お城と電車(16)宇和島城

城の立地するところは高台にあったりして天然の要塞のような場所が多く、敵から攻撃されにくい。現在各地にある城も築城以前にはそのような砦跡のようなものがあった事例は多い。宇和島城も、戦国時代に既にあった小規模な城塞を豊後の大友氏に攻められている。その後城づくりの名人藤堂高虎により本格的に着手された。元和元(1615)年仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が入城し、寛文2(1662)年2代目藩主宗利により大改築された。以降、伊達氏歴代の居城となった。幕末の藩主宗城(むねなり)は松平春嶽、山内容堂、島津斉彬とともに幕末の四賢侯のひとりといわれ維新後も政府の要職に就いた。

1998.5.2 宇和島城残存天守 駅から少し高い所を登ったので平山城である。▼

1998.5.2 伊予市から途中伊予大洲城に立ち寄り昼前に宇和島駅到着。メモにはキハ326に乗車とあるが、宇和島駅の記録は1枚しかない。▼

宇和島は今でも遠いと思う。

 

 

 

お城と電車(16)宇和島城」への12件のフィードバック

  1. 昨年10月に宇和島に行ってきました。宇和島城と天赦園など見て宇和島の鯛めしを食べました。ここの鯛めしは瀬戸内の鯛めしとは違いますね。宇和島の駅前にはコッペル「ケ220」が置かれています。宇和島鉄道が大正3年に開通した時に走ったものだそうで、当時の資料を元にした模型ですが、宇和島城築城400年祭を記念して設置されました。また、宇和島では機関区の扇形庫が残っていて、行ったときは外壁がはずされ骨組みだけになっていましたが、保存計画があるようです。こちらも見たいところです。またぜひご訪問下さい。

    • 大津の86様
      昨秋行かれたのですか。新鮮な情報ありがとうございます。扇形庫があるとは思っていませんでした。なにせ宇和島駅着11時32分で13時54分発の間に城のある山登りで駅や車両を撮る暇がありませんでした。再訪問したいですが人生の時間が足らないような気がします。

  2. 準特急様
    宇和島は遠いですね。予讃線から予土線に乗り継ぎする時間があったので、宇和島城を目指しましたが、途中で時間切れになり天守台までは登られず消防署の前で写真を撮って駅まで折り返しました。藤堂高虎は、黒田孝高、加藤清正と並び、「築城三名人」の一人と称され、高虎が築城に関係した城郭は全国各地にあり、一部を除き立地条件が同じように思います。
    新橋にある『鉄道唱歌』の歌碑は、元祖ご当地ソングとして谷峨(御殿場線)、御殿場(御殿場線)、豊橋(東海道本線)、関ケ原(東海道本線)、稲荷(奈良線)、放出(片町線)にもありますが、作詞家の大和田建樹は宇和島の出身なので駅前広場に立派な歌碑があります。立方体の形をしていて南面には「大和田建樹詩碑」、北面は顕彰文、西面には鉄道唱歌東海道篇第1節、東面には同じく作詞した『散歩唱歌』秋の第10節「わがふる里の城山に 父と登りてながめたる 入江の波の夕けしき 忘れぬ影は今もなを」と刻まれています。これは宇和島城址から見た宇和島湾を詠ったものと言われています。
    宇和島駅に戻ると予土線のキハ32 3(鉄道ホビートレイン)が待っていて、2席しかない0系新幹線のシートに座り、窪川まで乗り通しました。2017.11.16

    • 快速つくばね
      宇和島城への山登りは結構きつかったです。藤堂城づくり名人は関ヶ原の戦攻で伊予今治城主となりその後伊賀・伊勢に転封となっています。鉄道唱歌の作詞家が宇和島のご出身ということは始めてしりました。最後に珍しい新幹線にお乗りになりましたね。こういうゲテモノが出てくると記録したくなります。ありがとうございました。

