Ekimei cafe was established on September 10th, 2022. Today, I talk to you about Sakurai Line and Wakayama Line which are categorized as local transportation line expressed in blue line on the timetable.
広島短信
クローバ会の広島ツアーからもう3週間が経とうとしています。広島港までは1900型の貸切電車で充分楽しめましたが、帰路の電車は超満員で 座れない方もあってお疲れ様でした。あれほど混むとわかっておれば、費用は倍かかっても帰路も貸切にしても良かったナアと今になって思っています
さて、また新聞記事で失礼ですが、来春に走り出す循環ルートの工事や先般廃止された区間の後始末工事も進んでいるようです。的場町交差点の近況をお知らせします。
福知山のC57たち
老人になると徐々に外出をしなくなり若い時代の思い出にしがみつくようになる。音楽もスポーツも皆そういうことが言えそうだ。最も長く続いている鉄道趣味も全く同じである。
前回の新津に続いて福知山のC57を題材にしてみた。中高生の時は福知山線を走るC57が、大学時代は山陰本線の京都口に出入りするC57が案外身近にあった。先輩方の記録を見ると福知山にはC57の前はC54やC55が在籍していたがカメラに記録するとなるとまだ若過ぎた。さらにC57には急行列車「出雲」牽引時にヘッドマークが付いていたがこれも勿論見ることはなかった。今のイベント列車にはない本物の良さがあった。
さて、例によって1963(昭和38)年4月1日付国鉄動力車配置表によると福知山区のC57は10、11、36、41、58、85、87、93、128、152の10両が在籍し今でもスラスラ番号を言えるがこの時代の蒸機ファンにはどおってことはない。この中で九州出身の10だけは写す機会がなかったのは残念である。
それではまず福知山線で大阪に顔を出していたC57である。1961(昭和36)年10月1日に宝塚を出る724列車篠山口発大阪行きのC5793が私のC57撮影のファーストショットである。この日は各地に特急ができた記念すべき日であったが宝塚で京都発7D「まつかぜ」松江行きの撮影を行いその直後に撮ったもので出発後の後ろ姿である。▼
続いては1962(昭和37)年12月16日の篠山口での交換列車726列車福知山発大阪行き牽引のC5741である。この日は同行の趣味の友人と朝一番列車で豊岡区や和田山支区のC55を撮影に出かけ途中交換する列車を片っ端から撮っていた。C5741は素晴らしいナンバーを持つ綺麗な機関車だったが後に宮崎へ転属して行った。▼

1965(昭和40)年3月5日道場-武田尾間の武庫川渓谷沿いの旧線で撮影中に急に門鉄デフのC5711牽引の上り客車列車がC57152を補機に従えてやってきた。急に来たので驚いて撮ったので大ピンボケであるが門鉄デフのC57を始めて撮りしかも補機付きであったので恥ずかしながら敢えて貼り付けた。平坦線の福知山線では補機不要であり、多分回送列車と思う。▼
C5711は超有名な機関車で九州時代は特急「かもめ」専用機で門鉄デフには翼と波模様が装飾されていた。福知山に来てからは重油併燃装置がつけられさらに豐岡区の播但線時代は集煙装置も装備され九州時代の美しさは損なわれた。播但線溝口付近の上り貨物690列車を牽引する同機。▼
C5711は豊岡市の中央公園に集煙装置と重油併燃装置は外されてすっきりした姿で保存されていた。2013(平成25)年8月30日撮影。▼
今度は山陰線本京都口であるがここは金沢や水戸などから梅小路に転属してC51を追い出したすっきりしたスタイルのC57が幅を利かせていた。福知山区のC57の走行写真の記録は少ない。1969(昭和44)年2月6日雪の降った馬堀付近を行くC57128が牽引する1725列車園部行きで横から見るとドームの後ろの重油併燃装置が梅小路区のC57にはないので違いが直ぐわかる。但し、梅小路区のC57には和歌山から来た戦後製第4次型C57190は重油併燃装置と集煙装置がついていた。▼
2013(平成25)年12月23日貝塚恒夫さんに車で案内していただいた大津市遊びの森公園に保存されているC57128でこれも福知山時代の重油併燃装置は外されて展示されてすっきりしていた。▼
次に各機関区で撮った所謂車両写真である。
1969(昭和44)年2月22日福知山機関区のC5787で集煙装置と重油併燃装置付きで加えてボイラの前面が角張っているのが残念であった。▼
福知山線のC57は大阪到着後宮原に行き給炭後次の仕業を待っていたと思われるが私は宮原機関区には行ったことがないので詳細はわからない。一方梅小路機関区は時々C51やC57などを求めて行っていたが福知山のC57も見ることができた。
1964(昭和39)年5月4日梅小路区に憩うC5785でボイラー後ろの重油併燃装置は福知山区や天王寺管理局管内の奈良、亀山や和歌山のC57にも見られた。▼
C5785も九州吉松に転属し吉都線で再会した。1972年5月1日吉都線鶴丸付近で貨物を牽引する同機。
春闘の時期で機関車は落書きだらけでこれが九州の機関車なのかと驚いたものだ。重油併燃装置は取り外されてドームはC55に近い形になっていて除煙板も点検用に切り取られていた。前照灯はシールドビームで2灯化され醜くいものだった。1972年5月1日都城支区のC5785[吉松]。▼
最後に1964(昭和39)年5月4日梅小路機関区で撮ったC57128の車両写真。ロッドの位置も決まっており思い出の写真の一つである。▼
夏休み日本縦断の旅 5日目② 首都圏を満喫
急に涼しくなり、京都では時代祭の日。『相棒』の新作も先週から放送開始と、一気に季節が進んだ印象です。このシリーズも、ようやく折り返し地点です。それでは、5日目の続きをどうぞ。

