5月23日付けで、福塩北線の単行の通学列車1724Dが満員で、コロナ対策に問題ありとの新聞記事をご紹介しました。その対策として、単行ではなく2両編成に変更するのかと思いましたが、そうではなく 少し時間をずらして吉舎行きの臨時列車を6月1日から運転するそうです。
【5年前の続報】田川2ヶ所の2本煙突 6月1日修正
先日の日田彦山線関連投稿時、標記の件について総本家様より5年前の投稿を振り返っていただきました。再度その場所の確認と思いGOOGLE MAPに史跡「三井鉱山 伊加利立坑跡」を登録してもらいました。
伊田、伊加利2ヶ所の立坑が電化された専用線で結ばれていたことは以前に総本家様からお教えいただいていましたがそのことを地図上で示すことができました。 GOOGLE MAPの作成、以前にも「宇島鉄道中唐原駅跡」を登録してもらいました。今後とも自分で足を運んだところを地図上に残して行きたいと思います。以上自己満足の投稿、お許しを・・・
二本煙突を結んだ専用線はこちらからご覧ください。
※このMAPは誤りです。申し訳ありません。再度情報を取り掲載します。但し伊加利立坑跡の場所は正当です。
宇島鉄道中唐原駅跡はこちらからです。
Stay Homeを楽しむ ~風景印を集めてみた ②~
鉄道テーマ
居ながらにして集められる「風景印」、鉄道テーマのものを集めてみました。駅舎や車両を扱った風景印は各地にあります。とくに新幹線ものは、新幹線沿線の局で多く見られます。逆に、過去の廃止された鉄道もあって、地域に根ざした鉄道の奥深さを感じます。これには、ちゃんとネタ本があって、「テーマ別 風景印大百科 鉄道編」という本が発行されていて、項目別に、500局以上の絵柄が収録されています。
▲左から、旭川駅内 高架の駅舎と発車する特急(485系1500代「いしかり」?)、背後に大雪山を描く。これのみ旅行中に押印。青森今別 青函トンネルを出るED79の牽く寝台特急と、郷土の踊り。五所川原北 津軽鉄道のストーブ列車(ちゃんと煙が出ている)と岩木山。
Stay Homeを楽しむ ~風景印を集めてみた ①~
ちょっと古い話題が続きましたので、目先を変えて、自粛期間中の活動を紹介します。ひとつ取り組んだのが「風景印」の収集でした。郵便局で押印できる絵入りの消印のことで、郵便局の総数およそ2万4000局のうち、風景印のある局が1万1000局程度あります。JR・民鉄の駅の総数が約9500と言われていますから、駅の数より、風景印のある郵便局のほうが多いことになります。本欄でも、西村さんから、OB会の宴会の景品のなかに、仙台市電テーマの古い風景印があったこと紹介されましたし、昨年の冬にも、釧路地方の風景印のなかに鉄道テーマの印があることの報告がありました。私は、たまたまその時、釧路に来ていて、釧路駅にある金券ショップで、同じ風景印が販売されているのを見つけて、思わず購入しました。以来、旅行先で郵便局があると、風景印の押印を頼むようになりました。
▲地元で集めた「風景印」。直径36ミリの円内に、周辺の名所・風景が描かれている。“鳶色”と言う赤茶色のインクを使用、円形が基本だが、変形印もある。公印であるため、官製はがき、または63円以上の切手の貼付が必要になる。
D51499
保存蒸機とその現役時代(36)D51499についてどですかでんさんが好みの機関車であるとコメントされたところ米手作市さんより早速同機の写真が発表されました。この豪快な機関車につきましては三重県庁近くで保存機を撮りデジ青2016年10月19日付け「保存蒸機とその現役時代(36)」に発表しましたが別の角度から撮ったものを再投稿します。

現役時代は1972年9月10日柘植駅 ▼
記事へのリンク挿入について
先ほど会員さんからメールで問い合わせがありましたので、こちらでも周知しておきます。
記事中にこんな感じで過去記事へのリンクを挿入するためには、以下のように操作してください。
1.(リンクを挿入する文字列を選択し、ツールバーのリンクを挿入を
2.(リンク先の記事タイトルを検索するか、下のリストからタイトルを選択し、


