第7日目 2010年6月30日
① 厚岸6:47(快速「はなさき」3625D)→8:13根室
② 根室8:22(5628D)→9:49厚岸
昨夜からの小雨が続く朝を迎えました。起きて直ぐにTVをつけて、昨夜のワールドカップの結果を聞きました。結果はご存知の通りですが、もし見ていたら興奮して寝られなかったでしょうね。
友は「天候に恵まれない雨の日こそ、めったに見られない光景を写せるチャンスがある。」と、有名な鉄道カメラマンの言葉を言いますが、小雨に加えて霧も出れば、白い世界しか写らない。どうしたらいいんだと言いたくなります。しかし行動を起こさないと、チャンスは生まれてきません。他のオートキャンパー達が眠る道の駅「厚岸グルパーク」を出発して厚岸駅に向かいました。
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「紀行文」カテゴリーアーカイブ
北の大地へ2010年初夏編 Part5 根室本線、太平洋石炭販売輸送㈱臨港線
第6日目 2010年6月29日
朝起きると、「道の駅しほろ」の駐車場は、車で寝泊りしながら道内を観光する全国各地からの車が数多くありました。立派なキャンピングカーもあれば、小型車で簡単な窓隠しをしただけの車もあり様々です。その方々のご年齢層は、私達より高く70歳前後以上です。男性一人の方もおられれば、ご夫婦もおられます。どなたも約1ヶ月かそれ以上をかけて、ゆっくりと道内を見て回ると言っておられました。ようやく日本も、退職後の余暇を楽しむ方が増えだしたなあと感じました。
6:00、ゆっくりと朝食準備されている方々を見ながら、我々は早朝からの撮影に出発です。

6:50、池田駅着。1番ホームに新得行きキハ40-1723、2番ホームには、浦幌行きキハ40-1774、芽室行きキハ40-722+キハ40-1778+キハ40-751が縦列で停車中。

▲ 7:31、豊頃駅を通過して、池田方面に向かう特急「スーパーおおぞら2号」を73号線の高架橋から撮影しました。

7:50、新吉野駅着。ここで、先行する2523Dを新吉野駅で追いつきました。

8:00、浦幌駅着。帯広~浦幌の区間列車が走るだけに駅周辺は、住宅街です。きっと池田や帯広に通勤通学客があるのでしょう。

次の上厚内駅は、木造駅舎ですので、じっくり訪ねることにしました。国道側に駅舎はなく反対側です。行き過ぎてから踏切を渡ろうとすると、良い感じのカーブとなっています。丁度釧路からの特急「スーパーおおぞら4号」が通過する時刻です。振子式を撮るにはカーブが1番です。1つ邪魔なハエタタキがありましたが、まずまずでした。

8:26、上厚内駅着。待合室にFRP製椅子が設置されていますが、ドアや窓もアルミ製ではなく、外観は純木造駅舎です。この後もぶんしゅう7号での各駅停車の旅は続きます。

上厚内からの道路はJR線と分かれたので、直別駅まで行ってしまいましたが、手前で逆Ⅴ字形に折り返して、厚内駅へと海岸沿いをロケハンしながら向かいました。

丘陵が海岸近くまでせり出して、わずかな間に根室本線と側道が走っています。丘陵上から海岸線を入れて撮りたいのですが、土砂崩れ防止コンクリート壁が設置されているので、これが邪魔です。また電柱・太い電線もあります。邪魔物がなく丘陵が途切れる間を見つけては止まって、撮影可能か確認しますが、なかなか条件が揃った場所はありません。
それでも1ケ所、何とか撮れそうな場所が見つかりましたが、たどり着ける道がありません。こうなれば、2人で道を開拓するしかありません。庭バサミを取り出して、線路を横切り丘陵の多い雑草を刈り取りながら道を作り、滑りやすい斜面を上へと登って行きます。二人いたからこその作業です。一人ですと、途中で滑り落ちて動けなくなったら最後、誰にも見えず分らずで天国行きです。
約30分をかけての作業で適当な撮影地にたどり着きましたが、快晴でなく水平線が見えません。しかし雨が降らなかっただけでも良かったと、列車を待ちました。
10:14、釧路行きの特急「スーパーおおぞら1号」が通過。

アングルに収めきれない通常より1両多いありがたくない8両編成です。

約30分後に貨物列車が追走してきます。音別~古瀬間に絶景ポイントがあるので移動しようと向かいました。途中の尺別駅は、かつて尺別鉄道の起点駅なので立ち寄ってみました。約40年前は数千人が居住していた駅周辺は、廃屋が数軒あるのみで、跡は自然へと戻っていました。駅構内もC12形機が往来したヤードの面影は、全くありませんでした。
絶景ポイントに到着しましたが、手前の音別駅で交換のため約40分間停車するのを忘れていました。急いで引き返しましたが、貨物列車が来てしまいました。ベテラン二人がいても、疲れていると考えられないミスをしてしまいます。

11:04、音別駅着。駅員の方が、丁寧に交換する列車と時刻を教えてくださりました。ありがとうございます。
音別駅で2093コンテナ貨物列車は、入換作業をします。久しぶりに途中駅での作業を見ました。約半分のコンテナ車を切り離して、留置貨物線に牽引します。音別駅近くには、Kioskで販売されるオロナミンCの製造工場があって、この輸送のための停車だったようです。


