1987年を振り返る(その4)

10月4日、同志社大学鉄道同好会30周年記念号では、宮原客車区から始発の京都駅までの送り込み回送の添乗を担当した。ここでの用務と言えば、荷物の積み込み、確認と向日町区でのサボ取り付けくらいしかない。これを同じ85年度生のK氏と一緒に行うのが仕事であった。

1987.10.4 宮原客車区

(マイテから盛り上がる)

指示のとおり、大阪駅を6時21分に出る宮原行きの福知山線の回送電車に乗る。こんなルートを通るのは初めてでその後、今に至るまで通ったことがないが、全く記憶にない。今なら動画で撮ったりするだろうが、どぎまぎしているうちに着いたのだろう。

1987.10.4 宮原客車区

今は京都鉄道博物館に鎮座するEF58150を見た時は、ウォーっと感動を覚えたものである。宮原には定刻通り7時8分に発車。この場合、当たり前だが発車ベルもなく、無音で動き出す。その時、まだ外で写真を撮っていたので慌てて飛び乗る。自動ドアなら置いてきぼりをくらうところであった。大阪駅では11分停まる。展望デッキで外に出ると他の客の反応の面白いこと。事前に一部の鉄道誌に告知は出していたこともあるのか、何人か撮影に来ていたが、他の一般の客が皆驚いてこちらを見ている。恥かしいような晴れがましいような妙な気分であったが、ネット社会の今日、このような列車が大阪駅に進入することは保安上、考えられないだろう。大阪駅を出ると回送とはいえ、結構走る。これが三軸ボギーTR73のジョイント音か、と感動した。この2年前北海道の三菱大夕張炭鉱でTR71台車を履いたスハニ6(だったと思う)に乗ったことがあるが、極めて緩慢な速度だったので感慨はなかった。三軸ボギーは乗り心地がよかったのである。東海道線という路盤のよいレールを高速で走ってそれを感じた。TR47やTR217と比べてどれくらい?というような比較は、ここでは問題ではないと思うので止めておく。

1987.10.4 茨木

茨木で26分停車した後、向日町で18分停車し、この間にサボの取り付けを行ったようだが、なぜかこれは覚えていない。大阪から京都までの短い間だったが2人だけで展望室を独占できた。古いネタで恐縮だが、1952年の松竹映画「お茶漬けの味」で木暮実千代が大阪行きの展望車(つばめか?)で一人たたずむシーンが少し映るが、まさに昔の上流の人々の世界に思いを馳せることが出来た、と今でも思っている。

1987.10.4 マイテ492展望室

1987.10.4 名古屋

京都から団体のみなさんが乗り込んでこられ、ミッションは無事終了した。この役回りを与えられたことには感謝しかない。この列車については、冒頭で述べたように青信号57号(1988年9月発行)で詳しく述べられており、また当時関わった現役、OB会員から多く語られているが、大きかったのは新生JR西日本と担当された社員さんに「やってやろうじゃないか」といった気概のようなものがあって実現できたのではないか、と思う。この頃、本物のオリエント急行やトワイライトエクスプレス、北斗星など国鉄時代にはなかった列車が走り出した。一億総中流といわれていた時代、バブルの高揚感もあったが、JRが工夫を凝らし、一般の国民にも手が届く魅力ある列車が全国を駆け巡っていた。同志社大学鉄道同好会30周年記念号で私が語れる範囲は狭小なので、企画運営に主体的に関わった当時の現役生その他の方々からの新たな発表を待ちたい。

1987.2.3 日根野電車区

1987.2.3 日根野電車区

1987.2.7 近鉄西大寺車庫

1987.2.7 近鉄西大寺車庫

1987.11.7 高槻電車区

1987.11.7 高槻電車区

その後、車両班長として、年末まで叡電修学院、高槻電車区、阪急正雀車庫、近鉄高安検車区、南海千代田車庫と車庫の見学会を精力的?に開催した。車庫の見学会はこの頃は出来たが、現在では、各社有料のファン向け撮影会か広報戦略の一環としてのファミリー向けの開放イベントが主体となっている。鉄道事業者がホームページ等で団体向けの見学会を受け付けている場合は別だが、保安上や現場の要員体制等さまざまな課題からも訪問は極めて難しいと考えられる。この年のEVE祭では、お好み焼きをだすことになり、HOのレイアウトを横目になぜか広島風のお好み焼きをひたすら焼き続けた。三日間でだいぶ焼くのがうまくなったのではないか、と思ったがレシピは残されていない。

(出でよ80年代のOB)

ここまで4回にわたって駄文を書き連ねてきたのは、この「出でよ」のためである。さる2022年11月13日、同志社で3年ぶりにホームカミングデーが開催され、クローバー会の集まりにも50人を超える参加があった。しかし、1980年代生の参加者は、私を含め3人しかなかった。一方、1970年代後半の先輩の数はかつてなく増えていた。特に80年代中盤以降は、もともとの在籍数が少ないうえにクローバー会入会者が少ない、仕事や介護等家の用事で忙しいなど、50代は仕事や家で背負うものが大きく、いろいろな面でゆとりがない、というのは実感としてある。でもすぐその先にある60代を少しでも豊かに過ごす(そうなる実感も保証もないが)には、ぜひあの楽しかったDRFC在籍時代を想い出して頂き、昔の仲間と集まることから始めないか、と僭越ながら考えるものである。その後押しをするのが、このクローバー会であると思っている。このデジタル青信号にコメントを寄せるところからででも、関りを持って頂ければ望外の喜びである。 終わり

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1987年を振り返る(その4)」への4件のフィードバック

  1. ブギウギ様
     懐かしいですね。この編成美、同志社マークのマイテ492・・
    本当に良い天気でしたね。
     ブギウギさん達のご苦労も知らずに、無邪気に豪華な旅を楽しませて頂いたことに改めてお礼を申し上げます。
     回送のマイテの車内で三軸ボギー台車の快走音や乗り心地そして昭和の豪華な客車を少しの間とはいえ、独占されたことは良いご褒美でしたね!
     

    • マルーン様
      コメントを頂戴し有難うございます。交渉事では何かと苦労もあったようですが、当方の役回りはおいしいものでした。未だ乗ったことがないやまぐち号のグリーン車の展望車に乗ってみたくなりました。

      • 以前ワラクロ屋ツアーで乗車機会を頂いたのですが、本物と比べると・・全然でした。
        普通車の方がずっと旅情を感じました。
        ずっと展望席にいるのがお好きな方向けですよ!ソファーと窓配置がイマイチでした。

        • マルーン様
          造形は旧型車ですが、中身は完全空調、空気ばね台車、電気指令ブレーキと現代の車両ですものね。撮っていると隣の芝は青く見えるならぬ、展望デッキに佇む人が気持ちよさげに見えました。

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