阪急200系、山陽電鉄200形を用意した。これにこのシリーズの発端となった関先生の名鉄3400系、850系を再度登場させ流線形車両の顔を中心とした比較をしていただきたい。
阪急200系は焼けた木造車25、55を1937年(昭和12年)に鋼体化した阪急唯一の流線形車両で千里山線で長く活躍していた。我々の時代は嵐山線に移っており撮られた方も多いと思う。251は新京阪時代は600形601であったが1956年(昭和31年)に251に改番された。15mの短い車両ながら車幅が広かったのが特徴である。
次に山陽電鉄の200形であるが、兵庫電気軌道の車を戦前に改造。また、数次に渡って製造されたり、後に電気部品の流用、車体新造の300形に生まれ変わったものもあり、複雑で把握しきれていないことをお許し願いたい。なお、流線形車両には「なまず」とか「いもむし」というニックネームを持つものがあるが私は個人的にはこの200形は「めだか」と呼んでいた。しかし、前述の新車に生まれ変わったりしたこともあり接触できた期間は僅かであった。
1966.12.11の撮影であるが駅名の記録がない。神戸市電の撮影後にこの写真を撮っているので多分神戸市内の駅と思うがTsurukameさんわかったら教えて下さい。225
ここでもう一度名鉄850系、3400系を見ていただく。
1972.09.11 大山寺-徳重 鳴海行き850系「なまず」 流線形時代の1937年(相和12年)日車製▼
名鉄を始め流線形車両は全てロ-カル運用の晩年の姿ばかりであるが一つだけ優等列車、と言っても準急であるが知多半田行きの3400系があった。残念ながら正面3枚窓が更新されているがこれはこれで案外見られるものと思う。何よりスカート健在が嬉しいが、前照灯2灯化が少し興醒めである。
1978.05.06 神宮前 「いもむし」3403 これも流線形時代の1937年(昭和12年)日車製 ▼
イケメンかどうかは別として前回の省電モハ52系、京阪1000系を含め流線形車両は実に個性的な顔の電車と私は思う。米手作市さんどうでしょうか。
準特急さま
「なまず」というニックネームが名鉄にもあったのですね。阪急200「ナマズ」しか知りませんでした。ぷるぷるさん達と何度かデイ100などを目的として撮りに行き、一度だけ乗ったことがあります。当時はこれがスマートな電車ばかりで私鉄界の最先端をいく大阪急の電車だということがとても信じられず、夜な夜な追っかけられる夢にまで見たことでした。
1900生様
阪急に「ナマズ」がいるとは知りませんでしたが元をただせば京阪(新京阪)のつくった「ナマズ」ということが言えそうですね。意味深長なコメントをいただきましたがあの車両はものすごく幅があってゆったりしてました。1937年(昭和12年)という年が最も流線形車両が作られた年と思われます。ところで京阪1000、1100は私と同年齢の方からのご意見も含め運転上あまり評判が良くなかったと聞きますが、ファンの目から見るとこれほど素晴らしい電車はそうなかったと思います。スピードの出ない電車に流線形は不要とその後の新製車両はパンや蒲鉾を切ったような普通の顔に戻っています。国鉄のEF55、C5343、C55流線形、名鉄等各社の流線形車両は当時は夢を追って精一杯の設計をされたのでしょう。
準特急様
月見山駅下りホームだと思います。画像奥、後方の山は高取山。東隣の東須磨駅(16年間住み、利用した駅)から天井川への坂を登り切り、少し進んだところが月見山駅です。神戸市電須磨線の水族館前、衣掛町、天神橋付近を撮影後、衣掛町の道路を真っ直ぐ北に向かい、出会った踏切が撮影場所と思います。住宅密集のこの地付近は半世紀後の現在もほとん変っていません。
tsurukame様
早速有難うございます。このあたりはtsurukameさんの庭先ではないかと思ってご指名でお尋ねさせていただきした。そうするとこの電車は姫路行きということですね。一度月見山新旧定点対比撮影ができるのか行って見たいです。
ぜひお出かけになり、定点撮影を行ってください。なお、ご用命とあらば撮影して来ますよ。最近は遠距離歩行、10Km,15kmに挑戦中です。でも尼から月見山までは30kmありそう。1日では無理ですね。
準特急様、
まいりました。仰るように個性的でした。流線型という名前と屋根の傾斜で「同じ顔」と言ってしまいましたが、言わせていただけるならこのように顔を並べて比較することが無かったから違いが分かりませんでした。準特急様、無印不用品様、お許しください!
