昭和の電車 改訂版(100)ーデイ100・モヨ100ー

昭和の電車・100回記念の企画でしょうが、阪和線は京都人には異国の鉄道。
一度鳳区へ行ったことがあるが目的はED16・ED60・EF52で、モヨなどの阪和電鉄の電車は撮っていません。まったく馬鹿なことをしました。同行のパンツ松村君が撮っていたかも知れませんが彼は鬼籍の人。今度会ったときに聞いてみましょう。

昭和の電車 改訂版(100)ーデイ100・モヨ100ー」への2件のフィードバック

  1. 大阪市電3001型のとき、関先生の「フィクション」についてツッコミを入れましたが、今回は先生も「せめてベスト時のツーショットを・・・」との仰せですので、多分に先生の願望から描かれた絵かと思います。
    そもそも当時阪和線の電車が吹田工場に入出場する際、自力で往復したとすればかなりの迂回を強いられたはずです。阪和貨物線(杉本町~竜華操車場)は1952(昭和27)年に当初から電化で開通していますが、そこから先の放出までは、当時の城東貨物線(現在のおおさか東線)は非電化ですので電車の自力走行は不可ですね。よって自力となれば、天王寺~(高架の阪和線から地上へ)~城東線(現在の大阪環状線)~京橋~淀川電車区~淀川貨物線~巽信号場~城東貨物線~吹田操車場とたどらざるを得ず、しかも天王寺と淀川電車区でスイッチバック(方向転換)する必要があり、更には当時も結構運転間隔の短い城東線に割り込むことになりますので、結局のところは貨物列車に連結されて、城東貨物線をD51やD52等のSLに牽かれていたのではないかと考えられます。それはそれで興味の湧くところですが。
    現在はすでに阪和貨物線は廃止されていますので、阪和線~天王寺手前の短絡線~関西本線~新今宮~大阪環状線~西九条~梅田貨物線~新大阪~吹田、といった経路になるでしょうか。

  2. 鉄道史ファンでもない小生が感じた違和感。
    1.吹田~巽信号場間は開業当初から複線の土盛です。やけにスッキリした単線仕様の橋脚を、こそばゆく感じます。
    2.ガーター橋で下辺に余裕が無い筈です。その割にはモヨのパンタに比べ、P6のパンタが元気よく伸びているのを奇異に感じます。
    【閑話休題】
    城東貨物線から おおさか東線(複線化)となりました。
    現在は阪急京都線の『淡路要塞』の築城(!)が進行し、この辺りも阪急京都線が高々架化して風景が更に変化します。
    添付画像は 2016年3月現在(梅田側からの様子)

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