江若鉄道高島町駅のお披露目

実際にはない日通事務所

実際にはない日通事務所

下り客車列車到着
下り客車列車到着
タクシー営楦??
タクシー営業所
観光案内図(創作)
観光案内図(創作)
実際にはない保線小屋
実際にはない保線小屋
ホーム側から改朥??を
ホーム側から改札口を
ユニトラックとの接続部分
ユニトラックとの接続部分
踏切と腕木信号機
踏切と腕木信号機
駅名標
駅名標
ポイントマシン
ポイントマシン
コントャ??ルボックス2
コントロールボックス2
コントャ??ルボックス1
コントロールボックス1
上り方向から
上り方向から
上り列車到着2
上り列車到着2
上り列車到着1
上り列車到着1
貨物上屋2
貨物上屋2
貨物上屋1
貨物上屋1
下り列車発車2
下り列車発車2
下り列車発車1
下り列車発車1
下り方面2
下り方面2
下り方面1
下り方面1

 

オハ27 2オハ27 1

下りホーム2下りホーム1

駅棩??2駅棩??1
こつこつと工事を進めておりました高島町駅の復元工事がようやく終了し、開業式を済ませました。皆様からいろいろな情報を頂き、なんとか晩年の姿を再現できました。拙作ながら ご紹介致します。このレイアウトセクションは 自宅内の固定レイアウトではなく 広い会場での運転会をイメージした組立式レイアウトとして基本設計しました。主なブロック3ブロックと 上り、下り両方向に引き上げ用の単線部分(本線)2ブロックから構成されています。全長4.78mあり 息子たちが使っていた空き部屋をフルに使っています。ポイントはシノハラの#6番としました(実物は#8番らしい)。かつてDRFCのレイアウトをみんなでワイワイ作ったときのことを思い出しながら、木工の日々が続きました。この時点からポイントマシンをどうしようかと考えつつも、結論が出ないままフレキレールをスパイクする段階に入ったのですが、ポイントマシンの設計で工事が中断しました。広島県の片田舎では材料調達が思うに任せず、通販のお世話になりながらポイントマシン自製の目処がつき、テストを経て9つのポイントマシンを作りました。タカハ機工という会社が作っている直流電源で作動する自己保持型ソレノイドを採用しました。このソレノイドは自販機やOA機器などの中で小さな動きを作るのに使われているようで、一方向はバネ力で反発力を作り、反対方向は電磁石と永久磁石の力で直動するものです。今回は5Vで駆動させています。ここでバネ力をどうするかという問題で悩んだあげく、どこにでもある3色ボールペンに組み込まれているコイルバネが丁度良い大きさとバネ力があり、品質も揃っていて 何より使い古したボールペンを分解すればタダ同然ですぐに手に入ることに気づき、一気に工事が進みました。バラストや土の地面を作る材料は東京のモーリン製のものを通販で購入して これまた気長にバラストをレール内にまいて、木工用ボンドの水溶液をスポイトで垂らして固めるという方法でかなり実感的に仕上げることができました。駅舎やその他の建物はペーパー車体を作る要領で作りましたが、写真からの寸法割り出しのためあとになっておかしな部分がでてきました。駅本屋とホームの待合室、貨物上屋だけでは殺風景なため、ヒルマモデルクラフト製の便所、保線小屋、倉庫、タクシー営業所、日通事務所を適当に配置しました。従ってこれらは実物どおりではありません。ベンチや駅名票などの小物はエコーモデル製を多用。今津側にはこれも実物にはなかった踏切を作りました。警報機を点滅させようと、レイジージャック製の警報機キットと腕木信号機キットを買ったものの、実物に忠実すぎて還暦を迎える身には細かすぎてハンダ付けもままならずついに放棄(1万円のムダな出費となった)。結局津川洋行のプラ製の安い警報機、腕木信号機を使いました。腕木信号機は固定式ですが、改造し腕が上下するようにはしましたが、これも電動させてやろうと思いながら 上記のソレノイドを使った動力化だけが残工事となっています。あとは制御盤ですが、これも日曜大工の延長線上で一気に作りました。走行電源は12V、ポイントマシンは5Vと2電源方式ですが 両方の電圧、電流をそれぞれ1つの電圧計、電流計で表示させるために切り替えスイッチを設けています。ボックスの中にはちょっとした道工具やリレーラーなどを収納できる収納スペースと現場でもハンダ付けできるよう100Vのサービス電源を装備しています。運転会を想定してと書きましたが、本線部分を延長しないと単なる駅のレイアウトセクションなので ループ線などにするためにカトーのユニトラックとの接続部分を増設しました。この部分は33パーミルの勾配になりました。これで広い会場でユニトラックとつないで運転会ができます。建屋などの実物の色がわからず、適当に彩色しました。当時はモノクロが普通の時代だったのでこれもやむをえません。実物しゃしんとの対比で写真を添付しますのでご笑覧ください。次は白鬚駅の再現に取り組もうと情報収集と基本設計にかかっています。いずれの日にか 関西方面、できれば高島市で運転会を開きたいと思っています(マイカーに積み込める大きさに設計してありますので)。一方で車両の製作がSTOPしていますのでこちらも進めなくては・・・・。今後ともよろしくお願いします。

中国鉄路 第3の新幹線、鄭西高速鉄道開業!

春節(旧正月)が近づいた昨日、2010年2月6日、中国鐡路では、昨年末に開業した『武広線』に続いて、第3番目の中版新幹線となる、『鄭西高速鉄道』が、開業しました。

京九線の鄭州から、秦の始皇帝で有名な西安間、505kmを、最高運転速度350km/hで、最短1時間58分、表定速度256.8km/hで結びます。在来線の特快では、最短所要時間5時間56分かかっていたので、約4時間の短縮が図られています。途中の停車站は、最多列車で7駅があります。

使用される車両は、『はやて型』のCRH2-300で、運行本数は、当初7往復となっています。
運賃は、1等390元=約5.500円、2等240元=約3400円、日本と比べると、安いですね。

山岳地帯を走行するため、トンネルは38本が掘削され、総延長は、78.2kmと、全線の15.5%を占めています。軟弱な黄土地層、地震の多い地帯もあり、工事は難航を極めたが、世界最高技術を駆使して、完成できたと、現地では、報道されています。