        • 準特急様
          どういたしまして。ノープロブレムです。それにしても四国の新幹線に対する思い入れはすごいですね。「新幹線の父」と言われた第4代日本国有鉄道総裁の十河信二さんは、新居浜市の出身で終戦時は西条市の市長でした。西条市には「十河信二記念館」と「四国鉄道文化館」があり、0系新幹線が保存されています。
          瀬戸大橋の児島側と四国側には新幹線の用地が確保されていますが、せめて高松か多度津まで開通させられないかと考えてしまいます。問題はJR西日本管轄となる岡山-児島間ですが、宇野線の複線化もできないようでは無理でしょうね。北陸新幹線の敦賀-新大阪延伸より価値があると思いますが。

  3. 私が宇和島を訪ねたのは15年前になります。ケ220や宇和島駅にほど近い和霊公園でC12259を撮っていました。宇和島からは少し離れていますが、予土線の松丸駅付近で広見川沿いをゆくキハ54を撮っていました。トロッコ列車用のトラを連結していました。宇和島に向けて高速道路も整備されつつありますが、広島からでも遠くに感じます。

    • 西村雅幸様
      三原城と山陽新幹線の関係では大変勉強させていただきました。C12保存機見たかったですね。ところでキハ54の写真いいですね。台湾にも似た渓谷があります。ありがとうございました。

  4. 79年度生の私の2学年下に、宇和島出身のTさんが居て、昨年春に60歳になったことを機に退職されて今は郷里に帰られています。
    昨年コロナ禍もあり十分な送別会も出来ず、その後連絡を取り合っているうちに「来ませんか」というより先輩の私が「行こうか」になり大学卒業時の1983年3月以来39年ぶりの宇和島の実家を、こちらにいるMさんと共に12月に訪問してきました。
    1983年は登場して間もない青春18切符で先ず高松の級友の実家に泊めていただき、朝6時に高松を出発して鈍行で松山まで6時間。小休止後松山を出て夕刻に彼の実家近くの予土線務田駅に着きました。
    これは務田駅で翌々日に出発の朝に写した列車写真です。

    後輩君が許してくれれば、田舎の広い家なので今年も遊びに行こうかと思っています。この学年には東広島の酒造会社のSさんも居られるので、広島ー宇和島ツアーとか出来ないかとか、勝手なアイデアばかり考えています。

  5. K.H.生様、
    T君、高松の級友、Mさん、Sさんと名前が伏せられていても、同世代にはすぐにわかり、懐かしいです。
    お写真、832Dか837Dですね。急行用の2両は宇和島で折り返し1846D、窪川から706D併結で高松へ戻ります。
    急行間合いの基本4両+近郊用2両=6両編成の列車が最長でしたが、中間に含まれるキハ65は重たく、本社へ特認申請をしたが却下され、特認ならぬ黙認だ、なんて話もありました(聞いた話ですので、真偽のほどは不明です)。JR化以降は、軸重の話など関係なくDE10やキハ181が走ったりもしたらしいです。お写真の先頭車両もキハ65と共通使用されていました。
    懐かしませていただき、ありがとうございました。

    • K.H.生さん、四方誠さん
      同じ時代の仲間が集まって旧交を温めるのは結構なことと思います。どんどんやってください。老人組も負けずに活動します。同志社の場合は地元関西に加えて中四国、九州や名古屋出身者もいてそれぞれが訪問しあったり、昔話に花を咲かせるのは本当に羨ましいし健康にいいことだと思います。私の会社の先輩にも宇和島や伊予吉田、伊予大洲の出身者がいて親しくさせていただきました。社長自身京大出で松山の出身でした。ところでDRFCの先輩や同僚には怖い人もいますが、60年近く付き合いができるということはどういうことでしょうか。

  6. 宇和島、ほんとに遠いところですが、四国フリー切符で、一周をする時には、必ず通る駅で、私も何度か降りました。ある時には時間があったので、宇和島城のところまで歩いて行きました。私は、お城よりも西洋建築のほうに興味があるため、一緒に同居していた、もとの宇和島警察署、現在の郷土資料館に目を奪われました。西日本には珍しい擬洋風の建築様式で、地理的には隔地の宇和島に、文化、経済が栄えていた物件でした。

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