鉄道には無関係な事ですが・・

かつて同志社大学のラグビーが大学日本一になった時代がありました。それも三年連続で。
その時、指揮を執っていた監督が伊藤 武君です。中学からの付き合いは亡くなるその日まで続いていましたが、突然の悲報で断ち切られました。同志社高校の学年同窓会長を永年続けてくれて、10月7日に18回目の総会を開く直前での退場となったのです。19日の午後、打ち合わせのため二度電話しましたが出ないので翌20日昼にもう一度掛けても出ないため不安になり(永年糖尿病を患っていた)夜、主治医の同級生に電話したところ「いま奥さんから電話で、帰宅したら死んでいた、との電話があり今から行くところ」とのことでした。検視の結果死亡時刻は私が電話した20日の昼頃だったようです。

毎週のように高島屋に車を置いて私の近くの喫茶店まで歩いてきてコーヒーを飲むのが彼の糖尿病療法でしたがそれもできなくなりました。「ブル」の愛称で同級生みんなに愛された60年でした。

DRFCに関係のない話で誠に申し訳ありませんが、聞いて頂きたくて投稿いたしました。お許し下さい。
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大捜査!「イメージは木枯し紋次郎」はどこ?

 伊那谷といえば「木枯し紋次郎」のイメージがつきまとう。「木枯し紋次郎」オープニングタイトルの最初の場面は背景に山々が連なっている道を紋次郎がこちらへ向かって歩いてくる。撮影された場所を調べている人がいて、それをネット上で見ると長野県伊那市高遠町にあるとのことである。やはり飯田線沿線の伊那谷であったようだ。

 飯田線には学生の時に3回行っている。しかし、最近はご無沙汰である。よくテレビなどで秘境駅の紹介やツアーで秘境のローカル線乗車などと注目されているが、当時は蒸機に比べれば注目度は低かったと思う。それでも鉄道雑誌には時々紹介され、私が後に3回も飯田線へ行くきっかけになったのは「鉄道ファン1966年9月号」にある「鉄道ファン・フォトサロン 宮沢孝一作品集」である。宮沢氏はこの作品集に書かれている文によると特に金野、唐傘、千代あたりを好んで行かれて撮影されている。写真を見るにつけ、いつか行ってみようと思い続けていた。そして初めて飯田線に踏み入れたのは1970年夏の清里合宿の後である。ところが残念ながら写真はない。映像は頭の中。途中、温田の南宮ユースホステルに泊まったのであるが、少し早く着いてしまった。俳優の浪花千恵子さん(若い人は知らないと思うが)に似たおばさんがまだ利用時間前なのでユースに入ることできないと言われたので、近くをブラブラする。ちょうどユースは駅のすぐ裏であった。ここで次の年に夏期合宿をするとは・・・

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塩江温泉鉄道

この我国唯一の非電化で軌間1435mm鉄道に関しては、デジ青でも何回か話題になった。たしかぶんしゅう氏の中国長春記事にもあった筈。で、再度か、再々度かの講釈を。標準軌間の琴平電鉄の仏生山から、塩江(しおのえ)温泉のある塩江まで16.1km、免許1927年12月15日、開業1929年11月12日。当初軌間1067mmで計画され、免許もそうだったが、1928年6月7日起業目論見書を変更し、標準軌間に変更した。これは高松から貨車を直通―仏生山までは琴平電鉄の電車に連結し、自社線ではガソリン機関車で牽引、旅客はガソリンカー、というものである。有蓋貨車、有蓋緩急車各1輌を備える計画であった。最急勾配は33‰ときつい。

1929年8月28日瓦斯倫自動客車設計認可。川崎車輌最初のガソリンカーで、両端を絞り、妻面は1枚窓、側面も変わっていて、窓2個セットが3組だが、セットの窓2個の間=通常なら間柱だが、その部分にもガラスが嵌め殺されている。足回りは片ボギーで、機関はブダDW-6。ともかくは旅客だけで開業したが、川崎車輛製車輌が大欠陥品で散々な幕開けであった。その期の営業報告書には次のようにある。

「不幸ニシテ車輌機械部分ニ不備ノ点アリ故障頻発製造者川崎車輌会社ノ熱心ナル修復アリシニモ拘ラス著シク運転状態ヲ乱シ大ニ人気ヲ阻害シタリ其ノ後11月下旬ニ至漸ク故障原因ヲ発見修繕ニ努メタル結果無事平常運転ニ復スルヲ得タルモ時既ニ閑散季ニ入リ予期ノ成績ヲ挙ケ得サリシハ誠ニ遺憾トスル処ナリ」