首都圏に来たことを感じさせてくれるE233系電車。(高崎にて)
客車廃車体訪問記 内地編79 山梨県-1
【富士急行 下吉田駅】
35.497831, 138.803697 2022年6月10日撮影
スハネフ14 20
◆1972年3月3日新潟鐵工所新製→1984年6月20日大宮工2段寝台化→2010年10月23日廃車

天気が良ければホームから富士山が見えるはずであるが生憎雲がかかっていた。
現車の貫通扉には「富士」の愛称が見えているが、説明板には「本車両自体は『富士』として走行しておりません」と書いてある。しかし、「さくら」「みずほ」「あさかぜ」等で富士山の見える線路を走り、引退後は富士山の反対側で余生を送ることになったのは良かった。 続きを読む
駅名喫茶店(第163回:ループ線の駅名)
岡山好きの元京都人さんの以前の投稿で上越線が取り上げられていました。上越線といえばモグラ駅である土合も有名ですが、2箇所にループ線があるのも忘れてはなりませんね。もちろん清水トンネルも。夏休み日本縦断の旅 5日目① 上越国境を越えて
今回は勾配緩和が目的のループ線に注目して、ループ線区間の駅名をまとめてみました。ループ線構造が否応なしに分かるゆりかもめは私のおすすめです。

ここらでボンネットバス 近畿編 〈17〉
奈良交通のボンネットバスは、その後も観光目的の路線バス、また定期観光コースにたびたび使われて、すっかり奈良の名物となります。昭和57年9月23日からは、定期観光バスとして新設されたHコース「たそがれの古都めぐり」に、ボンネットバスが充当されました。毎日運転の一日一便で、15:15に国鉄奈良駅前を発車、近鉄奈良駅前に寄ったあと、興福寺、唐招提寺、薬師寺、平城宮跡、さらに新薬師寺を回って約3時間で元に戻るというコース、料金は2050円でした。今回も、最初は乗車してコースを熟知し、撮影地などを見聞したあと、後日撮影に向かいました。 ▲「奈2あ18-67」が専用で使われた。
▲白鳳伽藍の薬師寺や、鑑真和上ゆかりの唐招提寺と、西ノ京エリアに足を伸ばしたのが、今回の「たそがれの古都めぐり」、あらたな撮影ポイントも提供した(昭和58年10月)。
駅名喫茶店(第162回:GHIJKL揃い踏み(近鉄の駅名⑥ 最終回))
GMARCHと見せかけて、駅ナンバリングのGHIJKLです。今まで近鉄の駅名をまとめてきましたが、今回が最終回。意図したわけではございませんが、駅ナンバリングのGIJKLが残っていたので、Hの天理線と合わせて広軌の支線をすべて紹介します。信貴線と西信貴鋼索線さえクリアできれば、近鉄全線完乗です。いつになることやら。

ここらでボンネットバス 近畿編 〈16〉
駅名喫茶店(第161回:京都丹後鉄道の駅名)
本日は「鉄道の日」です。駅名喫茶店での10月14日投稿は初めてとなります。今回は丹鉄を取り上げてみました。諸先輩方にとっては、北近畿タンゴ鉄道、宮福鉄道、JR宮津線時代の思い出の方が多いのではないでしょうか。
客車廃車体訪問記 内地編78 香川県-3
【雲辺寺ロープウェイ第二駐車場】
オハネフ25 206、オハネフ25 2209 34.057120, 133.706819 2024年1月26日撮影