入換光景を撮影後、音別~古瀬間の丘陵地帯へと戻り、まず釧路行きの特急「スーパーおおぞら8号」を待ち受けます。次に音別駅で交換した2093貨物列車を待ちました。
12:05、キハ40系2連の2525Dを撮影後は霧がたちこめてきて、撮影不可能となりました。

自然には勝てません。撮影は諦めて釧路へと走り釧路運輸車両所に立ち寄りますと、国鉄色キハ183系4両編成が留置されていました。これには、総本家さん大喜び、他に休車等の留置車両多しで予定を変えて撮影会としました。


今回の訪問希望地の1つだった太平洋石炭販売輸送㈱臨港線には、14:40着。事務所によってダイヤを聞くと、残念ながら今日の運行は終わっていました。運行は、当日の採炭量によって決まるとかで、石炭輸送専用ですので炭鉱トロッコと同様扱いです。撮影許可を取って、構内のDL・石炭車を撮りましたが、総本家さんGE製DE601の美形にうっとりです。私は、初めて見る連接式の石炭車セキ6000形にびっくりです。走っているシーンが撮りたかったですが、次回にしました。


▲ 他にも珍しいロッド駆動式のD401機等の凸形機がありました。D701機を除いての現役機のラジエーターファンの上に屋根が付いていますが、なぜでしょうか?
今日の宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」です。ここからは、約50kmで楽勝と思っていたら、途中でナビにない新しい道を走ってしまい迷走です。結局、元来た道に戻らざるをえなくなって、大幅に遅れ16:15門静駅に到着しました。ホームの先から海が見えました。少し戻って、山間のオーバークロスで撮ろうとの提案がありましたが、先を見てから決めようと向かいましたら大正解でした。海岸沿いに広がる厚岸の町並みをバックに線路があります。小高い丘をまた二人三脚で道を開拓して、見渡せる撮影場所を造りました。

私が最も好きな光景です。16:32釧路行き5638D、17:14根室行きの5637Dの2本撮った後は、順光で夕陽もさしてきました。本命の17:32、5640D撮影を楽しみにしていましたら、直前に突然ご覧のような雲が下りてきました。

宿営地は道の駅「厚岸グルメパーク」には温泉がないので、電話をして近場の温泉を聞きましたが、1時間以上行かないとないそうです。代わりに厚岸には1軒しかないという銭湯を紹介してもらいました。十勝沖地震以前は町内に4軒あったそうですが、ここを残すのみだそうです。中は番台におばちゃまが座って、常連の入浴客と話している昔の銭湯光景で、レトロなお湯を楽しめました。

夕食は勿論、厚岸の牡蠣料理を「厚岸グルメパーク」内で堪能しました。ワールドカップの決勝トーナメントパラグアイ戦の放映がありましたので、車内観戦できるように準備万端しましたが、高台なのに地デジもワンセグも映りません。帰宅間際の道に駅の事務員さんに聞きましたら、この位置ならアナログは入ると言われ、秘密の場所を教えてもらい移動しましたが、放映直前に眠気がおそってきて諦めました。
Part6 へ続く
こんなんあるでぇ!シリーズ
【9057】北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠のなかの狩勝峠で、特派員氏とぶんしゅう氏が旧線を探しておられるのを見て手元の古い資料を探してみた。須磨の大人風に言うと「またぶんしゅう氏の挑発に乗った」ということになる。
撮影はいずれも昭和40年8月、早朝の信号所からクマザサをかき分けながら登ること3時間、頂上(らしいところ)に到着したが深い霧で足下もおぼつかないほど。待つこと一時間、その間ドラフト音は聞こえるのに見えないのがつらかった。するとアッというまに霧が晴れた。そこで見たのはこの世とも思えぬ大眺望!いまでも人生最高の眺めであったと確信している。
さて、ぶんしゅう氏と特派員氏が見たのもこの眺望だろう。見比べてみていただきたい。
新緑の北海道 余話-2-
北海道には、国私鉄の廃止後に造られた鉄道博物館・資料館が数多くあり、ぶんしゅうさんが紹介された三笠鉄道記念館はその代表です。幌内線の廃止後、三笠駅跡と幌内駅跡の2ヵ所に造られた、ゆかりの車輌が50両近く保存される、全国でも最大規模の鉄道博物館です。
北海道ではその後も多くの保存車両に接することになるのですが、そのいずれも、定期的な塗り替えなどのメンテナンスが行われ、野外展示でもたいへん美しい姿で保存されています。保守に携わる関係者の熱意には心打たれました。
ここに鉄道記念館が造られた理由を、よく理解しないまま訪れたのですが、北海道で初めての鉄道である幌内鉄道が開通したのが、1882年の手宮~札幌~幌内間で、おもに幌内で発見された良質の石炭を小樽・手宮港へ運び出すのが主目的でした。廃止前の幌内線は、岩見沢から三笠を経て幾春別までと、三笠から分岐して幌内まで、計20キロ余りのローカル線に過ぎませんでしたが、元を正せば、札幌・小樽へ通じる、明治の幹線でした。三笠鉄道記念館は、言わば北海道鉄道発祥の地にある、由緒正しき鉄道資料館と言えるでしょう。
保存車両を見ていると、ぶんしゅうさんから「このDD51、御召を牽いている」と聞かせてもらいました。説明板を見ると、展示のDD51548は確かに昭和43年に御召牽引と書いてあり、その時にも撮っていたことを思い出しました。他も見ていくと、現役時代にも撮っていた車両があり、思わず40年前にワープしていました。
▲旧三笠駅跡にある、クロフォード公園と呼ばれる一番目の保存場所に置かれたDD51548。ここには、三笠駅の旧称である幌内太駅を模した駅構内が復元されている。その中に貨車を牽くDD51548が置かれている。ホームや跨線橋も復元され、現役時代を髣髴させている。
▲以前の掲示板でも記したが、DD51548は昭和43年9月、開道100周年に際して、千歳線・函館本線・石北本線で御召列車を牽いている。写真は旭川四条~新旭川間で旭川発上川行の御召を牽くDD51548。真夏のような陽射しの中、ロギング太郎さんと一緒に撮りに行ったことを覚えている。
この頃、北海道ではDD51が釧路・旭川区に配置され始め、次第に蒸機を駆逐して行った。同機は、言わば北海道のDD51の生え抜きでもあり、御召牽引の実績とともに、保存にふさわしい車両であろう。
▲2番目の会場である幌内駅跡には、多くの保存車両があり、その大部分は野外だが、一部は庫の中に保存されている。そこにいたのが、北海道最初の電気機関車のうちの1両、ED76505である。腐食もなく、美しい姿で保存され、運転室への立ち入りもできる。

