ヴィネガー・シンドロームその後(1)

先ずはこの写真をご覧あれ。憎っきネオパンSSのヴィネガー・シンドロームにやられたうちでも、まだまだ、かなりマシなネガのストレートなスキャンである。これを見て、諸兄は修復しようという意欲が湧くか?

1950年代後半以降の35mmフイルムベースが化学分解して酢酸が抽出し、やがてネガそのものを破滅させるヴィネガー・シンドロームは、一旦発生すると止めようがなく、隣接あるいは同梱の健全なフイルムをも共連れにしてしまう。最初は強烈な酢酸匂発散から始まって、次第にフィルム自体がベットリし、こうなっては後の祭りで、早めにデジタル化する以外方策はない。
症状にもバリエーションがあり、さしてベトつきはしないけれど、ネガ自体が保存方法にもよろうが、あたかも丸い塗り箸か、ストローかのように直径数ミリ、縦に丸まってしまうケースもある。これは物理的に拡げる限界を通り越しており、一コマずつに切り離し、強引にスライドマウントに納めてホッチキスで止めてスキャンした奴もいるが、ネガはそれっきりになった。 続きを読む

阪急803

デカンショまつり号さんのお宝第1号阪急974、853についてその現役時代の姿がまだどなたからも発表されておらず私も探してみたが見つからなかった。大変申し訳ないが853(制御車)の相棒である803(制御電動車)の姿でご勘弁願いたい。何れも神戸線芦屋川-夙川間で撮影したもので各駅停車(普通)である。

1968.04.04 桜の時期であるがまだ満開ではないようだ。大阪梅田行き2両目が853である。3両目が906、4両目916、最後の2両は920形▼ 続きを読む

会費納入しました

今日の朝、クローバー会から封書が届いた。開けると懐かしいガリ版刷りの「青信号第1号」とクリアホルダーが出てきた。会費の振込用紙も入っている。

「青信号」は第一号の復刻版らしい。正確にはガリ版刷りではなかったが、開けてビックリ!読めない!!なにやらハングルでもなし、梵字でもなし。でも懐かしい諸先輩の名前があるので後で解読することにした。クリアホルダーはいくらあってもありがたいモノ。大切に使わせていただくとして、早速会費を送金しに郵便局へ行った。5000円を渡すと振込票を機械に入れていたが受け取りを出してくれた。今は手書きで処理はしないのでまたビックリ!「ありがとうございます」と言って澄ましているので「あのー手数料は?」と聞くと「受取人が支払うのでタダです」これにまたビックリ!年額2000円に上げた(これでも安いと思う)が、三年前払いだと6000円を5000円に値引きして、さらに送金手数料まで負担していただけるとは会員冥利に尽きるワイ、と感謝しながら帰途についた。

つくづく考えるに、世間的に70才を超えると活発な交友関係を持っているかどうかでその後の人生・健康が違ってくるそうだ。つまり、煩わしい利害や憎悪の交錯する付き合いではなく、趣味を中心にした気心の知れた交友関係は心身ともにいいそうである。であれば5000円の会費はなお安く思えてくる。
こう書けば20代、30代、40代の諸君は「なにを年寄り臭い!」と笑うだろうが、あと20年、30年、40年すれば諸君全員が年寄りになるのだ。そのとき会費を払い続けたことのありがたさに涙を流すこと間違いなしだ。この5000円は、会費ではなく健康(介護)保険の掛け金だと思って間違いがない!

「青信号第1号」に名前を連ねておられる大先輩が、そのとき以上の熱心さで今もデジ青に投稿されている有様は、デジ青健康(介護)保険説を証明するモノではないか?
どうか、若い会員諸氏も会費を払い続けるとともに投稿もしていただきたいと思う。

新しい役員諸氏におかれましては誠にご苦労なことと拝察しますが、介護費用の削減と、孤独な老人を一人でも減らすためにご助力をお願いして感謝の言葉とさせていただく。

こんなん、出てきました。昭和43年の上田丸子電鉄時刻表

 お堀の電車でデジ青が盛り上がってますが、信州上田城のお堀を走っていた頃の時刻表があります。それは昭和43年4月1日一部改補と書かれた時刻表です。

なんで、この時刻表があるかというと高校のクラブで信州へ行った時に別所温泉に行ったからです。温泉に入浴するためでなく、ここには全国で1つしかない木造八角三重塔があるからです。そして長野県で最初に国宝になっています。(昭和27年に指定)ということで丸窓電車は乗りましたが、お堀電車は乗らなかったのです。

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阪急「974」と「853」

阪急の「974」と「853」のガラクタです。

「974」は、名車920系の6次車で、1948年5月川崎車輛製の943~947 973~977の10両のうちの1両で、京阪神急行として戦後最初に投入された新製車です。ただ、資材調達の制約から、名目上ながら、戦災復旧もしくは、更新となっており、「974」は、京阪807となっています。末期には、944+969+939+974で組成され神戸線の支線伊丹線で活躍していたようです。

