宵山の京都から

北海道余話、ぶんしゅうさんと連携しながら書き進める必要もあり、その調整として、別テーマでちょっと横道にそれることにしました。
きょう7月16日、京都は祇園祭の宵山で賑わっていました。
以前は、電車と祇園祭を組み合わせを写すために、京阪四条駅や、古くは市電四条河原町新京極へよく行ったものでした。
今では、鉾町から離れたJR京都駅で、それをかろうじて叶えることができます。
毎年、烏丸口改札の上に駒形提灯が掲げられ、コンコースに祇園囃子が流れ、祭りへの高揚感を演出しています。
そんな中、今や1往復にまで減ってしまった485系「雷鳥」が0番ホームに到着します。折からの、急な夕立落雷でホームが混雑する中、懐かしい国鉄色はひときわ存在感を持っていました。

今年が最後? 485系「雷鳥」と祇園祭

北の大地へ2010年初夏編Part2 旧白滝駅・丸瀬布森林鉄道

第3日目 2010年6月26日
昨夜は小樽港到着後すぐに札樽自動車道、札幌から道央自動車道を眠気感じる砂川SAまで走り、宿泊しました。

5:00前に起床、すでに太陽は内地と比べると、はるかに高く上がっています。SAも内地と違って、大きなキャンピングトレラーや普通乗用車も多数泊まっていました。ここから北の大地1番目の撮影地石北本線白滝付近までは、約2時間の所要時間です。

▲ 7:05、「村名”白滝”発祥の地」記念碑前に到着。白滝を見下ろす高台が、湧別川沿いに走る石北本線撮影地です。
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初夏の北海道 余話-1-

旧白滝を訪ねる

待望の連載”ぶんしゅう旅日記 初夏・北海道編”、今回は、当特派員も同行させていただいての二人旅となりました。特派員にとっての北海道は、社会人時代に観光や仕事で行ったことはあるものの、鉄道写真の撮影となると、実に学生時代以来、約40年ぶりとなりました。
それだけに、見るもの、写すもの、すべてが新鮮で驚きの連続でした。詳細な旅行記は、今後もぶんしゅうさんが記されますので、当特派員は、印象に残った事象を採り上げ、昔話も交えながら綴っていくこととしました。
北海道へ上陸して、まず向かったのは、丸瀬布の「いこいの森」ですが、開場前の時間を利用して石北本線旧白滝を訪れました。この駅の存在が、以前から気掛かりで、この眼でまず確認しておきたかったのです。


この世に”新”を冠する駅名はゴマンとあるが、”旧”が付くのは、ここ旧白滝だけだ。しかも、石北本線には、奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と”白滝”の付く駅のオンパレード(奥白滝はのちに廃止)。
この謎は
、現場へ行ってみて氷解した。もともとこの地域、地名すらないような人跡未踏の地であった。地域を流れる湧別川に大きな滝があり、飛瀑で付近は白く見え、いつしか”白滝”が地名となり、村名も白滝になったという。事実、石北本線の撮影名所地になっている旧白滝~下白滝間には、「白滝発祥の地」の碑があり、この由来を説明している。

旧白滝は、この地域で真っ先に入植が行われ、のちに集落の中心が現在の白滝へ移ったため、その後に建設された石北本線の駅名には「旧白滝」の名が採用されたようだ。駅への昇格は1987年のことで、それまでは乗降場扱いであった。駅はホーム一面の棒線駅で、典型的な北海道の無人駅スタイルだ。もっと山深いところかと想像したが、意外に開けたところに駅は所在し、国道からも容易にアプローチできる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ、旧白滝を有名にしたのは、発着本数の少なさだ。上りこそ午後に3本あるものの、下りに至っては7時16分発の1本のみ。始発列車が終列車と揶揄されたものだ。どうしてこのような偏った列車ダイヤになったのか。おそらく1人か2人はいたはずの通学生の利便を考えたものだろう。朝に丸瀬布・遠軽方面への列車を停車させ、午後は選択できるように3本設定している。この需要以外にこの駅での乗降客は考えられず、それ以外の普通列車はすべて通過扱いだ。 

待合室をのぞいて見ると、他の駅にも見られる備え付けのノートが一冊置かれていた。それを見ると”秘境駅”にも認定されたこの駅には、毎日のように訪問者がいるようだ。「いこいの森」で撮影の後、16時53分発の上り旭川行きを迎えた。ホームには旅行者が一名待っていた。彼は約3時間前の上り列車で来たのだろうか。キハ40の2両編成が、35度を超す暑い空に、紫煙を上げて、まっすぐな線路に消えて行った。

 

餘部橋梁 塗装塗替の頃

去る、平成17年8月30日餘部駅を訪れた処、運良く(?)塗り替え工事中でした。それまでは列車撮影ばかりに気になっておりましたが、塗装作業を目の当たりにしますと橋梁の構造に大いに興味が引かれ、その鉄組等備に見るに付け先人の知恵と苦労に敬意を払わざるを得ません。