また、新規投稿時に上部に表示される怪しい英文メッセージ(Exec-PHPなんとか…やHey! they are!…YARPPなんとか)は掲示板の拡張プラグインからの単なる案内メッセージですので、無視しても大丈夫です。気持ち悪いですが表示されないようにはできないようです。
昭和の電車 改訂版(77)ー江ノ電500系ー
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑪
行橋機関区(2) C50 C11
行橋機関区には、名物の蒸機C50がいました。九州では唯一の配置区でした。C50と言えば、8620の改良型として、154両が製造されました。C50と聞いてイメージするのは、東海道・山陽筋の駅で、煙室をトラ模様に塗って、懸命に入換に励む姿でした。関東なら、両毛線、水戸線で旅客列車ほ牽く姿も見られましたが、関西の人間にとっては、地味で目立たず、裏方に徹した蒸機という印象でした。ところが、さすがは九州、美しく整備され、ちゃんと表舞台も用意されていました。前掲のように、日豊本線の初電化は、昭和41年10月の新田原までの電化ですが、電化区間が短区間のため、通しの客貨列車は蒸機が牽いていました。そのなかで、門司港14時22分発の柳ヶ浦行き1529レを通しで牽いていたのが、行橋区のC50でした。門司港~柳ヶ浦80kmを単機で客車6両を牽き、C57、D51に伍して本線上を堂々と走ったのですから、入換機イメージのC50とは、全く違う姿を見せていました。
▲架線の下を発車する門司港発柳ヶ浦行き1529レ、行橋区の名物、デフに飾りを入れたC50 58が牽引していた。行橋 昭和42年3月
▲行橋にはC11もいて、田川・伊田線の旅客列車を牽いた。C11 300の牽く329レ 直方 昭和43年3月
【続報】日田彦山線 BRT化
おはようございます。一昨日から皆様にも関連投稿頂いた日田彦山線BRT化について今朝の地元紙に大きな記事が掲載されました。
昨日福岡県知事が地元住民への説明会を開催、バス専用道の設定区間をJRと詰め東峰村議会の承認を取り付けることで決定となりそうです。以上ご報告まで・・
昭和の電車 改訂版(76)ー仙台市電モハ300型ー
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑩
筑豊の蒸機機関区の最後として、行橋機関区に参ります。行橋は、日豊本線から田川線の分岐する駅で、初めて行った昭和42年3月当時、日豊本線は、新田原まで電化していて、旅客はほぼ421系電車化されていました。しかし、一部の客車列車は、電機の製造が追いつかず、蒸機牽引で残っていました。貨物も同様で、門司、柳ヶ浦区の蒸機が、架線の下を黒煙を上げながら走る光景が見られました。いっぽうの田川線は、ほかの筑豊に多く見られる支線ですが、日豊本線苅田から分岐する苅田港(貨物専用)からの石炭・石灰岩の船積み搬出ルートの一翼を担っていました。苅田港の設備は、ほかの若松などの積出し設備に比べて新しく、徐々に扱い量が増加し、田川線は重用されていました。田川線油須原からは、添田方面に出る短絡線の油須原新線も建設中で、将来が嘱望されていました。石炭がの末路が予測されている時代に新線建設とは、今から見れば不可思議なことですが、まだ一定量の輸送はあった時代でした。しかしその数年後、石炭産出はさらに激減し、新線建設も未成線のまま終わります。そんなエネルギー革命の波に翻弄されてきた田川線で、ほぼ独占して客貨を牽いていたのが、行橋区のキュウロクで、「行」の区名板に相応しく、懸命に我が道を進む姿を彷彿させたものです。
▲化粧煙突、切取式デフを装備した、筑豊のキュウロクの典型59684 お世辞にもスタイル映えのしないキュウロクであっても、ロッドを下げた姿は、形式写真としての価値を高めていた。行橋 昭和43年3月
▲行橋のキュウロクは昭和43年3月時点で11両いた。沿線の至るところで見ることができて、筑豊の人びとの生活の中に当たり前のように溶け込んでいた。79657 船尾 昭和49年8月
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑨
後藤寺は、前稿で、おとりんさんが訪ねた日田彦山線の途中にあった駅で、ここから後藤寺線、糸田線が分岐していました。当時の鉄道路線図を見ても、密集した筑豊の路線網の中央部にあっただけに、石炭一色のような駅で、また近くの香春岳などから産出される石灰岩輸送の中継地でもありました。筑豊の“裏口”のような、ディープさの伝わる駅で、まさに「後」の持つ区名板がぴったりの雰囲気を持っていました。配置されていた蒸機は、言うまでもなくキュウロクで、あとは支線区で旅客列車を牽いていたC11が配属されていました。扇形庫もない、小規模な機関区でしたが、直方からは、蒸機が無くなったあとも存続し、行橋区とともに昭和49年まで蒸機の配置があり、筑豊最後の蒸機として、社会人になってからも何度か行くことが出来ました。
先般、たまたま後藤寺を40数年ぶりに訪ねる機会がありました。いまは「田川後藤寺」と市名を冠した駅名に改称され、JR日田彦山線、後藤寺線と、平成筑豊鉄道糸田線が分岐しています。もちろん機関区は、跡形も無くなって、当時は晴れていてもドス黒い煙に空が覆われていたのが、何とも青空のまぶしい駅前になっていました。
▲後藤寺~起行の中元寺川鉄橋の前後には20‰勾配があり、手近な撮影地となっていた。船尾からで産出されるセメントの輸送もあって、多くの蒸機列車があった。ただ訪れたのは真夏のカンカン照りで、貨物量も少なく、スカスカの煙だった。機号不明(昭和49年8月)
▲後藤寺機関区は、木造3線の矩形庫のコンパクトな構内で、模型を見るような雰囲気だった。給炭はクレーンを使っていた。29692は行橋区の所属。(以下、特記以外は昭和43年3月)
ローカル線のコロナ対策
広島県は緊急事態宣言も解除され、少しずつ元の生活に戻ろうとしはじめています。広島県立高校は6月1日からの再開が決まりました。そんななか、今朝の中国新聞に福塩線の通学列車の記事がありました。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑧
直方機関区(3) D51 D50 C11
直方と言えばD60の活躍がすぐ思い浮かびますが、その脇を固める蒸機もいました。それが、D51であり、D50、C11でした。他の線区では主役であるべき最大両数を誇るD51が脇役に過ぎないのも筑豊の凄さでした。昭和42年3月時点では、D60の11両に対して、D51は4両で、両者の勢力はその後もほとんど変わらず、DL化を迎えることになります。
▲直方では少数派だったD51だが、その特徴は半流線型のナメクジが多かったこと。筑豊の“山科大カーブ”で旅客列車を牽く姿は、黒光りするボイラーを輝かせて、当時はどこでも見掛けたD51とはひと味違っていた。中間~筑前垣生 (以下、特記以外は昭和43年3月)
JR日田彦山線の今後は?ちょっとひと回り
久々の投稿です。5月21日(木)、まさしく不要不急の外出ですが現地の様子が気になり出かけました。赤間~久留米(鹿児島本線快速)、久留米~日田(久大本線)日田~添田(日田彦山線代行バス)添田~田川後藤寺(日田彦山線)田川後藤寺~新飯塚(後藤寺線)新飯塚~直方(筑豊本線)直方~自宅(西鉄バス)、所要約8時間でした。
久留米から久大本線、昔は久留米を出ると次は御井(みい)でしたが久留米高校前、南久留米、久留米大学前と久留米が4つも並んでいます。その昔の白滝、旧白滝、上白滝、下白滝(順番は定かでありません)を思い起こします。東へ進んで田主丸駅、ここまでが久留米市、次の筑後吉井からはうきは市になります。


日田からは運転休止中の日田彦山線代行バスに乗車、日田添田間は現在約100分、鉄道の時は約50分でした。バスは大行司、筑前岩屋駅から線路を離れ沿線の主要自治体東峰村の中心小石原を経由します。見どころのアーチ橋、代行バスの車窓からようやくです。お許しを・・・

添田から日田方面の錆びついたレールです。かっては急行列車も走るにぎやかな路線でした。3年前の九州北部豪雨で運転休止、こちらでは復活に向けたJR九州、福岡県、地元自治体との協議が連日報道されています。前述の東峰村村長も鉄道による復活を断念、福岡県、JR九州が推すBRTでの再建に合意したもようです。