「車輌ニ関シテハ其ノ設計、製作、組立共全部神戸市川崎車輌会社ニ委託シ営業開始前入念試運転ヲ行ヒ其ノ完全ヲ図レリトモ納期稍遅延セル為長期ニ渉ル試練ヲ経サリシニ依リ開始後幾何ナラスシテ故障頻発セシハ甚タ遺憾トスル処ナリシモ鋭意故障ノ原因ヲ調査シ改良ヲ加ヘ今ヤ殆ト完成ノ域ニ達セシハ欣幸トスル処ナリ」

要は川崎車輛がガソリンカー第一作なのに技術を過信して、軽量化を図り過ぎたようで、輪心が車軸から抜け出すという、聞いたことのない不始末が連続した。価格も5輌5万円ときわめて高価だったが、後々まで4,000円の支払残があり、支払拒否であろう。

貨物の方はトラックの隆盛に勝ち目がなく1931年貨物運輸は起業廃止断念した。このため1435mでのガソリンカーという珍物になったのである。1933年5月1日琴平電鉄に合併し、1941年5月11日廃止。車体を生かし、足回りをブリル2軸台車に代え、当時満州国の首都であった新京(敗戦後長春)の路面電車に化けた。

なお先述のように車体両端が絞ってある為、正面からの写真ではとんでもなく車体幅が狭く見え、従前「標準軌間の軽便」とか「車体幅と軌間がほぼ同じ」などと無責任極まる記述が大手を振って横行し、かつ引き写された。しかし車体実幅は2,250mmである。

京成電鉄モハ300型

今年のホームカミングデーの講演が関三平先生に決定して嬉しい限りです。この掲載がご縁になって、いろいろと交流ができて一層楽しくなっております。先日の飲み会で先生から「このホームページで画の批評を見るのが楽しみです。知らないことが多々指摘されて大変参考になりますから、できるだけ皆さんが知っている知識を開陳して下さい」とのお話を頂きました。
会員の皆様、今回の「京成電鉄モハ300型」も知識を絞り出して“線香花火”を光らせて下さい。

この老人も

EF52だ、やれ14だとかで、突然?国鉄電機で盛り上がったので、この老人も確か天王寺で何か1枚だけ撮っていたと、限りなく薄れゆく記憶をたどってネガを探すが、何時ごろかもわからず断念。プリントを探すと手札版があったので、枯れ木も山とばかりご笑覧に供する次第である。

北欧のたび6(ストックホルムの市内交通)

ヘルシンキからストックホルムへは間にボスニア湾があり、軌間も異なるため直接鉄道ではいけません。直線距離では400㎞あまり飛行機で行けば1時間の距離ですが、それでは面白くないので船の旅を選びました。先にエストニアに行くときに使ったのと同じタリンク・シリアラインがヘルシンキとストックホルムを約16時間で結んでいます。この船がまた豪華船で、レストラン、バー、免税店はもちろんカジノまであります。今回はC2タイプの船室で2ベッドのシングル使いですが€111と安く、ゆっくりと船旅を楽しむことができました。
 ↑ 船内のプロムナード、レストランやショップが並んでいる。

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阪和線EF52

先日、阪和線が諸先輩の間で話題となっていました。私にとっては遠い記憶となりますが思い出しつつ捜してみました。多少年代は新しくなりますが例によって「こんなんもありました」でご覧ください。1972年1月9日の日根野付近のEF527です。それと今になってあらためて気が付いたのですがEF524が補機(?)となっています。撮影当時全く意識していなくて今頃になって驚いています。当時は補機が付いていたのですね?それとも回送でしょうか? 続きを読む

大阪駅100式鉄道牽引車その2

どですかでん氏から鋭い突っ込みが。元来鉄道聯隊では、100式車は鉄路上で97式貨車を5輌牽引して時速30~40kmで走行できるとしていた。そのためピンリンク連結器が装着されていたが、大阪駅の100式は、保線区が使うため固定連結器が装着されている。これはあちこちに山ほどいた貨車移動機が装着していた、相手が自連でないと連結できない、肘が動かない代物である。なおトロッコ牽引の為、その下部に通常連結器を持たない路面電車が、故障や回送時牽引するための簡易なピンと両端を平たく潰して穴をあけた鋼棒=連結棒と同様なもので連結できるように改造していた。

大阪駅の100式鉄道牽引車

乙訓ご老人が、大阪駅北西にEF52が常に1輌待機していたことを記しておられる。お待ちなされ、そのそばに旧鉄道聯隊の100式鉄道牽引車もいたのをご記憶であろう。それともそんな代物に興味はなかった?