架橋工事から既に100年の月日が経って、足下に及ぶ風雪によく耐えたものと感傷に浸っておりました。ご覧のように腐食が甚だしい部分も散見せられます。

完成イメージ図も発表せられておりますが、私のような世代にとって鉄橋の記憶が強すぎて馴染むのは何時のことになりますやら。

帰りは「快速 あまるべロマン号」普通のキハ47 2+キハ47 15 編成でした。残念。
草生した餘部駅は、混凝土に覆われた駅になるのでしょうか。

ライブカメラ
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1270077904503/

北の大地へ2010年初夏編 Part1 行きがけの駄賃

第1・2日目 2010年6月24・25日
①舞鶴港0:30(新日本海フェリー)→20:45小樽港

2009年10月の紅葉前線を追いかけての北の大地は、道南以外は既に紅葉は終わった後で、初冬を迎えていました。道内各地の鉄道資料館等は殆どが冬季閉鎖で見る事ができず、初雪に追われるように引き上げざるをえなかった悔しい思いをしました。
次回にリベンジを誓ったので、今年は本土が梅雨に入る頃に梅雨のない北の大地へ訪問するのが一番と思いました。今回もぶんしゅう7号を相棒に一人旅予定でしたが、最近一人旅ゆえの撮影列車時刻の見過ごし等のミスが発生してきて、確認のためにも相棒が欲しくなっていました。

近くにDRFC-OBの総本家 青信号特派員さんがおられます。ただ、鉄道写真は鉄道で移動しながら撮る事を信条とされておられますので、お誘いするのは難しいかなと思っていましたが、昨今のローカル線は勿論幹線でも列車本数が激減して、撮りたい列車が移動に乗車するため撮れないとの現実に直面しておられました。同行の打診をいたしましたところ、車で宿泊移動する長旅は未経験だが、約40年ぶりとなる北の大地を見るのは良いなあとなりました。 続きを読む

1955/57年北九州/福岡

高校を卒業し浪人になった1955年と、何とかドーヤン生になれる権利を確保した57年とも、3月に九州に行っている。1955年18~21日まで、1957年は19~24日までで、特に吉塚~福岡市内は撮影対象も重複するので、2年の差異はあるがまとめて記すため、話が少しややこしいかもしれない。

1957年は西鉄北九州軌道線砂津車庫から到津遊園地へ。ここに旧大川線の2号コッペル機が保存してあるからで、入口ゲートから見える。もぎりの親父に、あの機関車の写真を撮るだけだから、切符なしで入れてくれ、ものの2分もかからないし、質草にこのバッグを預けるから、と掛け合ったが、貧しい浪人(まだ大学生の身分は取得していない。学割証だけはうんとこさ持っていたが)生は友好的な返答を得られなかった。致し方なく身を切る思いで何十円かで入園券を買わされたのは、後年犬山遊園で蒸気動車を撮った時と同じ。これだけありゃ、腹いっぱい食えるのに。


到津遊園地の大川線4号機 コッペル1911年製 

これは大川鉄道1→西鉄大川線(大善寺-大川、1951年9月25日休止、1966年5月6日廃止)4で、軌間こそ1067mmでも、軽便同様の8トン機で、国鉄との貨車乗り入れもなく、連結器も最後まで螺旋連環式。この旧大川線4号は、撮影時点かなり荒れており、前部バッファーは左側ががっくり首を垂れ、後部は失われていた。キャブ内も当然荒れっぱなし。今ではどうなっているんだろうか。

ところで話は2年前に戻る。その年(1955年)に卒業したS先輩と一緒に、長門鉄道を一覗き後九州入りして鹿児島本線を西南へ。香椎から箱崎、吉塚のあたり、国鉄と西鉄が並行する区間があるが、まず気づいたのが松林の中にズラリ並んだ路面用木製2軸単車の一群で、直ちに衆議一決、次なる駅で下車。


松林の中の単車5両

窓こそ下段上昇に改造され、折り戸も付されているが、ポールは1本。福岡市内線の廃車であろう。そして貝塚に近い宮地岳線(→貝塚線)車庫には、我々好みの車両―元車両を含め―がどっさりいた。旧博多湾鉄道汽船は吉塚以東が戦時中買収で勝田線になったが、電化残存部分が現在の宮地岳線で、車庫最寄駅は確か競輪場前といわなかったか。撮影は1955、57両年のものが混じっている。


