あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~26~

2007年9月1日 島原鉄道の国鉄型DCを撮る

島原鉄道には、自社製造の国鉄型DCが走っていました。国鉄乗入れ用として、昭和28年の湘南型キハ45000形に始まり、キハ20、キハ26・55も新製され、国鉄気動車を上回る設備を持った最新DCでした。華やかだったのは、長崎本線の準急(急行)に併結されて博多(のちに小倉)まで乗り入れたことでしょう。初めて九州を訪問した昭和42年、諫早駅で見たDCは、前面に島原鉄道を示す赤い三本ヒゲを付け、クロスシートには白いカバーが掛かり、羨望の思いで見た記憶があります。

しかし、華やかな時代は長く続かず、長崎本線のDC急行全廃により昭和55年に国鉄乗入れは廃止、のちに貨物、線内急行も廃止、雲仙普賢岳の火砕流による長期不通も克服したものの、旅客は戻らず、2008年に島原外港以南を廃止しました。今回は、その前年、自社DCが廃車のあと、国鉄から転属したキハ20が、新型DCに交じって活躍していた頃の訪問でした。

“海にいちばん近い駅”として名高い「大三東」に到着するキハ20の2両編成、キハ2013+キハ2008、いずれも自社発注車ではなく、国鉄で廃車後に島鉄に移って来た。

夜行バスで諫早に着き、島原鉄道のホームへ行くと、タラコ色のキハ208一両の107レが待っていた。▲▲古部に到着、土砂降りの雨になった。南島原の入江沿いで、真ん中に観光用トロッコの貨車トラを挟んだ「島鉄ハッピトレイン」島原発深江行きを撮る。先頭はキハ2012だが、新しい島鉄標準色になっていた。南島原の車庫に集結した国鉄型DCたち。国鉄色、急行色、タラコ色と、いろいろなカラーがあった。▲▲キハ2016 正面窓上の朱色が前照灯周りに巻き上がっている。右手に雲仙の平成新山が見える。大三東を発車したキハ2006 20系でありなから急行色に塗られて、かつての三本ヒゲも復活された。 キハ2008 朱・クリーム色を逆転させてストライプ塗装とした島鉄オリジナル色になった。右は車内、白いビニールカバーは健在だった。

 

 

 

諫早に泊まった翌日、朝ラッシュ時のみ走るキハ20の3両編成を撮りに行く、キハ2016+キハ2013+キハ206戻りの諫早行き、先頭の赤ヒゲ付きのキハ2006先頭を撮影した。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~26~」への15件のフィードバック

  1. 島原鉄道から連想するのは、国鉄の1号機関車です。あまりにも古すぎるでしょうか。
    3本ヒゲの気動車は半世紀前から知っていたものの、その頃は蒸機に夢中で足を運ぶことはありませんでした。
    近頃はテレビ等でも取り上げられる機会が多く、若い人に人気の大三東駅もブーム以前はどこにでもある海辺の駅だったのですね。車輌の変遷は時の流れと共に仕方のないことです。しかし私は島原鉄道オリジナル塗装や、国鉄色に愛着を感じます。
    さて、一度も訪問したことのない私ですが、一枚だけ写真があります。まだ鉄道趣味に復帰する以前のこと、長崎へ夜行日帰りで行った帰り、諫早駅で島原鉄道の気動車を見かけました。これまでは「島原鉄道の気動車」としか認識しておりませんでした。総本家様の記事をきっかけに車番を調べてみると、キハ2008のようです。1992年8月のことでした。

    • 紫の1863様
      いつもコメント、ありがとうございます。急行色のキハ20ですね。私も、島原鉄道への憧れは、高校生の頃、諫早駅でチラリと見た、島鉄のキハ26・55で、国鉄の普通列車の後部に併結されて、長崎へ向かうところでした。三本の赤ヒゲがなんとも豪華な感じを与えていました。それから40年が経ち、私もやっと島原鉄道に乗車できましたが、キハ26・55はすでになく、この急行色のキハ20が、その当時の華やかな時代を感じさせていました。
      xj

