関先生からのお手紙・その2(デイとモヨについて)

先日掲載した「第100回 デイ100とモヨ100」にまほろばの鉄趣味住人さん、鉄鈍爺さんから疑問が呈されましたが、またまた関三平先生からお手紙が参りました。
前回分参照

昭和の電車 改訂版(100)ーデイ100・モヨ100ー

実は8月20日に受け取りましたが、暑さと体力消耗のため・・というのはウソで、先生のお手紙があまりの達筆のため、“解読”に手間取り、今日になってしまいました。関先生、ゴメンナサイ!
それでも一部意訳したところもありますが、間違っていたらご指摘下さい。

《「昭和の電車・デイとモヨ」へのレスポンスに一寸弁明、というか説明を。
官鉄の「汽車を走らせてやっているんだ。文句があるか!」的(ちょっと言い過ぎですが)やりたい放題の一つに、中途半端な高さの盛り土高架がありますね。私の仕事場横の梅田貨物線でも桁下1.4㍍ところが多く、なれぬ車が屋根を擦っており、歩く私たちも何故か官鉄様に敬意を表しているかの様に、かがまないと頭がつかえるところが多くあります。吹田あたりでは高さ1㍍というのもありました。

淡路の阪急と城東貨物線の交差部は、神崎川と淀川を渡らねばならないせいか、割と高さがあり、下を通る阪急は普通並のパンタの高さを保っておりました。もっともコンパウンドカテナリーの最上部の架線までガードをくぐらすと低くなるので、下の段(シンプルカテナリー分)だけをくぐらせ、最上部の架線はガードの両端で切られてガードにつながれていました。パンタの高さに関しては淡路駅周辺だけをとってみても昔ほど高く立ち上がらせている姿は見られなくなっていたように思います。道床整備で線路が高くなったことも関係しているのかも知れません。同じ京都線南方の手前で国鉄線をくぐるところは、阪急(当初の北大阪電鉄)が後で取り付けたので高さが低く、少し路面を強く掘り下げ、そのためちょっとの雨で路線水没するので、死電区間になっていたようで、通過時室内灯が一瞬暗くなったものでした。

城東貨物線は言われるように複線敷きで、東側が線路未設置で、ここにへたって下のデイ100などをよく撮ったものです。
イラストは向かって右側はこれで良いとしても、左側は確かに単線分ぐらいにしか見えないでもありません。デイ100の輪郭をハッキリさせるためのウソとも言えます(意識してないんですが)。
ただこのデイ100、先頭を143号にしていますが、これには確かに間違いがあり「P-6の神様」とでも言うべき吉岡さんには見抜かれました。
それは抵抗器暖房の形が試作型で量産型ではないのです。134、137の2両が試作型で、イラストの143号は標準型であるべきで、形態が少し違うのです。当初137号を描くつもりでー汽車会社第2次改造特殊型、つまり枕バネをコイル化、オイルダンパー・ボルスターアンカーも取り付けて、すっかり新しいアメリカンタイプとなっているのが気に入っていたので137号を採り上げたのですが、デイとモヨのエピソードでよく言われるように「デイの乗り心地の悪さに、モヨ(モタ)ではイコライザーバネの丈を極力高くして改善を図った」との通説を一目で判るようにとモヨ(こちらは終生ボールドウィンタイプのビルドアップ型。型式はメーカーによりKS-20、D-20、H-20などありますが)。これと対比すべく、デイの川崎全鋼グループではただ一両、原形のビルドアップ型(通称B型)の143号に、描いてる途中にのりかえてしまい、うっかり抵抗器暖房のことがお留守になり、気がついた時は後の祭、吉岡さんに指摘された次第ですが、デイとモヨのイコライザーバネの丈の差が感じ取ってもらえれば幸いです。また構図上、ガードを気にしてデイのヘッドライトを低く描いてしまったのは悔やんでいます。川崎全鋼車のヘッドライト取り付けステーは(特に大阪・非パンタ側)は二段折れとでも言うべき形態で、他メーカーのものより立派に見えたのにその雰囲気が出ておらず残念です。

次ぎに城東貨物線回送の件
ダイヤのことはトンと分かりませんが、電車などは配給車等業務用車のダイヤで運転される列車に併結、「生き」(協調連結運転)で運行されることが多かったようです。
添付の写真・淀川赤川鉄橋をの4連は、クモル3連にクモハ51(モハ60改系)が併結されています。

阪和社型はデイと同じTDKのES系制御器のまま省型と混結運用されましたが、進段及びパワーの違いなどで不具合も有り、車体更新以前より国鉄型CS-10制御器に取り替えられており、イラストでもその姿を描きました。
モヨは実見しませんでしたが、ノーシルノーヘッダーのモタ3000やクタ7000が写真のような形で「生き」で淡路のガード上を通過していく姿は二度ほど実見しています。

以上、思いつくまま。乱文にて失礼 (暑い・・・!)

