▲ 14:00 着いた高鐡嘉義站に降り立つとバス停は今います北口ではなく南口でした。蒜頭糖廠へ向かうバスの時間を見てきますと大津の86さんは走って行かれました。私は一服しながら荷物番です。目の前には逞しい農民夫婦のカラフルなモニュメントが設置されていました。
この地方の代表的な表現だろうと思いましたが興味が湧いてきましたので調べていきますと、嘉南平野は台湾でも代表的な耕作地域であることが分かりました。広さは香川県ほどで、台湾全体の耕作面積の1/6を占めています。
また亜熱帯性気候により1年に2~3回もの収穫ができる地域で年間降雨量も十二分でしたが、降った水が中央山脈から一気に流れ落ちる富山の常願寺川のような地形であったために、雨季には暴れ川となっていました。 雨季には洪水、また乾季には耕作地は干上がってしまうために安定した耕作はできない土地で、飲み水さえ不自由していたそうです。農民は極貧困に苦しんでいたのですが、これを救ったのは東京帝国大学で土木工学を学んだ八田與一でした。
【 台湾で今もって愛されている、台湾の教科書にも載っている日本人、八田與一 】
八田與一は明治43(1910)年に卒業後、当時日本の統治下にあった台湾総督府内務局土木課の技手として就職しました。当時の台湾はインフラ整備の真っただ中で、各都市の上下水道整備を担当した後、発電・灌漑部門に移り実績を上げて、この嘉南荒野の開発プロジェクトを立案しました。
烏山頭ダム(当時;東洋一、貯水量は黒四ダムの約75%)を建設し、嘉南平野一帯に約16,000キロもの水路を張り巡らす総工費5,000億円もの工事費用は当時、類をみない莫大なものでした。
工事は50名の犠牲者を出す大事故や工事途中での関東大震災発生での資金難に立ち当たりましたが、多くの苦難を乗り越えて起工から10年後の昭和5(1930)年に完成、嘉南平野は台湾一の穀倉地帯へと変貌しました。
八田與一が今もって台湾で慕われるわけは、当時差別されていた台湾人を日本人と同等に隔たりなく接し、工事中単身となった工事人には家族を呼び寄せて宿舎や学校等生活が完備させた町を作ったり、資金難で解雇を余儀なくされた時には、日本人から解雇していった人道的な指導にあると言われています。
ダム湖に銅像も造られましたが、敗戦後に国民党軍が統治して片っ端から日本人銅像が破壊されていく中でも八田與一の銅像だけは地元農民によって隠され守り続けられました。 八田與一の残した功績は台湾の人々に称えられ、教科書にも掲載され今もって愛されています。台湾人が他にも増して親日的なのは、八田與一によるものが大きいとも言われています。
詳しい紹介は、YouTubeにもありますので、台湾人の親日性をお知りになりたい方は是非にご覧になってください。下をクリックしてください。
1、台湾で愛された日本人、八田與一
2、台湾の教科書に載っている日本人
3、中国語の分かる方は多くの台湾のビデオ投稿があります。
また今春に台湾映画「KANO」が公開されます。 昭和6(1931)年に台湾嘉義農林高校が甲子園に出場し、準優勝を遂げた高校野球物語ですが、その中に大沢たかおが演じる八田與一が登場するそうです。これは観てみたいですね。 前置きが長くなりましたが、これより本文に入らせていただきます。
第1日目 1月8日 その2 ① 嘉義駅前14:18(Taxi)→14:23蒜頭糖廠
大津の86さんが戻ってこられました。 バスは 時間が合わないyようで、Taxiで行く事になりました。
乗車しますと、わずか5分余りで蒜頭糖廠に到着。門を入って正面にはDLの横に同じ働く農民夫婦像がありました。 [googlemap lat=”23.480842170694515″ lng=”120.29956340789795″ align=”left” width=”300px” height=”150px” zoom=”14″ type=”G_NORMAL_MAP”]台湾 嘉義[/googlemap]【蒜頭糖廠】
明治39(1906)年に建設された製糖工場で日本統治時代は台湾3番目の規模を誇りましたが平成12(2000)年の台風で被害を受け閉鎖され、以降はテーマパークとして運営されています。
DLは910形、1957年米国製 内部は補修も出来ていないようでボロボロでした。 蒸気機関車は368号機。 1948年、ベルギー製です。
▼ 14:42 今日は15:00に観光列車が走るのでこれに合わせてきたのですが、先に臨時運行されていたのかプッシュプル編成が突然にやってきました。観光バスが来ると予約運行もアリです。 ▲ 気に入ったのは、木造駅舎の方です。台湾の駅では空襲時に備えて避難経路が表示されている站が多いのですが、ここにもまだ残してありました。
▲ 15:00 観光列車がホームに入線してきました。
これに乗って、工場外へ一旦出て折り返して工場内を一周するコースです。
途中で停車して砂糖を製造する工程説明もありました。
約45分間のコースでした。
▲ 興味深いのはナロー客車です。 3両が留置されていました。 00016号車です。
▲ 2両目は木造客車。