これは2年前松林に並んでいたうちの1両だろう さざえ食堂と落書きしてある

上下とも旧大川線ガソリンカーの成れの果て フォードV8装着のキハ6、7だった


これらの旧2軸客車は博多湾鉄道汽船や大川線等の残党であろう



これは旧中国鉄道キハニ161→省キハニ161→西鉄ク58 台車はTR11に振り替えられている 同僚だった旧キハニ160はク57に 共に加藤車輛製作所1934年製

木製国電末期の姿だが手入れは良い クハ17072→西鉄ク63
モ8 電化で新製された半鋼製電車 小田急モハ1→デハ1101型と貫通扉以外同型の由

モ12 これは汽車1936年製デハ10→ クロスシート車だった由

江若鉄道 三井寺下駅・本社

西村様
江若鉄道の復元工事が着々と進んでいること、同慶の至りです。つぎの目標は、三井寺下駅周辺のこと、ここには、江若鉄道の本社・車庫の所在駅であり、いつ行っても個性揃いの車両がびっしり詰まっていたことを思い出します。
今回の探求は、駅舎・本社ということで、探してみました。なんとか2点は撮っていました。復元工事のお役に立てば幸いです。
三井寺下の駅舎は、大通りから一歩下がったところにありました。本社・車庫の所在駅だけに、他駅に比してかなりの大きさでしたが、乗降客はわずかなものでした。廃止直前の姿で、正面には廃止の挨拶看板が立てかけられています。
一方の本社は、駅舎の左手にあり、駅用地とは塀で仕切られ、「江若鉄道株式会社」の門標もありました。ご覧のように木造下見板張りの2階建てで、この建屋は、鉄道廃止後も、江若交通の本社として長く在りました。撮影時は、駅・車庫用地すでに撤去後で、手前には新設の道路が見えます。この本社も昭和60年前後に付近の再開発に伴い、取り壊されたと記憶しています。

▲三井寺下駅駅舎、右手にホームがあり、車庫に留置された車輌も見える

▲右手が江若鉄道本社、左は組合の建物か。鉄道廃止後15年後の姿

江若鉄道白鬚駅復元工事(その7)

梅雨明け、水泳シーズンの開業を目指して工事を進めてきましたが、何とか完成に近づいてきました。あとは松並木が残っていますが、車両や建物と勝手が違って 手が止まってしまいます。とりあえず開業し、木はぼちぼち植えてゆくことにしましょう。というわけで完成間近かの様子をご覧下さい。

高島町、白鬚とできたのですが、こうなると次はどうするかということになります。浜大津、三井寺下、近江今津・・・。浜大津を作るとなると京阪浜大津も作りたくなるし・・・、近江今津は実は行ったことがないし・・・、三井寺下は再現したいが、部屋に収まらないような大きさになりそうだし・・・とあれこれ思案を始めています。三井寺下の構内配線はほぼわかるのですが、駅本屋、本社社屋など建物の写真がないのです。三井寺下の駅前風景など車両以外の写真があれば 是非ご紹介ください。

「電車は1両もええ 続編」補足

前回取り上げた丹波橋駅に停車中の三条行で、積み残し客が出る程満員であることが、お判りいただけると思う。(昭和39年5月10日)

準特急様が旧国鉄、JRの単行電車について書き込みされたが、文中で触れられている小野田線の支線「通称本山支線」と鶴見線の支線「通称大川支線」について補足する。

本山支線のクモハ42

平日、休日ともに運転は朝・夕のみで土曜日のみ学生の下校時間帯に1往復運転されていた。(現在は学校が完全週休2日制になったため運転されていない)私自身乗車したのは1度だけで撮影した前日の夕方1往復したが日没後のため撮影はしていない。翌日宇部新川駅で朝のラッシュ時に撮影後、雀田駅に行ったが午前中の運転は終了しておりパンタを降ろして昼寝をしていた。クモハ42の運行は平成15年3月14日までで、その後はクモハ123が運行されている。

 

雀田駅で昼寝中のクモハ42005(昭和49年1月20日)/本山支線の他、クハを連結して宇部線・小野田線の運用に入ることがあるため、下り向きには貫通幌が付いていた。

大川支線のクモハ12

平成8年3月15日までクモハ12051か052が単行で運行されていたが、3月16日のダイヤ改正で103系3連に置き換えられた。その際に武蔵白石駅の大川支線ホームが急カーブにより20m車が入線できないため撤去され、大川行は一つ鶴見寄りの安善駅との間の渡り線から上り線を逆走し、武蔵白石駅を通過して大川駅に至っている。平成16年8月より205系への置換えが開始され、103系は平成17年12月17日をもって引退した。

 

大川駅に進入するクモハ12052(昭和47年5月1日)

その他の単行

大垣~美濃赤坂間、大垣~垂井~関ヶ原間のローカル運用の昼間の閑散時間帯にクモハ40、クモハ12の単行が使用されていた。

 

美濃赤坂駅に停車中のクモハ40069(昭和39年9月21日)

【参考】

この時の主目的は西濃鉄道の蒸気機関車で、当時「2105」と「2109」が在籍しており、当日は「2105」が稼働していた。廃車後「2109」は大井川鉄道に行き、現在は日本工業大学で動態保存されている。

高槻電車区の職員通勤車

営業運転ではないが、高槻駅から電車区の間に職員通勤用にクモハ32002が運転されていた。車体の内外は営業車と同レベルに整備され、いつでも営業運転に使用できるようになっていた。現役の時、高槻電車区見学会の帰りに便乗させていただいたので参加された方は覚えておられると思う。