「853」は、当初700形として、1949年8月ナニワ工機で、700~704、750~754の10両が新製されたうちの1両で、ほどなく800形と改番されました。「853」は、1950年に開催されたアメリカ博覧会のPRのため、クリームとブルーの塗分けに塗装されたようです。末期には、803+967+937+853で組成され宝塚線の支線、箕面線で活躍していたようです。

「974」と「853」の阪急社紋を比べてみると、神戸の市章違いがあるのがわかります。

阪急京都線ファンだった、故羽村 宏先輩を偲んで

準特急さんの力作編『豪快に走り去った阪急710形』を読んで、ふと、当会の先輩である、故羽村 宏さんの作品掲載誌のことを思い出しました。それは、『関西の鉄道』第20号(1989年1月20日発行)に、乙訓の老人が中心になり寄稿した故羽村 宏さんの作品と共に、羽村さんを偲ぶ一文であります。

また準特急さんが先述作品のコメント蘭で述べられています。ピク誌663臨時増刊号(1998年12月)の『特集阪急電鉄』に羽村さん他DRFCメンバー撮影の写真が掲載されていたと。そうすると都合3度目になるようですが、デジ青には初めてです。

故羽村 宏さんの作品と羽村さんを偲ぶ一文を、乙訓の老人の許可を得て投稿します。なお作品は原画でなく、一文と共に『関西の鉄道』誌面のコピーです。画質が多少粗いようです。また画像の傾きなどは修正しておりません。表記も誌の通りです。

▼710系712+762の特急 高槻市 1956(昭和31)年7月
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信州上田城のお濠と電車

準特急様のリクエストにお応えして若干古い写真ではありますが投稿致します。先般の【90506】愛電デハ3080が起点となって瀬戸電、お濠の電車に話が拡がりました。お濠の電車と言えば 準特急殿がご指摘のように六文銭で名高き真田の城 上田城のお濠を走っていた上田丸子電鉄も欠かすことはできません。とは申しましても、私が撮っていますのは廃線跡だけです。

平成12年7月30日撮影 旧公園前駅ホーム跡。けやき並木が美しい。

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札幌市路面ディーゼルカー

湖畔の老人氏から札幌市交通局路面ディーゼルカーの写真が出た。電車なら出る幕はないが、事ディーゼルカーとあらば、この須磨老人が黙っている訳には参るまい。この異端ともいうべき一連のディーゼルカーに関しては、意外に情報がない、或いは知られていない、という訳で勝手に力んで、鋭意以下講釈に及ぶ。

時は1958年―ほぼ60年前にさかのぼる。ともかく元気だった札幌市は、人口増加が激しいだけでなく意気盛んだった。1950年代後半以降急速な都市化―市域拡大で、特に札幌駅前から函館本線をオーバークロスし、北の琴似に向かう鉄北線が1952年から1964年にかけて新琴似駅前に延長され続けた。この延長区間を電化せず、ディーゼルカーを運行すれば、変電所の増備が不要で、架線も電柱もないから都市景観上も、いいことだらけとして発案されたのがこの路面ディーゼルカーであった。

1958年2月12日「工事方法変更」が申請され、従来の動力「電気」に「内燃機関」が付加された。ほぼ従前通りの車体床下に最大出力150PSの日野DS40を装着し、トルコン、逆転機を経て、片側台車の2軸を駆動する。空気ドラムブレーキ、空気バネ、暖房用にはウエバストを備える。

建設費での比較では、路線(複線)1km当たり、停留場5か所、車輌4輌として、ディーゼル動車は1輌1,000万円、電車950万円、架線750万円、変電所1,300万円が不要になる代わり、給油設備に15万円、車庫修理工場800万円、修理設備560万円を要す。ランニングコストでは電車1km当たり8円78銭、ディーゼルカー13円80銭と1.57倍、減価償却でも耐用年数が短いため電車に対し1.07倍である。何やかやでトータル電車1億2,000万円に対し、ディーゼルカーなら9,535万円で済む、初年度の収益および資本収支では、ディーゼルカーが2,639万1,000円有利との「皮算用」ではあった。

試作車D1001 1959年ごろ 西4丁目 榎 陽撮影 スカートが全長にある 続きを読む

札幌市電

北の国から雪の便りがくる季節になりました。
1965年(昭和40年)3月にはるばる北海道へ行った時の記録です。
元々さほど路面電車に興味があったわけではなかったのですが、「札幌市電にはディーゼルカーがある」と聞き、興味本位で見に行きました。 続きを読む

