“ナメクジ”に 魅せられる  (3)

形式写真を見直す

先般の鉄道ピクトリアル「D51」特集で、改めて思ったのは、形式写真の美しさでした。小さいころ、車両だけをきっちり写した形式写真にも憧れを持ちました。ピク蒸機特集に載った、形式写真の第一人者、西尾克三郎さんの写真を飽かずに眺めたものでした。自分でも形式写真を撮りたいと思うようになり、フィルム現像を覚えたり、ブロニー判のカメラを買ったりしたものでした。周囲に邪魔がなく、ロッドが降りて、下回りにも光線が当たり、公式側を3:7あたりで撮った、形式写真の条件を満たす写真の美しさを改めて思ったものでした。こんな好条件で撮れるのは、万にひとつぐらいですが、それだけに、近い条件で撮れた時の喜びは大きく、現在では、個人レベルで、現業部門で形式写真を撮ることなど、不可能になっただけに、余計にその価値を感じます。

▲ D51 25[福] 近くの山陰本線にも“ナメクジ”がいた。福知山機関区にD5125、D5166の2両がいて、貨物を牽いている姿が見られた。66号は米手さんもコメント欄に寄せていただいた。もう1両の25号は、で、正面に形式入りナンバープレートを付けた白眉の“ナメクジ”。「形式D51」と小さく入るだけで、なんとも格が上がったように見える。私の写した“ナメクジ”のなかで、形式入りはあと1両、出水区のD5194だけだった。梅小路区に配置の時代もあり、その時は東海道本線で貨物を牽いていた(福知山区、昭和42年10月)。

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 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ⑥

昭和45(1970)年8月13日 ポールからパンタへ

“ほぼ”シリーズに戻ります。開業以来、ポールで走っていた京阪大津線(京津線・石坂線)の電車が、いっせいにパンタ化されることになり、その最期の姿を写すため、この日、大谷と浜大津へ向かいました。同線にいた80、260、300、350形は、パンタの準備工事が進められ、8月22日から全車パンタとなります。ただ一両生き残った「びわこ」号63号には、もともとパンタ・ポール両方が付いていて、そのまま可能かと思われましたが、同時に行われたATS工事から除外され、唯一廃車となりました。

最後のポール姿を見せて、80形が浜大津の交差点を曲がって行く。浜大津では前年の秋に江若鉄道が廃止になっていて、ターミナルの再開発工事が始まったばかり。まだ夏休みの最中で、琵琶湖の水泳帰りの客で電車も超満員で発車して行く。周りもバスだらけで、右端の近江バス(?)の後部行き先窓には「急行 木之本」と出ている。木之本と言えば、琵琶湖の反対側だ。こんな長距離のバスが走っていたとは驚き。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  (2)

(2) 一桁ナンバーの潔さ

D51の製造番号は、ほとんどが3桁、または4桁です。形式の51も入れると、5桁、6桁の数字がナンバープレートに並び、ちょっと煩雑な印象です。ところが、この“ナメクジ”、なかでも1~9の一桁番号のナンバプレートは、何ともコンパクトでシンプル、その潔さに魅せられます。私は、1~9の一桁ナンバーのうち、滝川区で撮り逃がした3号機を除いて、写真に収めることができました。

常紋越えで25‰勾配に挑み、迫り来る一桁ナンバー機 D51 6 大きな煙室に、小さいナンバープレート、これが正面から見る、D51若番機の魅力。

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 “ナメクジ”に 魅せられる  ⑴

ナメクジと言っても、少し前にネットニュースを賑わした餃子チェーン店のナメクジ騒ぎではありませんよ。ご存じのとおり、D51蒸気機関車の一次形、愛称“ナメクジ”のことです。

蒸気機関車の代名詞ともいうべきD51は、1936年から9年間で1115両が製造され、単一形式としては最多数となる蒸機だが、初期グループ(1~85、91~100)の95両は、給水温メ器を煙突の後方の缶胴の上に置き、煙突から、砂箱、蒸気溜までを一体のカバーで覆う半流線型で、“ナメクジ”の愛称が古くから定着している(筑豊本線中間付近、昭和44年3月)。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part13 札幌地下鉄全線に乗る、帰路


第9日目 6月30日

今日は8泊9日に及んだ旅の最終日です。新千歳空港からの復路便は前回より1本後の 17:50 のフライトですので 16:30 に空港に着いていれば大丈夫です。往路はLCCのピーチでしたが復路は貯めたマイレージで交換(8.110P)したJAL特典航空券にしましたのでラウンジでビールを飲みながら寛いで待てます。