上海万博を5月に控え、益々急ピッチで、高速鉄道が開通する中国鉄路です。2012年には、総延長11万km路線となり、高速線は、13,000kmを占めて、日本の新幹線を軽く追い抜いていきます。

私は、春節の混雑が終わり次第に、武広線とあわせて、初乗車の旅に出ます。

カラフルDC-加太編(2)

l       加太会
 昭和3912月6日(日) 30年台も残すところあと25日の日に生まれました。メンバーは、N氏(経営者、現・デジタル青信号大阪特派員)、U氏(住職兼某女子大学理事)、I氏(元・某銀行員)、T氏(筆者)でした。『小海線を愛する会』に続く、DRFC公認部会の一つです。『小海線を愛する会』は高原列車の撮影合間に軍事教練が課題であると聞いたことがありますが、当会は純心な関西本線の列車撮影会でした。時には、呼びもしないのに勝手に来て大きな顔をしていたゲスト陣の参加もありました。ある時など、会員の数以上で、近くの小学校の校庭で朝礼台の前で整列し遊んでいました。
 活動は、2,3ケ月に1回程度、土曜日の夜、三重県鈴鹿郡(現・亀山市)加太板屋の、旅館村田屋に一泊し、翌日曜日に加太-柘植間で撮影です。旅館には、当時建設中の東名阪国道の関係者も宿泊していて賑やかでした。手でハンドルを廻し交換を呼び出す自動(・・・)電話(・・・)は『加太の1番』でした。
蒸機の煙と山間の新鮮な空気を吸った後、夕刻に列車で帰途に付く、そんな具合で、およそ45年は続いたでしょうか。いつしか自然消滅でした。
 加太の作品については、散発的な写真発表や、活動報告はあるものの、これまでに主だった報告はあまりなし得ていないようです。また、何十年ぶりかの撮影会なども行っていません。
 ところが最近、鉄道ファンでJTSのメンバーの村田屋の親戚の方が、乙訓の老人と話され、元村田屋のご主人をも呼んでスライド映写会等どうかとの話が持ち上がって来ました。本年中にも開催したくメンバーに連絡を取ろうと考えています。

8. 4D特急「あすか」です。当掲示板にも藤本さんが詳しく説明されていたし、いまさら説明の必要もないと思います。伊賀上野から亀山まで柘植にも止まらず、山を下ります。

  
9.この撮影の前日(1966.3.5)に他の全ての準急と共に格上げされたばかりの212D急行「かすが1号」。いつもの編成に後部2両はキハ35併結です。これも客扱いはしていないのでしょうか。時刻改正時期の回送でしょうか。  
10.328D、梅雨も近い522日、この日は朝から雨でした。横着にも外へ出ずに村田屋の2階から撮影です。手前に電線が沢山ありますが、雨天で目立ちません。過去に同じ場所から、C57補機の貨物を撮ったことがあります。その時には電線がはっきりとしており、消去したことがあります。先頭車は、キハユニ15ですか? どなたか形式を教えてください。

 

11.加太駅に到着の2216D急行「はやたま」。駅員は雨具着用です。先頭からキハ55、キハ58、キロ28、後部は58系で交換の為停車します。

 12.左はキハ55213D急行「かすが2号」、加太には停車しません。右が先の「はやたま」キハ58 

 13.時は秋、稲穂は黄金色、ところどころに彼岸花が残っていました。335Dキハ354連です。この日は雨雲が低く垂れ込めていました。 

 14.ようやく雨があがり始めた頃、墨絵のような山をバックに「あすか」が下って行きます。天気の悪い日でもDCは見栄えがします。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15.村田屋付近を通過する2216D急行「はやたま」。右に加太の木造小学校が写っています。村田屋に続く民家の屋根も見えます。

次回は、加太トンネルの山上から見た、中在家信号所のDC同士の交換風景などです。

ゴーニ求めて大糸線へ (2)

新潟地方では記録的な大雪に見舞われているようだ。JR西日本の運行情報では、本日、大糸線は大雪のため全列車運休とのことだった。数日前には、ラッセルも走ったらしい。
さて、頚城大野、小滝で撮ったあと、ぶんしゅうさんの運転する車は、平岩へ向かった。こんどは、時間に余裕を持って第7下姫川鉄橋そばにスタンバイ、糸魚川行きを迎え撃った。

カーブした第7下姫川鉄橋を渡るキハ52。朱とクリームの国鉄色は、ことさら雪景色の中ではよく映える

大糸線は、平成7年7月の豪雨で姫川が氾濫し大きな被害を受けた。中でも平岩付近は、鉄橋流失、路盤崩壊、レール宙吊りと甚大な被害を受けた。一時はそのまま大糸線非電化区間の廃止も噂されたが、JR西日本は重い腰を上げ、ようやく2年余り後に全線復旧を迎えた。雪で覆われているので、その傷跡も癒えたように見えるが、この地方の地形・地質の険しさを思わずには入られない。

昔日の平岩駅
40年前の”帰りがけの駄賃”で、よく訪れたのが平岩だった。その当時、まだ撮影地の情報は十分にはなく、たまたま車内から見ていて、鉄橋が近く、写し易いと判断したからだった。
大学の春休みに訪れた時は、バックの山が残雪に輝き、雪解け水を集めた姫川は滔々と流れていた。北海道の帰りに寄った身には、春の訪れをはっきり感じたものだった。ただ、ポカポカ陽気は、夜行の疲れもあいまって、たちまち睡魔に襲われ、河原で列車を待つ間、ウトウト寝てしまっていた。
駅は、近隣のスキー場や温泉へ向かう客で、この区間ではいちばんにぎわっていた印象だった。現在のように、写真を撮る人間以外にほとんど人が見られないとは随分違っていた。

現在、糸魚川~南小谷間での交換は根知のみだが、当時は平岩も交換駅だった。交換するお互いの列車も長い編成で、無蓋車が並んだ貨物ホームも見られた(昭和45年8月)。

第7下姫川鉄橋を渡るキハ5243+5241+55213の編成。カラーとは逆の位置だ。その後の水害ではこの付近の被害が最も激しく、地形が変わってしまった。右手の対岸に並ぶ旅館街もすべて流されてしまった(昭和46年3月)。