  2. 昭和53年10月に仕事で長崎に出張に行ったのが、たまたま金曜日だったので、これ幸いと1泊し島鉄を訪問し、南島原機関区で撮影しています。あいにくの天候ではありましたが、今となっては貴重な記録となりました。キハ2601と2602は国鉄乗り入れ用に作られたキハ26の両運車で、エアコン装備、空気バネ台車、トイレ付の豪華車両でした。また2個エンジン車のキハ5501,5502,5503,5505もあり、2個エンジン車はトレーラーの郵便荷物車を牽引するためでした。特筆すべきは、キハ2601,2602,5505の3両は機関車と貨車しか作らなかった三菱三原が唯一製作した気動車でした。

    • 西村様
      いいですね。やっぱり、この色はドアが車端にある、キハ26・55が似合いますね。豪華なのは、冷房、空気バネだけでなく、座席に掛けられた真っ白なビニールカバーが、なんとも品位のある車内に映りました。三菱三原が製作した、唯一の人を乗せる鉄道車両とは、西村さんの思いも格別だったと思います。

  3. 島原外港(現島原港駅)から加津佐迄が2008年4月1日に廃止される半年前の2007年10月27日に加津佐まで行ってきました。例によって終着駅のムードを撮った後有明海をバックに場所を探してうろついた結果がこんな写真でした。タラコ色のキハ20です。

    • 準特急様
      貴重な廃止区間のカラー、ありがとうございます。こんな海岸に接したところを走っていたのですね。実は私は、廃止前に加津佐まで乗車するつもりで、フリー切符を買って乗車したものの、当日は、午前、すごい豪雨に見舞われて、加津佐近くで路盤に土砂が流れ込み、途中の原城で列車はストップ、以降は代行タクシーで加津佐へ、戻りも代行バスに乗ることになり、結局、原城~加津佐は、未乗のまま、翌年に廃止になってしまい、今でも心残りです。

  4. 総本家青信号特派員特派員様
    豪雨で鉄道がアウトというのは台湾に台風が来た時に経験しました。もうかなり前のことになりますが、DRFC-OBの若い方と花蓮から高雄あたりまで小型バスで行ったことがあります。一人だと心細いですが、結構楽しかった経験をしました。ところで、総本家さんのシリーズもピッチが速いのでついて行けませんが、島原鉄道は途中まではクモハ73東ウラさんと一緒だったと思います。総本家さんの訪問2007年9月のおよそ3か月後の10月27日の加津佐駅です。同業者もいました。

    • 準特急様
      はい、準特急さんに二回に渡って、ハッパを掛けられましたので、奮起して投稿しています。独りよがりの記事ですが、いろいろな方からコメントが入っています。テーマに固執せず、思い付き歓迎、あちこち飛び火することが肝要だと思いました。
      この時は豪雨不通で終点まで乗れませんでしたが、代行タクシーで終点の加津佐に着くと、取り残されたDCがホームに停まっていて、普段の終着駅風景を撮ることができました。

  5. 私は島原鉄道を2度訪ねています。1度目は昭和50(1975)年2月、DRFC春の合宿で諫早~原城間を乗りました。2度目は昭和60年2月、多比良町~加津佐間を乗車しました。写真は昭和60年、急行のサインをつけた三本ひげのキハ2602が島原駅に入線するところです。当時急行は2~3往復あり、10キロ以上100円でした。

    • 勘秀峰さま
      島原鉄道の想い出、ありがとうございます。勘秀峰さんのブログに刺激されて、九州も載せましたよ。カラー写真は、華やかな時代を感じさせてくれます。ちゃんと「急」のマークを付けていたのですね。キハ2602は、西村さんも書いておられる三菱三原製造の両運キハ26で、国鉄のキハ26製造とほぼ同時期のデビューです。