 

(昭和41年11月12日)

【参考】クモハ32について

クモハ32は、昭和9年7月20日吹田~須磨間の電化開業による電車運転開始時に、主として増結用に使用するために新製された両運転台付のモハ42を戦時改造で4扉化した電車である。13両中5両改造されたが、戦災と事故で2両廃車となり、生き残った3両が昭和28年の改番でモハ32000~002となった。昭和40年代は32000が岡山区、32001が淀川区に在籍し、通常の営業運転に使用されていた。

 

宇野線の8連の先頭に立つ32000(昭和47年7月30日)

 

片町線で中間に入った32001(昭和49年3月23日/住道駅)

 

牽引車代用として向日町運転所に貸し出された時(昭和41年11月28日)

青梅線・五日市線のクモハ40

五日市線の電化開業時、昼間の閑散時にはクモハ40の単行が見られた。この画像を見る限りでは単行に見えるが、実はラッシュ時の増結車である。当時、ラッシュ時は基本4両にクモハ40が1両増結され、5両で運転されていた。

 

クモハ40039(昭和49年5月1日/青梅駅)

 

クモハ40061他5連(昭和49年5月1日/拝島駅)

クモハ123

準特急様が塩尻~辰野間のクモハ123-1と身延線のクモハ123-602を紹介されておられるが、同形式について少し説明したい。

国鉄末期の昭和61年から分社後の63年にかけて手荷物・郵便輸送廃止により余剰になった荷物電車を旅客用に改造したものである。JR東日本はクモハ123-1が1両のみ、JR東海は123-41~45(改造により5041~5044・5145に改番)・601、602の7両、JR西日本は123-2~6の5両が在籍したが、JR東海は平成19年までに廃車、JR東日本とJR西日本は全車両健在である。JR西日本は宇部・小野田(本山支線を含む)線を主体に山陽本線の宇部~下関間で使用されている。

JR東日本 クモハ123-1(昭和62年1月15日/塩尻駅)

改造当初は白と緑のツートンであったが、走行区間に緑が多く目立たないことから現在の塗装に変更された。

 JR東海 クモハ123-5043+123-601+123-602

JR東海は当初、身延線の富士~西富士宮(一部は芝川)間と甲府~鰍沢口間の区間運転用に投入されたが甲府~鰍沢口で使用する車両の送り込みのため、富士~甲府間の全線を走破する運用も存在した。トイレがないことから乗客からの苦情が殺到したため、甲府~鰍沢口間の区間運転から撤退し、それに伴う富士~甲府間の全線通し運用もなくなった。但し、平成19年3月18日のダイヤ改正まで、沼津~身延間の4229Mに2連で使用されていた。富士~沼津間を3連で回送、沼津で検査後11時30分頃3連で出庫して、11時40分頃先頭の1両が回送で発車、後2両が11時50分発身延行となった。

 

上/クモハ123-5043 中/クモハ123-602 下/クモハ123-601(平成17年6月24日/沼津駅)

代理投稿:人間国宝より須磨の大老へ

湯口徹氏へ
52年前の海底トンネルの県境の写真、ありがとうございました。私はいつまで学生
服を着ていたか憶えていません?
喜々津ー大草間は湯口氏の記事の通り、誘われたに違いありません。3月22日(土)
夜門司駅で待ち合わせ、3月23日(日)昼過ぎ湯口氏と別れ、私は一旦京都へ帰っ
て3月28日(金)午後出発、夜行で九州へ。
29日(土)午後海老津の駅で再会し、翌3月30日(日)に喜々津ー大草へ撮影に
行ったということです。
                                  佐竹保雄

1957年3月19日西日本鉄道北九州線

この日は天気もよく、ずいぶんフイルムを費やした。それも西鉄北九州線砂津車庫で路面電車をバンバン撮ったのである。かような電車は拙老の最も不得意とする処であり、ともかく写真を羅列するので、解説は乙訓ご老人あるいは藤本哲男氏にお願いできないだろうか。何卒よろしく。


西日本鉄道北九州線79

80


101

156

204

618

1001

1009

1020

廃車体 パンタは後ろの車両のものである

先日ええ歳こいだ仲間の年中央での懇親=要は酒盛りで「年中会」と称す。勿論年末の忘年会もある=で広島に行き、翌日電車を借り切って走行、車庫で撮影会。そのうちの数名が松山で再泊。元気な二都市の路面電車をイヤというほど堪能した。思い出すまでもなく、かつては日本中に路面電車が走っていたし、その大方は元気だった。しかしともかく米国に倣えと、片端からひっぺがしてバスに切り替え、それこそが進歩だと、ジャーナリストも政治家も、心底信じ込んでいたのが1960年代以降であった。関西でも万博を控え、大阪青年会議所は声を大にして路面電車の撤廃を叫んでおり、特に阪神国道線を槍玉に上げていた。小生の知る限り、路面電車は残すべきで、米国ではなく、ヨーロッパに学ぶべきだと主張していたのは、奥野利夫氏ぐらいではなかったか。後悔先に立たたずとはいうが。

