夏の思い出 -2-

岡山へ バスと国鉄型を求めて

7月の末には、岡山・倉敷方面に向かいました。
掲示板には藤本さんやKH生さんからバスの報告がされています。私も以前、藤本さんとバスの同好会に加入し、鉄道そっちのけでバスを追い掛けた時期があります。さすがにその情熱は失せましたが、今でも、旅行中にわずかな待ち時間があれば、駅前でバスを写します。今回は、バスを主目的に、ついでに国鉄車輌も求めてのの旅でした。

 

新幹線に乗ってまず向かったのは水島臨海鉄道だった。平日の朝夕には元国鉄のキハ20が動いている。水島というところは近くて遠いところで、朝のキハ20を写すためには、前泊が必要とばかりに思い込んでいた。よくよく調べると、朝一番の新幹線で行けば、何本か写せることが分かった。
これはもう行くしかないと、倉敷に7時14分に降り立った。平日朝は、3編成
が運転されており、うち1本がキハ20の2両編成になる。水臨にはキハ20が4両あるが、2両が国鉄色、2両が水臨カラー。どのカラーかは運次第だが、最近は国鉄色2両が多いようだ。
倉敷駅からひと駅目の球場前駅を目指して歩く。この球場というのは、プロ野球の公式戦が時々行われているマスカット球場のことで、ちょうどこの日も高校野球岡山大会の決勝戦が行われるところだった。水臨はその球場を半周するように、築堤上にきれいなカーブを描いていて、撮影好適地となっている。緑に包まれるようにして、やってきたキハ20の国鉄色は、細かいところを言えば違うものの、国鉄時代を偲ぶに十分だった。単行でもない、3、4両でもない、ちょうど2両編成というところが、もっともキハ20らしい。

 

 

福山市内に福山自動車時計博物館がある。この地で財を成したオーナーが、無類のアンティーク好きで、私財を投げ打って博物館を作った次第。自動車時計博物館と言うものの、名物は何と言っても、各地からカキ集めてきたボンネットバス、近くのレストア技術者の協力もあって、自力走行できるにまで何台も再生した。
“昭和の町”として人気を集める大分県の豊後高田市内で周遊運転している「昭和ロマン」号も、元は自動車時計博物館が取得、修復したもの。豊後高田市で昨年7月から運行していたが、このたび広島市で行われた観光イベントで、一年ぶりに里帰りし、本日は、近くの鞆鉄道でも使われているボンネットバス、それに博物館所有のボンネットも加え、計5台が福山市内を里帰り記念のパレードを行った。駅前などで走行中を撮影して、博物館前で行われた記念のセレモニーに駆けつけた。カラフルに塗装された5台のボンネットが頭を揃えたのを見て、30年以上前に各地へボンネットバスを追い掛けた日々を思い出していた。

 

 

吉備線に乗車して、夕方に伯備線の豪渓に着いた。当ホームページのトップページに載っているEF64に刺激されて、伯備線でも貨物を牽引しているJR貨物岡山機関区のEF64を撮りに来たのだ。地味ではあるが、西日本エリアでは唯一の同機の働き場所だ。豪渓から倉敷寄りに歩くと、逆光ながら、連なる空コキもいただけないが、カーブを行く同機の写真を撮ることができた。考えれば、EF64の走行写真は、これが初めてだった。
帰りに乗った列車は、新見発姫路行き、時刻表を見ると、岡山周辺では、岡山駅をスルーするローカル列車が多く設定されるようになった。これに乗ると、姫路で1分で新快速に乗り継げる。新見~大阪が1回だけの乗り継ぎだけで4時間余りで結ばれる。18きっぷ族には嫌がらせのように、普通列車の乗り継ぎが年々悪くなっているが、逆にこのようなケースもあるものだ。

夏の思い出 -1-

季節はすっかり秋、今日は雨が降って寒いぐらいです。少し前のことはすぐ忘れてしまいますが、今年の夏はホントに暑かった。この暑い中、今年もヒマに飽かして各地に出かけました。準特急さん言うところの「老春きっぷ」を使って行った撮影のご報告を。

JR東海117系
JR東海の117系が、廃車を迎えそうです。平成22~24年度に313系120両を新製し、国鉄時代から継承した117系、119系127両を廃車するとアナウンスされています。本家たるJR西日本117系はまだ残るようで、京都周辺では引き続き元気な姿が見られそうです。何も遠くへ行かなくてもと思いますが、それはそれ、JR東海117系ならではの魅力もあるのです。

JR東海117系は、現在、2M2T4両編成18本がある。運転区間は浜松~米原間だが、昼間の主な働き場所は大垣~米原間となった。この区間には、117系のほか、211系、313系も入り、現在では30分ヘッドで運転されており、1時間も待てば117系をとらえることができる。昔からの撮影地、柏原~近江長岡の伊吹山山麓で117系を迎えた。この日は快晴で、JR東海色の117系も美しく映えていた。

近江長岡から上記とは反対に米原方へ歩くと、午後から伊吹を順光で撮れるところがある。この日は、山には雲がかかっていたが、やや見上げるようにして117の柔和な顔立ちをとらえられる。ちょうどやってきたのは、関西急電のリバイバルカラーを纏ったS11編成だった。なお、この区間、日中は、貨物もたいへん多い。とくに上り貨物は、ほぼ30分ヘッドでやってくるほどの貨物街道だ。

東海117系のもうひとつの魅力は、JR西日本ではもう見られない、新快速の運用が朝晩に残っていること。と言っても、メインの豊橋~大垣間の新快速は313系が独占しており、岡崎を発着とする補完的な新快速運用に残っているに過ぎないが、一度は新快速の運用から離脱したものの、再び復活した。「新快速」という響き、しかも8両編成と、かつての117系華やかなりし頃の活躍が頭をよぎった。

関西の電車・巡察の旅 その1

スルッとKANSAI夏の3dayチケットをプレゼントされた。このところ動かない老人にカンフル剤のつもりで送ってくださったのかもしれない。どうしようか、一思案の結論は、3日乗車で東西南北端まで「乗り鉄」となった。挙行に際して、①特別料金がいらない列車に乗る。②車種は不選別、来た列車に乗り必ず着席する。③老人はWCが近いから、余裕を持って行動する。④障害者手帳はないが、腰、右膝に配慮する。⑤行路途中で生中の相手を呼び出さない。さて、乙訓の五戒はどうなるか?

1日目:8月7日(日)、西向日・普通749発→烏丸805着、810発→竹田821着。ここでWCへ、やって来た天理行急行・828発に乗車する。西大寺で入庫中の阪神1000系を初めてみた。平城京1300年の沿線風景をぼんやり見ているうちに「この急行、平端で橿原神宮行に同ホームの乗り換え不能に気付き、郡山で下車した。後続の普通を待つ間にWCへ。大和八木に940着、大阪線下りホーム改修中に付き蕎麦1杯が駄目になった。944発の榛原準急に乗車。

小学校5年の夏休み、父の故郷で過ごすため130015501300の準急に乗っていた。桜井手前の変電所あたりに黒煙が上がっている。火事だ。変電所手前で列車はストップ。駅員がホームから飛び降り走って来た。駅まで走れと言って乗務員室に入って来た。列車は無事に桜井に到着、乗降あって朝倉に向け発車した。榛原で下車してその後を聞けば不通になったそうだ。桜井は吉野杉の集散地で製材所や卸問屋が国鉄線を背にして軒を並べていた。今もその片鱗が残る。

その桜井で後続の急行乗り換えのために下車。理由は終着榛原5番線にエスカレーターがないからだ。乗り換えた急行2619号車、先の準急9206号と同じ内装であるのに気付いた。老骨もリニューアルされると気持ちが良い。阪急33005300系のまだら化粧板は酷いと思う。大和朝倉を通過してスピードダウン、前に榛原準急が居るのであろう。7年半前、仁蓮上人を先頭に準特急、総本家、老人の4人で長谷寺・榛原間の御立ち台にやって来た。それぞれの御立ち位置に分散したところで、老人は黄土色に焦茶の縞模様の細長い物体を見つけた。「蛇やぁー!」、「ひぇー!」と奇声を上げたお人がいらっしゃった。保護色で50cm位の可愛い蛇だった。

長谷寺~榛原

榛原発車後「そのうち来るさかい、ちょっと待っていてや」と心の中で呟いた。榛原から南へ2里、父母の眠る墓がある。毎年この頃、兄夫婦とやってくる。酒樽でかくれんぼした思い出を従兄の3回忌の時にして、幼馴染をびっくりさせた一幕がある田舎だ。電車がらみと言えば叔父が戦争中にお伊勢さん、橿原神宮に連れて行ってくれたこと。青山越えの2200型の電制の音にびっくり、5600代の飾り窓に見惚れたのもその時だった。

名張1026着で下車。腹が「グウーッ」と鳴ったからだ。改札を出て蕎麦屋を探すが何処も開いていない。やむなくホーム売店でサンドと飲むヨーグルトを購入、ベンチで早弁とする。済ませた時、目前に急行到着。特急退避の上1051出発。伊賀神戸を前に西名張への経路を追うが分からなくなった。桔梗が丘住宅地が出来るまでは線路跡はくっきり残っていた。今は神戸駅手前の川筋位となった。

その神戸駅には863763のユニットが、海老茶に銀色のバンド姿で乗り換え客を待っていた。800系登場時の色でもなく、パンダ塗分け色でもない不思議な色だ、思わず下車してしまった。

伊賀神戸1114発、1424VVVF車は快調に走り青山町に1117着。これで本日の目的地、最東端到着となった。所要時間3時間29分、でも名張や神戸でウロウロしなかったら3時間前後で来られたであろう。でも早回りではないから、これでいいのだ。

伊賀鉄道

青山町から峠を望む

帰路は田原本から王寺を経て生駒に出ようと思いパンフを見たら不適用区間となっている。何故だろう?5年ばかりに前に乗った事があるが、その時はスルッとkansaiが使えた筈だ。大軌200形は8300系3連、信貴生駒1形は1020系4連となり、ワンマン運転にはびっくりだった。適用外区間は乙訓の戒に反するから乗る気はない。WCに行って、青山町から鶴橋に直行することにした。乗った急行は特急遅延のあおりを受け良く走る。名張-赤目口-三本松間の平坦部では110/h前後を維持している。2200形時代はどうだったのか、仁蓮上人に問うてみたい。名張3分延発は八木で取り戻し、ところが再び八木3分延発となり五位堂からノロノロ運転となる。国分で準急を抜くや再び猛ダッシュとなり、鶴橋1312着。名張-鶴橋間66.1㎞:70分(途中停車8駅)であった。50年前は66.2㎞:56分(途中停車3駅)で、かっての急行の筋を引いているのは現在、快速急行と名を変えている。所要時分57分、途中停車は5駅で、特急退避ありだ。