この車輌は陸軍が将来対ソ聯戦に備え、1524mmから1435、1067、1000mm各軌間に対応する、今でいう「軌陸車」として、通常の軍用貨物自動車(陸軍では「貨車」と称した)をベースに設計したものである。路面を走行する時は荷台サイドのゴムタイヤを鉄輪の外側に装着し、鉄路上では路面用タイヤより直径の小さい鉄輪で走行する。その着脱時は車端4か所にあるジャッキで車体を持ち上げるのだが、それが油圧かと思いきや、何と手回しウォームギヤなので、陸路⇔鉄路の切り替え(「転路」という)は、踏切を利用しても優に30分以上要したとは、かつて鉄道聯隊に居られた故田中鎈市氏から教わった。蛇足だが現在自衛隊が保管している100式鉄道牽引車の説明板には、数分で転路可能とある由だが、とんでもない。

なおこの車輌はいすゞ空冷ディーゼル機関搭載で、陸軍では戦車が全部空冷だった。満州や北支では寒冷時の始動に苦労し、待機時オイルパンの下で練炭や木炭を焚き続けたそうだが、この100式の現実の活躍は、皮肉にも大方が1000mm軌間のマレーシアやタイで、逆に機関のオーバーヒートに悩まされたと聞いた。

敗戦後国鉄の保線区や機械軌道区に何輌かが再起し、大阪もその内である。敗戦時のドサクサに横領されたものも少なからずあり、西武農業鉄道や菊池電気軌道(変電所が空襲で焼失し、陸軍が放棄していた100式車を4~5輌?横領して緊急避難的に旅客輸送に充当。後上熊本線建設にも)などが知られているが、常磐線沿線の炭鉱でも要員輸送車に使っていて、ファン撮影の写真が残る。正式に譲り受けたわけでない「横領」だから、かような車輌は設計認可が受けられないのである。事のついでに記せば「100式」とは皇紀2600年(1940年)に制式化されたことの陸軍式表示で、同じ年でも海軍ならゼロ戦の如く「零式」となる。

めでたいでんしゃのうちわとパンフ

先頃の関三平先生の加太線の記事に思い出し、引っ張り出しました。

昨年の夏、東京から帰ってきた大学生の孫と和歌山の加太港に魚料理を食べに行きました。南海加太線の加太駅に降り立つと、地元観光協会の人がうちわとパンフを配っていました。そのうちわで扇ぎながら、道々ソフトクリームを舐めたり、パンフ記載の店々に首を突っ込んでは冷やかして歩き、淡嶋神社近所の料理屋で海鮮料理と生ビールを堪能しました。

で帰り、再び加太駅でピンク色の電車はいつ来るのかと探しましたが、生憎時間が合いません。和歌山市駅で見れるかと思いきや、留置線にいて、しかも隣の留置電車の陰になり、結局写真は撮れずに帰りました。従い電車の写真はありません。今年の運転時間は昨年と変更になり回数も増えているようです。南海電車のHPでご覧ください。

それに、10月から今度はブルーの電車が登場するそうです。通信員はお彼岸に高野山に登る予定ですが、登場よりも早すぎる日程で、またまた撮影できそうにありません。どなたか撮影し投稿して頂ければ嬉しいです。
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2017年6月ほか神戸

yuguchi様の神戸市街の俯瞰写真は大丸からだったのですね。相当高いところからの撮影と想像していましたが、意外でした。

ほとんどが低層の建物ばかりなので余計にそう思えたのでしょう。よく考えると南からこの方面を望めば大丸が写りこむはずでした、、、

ポートタワーからの写真がありました。ビルの隙間に一応線路が写っています。2009年に神戸で新型インフルエンザが発生、かなりの騒ぎでしたが、落ち着いてからの観光キャンペーンで確か入場無料でした。

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昔々のことー京都市電②

「家人からの終活圧力」にお悩みの須磨の大兄にもおとらず、小生も「訪問介護士」の執拗な圧力に苦しんでいます。
最初は親切ごかしに「いかがですか?  最初は少し詰めて投稿して慣れないと、やり方を忘れてしまいます。 どんな話題でも練習だと割り切って投稿して下さい。」と優しいメールでしたが、黙殺していると段々口調が厳しくなり、「わざわざ教えに行ったんたやから、サッサとやらんかい!」的な脅迫口調になってきました。
(奨学金の返済をサボっていたころ、最初は手紙で「次代の後輩のためにちゃんと返しましょうね」的なものが、それでもサボっていると段々エスカレートして、最後の最後は「法的手段に訴えるぞ」になっていったのとそっくりです。最終的に私は全部返済しましたよ!為念)