  6. 島原鉄道、私にとっては中学生の頃に時刻表でその存在を知った時から、ロマン溢れるなんともいえないいい響きの鉄道でした。当時の非電化地方鉄道のうち、最大の常総筑波鉄道は遠すぎて近寄り難しでしたが、身近な江若鉄道と共に国鉄型DCが走る線区として一気に親しみを感じたようでした。同じ九州には南薩鉄道もありましたが、ここも遠隔地なのと国鉄型とはいえ10系DCでしたから、国鉄急行色を纏った島原のDCがひと際目をひいたことと、国鉄DCに併結して5往復(長崎3、佐世保1、博多急行1)という大規模直通運転を実施していたことで印象深かったのだと思います。
    さて南半分廃止の直前、2007年5月と2008年3月の2度撮影に訪れています。総本家特派員さまも行かれた大三東と古部は私も行きましたよ。海際の駅や線路で撮れそうな場所は意外に少なく、廃止区間では準特急さまがタラコを撮られた白浜海水浴場前駅付近くらいだったと思います。この頃の島鉄周辺のJRにはまだ急行色キハ66、短編成ながらブルートレイン、原色復刻の415系等々まだ多くの撮影対象がありましたから、お目当てDCの運用が無い日には外港からフェリーで熊本に渡り、西里や植木で上りの415やED76貨物、翌朝は田原坂で下りのみずほや415を撮ってからまたフェリーで島原へ戻ることをやっていました。
    余談ですが島鉄DCの空気ばねの話題です。ピク誌で紹介されていたところでは、乗り心地は良かったものの、その独特の揺れに慣れない乗客が酔ったため、その後コイルバネに戻ったとか。これから想い出すのがBOXでの京阪VS阪急の論戦の一コマです。ある時「2800でさえコイルバネ(第4編成を除いては)ということは随分田舎仕様ですね」(今風の穏やかな表現。当時はもっと毒舌的に「田舎電車だ!」)との攻撃に、肩を落としてスゴスゴとBOXを出ていかれる準特急さまの姿がありましたよね。
    滅多に無い光景だったことを覚えております。
    島鉄からの連想でした。

    • 訂正です。415系→411系の間違いでした。
      結局13日毎に巡って来る長崎運用には一度も出会わず撮ることは叶いませんでした。

    • 1900生様
      島原鉄道の想い出、ありがとうございます。「ロマンあふれる」に同感で、私も小中学生から、島原鉄道に憧れがありました。お書きの地方鉄道では、蒸機では古く、電車では新しくと、ちょうど中間の気動車に、強い興味が湧きました。それを倍加させたのは、自分で初めて買った「鉄道ピクトリアル」1962年6月の「気動車特集」で、それこそ穴の開くほど読んだものでした。その号によると、1962年の私鉄気動車保有は、常総筑波32両、島原18両、江若15両と続き、この3社が私鉄気動車王国を形成していました。のちに江若へ足を向かわせたのも、この時が源流になったのかもしれません。

    • 1900生さんにはいつも泣かされていました。Boxを出て行ってトイレで次なる作戦を考えていたのかもしれません。空気バネはエコノミカル台車でも乗り心地が良いと思っていましたので東武の経済車8000系が阪急の2000、2100、2300、2800系と同じミンデンドイツ台車なのに空気バネを付け、何故スピードがあり、内装の抜群の阪急がコイルバネなのかどうもわかりませんでした。

      • 準特急さま
        何を仰しゃいます、西方の大国のように支離滅裂な論理や比喩でいつも泣かされていたのは我々でした。先の例は殆ど唯一のひじょうに稀有な場面でしたからわざわざご紹介したものです。
        舌鋒鋭い準特急さまに議論で負かされた時は腹が立ったものですが、次の一手を真剣に考えたりしていい想い出になりました。お陰で阪急のことも勉強することができましたしね。己を知り敵を知る、これはいい人生訓になりました。

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