三本松~赤目口

三本松~赤目口

思惑より1時間早く着いてしまった。うだる暑さの中で時間つぶしを考える。そうだ、生駒山上に行こう、適用区間ではないか。王将で冷やし中華に生中をすすっている間に思い付いた。鶴橋1355発で生駒1414着。ケーブルは1420発車と係員が叫んでいる。雑誌で見たケーブル・カーは微笑ましく思ったが、現物を見ると少々グロテスクである。ガラガラの車内で発車。本日は臨時便ありで所要時分は、鳥居前(6分)宝山寺(7分)生駒山上と案内している。往復したら1516着で御帰還であった。

さあどうするか、けいはんな線へは開業草々に行ったが、トンネル電車で面白くない。さあ帰ろうか、WCに行って生駒1516発、ガタの来たアルミカーで堺筋本町、淡路を経由して起点・西向日1646着。全行程8時間57分、運賃5,050円也の巡察の旅だった。

山上線

宝山寺線

とほほ… 馬路村の魚梁瀬森林鉄道行けず

話は、今年京王百貨店で開催された「第45回 目指せ!駅弁日本一」というTV番組を見たことから始まります。その中で注目したのは、「馬路村の村おこし弁当」です。なぜに鉄道もない高知県山奥の馬路村から駅弁が、それも由緒あるイベントの出展できたのかが不思議でした。早速インターネットで調べてみると、かつて「魚梁瀬森林鉄道」が走っていて、廃線後観光用のトロッコがあるのを知りました。駅弁はトロッコの「馬路温泉前駅」で、日曜日と祝日のみ、山の幸をふんだんに1000円で限定で販売しています。これは行ってみたい、食べてみたいと思い訪問リストにおいておきました。

http://keio-ekiben.cocolog-nifty.com/2010/2010/01/post-0c07.html

6~7月の北の旅路以降、家庭事情で長期の旅が出来ず、それではと短期でいける青春18切符や新幹線指定券等々を購入しズボンに入れていましたら、日頃から洗濯好きのかみさんの藻屑と消え、新たに購入せざるをえなかった不幸となりました。今までにもお札を洗濯され何度も体験しており注意していましたが、お札は結構丈夫で藻屑は免れていましたが今回は無理でした。

再度購入しての乗り鉄をしましたが、この程度では溜まったストレスは解消しません。ちょっと違って、近場でいけるトロッコはないだろうかと、先日、湯口大先輩と神戸でお会いできる機会を得て、四国高地の「魚梁瀬森林鉄道」をお聞きしました。私は行ったことがないが、友人が行った時は運休していて撮影出来なかったと聞いたと言われました。やはり、なぜに駅弁があるのかと不思議がっておられました。

これは是非に確かめたいとチャンスを待っていましたら、9月23日からの連休が高速1000円ディにもなっているので、家を出られると、最近話題の別子鉱山も含めての3泊4日車中泊の食料等の旅支度をして、「ぶんしゅう7号」の出発準備を整えました。
ナビもセットして道路公団にもTELをして坂出ICに0時以降に通過すれば1000円割引が適用されると確認して、準備万端、さて出発となりましたが、湯口大先輩とお話した折に友人が行ったが、運転していなく見ることが出来なかったとの言葉を思い出しました。

自宅から約400キロ余り約9時間をかけての訪問です。念のために馬路村観光協会に電話をしますと、「申し訳ありません。1週間前から機関車の故障で運行していません。夏休みは元気でしたのですが、過労です。運行開始の見込みはたっていません。インクラインは運行していますがどうでしょうか。」との返事です。今、運転席でエンジンキーを回そうかとしていた状態でしたので、言葉を失いました。
湯口大先輩に電話しますと、ご友人の方は、まだ森林鉄道が営業している数10年前に、船・鉄道とバスを乗り継いで山奥に行かれたそうです。それはさぞかし大変な旅だったと思います。そして、運行していなかっただけでなく機関車は車庫に入っていて見ることも出来なかったそうです。それと比べれば、まだ行く前に分って良かったね。お酒でも飲んで忘れましょうと、慰められました。ご友人の落胆とは比較も出来ない程度でしょうが、ショックです。

今年の秋は、湯口大先輩お薦めの紀州鉱山トロッコや天川村のモノレール訪問等を予定しております。乙訓の老人、総本家さんともご一緒します。ご希望の方がおられましたら、ご連絡ください。

歌登町営軌道

小頓別に到着した昭和39年泰和車両製の自走客車

幌延町営軌道を後に問寒別駅8時27分発324D(キハ22×2)に乗車した。稚内発旭川行で、宗谷本線全線を6時間40分かけて走破する列車である。約1時間で音威子府に到着、天北線経由稚内行725Dに乗換え、小頓別に10時26分に到着した。この時間帯は町営軌道の接続はなく、駅前から枝幸行の宗谷バスが接続した。女性車掌が乗務する中1扉のツーマン車で、乗客は思いのほか多く座席は7割方埋まっていた。「上毛登別」「下毛登別」「12線」と停車し、約30分で「歌登」に到着、降りたのは私の他3名であった。この先に大きな町はないので、殆どの乗客は終点の枝幸まで行くのであろう。

バス停から200m程歩くと線路があり、13時20分発小頓別行になる自走客車が停まっていた。寒冷地のためか立派な車庫があり、使用していない車両はその中に格納されており、外に出ていたのは、ロータリー車と廃車になった元十勝鉄道の客車だけであった。発車時間まで見学・撮影し、車内に入ると運転台横には運賃箱があり、歌登と小頓別からの運賃表が掲示されていた。途中駅間の運賃表示のないのが気になったが、そんな乗客は非常に少ないのであろう。歌登発車時は4人であったが、途中の停留所からボツボツ乗客があり、小頓別到着時は12名になっていた。小頓別から「急行天北」に乗車したが座席の8割位が塞がっていた。行きに乗った枝幸行の宗谷バスといい、まだ公共交通機関がアテにされていた時代であった。   

【沿 革】

宗谷本線は大正元年11月に音威子府まで延伸開業し、その後、小頓別、中頓別、浜頓別、浅芽野、鬼志別と小刻みに延伸開業を繰り返し、大正11年11月に稚内に達した。当初は咲来からオホーツク海沿岸の中心的な町であった枝幸を経由する予定であったが、音威子府から浜頓別に向かうルートに変更されたため、小頓別と枝幸を結ぶ簡易軌道が北海道廰により建設され、昭和4年12月小頓別~幌別六線(後の歌登)間、昭和5年9月枝幸まで全通し、枝幸線と呼ばれた。当初動力は馬力であったが、昭和8年にガソリン機関車が導入された。当初は運行組合に運営を委託していたが、昭和7年5月より北海道廰直営となった。翌8年11月幌別六線~志美宇丹間の幌別線が馬力により開業した。昭和19年11月興浜北線(浜頓別~北見枝幸)が不要不急路線として撤去されると、枝幸への唯一の足として乗客、貨物共に増加したため、難所の小頓別~毛登別間をトンネルでショートカットする工事が実施され昭和22年4月に完成した。しかし、戦後間もなく昭和20年12月に興浜北線の運転が再開されると、枝幸まで行く乗客はそちらに流れてしまい、昭和23年幌別六線~枝幸間が休止となり、昭和26年に正式に廃止になると共に、残りの区間の運営を歌登村に移管した。「幌別六線」はこの時に「歌登」に改称されたものと思われる。

話が前後するが、昭和14年9月枝幸村から分村して歌登村が誕生し、昭和37年1月歌登町発足により、村営から町営となった。

歌登~志美宇丹間は昭和37年から動力化工事が開始され、昭和40年6月15日に完成し、開業したが、国鉄美幸線の工事に伴い建設用地に充てるため昭和43年12月31日以降休止となり、翌年5月に廃止となった。美幸線自体は、美深~仁宇布間21.2キロを昭和39年10月5日に開業したが、大赤字のため昭和60年9月17日限りで廃止なった。未成区間の仁宇布~北見枝幸間57.6キロ間は、路盤工事が100%完成し、一部では軌道の敷設も行われており、完成目前で中止となった。

残る小頓別~歌登間も乗客の減少により昭和45年10月31日限りで運行を休止し、翌年の46年5月26日に廃線式が行われた。

【車 両】

昭和44年10月1日現在の在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車2両/昭和40年泰和車両製8t(機関/日野DA59)

自走客車3両、内訳/昭和38年、39年、40年各1両、いずれも泰和車両製(機関/日野DS60)

ロータリー車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

ラッセル車1両/昭和40年泰和車両製(機関/日野DA59)

6t積鉄製有蓋貨車1両/昭和40年泰和車両製

6t木製無蓋貨車3両/昭和40年泰和車両製

材運台車46両

上記の他、歌登に元十勝鉄道コホハ44(大正13年藤田鉄工所製、昭和32年泰和車両で鋼体化改造/昭和35年購入)と小頓別に昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体があった。

 

昭和39年泰和車両製の自走客車

 

運転台と車内

 

昭和40年泰和車両製のロータリー車

 

元十勝鉄道の客車の廃車体

 

昭和33年運輸工業製の超小型自走客車の廃車体/運転台が片側にしかない単端式の2軸車で、エンジンはダットサンを積んでいた。定員は15名となっているが、そんなに乗れば呼吸困難になると思われ、実際には8名も乗れば満員である。窓が開かないので夏は使用できないのと小さ過ぎて使い物にならないため、早々と小頓別で物置になった。「歌登のマイクロレールバス」として模型化されており、割に有名な車両であった。

【運 行】

昭和44年10月1日現在、旅客列車4往復、貨物列車1往復が運行され、時刻表は別添の通りである。貨物列車のダイヤは、歌登発8時30分→小頓別着9時20分、小頓別発11時→歌登着11時50分であった。

歌登~小頓別間に中央、秋川(仙)、秋川(定)、熊の沢、柴山、大島、毛登別、吉田の8カ所の停留所があり、中央、熊の沢、毛登別は交換可能であった。また、歌登~志美宇丹間には辺毛内、興生、北志美宇丹の3カ所の停留所があった。

簡易軌道廃止後は小頓別~枝幸間の宗谷バスで代替されたが、小頓別~歌登間は廃止され、歌登~枝幸間に短縮されてしまった。その代わりに札幌~枝幸間1往復と旭川~枝幸間2往復の高速バスが音威子府~小頓別~歌登~枝幸間の各停留所に停車し、ローカル輸送を担当している。枝幸7時発の札幌行は音威子府で鬼志別発旭川行と相互に乗換え可能である。枝幸町では住民の利便性の向上と観光客の誘致のため、バス会社に対し、高速バスの増発を要請しているが、採算との兼合いで実現には厳しい状況である。

