会長様を”男”にする旅

会員諸氏にお尋ねするが、よもや大畑ループ、姨捨スイッチバックと木次三段スイッチバックに行ったことがない、などという者はいないだろう。
ところがいたのである。だれあろう我がDRFC会長のマルーン氏である。
ことの始まりは今年四月の木次線旅行でのこと。突然の崖崩れで予定の備後落合から木次へ行く列車が運休になり、JRが代行バスをだしたことで肝心の三井野原-出雲坂根のスイッチバックに乗れなくなった。マルーン会長様は当該区間は齢七十にして初めてのスイッチバックであったそうで、密かな期待で胸をときめかしていたそうな。ところが代行で乗れなくなったため泣きたくなるのを堪えながら「代行バスに乗ったからスイッチバックを通ったことと同じやな」と風呂につかりながら独りごちたのを居合わせた会員に聞かれてしまったのだ。
「夜行列車で通っても、寝ていたら乗車距離には入れてもらえない鉄の掟も知らぬ会長よ、三段スイッチバックも乗ったことのない会長よ」と後ろ指を指されるこれからの余生思うとき、マルーン会長様の屈辱はいかばかりか。
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愛知電鉄デハ3080

11月8日から15日まで死のロードに出ていました。そのため、DRFCの重要イベントであるホームカミングデーを欠席する不始末を犯してしまいました。誠に申し訳なく、諸先輩はじめ会員諸氏に心よりお詫びを申し上げます。

さらに初めてご参加くださった関三平先生にもお迎えすらできず無礼を働いた上、9日の「昭和の電車・愛知電鉄デハ3080」も今日まで遅れてしまいました。関先生、お許しください。

さて、表題の愛知電鉄デハ3080とは名鉄の前身だとか。当会には名鉄に関しての専門家はおられないのでしょうか?ぜひともコメントをお願いしたいものです。

2017/11/9

ご近所話題-2

先日、伊賀鉄道に東急色復活というニュースを載せました。まだ現地に出掛けていないのですが今の忍者電車の状況をお知らせします。伊賀鉄道には忍者電車が3編成と企業広告が2編成あり企業広告の1編成が東急色に戻っています。戻る前の写真も含めての全貌です。201から205まで順を追って載せていきます。

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ご近所話題-1

本日(11/8)付けの毎日新聞伊賀版の記事です。伊賀鉄道の1編成が東急色に戻ったようです。広告契約が満了して東横線時代に戻されました。早急に実車の確認をしますので次の報告をお待ちください。本日は取り急ぎ新聞記事のみとします。戻ったのは103+104のようです。

1972年の阪堺線

昨日(11/3)夕方のカンテレで1955年の阪堺線「田辺」駅の写真が出ていました。昔の写真を見て、この場所が何処かを捜す番組ですが線路の上にはもう阪神高速が見えていました。大阪の北田辺に住んでいましたので中学生の頃は家から股が池(確かこの字だったと思います)に遊びに行く時や、桃山学院へ模擬試験を受けに行く時は通っていた記憶があります。「目の高さ」で電車が動いていました、踏み切りも路盤も電車と共有していました。さすがに中学生当時の写真はありませんが1972年10月頃の「阿倍野」での平野線の写真がありました。123、121は恵比寿町~平野、301は天王寺駅前~平野などです。このときは地下鉄はもちろん阪神高速も見当たりません。


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1956年11月2日京都駅

米手作市氏から「あやしい秘蔵写真の出どころに関して」とのアップがあった。それによると1956年11月3日梅小路区での御召列車スタッフの記念写真を、コロナ写真館が出張撮影されたとあるではないか。その前日、確かにC59108牽引のお召列車が京都駅に到着し、それを若かりし日のこの老人が、なぜか撮影していたのである。

C59108
1956年11月19日東海道本線は全線電化されたから、これはその17日前―東海道本線としては、最後の蒸機牽引御召列車ということになるのであろう。
小生は元来お召列車とか、豪華列車などにはトンと興味も関心もないまま今日に至っているが、この時だけはなぜか京都駅に行き、2番線からお召列車を撮っている。恐らく東海道本線最後の蒸機牽引―C59108の御召列車だから撮る気になったのだと思う。1番線は特定の者しか停留できなかった。 続きを読む