来た!東京メトロ16025

中国支局長として連日ご活躍の西村雅幸さんが昨年の4月22日付[70699]デジ青で地元JR山陽本線本郷-河内間の夕陽の沼田川沿いで撮影された東京メトロ千代田線の新造車16025編成の東上写真を発表された。以前、私の撮った糸崎、三原界隈の写真を投稿した所、即その場所の現在の写真を報告していただいた。これは何とかしないと思い時々撮影に出かけやっとのことで先日キャッチしたので報告致したい。併せて撮影に行った時の併走写真も見ていただければ幸いである。

 

小田急永山とはるひ野および京王永山と若葉台の間にある電車見橋と言われる橋の上からの撮影でいつも付近の保育園児が爺さんに声をかけてくれる。これは京王との併走を撮影中のワンカットで拡大すれば16025のシルバー切り抜きナンバーが確認できる。

2017.11.02 小田急永山~はるひ野 我孫子行き急行16025 ▼

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豪快に走り去った阪急710系の成れの果て 静態保存しています。

準特急先輩や湯口先輩の貴重な阪急710系の写真の後で、お口汚しですが、我が家に阪急710系の成れの果てのグッズがあります。「714」の車体側面切り抜き番号です。3ドア化された後の側面番号です。準特急先輩の元気に活躍していたころの「714」の写真を見て、思わず投稿させて頂きました。部品収集が好きで、コツコツ阪急の車体番号を収集しており、そのコレクションの一つです。旧型車ばかりですが、2ドア車である320系や900系。920系、800系の側面番号は、社紋の下に車体番号がありなかなかいいものです。阪急の旧社紋は、大阪市章と神戸市章が重なったデザインですが、神戸市章が輪郭だけのものや普通のものがあり、興味が尽きません。阪急の旧型車の写真続編期待しています。合致する番号がありましたら、また、投稿させていただきます。

愛知電鉄デハ3080の成れの果て

11月12日ホームカミングデイの総会では関先生が新京阪、京阪の生の作品を披露され講演もしていただいた。先生の最近のデジ青発表作品は表題の愛知電鉄電7型電車2017.11.15[90436]である。紹介されている米手作市さんもいつものコメントの後「誰か知ってるの居らんのか」とお叱りをされていたように感じ探してみた。表題に「成れの果て」と書いたが「成れの果て」とはおちぶれた結果であるが関先生の説明では「愛知のデハ3080はその後制御車となり瀬戸線に移って特急のトレーラーとなりパノラマ並みの看板と警笛に使うタイフォンを装着し、あで姿を誇った」と述べられていた。正に歳をとってから花が開いたようなものである。その電車はひょっとしてこれかなと思い用意してみた。私は電車のハード面や履歴には疎いがこれが該当するのではないかと思い2枚だけ出してみる。間違っていたらごめんなさい。

愛知デハ3080→名鉄モ3200(3203)→ク2300(2301)

1972.09.11名鉄瀬戸線尾張旭-三郷ク2301+モ901 ▼

 

愛知デハ3080→名鉄モ3200(3222)→名鉄ク2320(2322)

1972.09.11三郷-尾張旭 ク2322+モ905 特急 ▼

 

阪急710系

このデジ青欄は、というより同人諸兄は躁鬱の傾向を抱えておるようで、投稿がやたら集中する時期と、何やらトンと寂しい時がある。どうやら昨今「鬱」の季節だったようで、さっぱりだったが、やっと準特急氏阪急710系の投稿があり、須磨でヤキモキしていた老人もホッとした。これで半年ぐらいは寿命が延びそうだ。

で、この老人が生涯でたった1枚だけ撮った阪急が710系なのである。1954年5月頃だから63年半前。6×6のお蔭でヴィネガー・シンドロームにも侵されず、幸い今日ある。

豪快に走り去った阪急710形

マルーンさんから冬眠中たたき起こされたが目覚めが悪く時間が経ってしまった。ところで老い先が短くなると昔を懐かしく思う傾向が強くなる。紅白は見ないが懐メロは見る。鉄ちゃんもその傾向があり、国鉄時代を懐かしく想い、JR化後にはあまり興味がわかない。そういいながらJR化して何年経つのであろうか。平成も間もなく終わるそうである。私も鉄ちゃんの性格を持っているので古く懐かしい阪急京都線710形の思い出を発表してみたい。