 

小頓別駅の接続列車の欄には「省線接続時間」と書かれており、よほど年配の職員が作成したのであろう。国鉄の駅と歌登の町を結ぶ重要鉄道路線として認識されていたため、JTBの時刻表に掲載されていた。(れっきとした地方鉄道でも「尺別鉄道」は掲載されていなかった)

【その他】

歌登町は平成18年3月20日に枝幸町と対等合併して(新)枝幸町となった。昭和14年に枝幸村から分村して歌登村が誕生しているので、元の鞘に収まったということになる。歌登町はなくなっても「歌登」の地名はなくなっておらず、今でも冬になるとニュースや気象情報の「全国の最低気温」で時折「歌登」が登場する。(最低気温-37.9度を記録している)そんな時、自走客車の乗った時のこと、小頓別に超小型車の廃車体、元十勝鉄道の客車の廃車体等を撮影した時のことを懐かしく思い出している。町営の宿泊施設「うたのぼり健康回復村」に昭和40年釧路製作所製のディーゼル機関車が保存されており、リタイヤ後是非見に行きたいと思っている。

特派員さんの「茶内の今昔」の中の浜中町営軌道の写真、西村雅幸さんの「茶内の今昔のお返しに」を拝見して、思わず現役時代に訪れた「浜中町営軌道」のことを思い出し、つい書いてしまった。直ぐに西村雅幸さんから「茶内の思い出に添えて」のタイトルで貴重なカラー写真と共に書き込みがあったので、調子に乗ってしまい1度しか訪れていない標茶、幌延(問寒別)、歌登の各町営軌道についても思い出と共に書き込みした。歌登は片道のみ乗車したが、他の3カ所は撮影だけに終わってしまったのが残念である。理由は、時刻表に記載がなく、乗車計画が立てられなかったためで、今から思うと、事前に役場に問い合わせるべきだったと思う。但し、問い合わせたところで、問寒別線のように乗れば当日中には戻れないところもあった。

今回取り上げた各町営軌道は、昭和45年度で国からの補助金が打切られたため、46年度中には全部廃止されてしまい、最末期の記録の一端として見ていただければ幸いである。本来ならば湯口大先輩の「簡易軌道見聞録」を読み、参考にした上で書こうと思ったが、手元にないため、やむを得ず当時の写真と資料等を基にして書いた。「簡易軌道見聞録」は実家の物置に眠っている筈であるが、探しても見当たらなかった。

リタイヤ後は保存車両を訪ねると共に、簡易軌道廃止後の代替バスの運行状況等についても調査したいと思っている。

新緑の北海道 余話-6-

倶知安 今昔

酷暑が続く毎日ですが、今日から9月、今さら”新緑”とは時期遅れも甚だしいのですが、これで最終とします。
ぶんしゅうさんとの北海道の最終日は、日高本線鵡川を出発し、室蘭本線で寝台特急を撮り、フェリー出航の小樽へ向かうコースでした。多少遠回りになるものの、旧胆振線沿いのルートを走ります。長い裾野を広げる羊蹄山が、初夏の青空に美しい姿を見せると、車は倶知安駅前に到着しました。
40年前、山手にあるユースを拠点に、DRFCの仲間とともにC62を追った思い出の駅でもありました。

倶知安駅も、道内のほかの駅と同じく、きれいに整備はされているものの、乗降客はほとんどなく閑散としていた。駅の裏手にあった機関区はとうの昔になくなり、公園化されていて、駅は単純な2面3線式になっていた。発着する列車も優等列車は1本もなく、単行のキハ40が日中は2時間に1本程度の発着。ヤマ線と言われる函館本線小樽~長万部間の凋落ぶりを感じずにはいられなかった。

これは40年前の倶知安駅の賑わい。キハ22に乗り降りする客でホームはあふれている。貫通扉を開け、係員が待機して、これから増結作業が始まろうとしている。北海道名物の気動車の解併結は、以前ほど複雑なものはないものの、現在でも行われていた。

駅に隣接して機関区があった。アーチ状の門標がある北海道独特のスタイル、胆振・岩内線のキューロク、本線用のD51がいて、ホームからもよく眺められた。手前に見えるちっこいタンク車は、10トン積みのタ600形、当時の国鉄貨車の中では最小部類の貨車で、ほとんどが道内封じ込め用として使用されていた。

C62重連の「ていね」が夕刻の倶知安駅に停車している。「ていね」は、撮ってよし、乗ってよしの列車で、重連が吐き出すシンダーの洗礼を受け、音と匂いで五感を刺激されながら、今は亡き一年先輩のKさんとともに長万部から着いた。跨線橋を渡り、何気にホームを見ると、C62がブロアーを吹き上げ、まもなく発車しようとするところだった。

上り「ていね」は、12時9分に倶知安に到着する。4分間の停車時間を利用して機関車は、給水、火床の整理に忙しい。「ていね」は当時客車8両編成、機関車も入れると、ホームもハミ出してしまう。広い構内で発車を待つ姿をやや低い位置から眺めたC62は、王者の風格であった。ツバメマークのデフの向こうには羊蹄山も見えた。

倶知安を有名にしたのは何と言っても下り「ていね」の発車シーンだろう。18時27分、夏なら薄暮、冬ならとっぷり暮れた中、水銀灯に照らされ巨体が、煙と音が織り成す、すさまじい発車シーンを見せてくれる。夜間撮影の楽しさも教えてくれた。これが終わると、凍て付いた道を滑りそうになりながらユースへの道を急ぐのが常だった。

幌延町営軌道

泰和車両製5tDLの引く混合列車(問寒別市街~宗谷)

幌延町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月8日一度だけである。前日の夜、札幌21時発急行「利尻2号」で出発、確か何名かのDRFC会員の方と一緒であった。旭川には日付が変わらない内に到着するためか満員で立ち客も見られた。旭川で半数以上の乗客が降り、機関車がC5516と交替した。深夜の宗谷本線を走り、幌延に4時57分に到着。通過した問寒別に戻るため、5時40分発上りの一番列車(336D)に乗り、6時11分に到着した。簡易軌道のりばで時刻表を確認すると、20線発の列車が8時10分に到着することが判明し、それまでの間、構内の廃車体や、問寒別駅を発車する「59689」の引く下り貨物列車、キハ22×2の下り1番列車(335D)を撮影した。町の外れで、DL+無蓋車+有蓋車+客車を撮影後、事務所に挨拶に行き、お話を伺った後、次の目的地「歌登町営軌道」に向かうべく324Dに乗車した。

【沿 革】

前身は、問寒別駅を起点に上問寒別16線に至る13.8キロの馬力線で、昭和5年9月10日に使用開始した。昭和14年8月14日豪雨による水害のため全線で運休、翌15年には運行を休止した。同年9月終点付近で砂クロームを採取していた「日本白金クローム㈱」が路線の応急修理を行い、20線を経て採鉱現場までの間4.3キロを建設して鉱石輸送を実施した。昭和16年9月、運行組合、北海道廰、天塩鉱業㈱の3社で協議の結果、天塩鉱業㈱が全線を無償で借り受けて運行することになった。同社は日本白金クローム㈱の延長区間を買収し、路盤、線路の強化を行い、翌17年9月より蒸気機関車1両、ガソリン機関車2両を導入して動力化した。昭和20年8月、敗戦により砂クロームの採掘が中止となり、20線から先の採掘場までの線路が撤去された。昭和22年6月北方産業㈱による石炭採掘の開始に伴い、20線~炭鉱間約3キロを伸延して石炭輸送を開始。昭和27年9月1日、幌延村が天塩鉱業㈱の所有部分を買収して村営化した。この時の動力車は、ガソリン機関車で7t車1両、5t車3両、1t車1両の5両であった。翌28年には7tのディーゼル機関車を導入したが、昭和31年12月車庫火災により全動力車が罹災し、その復旧費が経営を圧迫することになった。加えて昭和33年11月10日経営不振により炭鉱が閉鎖され、閉山処理が終了した昭和35年11月28日をもって20線~炭鉱間の運行を休止した。その後は、地域住民の旅客輸送、雪印乳業問寒別工場への生乳輸送、北海道大学天塩演習林からの原木輸送等で役割を果たしていたが、昭和43年以降、並行する道路の路盤改良と冬季の除雪が開始された結果、存在意義を失ってしまい、昭和46年5月31日をもって運行を終了し、7月3日に廃線式が実施された。

【車 両】

昭和44年10月時点での在籍車両は、次の通りである。

ディーゼル機関車8両、内訳/昭和30年旭重工業製8t(昭和31年幌延炭鉱より購入)、昭和28年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和29年日立製作所製7t(昭和32年4月泰和車両にて更新修繕)、昭和35年泰和車両製7t、昭和37年加藤製作所製7t、昭和38年泰和車両製7t、昭和38年泰和車両製6t(除雪装置付)昭和42年泰和車両製5t

牽引客車2両/昭和25年日本鉄道自動車製で昭和39年に車体更新し、木製車体に鋼板を張りニセスチール化した。(昭和31年11月当別線より転入)

6t鉄製有蓋貨車2両、内訳/昭和35年釧路製作所製、昭和36年泰和車両製

鉄製運材車50両

自走客車は最後まで入線しなかった。

 

昭和42年泰和車両製5tDL/廃止後、幌延町役場前の名林公園に牽引客車1両と共に保存されていたが、老朽化が激しく平成3年に惜しくも解体されてしまった。

 

牽引客車/上窓がHゴムになっており、鋼製車のように見えるが、実態は木製車体に鉄板を張っただけのニセスチール車。1両は5tDLに連結されて保存されていたが、惜しくも解体されてしまった。

 

6t鉄製有蓋貨車/昭和36年泰和車両製

 

昭和25年天塩鉱業自社工場製2軸客車の廃車体

 

ロータリー車と思われるが正体不明の廃車体

【運 行】

昭和44年10月時点での運行状況は、問寒別市街~20線間を混合列車2往復であった。別添の時刻表の通り、5月1日~10月31日と11月1日~4月30日とは運行時刻が異なっていた。問寒別市街~20線間16.3キロの所要時間が1時間というのは、あまりにも遅すぎであり、冬ダイヤでは20線の到着時刻と発車時刻が同じになっている。同じ列車が折り返すので、そのようなことはあり得ず、実際には10~15分前に到着していたものと思われる。

 