島君の近況

広島地方の酒造メーカーの御曹司であった1981年度生の島靖英君と

京都駅で20年ぶりくらいに再会しました。

貴重なる鉄道情報源の当会BBSで、個人の近況を載せるのは

いかがなものかという懸念はありますが、1980年前後の会員には

大変知りたい情報かと思い報告いたします。

会員連絡用の第2掲示板のようなものがあればいいのですが、

今の段階では無いので、2週間くらい載せてこの記事は削除しようかと

考えております。コメントがあれば欲しい気持ちもあります。

彼も48になり、営業担当責任者という職責は重いですが、大学ゼミの

交流会に出て来る程度の時間がとれるようになったので、私はOB会

行事への今後のふるっての参加を勧めました。

なお、「関西で白牡丹は飲めないのか」という私の質問に対し

「阪急オアシスに1銘柄だけ置いてもらっている」そうです。

早速池田駅のお店で買い求めたのがこれ。

「さらりとうまくち」720mlで750円くらいでした。

紙パックのトップには「うまさがちがう白牡丹」のコピーが。

この文面について1982年度生の諸君、解説(怪説)と感想を

述べよ。

電車は1両もええ 続編

 今回は国鉄・JR編である。本来ならこのあたりは小生の出る幕ではないが、長谷寺撮影でふともらされた電車少年さんの言葉から続編までに至った。学生時代は京都~西明石間各停やゲテモノの宝庫阪和線、片町線など旧型国電には恵まれた環境にあった。ところが、DRFC名物阪急・京阪戦に巻き込まれて私鉄に手を出し、その頃蒸機も無くなりつつあったので、結局、国電は殆んど撮っておらず、ましてや単行はない。

 旧型国電単行で最も有名であった宇部線の支線で活躍したクモハ42は遠すぎて行かず、鶴見線支線大川線のクモハ12はいつでも行けると思って撮影をのがす始末。どなたか、補足してもらいたいが、例によって拙写をのっける。

 

 唯一撮った旧型国電単行クモハ40071

 これは、当時の国鉄中央線支線で国分寺から北府中を通り、東京競馬場との間を往復していたクモハ40001。

1973.03.17 北府中~東京競馬場前 競馬場行きクモハ40071西ムコ

 

 JR四国7000

 学生当時、四国はディーゼル王国で私鉄を除いて電車など走るとは夢にも思わなかった。しかし、本線を単行が走ると何となく寂しい。

1998.05.03 予讃本線川之江~箕浦 伊予西条発観音寺行き1124M

 

 JR東海飯田線と身延線

 線名を聞くとかつての旧型国電の活躍舞台であり、各自思い出多き路線であるが、時代が変わって豊川~豊橋の区間電車は味気ない単行電車になっていた。身延線西富士宮~富士間の区間用は引退して今は見られない。

2005.04.09 下地~小酒井 クモハ119-5104 海カキ 438M

2007.02.25 入山瀬~竪堀 クモハ123ー602 静シス 西富士宮発富士行き

 

 JR東日本クモハ123-1

 中央線の塩尻~辰野間で今尚活躍する荷電改造車。1枚は有名撮影地で、かつてのD51の活躍舞台。言い訳になるが、夕方の塩尻発で写りが悪いので駅で撮影をもう1枚。

2007.09.16 塩尻~小野 165M 辰野行き クモハ123-1 長モト

2009.03.15 辰野 156M折り返し159M 雲は123-1 クモニ143を改造

 

 ビックリする様な意外性のある写真は皆無であるが、まだ、JRには単行電車があるはずである。どなたか発表して下され。尚、慣れない作業で飯田線の「小坂井」が「小酒井」に、最後の辰野駅の電車の「クモハ」が「雲は」と間違っており、訂正の仕方がわからずお許し願いたい。

新潟交通モハ11(「電車は1両もええ」によせて)

準特急様が「電車は1両もええ」のタイトルで貴重な画像とともに書き込みされておられるが、能勢電、阪神武庫川線は非常に懐かしく思った。昭和40年台前半の能勢電といえば、直接制御2個モーターの路面電車に毛が生えたような電車の単行か、P-4・P-5一族の2連がポールを振りかざして走っており、梅田直通特急が走る今日の姿からは想像もできない世界である。

京王競馬場線の単行の画像を見るのは初めてで、当時関東大手私鉄での単行運転は唯一のものではないだろうか。

私自身の単行の思い出は、京阪沿線の学校に通学していた頃に乗車した近鉄京都線から京阪に乗り入れていたモ430形で、近鉄線内では単行でも充分であったのだろうが、丹波橋から先の京阪線内では、土曜日の午後ともなると通学生や四条方面への買い物客で超満員となり、迷惑乗入れ以外の何者でもないと思った。

