昭和の電車 改訂版(103)ー富岩鉄道セミボ20・21号ー 投稿日時: 2020年8月30日 投稿者: 米手作市 解説文のはじめにある岩瀬浜駅の位置が「九頭竜川河口」とあるのは「神通川河口」の誤りです、と次回の記事で訂正が入っています。これは2013年7月の投稿で、どですかでんさんが指摘したものを関先生がご覧になって、新聞紙上で訂正されたのです。 前回の投稿では藤本さんやK.H生さんが貴重な投稿をされていますのでご覧下さい。 富岩鉄道セミボ20、21号 富山港線時代のセミボ20、21の姿を人間国宝・佐竹保雄先輩の「私鉄買収国電」からスキャンしました。 関連記事: 昭和の電車 改訂版(113)ー近鉄モ6301型ー 昭和の電車 改訂版(71)ー大阪市電751型ー 昭和の電車 改訂版(57)ー京阪700型ー 昭和の電車 改訂版(44)ー阪神電鉄1130号ー 昭和の電車 改訂版(42)ー阪急2100系ー 昭和の電車 改訂版(37)ー国鉄モロハ50型ー 昭和の電車 改訂版(12)ー淡路交通モニハ1005ー 昭和の電車 改訂版(2)大阪地下鉄100型
形式称号には、色々と面白いものがありますが、今回の「セミボ」はその最たるものでしょう。「ボ」の方は、有意義に思うが。「セミ」か「セミ」じゃないかは、あんまり意味があったとは、思えませんが。ところで、関先生の元記事には、思い違いがひとつあるようですから、御注進申し上げます。「・・・木造のボ1・2号は、富山地鉄に残留、セミボ20・21号のみが国鉄籍になった」は誤解で、富山地鉄から国鉄が元富岩線を買収し、富山港線としたときに、一括して国鉄車になっています。しかし、ボ1・2を廃車にした後で、富山地鉄に譲受したのです。つまり富山地鉄は、国鉄に取られたものを、取り返した(買い戻した)のでした。斯様な訳で、佐竹さまの「私鉄買収国電」には、セミボ20・21号とともに、ボ1の写真も掲載されているのですね。 ところで、これら3枚は、小林宇一郎さんの写真ですが、小林さんは同じ機会にボ2も撮影されたようです。偶々、小生の手元にありますので、貼っておきます。富山地鉄が買い戻した後の姿で、撮影記録は次のようでした: 富山地鉄ボ1形 2号(笹津線用)千歳町 1953年撮影。ボ2号の更に後の姿は、藤本哲男さまが、平成24年7月13日【21925】「富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線」に載せていらっしゃます。 返信 ↓
連続コメントで、失礼を致します。冒頭に、米手さまが、富山港線時代のセミボ20、21の姿を佐竹さまの「私鉄買収国電」からスキャンし、再掲されています。これを御覧になった皆さまは、不思議に思われませんでしたか? この2輌の塗色です。2色塗分けになっています。1953(昭28)年に、富山港線の国電は茶色ではなく、色が塗ってあったんだぁ!、と無知な小生は感動した訳でした。しかし、写真のキャプションをよく見ると、撮影場所は松任工場で、静岡と岳南への払下げ直前の撮影ではないか。されば、ひょっとして、譲渡先の仕様に合わせ、国鉄が塗り直してあげたのか?、とも思いましたが、大国鉄がそんなことをする筈がない。車体にも国鉄の表記が残ったままだし。だが、私の手元には、2輌の富山港線での現役時代の写真があったのです。これは、先ごろ亡くなった寺田貞夫さんの作品で、撮影は昭和25年8月26日。どう見ても、茶色です。まぁご覧下さい。 返信 ↓
失礼しました。コメントでは、写真は1枚しか貼れませんね。上(↑)がセミボ20で、下(↓)がセミボ21です。脱線しますが、セミボ20は、自連の開放テコの形態がユニークです。回転させて持ち上げるのではなく、井戸のポンプみたいに、下へ押すと、反対側が持ち上がるようです。まぁ、それは置いておいて、色の話に戻しますと、どうやら富山港線電車の塗色は、写真の比較検討から、昭和25年から、28年の間に行われたようです。序に申し上げると、色はスカ色だった由です。元祖スカ色(横須賀線色)の導入は、昭和25年だったそうですから、間髪を置かず富山港線も、それに倣ったと云うことでしょう。しかし、なんでまた北陸の忘れられたような支線、車輛も多くは買収国電と云うところを、スカ色に塗り直したのでしょう? 謎です。 返信 ↓