【その他】

問寒別~20線間に「宗谷」「4線」「8線」「16線」と4箇所停留所(すべて4の倍数である)が存在したが、「宗谷」=「第二問寒別」、「4線」=「中問寒第一」、「8線」=「中問寒第ニ、「16線」=「上問寒第一」、20線=「上問寒第ニ」と別の名称を持っていた。

三角表示の運賃表は括弧書きで「別名称」が書かれており、問寒別の駅名表示の次駅表示は画像のように「第二問寒別」と書かれていた。この辺りの関係は、聞きそびれてしまったが、今でも気になっている。

運賃は問寒別から「宗谷」まで20円、以下「4線」40円、「8線」50円、「16線」60円、「20線」70円であったが、11月1日~4月30日間は各区間10円割増となっていた。

【参 考】

 

幌延に到着したC5516の引く「利尻2号」

 

簡素な佇まいの問寒別駅

 

59689の引く下り貨物列車

 

59689のサイドビュー

下り335D(キハ22×2)

炎天下国鉄電機撮影

 酷暑が続き、65歳以上の高齢者は水と塩分の充分な補給をするように連日報道されている。最近は日射病と言う言葉はあまり使われなくなったが、寝ていても彼の世行きの可能性があるという。小生も紛れもなく高齢者となったが、青い空に白い雲がわいてくると猛暑でも鉄分補給に出かけたくなる。最近、常磐線に行ってきたばかりの1900生さんにわざわざED75の運行ダイヤをつくってもらい、また、見事なデジ青巻頭写真でお馴染みの893-2さんにEF64の撮影場所を教えてもらい、それらを参考にして消えそうな国鉄電機を撮影してきたので披露したい。

①常磐線ED75 

8月25日常磐線の木戸駅で下車、竜田方向に歩き、夕方やってくるED75を待つ。最近の天気予報では山沿いは午後雷雨の可能性があるとよく言われているが、海沿い(福島県では浜どおりと言う)のこのあたりも夕方曇ってきて今一の天気であった。こういう時は一発流し撮りで勝負に出てみた。しかし、ゴルフのバンカーショットと同じで一発でうまくはいかない。結局、ご覧のとおりの乱写状態。撮影後、近くのラーメン店で味噌ラーメンにニンニクたっぷり入れたがこれは最高。お目当てはラーメン店の氷水を何杯も飲んで生き返る。ここは再挑戦の予定。

”]

②中央西線EF64重連他

 翌26日は坂下駅下車。落合川方向に2~3Km歩く。ここは有名撮影地なのであろう、平日にもかかわらず、お目当ての重連の来る時間には3人同業者が現れる。893-2さんご愛用の公会堂無料(?)駐車場には京都ナンバー、群馬ナンバーが並ぶ。この日は昨日の福島と逆に夕方よく晴れてきた。スイスかオーストリアの風景にも似た感じがしないでもない。ローカル313系の写真がそれである。坂下の次から木曽路に入るが、これがまた、スイスの氷河急行路線のブリーク~ツェルマットに似ているようにも思われる。そういえば、車内には馬籠宿に行くスイスの学生が居た。

+EF6434[愛]”]

2010.08.26 JR中央西線坂下~落合川 313系 1859M

                                       

標茶町営軌道

標茶町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月6日一度だけである。当日の行動を振り返ると、早朝に釧路市内のYHを出発し、駅前のバスターミナルより新幌呂行のバスに乗り、下幌呂で降りた。目的は廃止された鶴居村営軌道の車両を見るためであった。前日、浜中町営軌道の方から「鶴居村営軌道の車両が未だ残っていると思う」と言われたので、急遽釧路臨海鉄道に行く予定を変更した。雪裡線と幌呂線の分岐する下幌呂に行けば何かあるだろうと思い下幌呂で降りたのであるが、道端にレールの残骸が散らばっていた程度で鉄道車両らしきものは何もなく、通りかかった人に聞いたところ「車庫が役場の近くにあったのでそこではないか」と言われた。役場の場所は中雪裡である。中雪裡を通る川湯温泉行のバスは先程通過したばかりで、次のバスは2時間後のため、やむなく釧路に引き返した。釧路からは9時10分発急行「大雪3号」に乗車、途中の五十石駅でC58127の引く客車列車(623レ)と交換して10時1分に標茶に到着。駅前の道路を真っ直ぐ進み、釧路川にかかる開運橋を渡ると町営軌道の開運町駅であった。構内にはDLが1両、2個ライトの自走客車が1両、廃車になった牽引客車が1両停まっていた。事務所に挨拶に行き、お話を伺うと、自走客車は3両あり、1両は先程上御卒別行で出て行き、1両は沼幌線で使用するため中御卒別にいるとのこと。次の11時50分発の上御卒別行で往復したかったのであるが、午後の予定の雄別鉄道に行けなくなるため諦めた。後日、標茶町のパンフレットと一緒に乗車券、時刻表、運賃表等をお送りいただいたが、中でも開運町で発売されている乗車券は行先毎に色が変えられており、非常に凝ったものであった。残念ながら現物が京都の実家にあるため、今回お見せできないが、実家に帰った時に持ち帰りたいと思っている。開運町には1時間余り滞在後、「しれとこ2号」で釧路に戻り、雄別鉄道を訪れた。

【沿革】

標茶町営軌道は、簡易軌道の中で最も新しく、昭和26年5月に開運町~上御卒別間22.5キロを第1期工事として起工、地元の強い要請により昭和29年冬に14キロ地点の神社前までの工事が完成した時点で運行を開始し、昭和33年12月に全線が完成した。昭和34年より第2期工事として開運町~標茶駅前間1.7キロを起工、昭和36年11月に完成したが、予想に反して利用者が少なく、昭和42年1月に運転休止となった。中御卒別より分岐する沼幌支線は昭和39年6月に起工、昭和41年6月より中御卒別~沼幌間6.4キロの運行を開始したが、既に道路の整備が進んでいたため学生の通学利用程度しか需要がなく、4年後の昭和45年11月に運転を休止した。開運町~上御卒別間も昭和46年8月16日に廃線式が実施され、町有バスの運行に切り替えられた。

【車両】

昭和44年10月1日時点での在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車4両、内訳/加藤製作所製(KE-21、昭和36年9月購入)・釧路製作所製(KE-25、昭和39年10月購入)・日本輸送機製(DA-57、昭和29年6月購入)・北炭夕張製(DA-120、昭和40年12月購入)

自走客車3両、内訳/釧路製作所製(DS-22、昭和33年11月購入)・泰和車両製(DS-40、昭和36年11月購入)・泰和車両製(DS-60、昭和40年11月購入)

ロータリー車1両泰和車両製(DH-100、昭和38年5月購入)、保線用モーターカー3両有蓋貨車1両、無蓋貨車7両

上記以外に廃車済車両として酒井車両製ディーゼル機関車(DB-50、昭和28年7月購入)、牽引客車(昭和32年運輸工業製)が残存していた。

【運行】

昭和44年10月1日時点での運行状況は次の通りである。

標茶本線 開運町~上御卒別間旅客列車3往復(日祭日は2往復)貨物列車、1月~4月1往復、沼幌支線1往復(日祭日は運休)

下り/開運町発8時50分(休日運休)、11時50分、15時40分、上り/上御卒別発7時20分、10時20分(休日運休)、14時00分

貨物列車 下り/開運町発15時00分、上り/上御卒別発7時30分(下りの休日のみ混合列車として運転)

沼幌支線 下り/中御卒別発16時20分(開運町15時40分発に連絡)、上り/沼幌発7時20分(上御卒別発7時20分に連絡)

所要時間は旅客列車が1時間、貨物列車が下り1時間20分、上り1時間50分、沼幌支線15分となっている。厚生、神社前、中御卒別が交換可能である。

道路の整備が進み、農家のほとんどが自家用車を保有しているため、乗客の大半が通学生で、標茶本線が50名、沼幌支線が7名位である。貨物は本線開通時は木材、木炭等相当の輸送量があったが皆無に等しい。冬季は道路が積雪により悪路になるため、1月~4月のみ牛乳運搬用に貨物列車を運行している。

以上のような状況から昭和45年度政府からの補助金が打切られると廃止はやむをえぬものとされていた。

 

40年泰和車両製の自走客車

 

32年運輸工業製の牽引客車

 

40年北炭夕張製の6tDL

 

39年釧路製作所製の6tDL

 

28年酒井車両製の8tDL

時刻表/発着時刻はすべて5分単位である。

 

五十石駅で交換した623レのC58127

北の大地へ2010年初夏編 Part11 室蘭本線

第12日目 2010年7月4日
今日は寝台特急撮影のため5:00に起きました。道の駅「むかわ四季の館」から伊達紋別駅までは、約120km高速を使っての所要時間は約1時間半とナビは言っています。急いで仕度をして出発しましたが、予定通りには着きません。

伊達ICを降りてから伊達市内の住宅街に入ると鉄道線が見えず、撮影場所への道が明確に分らず迷走しました。初めて来る所は、ナビがあっても最後は自らの目に頼らざるを得ません。

ようやく線路沿いの砂利道を見つけた時は、既に通過時刻になっていました。オマケに線路際に柵が設置されていて、撮影できるポイントがありません。嗅覚と勘を信じて走りきると、柵の切り目が見つかりました。総本家さんには直ぐに降りてもらいましたが、駐車場所を探すのに手間取り撮影準備をする間もなく7:29特急「カシオペヤ」は目の前を走り去っていきました。

がっかりしていましたら7:37、今日は運休日と言っておられた特急「トワイライト」がやってきました。後で時刻表をよく見ると、確かに9月29日までは、月水金土曜日運行ですが6月19日~8月21日は毎日運転となっています。時刻表を読み違えるほど疲れていたのですね。

7:39キハ150-110先頭の100番台3連475D(長万部→東室蘭、区間列車)が少し遅れて来ました。直ぐ近くが噴火湾に最も近い北舟岡駅です。ホームは通学の高校生で一杯でした。
7:50キハ40-789+キハ40-1784472D(苫小牧→長万部、区間列車)が、北舟岡駅から高校生を乗せて行きました。

▲  内浦湾に最も近い北舟岡駅。東室蘭方面は1日13本停車するのに長万部本面へは3本少ない。駅広場は広く、広い待合室もある。 車に戻り北舟岡駅に参りました。こんなに近ければ最初から北舟岡駅を目指せば良かったのですが、初めての訪問ですから仕方ありません。
▲ 8:10、キハ150-108単行の477D(長万部→室蘭、区間列車)が海側の1番線に入線してきました
もともと北舟岡駅は信号場として設置され後に旅客扱いされた駅です。そのためか、通常駅舎側が1番線なのに逆になっています。駅の時刻表を見ると、殆どの停車列車は、2番線発着となっています。477Dは、交換待ちでもするのかと思っていましたが、直ぐに発車して行きました。多分、臨時や工事用等の業務運行ダイヤが組まれているのでしょうね。