あやしい秘蔵写真の出どころに関して

まずご報告です。
壊れたパソコンが先ほど復旧しました!慣れないノートパソコンでのやりとりではミスばかりで困りましたがホッとしてます。

さて、先日来の写真に関しましてお問い合わせや出所を怪しむ怪文書などを頂きましたので、正直にお話しします。

前回も書きました(此方のミスで消えてしまいました)が、父は戦前に千日前で写真館を開いていましたが、戦災で全てをなくし京都で写真館を再建しました。場所は七条大宮角です。ツテのなかった父は西本願寺の撮影を受けて生活を安定させましたが、目的は千日前での再興でした。でもそれは京都での事業が成功したためやがてあきらめたようです。生活が安定した原因の一つが国鉄との取引です。近くにあった梅小路機関区の諸行事での記念撮影や、西大路駅の近くにあった国鉄バスの工場での展示会などは、通販やショッピングセンターがなかったので大繁盛でした。
そんな中でこれらの写真が撮られたのだと考えております。当時は父を含めて数人のカメラマンがいましたが、だれも鉄道ファンではありません。小さかった私のためにと残してくれたのでもありません。多分、機関区から資料写真の複製を頼まれて予備を作ったものが残っていたのだろうと考えられます。従って持ち込まれたものは写真か資料写真だと思います。昭和三十年代初め頃まで写真館では乾板を使っていました。引伸機を改造した複写機に乾板を入れたり、表で太陽光線を当てて撮影していたのを覚えています。版権は撮影者にありますので七条写真館が乾板を持っていたはずです。割れたり棄てたりで残ったのは写真だけです。これが棄てられなかったのは奇跡的です。鉄道好きになった息子を知って父が残してくれたのかもしれません。
梅小路機関区とのお付き合いはデジカメが出て、職員が撮るようになるまで続きました。記憶ではB20が復元された時の記録写真が最後だったとおもいます。

ところで高橋弘氏が撮られたC59108のお召し列車ですが、生前父に高橋さんを知ってるか?と聞いたことがあります。その時、同業者として名前は知っているが会ったことは無い、と言っていたのであの写真を直接高橋さんから頂いたと言うことは無いと思います。推察ですが、機関区から複写依頼があり一枚余分に焼いたのではと思います。余談ながら昭和31年11月3日に梅小路機関区でこの運転に携わった職員の記念写真を撮っています。

こんなモンもありまっせ!七条写真館の記憶2

出し惜しみをしたら、祟りでろくな死に方をしないとのご指摘を頂きましたので、あわてて投稿をしたら、間違えて消してしまいました。せっかくのご意見も消去してしまい、ご迷惑をかけてしまいました。もしよろしければ今一度書いて下さい。

※先ほど、前里様から情報を頂きましたので写真説明を一部変更いたします。(10/16)

さて、前回は梅小路機関区のC53をご覧頂きましたが、今回はいろいろなものが出てきます。

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こんなモンもありまっせ!七条写真館の記憶1

間違って消してしまいました!
が、どですかでん様の“神の声”で復活しました。

私の父は戦前に大阪・千日前で写真館を開いていました。
大阪大空襲で八尾へ一時疎開して、戦後京都の七条大宮にあった古ビルへ引っ越して写真館を再開したのです。でも、あくまで仮の姿、落ち着いたら大阪へ帰るつもりだった、というのが口癖でしたがかないませんでした。

で、七条大宮というと西本願寺と梅小路機関区が“最大の産業”でした。そのせいか、機関区からの写真撮影を良く頼まれていたようです。その頃の写真の複写らしきものが出てきましたのでご覧に入れます。
型式、撮影日時、撮影場所、撮影者など不明です。なにか分かった方は教えて下さい。

C5366(梅)C548(不明)
梅小路機関区

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西鉄200系(国鉄04と07?)