スキー客でにぎわう平岩駅前。黒い長グツ姿は、その当時のスキーの標準的なスタイルだった。

現在の平岩駅。積雪は約1m、駅舎は変わっていない。「平岩駅」の木彫の看板もそのままのようだ。

2009年~2010年  芭石鉄道 冬編 反省とご案内

今回は、相棒の都合もあって、出発・帰国日がガチガチの8泊9日の、芭石鉄道への初めての旅でした。そのため、成都到着後は、インターネットで調べた、下記の旅行社ツアーを利用しました。
http://www.tf-travel.com/guanguang/tds.html
日本からのツアーもありますが、個人で手配するのに比べると、中身が濃い代わりに、融通性がなく、料金もそれなりになります。しかし、中国語が全く話せないとなると、一人で行くのは、かなり難しくなります。

それでも、電子辞書を片手に、行ってやろうとされる方々へ、私の反省をこめて、ご案内させていただきます。
と、思っていて、買い物に行ったら、本屋で『地球の○○方・’09-’10、成都・・・』に訪問方法が掲載されていて、びっくりしました。もうすっかり、メジャーなんですね。買って読んでみましたが、現状とは違っているところもありますので、最新版をまとめます。
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山科電化当時の記憶(その2)

山科大築堤での直線部分ポール建植/ビーム取り付けが終わり、次いでカーブ部分が着手された。前者のポールは先端がやや細くなったものだが、カーブ部分は根本から先端まで全部同じ太さのズングリである。


中央腰にカバンを下げているのが責任者 右側制服姿は立会いの保線区員

東山隧道東口付近でポールを下ろす作業を撮影していて、若い監督と仲良くなった。恐らくは大卒の電気技術者であろう。腰に下げたカバンには、非常時用の雷管や発火信号が入っている由。無線機もない時代だから、もし作業中に本線運行に支障するような事態が発生すれば、赤旗かレールに仕掛ける雷管信号(列車が踏むと火と煙が出て非常事態を告げる。相当に走って前方に仕掛けないと効果がない)、それに発煙信号しかないのである。

山科-京都間5.5kmには途中に亘り線などないから、山科からポールを運んできたトロリーは、荷を降ろすとまた山科に戻らねばならない。その帰りのトロに乗せて貰った。車輪径が小さく、床が極めて低いからバラスをかすめて這うようで、速度は40~45km/hぐらいかと思うが、何とも迫力充分で、そのスピード感は小生の乏しい表現能力を超える。安全ベルトの類は一切なく、何かに掴まっているだけだから、放り出されたら「一巻の終わり」は間違いない。流石に天下の東海道線だから50kレールだが、スプリングはいいとは言えず、結構突き上げショックや縦横斜めの「全方位」振動があり、余計迫力を増す。

運行休止中の中央線(上り右側線)を走ったのだが、途中D51745牽引の976レを後ろから一気に追い抜いた。1/50ぐらいでシャッターを切ればまさしく迫力満点の列車写真が撮れるのだが、何分ともトロリーの振動が激しく、1/250にせざるを得ず、余り地面も流れていない。それでもブレているのはトロリーの振動である。画面をクリック拡大してご覧あれ。撮影は1956年1月24日。


976レを追い抜いたトロリー列車

その翌日だったか、翌々日だったか、朝刊雑報を見て絶句した。大築堤上で電化工事関連輸送中のトロリー列車が脱線転覆し、何人かが殉職。その中にあの若い技術者もいた。原因はスピードの出しすぎとあった。


直線部分には既にポールが建ちビームも取付済 京津線は200型

穴にポールを吊り下げてソロリソロリと入れ 土を埋め戻し踏み固める 全て手作業

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part11 成都→北京→帰国

晴れて、自由人となって、1年を辺境の地で迎えましたが、自由気ままにあちこちに行けるには、日常の義務と責任、早く言えば、家族への気配りが必至です。そのため、介護、炊事、買い物、孫の迎え等々は、欠かせません。
家事が重なり、投稿が中断しました。これも、次回の旅への試練と思えば、苦労も楽しみとなります。

第7・8・9日目 2010年1月4日、5、6日

①成都11:40-(T8)→13:28北京西-(Taxi)→京倫飯店
②京倫飯店→国貿站-(地鉄)→北京空港
③北京空港14:00→関西空港-(JR)→帰宅

今日は、T8乗車まで、充分な時間があります。旅行社の胡小姐の案内のもと、成都市内を見学後、成都站で乗車を待ちました。北京西站まで、往路と同じく、約26時間の夜行寝台列車の旅です。

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乙訓の薫風・ロミオ君がサヨナラ運転へ

昨秋から桂駅で乗降するルートで通勤、朝夕は車庫光景を観察している。正月輸送を終え、6300系8連最終(00イヤ50)編成が僚友54編成と共に、解体前提の留置線に安置されているのを見るにつけ、寂しい思いでいた。30日朝いない。夕も。可哀そうにと思っていたら2日朝、元気な姿を見せていた。係員に「どうしたの?」と尋ねたら、「検査のため外れていました」との答え。そこで「サヨナラ運転やるの?」と追い打ち。「やりますよ、そのうち発表します。当日は警備が大変です。」松尾で大市交車の試運転を見た時、特配の社員が上下ホームに張り付いていた。6300系ともなると大変な騒ぎとなるだろう。

ファンクラブのメンバーによると2/20は撮影会(非組合員×)が予定されているそうだ。その後サヨナラ運転を月末まで、HMも取付予定。いずれ発表があると思う。その時は本欄で紹介しよう。関東勢のみなさん、親兄弟に顔見せに帰郷しませんか、クラブメイトも待っていますよ。西向日、長岡天神に案内役が待機しています。準特急君がデイ100系4連撮影場所、小畑川鉄橋上手(おっと今は下手)から左岸を上流に徒歩3分、老人の陋屋があります。餃子定食のある{大阪王将}へは徒歩7分です。ロミオ君に手を振って「バイバイ」やるメイトさん、お声掛けください!