8:26キハ283系7両編成の特急「スーパー北斗2号」(札幌→函館)が高速で通過するのを見送った後、国道37号線沿いの道の駅「だて歴史の社」に立ち寄り休憩、ナビを見ながら小樽までの道筋の選考です。

千歳圣由の道央・札樽高速道ですと約180km所要時間約2時間半、長万部方面へ走り豊浦から山越えすると、同じ約180kmでも所要時間約4時間です。小樽市総合博物館は是非に行きたいですが、十二分に時間はあります。C62を追いかけた思い出の山線も行きたいと、総本家さんの希望で山越えを選択しました。

総本家さんから豊浦の公園には、珍しい私鉄が発注したD51が展示してあるので、まず見に行きましょうとのご提案で、豊浦駅視察後に探しました。
9:48豊浦駅着。

▲ 2面3線のホーム。東室蘭方面への折り返し区間列車もあって、長万部方面への列車本数は減っている。無人駅だが駅舎は大きく、待合室にはパンと軽食の店「かっこう」があります。

▲ 特徴はこの煙突です。
▲ 豊浦駅から国道37号線に出てGSで場所を聞きました。D51953は国道から離れて急坂を登った山の手の豊浦町中央公園に保管されていました。ここまで運ぶのは大変だったでしょうね。現在豊浦町と保存会の手で補修維持されています。
胆振循環鉄道が発注したD5101~05(国鉄買収後;D51950~954)の5両の内残っているのは、ここと富良野文化会館のD51954の2両だそうで、1975年12月13日に最後の旅客列車を牽引した機関車とされています。
珍しいのは煙突です。ギースルエジェクター形煙突と呼ばれ、蒸気の加熱度が高くなり、水の消費が少なく、燃料の節約ができる優れものでした。秋田8両、旭川4両、岩見沢2両、追分22両の計36両が改造されて配属されました。約40年前に撮影したD51にも数両が写っていました。
▲ 1971年9月1日、沼ノ端付近走行のD51308牽引の石炭列車です。
▲ 同上、D51492牽引の貨物列車です。

豊浦からは太平洋にお去らばして、羊蹄山に向かって67号線を北上しました。途中11:30、道の駅「真狩フラワーセンター」で小休止、ここからニセコに向かい5号線を約40年前のC62撮影の思い出話をしながら小樽へと向かいました。

14:40小樽市総合博物館到着。
17:00閉館までたっぷりと時間がありましたが、北海道の鉄道歴史を語る50両もの車両、鉄道遺産展示品の数々やVTRを見ていると、あっという間に閉館時間になっていました。途中、案内ボランティアの国鉄OBの方が付いてくださりまして、詳細な説明をお聞きできました。お世話になりまして、ありがとうございました。
▲ 入館して直ぐのホールに展示してあるのは、これぞ北の大地の鉄道の歴史たる準鉄道記念物「しずか号」と、1等客車「い1号」。
▲  修復復元された「い1号」の内部は、ストーブ、ソファーも合って立派な物です。これなら乗ってみたくなります。
▲ 恥ずかしながらここに来るまで義経・弁慶・しづか号以外の名前の付いた7100形を知りませんでした。8台中1889年製造・輸入の2台は名前が付いていません。なぜだったんでしょうね。▲ 1993年(平成5年)12月にアメリカのテーマパークから買い入れた7100形と同様H・Kポーター社製の機関車。「アイアンホース号」と名づけられてオイル式ながら、構内を元気にトロッコ客車を牽引して走っています。1909年(明治42年)製でレール幅が914㎜と特殊です。



▲ ボランティア説明員のおじさん一押しの大勝号。国産第2号機で7100形を参考に製造されました。
大勝号と名づけられたのは、ロシアとの戦争に大勝利した事を記念してのことだそうです。
▲ 初めて実物を見た乗ったレールバスのキハ03。20両が製造され道内で運行されましたが、現存するのは、ここ1両だけです。
▲ 多くの展示車両の中でも気になっていた現金輸送車マニ30。寝台も設置され、厨房までありました。このまま改造して、イベント列車として走らせてもおもしろかったでしょうね。
中高校生時代に京都駅1番ホーム東京寄りの側線ホームに現金輸送車が入線して、札束の入ったケースを積んでいるのをよく見学しました。当時はそれほどの警備ではなく、覗かせてくださいました。

 ここからの手宮線跡は、線路が撤去されずまだ残っています。整備され散策路となった手宮線のレール上を夕闇迫るまで歩き、北の大地での撮影旅行を終えることにしました。

小樽港の出航時間は23:30。ここでもたっぷりと時間がありましたので、折り返しのフェリーが着く埠頭で、今回最後のアウトドア食をゆっくりと楽しみました。

復路の船室は、往路と同様に神戸に長年居住していたが、子供が北海道に就職居住したので転居したと言う老夫婦と同室でした。

小樽港出航を外甲板で見ながら、早速お風呂に行き旅の疲れを取って部屋に戻ると、総本家さんドア前で待っています。同室だった老夫婦は、エンジン音がこもってうるさい。もっと静かな部屋に移って行かれた。なぜかドアを閉めたら開かなくなってしまったので、待っていたと言います。ドアノブが動かず、押しても引いてもビクともしません。これは困りました。

フロントに行って係員に来てもらいましたが、鍵穴にキーを入れても回りません。室内からロックできない構造となっているので、誰かが入っていることも考えられません。とうとう総本家さん眠たくなったと、隣の部屋に行ってご就寝です。私は、TVを見ながらビールとお酒を飲まないと寝られません。これら全て部屋の中です

部屋前には3人もの係員が来て必死の作業のようですが、1時間を経過しても開きません。いったいどんな閉め方をしたのでしょうか? 深夜になってきて、作業音も気になります。他の乗船客にもご迷惑ですので、「作業は、もう明日でも良いです。ただ私はTVを見て酒がないと眠れない。」と申し上げますと、閉まっていた売店を開けてお酒を購入させてくださり、そして「ご迷惑をおかけします。こちらでお休み下さい。」と、特等Aツイン船室のキーを渡してくださりました。
総本家さんをたたき起こして、TVのある海の見えるベランダの付いた豪華船室に移動しました。2等船室との料金差額は、2名で37,000円にもなります。

翌日、お昼過ぎに「メーカーに電話をしてドアを一部壊したので、荷物だけは出せます。取りにきてください。部屋は下船までお使いください。」と丁重な案内がありました。故障の原因については「ドアの内部ピンが1本外れて、ドアノブに引っかかって開閉できなくなっていた。こんなトラブルは初めてです。部屋の中での閉じ込めが起こらず幸いでした。」と言う事で、総本家さんにかかっては頑丈なドアもこうなりました。総本家さんのおかげをもちまして、舞鶴港まで快適な船旅を楽しめました。

12泊13日の初夏の北の大地撮影旅行は、最後にこんな「落ち」がありましたが、事故もなく無事終わりました。私は通常14~20日間の行程で旅に出ていますので慣れていますが、総本家さんは、久しぶりの長旅で車中泊が多くお疲れだったと思います。お疲れ様でした。

毎回旅日記の投稿終わる頃は次の予定を考えています。今回も満州の奥地を目指す予定でしたが、家庭事情で出られなくなりました。自由に動けるには、費用・時間の他いろいろと条件が付きますが、1番大事な事は健康です。家庭事情以外は何とかなるものです。健康で動ける内に自由な旅を目指される事をお薦めします。

次の旅はこちらです。

2010年秋1番 Part1 播但線を訪ねて

茶内の思い出に添えて

先に特派員氏や津田氏の若き姿をご披露致しましたが、藤本先生から簡易軌道の紹介がありましたので、これまた茶内の思い出としてご紹介します。

ときどき江若鉄道でお騒がせしていますが、40年も前になくなったものを復元しようとして困るのは 当時はカラー写真が貴重だったためモノクロ写真しか残っておらず、一体どんな色をしていたのかが判らないことです。茶内浜中町営軌道はなぜかカラーで3コマだけ撮影していました。藤本先生の夏の写真とは一転 雪景色ですが かえって赤や緑色が雪のなかでは映えています。撮影日は昭和46年3月12日です。

この1週間ほど前に標茶町営軌道を訪ねて 標茶駅から車庫のある開運町まで行ったところ車輌は雪に埋もれたまま放置されていて がっかりした記憶があります。なんでも大雪で除雪が困難になり、そのまま廃止されたとのこと。そのあと茶内で元気な簡易軌道の姿を見ることが出来て、貴重なリバーサルを3コマ使ったようです。

新緑の北海道 余話-5-

北浜 今昔

根室本線の次に訪れた釧網本線も40年前に訪れた懐かしい線区です。中でも、原生花園の中にある北浜付近は、その当時から有名な撮影地でした。C58の牽く混合列車が残っていたこと、原野もあって、海沿いも走り、鉄橋もあると、変化に富んでいること、網走までの夜行列車もあってアプローチしやすいことが要因だったのでしょうか。
ぶんしゅうさんに無理を言って、北浜で時間を取って夕方まで撮れるよう、車を走らせてもらいました。

釧網本線では、無人になってしまった駅舎を観光資源の一つととらえ、各駅にレストランや売店を設けて活用している。客の多くは車で訪れるとは皮肉なことだが、無人駅で放置され荒廃していくよりはずっといい。北浜駅も、”オホーツク海にいちばん近い駅”として売り出し、喫茶”停車場”が設けられている。室内は客車を模した構造になっており、窓越しに望むオホーツクの眺めも乙なものだ。特筆すべきは、本格的な料理の内容で、時間潰しにと頼んだランチの味もなかなかのもの、予約すれば、本格的なフランス料理のフルコースもできるとのことだった。

北浜駅を有名にしたもうひとつは展望台だろう。ホームの横に木造の砦のような展望台がある。平坦地で高さのある写真を撮れなかったのが、展望台のお蔭で、高さを稼げるようになった。展望台からの夕陽は、残念ながら曇ってきたのと、方向も少し違っており、期待したものではなかったが、海を隔てた山々がほんのり赤くなった。

40年前の北浜駅に入線するC58の牽く混合列車。ホームから見えるオホーツク海は変わっていない。現在の駅構内は棒線化されているが、この当時は、ホーム一面ながらも側線があったことが判る。
C58の煙室扉に何やら紙が貼り付いている。実はこれ、当局と組合との争議で貼り付けられたアジビラだ。国鉄の争議はうんと以前からあり、アジビラは組合事務所などにはよく貼ってあったが、お客が乗る、いわば聖域とも言うべき鉄道車両を組合のアピールの場としたのは、ちょうどこの頃からだった。車両全体をデカデカと石灰で書き殴る、いわゆる団結列車も、動労の勢力が強い北海道ではもう見られ、その後各地に波及していく。これが来ると全く絵にならない。これから数年間、何度泣かされたことか。