「廃止寸前のローカル私鉄」として蒲原鉄道モハ71と新潟交通モハ11を紹介されておられるが、幸いなことに両車とも廃止後も大切に保存されている。蒲原鉄道モハ71は個人の方が元国鉄キハ41120のクハ10と共に村松駅近くの敷地に屋根付きで保存、新潟交通モハ11はモワ51、ラッセル車キ116と共に新潟市(保存当初は月潟村であったが合併により新潟市となった)により旧月潟駅構内に保存されている。屋根は付いていないが、冬季はブルーシートが掛けられ「かぼちゃ電車保存会」の皆様により定期的にメンテナンスが実施されており、良好な状態が保たれている。駅構内には架線が張られており、運転士が来てノッチを入れれば今にも動き出しそうな雰囲気である。車内には資料等が保存されているが、年に1~2回開催される一般公開時以外は立入できない。

今回は保存状況と過去の姿を報告したい。

 

モハ11+モワ51+キ116の3両が連結された状態で保存されており、欲を言えばモハ11とモワ51の間の連結器を切離し、間隔を空けて停めて欲しいところであるが、それは贅沢というもの。定期的にメンテナンスが実施されながら大切に保存されているだけでも感謝しなければならない。

以下、保存車両について簡単に解説する。

モハ11

営業開始に伴い昭和8年3月日本車輛で11~14の4両が新製され、昭和10年に15が増備された。13m級の小型車両であったが、昭和38年から44年にかけて現在の17m級の大型車体に乗せ換えられた。11は昭和41年12月、12は43年12月、13は42年12月(モハ20形21に形式変更)、14は38年12月、15は昭和44年12月(新造名義でモハ24形25に形式変更)に実施されている。

 

モハ11+クハ40 (昭和43年8月30日) 県庁前

【参考】クハ40

気になる後部のクハ40は、元東武のデハ2形9(大正14年日本車輌製)が前身である。昭和23年5月東武鉄道よりモハ63形割当による供出車として転入しモハ18となった。昭和42年に電装解除してクハ40となり、更に昭和45年に元小田急デハ1411の車体と乗せ換えてクハ50となった。

車体乗せ換え前のモハ11の良い写真がないので同形のモハ12で代用する。

 

モハ12+クハ33 (昭和43年8月30日) 燕

【参考】クハ33

後部のクハ33は、元神中鉄道のキハ31(昭和11年日本車輌製)が前身で昭和18年に転入した。昭和39年頃、台車を気動車用アーチバー台車から電車用のTR23類似台車に履き替えた。(当時のRF誌に台車取替えの記事が掲載されていたので、お持ちの方はご確認いただきたい)

 

モワ51

開業時、昭和8年に日本車輌で作られた電動貨車で、昭和57年7月貨物営業を廃止するまでは、冬季のラッセル車の推進の他に機関車代用として貨車を牽引していた。

(昭和43年8月30日) 東関屋

キ116

昭和7年大宮工場製で昭和43年に入線した。運転台にはマスコンが取り付けられ、モワ51と連結した時に制御車として機能するようになっていたので正しくは「クキ」と称するべきであろう。   

本来であれば全部の車両ガイドをするべき処であるが、今回は時間の関係上ここまでにして、続きは後日ということにさせていただきたい。

【参考】当時新潟市内でよく見られたキャブオーバーのバス

(昭和43年8月30日) 県庁前

御免なさい【8833】の訂正

モ161号乗車希望の方、浜寺駅前集合時間は14時55分です。ボケがまわった老人は1時間間違えました。7月3日14時55分に老人は阪堺線乗り場でお待ちしております。乗車希望者多数の場合、尻押し役務める所存です。南海本線の高架工事が始まると、船尾ー浜寺駅前間が運休になりバス代替になると言われている事が気になります。路線廃止になっては大変!そんな思いもあり、浜寺に出向きます。懇親会では、堺市内における「チン電」の命運が話題になると思います。かって正月の「住吉例会」を提唱したものとして、「阪堺のチン電」から目が離されません。

佐世保鉄道→松浦線

#8780拙稿「ケコハ482」に関し、田野城喬氏からお尋ねがあった。佐世保軽便鉄道→佐世保鉄道→松浦線の経緯はややこしいが、詳細は臼井茂信「国鉄狭軌軽便線20~23」鉄道ファン285~293号をご覧戴きたい。一口に言えば1923年3月27日相浦-柚木間開業を皮切りに、1933年10月24日佐々-世知原間の岡本彦馬個人経営専用鉄道(13.4km)も併合した、軌間762mm、全長36.04kmの蒸気鉄道である。


佐世保鉄道時代 1935年2月5日東京日日新聞社発行全国鉄道図 佐世保から志佐の間が未成線表示になっている

九州鉄道が開業した佐世保線が佐世保に達したのは1898年だが、国鉄になっても、佐世保鉄道上佐世保とは相当の高低差があって接続していなかった。買収は1936年10月1日と早いのは、松浦炭坑の石炭輸送が主因だが、隘路の積み替え改善・戦時体制のため、762mm軌間は1943年以降1067mmに改軌が強行され、1945年2月24日完了。しかも佐世保市内の商店街をまたいで強引も強引な手法で佐世保に直結したのである。戦時中なればこそで、現在の松浦鉄道に乗車すれば体感する。