ゴーニ求めて大糸線へ (1)

大糸線のキハ52がいよいよ消えるらしい。ぜひ行きたいと念願していたが、なかなか実行できなかった。糸魚川地域鉄道部のホームページを見ると、キハ52が3両とも稼動する日が何日かある。行きに青春18きっぷを使うことを考えると、おのずと日は限られる。もう行くしかない。幸い雪もたっぷりある。
こんなときに声を掛けてもらったのは、本掲示板でお馴染み、ぶんしゅうさん。近くに住んでいながら、なかなか一緒に行く機会に恵まれていなかったが、今回は、二人で北陸本線の撮影をしながらの糸魚川入りとなった。
2年上のK林さんも愛用されている糸魚川駅前のビジネスホテルに投宿、前夜は二人で久しぶりに一献交わして、翌日は午前5時に起床。前夜からキープしておいたレンタカーで出発。空には星がまたたき、晴天を約束してくれる。

始発列車は頚城大野の駅で迎えた。ようやく東の空が明るくなるころ、キハ52がDMH17のエンジン音を響かせて来た。なつかしい国鉄色が夜明けの雪原に映える。停車時間はわずか30秒、赤いテールライトをアクセントに、かじかむ手でシャッターを押し続けた。

つぎに来たのは、小滝駅だった。何気に二人でホームへ行ってみると、もう列車が着いているではないか。しまった、時刻を読み違えた。悔し紛れに発車した後追いを写すと、偶然にも、独立した雪山にだけに朝陽が当たっていた。地図を見ると明星山という1188mの山である。


昔日の大糸線
私にとって大糸線の非電化区間(糸魚川~南小谷)は40年ぶりの訪問だった。
学生時代、東北、北海道の帰途、夜行で糸魚川に着くと、大糸線内で貨物1本が撮れる。それを撮って、その日のうちに帰宅ができる。言わば、”帰りがけの駄賃”である。
信州均一周遊券でも回れたが、これを使うと本数の稼げる、小海線、飯山線へ行ってしまい、逆に大糸線へは足が遠のいた。
当時の大糸線非電化区間の運転本数は13往復あった。しかも写真で見るように長編成である。中には信濃大町まで乗り入れるDCもあった。これは、F本さんによると、クモニ83からキハユニ26へ郵便荷物の積み替えを同駅で行うためとのことである。そして、特筆すべきは、新宿から急行「アルプス」が糸魚川まで定期運転されていたことだ。現在の単行9往復とは、隔世の感がある。
貨物列車も通しの貨物がC56牽引で1往復、糸魚川~平岩間の区間貨物がC12牽引で1往復が設定されていた。C56は遠く離れた上諏訪機関区の所属で、信濃大町以北がC56牽引となった。上記の”帰りがけの駄賃”は、上りの通し貨物を狙うのだった。

姫川沿いを行くDC列車。キハユニ26+キハ52+キハ52+キハ20+キハ52の5連。乗っているキハ52はトップナンバー車だった。姫川の対岸に国道が見える。現在のようなほぼ全区間シェルターに覆われた国道と違い、まったく無防備な状態には驚かされる(昭和45年7月)。

山科電化前後の記憶(1)

「山科電化」とはいうが、当然東海道全線電化(完了)が正しい。しかし1945年12月から1960年まで、丸々15年間を山科で、それも例の半径600m大カーブに最も近い所に居住したファンとしては、やはり「山科電化」といいたくなる。すなわちこの小文は、東海道線の電化工事ではなく、山科地区の、それもほぼ大カーブ前後に限った「視野の極めて狭い」思い出に過ぎないことをお断りしておく。

東海道線の電化は敗戦後1949年2月1日沼津-静岡、同年5月20日浜松に伸び、7月には湘南電車こと80系が東京から静岡に、翌年2月浜松まで延長。1953年7月21日電化は名古屋に達し、11月には稲沢まで電機が足を伸ばした。1955年7月15日稲沢-米原間電化で関ヶ原の難所が消滅。最後まで残った米原-京都間=東海道線全線電化完了が1956年11月19日であった。これで山科大築堤から蒸機が駆逐された。


先ずはポールがしばし安定して線路脇で寝ていられる枕木小片の要所配布から始まった

線路脇で待機するコンクリートポール 1955年12月10日

山科地区での本格的な電化工事は1年近く前の1955年12月ごろから、それもトロリーが先ず枕木の小片を築堤上の何か所かに配置することから始まった。これはポールが犬走りで安定するための「枕」だった。次いでコンクリートポールが、直線部分に限って配布され、穴掘りが開始された。現在なら専用のドリルがあるが、当時のこととて100%手掘りであり、ただ余計な掘削を避けるため、垂直方向に掘った土を持ち上げ排出する道具(手動)が使われた程度である。


建植済のポールにビームを付ける作業 竹ハシゴと滑車 ロープが活用されているが全くの人海戦術ではある 1955年12月23日 手前は国道1号線鉄橋

ポールの建立もあっけないほど簡単で、長い丸太と滑車でポールを持ち上げ、穴に納め、土を埋め戻して足で踏み固める。垂直かどうかの検査も、垂鉛―というと聞こえがいいが、要は紐にぶら下げた錘を片手でかざし、2方向から目視し、ロープを引っぱって修正しおしまい。

なぜか直線部分のみ、ビーム取付も先行した。ご存知この区間は下り1線、上りは戦時中に1線増やした2線だが、その1線を休止。予め配布済のビームも線路脇に待機している。列車の合間に長い丸太を2方向からロープで支え、滑車で吊り上げ、線路と平行状態で一旦待機。列車が通過直後に90度回して両端をコンクリートポールに止める。なお架線作業は完全に電気屋(電力区)の分野だが、保線区も当然ながら立ち会って、列車の運行状態等にアドバイスしていた。この日は上り線の中央が休止。


京津線跨線橋での上り貨物。蛇足だが1954年8月30日のD52365ボイラー破裂事故はこのあたりで発生し、小生が自宅2階から目撃することになる。

カラフルDC-加太編(1)