当時の北浜の代表的な撮影地、トーフツ湖に架かる鉄橋を行くC58の貨物列車。貨物はこの当時、大部分はDE10化されていたが、一部はC58で残っていた。この鉄橋、駅から近く、横を並行する国道の橋から難なく撮れる。すぐ近くにはユースホステルもある。この日も、いったんユースで旅装を解いたあと、ユースのゲタを履いて、列車の時刻に合わせて鉄橋まで行ったものだ。

原生花園を行くC58の牽く混合列車。9月なので花はないが、原生花園を行く典型的なシーンと言えようか。ワム・トムを中心にした貨車数両、スハニ62を含む客車3両も、混合列車のスタンダードだった。この列車を写すため移動していると、余りにも同じ風景が続いているため、置き去りにしたリュックが分からなくなってしまった。今回も全く同じ経験をして青くなった。40年経っても、人間は変わっていないと苦笑した。このC58、まだデフは切り詰めておらず、原型のままだ。操車掛がデッキに乗る際のスペースを確保するため、この頃から道内の蒸機のデフが切り詰められていく。前述のアジビラ、落書きとともに、蒸機が醜くなっていく直前の最後の輝きを持っていた時期であった。

上は、40年前の原生花園の中を行く釧路発網走行急行「しれとこ2号」。当時、釧網本線には線内急行が4往復も設定されていた。車種のキハ22は、道内用に汎用気動車として製造された。デッキ付のオールクロスシートを買われて、道内ではローカル線の急行はほとんどキハ22で賄われていた。室内もさることながら、小さい窓の整ったスタイルは、大好きな気動車だった。
下は、現在のほぼ同位置。木造の電柱はそのままだ。キハ40は、道内の至る線区で使用されており、さすがに優等列車運用はないものの、現代版のキハ22と言えよう。

ぶんしゅうさんも書かれていたが、北浜駅レストラン”停車場”の女主人は話好きで、食事が終わっても話が続き、なかなか脱出できない。ホントは、近くで風呂に入り、宿泊予定のオハ47に予約時刻に着こうとしていたのに、とうに予約の時間をオーバーしてしまった。気の済むまで話を聞こうと2人で覚悟し、ようやく2時間後に解放された。
外へ出るとすっかり暮れてしまい、とうとう雨になってしまった。ホームへ出ると予期しなかった列車がやってきた。ここまで長引くとは思わず、時刻表も全くマークしていなかった。雨に濡れたホームに反射する赤いテールライトと、駅舎から漏れる白熱灯を見て、行き当たりの旅もいいものだと思った。

北の大地へ2010年初夏編 Part10 日高本線

第11日目 2010年7月4日
午前中は、前日のリベンジに非電化区間の架線電柱のない伊達紋別行きのプランでしたが、疲れは取れず二人とも身体がもう動いてくれません。今日は終日、日高本線の撮影に集中する事にしました。
8:00、1986年(昭和61年)に廃線となった富内線が分岐していた鵡川駅で、上り下り列車の交換撮影から始めました。

▲ 8:36、左;様似行き2225D(キハ40-356) 右;苫小牧行き2226D(キハ40-1705)

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北の大地へ2010年初夏編 Part9 室蘭本線

第10日目 2010年7月3日
昨夜は雨がよく降っていました。「旅・人・宿 あさ寝坊」に泊まって正解でした。近くに有名な硫黄岳がありますが、総本家さんは行った事はないと言うので折角だからと、雨が上がった朝食前に行ってきました。午前8時までだと駐車料金が要らないのでお得です。

朝食はご家族3人と夜に北見から来られ、先ほどまでマスターと釣りをされていた友人の方も一緒でした。昨夜の夕食に出た「オショロコマ」(別名;カラフトイワナ)が、大漁だったようです。

お世話になった「旅・人・宿 あさ寝坊」です。民家と変わらずの外観。部屋は2階の男女別相部屋を予約しましたが宿泊していたのは我々2名だけでした。安いし綺麗ですし我々には十二分の宿です。 続きを読む

茶内の思い出

特派員さんが撮影された昭和46年3月の茶内駅の画像を懐かしく拝見した。私が茶内駅に下りたのは、現役時代の昭和42年9月5日と2年後の昭和44年9月4日で、目的は浜中町営軌道であった。昭和42年は、札幌駅21時30分発の急行「まりも」で出発、釧路着が6時20分、10分で接続の急行「ノサップ」(キハ4545+キハ22269の2連)が満員のため、「まりも」の前2両のスハフ44とスハ45の2両と荷物車がそのまま6時46分発の根室行(447レ)となるので引続き乗車した。茶内到着後、上りの234Dまで約1時間半の時間で、到着する列車を中心に撮影したが、吃驚したのは、貨物列車の直ぐ後ろを、DC(自走客車)の前後に無蓋車を連結した混合列車の続行運転であった。キハ09+キハ21の普通列車234Dで釧路に戻り、雄別埠頭の新車のDLを撮影後、雄別炭山に行った。

昭和44年は、急行「まりも」はヨンサントオのダイヤ改正で愛称名の整理が行われた結果「狩勝4号」となっていた。釧路到着後大急ぎで「ノサップ」に乗り換え、前回より1時間早く茶内に到着した。この時は車庫で撮影後、役場内の軌道事務所を訪れ、234Dまで約2時間担当の方からお話を伺い資料をいただいた。本当は西円線に乗車して上風連に行き、別海村営軌道に乗り継いで奥行臼に出ようと計画したのであるが、別海村営軌道の上風連まではかなり離れていること、11時35分発で上風連に行っても奥行臼行が夕方までないこと等の理由で乗車は次の機会ということにしたが、3年後に廃止されてしまった。あの時、別海村営軌道にこだわらずに、上風連まで往復するだけでも乗っておけばよかったと悔やまれる。この日はその後尺別鉄道を訪れた。

ちなみにその後北海道を訪れたのは、仕事を除けば、昭和51年5月に日本セメント上礒工場の電気機関車の見学撮影。平成11年11月に社内旅行で釧路空港から阿寒湖、摩周湖を見学して川湯温泉に一泊、翌日硫黄山、知床、網走を回って女満別空港から帰ったこと。平成13年2月に家族旅行で流氷見学に行ったくらいで、鉄道の見学、撮影はリタイヤ後でないと無理なようである。

【国鉄】

 

キハ22269+キハ4545の急行「ノサップ」/キハ45は、新車として完成後、北海道等の観光路線に投入してシーズン終了後本来の配置先に転属した。(42.9.5 釧路駅)

 

「まりも」に連結されていたスロ5218/スロ514を寒冷地仕様に改造。昭和44年9月にオールロングシートに改造してオハ41406となり金沢に転属、主に七尾線の通勤列車に使用後昭和56年に廃車となった。(42.9.5 釧路駅)

 

キハ094+キハ21(234D)/キハ094は、昭和37年3月苗穂工場でオハフ623を改造してキハ454として誕生、昭和41年8月の改番でキハ094となり、昭和45年2月に廃車となった。ジャンパ線が外されているのは当駅で交換する下り233Dの3両のうち1両を切離して増結するためで、北海道ではよく見られた車両運用であった。(42.9.5 厚岸駅)

 

キハ083/昭和37年3月苗穂工場でオハ6280を改造してキハ403として誕生、昭和41年8月の改番でキハ083となり、昭和46年8月に廃車となったが、加悦鉄道に売却され、鉄道廃止後も「加悦SL広場」に保存されていることはご存じの通りである。(42.9.5 釧路駅)

  

C58385の引く急行「狩勝4号」崩れの普通列車根室行447レ(44.9.4 茶内駅の根室寄り)

 

C58119の引く下り貨物列車(44.9.4 上尾幌)

【浜中町営軌道】

 

雪印乳業茶内工場に停車中の貨物列車/機関車はNo.6で、昭和40年12月釧路製作所製の8t機。廃線後「茶内ふるさと広場」に保存されている。(42.9.5 茶内)

 

西円線の貨物列車/直ぐ後ろには貨車を前後に連結した若松線(茶内~中茶内~別寒辺牛)の混合列車が続行している。機関車は昭和36年協三工業製の6t機(42.9.5 茶内)

 

貨車を前後に連結した若松線の混合列車。西円線(茶内~秩父内~中茶内~西円朱別)、東円線(茶内~秩父内~東円朱別~上風連)は客貨分離が行われていたが、若松線は混合列車2往復の運行で、日曜祝日は貨物列車のみの運行であった。(42.9.5 茶内)

 

東円線の列車(42.9.5 茶内)

機関車

昭和44年訪問時に戴いた資料によれば4両在籍していた。内訳は昭和33年製と38年製の協三工業製の6t機各1両、昭和40年釧路製作所製の8t機が2両であった。

 

No.1 /昭和31年加藤製作所の6t機で、昭和44年時点では廃車済であったが現車が残っていた。(42.9.5 茶内)

 

No.5/No.6と同じ昭和40年12月釧路製作所製の8t機(44.9.4 茶内)

自走客車

昭和44年時点では5両在籍していた。

No.1昭和35年運輸工業製(44.9.4 茶内)

 

No.2/昭和37年釧路製作所製で京阪500形を思わせる正面2枚窓が特徴であった。(44.9.4 茶内)

 

No.3/昭和39年泰和車輌工業製で、廃線後「茶内ふるさと広場」に機関車と共に保存されたが、老朽化が激しいため解体されてしまった。(42.9.5 茶内)

 

No.4/昭和40年泰和車輌工業製で、当初から2個ライト、トルコン付でワンマン設備をもっていた。(44.9.4 茶内)

 

No.6/昭和35年運輸工業製でNo.1とは同形、昭和40年に藻琴線から転入した。(42.9.5 茶内)

牽引客車

 

昭和32年釧路製作所製で、昭和42年の時点で既に休車状態であった。(42.9.5 茶内)

その他

ロータリー車2両、8t積有蓋貨車1両、8t積無蓋貨車1両、6t積無蓋貨車11両、6t積木材運搬車2両、6t積牛乳運搬車6両、6t積小荷物車1両、家畜運搬車4両、30石入牛乳タンク車3両が在籍した。

 

30石入牛乳タンク車(42.9.5 茶内)

 

 