今朝PCのスイッチを入れたら立ち上がりません!えらいこっちゃ!
画面が真っ暗でポインターマークの矢印だけが光っています。データは外付けハードディスク2台に分散配置していますので助かりますが、設定などはすべてパーです。何度立ち上げてみても一緒なので困っていたら、ヨドバシにDELLのコーナーがあったのを思いだして出かけました。でも頼りない!質問にWikipediaを見て答えているではないか!帰ってきました。とりあえず外出用に買ってあるノートパソコンでこれを書いています。それにスキャナーをインストールしていたらこんな時間になりました。遅くなったのはそのためでした。

さて今週の電車は気動車の形をした電車です。


DELLのサポートからの返事次第ではデスクトップ型のPCを買わねばならないかも・・・

誰でも撮った高倉陸橋

京都駅の高倉陸橋から下にたむろする蒸機を撮った人は多かろう。石炭ホッパーがあるため、機関車は常に数輌いるから、何時行っても、当然誰でも同じような写真が撮れる。東海道線電化の1956年11月19日以降は、C59やC62、C51が消え、奈良線C58に京都入換のC50ぐらいになってしまうが。まあ誰でも撮った写真だが、60年以上前というだけでご勘弁を。キャプションはいらないだろう。

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「浜大津」に寄せて

江若ジオラマを製作し、平成23年から大津で何度か展示の機会を得ました。そのなかで最も製作に苦労したのは最後に作った浜大津ジオラマでした。江若と京阪の両方があり、特に京阪は特殊なポイントやクロッシングばかりで市販品が使えず、H君の協力を得て完成しました。ジオラマの展示にあわせて掲示物も作ったのですが、その中に浜大津の線路の変遷図がありましたので、その一部をご紹介したいと思います。

昭和14年(1939)当時

大正元年に京津電気軌道によって京都三条・大津札ノ辻間が開業し、大正14年にようやく浜大津まで延伸されました。そして前身が琵琶湖鉄道汽船である石坂線と昭和14年に線路がつながりました。なお手書きの地図の水色の部分はかつての大津城のお堀を示しています。

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浜大津

たまたまこんなネガが出てきた。京阪電鉄大津線浜大津駅は何度も改修を重ねているが、その改装中―仮設ではあっても、まあひどいもんじゃありませんか。要は1本突っ込みである。

撮影は1957年2月15日。

古いヤツだとお思いでしょうが・・・

こんなんもあるで、とばかり言っていると現役生や後輩諸氏から「古いヤツや!」と言われるのではないか、との強迫観念にさいなまれます。

そこで奮起一発!最新の話題を

9月30日9時頃から10月1日払暁に掛けて梅小路新駅になる七条通をまたぐ山陰線の高架橋の架け替え工事がありました。人生前代未聞空前絶後の大イベントを見逃すわけにはいきません。その現地レポートを!
長老方は工事が始まる時間にはイビキをかいておられますが架け替え工事は8時半ごろから始まりました。
30日の山陰線は9:30頃には運休となり、翌日の始発用なのか下り回送の211系4連×2の8連が3本続いて行って、上りの特急と211系が過ぎると線路が切断されました。

8/2組立てられた新橋梁

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旧型電車を追って(大糸線・身延線最後の夏)

昭和56年は、3月に福塩線で70系電車が完全引退し、宇部・小野田線から戦前型三扉車の40系、51系が引退し、それぞれ105系に置き換わった。また、夏には大糸線、身延線から戦前型国電が引退し、大規模な中長距離線区で運用される旧型国電は、飯田線のみとなった。 続きを読む

京都鉄道博物館でみた「やっぱりこれがええEF65」

 家族で京都鉄道博物館へ行った。私にとっては初めてである。2階レストランで食事をしていると大阪方面から単機でEF65がやって来た。しかも国鉄色であった。しばらくすると、目の前の引込線に向かってきた。そして、C62と並んで停車。

やっぱりええ色や!

やっぱりこれがええ。

 何やらフェイスブック風・・・ところで、鉄博内でクローバー会の先輩御二方においした。これもびっくり。