  • カラフルなディーゼルカー(気動車、以下DCと表記)のこと

 蒸気機関車牽引の旅客や貨物列車の撮影によく出掛けました。それらの合間には、どの線区でも必ずカラフルなディーゼルカーが通過しました。蒸機列車と違い、バックを気にしなくてもよいし、なによりも周囲の風景によく溶け込んで見えました。それは当時の日本の風景の一つでした。でも我々は当時、貧乏学生か薄給な勤務初年兵であり、高価なカラーフィルムをふんだんに使えません。蒸機以外は撮影しないことにしていました。それでも時々気が向けば、通過する通勤通学や優等列車のDCにカラーフィルムを消費していました。
 そんなポジフィルムが、およそ300コマほど残っています。拙著HP『蒸気機関車山路を行く』のテーマから外れているので、アップもしていませんでしたが最近、ページ稼ぎに『カラフルDC』としてアップしました。幸いカラーの損傷が少ないので見ることはできますが、如何せんバカちょんカメラに中程度の撮影技術。お目にかける代物ではない物も多いのですが、ご辛抱ください。また、DCの形式説明などに誤りなどがあるかと思います。ご遠慮なくコメント欄等でご指摘ください。お願いします。

 まずは、加太会で撮影した関西線加太付近のDCからです。

1.加太会発足の日、320D湊町発亀山行き、キハ35が画面左へ25‰の坂を下ります 

 2.同日323D、昼前の亀山発湊町行き。キハ35とキハ20の混編成です。

3.明けて1965228日。206D準急「かすが1号」です。キハ55、キロハ25など。後部には、2両のキハ17が併結されています。まさか客扱いはしていないように思われます。翌日からのダイア改正に備え回送かもしれません。この日は、例の2442レ「鳥羽快速」の運転最終日でした。「かすが1号」の8分後に撮影地を通過しました。最終日の蒸機はC57148で、現在大阪の共永興業株式会社の本社ビル内に陳列されています。同社の本社ビル完成記念に整備陳列したものです。同時発行の「永遠に走れ!われらの蒸気機関車」と題した箱入りSPレコード付記念誌が手元にあります。
 一日の撮影終了後、関駅まで出て、文字通り最終の2441レで山陽本線兵庫まで乗車帰宅しました。19644月入社の初年兵は、毎朝兵庫から大阪まで、「鳥羽快速」で通勤し、時に帰りも同列車でした。11ヶ月間の客車通勤もこの日でおしまいでした。 

 4.中在家信号所の334D湊町発名古屋行き、5時間近くの運転です。画面奥の待避線で335Dと交換し、手前の待避線にバックで進入、再び方向転換して坂を下って行きました。

 5.DC列車は併結・分離が得意で、分岐駅の多い関西線にはそんな列車が沢山通過しました。 これもその一つ、準急「平安1、かすが1号、はまゆう」の奈良、白浜、京都行きです。キハ55、キロハ25などが見える10両編成です。

 6.同日332D、キハ35の4連です。農家は稲刈りです。刈取り機から粉塵が上っています。懐かしい日本の風景の一つです。

7.同様の334D、今度はキハ20との混成5連です。

 次回は、特急「あすか」や急行に格上げされた「かすが」、「はやたま」などをお目にかけます。

Re. ニュースから2題/西日本車体工業8月末日会社解散

..生さんが投稿された【6628】で、堺市が殆ど決まりかけていたLRTの導入を断念したことと、西日本車体工業が8月末日をもって会社解散のニュースを拝読した。

関東地方でも宇都宮市においてJR宇都宮駅東口~清原工業団地間にLRT導入の計画があり、昨年の選挙では知事、市長ともに推進派が勝利したが「税金の無駄使い」「そんなもん作って誰が乗るねん」という意見が根強くあるため、実現の可能性は微妙な情勢である。また、路線バスを運行している関東自動車も乗客を取られる立場から反対しており、中量輸送機関が必要であれば「連接バス」の方が良いという意見もある。確かに需要予測が極めて過大、かつ成人1人当たり1台以上マイカーを保有しているような土地柄、しかも工業団地への通勤者の9割以上がマイカー通勤といった現状では、反対派でなくても、導入に対して疑問を持たざるを得ない部分が多々ある。

堺市の場合は、幹線である南海本線・高野線と阪堺線・上町線の沿線を結ぶネットワークとしての機能を充分に果たせると思う。都電荒川線が好調な理由は、三ノ輪橋、町屋駅前、熊野前、王子駅前、新庚申塚、大塚駅前、東池袋4丁目、鬼子母神前の各停留所で幹線系の鉄道と接続しており、そのフィーダー輸送としての役割を果たしているためと、160円の運賃が適正と認識されているからであると思われる。東急世田谷線も同様のことが言えるであろう。

西日本車体工業(以下西工と略す)の8月末日会社解散のニュースはショックであった。ご承知の通り「西工」は「西鉄」の連結子会社で、平成4年に日産ディーゼル指定のボディー架装メーカーの指定を受けると、今までの西日本中心の販売から全国展開となり、関東地方でも、東京都営、横浜市営、京王バス、東急バス等で日常的に見られるようになった。

我々の世代で「西工」といえば、昭和41年2月にモデルチェンジした、H..生さんも書かれている「正面窓付近の逆『く』の字形のデザイン」(通称「かまぼこ形」)を思い出すが、それ以前の車体も全体的に丸味を帯びており、他社の車体とは一線を隔していた。余談になるが、某ミュージック劇場の宣伝カーに使われていた車体の前後共に丸味を帯びていたマイクロバスも「西工」製であった。

昭和53年10月のモデルチェンジは、基本構造は「かまぼこ形」を踏襲するも全面のプレスを変更して、逆『く』の字の角度が浅くなった。(通称「はんぺん形」)

昭和58年10月にフルモデルチェンジが行われ、車体がスケルトン構造となり、丸味がなくなった。以上が路線車の車体の大凡の変遷である。

スケルトン車体以前、モノコック車体時代のユーザーの東限は、近江鉄道辺りと思われているようであるが、実際はもっと東で、昭和28年に旭川市の「近藤バス」に納入実績ある。これは例外としても、近江鉄道に「かまぼこ形」が近江八幡、彦根、長浜の各営業所に配置され、彦根営業所の車両は名古屋近鉄バスと相互乗入れで彦根~大垣間、長浜営業所の車両は木ノ本~敦賀間で使用され、岐阜県、福井県まで足を伸ばしていた。「かまぼこ形」以前の「丸形」は仙台市交通局にまとまった両数が納入されている。また、群馬県の上信電鉄と群馬中央バスに納入されており、これらを初めて見た時には「何だ、これは」と思った。群馬中央バスは昭和61年頃まで生き残り、最後は競輪場の観客輸送に使用されていた。静岡鉄道に「かまぼこ形」がまとまった両数が納入され、東海道線安倍川鉄橋の前後で車窓からよく見られた。