▲北海道の鉄道で、初めての電化区間は、昭和43年8月に開業した小樽~滝川間であった。電車は711系、電機はED76 500番台がいずれも新造された。写真は、電化直後、まだ地上時代の札幌駅で421列車を牽くED76505だ。421列車は函館発釧路行の普通列車で、延々680キロを通す普通列車として、その当時も名を馳せていた。
北の大地へ2010年初夏編 Part4 富良野線、狩勝峠
第5日目 2010年6月28日
ペンションは、「ほしの灯屋」のオーナーは、奥さんの事故後遺症治療のために、効能良い温泉を探しペンションを始められただけあって、ご自慢の源泉かけ流しの湯は、疲れ限界に達した我々には最高でした。昨夜寝る前、朝も入って、元気になりました。
宿泊客は、香港から来られた親子連れもいらっしゃいまして、5組9名でした。山や動物写真を撮っておられる猟友会の方々もおられ、今年は雪が多く餌不足で、熊やエゾシカが人里に下りてきている。遭遇する可能性が高いので気をつけるように、熊は嗅覚聴覚が人間の数10倍以上優れているので、声や鈴で音を出していれば遠ざかってくれるが、偶然出会いがしらに会った場合は一撃でやられる。そんな時は身の回りのものを置きながら熊の興味を引き付け、ゆっくりと離れる事。約50m外が安全ラインなので、越えたら一目散に逃げるようにしなさい。
エゾシカはグループで行動する。1頭が道路を横断した時は、避けられたと安心してはいけない。鹿は必ず2、3頭目が続いてくる。皆これと衝突する。衝突すれば被害は甚大で車が大破する。暗くなると行動が密になるので我々は、夜は絶対に走らない。とアドバイスを受けました。
夕刻の撮影が好きな我々です。そのため撮影後、夕闇の中を走る機会が日常的です。聞いた途端に夜の走行は止めなければと思いました。
お薦めします温泉ペンションは、白金温泉「ほしの灯屋」です。
http://www9.plala.or.jp/hoshinoakariya/
朝食をゆっくりとって、遅めに出発しました。9:20、上富良野駅着。
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北の大地へ2010年初夏編 Part3 三菱美唄鉄道、三笠鉄道記念館
第4日目 2010年6月27日
昨夜は「道の駅三笠」に到着後、隣接する超大型スーパーで食材のお買い物をして、出発時の舞鶴港同様にテーブルをひろげてのアウトドアの夕食をゆっくり楽しみました。私は、家族や友人達とアウトドアを楽しんでいましたので、慣れたベテランですが、総本家さんは学生時代DRFC合宿以来です。抵抗があるかなと思いましたが、旅行慣れでこだわりなくよく食べておられましたので安心していました。
食事後に入浴されるのが習慣だと、隣接する温泉に行かれましたが、20:30で入館は終わっていて、入浴料も1500円と高かったとがっくりとして帰られてきました。温泉施設は全国各地に行っていますが、20:30が入館最終時間と聞くのは初めてです。1500円という入浴料も、超有名旅館の日帰り入浴並みです。道内は500円が相場です。我々の一日当たりの食費に匹敵する高さです。
昨日は、真夏日だったので、洗面所で汗を拭くだけでは不快だったと思います。加えて高速・主要道そばでの連泊ですので熟睡できなかったと、見ていてもハッキリと分かる程、身体全体に疲労が充満しています。私も移動距離が長いので運転疲れで限界です。今夜は安い温泉宿をとって、早めにゆっくりすることにしました。撮影地は、富良野線ですので、白金温泉の露天風呂付きのペンションを早め予約しました。
朝からは、静態保存の4110形蒸機を見学予定でしたが、10:00開園となっていたのでそれまでの間に、函館本線を走行する多彩な列車を撮影する事にしました。美唄までの約15kmが候補地ですが、決まった場所はありません。
▲ 9:09、峰延→光珠内 大人気のキハ183系0台4両編成の特急「旭山動物園号」。今日は、なぜかチンパンジー号が連結されていない。
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北の大地へ2010年初夏編Part2 旧白滝駅・丸瀬布森林鉄道
第3日目 2010年6月26日
昨夜は小樽港到着後すぐに札樽自動車道、札幌から道央自動車道を眠気感じる砂川SAまで走り、宿泊しました。
5:00前に起床、すでに太陽は内地と比べると、はるかに高く上がっています。SAも内地と違って、大きなキャンピングトレラーや普通乗用車も多数泊まっていました。ここから北の大地1番目の撮影地石北本線白滝付近までは、約2時間の所要時間です。
▲ 7:05、「村名”白滝”発祥の地」記念碑前に到着。白滝を見下ろす高台が、湧別川沿いに走る石北本線撮影地です。
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初夏の北海道 余話-1-
旧白滝を訪ねる
待望の連載”ぶんしゅう旅日記 初夏・北海道編”、今回は、当特派員も同行させていただいての二人旅となりました。特派員にとっての北海道は、社会人時代に観光や仕事で行ったことはあるものの、鉄道写真の撮影となると、実に学生時代以来、約40年ぶりとなりました。
それだけに、見るもの、写すもの、すべてが新鮮で驚きの連続でした。詳細な旅行記は、今後もぶんしゅうさんが記されますので、当特派員は、印象に残った事象を採り上げ、昔話も交えながら綴っていくこととしました。
北海道へ上陸して、まず向かったのは、丸瀬布の「いこいの森」ですが、開場前の時間を利用して石北本線旧白滝を訪れました。この駅の存在が、以前から気掛かりで、この眼でまず確認しておきたかったのです。