オハネフ25 206(西側) オハネフ25 2209(東側)
廃車体訪問記 内地編51 鹿児島県-1 あくねツーリングSTAYtion で報告した2両が遥々と四国霊場第六十六番札所 巨鼇山 千手院 雲辺寺(きょごうざん せんじゅいん うんぺんじ)のロープウェイの麓、第二駐車場に引っ越した。寝台車を活用した宿泊施設らしいが、訪問時に見たところではこれから工事を開始する感じであった。広々とした場所で、伸び伸びと過ごしてほしい。 続きを読む
夏休み日本縦断の旅 5日目① 上越国境を越えて
今日は鉄道の日ですね。私の旅行日記も少しずつ、鉄道発祥の地へと近づいてまいりました。それでは、5日目の様子をお届けいたします。

高崎にて並ぶ211系電車。
8月25日(日)
燕三条 9:11 ― 229M 東三条行き → 東三条 9:18
東三条 9:42 ― 432M 長岡行き → 長岡 10:09
長岡 10:34 ― 1732M 水上行き → 水上 12:56
水上 13:17 ― 740M 新前橋行き → 新前橋 14:10
新前橋 14:12 ― 630M 高崎行き → 高崎 14:22
高崎 15:36 ― 1899E 小田原行き → 籠原 16:10
籠原 16:13 ― 2847Y 快速 平塚行き → 渋谷 17:38
「信号場」を巡る ⑩
飯田線 大沢(おおさわ)信号場
私鉄が出自で、駅数の多い飯田線にも、一ヵ所だけ信号場があります。伊那田島~高遠原にある大沢信号場で、輸送力強化のため昭和41年3月に開設、同時に伊那本郷、伊那新町にも交換設備が設けられています。ちょうど天竜峡〜長野の「天竜」、新宿〜駒ヶ根の「こまがね」など、飯田線にも優等列車が新設された時期と重なっています。大沢信号場は、周囲は果樹園が広がっていて、伊那盆地の扇状地にあり、西から東へとなだらかに傾斜しています。上り線(豊橋方面)が東側に腹付けで線増されました。
▲一線スルーの大沢信号場を右側通行して行くED19 4の牽く上り貨物。乗車した対向列車の窓から撮影、右手で乗務員が敬礼の仕草をしているように見える。タブレット閉塞で、係員が常駐していた。昭和58年に飯田~辰野がCTC化され無人化された。現在でも交換が行われているようだ(昭和45年8月)。
「信号場」を巡る ⑨
前回の「信号場」、窓から写しただけ、列車も後部から写しただけ、そんなテーマでも皆さんから暖かいコメントをいただき感激しています。こんな年寄りのテーマでも、地道に続けていけば報われる、そう感じてまた続けます。
篠ノ井線 桑ノ原(くわのはら)信号場
▲いまも現役、しかもスイッチバック式と、貴重な桑ノ原信号場。乗車した新宿発長野行き421レから、通過していく長野発甲府・名古屋行き446レを見る。スイッチバックらしく、わずかに高低差があることがわかる。446レは甲府・名古屋行きとなっているが、名古屋行きは松本から連結と時刻表の脚注にあった。平坦な松本~塩尻は2列車併結、12両以上で走ったと思われる。、DD51 37[長]+客車7両 (昭和43年2月)
駅名喫茶店(第160回:特急ひのとりが走る路線の駅名(近鉄の駅名⑤))
客車廃車体訪問記 内地編77 石川県-5
【のと鉄道七尾線能登中島駅】
・オユ10 2565 37.109469, 136.853466 2021年5月4日撮影
訪問記内地編59石川県-4で報告した能登線甲駅のオユ10 2565が、能登中島駅に引っ越したので行きたいと思っていた。新型コロナが流行していたゴールデンウィークだったので、鉄道は避けて車で行ったが高速道路も一般道も全く混んでいなかった。