ホテルのレストランで朝食をゆっくりととってから荷物を預け、ラッシュを避けての9時前にホテルを出発しました。
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 07 41を探す!  ここにもクローバー会の協力が

令和3年度の重要文化財に九州鉄道記念館で展示されているキハ07 41(写真:左)が指定された。私も10年以上前に同館を訪れて再会している。現役の415系電車の横に展示され、車内にも立ち入ることができて、現役時代、豊後森で0741の発車を見送ったことを思い出していた。

お蔵入りのネタで恐縮ですが、ちょっとお付き合いを。このたびの重文指定のキハ07 41は、昭和12年製の機械式気動車で、戦後、豊後森機関区にあって宮原線(昭和59年、26.6km廃止)で使用され、昭和44年に廃車後、そのあとは九州鉄道記念館で開館当初から展示されています。車体や内装の多くに製造時の姿をとどめ、昭和初期の旅客車の現存例として重要であると評価されました。気動車としては初の指定で、九州に所在する鉄道車両としても初めです。キハ0741の重文指定を記念した鉄道雑誌では、キーとなる写真にクローバー会のネットワークが、またまた発揮されることに‥‥。

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お城と電車(3)伏見桃山城

伏見城と伏見桃山城は違うらしい。伏見城は秀吉、家康の時代のもので焼失したり幾多の変遷があったが、今見ることができるのは伏見桃山城で全くの模擬天守である。伏見城は最初のものは指月山伏見城で、その後近くに再築されたものが木幡山伏見城と呼んで区別されている。木幡山伏見城もほどなく廃城となり、部材が二条城、淀城、そして前回の福山城に移築されている。城跡の主要部分は明治天皇の伏見桃山御陵となっており、模擬天守のある遊園地は近鉄グループが運営していた。

走る電車は近鉄京都線竹田-上鳥羽口間の京都行き急行で652+509+649の小型車3連である。撮影は1966.10.4でこの頃ここでは吊り掛け特急も見られた。▼

この界隈は京阪伏見桃山、桃山南口、近鉄桃山御陵前、JR桃山と桃山が多過ぎて不慣れな人間には迷いやすいのではないかと思うが、寄り道先の御香宮神社の近くには戊辰戦争(鳥羽伏見の戦いか)の傷跡の残る建物も見られる。

 ほぼ50年前 同月同日メモリーズ  ⑤

昭和47(1972)年8月5日 野上電鉄「連絡口」へ

ちょうど50年前の同月同日、野上電鉄を訪問しています。廃止されたのは、平成6(1994)年のことで、廃止間際にも何度か訪れていますが、初めての訪問は、この日でした。御坊臨港鉄道と掛け持ちの訪問で、野上の乗車は叶わず、国鉄紀勢本線の海南駅の裏にある「連絡口」付近のみでした。末期の野上電鉄は、モノも心も荒廃して、良い印象は残っていませんが、この時代は、家族ぐるみで鉄道を利用する、良き昭和のシーンが見られました。「連絡口」に到着する野上電鉄104+25 よく知られているように「連絡口」は正式な駅ではなく、約100m離れている終点の日方駅の構内にある別ホーム扱いで、日方駅とは運賃同一の扱いだった。近鉄の八木西口と大和八木の関係と同じである。国鉄紀勢本線の海南駅の裏口に当たり、国鉄から下車して野上に乗り換える乗客で、ホームは賑わい、電車も2両だった。

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『HOKKAIDO LOVE! 6日間周遊パス』の旅 Part12 大雨の中、札幌市電に乗る

▲ Part 11 で投稿漏れの写真がありましたので掲載させていただきます。撮影日は他の札沼線の写真と同じく1971年(昭和46年)8月29日ですが撮影場所は分からず、前後の写真が石狩太美なので多分この辺りだろうと思います。先ほどの貨物とは牽引機がC11 228号機と違っていますので上り深川行きの8692列車と思われます。
このC11 228号機は日本車輌名古屋で1942年(昭和17年)9月11日に誕生しました。配置区は苗穂区で廃車となる1972年(昭和47年)2月7日まで配転はなく30年間をこの地で過ごしています。最後の秋を迎えていたのですね。
783馬力と非力な機関車ですが、上り下りの貨物とも長大編成の貨物列車を牽引しています。路線に急こう配区間がなかったことが良かったようです。

ちなみにC11 99号機は、1937年(昭和12年)2月13日、日立製作所笠戸の生まれで当初の配置区は広島局、1955年(昭和30年)に道内に配転して苗穂・釧路・追分区を転々として1974年(昭和49年)5月15日、苫小牧区で最後を迎えています。

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