▲この世に”新”を冠する駅名はゴマンとあるが、”旧”が付くのは、ここ旧白滝だけだ。しかも、石北本線には、奥白滝、上白滝、白滝、旧白滝、下白滝と”白滝”の付く駅のオンパレード(奥白滝はのちに廃止)。
この謎は、現場へ行ってみて氷解した。もともとこの地域、地名すらないような人跡未踏の地であった。地域を流れる湧別川に大きな滝があり、飛瀑で付近は白く見え、いつしか”白滝”が地名となり、村名も白滝になったという。事実、石北本線の撮影名所地になっている旧白滝~下白滝間には、「白滝発祥の地」の碑があり、この由来を説明している。
▲旧白滝は、この地域で真っ先に入植が行われ、のちに集落の中心が現在の白滝へ移ったため、その後に建設された石北本線の駅名には「旧白滝」の名が採用されたようだ。駅への昇格は1987年のことで、それまでは乗降場扱いであった。駅はホーム一面の棒線駅で、典型的な北海道の無人駅スタイルだ。もっと山深いところかと想像したが、意外に開けたところに駅は所在し、国道からも容易にアプローチできる。
▲もうひとつ、旧白滝を有名にしたのは、発着本数の少なさだ。上りこそ午後に3本あるものの、下りに至っては7時16分発の1本のみ。始発列車が終列車と揶揄されたものだ。どうしてこのような偏った列車ダイヤになったのか。おそらく1人か2人はいたはずの通学生の利便を考えたものだろう。朝に丸瀬布・遠軽方面への列車を停車させ、午後は選択できるように3本設定している。この需要以外にこの駅での乗降客は考えられず、それ以外の普通列車はすべて通過扱いだ。
▲待合室をのぞいて見ると、他の駅にも見られる備え付けのノートが一冊置かれていた。それを見ると”秘境駅”にも認定されたこの駅には、毎日のように訪問者がいるようだ。「いこいの森」で撮影の後、16時53分発の上り旭川行きを迎えた。ホームには旅行者が一名待っていた。彼は約3時間前の上り列車で来たのだろうか。キハ40の2両編成が、35度を超す暑い空に、紫煙を上げて、まっすぐな線路に消えて行った。
餘部橋梁 塗装塗替の頃
去る、平成17年8月30日餘部駅を訪れた処、運良く(?)塗り替え工事中でした。それまでは列車撮影ばかりに気になっておりましたが、塗装作業を目の当たりにしますと橋梁の構造に大いに興味が引かれ、その鉄組等備に見るに付け先人の知恵と苦労に敬意を払わざるを得ません。
架橋工事から既に100年の月日が経って、足下に及ぶ風雪によく耐えたものと感傷に浸っておりました。ご覧のように腐食が甚だしい部分も散見せられます。
完成イメージ図も発表せられておりますが、私のような世代にとって鉄橋の記憶が強すぎて馴染むのは何時のことになりますやら。
帰りは「快速 あまるべロマン号」普通のキハ47 2+キハ47 15 編成でした。残念。
草生した餘部駅は、混凝土に覆われた駅になるのでしょうか。
ライブカメラ
http://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1270077904503/
北の大地へ2010年初夏編 Part1 行きがけの駄賃
第1・2日目 2010年6月24・25日
①舞鶴港0:30(新日本海フェリー)→20:45小樽港

