追憶の九州 一人旅 (4)

大畑再訪

「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を使った九州の旅も終盤となります。日豊本線で485系を撮ったあとは、肥薩線の山線区間の再訪とします。隼人から乗る特急「はやとの風」は、日曜日とあって自由席の確保が心配でしたが、案に相違してガラガラ、木を多用した車内の設備とあいまって快適な列車の旅となりました。
途中、明治の駅舎としてブレイク中の嘉例川駅に停車すると、すごい人出に迎えられます。ところが、駅前を見ると自家用車で満杯、何のことはない、鉄道を一切利用せず、鉄道の名所を車で訪れる現実に、鉄道ブームの断片を見た思いでした。終着の吉松駅に着いて、向かいのホームの「しんぺい」に接続1分間で連絡、いよいよ肥薩線の山線区間に入って行きます。
平成16年の九州新幹線の開業時に生まれた観光列車「しんぺい」「いさぶろう」は吉松~人吉間に2往復、上りを「しんぺい」、下りを「いさぶろう」と呼びます。指定券があれば乗れる普通列車で、絶景ポイントでは停車・徐行、車載カメラからの展望ビデオの放映、真幸、矢岳、大畑の各駅では10分余りの停車、駅では地元の特産品販売、そして制服の似合うアテンダントの甲斐甲斐しい接客と、観光列車らしいサービスがたっぷり。
大畑も40年ぶりの再訪となりましたが、以前に大畑の情景に惚れ込んだTさんから、「大畑は木が茂ってあきまへんで」と聞かされていました。確かに、蒸機の時代と比べると、大畑ループは車両を超す草木が茂っていて見通しが利きません。名声を博した撮影地が最近はすっかり写せなくなったとよく聞きます。それは、人工物の構築より、むしろ草木の繁茂など自然の変化によるものが多いようです。
変化した車窓と、観光地化した山線に、かつての大畑を訪れた時の感動がなつかしく甦ってきました。

スイッチバックして大畑駅に進入する「しんぺい」。大畑駅の配線は昔と変化なく、通過のできないスイッチバック配線は、昔のままだった。

大畑駅で10分停車する「しんぺい」。キハ47、140の3両編成で、古代漆色と呼ばれるエンジのカラーが青空によく映える。

大畑ループを行く。歳月は自然も変えてしまった。本来なら駅までも見渡せる地点だが、見通しはほとんど利かない。

ループ線の矢岳寄りのカーブを登って行く1121レ、爆煙を上げるD51。大畑で迎える朝の光景は、蒸機の良さをしみじみと感じた。当時の草木の茂り方はこんなものだった。

 

1121レとは、門司港発、鹿児島本線・肥薩線・吉都線経由の都城行きの夜行鈍行だ。当時、九州にまだ多く走っていた夜行鈍行の一本。何度もお世話になった列車で、列車番号は変わっているが、戦前から走っている列車だった。冬の朝、ループ線を上がってくる1121レ、南九州とは言え、さすがに寒い。煙を編成全体に纏わりつかせながら、ループ線を上がってくる。煙の軌跡が、そのままループ線の形になって残っていた。

大畑駅で発車を待つD51の牽く混合列車。重装備のD51が先頭、わずか1両の客車は、本日は貴重なダブルルーフのスハフ32、その後に長大な貨車編成が続き、しんがりをまたD51が務める。

戻りとなる都城発門司港行き1122レが深夜の大畑駅に停車する。車内は1121レよりさらに空いていて、1両にほんの数人の乗客だった。D51と客車から洩れる光が、駅構内をほのかに照らす。これほど夜行列車の旅情があふれた列車もない。1121レ、1122レは昭和47年3月改正で消えた。

2010年 秋の中国一人旅 Part11 天津津濱軽軌、トランスロール

第11日目 10月31日

① 中山門12:20(天津津濱軽軌)→13:00秦达
② 軽軌秦达站13:05(現代電車)→13:35学園区北
③ 学園区北14:14(現代電車)→14:42軽軌秦达站
④ 秦达14:58(天津津濱軽軌)→15:38中山門
⑤ 天津21:53(D341)→7:14上海虹橋

今日は、久しぶりに天津津濱軽軌(以下;軽軌)と延伸計画があった途中の秦达站から走るトランスロールの路面電車がその後どうなっているのかを確認に訊ねてみることにした。そして今夜は夜行寝台電車で第4、第5の中国版新幹線初乗車を目指して、上海へと向かいます。