また1ヶ所、鉄路が消えていくのでしょうが令和の時代の新しい地域再生の姿を時折足を運んで応援して行きたいと思います。
追伸 この地区のお手元の画像、ぜひぜひ投稿をお願いします。九州のなかでも一二を争うスポットかと思います。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑦
直方機関区(2) D60
直方機関区で代表となる蒸機は、やはりD60でしょう。筑豊本線、支線の上山田線などで貨物列車の先頭に立ち、黒崎経由で、鹿児島本線の小倉、門司港へ向かう旅客列車などもD60が牽いていました。昭和43年3月現在、直方区には11両のD60が配置され、しばらく推移しますが、昭和46年には19両に増加します。これは、若松区のD50が廃車され、その代替として、久大本線の無煙化で大分からD60が筑豊本線に転属、若松の配置ではなく、直方区の配置になったことが要因です。「直」の区名イメージどおり、黙々と実直に働き続けたD60ですが、イヤッと言うほど撮影をしました。今回は、番号順に並べて見ていただきます。
▲直方を発車するD60 27+D60 26の重連貨物。冷水峠を越える貨物列車は、直方からD60重連になることが多かった(特記以外、以下昭和43年3月)
ビスタカー重連
近鉄ビスタカー(30000系)は殆んどの運用で、30000系+30000系(重連?)とならず他形式と連結されますが、昨日と今日(5/20)その8両編成を見ることができました。大阪難波8:30発の名古屋行き特急に入っています。今日は朝から風も強く水鏡はあきらめていましたが久しぶりのビスタカーの8両編成です。
以前、2008年12月に同じ重連を見ました、私が見たのは京都・難波行きなので八木で分割され、全区間ではなかったものです。
旧塗装の方が何か落ち着いています。30000系は登場当初2丁パンタでした、重連するとパンタが4つ並ぶ事になって、架線との接触に問題が出るのでその運用は考えていなかったようで、重連が必要な時は一つ下ろしていたようです。今はパンタは一つとなり問題はないので今後も重連を増やして欲しいですね。ただ、難波8:30発がいつもビスタの重連とは限らないと思います、30000+他形式の8両編成もよく見かけます。
キハ40000の謎を追って
宮崎交通のチハに始まり盛り上がったキハ40000ですが、宮崎繁幹様からキハ40004の貴重な写真のご紹介があり、撮影時期や撮影場所の手がかりを探るために手元にある本から添付のようなキハ40000配置表を作ってみました。元になった資料は、昭和41年朝日新聞社発行の「世界の鉄道’67」です。巻末に昭和10年以降2年ごとの全国の蒸気機関車の形式別配置表があります。その中に気動車も形式のみですが記載されていて大変役に立つのです。高校生のときに大金530円で買った本ですが、50年経った今でも有用な1冊です。「世界の鉄道」は’62年から70年代まで発行され、特に巻末の各種データは色あせることのない貴重な情報源です。まさに「いい仕事してますねー」です。
昭和の電車 改訂版(75)ー相模鉄道キハ1000系ー
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る九州の蒸機 ⑥
筑豊の中枢の機関区、直方機関区に移ります。地図を見ても分かるように、筑豊のど真ん中に位置していました。昭和40年代、筑豊本線だけでなく、細かく枝分かれした支線が張り巡らされていました。昭和43年3月に配置されていたのは、9600が19両、C11が5両、D51が4両、D60が11両で、45両もの蒸機が配置され、九州では、門司機関区に次ぐ配置両数でした。減ったとは言え、石炭列車は輸送の中心で、一般の貨物列車、旅客列車、それに各駅、専用線の入換に日夜活躍していました。「直」の区名板にふさわしく、実直に、愚直に働いていたのが、直方の蒸機と言えるでしょう。
▲「直」の区名板を付けた79652 近隣の若松、後藤寺などのキュウロクとともに、筑豊の各線で活躍を続けた(以下特記以外、昭和43年3月)。


