2009年10月の紅葉前線を追いかけての北の大地は、道南以外は既に紅葉は終わった後で、初冬を迎えていました。道内各地の鉄道資料館等は殆どが冬季閉鎖で見る事ができず、初雪に追われるように引き上げざるをえなかった悔しい思いをしました。
次回にリベンジを誓ったので、今年は本土が梅雨に入る頃に梅雨のない北の大地へ訪問するのが一番と思いました。今回もぶんしゅう7号を相棒に一人旅予定でしたが、最近一人旅ゆえの撮影列車時刻の見過ごし等のミスが発生してきて、確認のためにも相棒が欲しくなっていました。
近くにDRFC-OBの総本家 青信号特派員さんがおられます。ただ、鉄道写真は鉄道で移動しながら撮る事を信条とされておられますので、お誘いするのは難しいかなと思っていましたが、昨今のローカル線は勿論幹線でも列車本数が激減して、撮りたい列車が移動に乗車するため撮れないとの現実に直面しておられました。同行の打診をいたしましたところ、車で宿泊移動する長旅は未経験だが、約40年ぶりとなる北の大地を見るのは良いなあとなりました。 続きを読む
東野鉄道キハ20の模型によせて
DRFC関東連絡網で犬伏氏が東野鉄道キハ20の模型を披露されたが、実物の資料が少ない中で、よく完成されたと思う。
東野鉄道は大正7年4月17日西那須野~黒羽間13.1キロを開業し、大正13年12月6日黒羽~那須小川間11.3キロを開業、更には水郡線の常陸大子まで延長する計画であったが、この区間は当初から乗客が少なく昭和14年6月1日に早々と廃止された。昭和43年12月6日西那須野~黒羽間を廃止し、社名を「東野交通」に改めた。宇都宮市と周辺地域を結ぶ路線を主体に、黒磯駅・那須塩原駅と那須温泉等を結ぶバス路線を運行しているが、ご多分に洩れずマイカーの増加により廃止された路線も多い。鉄道を利用すると大幅に迂回となる宇都宮~真岡・宇都宮~益子間と観光地を走る黒磯~那須温泉・那須岳ロープウェイ、黒磯~板室温泉等は比較的乗客が多いが、かつて頻繁に運行されていた宇都宮~烏山間、宇都宮~大田原間は廃止されている。鉄道の代替路線とも言うべき西那須野~黒羽間は1日7往復運行されている。また、那須山麓駅と那須頂上駅間を結ぶ全長812mのロープウェイを経営している。那須山麓駅は那須岳(茶臼岳)の7合目で、バスはここまで上がってくる。那須山頂駅は9合目に位置し、標高1915mの頂上までは足場の悪い登山道を1時間弱登らなければならない。山頂付近では今も盛んに蒸気と火山ガスが上がっており、活火山の様子を目の当たりに実感できるので、訪れる機会があれば是非山頂まで足を運んでいただきたい。
東野鉄道は現役時代昭和42年3月25日に1度だけ訪れており、その時撮影した画像をお目にかけたい。犬伏氏が製作されたキハ20はエンジンを降ろしてトレーラー化されハ31となっていた。東京に来てからは5度ばかり廃線跡を訪ねている。かつての黒羽駅舎はバスの事務所として使用され、室内には鉄道時代の写真が何枚か飾られていたが、今は取り壊されてスーパーマーケットが建てられている。
DC202
昭和36年5月津軽鉄道から譲り受けた昭和27年4月新潟鉄工所製の箱型機関車である。割に有名な機関車で模型での製品化もされている。僚機のDC201も昭和39年に東野入りし、2両が交替で貨物列車を牽引していた。
キハ501
昭和11年新潟鉄工所製で、ご覧のようにキハ41000形にキハ42000形の顔を取り付けたスタイルをしており、こちらも割合有名な車両である。JR五日市線の前身五日市鉄道キハ500形キハ501として誕生した車両である。五日市鉄道は昭和15年10月3日JR南武線の前身南武鉄道と合併、昭和19年4月1日戦時買収で国有化され、鉄道省五日市線となったが、所有者が代わっても改番されることなく一環してキハ501を名乗った。昭和24年9月に廃車後、東野鉄道に売却され、鉄道廃止まで活躍した。
五日市鉄道キハ500形のもう1両のキハ502は、昭和22年1月に廃車されたが、茨城交通に売却され、茨城線(赤塚~御前山間)で使用され、昭和46年2月11日同線の廃止により廃車となった。こちらは茨城交通売却後、称号が「キハ」が「ケハ」(ケは軽油の意味)となったが車号は一環して502を名乗っていた。
【参考】茨城交通茨城線ケハ502 上水戸(昭和45年3月14日)
キハ502
元国鉄キハ41008が前身、昭和8年日本車輛製。昭和24年9月国鉄時代に房総東線(現外房線)勝浦での事故による廃車後入線した。廃止後茨城交通に売却され、ケハ46となったが、昭和46年にエンジンを降ろしてハフ46となり、昭和55年に廃車となった。
【参考】茨城交通湊線ケハ46 那珂湊(昭和45年3月14日)
キハ503
元国鉄キハ048が前身、昭和8年新潟鐵工所製。キハ41020→キハ41202→キハ41302→キハ048と改番、昭和33年2月10日桐生区で廃車後入線した。
ハ30
元常総鉄道キハ13が前身、昭和5年日本車輛製で車体は極めて頑丈に作られていた。小さすぎて使い物にならなかったためか、早くも4年後に廃車となり東野鉄道に入線した。昭和23年にエンジンを下ろして客車化されハ30となった。
ハ31
犬伏氏が作られたキハ20の客車化後の姿である。昭和11年日本車輛でキハ20として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ31となった。
ハ32・33
昭和4年日本車輛でキハ10・11として新製。昭和39年にエンジンを下ろしてハ32・ハ33となった。
今も残る大田原~中田原間のトンネル(平成3年12月1日)
黒羽駅跡に駐車中の鉄道代替バス 元神奈中(平成3年12月1日)
ハチロク御召が走った日 余話
昭和43年10月の福井国体で運転された御召列車は、福井県内だけではありませんでした。今なら、国体開催県のみで終わる視察が、当時は、国体後に、丹後・但馬地方にも及び、小浜線、宮津線、山陰本線でもC58、DD54の牽く御召列車が運転されたのでした。これで今回の御召の牽引機は、EF58、DE10、EF70、8620、C58、DD54と、すべての動力が揃った6形式にも及ぶという、近年にない、変化に富んだ御召となりました。