710形は1950年から1953年にかけてナニワ工機でMc710+Tc760の7編成14両が製造された。全金製の車両で神宝線810形と共に19m、車体巾1750mmで初めての阪急標準車体で登場した車両で両者は京都線100形と神戸線800形・920形を足して2で割ったような車両であるが細部を見ると電気関係、台車、窓枠の色等に差異もある。マルーンさんによると機器の位置が両線の車両には反対の位置にあるものもあるという。技術的なことはよくわからないが、私が感じたのは同じ会社でありながら両線の番号の付け方が違うことと運行表示板の位置が急行では左右反対であったことである。このことは後で触れてみたい。710形が170KW×4の大出力であることは後年知ったことであるが、小学生時代の私は神宝線沿線に住み京都線710形との出会いはたまに大阪に連れて居ってもらった時に十三-梅田間の神戸線との併走区間で見た運行表示板を2枚付けたクロスシートの710形の特急を見た時であった。この頃は十三も停車せず京都大宮終点までノンストップで走破していた。神戸線の特急は810形の初期4編成810~813がクロスシートであったが存在感が薄く、800、900、920形の17m中型車が中心で特急表示板も1枚で十三にも停車した。当然、710形の京都線の方が格上に見えたが、神戸線の方がフリークエントで600ボルトながら100km/h以上で飛ばしていてどちらも高速運転路線であった。羨望の眼で見ていた京都線710形特急も趣味活動の出遅れにより乗車体験はあったものの撮影はしておらず1969年3月4日の大雪の時にダイヤ乱れで急遽登場した時と複電圧車の機能を発揮してシーズンの休日に宝塚行き特急「歌劇号」として運行していた記録が全盛期を彷彿させてくれる唯一の姿である。そのうちの「歌劇号」が下の写真である。

1967.5.28 長岡天神-大山崎間 今津線経由宝塚行き特急「歌劇号」 714+764

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会長様を”男”にする旅

会員諸氏にお尋ねするが、よもや大畑ループ、姨捨スイッチバックと木次三段スイッチバックに行ったことがない、などという者はいないだろう。
ところがいたのである。だれあろう我がDRFC会長のマルーン氏である。
ことの始まりは今年四月の木次線旅行でのこと。突然の崖崩れで予定の備後落合から木次へ行く列車が運休になり、JRが代行バスをだしたことで肝心の三井野原-出雲坂根のスイッチバックに乗れなくなった。マルーン会長様は当該区間は齢七十にして初めてのスイッチバックであったそうで、密かな期待で胸をときめかしていたそうな。ところが代行で乗れなくなったため泣きたくなるのを堪えながら「代行バスに乗ったからスイッチバックを通ったことと同じやな」と風呂につかりながら独りごちたのを居合わせた会員に聞かれてしまったのだ。
「夜行列車で通っても、寝ていたら乗車距離には入れてもらえない鉄の掟も知らぬ会長よ、三段スイッチバックも乗ったことのない会長よ」と後ろ指を指されるこれからの余生思うとき、マルーン会長様の屈辱はいかばかりか。
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愛知電鉄デハ3080

11月8日から15日まで死のロードに出ていました。そのため、DRFCの重要イベントであるホームカミングデーを欠席する不始末を犯してしまいました。誠に申し訳なく、諸先輩はじめ会員諸氏に心よりお詫びを申し上げます。

さらに初めてご参加くださった関三平先生にもお迎えすらできず無礼を働いた上、9日の「昭和の電車・愛知電鉄デハ3080」も今日まで遅れてしまいました。関先生、お許しください。

さて、表題の愛知電鉄デハ3080とは名鉄の前身だとか。当会には名鉄に関しての専門家はおられないのでしょうか?ぜひともコメントをお願いしたいものです。

2017/11/9

ご近所話題-2

先日、伊賀鉄道に東急色復活というニュースを載せました。まだ現地に出掛けていないのですが今の忍者電車の状況をお知らせします。伊賀鉄道には忍者電車が3編成と企業広告が2編成あり企業広告の1編成が東急色に戻っています。戻る前の写真も含めての全貌です。201から205まで順を追って載せていきます。

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ご近所話題-1

本日(11/8)付けの毎日新聞伊賀版の記事です。伊賀鉄道の1編成が東急色に戻ったようです。広告契約が満了して東横線時代に戻されました。早急に実車の確認をしますので次の報告をお待ちください。本日は取り急ぎ新聞記事のみとします。戻ったのは103+104のようです。

1972年の阪堺線

昨日(11/3)夕方のカンテレで1955年の阪堺線「田辺」駅の写真が出ていました。昔の写真を見て、この場所が何処かを捜す番組ですが線路の上にはもう阪神高速が見えていました。大阪の北田辺に住んでいましたので中学生の頃は家から股が池(確かこの字だったと思います)に遊びに行く時や、桃山学院へ模擬試験を受けに行く時は通っていた記憶があります。「目の高さ」で電車が動いていました、踏み切りも路盤も電車と共有していました。さすがに中学生当時の写真はありませんが1972年10月頃の「阿倍野」での平野線の写真がありました。123、121は恵比寿町~平野、301は天王寺駅前~平野などです。このときは地下鉄はもちろん阪神高速も見当たりません。


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