▼ 3両目内部は00016号車と同様です。
▲ ドーム屋根下にはDC巡道車、DLが展示されています。この蒜頭糖廠では1週間前に予約しておくと巡道車をチャーターできるそうです。どこまで走らせられるのかは分かりませんが、レールが続く限り走行させていただけるなら価値は十分ありますね。 ▲ いずれも珍車ばかりです。湯口大先輩が見られたら喜ばれるでしょうね。 ▲ 全部を紹介するのはあまりの長文になりますので控えますが、検車区も含めて現役時代に活躍した車両各種が保存展示されていました。。台湾にはこういったナロ-ゲージの保存鉄道が各地に残されています。内燃車の好きな方にはこたえきれないでしょうね。堪能しました。
16:35 約2時間余りの見学を終えて嘉義市内の宿に向かうことのしました。
ここでは、流しのTaxi等走ってはいませんので、市内に行くには工場前のバス停からの路線バス乗車しか、方法はありません。 ▲ バス停は工場正門を出て左側にありました。バスは上記のいずれもが台鐡嘉義站へ向かいます。系統別に時間が違うのかと思いましたが、よく見ますと全部同じ時間です。
ただ極端な朝夕中心のダイヤで、昼間は2時間近くも間隔があいていますので要注意です。またこの日も時刻表にない時間にバスは来ましたので、時刻表はあてにはできません。
台鐡嘉義站までの距離は、約17キロ、所要時間は約40分を要しました。
17:21 台鐡嘉義站前に到着です。これから予約してあるホテルに向かいますが、前回泊まったホテルとは違って站の反対方向です。地図を見ながら歩きました。 Part3へ続く
ぶんしゅう様
八田さんの話、ためになりました。また一つ勉強させていただきました。この糖廠は数多くの車両が車庫に並んでいて、なかなか見ごたえがありました。紹介されていた巡道車のチャーターはNT$1500(5400円程度)でできるとのことですので、少人数でもチャーターできそうです。DRFC台湾ツアーがあればチャーターしても面白いのではないでしょうか。ところで糖廠からの帰りのバスの便、調べたところWebに載っているものと同じでした。台湾の場合、Webに出ている時刻は出発地の発車時刻しか出ておらず、途中の停留所の時間はどこを探しても出てきません。停留所に出ている時刻表もその停留所の発車時刻ではなく、出発地の時刻が書かれているようです。我々が乗ろうとしたバスは17:00でしたが来たのは16:45ごろ、実は16:25と書かれている7303系統が16:25に長庚医院を発車して16:45に糖廠前に来たのです。ここから長庚医院までは7km位あるので20分かかってもおかしくはないでしょう。地元の人なら出発地からの時間が想像つくのでしょうが、よそ者にはなかなか難しい乗り物です。
八田與一さんのYouTubeの投稿もご覧になられたのですね。私も調べていて、これを見る前はこんな事があったとは全く知りませんでした。台湾のサイトの記事も分からないなりに片っ端から見て感動しました。おかげで投稿作業が止まってしまいましたが・・。
台湾の中学校の教科書にあるそうですが、中国本土の愛国教育とは雲泥の差に愕然としました。感受性が強いこの年齢の時期に相反する教育を受けている訳ですから、親日かたや反日と日本人に対する思いが違ってくるのも当たり前なのかと思った次第です。
よく台湾の人たちはどうしてここまで日本人に対してやさしいのか質問を受けますが、これからは説明できます。これも86さんが高鐡嘉義站に連れて行っていただけなかったら分からなかった事です。ありがとうございました。
改めて自由と平等、そして敬愛の気持ちを持って、また相手の気持ちに立って物事を思考すべきと教えられました。
バスの時刻表については全く分かりませんでした。これは現地の方しか分かりませんね。お調べいただきまして、ありがとうございます。これからはこれを含んでから時刻表を見ることができます。
八田さんの話は昨年7月台湾から帰国する時の飛行機で横に座った亜細亜大学に留学したことがあるという人から聞きました。
台湾でご活躍され功績をあげた日本人を日本人は知らなかったのに、たまたまお会いされた台湾人の方が知っておられたということですね。こういった話は他にもあるのでしょうね。
中国本土でも日本人が、貴州省の山間部で美味しい綺麗な水を利用して、無農薬の安全なお米作りを現地の方に長年教えた結果、栽培された米は成都では引っ張りだことなって、貧困に喘いできた農村が潤って来ているという話を聞いたことがあります。
反日教育を止めて、自国の人々に貢献した外国人を称えるような教育をしていけば、日中間のぎくしゃくとした関係も少しは和らいでいくのでしょうが、いつになるのでしょうかね。
八田さんのお話は、台湾南部をツアーで回ると、台湾人のガイドさんが必ず心をこめて話されますね。ぶんしゅう様のこの投稿を拝見して思い出しました。2008年8月のことです。私も、鉄だけではなく、純粋な観光でも台湾に行っております。
そうですか。私は観光バスには乗ったことがないので・・。今度は家内も行きたいと言っておりますので、一度乗ってみたいと思います。