▲越美本線で御召が運転された翌々日の10月4日には小浜線敦賀~上中間で、5日には若狭高浜~東舞鶴間でC58171(敦一)、東舞鶴~豊岡間でC58223(豊)+C5856(舞)の御召が運転された。敦賀第一、西舞鶴、豊岡と、近隣の3区から1両ずつC58が選ばれた。
5日に、同学年のM好さんと牽引機が交替する東舞鶴へ向かった。駅に着いて、裏へ回ると、C58223+C5856の晴れ姿が見えた。後年の御召のように過剰すぎるほどの装飾もなく、ごく標準的な装備だが、それだけに蒸機でありながら隅々まで磨き上げられた2両の姿には目を見張るものがある。3日前のハチロクに比べると、撮影者はうんと少ない。御召到着まで約1時間前、和やかさの中にも緊張感が走る。
▲待機中のC58を撮ったあと、二人で西舞鶴方面に歩いた。下調べも何もなく歩き出したが、幸い、白鳥峠のトンネルの手前に築堤があり、その横には恰好のお立ち台がある。いま通ると、現場は平行する国道に沿って線路端までロードサイドの店が建っているが、当時は、一面の田圃が広がっていた。
25‰が続く白鳥峠だけに、御召らしからぬ力行ぶりである。重連の場合、次位に日章旗を掲示しないケースもあるが、このように次位にも掲示され、風にうまくなびいて、4本の日の丸がきれいに見えている。今まで何度か写した同機の一世一代の晴れ姿であった。
▲同年10月6日には、竹野~二条間にDD543+DD541の牽く御召列車が走った。DD54は、昭和41年から製造され、福知山・米子機関区に配置されて、蒸機を置き換えしていたが、故障・事故が絶えず、この4ヵ月前には、湖山駅で急行「おき」を牽引中、推進軸が折れて、脱線転覆事故があったばかりだった。故障・事故の集中していた量産形を避け、比較的安定した試作機1~3を御召牽引に当てたようだ。この日の御召は午後からの運転で、ゆっくりして馬堀駅に降り立った。馬堀に降りたのは、この日が初めてで、それからC57を求めて何度も降り立つことになる駅東方の築堤でとらえる。このあと、梅小路区へ向かい、大役を終えた同機の晴れ姿を心ゆくまで眺めた。もちろんDD54の御召はこれ一度切りで、DD54は短い生涯を閉じてしまう。
桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part9 富山地方鉄道3
一昨日は、佐竹先輩を通じて購入申込しておりました『日本の客車』復刻版が届きました。
中学生の頃から、神足駅から京都駅まで、国鉄で通学していました。丁度、向日町操作場が、1年生の1961年10月に開業したばかりで、京都駅も含めて、様々な客車を毎日見ていました。掲載されている客車を見ていますと、その頃に見たり乗車した車両もかなりあります。懐かしく、拝見させていただきました。
1961年といえば『鉄道ファン』が創刊された年でもありました。当時は『鉄道ピクトリアル』と2誌だけが情報源でした。発売日は待ち遠しくて、前日からウキウキしていた事を思い出しました。
第7日目 2010年4月23日
今日も雨。めげずに頑張ってきましたが、雨と強風に桜の花びらを散らされては、初期の目的も散っていきます。
桜前線は、東北の福島辺りまで北上していますが、ぶんしゅう7号の車内で見る朝のTVは、満開の桜にふり積もった雪の映像を流していました。本当に今年の春は天候異常です。
この後、北陸路を北上して桜前線に追いつきたい思いがありましたが、天候異常が続くと予期せぬ事態に遭遇もします。能登での身体異常発生もありましたので、今年はここが引き際かなとの結論に達しました。
桜は来春も咲きます。今回は初めての桜前線追っかけで、ミスった事も多かったので、これを教訓に来春は、もっと充実を図れるだろうと2010年最後の桜前線追っかけの日としました。
今日は金曜日で、高速1000円ディには、もう一日あります。明日0時過ぎに京都南ICを降りれば、経費節減です。時間は充分あります。来春に備えて、まだ残っている車窓ロケハンでチェックした撮影地から撮ることにしました。
▲8:35、上市~相ノ木間、宇奈月温泉発、電鉄富山行きモハ16014+16013の118レ。
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桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part8 富山地方鉄道2