買収で国鉄松浦線に 1939年10月1日旅行案内社発行 佐世保や松浦線が赤点線で囲まれているのは要塞地帯であることを示し この中では撮影やスケッチは勿論 写真掲載すら特別許可が必要であった

改軌前の松浦線 1941年2月1日現在鉄道線路図(鉄道省運輸局)

すなわち国鉄軽便線であったのは、買収以来改軌完了までの10年未満だが、この間頭にケを付した軽便蒸機、客車、貨車が多数活躍したのである。因みに1935年度での佐世保鉄道車両数は、蒸機21両(運転整備重量合計257トン)、客車24両(定員合計1,158人)、有蓋貨車4両(積載重量合計16トン)、無蓋貨車263両(1,224トン)で、石炭輸送が主力であったことが分かる。

改軌で役目を失った車両は蒸機は若干が日本鉱業、赤穂鉄道に再起し、客貨車もいくらかが各地に散った。戦時中から工事を進め、開業が敗戦後になった日本鉱業(佐賀関鉄道)の車両は、大方が旧佐世保鉄道→松浦軽便線からの転進だったし、栗原鉄道、九十九里鉄道、藤相鉄道、中遠鉄道、浜松鉄道などにも客貨車が再起している。

阪堺モ161、誰でも乗れる貸切電車

東にEXILEなる知らない名前の電車が王道を走ったそうだが、西では来る7月3日(土)午後「阪堺のチン電」の名で親しまれている古典車を、路面電車同好会関西支部代表と庶務担当のコンビが借上げ、次の行程で走らせる。

出庫(我孫子道)14時30分頃。回送で浜寺駅前着15時頃。折り返し・貸切運転15時5分頃発車。我孫子道15時30分頃到着。車庫内で休憩。(写真撮影可能)我孫子道発車16時9分頃。貸切運転で天王寺駅に16時30分頃到着。折り返し、回送で16時37分頃発車。我孫子道17時頃生還予定。貸切運転は浜寺駅前→天王寺駅前間です。したがって乗車希望者は浜寺駅前で15時55分までに集合願います。乗車と共に貸切電車運転御奉賛代として一人2,000円を頂戴いたします。解散は天王寺駅前ですが、打ち上げ懇親会を17時30分頃から行います。会場は路面電車同好会関西支部ご用達の店である「大よし」です。場所は阪堺線今宮駅から北の歩道を東へ徒歩3分。パチンコ屋の地下の大料亭です。

関西には昭和3年製の吊り掛け駆動の電車がまだ残っています。161号はこのほど重要部検査が終わり台車も塗装替えされました。本来、エアコンのない161号は夏季には運転されませんが、窓を開け「緑の風」を浴びよう!」と貸し出しに成功しました。乗車ご希望の方は浜寺公園までお越し下さい。問い合わせは乙訓の老人まで御願いします。

イベント列車”EXILE山手線”

今日、5月27日日曜日、縁あって、イベント列車”EXILE山手線”なるものに乗車してまいりました。

大崎駅14時42分発、大崎着14時42分着の内回り山手線でしたが、集合受付は、13時過ぎ、既に大崎駅周辺には、EXILEファンが集結です。

EXILEのラッピングされた231系が大崎駅2番線に据え付けられ乗車。車内吊りをはじめとした、広告もEXILE一色です。

車内は、EXILEファンの女性(95%ぐらい女性でした。)。

みんな受付で渡された青色の法被姿です。

南アフリカで開催中のサッカーのサポーターにも負けないくらいの熱気です。

途中、徐行運転や池袋で停車したものの一時間で山手線を一周してまいりました。

池袋では、間違って、乗車できるものと思い、扉近くまで、来られる方もいらっしゃいました。

通過駅は、逆に加速して通過した駅もあり、不思議な一時間でした。

大役を終えた231系。大崎駅で回送を待ちます。表示は、団体のままです。

回送される231系。EXILEの全国ツアーの成功をお祈りします。

東野つながり

 

 藤本先生から東野鉄道の紹介がありました。その中で津軽鉄道から来たDC20に触れられ、模型化されているとの記述があります。どうした訳か当工房にその製品がありますので写真をご覧に入れます。この製品はエコーモデルから「津軽/東野 DC20型」と言うタイトルで発売された1/80 16.5mmゲージのバラキットです。10年近く前に組み立ててそのままになっていました。
 10.5mmダイキャスト輪心の動輪には床板に縦置きしたモーター軸からウオームギヤーで第2動輪に減速伝導した後第1第3動輪にはサイドロッドで伝導する方式です。タンク機関車同様、苦労する絶縁側の集電は3軸とも行われており、滑らかな走行に寄与しています。
 今回犬伏氏からキハ20完成の報があり、DC20の資料までお送りいただきました。その中で悩んでいた塗色についてDC201が津軽時代の明るい灰色のままだったと書かれているのでこれを採用することにし、梅雨明けを待って取りかかる予定です。