宮崎繁幹様 いつもながら、貴重な写真と解説をありがとうございます。 塗色の話はたいへん面白い、興味深いお話です。当時はモノクロ写真ですから私は『上が白、下が黒』の認識でした。スカ色だったとは気が付きませんでした。 返信 ↓
富山港線のスカ色のカラーの記録は、交友社の『国鉄電車のあゆみ』に掲載があります。小粥敏弘氏が撮影した、モハ2006(旧南武)で、1959(昭34)年3月の撮影となっています。貴重な記録と思いました。 返信 ↓
でわ最後に、関先生の絵にある、静岡と岳南時代の両車の写真をお目にかけましょう。これらは小生の早大鉄研の先輩である、永井信弘さんの作品です。両方とも、1958(昭33)年1月4日の撮影です。まづは、静岡鉄道7号から。国鉄時代との違いは、パンタが無いことです。しかし、国鉄時代に、既にクハ化されており、何故国鉄はパンタを降ろさなかったのか?です。これは、セミボ21(→岳南21)も同様です。 返信 ↓
岳南21は、関先生の絵と塗色が異なりますが、岳南時代に変更があったものと思われます。相棒も絵とは、違いますね。この写真は、1958(昭33)年1月4日、吉原での撮影です。光の当たり具合で、明かり窓がはっきりしないのが、ちょっと残念です。 返信 ↓
宮崎繁幹様 早稲田鉄研の先輩・永井信弘様の作品を拝見させていただきまして感謝致します。こうして大学の垣根を越えて貴重な資料が見られるのは最高の幸せです。特に地方鉄道の昔の写真はなかなか見られません。それが拝見できたのはデジ青を介して親しく交流できたからだと思います。 これからも貴重な地方私鉄の資料を開陳していただく様お願い致します。 返信 ↓
米手様には、過分なお誉めの言葉を頂戴し、恐縮です。天上の永井もさぞかし喜んで居りましょう。また新島、大隈の両巨頭もご満悦かと存じます。これからも、地方私鉄の資料を開陳希望とのご要請に従い、ではもう1枚。永井先輩が写していた、岳南21を貼っておくことに致します。撮影は、最初の1枚と同じ、1958(昭33)年1月4日、本場所は本吉原附近とのことです。 返信 ↓
昭和33年と言いますと終戦後まだ13年です。まだまだフィルムが潤沢ではありませんでした。永井先輩様のご努力を今さらながらに感銘しております。我らが先輩達にもこの時代に写真を撮った方は多いのですが、それを次世代へ伝承された方は少ないように思います。突然の訃報に接してうかがった時は既に廃棄した後、と言うことも多いのです。今回の宮崎様のご投稿は先輩後輩の人間関係の大切さという点でも心に焼き付けられた一枚となりました。 返信 ↓
形式称号には、色々と面白いものがありますが、今回の「セミボ」はその最たるものでしょう。「ボ」の方は、有意義に思うが。「セミ」か「セミ」じゃないかは、あんまり意味があったとは、思えませんが。ところで、関先生の元記事には、思い違いがひとつあるようですから、御注進申し上げます。「・・・木造のボ1・2号は、富山地鉄に残留、セミボ20・21号のみが国鉄籍になった」は誤解で、富山地鉄から国鉄が元富岩線を買収し、富山港線としたときに、一括して国鉄車になっています。しかし、ボ1・2を廃車にした後で、富山地鉄に譲受したのです。つまり富山地鉄は、国鉄に取られたものを、取り返した(買い戻した)のでした。斯様な訳で、佐竹さまの「私鉄買収国電」には、セミボ20・21号とともに、ボ1の写真も掲載されているのですね。
ところで、これら3枚は、小林宇一郎さんの写真ですが、小林さんは同じ機会にボ2も撮影されたようです。偶々、小生の手元にありますので、貼っておきます。富山地鉄が買い戻した後の姿で、撮影記録は次のようでした: 富山地鉄ボ1形 2号(笹津線用)千歳町 1953年撮影。ボ2号の更に後の姿は、藤本哲男さまが、平成24年7月13日【21925】「富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線」に載せていらっしゃます。