関西では、ユーザーにより「好き嫌い」があったようで、京都市交通局や大阪市交通局、阪急バス等では好んで導入されていたが、京阪バスは「丸形」1両、「かまぼこ形」が4両納入されたのみである。京阪グループでは、江若交通に「かまぼこ形」が6両納入され、安曇川営業所に配置、若江本線にも使用され小浜まで足を伸ばしてした。福井の京福電鉄に「かまぼこ形」が1両いたが、自家用中古車を改造したものである。(京福電鉄のバス部門は子会社の「丸岡バス」に売却して、「丸岡バス」が「京福バス」に社名変更している)岩手県交通に「かまぼこ形」の自家用中古改造車が1両いた。

昭和60年頃まで、地元の京成電鉄バス、新京成電鉄バスに相当数の「かまぼこ形」が見られたが、京成自動車工業が西工のライセンス製造したものである。ところが「NSKボディー」の銘板を付けた車両もあり、実態を調べようと思っていたが廃車されてしまった。

スケルトン車体になってからは新車の他に、大阪市バスや阪急バス等の中古車が広範囲に存在するが、あまりバスの話をすると「この人何者」と思われるのでこの辺で止めておきたい。

会社解散により、正社員290名は、他の西鉄グループの会社に転籍されるであろうが、派遣社員、契約社員等の非正規雇用の人は現契約期間満了と同時に失職することになると思われる。また、下請業者まで含めると影響は計り知れない。今回の最大要因は「日産ディーゼル」と「三菱ふそう」の合弁会社設立により、バス車体の生産を「三菱ふそうバス製造(MFBM)」に集約するというバス業界の再編成によるものであるが、昭和21年10月以降65年に亘る歴史が消え去り、何年か後には「西工」で作られたバスそのものが姿を消してしまうことになると思うと、誠に寂しい限りである。

モノコック車体時代の印象に残っている車両を画像と共に紹介する。

丸形車体

 

京都市バスのツーマン車/40年式BR20(中書島のターンテーブル)

 

42年式BR20(北野線代替バス)

 

仙台市バス/39年式MR470(仙台駅前で初めて見た時、不思議な感じがした)

 

群馬中央バス/45年式RB120 初年度登録が年式となるため45年式となっているが、41年製のサンプルカーを購入したもの。丸形としては最末期の車両である。

 

宮崎交通/39年式RC100P 初期の冷房車で冷房機が天井に付いている。

かまぼこ形

 

かまぼこ形の初期車/44年式BA30(伏見線代替バス)

 

ワン・ツーマン兼用車/48年式BU04(中書島のターンテーブル)

 

定期観光バス/49年式MR470(形式からも判るようにエアサスではない)

 

改造冷房車/51年式RE100/市電錦林車庫廃止時の導入された低床車で、この1両のみ試験的に冷房改造した。

 

京福電鉄福井支社/43年式MR410(元自家用の送迎車に中扉を設置して路線車に改造した)

 

近江鉄道/44年式RE120

 

江若交通/46年式BU05

 

尼崎市バス/44年式RE100(かまぼこ形の初期車であるが、上下共にサッシ窓のため新しく見える)

 

京都交通の急行用車/47年式B805L(冷暖房・リクライニングシート付で、山陰線電化前、祇園~園部間を東舞鶴・天橋立系統と合わせて15分間隔で運行されていた。福知山、夜久野行もあり、ダイヤ通り走ると普通列車より早く、丹波と京都市内中心部を直結する交通機関として多くの人に利用されていた)

 

京成電鉄/上:43年式BA30・下:44年式BU10(西工のライセンス製造の京成車体工業製である。「西工」の銘板が付いていた車両もあったが、会社の諸元表は全車「京成車体工業」と記載されており、実体を調べ損ねた。転居当初、身近に「西工」が存在したことは心強かったが程なく姿を消してしまった。

はんぺん型

 

京都市交通局/54年式RE121

 

京都市交通局/57年式K-MP118K

 

熊本バス/56年式K-MP107K(熊本バスの前身は熊延鉄道である)

 

熊本電鉄/57年式K-MP118M

 

 

 

 

 

 

 

 

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part10 撮影最終日も『トホホ』

第6日目 2010年1月3日

① 犍為天波大酒店8:30-(チャーター車)→8:50石渓站9:32-(第2次)→10:01蜜蜂岩駅
② 蜜蜂岩站12:45-(バイク)→石渓站-(チャーター車)→13:20飯店14:00-(チャーター車)→18:50成都

今回、最後の撮影日です。いつものように、朝起きて窓の外を最初に見ますが、滞在で1番の濃霧です。日頃の行いを悔やみますが、こればかりは、どうしようもありません。今日は、撮影後石渓站から成都のホテルまで戻りますので、スーツケースをチャーター車に積み込んでの出発です。
8:50石渓站に到着後、ゆっくりと時間が取れたので、構内を散策できました。
▲ 遅れましたが、これが、切符売場と待合室です。でも、待合室に待つ人はいません。みんな、ホームでたむろしているのが、日常的です。 続きを読む

続・電車は4両がええ

元電車少年は電車の話となるといまでも眼の色、顔の色、爪の色も変わる。4両がええなあとなったのは、線路脇でカメラを構え1列車を入れるのに頃合いの角度となるからであった。理由は窓の数、台車の格好がよく分かったからだ。この話を高橋師匠にしたら、「架線柱の間隔は何メーター毎か知ってるか?」との質問があった。元電車少年は知らなんだ。「50メーターおきやで。」と教えられた。「これをもとにしてパンタの位置を頭の中で計算して撮るのに4連が一番うまい具合に入る。」つまりパンタと架線柱が重ならない方法だとのこと。それから時々意識するようになった。でも、どの電鉄でどんな形式の4連での話しだったかは覚えていない。準特急さんの写真をわくわくしながらみせていただいているが、近鉄2200系4連、おしいなぁ-。奈良線900系片パンならうまくいったかも。小田急ちょいと首ひねれば・・・・・・。汽車撮る時はハエ叩きを意識したものだが、電車はパンタと架線柱、元電車少年は窓配置と台車。50ミリ標準レンズ1本、1/500で勝負していた時代のお話。今は撮影機材に恵まれているが、元電車少年にはPC同様さっぱり理解できない見えない世界のことだけに悔しい。でも皆さんのおかげでたのしい世界を垣間見る事が出来て、冥途の土産話は増える一方だ!