朝起きての直ぐの日課は、空模様を見る事です。今日も雨です。九州から数えても、雨が降る日が多すぎます。空が泣いてますが、私はもっと大泣きの毎日が続いています。
① 岩峅寺13:25(622)→13:55電鉄富山
② 電鉄富山14:40(331・寺田圣由)→15:16岩峅寺
昨夜は、今日の移動を考慮して、国道8号線にある富山東PAで宿泊しました。一般国道のPAですので、高速道路のと比べると設備は数段おちます。それでも温泉に入った後は早くビールを飲みたくなるので、快適より直ぐの快楽を選んでしまいました。 E-Mailのチェックとインターネットで調べておきたい事があったので、朝食をかねて無線Lanができるマクドナルドを探しますが、10分も走ると必ず1軒はあったマクドがありません。撮影予定地の常願寺川鉄橋を越えて先まで行ってしまいました。
店に入って電気も使っていいですかと訊ねると、笑顔でコンセント近くの席に案内してくださいました。多謝、多謝です。
昔は安いモバイル専用PHSがありましたので、遅くとも大概の場所でインターネット接続が可能でしたが、いつしか消えて、石器時代になりました。個人がPCを持ち歩き、情報化時代になっています。
高速道路のPA、道の駅、観光地の駐車場・公園等々公共の場所では、どこでも誰でもがインターネットを無料で使える環境整備を進めていただきたいものです。
高速走行する列車内のように高額費用を必要としません。固定された場所なら費用もわずかで、費用対効果は膨大です。政府指導で義務付けぐらいの政策を望んでいます。
朝からぼやいていてはいけません。腹ごしらえも済み、情報もインプットできましたので、出発です。
9:00、先ほど通過した越中三郷~越中在原間の常願寺川鉄橋で撮影開始しました。
▲ 9:10、岩峅寺発のモハ10043+10044の312レ。 続きを読む
桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part7 富山地方鉄道
昨日朝、フジTV系の”とくダネ”を見ていたら、ワシントンホテル秋葉原に本格的な鉄道ジオラマ『クハネ1304』客室が登場したと、取材レポートがありました。客室内で模型列車の運転ができるようになっています。ホテルもいろいろと客寄せを考えるものだとびっくりしました。二番煎じが出そうですね。ご興味のある方は、下記を覗いて見てください。
http://www.wh-rsv.com/wh/hotels/akihabara/
第5日目 2010年4月21日
① 滑川10:42(127)→11:35宇奈月温泉
② 宇奈月温泉13:18(144)→14:31寺田14:58(331)→15:42立山
③ 立山16:14(334)→16:57寺田17:02(155)→17:26滑川
6:30、滑川漁港横のある『道の駅ウェーブパークなめりかわ』にて起床しました。
富山湾には、普段は深海に生息しているホタルイカが、3~6月に産卵のため海面に浮上します。魚津から新湊海岸近くにかけて押し寄せ、滑川漁港は富山湾では主要水揚げ港となっています。深夜には、予約連日満員御礼の観光船まで出航していました。
小型漁船が戻ってきたので見に行きましたが、残念ながら、ホタルイカの水揚げはもっと早い時間だそうです。折角きていますので、駐車場横にある「ほたるいかミュージアム」の開館を待って見学しました。
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桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part6 城端線
昨夜は、早寝して試合開始直前に起きて、TV放映を見だしましたが、途中で夢の世界に入ってしまいました。早朝に感激の再放送を見ながら久しぶりの快感に酔いしれました。ワールドカップ1勝、おめでとうございます。「はやぶさ」の成功といい、奇跡的な歓喜が続きますね。
第4日目 2010年4月20日
昨夜の温泉は変調をきたしていた身体を解すには最高でした。今日はゆっくりと目覚め、海を見ますが、昨日夕方に城端線では見えた立山連峰は、ここからでは見えません。朝のTVの天気予報は昼から雨です。空は今にも降りそうな重く厚い雲に覆われています。