現車は能登中島駅入口の横にあり、外回りは自由に観察することができた。
手前側が前位である。郵便標記や形式番号標記はGマーク付きで本職が真剣に書いたようなのに、MR、配置、荷重、軸箱の①,②や全検他、細かい標記は省略している。
天気が良く、1987年春に甲駅で撮影を始めた時、突然猛吹雪が襲ってきて寒くなったのを思い出した。
駅名喫茶店(第159回:鐵道の駅名)
金を失うと記す「鉄」でなく、「鐵」を採用する旅客路線は、真岡鐵道、わたらせ渓谷鐵道、小湊鐵道、大井川鐵道、信楽高原鐵道、和歌山電鐵の6社7路線です。そのうち、4社(真岡鐵道、わたらせ渓谷鐵道、小湊鐵道、大井川鐵道)では観光列車(SL・トロッコ)が走り、エキタグが導入されているという共通点があります。和歌山電鐵はエキタグを採用しています。私は関西人なので、まずは信楽高原鐵道を推したいと思います。【2025/10/11加筆修正】
夏休み日本縦断の旅 4日目② 新潟の街を観光
先週の投稿を総本家青信号特派員様が引用してくださりましたが、その中で羽越本線を走るC57形が紹介されていました。今回は、少しだけ関連した内容もあります。

高架化された新潟駅に並ぶE129系電車。
さて、村上からの普通列車は新発田から白新線に入り、16時22分に新潟に到着しました。新潟駅は高架化され、発着する列車も全て新型車両となり、雑誌で見た地上駅時代の面影はありませんでした。駅前広場は新しいバスロータリーの工事中でした。
「信号場」を巡る ⑧
では「信号場」を続けます。北陸本線は、羽越本線と並んで日本海縦貫線を形成し、列車ダイヤも輻輳し、信号場が各所に設けられました。北陸本線は東へ向けて電化工事が進捗し、撮影した昭和44(1969)年当時、糸魚川~直江津が最後の非電化、単線区間として残っていました。
北陸本線 百川(ももかわ)信号場
非電化区間の糸魚川~直江津にあり、能生~筒石6.4kmの間に、昭和37年9月に開設された。2線だけの標準的な信号場だった。昭和44年9月、浦本~有間川は、長大トンネルを含む複線電化となり、ほとんどの区間がルート変更になり新線に切り替えられ、能生、筒石、名立の3駅が移転した。糸魚川~直江津にあった木浦(信)、西名立(信)とともに、百川信号場も廃止された(昭和44年8月)。
▲平坦な場所に設けられた、ごく平凡な配線の百川信号場である。直江津~糸魚川間は、区間内の信号場はすべて廃止となった。信号場が設けられた能生~筒石といえば、昔から日本海が迫る海岸沿いのルートで有数の地滑り地帯として過去に多くの災害が発生していた。とくに記憶に残るのは、昭和38年3月の能生での大地滑りにより列車が巻き込まれ、牽引していたC57 90が日本海まで押し流された。機は現地解体されて廃車になったが、剥がれ落ちたナンバープレートを救助に向かった国鉄職員が抱きかかえている写真が、「鉄道ピクトリアル」に載っていたことが記憶に残っている。
「白鳥」交換 昭和36年10月改正で82系特急「白鳥」がデビュー、上下の「白鳥」が、隣駅の能生で運転停車して交換することになった。能生にも「白鳥」が停車するとカン違いした地元民が運転初日、花束を持って歓迎式をしたところ、「白鳥」はたしかに停車したものの、ドアは開かず、反対方向の「白鳥」と交換すると、さっさと出て行ったのは有名な逸話(これは金鉄局が、能生は運転停車なのに、客扱い停車と思い違いして、地域に配布する時刻表に「白鳥」停車を載せてしまったことに起因すると言われている)。この百川信号場が新設されたのは、「白鳥」騒ぎの翌年のことになる(写真は、AHさんから提供していただきました)。
スハシ38 6と不定期急行「石狩」
先日、準特急さんから客車の画像を数点送っていただきました。救援車や工事車が主で、それはそれでもちろんたいへんうれしかったのですが、その中にスハシ38 6がありました。撮影日は昭和41年9月10日で、場所は苗穂とのことでした。9月5日までの夏期営業を終えて編成から解かれ、年末の出番まで休養している形式写真でした。
マイテ39 1と同じ二重屋根に3軸ボギーTR73、これだけでも十分しびれますが、さらに窓配置を見ると「ハ」になってはいるものの貴重な優等車の面影が歴然として、申し分ありません。直に見たかったですね。
準特急さんの許可を得て画像を掲載し、スハシ38 6と「石狩」について述べたいと思います。

スハシ38 6札サツ サボは「急行」、「3」号車 準特急さん撮影
スハシ38 6の履歴は、
スロシ37953(昭和7年3月31日鷹取工新製)→(16年10月1日称号改正)スロシ38 4→(19年7月26日五稜郭工改造)マハ49 9→(28年3月長野工改造)スハシ38 6→42年7月7日廃車