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part9 竹の香り

投稿前に準特急先輩の『電車は4両がええ』を読ませていただいておりましたが、私の小学生時代は、校庭から、阪急と国鉄の両方が見え、阪急京都線は、まだ2両編成が走っていました。一方の東海道線は、SL全盛期で、汽笛と共に、白い煙をはいて走っている列車を、いつも見ていたのを思い出しました。
当時は、我が町も人口1万人強の田舎町で、田畑が殆どでしたので、何処からでも、こんな光景を見る事ができました。

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店8:40-(チャーター車)→9:10石渓站9:27-(第2次)→10:22菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站18:03-(観光列車)→18:35石渓站  

道を歩き、未舗装の凸凹道に出ると、殺風景な集落が続いていました。胡小姐は、その中に建つ2階建ての民家に入っていきました。いったい、どうするのでしょうか?
見れば、雑貨店です。胡小姐は、何やら交渉をしています。そして、『丁度、お昼ご飯の準備をしているそうです。家族の人と一緒に食べてもいいですか?』と、聞いてきます。原住民の方の食事をいただけるとは、感激です。勿論、OKを出しました。
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電車は4両がええ

 中国旅日記であんなことあるのかと怖くなり、また、日々デジカメとパソコンで悩んでいる超アナログ人間が今日は失礼して割り込まさせてもらいます。

 近鉄大阪線長谷寺~榛原と言えば超有名な撮影場所。もうかれこれ5年くらい前のことであるが、近鉄特急の著者、総本家青信号特派員、新京阪沿線在住の元電車少年各氏と行った時のことである。元電車がふともらした言葉。「あんなー、電車ちゅうもんやなー、4両くらいが丁度ええんや」

 この含蓄のある言葉。小生なりに4両ならMT半々が多く、パンタの位置も対称的で横から撮るにはいいのかなとか考えてみた。しかし、待てよ。ローカルムードは単行がいいし、長編成の方が堂々としてカッコいいとも思う。これは人それぞれのような気がする。

 そして、やはり、各人それぞれが通勤通学などで毎日乗ったり、眺めたり、つまり、最も接触度の高い電車が好みとなるのではないか。それが、4両の特急であったり、10両の急行であったりするのであろう。撮影地などで鉄道少年に好みを訊くと殆んどが、JRのブルートレイン、特急電車と自分の住む近くの私鉄をあげる。多分、好みの電車は地域と時代が影響するのであろうと言うのが小生なりの結論である。勿論、そうでないという人も居られることは承知している。 

 ところで、京都の趣味の世界の大御所高橋弘さんの「関西の鉄道、その懐かしき時代」と言う交友社発行の写真集がある。お持ちの方も多いと思うが、この本は昭和20年代後半から昭和30年代のまさしく4両編成全盛期と言っても過言ではない時代の作品集である。戦前の古豪と各社競って発表した初期の高性能車が競演したこの時代は趣味的にも最も面白い時代であったような気がする。元電車少年の「電車は4両くらいがええ」と言うのはこの地域のこの時代を言われており、もっと言うなら、最近の暖かみの無い人間運搬車と化したステンレス長編成電車に対してうんざりされての発言ではないかと言う気もする。断っておくが、元電車少年はベースは地元関西であると思うが、日本全国くまなく行脚され、路面電車に至ってはドイツを制覇されたことを申し上げておく。

 小生はそのような諸先輩から10年遅れて趣味の世界に入った。最初は蒸機で出発したが、DRFCの会員となった時、授業をサボって連日行われた伝統(?)の京阪・阪急論戦に巻き込まれ、次第に大手私鉄にも趣味の対象が拡がっていった。しかし、私鉄撮影を始めた頃には戦前の古豪はローカル運用中心で、初期の高性能車も阪神3011系や京阪1800系のように3ドア化されたり、ロングシート化されたりして原型を留めていなかった。それでも凡そ40年前の記録なのでフィルムに古傷の多い毎度の拙作ではあるが、数点披露したい。

①阪急900、920(1967.6.6 宝塚南口~宝塚武庫川橋梁 宝塚行き)

4両と言えば、阪急神戸線の900、920の特急を思い出す。赤い円形には白地で大きく特急、その両側に大阪、神戸と書かれていた。猛スピードで阪神間を往復していたが、気づいた時の920系は6~7連の各停運用。後年、今津線で写した4連に特急時代を重ね合わせた。

 

②阪急1000~1003(1969.3.4今津線仁川~甲東園 宝塚行き)

 阪急初の高性能車。戦前の阪急スタイル920を踏襲して製造された戦後製の710、810の直ぐ後にデビュー。そのスタイルは大きく変化して次の時代の阪急スタイルとなった。そのスムーズな加速と静かな音は小学生には驚きで、2連で今津線に入線した時はわざわざ折り返して来るのを待って乗った思い出がある。

 

③阪急107・1529・105・1525(1969.1.30西向日町~長岡天神 天神橋行き)

 関西3名車の一つP6が幌枠付きで4連で特急、急行で走る姿が最高。その姿には間に合わなかったが、それでも学生時代は各停3連と急行6連が結構見られた。撮影メモを見ると1968年頃から京都本線の各停には4連が登場していた。この独特の風貌を持つP6の最盛期は戦前の新京阪時代の2連あたりであったのかもしれないが、晩年の6~7連の線路が傷むほどの走行ぶりも魅力的であった。この電車に乗りたくて下宿を京都郊外に構えたほどである。

 

④近鉄2205・3011・2233・2304(1968.9.9赤目口 上本町行き急行)

 近鉄特急の著者から、学生時代に当時旧2200で2ドアの原型が2両残っていることを教えられ、時々、大阪線、名古屋線を覗いて見た。急行は5~6連が主体であったが、4連も見られ、2ドアの片目スタイルが先頭で来た時はやったと思った。

 

⑤近鉄908(1968.4.20東生駒 上本町行き特急)