2020-8-18             関 三平 拝  》

引用終わり
まほろばの鉄趣味住人さん、、鉄鈍爺さん、いかがでしょうか?
また、国電の大家、河 昭一郎さん、ぜひともお考えをお聞かせいただけませんか?

 

 

 

関先生からのお手紙・その2(デイとモヨについて)」への5件のフィードバック

  1. 一部情倒な雰囲気ですが、関先生の描かれている、モヨが似合う軽やかで上品な『上等』線では無く、場末が常套で蒸頭だった路線です。
    この付近は今後、淡路城郭の東の曲輪(くるわ)となるのでしょう。

  2. 米手作市様
    ご指名にあずかり恐縮です。
    この『デイとモヨ』は以前(2013年6月17日)にも掲載されており、その時にはコメントの投稿は0件だったようですネ。
    さて、今回については『イチャモン好きの河(笑)』と見込んでのコメント要請と思われますが、去年8月の『クハ79066』での発言を我ながら『子供っぽい』と猛反省した経緯が蘇ります。
    もとより、現実と絵との間には誇張や願望が在って当然で、それが『絵の絵たる所以』で、写真との大きな違いでしょうネ。そう思えば全てが丸~く治まりますネ。
    ところで、小生如きに『国電の大家』などと身に余るお言葉を頂き、恐縮至極ですが、DRFCには私が足元にも及ばない藤本氏が居られます。
    従って、さしづめ小生は『国電好き』とでも言うのが妥当でしょうネ。

    • ご無沙汰しております。
      この件につきましては、まほろばの鉄趣味住人さんが述べられた、城東貨物線を通って阪和線の電車が自力回送できたのか?について関先生が「私は見た!」と証言されたことにあります。私は電車に関しては全くの素人ですから回送することがそれほどの問題なのかも判りませんでした。書き起こしていく内に、電車の回送でもこんな難しい条件を克服しなければならないのかを知った次第です。
      そこで得た結論は
      やっぱり機関車が牽く客車列車が一番や!という我田引水の巻でした。

  3. なるほど、配給電車への併結なら、私も学生時代阪和線で見たことがあります。当時はすでに環状線も完全環状になっていましたので、天王寺で折り返して高架から地上へ、また折り返して一旦14番線と15番線の中線で待機した後、西九条方面に向け出発していました。確か平日10時台に阪和線を走っていたと記憶しています。配給車は各電車区や工場へ資材・部品等を届けるのが本来の使命ですので、当時鳳電車区~淀川電車区~吹田工場のルートで、多少迂回やスイッチバックがあっても、定期列車の間をぬって当日中に往復できればよかったのでしょう。モヨはご覧にならなくともモタ3000系を目撃されたのでしたら、「モヨとデイの邂逅」も可能性としてはあり得たわけですね。

    ちなみに貨物列車への併結となると、国電の場合ネックになるのは連結器で、回送編成の両端は蜜連から自連に替える必要があります。阪和社型はもともと自連でしたが、国電型への機器統一の過程で蜜連化されたのは、一部先行車を除き昭和29(1954)年下期で、翌年4月には全車完了したそうです。よって関先生の画はそれから2~3年間の時代を想定されていると考えられます。

    というわけで、今回も関先生の博識と記憶の良さの前に、脱帽せざるを得ませんでした。自分の推測や思い込みでツッコミを入れたことを反省しております。お詫びかたがた、阪和線の旧型車を挟んだ配給車の写真を、お粗末な出来でよけいに失礼ですが紹介いたします。編成は手前からクモル23003+クモハ73181+クモハ60004+サハ78162+クモル23002。1973(昭和48)年11月15日、鶴ケ丘駅での撮影です。

    • まほろばの鉄趣味住人様
      「反省」など無用です。貴兄のお陰で盛り上がり、思わぬ事実と知識を知ることが出来ました。貴兄のツッコミがあればこそです。次回は関先生に一泡吹かせて下さい。楽しみに待っています。

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