このデジ青欄は、というより同人諸兄は躁鬱の傾向を抱えておるようで、投稿がやたら集中する時期と、何やらトンと寂しい時がある。どうやら昨今「鬱」の季節だったようで、さっぱりだったが、やっと準特急氏阪急710系の投稿があり、須磨でヤキモキしていた老人もホッとした。これで半年ぐらいは寿命が延びそうだ。
で、この老人が生涯でたった1枚だけ撮った阪急が710系なのである。1954年5月頃だから63年半前。6×6のお蔭でヴィネガー・シンドロームにも侵されず、幸い今日ある。
このデジ青欄は、というより同人諸兄は躁鬱の傾向を抱えておるようで、投稿がやたら集中する時期と、何やらトンと寂しい時がある。どうやら昨今「鬱」の季節だったようで、さっぱりだったが、やっと準特急氏阪急710系の投稿があり、須磨でヤキモキしていた老人もホッとした。これで半年ぐらいは寿命が延びそうだ。
で、この老人が生涯でたった1枚だけ撮った阪急が710系なのである。1954年5月頃だから63年半前。6×6のお蔭でヴィネガー・シンドロームにも侵されず、幸い今日ある。
マルーンさんから冬眠中たたき起こされたが目覚めが悪く時間が経ってしまった。ところで老い先が短くなると昔を懐かしく思う傾向が強くなる。紅白は見ないが懐メロは見る。鉄ちゃんもその傾向があり、国鉄時代を懐かしく想い、JR化後にはあまり興味がわかない。そういいながらJR化して何年経つのであろうか。平成も間もなく終わるそうである。私も鉄ちゃんの性格を持っているので古く懐かしい阪急京都線710形の思い出を発表してみたい。
710形は1950年から1953年にかけてナニワ工機でMc710+Tc760の7編成14両が製造された。全金製の車両で神宝線810形と共に19m、車体巾1750mmで初めての阪急標準車体で登場した車両で両者は京都線100形と神戸線800形・920形を足して2で割ったような車両であるが細部を見ると電気関係、台車、窓枠の色等に差異もある。マルーンさんによると機器の位置が両線の車両には反対の位置にあるものもあるという。技術的なことはよくわからないが、私が感じたのは同じ会社でありながら両線の番号の付け方が違うことと運行表示板の位置が急行では左右反対であったことである。このことは後で触れてみたい。710形が170KW×4の大出力であることは後年知ったことであるが、小学生時代の私は神宝線沿線に住み京都線710形との出会いはたまに大阪に連れて居ってもらった時に十三-梅田間の神戸線との併走区間で見た運行表示板を2枚付けたクロスシートの710形の特急を見た時であった。この頃は十三も停車せず京都大宮終点までノンストップで走破していた。神戸線の特急は810形の初期4編成810~813がクロスシートであったが存在感が薄く、800、900、920形の17m中型車が中心で特急表示板も1枚で十三にも停車した。当然、710形の京都線の方が格上に見えたが、神戸線の方がフリークエントで600ボルトながら100km/h以上で飛ばしていてどちらも高速運転路線であった。羨望の眼で見ていた京都線710形特急も趣味活動の出遅れにより乗車体験はあったものの撮影はしておらず1969年3月4日の大雪の時にダイヤ乱れで急遽登場した時と複電圧車の機能を発揮してシーズンの休日に宝塚行き特急「歌劇号」として運行していた記録が全盛期を彷彿させてくれる唯一の姿である。そのうちの「歌劇号」が下の写真である。
1967.5.28 長岡天神-大山崎間 今津線経由宝塚行き特急「歌劇号」 714+764
会員諸氏にお尋ねするが、よもや大畑ループ、姨捨スイッチバックと木次三段スイッチバックに行ったことがない、などという者はいないだろう。
ところがいたのである。だれあろう我がDRFC会長のマルーン氏である。
ことの始まりは今年四月の木次線旅行でのこと。突然の崖崩れで予定の備後落合から木次へ行く列車が運休になり、JRが代行バスをだしたことで肝心の三井野原-出雲坂根のスイッチバックに乗れなくなった。マルーン会長様は当該区間は齢七十にして初めてのスイッチバックであったそうで、密かな期待で胸をときめかしていたそうな。ところが代行で乗れなくなったため泣きたくなるのを堪えながら「代行バスに乗ったからスイッチバックを通ったことと同じやな」と風呂につかりながら独りごちたのを居合わせた会員に聞かれてしまったのだ。
「夜行列車で通っても、寝ていたら乗車距離には入れてもらえない鉄の掟も知らぬ会長よ、三段スイッチバックも乗ったことのない会長よ」と後ろ指を指されるこれからの余生思うとき、マルーン会長様の屈辱はいかばかりか。
