇川鉄橋を渡る

安曇川に到着する。上下列車の交換があり、多くの乗客が待ち受ける。構内には明日からの代行バスが待機している

北小松で5列車キハ11と交換する。この時間帯になると、カメラを提げた乗客も増えてきた