茶内今昔へのお返しに

特派員殿

茶内駅でのスナップ ありがとうございます。キハ08と一緒のこんなスナップがあったとは うれしい限りです。昭和46年3月12日 この日の写真は白糠駅から始まっていますので、前日の長万部でのC62のあと 釧路行きの夜行普通列車から乗り継いで茶内へ入ったようです。茶内ー糸魚沢間は10Kmあり 確か中間地点付近まで歩いたと思います。混446レをかなり高い場所に登って俯瞰撮影し そのあと下り貨物列車を撮って 茶内へ戻ったと思います。よっぽど時間をもてあましたのか 特派員殿は雪の斜面ではしゃいでいました。それにしても 夜行列車で着いて、ろくな食事もとらず、厳冬のなかを10Km歩き、みんな あの頃は元気だったんだナーとつくづく思う今日此の頃です。

雪遊びに興じる特派員殿

雪遊びに興じる特派員殿

 

津田社長殿

津田社長殿

初夏の北海道 余話-4-

茶内 今昔

回の北海道訪問では、鉄道ファンを名乗る以上は、僅かでも鉄道に貢献すべく列車乗車も行いました。根室本線では、厚岸~根室間を往復乗車しましたが、列車に乗ってみると、北海道の鉄道の衰退ぶりが身を持って感じられます。
乗車したのはキハ54の単行、車内は廃車発生部品の転換クロスシートに改造され、座席定員は約50名。しかし実際乗っていたのは、20人程度です。このことから、厚岸~根室間での一日輸送量(片道)はせいぜい150~200人と想像されます。釧路~根室間は、花咲線の愛称が付され、同じ根室本線でありながら滝川~釧路間とは運転形態も区別されています。同区間でも釧路から厚岸までは、小さいながらも釧路の都市圏を形成し、通勤通学需要があるようですが、厚岸~根室間に至っては、超閑散路線となります。
実際、列車に乗って見ても、駅間には人家は見られず、ただ原野が広がるのみ。駅前ですら、かたまった人家があるのは、茶内、浜中、厚床、東根室程度で、あとは駅周辺にも人家すら見られません。乗車した日は濃霧の影響もあって、よりいっそうの寂寥感を覚えたものでした。
この区間は40年前にも乗りましたが、人家もあって、もっと活気がありました。沿線の過疎化は想像以上に進んでいるようです。途中、茶内駅で撮った列車交換シーンは、意識していなかったのですが、偶然40年前と同じ位置から撮っていたことが判明、図らずも時代の推移を感じたものです。

霧の立ち込める茶内駅に進入する5624D列車。この列車の釧路到着が8時24分のため、珍しく6人もの乗客がいて、高校生も見える。下の40年前と比べると構内の配線は変わっていないが、周囲の光景はすっかり寂しくなってしまった。
北海道は意外に都市間連絡のバスが発達している。釧路~根室間には札幌からの便も加えてバス6往復、所要時間3時間10分程度で設定されている。鉄道は7.5往復、快速で2時間、普通で2時間20分と優位にあるものの、運賃はバス2190円、鉄道2730円で、やはりJR北海道の割増運賃が大きなネックになっている。沿線の国道を走っても、通行量は極めて少ない。旅客、物流とも、この地はやはり最果ての地域なのだろう。

昭和463月、茶内駅に入ってくるのはキハ083+キハ2118の2両編成、先頭のキハ08はオハ62からの改造車で、車内は種車の客車そのもの。この日は、鉄道同好会の仲間と茶内~糸魚沢間で撮影し、この列車に乗って釧路へ戻るところ、ホームの中ほどに江若鉄道の模型復元に情熱を燃やす西村さん、鴨川鉄道社長を自任する津田君の姿も見える。当時はこれほどの乗客があったのだ。
根室本線の列車は、DCは2連、客車も混合列車として走っており、荷物・郵便車を含む4両編成だった。札幌からの急行列車も運転されていた。

当時、茶内駅を出ると、右手には、簡易軌道の乗り場があった。茶内駅前から西円朱別、上風蓮、別寒辺牛へ向かっていた浜中町営軌道で、その当時残っていた簡易軌道では最大規模だった。小規模ながらも旅客営業を行っており、茶内駅は簡易軌道からの乗換客もあって賑わっていたのだろう。中央に見えるのが「自走客車」と呼ばれる無番号のDC、左手には、この軌道の主要な輸送であるミルクの運搬車が見える。現在この場所に立っても、それを偲ぶものは何もなかったが、茶内駅の事務室に、写真や資料が展示されていた。

 

北の大地へ2010年初夏編 Part8 釧網線

第9日目 2010年7月2日

久しぶりに雨の降らない朝を迎えました。47-508の同泊者の方は、72歳のおじいさん1名でした。既に3連泊しておられ明日3日から2日間、雄武町から斜里町までの212kmを駆け抜ける「インターナショナルオホーツクサイクリング大会2010」参加のために来られたと言っておられます。我々よりも元気なおじいさんです。

▲ 1972年当時の卯原内駅です。湧網線は道内でも好きな路線でしたので、よく乗りよく撮影をしました。
▲ 美唄の4110形機とまではいかなくとも塗装され一新されたのか、綺麗な49643号機。走行していなくとも落ちついて熟睡できたオハ47-508でした。 続きを読む

北の大地へ2010年初夏編 Part7 釧網線

第8日目 2010年7月1日
① 釧路9:05(快速「しれとこ」3728D)→9:36塘路
② 塘路9:36(4725D)→10:07釧路

今日も雨です。さすが湿地帯が近い街だけあります。総本家さんは部屋で洗濯をしたのに靴下が乾いていないと嘆いていましたので、「備え付けのドライヤーを使うと速乾しますよ」とアドバイスを送ったら早速実施していました。昨日の雨の中を草むらに入っての撮影でしたので、ぐしょぐしょになった靴もついでにやってますが、これは長期戦になります。出発する前に長靴があった方が便利ですよと購入を薦めたのですが、必要ならと買わずじまいでした。もう我慢できずホームセンターに寄って欲しいと、ロケハン乗車後に行くことにしました。私も前回同じく痛い目にあいましたので、既に現地購入済みで活躍中です。由良川・厚別川の水の中や、晴天でも雑草生い茂る中での撮影に大変役に立ちました。皆様も是非に購入をお薦めします。
ホテルの美味しい無料朝食をたっぷりと食べてから、車をホテルの駐車場に預けて釧路駅に向かいました。

▲ 快速「しれとこ」は、釧路運輸車両所管轄でヘッドマークがついていました。一方、釧路~根室間を走る花咲線運輸営業所管轄の快速「のさっぷ」「はなさき」はヘッドマイクがついていませんでした。同じ釧路駅発着なのになぜなんでしょうね。 

釧網線は、ラムサール条約にも登録された「釧路湿原国立公園」の特別地域内を走行します。トロッコ列車も運行されていますが、展望には降りて高台に登らなければ壮大な湿原を見る事ができません。鉄道撮影も同様で、約40年前は今のような観光客向けの見晴らし台まで整備されていなかったので探して登りましたが、無数の蚊の大群に襲われ、堪らず退散した苦い経験がありました。

撮影はいずれも1969年(昭和44年)9月1日、細岡駅です。今は、山小屋風のかわいい駅舎待合室に変わり1面1線の単なるローカル駅になってしまいましたが、当時は相対式2面2線で頻繁に列車交換が行われていました。3両・5両編成また混合列車をC58が牽引していました。長編成はC58重連でした。



▲ 貨物列車はDE10牽引になっていました。DC急行もあり、変化に富んでいました。

▲ この日も霧がたちこめていました。その後も数回行きましたが、晴天は一度もありませんでした。

▲ 昭和44年の道内時刻表からの釧網線時刻表です。

時間の関係で塘路までの往復乗車ロケハンでしたが、復路の列車は塘路で交換します。時刻表では同時刻発車で交換する列車への乗車が、可能かどうか分りません。釧路駅のみどりの窓口のお姉さんに聞いてみましたが、答えられないとの返事です。別の駅員さんに聞くと、相対式2面2線でのスロープ横断式通路までは分りました。乗車前に総本家さんが運転手に聞きに行ってくれましたが、ハッキリと分かりません。しばらくして、私から2度目の確認に行くと、先ほどもお聞きしましたので早めに着くようにしていますが、鹿が出てきた時は諦めてくださいとの事でした。どうやら鹿出没に備えて、予め余裕を加味した運転時間をひいているようです。総本家さんの問い合わせも効いたようです。

▲ 根室本線厚岸~根室間と違って、湿地を避けるようにカーブが多い遠矢~塘路間です

乗車後幸いにして急ブレーキ発生はなく塘路に発車時刻前に余裕の到着でしたが、復路列車は既に着いています。大急ぎでスロープ通路を横断して乗りましたがヒヤヒヤものでした。ついでながら、釧網線も鹿出没は日常的で、昨日は2頭が天国行きになったと言っておられました。


11:45
釧路に戻りホームセンターに寄ってから再び塘路駅に着きました。観光バスが駅前に数台います。丁度釧路からの「釧路湿原ノロッコ2号」が到着した直後で、団体観光客がバスへ乗換えていました。11:58、川湯温泉行きの4730Dが発車後、折り返しのトロッコは「釧路湿原ノロッコ1号」となって12:07釧路に戻っていきました。


撮影地ですが、霧が幾分晴れてきたとはいえすっきりとした写真は期待できません。でも折角来たからと、通称二本松と言われるポイントを目指しました。サルボ展望台方面へ向かい、途中で左折して久著呂(くったろ)道路の砂利道を走りますが、右折する道が見つかりません。

冬場なら枯れ木となっているので容易に見つかると思いますが、夏場はこれでもかと緑一色です。先まで行ってしまったようで、Uターンして再度見直し、多分ここだろうと思われる道を見つけましたが、左折しようにも大きな水溜りが行く手を阻みます。総本家さんが降りて、長靴で深さを調べてくれますが走行は難しいそうです。ここで車を降りて徒歩で山道を向かいましたが、途中で道別れしていて間違いました。

12:48、撮影地に着いた時は既に列車は通過した後で徒労に終わりました。撮影地には、30分前に必着しないとアングルが決められません。それ以前に撮影地に着けなかったのですから釧路湿原の撮影は失敗に終わりました。試し撮りを見ると、やはり霞んでいました。場所は申し分ありませんが、雨や霞が出る時の撮影は無理です。次回に期待する事にしました。

次の撮影地に総本家さんは北浜駅付近を熱望しておられますが、約130km以上あります。道は高速道路同様ですのでP6並みの高速走行は可能ですが、シカの出没やネズミ捕りを考慮しての運転となると、ぶんしゅう7号走行前に道内ナンバーの車が2台は走ってくれないとできません。これは道内ドライブでの鉄則です。