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昨日(11/3)夕方のカンテレで1955年の阪堺線「田辺」駅の写真が出ていました。昔の写真を見て、この場所が何処かを捜す番組ですが線路の上にはもう阪神高速が見えていました。大阪の北田辺に住んでいましたので中学生の頃は家から股が池(確かこの字だったと思います)に遊びに行く時や、桃山学院へ模擬試験を受けに行く時は通っていた記憶があります。「目の高さ」で電車が動いていました、踏み切りも路盤も電車と共有していました。さすがに中学生当時の写真はありませんが1972年10月頃の「阿倍野」での平野線の写真がありました。123、121は恵比寿町~平野、301は天王寺駅前~平野などです。このときは地下鉄はもちろん阪神高速も見当たりません。
米手作市氏から「あやしい秘蔵写真の出どころに関して」とのアップがあった。それによると1956年11月3日梅小路区での御召列車スタッフの記念写真を、コロナ写真館が出張撮影されたとあるではないか。その前日、確かにC59108牽引のお召列車が京都駅に到着し、それを若かりし日のこの老人が、なぜか撮影していたのである。

C59108
1956年11月19日東海道本線は全線電化されたから、これはその17日前―東海道本線としては、最後の蒸機牽引御召列車ということになるのであろう。
小生は元来お召列車とか、豪華列車などにはトンと興味も関心もないまま今日に至っているが、この時だけはなぜか京都駅に行き、2番線からお召列車を撮っている。恐らく東海道本線最後の蒸機牽引―C59108の御召列車だから撮る気になったのだと思う。1番線は特定の者しか停留できなかった。 続きを読む
まずご報告です。
壊れたパソコンが先ほど復旧しました!慣れないノートパソコンでのやりとりではミスばかりで困りましたがホッとしてます。
さて、先日来の写真に関しましてお問い合わせや出所を怪しむ怪文書などを頂きましたので、正直にお話しします。
前回も書きました(此方のミスで消えてしまいました)が、父は戦前に千日前で写真館を開いていましたが、戦災で全てをなくし京都で写真館を再建しました。場所は七条大宮角です。ツテのなかった父は西本願寺の撮影を受けて生活を安定させましたが、目的は千日前での再興でした。でもそれは京都での事業が成功したためやがてあきらめたようです。生活が安定した原因の一つが国鉄との取引です。近くにあった梅小路機関区の諸行事での記念撮影や、西大路駅の近くにあった国鉄バスの工場での展示会などは、通販やショッピングセンターがなかったので大繁盛でした。
そんな中でこれらの写真が撮られたのだと考えております。当時は父を含めて数人のカメラマンがいましたが、だれも鉄道ファンではありません。小さかった私のためにと残してくれたのでもありません。多分、機関区から資料写真の複製を頼まれて予備を作ったものが残っていたのだろうと考えられます。従って持ち込まれたものは写真か資料写真だと思います。昭和三十年代初め頃まで写真館では乾板を使っていました。引伸機を改造した複写機に乾板を入れたり、表で太陽光線を当てて撮影していたのを覚えています。版権は撮影者にありますので七条写真館が乾板を持っていたはずです。割れたり棄てたりで残ったのは写真だけです。これが棄てられなかったのは奇跡的です。鉄道好きになった息子を知って父が残してくれたのかもしれません。
梅小路機関区とのお付き合いはデジカメが出て、職員が撮るようになるまで続きました。記憶ではB20が復元された時の記録写真が最後だったとおもいます。
ところで高橋弘氏が撮られたC59108のお召し列車ですが、生前父に高橋さんを知ってるか?と聞いたことがあります。その時、同業者として名前は知っているが会ったことは無い、と言っていたのであの写真を直接高橋さんから頂いたと言うことは無いと思います。推察ですが、機関区から複写依頼があり一枚余分に焼いたのではと思います。余談ながら昭和31年11月3日に梅小路機関区でこの運転に携わった職員の記念写真を撮っています。
出し惜しみをしたら、祟りでろくな死に方をしないとのご指摘を頂きましたので、あわてて投稿をしたら、間違えて消してしまいました。せっかくのご意見も消去してしまい、ご迷惑をかけてしまいました。もしよろしければ今一度書いて下さい。
※先ほど、前里様から情報を頂きましたので写真説明を一部変更いたします。(10/16)
さて、前回は梅小路機関区のC53をご覧頂きましたが、今回はいろいろなものが出てきます。
間違って消してしまいました!