東野鉄道キハ20の模型によせて

DRFC関東連絡網で犬伏氏が東野鉄道キハ20の模型を披露されたが、実物の資料が少ない中で、よく完成されたと思う。

東野鉄道は大正7年4月17日西那須野~黒羽間13.1キロを開業し、大正13年12月6日黒羽~那須小川間11.3キロを開業、更には水郡線の常陸大子まで延長する計画であったが、この区間は当初から乗客が少なく昭和14年6月1日に早々と廃止された。昭和43年12月6日西那須野~黒羽間を廃止し、社名を「東野交通」に改めた。宇都宮市と周辺地域を結ぶ路線を主体に、黒磯駅・那須塩原駅と那須温泉等を結ぶバス路線を運行しているが、ご多分に洩れずマイカーの増加により廃止された路線も多い。鉄道を利用すると大幅に迂回となる宇都宮~真岡・宇都宮~益子間と観光地を走る黒磯~那須温泉・那須岳ロープウェイ、黒磯~板室温泉等は比較的乗客が多いが、かつて頻繁に運行されていた宇都宮~烏山間、宇都宮~大田原間は廃止されている。鉄道の代替路線とも言うべき西那須野~黒羽間は1日7往復運行されている。また、那須山麓駅と那須頂上駅間を結ぶ全長812mのロープウェイを経営している。那須山麓駅は那須岳(茶臼岳)の7合目で、バスはここまで上がってくる。那須山頂駅は9合目に位置し、標高1915mの頂上までは足場の悪い登山道を1時間弱登らなければならない。山頂付近では今も盛んに蒸気と火山ガスが上がっており、活火山の様子を目の当たりに実感できるので、訪れる機会があれば是非山頂まで足を運んでいただきたい。

東野鉄道は現役時代昭和42年3月25日に1度だけ訪れており、その時撮影した画像をお目にかけたい。犬伏氏が製作されたキハ20はエンジンを降ろしてトレーラー化されハ31となっていた。東京に来てからは5度ばかり廃線跡を訪ねている。かつての黒羽駅舎はバスの事務所として使用され、室内には鉄道時代の写真が何枚か飾られていたが、今は取り壊されてスーパーマーケットが建てられている。

DC202

昭和36年5月津軽鉄道から譲り受けた昭和27年4月新潟鉄工所製の箱型機関車である。割に有名な機関車で模型での製品化もされている。僚機のDC201も昭和39年に東野入りし、2両が交替で貨物列車を牽引していた。

 

キハ501

昭和11年新潟鉄工所製で、ご覧のようにキハ41000形にキハ42000形の顔を取り付けたスタイルをしており、こちらも割合有名な車両である。JR五日市線の前身五日市鉄道キハ500形キハ501として誕生した車両である。五日市鉄道は昭和15年10月3日JR南武線の前身南武鉄道と合併、昭和19年4月1日戦時買収で国有化され、鉄道省五日市線となったが、所有者が代わっても改番されることなく一環してキハ501を名乗った。昭和24年9月に廃車後、東野鉄道に売却され、鉄道廃止まで活躍した。

 

五日市鉄道キハ500形のもう1両のキハ502は、昭和22年1月に廃車されたが、茨城交通に売却され、茨城線(赤塚~御前山間)で使用され、昭和46年2月11日同線の廃止により廃車となった。こちらは茨城交通売却後、称号が「キハ」が「ケハ」(ケは軽油の意味)となったが車号は一環して502を名乗っていた。

【参考】茨城交通茨城線ケハ502 上水戸(昭和45年3月14日)

 

キハ502

元国鉄キハ41008が前身、昭和8年日本車輛製。昭和24年9月国鉄時代に房総東線(現外房線)勝浦での事故による廃車後入線した。廃止後茨城交通に売却され、ケハ46となったが、昭和46年にエンジンを降ろしてハフ46となり、昭和55年に廃車となった。

【参考】茨城交通湊線ケハ46 那珂湊(昭和45年3月14日)

 

キハ503

元国鉄キハ048が前身、昭和8年新潟鐵工所製。キハ41020→キハ41202→キハ41302→キハ048と改番、昭和33年2月10日桐生区で廃車後入線した。

 

ハ30

元常総鉄道キハ13が前身、昭和5年日本車輛製で車体は極めて頑丈に作られていた。小さすぎて使い物にならなかったためか、早くも4年後に廃車となり東野鉄道に入線した。昭和23年にエンジンを下ろして客車化されハ30となった。

 

ハ31

犬伏氏が作られたキハ20の客車化後の姿である。昭和11年日本車輛でキハ20として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ31となった。

 

ハ32・33

昭和4年日本車輛でキハ10・11として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ32・ハ33となった。

 

今も残る大田原~中田原間のトンネル(平成3年12月1日)

 

黒羽駅跡に駐車中の鉄道代替バス 元神奈中(平成3年12月1日)