北浜前に私が希望するのは、エゾマツ・トドマツの林の中を走る光景です。勤務時代に仕事で行った時に、川湯温泉辺りに見た記憶がありました。摩周国道と呼ばれる391号線は釧網線に沿って走っているのですが、木々に囲まれて鉄道線の様子を見る事ができません。

ナビを見ながら交差する農道を見つけては右折左折を繰り返して、ロケハンします。交差する道の全部を辿る事は不可能ですので、後は自分の嗅覚と感を信じて探します。最初の撮影地は標茶から分かれた13号線の高架橋でした。上下両方が狙えます。

着いて直ぐの14:09川湯温泉発の4733D(キハ54-117)がきました。慌てながらカメラを取り出して向けましたら、なぜか霞んでいます。しまった、車内は空調しているので湿度が抑えられているのですが、外気は湿気100%状態です。一瞬にしてレンズが曇っていたのです。外気と車内に温度差がある時にも起こります。忘れていました。
しかし、標茶で交換した4736D(キハ54-515)がきます。こちらは万全体制で撮りました。

次は、美留和~川湯温泉間で、4736D変じて「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」(摩周~緑間を9/30まで期間運転)という粋な列車となった8736Dを追い抜いて撮りました。

摩周駅川湯温泉駅では約20分間、足湯に入っていただくために停車します。ヘッドマークも付いていました。

川湯温泉~緑間には難所の釧北峠が待っています。しばし川湯温泉駅で休憩としました。

川湯温泉から緑方向に硫黄岳をバックに入れて撮れる撮影地があるというので、また砂利道を進んでみました。ここも踏切がポイントですが、遮断機が邪魔します。雑草も刈り取りたかったのですが、ご覧のように硫黄岳は霞んだ状態ですので、やる気が起こりませんでした。

までは391号線と釧網線は大きく離れて走ります。国道も折り曲がる急坂が続く峠道となって難所です。緑を過ぎると牧歌的な丘陵地帯が続き、撮影意欲を呼び起こしてくれますが、また釧網線とは離れていきます。総本家さんに確認すると、北浜は夕焼けが是非とも撮りたいと言っています。

18:00以降の到着で良いと了解が取れましたので、右折して南斜里駅を目指しました。列車通過時刻を見てもらうと余裕はありません。見渡す限りの丘陵の野菜畑の中を一直線に伸びる農道には、走っている車は全くありません。これなら大丈夫と、P6で参りました。

先ほどの足湯号を抜きたかったのですが、知床斜里駅を出た斜里川鉄橋がやっとでした。後方の斜里岳1,547mが広い裾野を見せてくれています。夏場ですので陽は西寄りに沈みます。夕刻は逆光となりますのでここでの最適撮影時刻は、午前中なのでしょう。知床斜里駅に立ち寄りました。

年間観光客約100万人(平成21年度実績)の知床の玄関口だけあってモダンな駅で、過疎地では珍しい駅員配置駅です。そしてローカル駅には見られないバリアフリー駅、駅前には知床等へのバスターミナル、道の駅もあり、交通の中心地となっています。多分原生花園花のシーズンでは、知床帰りの観光バスはこの駅で観光客を降ろして原生花園臨時駅まで列車に乗せるのでしょう。

始めの駅名は「斜里駅」でした。1998年(平成10年)に改名されています。
斜里駅はかつて国鉄ローカル線建設華やかし折に、逆行するかのように廃止された根北線の起点駅として強く印象に残っています。大赤字が増大する国鉄再建のため国鉄諮問委員会が発足し、1968年(昭和43年)9月に営業係数が高く、「使命を終えた」と見られる赤字83線2590.6kmものローカル線がノミネートされました。その中に根北線が含まれており、地元と調整了解後の1970年(昭和45年)に廃止されていました。

当時は町から過疎地へとレールがつながる事の意味は精神的に大きく、沿線住民の願いでもありましたので、延伸も予定され一部着工されていた路線での廃線は、意外なことでした。

まだ時間に余裕がありましたので、知床斜里駅を釧路方面に出て90度方向を変える釧網線沿いの砂利道を走り、17:35青々とした野菜畑を前景に斜里岳の麓を行く4739Dを撮りましたが、晴天なら素晴らしい光景だったでしょうね。必ずリベンジします。

北浜駅までは約30km、18時過ぎには北浜駅に到着しました。今日の宿泊は、昨年10月にお世話になった湧網線卯原内駅交通公園スハ47-508を電話予約しました。今回は同宿者がおられるそうで、19:30までは待ちますがそれ以降なら明日9:00にお支払をお願いしますと、管理されておられる喫茶店のマスターのお返事でした。

北浜駅で18:33発の4740Dを撮影後に向かう予定でしたが、駅舎内の軽食&喫茶「停車場」で、夕食を済ましてからに決めました。が、ここで話し好きなママに捕まってしまいました。カメラ撮りも得意なようでこの時間にこの場所で撮るのが雰囲気が出て1番と、我々のカメラを持ってバシャバシャと写してくださいました。話が弾んで、20:05発4745Dを撮るまでいました。

北浜駅での鉄道写真は撮りましたが、ピントが甘くお見せできる仕上がりではありませんでした。どうも愛用カメラを使いこなせていません。Nikonお客様窓口へ電話をしてアドバイスを求めましたら、丁度鉄道写真を撮っていらっしゃる担当者が応対してくださいました。原因は列車のライトがAF機能に影響するようです。3Dトラッキング機能にセッティングすれば防止できる等々、いろいろと対策を教えていただきましたが、最善の策は鉄道写真家の山崎友也氏が言われているように①カメラを三脚に固定しAF機能を解除する。②液晶モニターをライブビュー撮影設定にする。③画面を拡大してピンをあわせて、列車がその位置を通過する時にシャッターを押す。といったほぼ完全マニュアルで撮影することで問題は解決すると言います。

聞けば当たり前のことですが、ライブビュー設定をして拡大してピントを合わすのは、デジタル一眼なればこその技です。ただこれでは、連写や撮影地点前後のショットはボケピンになります。三脚使用もやりたくありません。狙っている列車の通過地点より前後に予想だにしなかった良いショットが撮れる事があります。

確実な一発勝負にこだわるか、連写を生かして意外性も期待するかの選択です。勿論後者は、AF機能が付いていなかった以前のカメラと同様なカメラマンの腕前が要求されます。老眼になって暗いシーンは苦手となった老体には厳しい要求です。どちらを選ぶかは難しい選択です。皆様でしたら、どちらを選択されますでしょうか? それとももっと良い方法はあるのでしょうか?

北浜駅を出発後の卯原内駅への途中で、総本家さんが新婚旅行に泊まられた網走湖畔荘の温泉に入浴後、同宿者の方には迷惑な到着時間になりましたが22:00近くに着きました。  Part8   へ続く

初夏の北海道 余話-3-

最後の運炭鉄道

今回の北海道行きの楽しみの一つに、釧路の太平洋石炭販売輸送の訪問がありました。日本最後の炭鉱、釧路コールマインの運炭部門として、採炭地の春採から、積出港の知人までの4.0kmを結んでいます。ただ、JR線と連絡しない自社線完結の路線とあっては、今まで訪れる機会もありませんでした。
ぶんしゅう号で釧路市内へ入り、地図と見比べながら行っても目的地が分からず、ぶんしゅうさんに叱咤されながら、ようやく機関区のある春採駅にたどり着きました。
ぶんしゅうさんのレポートと重複しますが、車両を中心に報告します。

この鉄道は、大正14年に釧路臨港鉄道として春採~知人間が開業。釧路川の左岸で路線を延伸し、石炭・一般貨物だけでなく、旅客営業も行なっていた。内燃動車も導入されたが、昭和38年に旅客営業を廃止、昭和54年には太平洋石炭販売輸送に吸収され、石炭輸送の専業となった。
釧路市沖の太平洋の海底から採炭していた太平洋炭鉱は、平成14年に採炭を中止し、以降の事業は釧路コールマンに継承されるが、事業規模は大幅に縮小された。写真は、機関区のある春採駅の全景、背後にある丘の上から太平洋の海底に向けて坑道が伸びている。以前は、この丘の上に、610mm軌間の専用線があり、三笠鉄道記念館に保存されているヒョロ長い電機が使われていた。

春採駅に待機している編成がシャトルトレインだ。DLが前後に付くプッシュプルとなって連接式の石炭車を牽引する。最盛期は機回しの時間もないぐらい忙しくて編み出された運転手段だろうが、大幅に事業が縮小された現在では、意味を成していない。事実、訪問した日も、午前の1便だけで当日の列車は終了しており、念のためと思って再訪問した翌日も同様であった。

シャトルトレインの先頭に立つのがDE601、日本ではたいへん珍しくなった電気式のディーゼル機関車。片運転台式で車体の背の高い日本離れしたデザイン、それもそのはず、GE社製のライセンスで日本車輌により製造された。ライトブルーに黄色のライン、”ShuttleTrain”と書かれた英文字も実によく効いている。DEとは言うものの、軸配置はB-Bであり、Eは電気式を指すようだ。

D401 昭和39年製で、車体はDD13後期型と同じだが、珍しいロッド式。赤白く塗られたロッドはよく目立つ。予備機扱いのようだが、訪れた日は、ロッドの音が響かせながら入換に励んでいた。ぶんしゅうさんが尋ねられていたボンネット部にある覆いは、石炭積込時にホッパーから漏れてくる選鉱液がファンの中に入り込まないようにする覆いとのことだ。

D701 昭和52年製、日本車輌の私鉄向けDD型で、DD13と類似している。軸バネ台車が特徴。防寒のためボンネット端部が密閉式になっている。通常は、シャトルトレインの春採側に付く。


D801 元は雄別鉄道YD1301で、昭和41年製。雄別鉄道の廃止後、釧路開発埠頭のKD1301となり、ここも廃止となって平成12年に入線、D801とした。

廃車のD101 昭和33年製で、北海道としては初の大型DL。ロッド式の台車が特徴、DD13と似ているが、細部は異なる。前照灯は1灯だったが、2灯に改造された。10年以上前に廃車となったが、錆びを浮かべながらも、留置されていた。

連接式の石炭車セキ6000 昭和41年から製造され14組28両ある。現役の貨車としてはわが国唯一の連接式。機関車からの遠隔操作により、側扉開閉、連結解放を行う。

春採駅の奥にある石炭ホッパー。海底から採掘された石炭は選炭のうえ、ここで石炭車に積み込まれる。ただ現状は、海外からの採炭技術者の研修を兼ねた採炭を細々と続けている程度に過ぎず、行く末が心配されている。