城端線に向かって伏木駅付近走っていますと、海の向こうに残雪の立山連峰が現れだしました。待ちに待った光景です。急いで、ぶんしゅう7号をUターンさせて、撮影ポイントの雨晴付近まで引き返しました。
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桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part5 万葉線
丁度明日、6月12日(土)は、万葉線電車祭りです。
場所;米島口本社、開催時間;10:00~15:00、行って見てください!
http://www1.coralnet.or.jp/manyosen/news/img/roden.pdf
第3日目 2010年4月19日
② 高岡15:38(339D)→16:27城端16:34(342D)→17:20高岡
③ 高岡駅前17:33(万葉線)→17:51米島口 6:00、今朝も立山連峰は見えません。それでは、今日は、昨日の予期せぬ身体の変調を考慮して、ゆっくりとしようと思いました。
▲ 道の駅氷見は、氷見漁港内にあります。月曜日とあって、早朝から小型・中型漁船が戻ってきて、全国でも有数の好漁場、富山湾のとれとれの魚の水揚げをして、種別分けをしておられます。富山湾は、暖流が流れ込むと共に、水深は1,000mを越えての深層水に、北アルプス立山連峰から6河が流れ込むプランクトンが豊富な環境によって、約500種類もの魚の宝庫となっています。
この時期は、世界中でとれるのは富山湾だけのしろえびをはじめ、ほたるいか、氷見鰯と評されるイワシ類が有名で、夏はマグロ、冬は全国一と知れ渡る寒ぶり、甘エビ等々季節を問わず魚好きを唸らせます。海流を利用した定置網漁法が主流で、停泊船舶数は小型船中心で、約150隻だそうです。 続きを読む
桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part4 のと鉄道
第2日目 2010年4月18日
① 越中国分7:09(525D)→7:21氷見7:29(524D)→7:41越中国分
② 能登中島13:28(135D)→13:41能登鹿島15:16(140D)→15:29能登中島
9:00、雨晴駅付近での撮影後、富山湾に沿った160号線を七尾市方面に北上しました。
カーブ高低差の多い道路ですが、ベタなぎの湾内は静かで、運転していてもすがすがしく感じます。
昔、41年前になりますが、この道を能登半島突端の狼煙の灯台まで、歩いた経験があります。それも出発は、京都三条大橋からでした。元気そのものだったのですね。
今は、気持ちだけで身体は正直です。ましてや一人旅、無理は禁物です。今日は朝早かったので、急激に眠気が襲ってきました。眺めの良い所で車を止めて朝寝をしました。
12:17、のと鉄道田鶴浜駅着。降りて、駅構内をゆっくり見学しました。
▲ 12:30、七尾行きのNT204、134Dが到着。続いて穴水行きのNT202の133Dが到着しました。
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ハチロク御召の走った日 (2)
御召の回送を撮ったあと、少し六条駅寄りに移動し、本番の撮影を田んぼの中の直線区間に定めました。御召の撮影とあって、ありったけの機材を動員します。タクマー135mmを装備した虎の子アサヒペンタックスSVを、パチパチ三脚に着け、ゴム球のレリーズを付けてモノクロ一発必中、得体の知れないマミヤ製のEEカメラには、ブジカラースライドを入れて、手持ちで連写とします。待つこと2時間余り、近くの踏切の警報器が鳴ると同時に、はるか向こうから、赤白の日章旗が目に入りました。胸の高鳴りを感じる一瞬でした。
▲本務機88635、補機28651、2両のハチロクに牽かれた1号編成の御召列車は、音もなく近づいて来た。逸る心を抑えながら、まずレリーズでモノクロ一発、続いてカラーで連写する。秋の陽を受けて、御料車がまばゆいばかりに輝いているのだけは覚えている。
実は、この昭和43年に、別のところでハチロクの御召が予定されていた。それは、5月にあった秋田県の植樹祭での花輪線大館~十和田南間の御召である。ところが、その一週間前に発生した十勝沖地震で、すべては中止されてしまい、ハチロク御召も幻となってしまった。
それだけに、今回は、最後の蒸機御召ではないかとの噂が、多くの撮影者を集めた一因となった。ところが、案に相違して、その後も毎年のように各地で蒸機御召が運転される結果となり、ハチロクに至っては、翌年の松浦線でもさっそく御召を牽いた。
▲後を向くと、近所の人たちの歓迎の人波があった。写真撮影の準備をしている時だったが、ひとりの婦人から声を掛けられ、写真をあとで送ってほしいと言う。聞くと、御召の28651の正機関士である北さんという方の奥さんだった。その後、機関士の北さんとは何度か写真を交換し、御召運転の苦労など、いろいろな話を聞かせてもらった。
▲御召は福井まで運転されたあと、牽引機は福井機関区まで回送された。下車駅の越前花堂に機関区が隣接しているので、歩いてすぐに機関区へ駆けつけ、回送到着後の区員の記念撮影などから見ることができ、そのあとは、撮影用に開放された。ロッドが揃えられなかったのは残念だが、撮影には邪魔のない好適な角度である。
この本務の88635(御召では先頭を本務、次位を補機とする位置づけになっているようだ)は、前照灯以外は、完璧なハチロクだ。今まで、越美北線の貨物牽引の地味な仕事に従事していた同機だが、一世一代の晴れ姿を披露していた。
桜前線追っかけ2010年Ⅱ Part3 氷見線
第2日目 2010年4月18日
① 越中国分7:09(525D)→7:21氷見7:29(524D)→7:41越中国分
② 能登中島13:28(135D)→13:41能登鹿島15:16(140D)→15:29能登中島
5:00、空が明け始めた頃に目覚めました。直ぐに洗面を済まし、車のオートフリートップを格納、宿営地の「道の駅氷見」を出発し、雨晴駅方面の海岸沿いを走りました。
氷見を6:08に発車する始発列車の回送があります。撮影地予定地の雨晴~越中国分間を通過する前に着いていなければなりません。急ぎますが、安全運転で、向かいました。立山連峰が見えれば、絶景が広がっているはずです。しだいに朝日が昇り始めました。
5:20、現地に到着。急いで車中からのロケハンをしますが、残念ながら絶景は、朝霞の向こうで、全く見えません。そして、完全逆光で、撮っても列車は風景の中に黒く埋没します。抜ける場所はありません。何とか撮れないかと撮影地点を探している途中で、5:39、回送列車は来てしまいました。シャッターは切りましたが・・・・。
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