【天津津濱軽軌】
Taxi乗車で始発駅の中山門站へと向かいます。当初の予定では、軽軌が延伸され天津鉄路站まで、また天津地下鉄も天津鉄路站を中心に中心部まで開業しているはずですが、まだです。地下鉄再開業も約2年間遅れました。元々交通インフラ計画自体があいまいだったのか、工事が遅れているだけなのか分りません。市民も前の事があるので、いつ開業するか分らない。他都市が前倒しで開業しているのと比べると天津はとてもいい加減で信用できないと言います。

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2010年 秋の中国一人旅 Part10 南満州鉄道(満鉄)の客車

第10日目 10月30日

① 沈阳22:21(K28)→天津6:48
② 市内14:30(Taxi)→15:45万家碼頭駅16:45→17:40市内

K25軟座寝台の快適な車内と、心地いい走行音を聞きながらの熟睡でいつもの通り6時に起床しました。夜明けの車窓を見ながら定刻の6:48天津到着です。朝日がホームに差し込んでいます。
▲ K28の車両編成は、
SS9-0080(DL)+⑮XL20676+⑭YZ351535+⑬351543+⑫351540+⑪351539+⑩CA893557+⑨RW554681+⑧YW677536+⑦677539+⑥677538+⑤677542+④677542+③677543+②677542+①677530の荷物車+硬座車4両+食堂車+軟臥車1両+硬座寝台車8両の15両編成で、今日は北京~平壌間の車両は連結されていませんでした。
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2010年 秋の中国一人旅 Part9 調兵山 その2

第9日目 10月29日

① 調兵山バスターミナル17:20(バス)→19:10沈阳站
② 沈阳22:21(K28)→天津6:48

今日も昨日同様に夜明けと共に目覚めました。王千・大明・大青行きと3列車の牽引機を確認に行きますが、昨日同様DLでがっかりです。

東風4-7720牽引の大明行きの101次。YZ92-4522は最近更新されたのか、車体も綺麗に塗装されていました。殆どの客車は中国鉄路からの中古車で、色落ちと煤けた車両が多かったので、綺麗な車両を見るのは驚きでした。
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2010年 秋の中国一人旅 Part8 調兵山

第8日目 10月28日
夜明けと共に目覚めました。6:28王千行き、6:40大明行き、7:16大青行きと連続して発車します。この牽引機関車を見ておかないと今日の運用が分らないので、急いで調兵山站に向かいました。


2010年10月現在の調兵山站発着の時刻表です。2年前と殆ど変わっていません。
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2010 年秋の中国一人旅 Part7 瀋陽地下鉄

Part6の投稿を終えてから、10月18日瀋陽鉄道博物館入場の雰囲気が何か違っているとの印象を感じたと掲載しましたが、インターネットでいろいろ調べていましたら、まだ招待客及び部内関係者のみの入館受付で一般客の受付はなく、あっても許可された団体予約に限られているとの事でした。何も知らず飛び込みで行って入場できたのは、現場の好意だったのが分りました。ご配慮をいただきましてありがとうございます。

第7日目 10月27日 その2
① ホテル9:00(Taxi)→9:38瀋陽鉄道博物館 25.4キロ
② 瀋陽鉄道博物館10:47(Taxi)→11:35ホテル 全部で153元(約1,900円)
③ ホテル13:05(Taxi)→13:10沈阳地铁青年大街站 10元(約125円)
④ 青年大街站14:03(沈阳地铁)→14:13沈阳站
⑤ 沈阳站前15:00(バス)→16:50調兵山バスターミナル 25元(約310円)
⑥ 調兵山バスターミナル16:55(相乗りTaxi)→17:15ホテル 5元(約60円)

瀋陽鉄道博物館の視察を終えて、ホテルの部屋に戻ってみると、「ゼネラルマネージャーからお会いしたい。帰られたらご連絡下さい。」と英語メーセージが封筒に入れてドア下に入っていました。
チェックアウトの支度を終えてフロントに行きますと、日本語の出来るホテルマンも待機していて、GMに連絡しました。GMからお詫びを申し上げたいので少し待ってもらえないかと言われました。丁度、昨夜インターネット予約した日本の代理店からも電話が入っていて、直接話せました。向こうにも間違った所在地地図を送った責任もあります。この件は日本に帰ってからにして、ホテル側の信用・安全についてホテル側の評価はどのように考えているかを聞きました結果、次回の宿泊は無料でスイートを提供しますのでご納得お願いしますとの返答です。ホテルの「面子」としてはこの程度のようです。冷蔵庫の飲料は勿論無料でした。ミスは誰にでもありますが、昨夜のフロント女性からは最後まで謝罪の言葉はありませんでした。典型的な中国人だから仕方ないかと思い、9月27日開業したという沈阳地铁試乗のため、ホテルマンの見送りを受けてTaxiに乗車しました。
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2010年 秋の中国一人旅 Part6 瀋陽鉄道博物館