連続コメントで、失礼を致します。冒頭に、米手さまが、富山港線時代のセミボ20、21の姿を佐竹さまの「私鉄買収国電」からスキャンし、再掲されています。これを御覧になった皆さまは、不思議に思われませんでしたか? この2輌の塗色です。2色塗分けになっています。1953(昭28)年に、富山港線の国電は茶色ではなく、色が塗ってあったんだぁ!、と無知な小生は感動した訳でした。しかし、写真のキャプションをよく見ると、撮影場所は松任工場で、静岡と岳南への払下げ直前の撮影ではないか。されば、ひょっとして、譲渡先の仕様に合わせ、国鉄が塗り直してあげたのか?、とも思いましたが、大国鉄がそんなことをする筈がない。車体にも国鉄の表記が残ったままだし。だが、私の手元には、2輌の富山港線での現役時代の写真があったのです。これは、先ごろ亡くなった寺田貞夫さんの作品で、撮影は昭和25年8月26日。どう見ても、茶色です。まぁご覧下さい。
失礼しました。コメントでは、写真は1枚しか貼れませんね。上(↑)がセミボ20で、下(↓)がセミボ21です。脱線しますが、セミボ20は、自連の開放テコの形態がユニークです。回転させて持ち上げるのではなく、井戸のポンプみたいに、下へ押すと、反対側が持ち上がるようです。まぁ、それは置いておいて、色の話に戻しますと、どうやら富山港線電車の塗色は、写真の比較検討から、昭和25年から、28年の間に行われたようです。序に申し上げると、色はスカ色だった由です。元祖スカ色(横須賀線色)の導入は、昭和25年だったそうですから、間髪を置かず富山港線も、それに倣ったと云うことでしょう。しかし、なんでまた北陸の忘れられたような支線、車輛も多くは買収国電と云うところを、スカ色に塗り直したのでしょう? 謎です。
宮崎繁幹様
いつもながら、貴重な写真と解説をありがとうございます。
塗色の話はたいへん面白い、興味深いお話です。当時はモノクロ写真ですから私は『上が白、下が黒』の認識でした。スカ色だったとは気が付きませんでした。
富山港線のスカ色のカラーの記録は、交友社の『国鉄電車のあゆみ』に掲載があります。小粥敏弘氏が撮影した、モハ2006(旧南武)で、1959(昭34)年3月の撮影となっています。貴重な記録と思いました。
でわ最後に、関先生の絵にある、静岡と岳南時代の両車の写真をお目にかけましょう。これらは小生の早大鉄研の先輩である、永井信弘さんの作品です。両方とも、1958(昭33)年1月4日の撮影です。まづは、静岡鉄道7号から。国鉄時代との違いは、パンタが無いことです。しかし、国鉄時代に、既にクハ化されており、何故国鉄はパンタを降ろさなかったのか?です。これは、セミボ21(→岳南21)も同様です。
画像が添付できませんでした。ファイルサイズを小さくしてみます。申しありません。
岳南21は、関先生の絵と塗色が異なりますが、岳南時代に変更があったものと思われます。相棒も絵とは、違いますね。この写真は、1958(昭33)年1月4日、吉原での撮影です。光の当たり具合で、明かり窓がはっきりしないのが、ちょっと残念です。
宮崎繁幹様
早稲田鉄研の先輩・永井信弘様の作品を拝見させていただきまして感謝致します。こうして大学の垣根を越えて貴重な資料が見られるのは最高の幸せです。特に地方鉄道の昔の写真はなかなか見られません。それが拝見できたのはデジ青を介して親しく交流できたからだと思います。
これからも貴重な地方私鉄の資料を開陳していただく様お願い致します。
米手様には、過分なお誉めの言葉を頂戴し、恐縮です。天上の永井もさぞかし喜んで居りましょう。また新島、大隈の両巨頭もご満悦かと存じます。これからも、地方私鉄の資料を開陳希望とのご要請に従い、ではもう1枚。永井先輩が写していた、岳南21を貼っておくことに致します。撮影は、最初の1枚と同じ、1958(昭33)年1月4日、本場所は本吉原附近とのことです。
昭和33年と言いますと終戦後まだ13年です。まだまだフィルムが潤沢ではありませんでした。永井先輩様のご努力を今さらながらに感銘しております。我らが先輩達にもこの時代に写真を撮った方は多いのですが、それを次世代へ伝承された方は少ないように思います。突然の訃報に接してうかがった時は既に廃棄した後、と言うことも多いのです。今回の宮崎様のご投稿は先輩後輩の人間関係の大切さという点でも心に焼き付けられた一枚となりました。