その圧力をかわすため、不本意ながら(あまりにも小生の写真のレベルが低すぎるのに気づいて投稿を躊躇していました)京都市電の②をご笑覧ください。

京都駅前(烏丸線、河原町線、東山線のターミナル)、西を向いて。
左手奥は中央郵便局、真ん中奥は下京区役所 続きを読む

犬見鉱山での加悦C160

限りなく薄れゆく記憶だが、高校1年の時、3人で京都-舞鶴-敦賀-米原-京都と一周したことがある。1953年1月7日=天気が極めて悪く、おまけに当時写真で売っている得体のしれない35mmフイルム(太秦の映画会社カメラマンが半端に残った「残尺」を写真屋に売って飲み代にする)だったので、散々だが、1人はセミ版カメラで、彼がこの写真を撮っていたのを想い出した。紛れもなく加悦鉄道C160である。ここは高井薫平『小型蒸気機関車全記録』にも掲載がない。今回の総本家青信号特派員氏の投稿で、俄かに64年前の記憶が蘇った次第である。一昨日の夕食のオカズ(というより晩酌のアテ)は思い出せないが。

今朝の「瑞風」

「瑞風」には3コースありますが、「山陽上りコース」が呉線に寄り道します。下関から山陽本線を上り、糸崎まで来て午前3:46に折り返して、三原駅で小休止して4:06に呉線に入ります。深夜の呉線を広まで進みます。今来た道をまた三原に向けて午前6:00に広を出発します。夏場であれば充分撮れる明るさです。今朝は少し早起きして 呉線を尾道に向かう「瑞風」を撮りに行きました。呉線の「瑞風」を撮るならやはり海を入れて撮りたくなります。今朝は安芸幸崎・須波間に行ってみました。

平成29年8月29日7:20頃 呉線安芸幸崎・須波間を行く瑞風

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1958年2月神戸

まさか神戸に就職し、はては神戸の住人になるなど露想像もしていなかった学生時代―59年前に、何思ったか神戸に撮影に来たことがあった。綺麗に忘却の彼方であったネガが、家人からの「終活」圧力が原因で見つかり、今回ご披露申し上げる。ネガが傷だらけで、従前プリントしようという気も起こさなかったが、デジタルのお蔭で、まあデジアオでご笑覧戴けるぐらいにはなった。撮影は1958年2月27日である。

現在の山陽本線は複々線で、この写真でなら防波堤の海側を埋め立てて上下複線を貼り付けたものである。写真でD6214牽引上り貨物が走る線と、その左側は現在列車線で、新快速とコンテナ貨物列車、特急が走っている。なおこの当時台風等で海が荒れると、しぶきが防波堤を越し電車は須磨で打ち切りになり、以西明石(地平駅だった)までは加古川線からC11と客車が応援に入って往復していた。 続きを読む

陸蒸気から

オハ30の投稿のコメントでINUBUSE氏が「鉄道模型趣味」誌の「陸蒸気からこだままで」の紹介をされていましたので捜してみました。押入れにあった同誌をひっくり返していたところ連載開始当時のの記事を見つけました。画:片野正巳 文:赤井哲朗 氏の「岡蒸気からこだままで」で1961年9月号から連載が始まっています、いまから56年前です、定価130円です。記事にもありますように、写真からは得られないペン画の味があります。ご覧ください!

オハ30の話

当会には客車ファンも多いが、このオハ30なる形式を見た人は少ないだろう。1937年12月27日、鹿児島発門司行準急12レが小倉付近で3両目から出火し、3両の客車が全焼する事故があった。乗客が車内に持ち込んでいたセルロイドの玩具材料に、タバコの火が引火したのが原因という。

このとき焼失したのはナハ22985、23049、ナハフ25029で、1940年7月小倉工場で旧台枠、台車を再用し、半鋼車体を新製。各オハ31980、38981、オハフ34180を経て、オハ301、302、オハフ311となったものである。

窓配置は旧木製車時代を彷彿させる3個セットで、どうせなら台湾のように広窓にすりゃよさそうなものだが、窓高はスハ32並。特筆すべきはノーシル・ノーヘッダーで、オハ35にもノーシル・ヘッダー車が、しかも長柱(張り上げ屋根)車もあったが。

国鉄オハ302 1955.3.18吉塚 高校卒業直後(2浪開始)の撮影である。

国鉄は17m級木製省電を鋼体化した電車を大量に送り出していたから、恐らくは木製客車の半鋼化テストだったと思われる。現実に客車の半鋼化(20m化)は敗戦後のご存じオハ60、61系であり、当初はやはり窓が3個セットだった。

この17mノーシル・ヘッダー車は終始北九州を出なかったはずである。序に記せば、やはり半鋼製17mのオハフ361なる、一形式一両の客車が田川線にいた。これは産業セメント鉄道が1932年12月田中車輌で新製したホハフ1で、1943年7月1日買収により、買収客車では唯一制式車の仲間入りして、オハフ361となったもの。この車輌については、小生が鉄道友の会会誌「RAILFAN」にシコシコ―その余りといえば余りの長い連載に顰蹙を買っている「私鉄のボギー客車」でいずれ紹介に及ぶ。

なお本稿は先人(渡辺俊夫氏)が、関西鉄道同好会会誌「CLUB CAR」6号(1947年4月)に書いておられるものを参考にしている。