実は大学時代の一時期、上桂に住んでいたことがありました。登校するときに上桂から200型に乗って桂で乗り換えておりました。200型は短いせいか、ゆったりして大好きな電車でした。もう一つ、この際お尋ねしますが、京都線の何型だったか、ロングシートですが座面が広く奥行きのある座り心地がいい電車があったように記憶しています。こんなシートの車両があったでしょうか?
米手作市様
流線形車両はハンサムな米手さんと違って一般的にユーモラスな顔立ちの人気者であった様に思います。勿論、実用面、整備面等々で現場では問題があったのでしょうが、ファンの心理はそんなことはおかまいなしです。ところで米手さんの大学時代の阪急京都線のロングシート車は特急格下げでロングシート化された1300、710やP-6の電気品を流用した1600、そしてP-6でした。米手さんもそれらをカメラにおさめられていますので各形式はご存知かと思います。阪急の車両は一般にロングシートもすわり心地がいいのが伝統で神宝線の920等は「深々としたロングシート」と車両説明で見たことがあります。特に際立ってすわり心地がいい車両があったとは思いませんがP-6一派の中に戦後阪急がつくった付随車の1550というのがありました。これはP-6に組み込まれた付随車(サハ)ですが、台車がウイングネなのでP-6にしては乗心地がいいと思われさらにすわり心地もいいと思われたのでしょう。あるいは同じようにP-6一派の元貴賓車(フキ500)に乗られそれが深々としたロングシートであったのかもしれません。私が推察するよりもマルーンさんにお聴きした方がいいでしょう。マルーンさん、特に座り心地のよい京都線のロングシート車は何形の車両でしたでしょうか。
準特急様
流線型の顔も様々ということを改めて学習させて頂きました。
皆さんが「ナマズ」と仰っておられました200型、京阪神急行電鉄50年史には、昭和12年2月、先に千里山駅で消失した25.55号の代わりに、201号・601号のM-Tc恒久連結貫通車が建造された。この車は当時流行の流線型とし、客室内張りにベークライトを使用して、合成樹脂を使用する新しい手法の先駆となった。また、カーテンの代わりにベネシャンブラインドを使用したことも特筆に値する。とあります。
この車両は1970年3月に嵐山線から姿を消しました。小生は万博終了後運転士見習に入りましたので、残念ながら運転する機会はありませんでした。
何型のロングシートが、ゆったりしているか等のご質問ですが、お答え出来る力がありません。申し訳ありません。元貴賓車の1500はどうだったかな?それと2ドアのロングシート車は広々とした感じになりませんでしょうかね!?
阪急の木目模様の壁面にオリーブ色の住江織物製のシート生地を使った車内は、今でも高級感が醸し出されているなと思います。(9300系のシートの色合いはちょっと違いますが)失礼いたしました。
準特急様、マルーン様、
いろいろとありがとうございます。
脳みそのホコリを払いながら切れかかったコードをつないで思い出しましたが、確かに二扉のロングシートで、710系では無かったかと思いますが確実ではありません。ウイングバネのたわみも感じておりました。亡き母が常に「前に(戦前に)食べた栗まんじゅうと同じ物が無い」とグチっておりましたが過ぎ去った思い出はいつも美しく思い出されるものです。