が、どですかでん様の“神の声”で復活しました。
私の父は戦前に大阪・千日前で写真館を開いていました。
大阪大空襲で八尾へ一時疎開して、戦後京都の七条大宮にあった古ビルへ引っ越して写真館を再開したのです。でも、あくまで仮の姿、落ち着いたら大阪へ帰るつもりだった、というのが口癖でしたがかないませんでした。
で、七条大宮というと西本願寺と梅小路機関区が“最大の産業”でした。そのせいか、機関区からの写真撮影を良く頼まれていたようです。その頃の写真の複写らしきものが出てきましたのでご覧に入れます。
型式、撮影日時、撮影場所、撮影者など不明です。なにか分かった方は教えて下さい。
今朝PCのスイッチを入れたら立ち上がりません!えらいこっちゃ!
画面が真っ暗でポインターマークの矢印だけが光っています。データは外付けハードディスク2台に分散配置していますので助かりますが、設定などはすべてパーです。何度立ち上げてみても一緒なので困っていたら、ヨドバシにDELLのコーナーがあったのを思いだして出かけました。でも頼りない!質問にWikipediaを見て答えているではないか!帰ってきました。とりあえず外出用に買ってあるノートパソコンでこれを書いています。それにスキャナーをインストールしていたらこんな時間になりました。遅くなったのはそのためでした。
さて今週の電車は気動車の形をした電車です。
京都駅の高倉陸橋から下にたむろする蒸機を撮った人は多かろう。石炭ホッパーがあるため、機関車は常に数輌いるから、何時行っても、当然誰でも同じような写真が撮れる。東海道線電化の1956年11月19日以降は、C59やC62、C51が消え、奈良線C58に京都入換のC50ぐらいになってしまうが。まあ誰でも撮った写真だが、60年以上前というだけでご勘弁を。キャプションはいらないだろう。

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江若ジオラマを製作し、平成23年から大津で何度か展示の機会を得ました。そのなかで最も製作に苦労したのは最後に作った浜大津ジオラマでした。江若と京阪の両方があり、特に京阪は特殊なポイントやクロッシングばかりで市販品が使えず、H君の協力を得て完成しました。ジオラマの展示にあわせて掲示物も作ったのですが、その中に浜大津の線路の変遷図がありましたので、その一部をご紹介したいと思います。
大正元年に京津電気軌道によって京都三条・大津札ノ辻間が開業し、大正14年にようやく浜大津まで延伸されました。そして前身が琵琶湖鉄道汽船である石坂線と昭和14年に線路がつながりました。なお手書きの地図の水色の部分はかつての大津城のお堀を示しています。
こんなんもあるで、とばかり言っていると現役生や後輩諸氏から「古いヤツや!」と言われるのではないか、との強迫観念にさいなまれます。
そこで奮起一発!最新の話題を
9月30日9時頃から10月1日払暁に掛けて梅小路新駅になる七条通をまたぐ山陰線の高架橋の架け替え工事がありました。人生前代未聞空前絶後の大イベントを見逃すわけにはいきません。その現地レポートを!
長老方は工事が始まる時間にはイビキをかいておられますが架け替え工事は8時半ごろから始まりました。
30日の山陰線は9:30頃には運休となり、翌日の始発用なのか下り回送の211系4連×2の8連が3本続いて行って、上りの特急と211系が過ぎると線路が切断されました。