第7日目 10月27日 その1

① ホテル9:00(Taxi)→9:38瀋陽鉄道博物館陽 25.4キロ
② 瀋陽鉄道博物館10:47(Taxi)→11:35ホテル 待ち時間を入れて往復計で153元(約1,900円)

③ ホテル13:05(Taxi)→13:10沈阳地铁青年大街站 10元(約125円)
④ 青年大街站14:03(沈阳地铁)→14:13沈阳站
⑤ 沈阳站前15:00(バス)→16:50調兵山バスターミナル 25元(約310円)
⑥ 調兵山バスターミナル16:55(相乗りTaxi)→17:15ホテル 5元(約60円)

【瀋陽鉄道博物館(沈阳鉄路陳列館)】
8:00、昨夜の事件でアップグレードされた部屋をいただきましたので、ゆっくりの起床です。窓からは、沈阳北站が一望に見えました。今日は、天津から丹东まで乗車したK189次の列車乗務員に調べてもらった「瀋陽鉄道博物館」の発見、9月27日開業した沈阳地铁1号線の試乗と、その後調兵山へと向かいます。今日は大忙しです。
荷物は整理して部屋に置いて、ホテルからTaxiに乗車しましたが、瀋陽鉄道博物館などドアボーイもTaxiの運転手も存在すら知りません。大体この付近とマーカーしてもらった地図と、達筆で書かれた私には読めぬメモだけが頼りです。助手席に座って、運転手と打合せをしてから発車です。

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2010年 秋の中国一人旅 Part5 丹東(安東) 瀋丹線(安奉線)

第6日目 10月26日

丹东13:52(K7318)→18:38沈阳北(30分延着)

昨夜は、歩き疲れましたのでホテル近くの「按摩」マッサージで足と全身を2時間かけて念入りにしてもらいました。これで100元(約1,300円弱)です。身体がほぐれたのでビールを飲んで美味しい中華料理を食べようと、昼間の餃子館に行きましたが閉店でした。仕方なく街中の食堂で麺を食しました。眼の前で麺を打ってくれますのでこれも美味しくいただきました。丹東は朝鮮料理も多いのですが、やはり東北料理が好きです。

丹东站発着の列車時刻表です。撮影の際に印刷してご利用ください。

【国際列車K27の撮影】
ホテルは朝食付きですので、その前の朝の散歩に昨日撮りそこねたK27を撮影する事にしました。撮影場所は、昨日同様の駅手前の踏切にしました。徒歩約30分で到着しました。

左は踏み切りに行く途中で初めて見た三輪電動車。中々のできばえです。夏は暑いのでオープンカーにもなるのでしょうか? 右は往路に乗りたかったK27です。国際列車だけあって、最新鋭の編成です。
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2010年 秋の中国一人旅 Part4丹東 国際列車

第5日目 10月25日 丹東

7:00丹東駅前ホテルにチェックインできました。部屋から駅前広場が見えます。7:17に到着する北京発平壌行きのK27を撮りたかったのですが、初めての土地です。買ったばかりの地図だけでは、撮影地が分りません。ホテルの窓からK27の入線を見ながらしばしの休憩タイムとしました。

土地が広いと言うことは素晴らしいですね。駅前広場では、スケート練習もやっていました。イチョウ並木は黄色く色着いて銀杏をひらっているおばちゃま多しです。

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追憶の九州 一人旅 (3)

想定外の大淀川へ

九州で使用した切符は、前述のように、土日2日間、九州内の新幹線・特急乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」でした。土日は特急に乗りまくり、座席車の夜行特急では唯一となった「ドリームにちりん」にも乗って、久しぶりの夜行体験と宿泊費節減を画策していました。
ところが、鳥栖から乗った「リレーつばめ」の車内の揺れ・室温のせいで、次第に体調が悪くなり、とても夜行に乗り通す体力・気力がなくなってしまいました。急遽、予定を変更して宿泊することにし、深夜22時過ぎ、宮崎駅に到着しました。
ホテルでゆっくり眠った翌朝は体調も戻り、未乗車区間の宮崎空港線の乗車までの約一時間を、当初は予定にはなかった大淀川河畔の撮影に当てることにしました。

ホテルを出て、宮崎県庁の前を通って大淀川河畔に到着する。川の流れは変わらないものの、マンションなどの大形の建築物が林立し、両岸の光景はすっかり変わってしまった。かつて、宮崎ではいちばんブランド力のあったホテルもあったはずだが、代替わりして名前が変わっている。下掲の写真とほぼ同じ、橋梁と並行する橘橋への階段から、813系を撮影する。シンボルのフェニックスに樹勢が衰えたせいか、それとも背後の高層建物のせいか、南国宮崎の表現としては、いささか弱かった。