 大型化された奈良線で無料の通勤タイプの特急が4または6連で走っていた。中には白色も残っていた。ネガを見ると800等小型高性能車も写っている。昨年、兵庫県で近鉄車両を撮ったので、今度は奈良県で阪神電車を撮りたい。

 

⑥南海2017・2818・2024・サハ4801(1969.3新今宮 難波行き特急)

 南海2000も大出力の古豪電車。客車を牽く姿であるが、新宮発の客車は和服のおばさんの影になってしまった。これも4連電車である。

 

⑦京阪1804~1805(八幡町~淀 淀屋橋行き急行)

 京阪の初期の高性能車。後に続く1810系とは車長が1メートルほど短いことは最近知った。この時期はまだ、特急色で2ドアの姿であったが、ロングシート化され、主に急行運用に入っていた。当時のネガを見ると他の急行も5~6連が多く、4連の急行はこの時期にはなかったのではないかと思われる。

⑧小田急1159~1059(2009.10.4富水 箱根湯本行き)

 最近デジカメで撮った4連のうち二つ披露する。箱根登山カラーと言おうか、スイスカラーと言おうか、新松田~湯本間に毎日見られるもの。

⑨富士急1101~1205(2009.9.13 寿~三つ峠 大月行き)

 元京王5000の2連+2連の4連。最近、富士急では客寄せでレトロカラーなどを復活させており、その都度、訪問せざるを得なくなった。

 以上4連を中心にした古いネガを出してみた。 ご笑覧下され。

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part8 『トホホ』の反省

今出川浄福寺さんより、コメントをいただきましたので、ご返信をしたいのですが、JPGファイルを添付できません。申し訳ありませんが、恥かしながら、ここに掲載させていただきます。

上記が、問題のSD-HCです。ケースは、廃棄しましたのでありませんが、現物です。

そして、保存されたファイルは、337カットありましたが、開けるファイルは、84カットのみで、残り253カットは、修復ソフトで、復旧を試みましたが、不可能でした。

デジカメをご使用の皆様、繰り返し使用できるメモリーです。何回も安心して使えるのが、もっとも重要な事です。私のように、『安物買いの銭失い』になって、折角、苦労して撮った写真が、消滅する事がないように、日本で、信頼できる店で高くとも、間違いないメーカー品を購入される事を、お薦めします。私も帰国後、直ぐに本物を買い求めました。 Part9 へ続く

2009年~2010年 冬の芭石鉄道へ Part7 『トホホ』のスタート

第5日目 2010年1月2日

① 犍為天波大酒店 8:40(チャーター車)→9:10 石渓站 9:27-第2次)→10:22 菜子埧站
② 菜子埧站-(徒歩)→蜜蜂岩駅
③ 蜜蜂岩站-(観光列車)→石渓站

6:30、今日は、1日中、芭石鉄道を撮影します。張り切って起床し、部屋の窓の外を見ますと、昨日と同様に、霧です。四川盆地特有の気象ですが、とりわけ大渡河沿いのこの辺りは、霧発生が日常的だそうです。何とか、撮影時には、晴れて欲しいと祈りながら、石渓站に向かいました。

途中で、昨日、石炭ガラが目に入って、眼の痛みがひかないのを、心配した胡小姐は、病院に寄ってくれました。同じ症状の患者が多いそうで、目を洗浄してもらいますかと、聞いてくれましたが、芭石鉄道撮影を優先したいので、丁重に断りましたが、しかし、その後も、ゴミは取れず、北京に着くまで、痛みが続きました。

今日は、サングラスとマスクは忘れず、ホカロンも衣服に付けて、準備は万全と思っていましたが、昨夜、今までの撮影をパソコンにバックアップした際に、CFメモリーをカメラに戻すのを、忘れてしまっているのに気づきました。しょっぱなから、また、『ドジ』を踏んでのスタートでした。

しかし、今回の旅のために、デジタル1眼レフを、NIKON-D300からD300Sに買い換え、パワーアップしました。以前のようにCFカードのみの使用から、主流のSDカードも併せての使用が可能です。これで、RWA+JPG画像に分けての使用ができるようになりました。

SDカードは、上海の電器屋街で格安で購入したSD-HC16GBが、入っています。試しに、連写をして、撮影後のモニターを見て確認しましたが、問題ありません。
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白鬚駅、探してみましたが‥

西村さま、ご無沙汰しています。
江若鉄道高島町駅に続いて、白鬚駅の模型化に挑戦されているとのこと。ご同慶です。やはり、江若鉄道の廃止は、鉄道趣味の中でエポックメイキングな出来事であり、在学中の最大の思い出でしたね。
白鬚駅の駅舎の写真がないか、すぐに探してみたのですが、残念ながら私の撮った中には、該当する写真はありませんでした。白鬚となると、どうしても湖岸の鳥居に気をとられてしまい、駅舎までは気が回らなかったようです。
関連する図書として、大津歴博が発行した江若鉄道の図録も見たのですが、載っていませんでした。ただ、江若の木造駅舎は、おおよその意匠は共通のようで、他駅から類推することが出来るかもしれません。
お詫びに、つぎの写真2点を貼っておきます。最近、取材で当地を訪れる機会がありました。駅や線路を偲ぶものは何も残っていませんでしたが、湖上の鳥居はそのまま、神社の境内も昔のままでした。

江若最終日、車内から見た白鬚駅付近

40年後の白鬚駅跡。線路跡は国道の拡幅に利用された

江若鉄道 白鬚駅について

白鬚駅

白鬚駅

久々に江若鉄道のことで皆さんにお願いがあります。以前から工事を続けていました高島町駅も完成に近づき(まだ大々的にご紹介するところまで至っていませんが)、そろそろ第2弾の構想を練りはじめています。お隣の白鬚駅を作ろうと考えているのですが、またしても情報がありません。特に駅舎の写真がほしいのです。プラットフォームや白鬚駅での車両の写真は散見されますが、道路側から駅本屋を写したか写っている写真をお持ちなら、あるいは何かの図書などに出ていることをご存知なら 是非お教えください。唯一 参考になるのは昭和44年9月6日付け京都新聞土曜版のカラー写真です。唐破風をもった瓦屋根がうまく作れるか自信はないのですが、護岸と湖水面、できれば鳥居を入れたジオラマを描いています。よろしくお願いします。