現在の大淀川での注目列車は、来年3月の九州新幹線の全通で、一部の撤退が予想される485系だろう。九州の485系は、大分車両センターに主に3両編成が、鹿児島総合車両所に主に5両編成があり、「ひゅうが」「にちりん」「きりしま」に運用されるほか、この写真のように、ホームライナーにも使用されている。例によってド派手な塗色であるが、実際見るとそれほど違和感もない。赤・クリームの国鉄色が1編成あり、つい先ごろもう1編成も国鉄色に戻され、この日の午後には、国鉄色同士の交換を見ることができた。

40年前の大淀川橋梁、この近くにユースホステルが3軒あって、早めに起きて朝食前に散歩がてら河畔に行き、当時から定番であった、フェニックスを入れて、C57の牽く列車を何度も狙ったものだ。橋梁は、南北にあるため、朝夕のシルエット撮影には格好の撮影地であったが、何度行っても雨が曇天だった。ようやく果たせたのは、大学も終わりに近い4年の冬休みだった。

大淀川のある宮崎~南宮崎間は、区間列車もあって、列車本数の多いところであった。気動車列車もあり、このような、キハユニ16を先頭にしたキハ20×3の4両編成もあった。当時でも、電気式気動車をルーツとする湘南顔の気動車はかなり珍しかった。キハユニ16は、もとキハ44100で、運転台なしの中間車キハ44200を挟んだ3両編成となり、蒸機ばっかりの九州に初めて配属された。九州の無煙化を実現した車両であり、記念すべき車両の唯一の残党だった。

秋の中国一人旅2010年 Part3 天津→丹東 K188/189乗車紀行

第4・5日目 10月24・25日

① ホテル11:30(Taxi)→11:50天津站
② 天津12:58(K189/189)→5:02丹東 1,004キロ 所要時間16時間14分

昨夜は、日本料理屋で朋友と久方ぶりに深酒しましたので、起床はゆっくりです。発車1時間前には天津站に着きましたので、朝食兼昼食を駅前の天津名物の肉饅頭屋で食しました。外に出ると雨が降りだしていました。

夜行列車乗車用に売店でビール・白酒やソーセージ類を買い出して、待合ロビーの電光掲示板を見ますと10分延です。このK189/189次(列車)は、上海始発で北朝鮮国境の丹東までの2,330キロを所要時間34時間32分、表定速度67.5km/hで結びます。天津からは、表定速度61.8km/hでゆっくりと向かいます。
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2010年 秋の中国一人旅 Part2 天津駅での切符購入の難しさ

第2・3日目 10月22・23日 天津滞在

ホテルで朝食後、散歩がてらに駐在時いつも航空券を購入していた近くのJAL天津事務所を訪問しました。「お久しぶりです。」と、丁重なご挨拶を受け、最近情報を聞きましたが、「中国内では報道されていませんが不穏な動きがあるので、滞在・旅行者は充分注意をするよう領事館から指導を受けている。私もよく日本人か韓国人かを聞かれる事がありますが、韓国人と答えています。絶対に目立つ行動は慎むように。」と、忠告がありました。同じような忠告は、10年来親交のある日本料理店調理人からもありました。
前回の反日デモ多発の際は、日本で報道されるより現地では、中国人のみが行くような食事処や飲み屋で騒ぐと危ないが、そんな特別な事をしない限り問題はないと、たいして話題にものぼりませんでした。私も現地で実感していましたが、今回は現地で生活する日本人の対応方もちょっと違うなあ、気をつけなければと思いました。

普通運賃航空券は、かつて日本で購入するより中国で購入する方が格安でした。他にもいろいろとサービスがあって、恩恵に与ってきましたが、次第に運賃も上がり恩恵もなくなりました。この事務所も11月1日から営業時間は昼間の10:00~15:00、そして土曜日が休みになって縮小されます。
かつての中国線は、中国側の都合で便数も限られ、毎回訪中時はキャンセル待ちが続いていましたが、障害がなくなるとJALとANAが競って中国各地へと路線・便数を増やしていきました。需要を実際に見てきた者として、明らかに供給大過剰です。300人近く搭乗出来る飛行機に数10名足らず。ひどい時はクルーより少ない8名という便もありました。
まさにバブル状態だったのですが、大きな痛手を受け体力がなくなった結果は社員に対しての解雇、私達利用者にはサービスダウンが襲ってきました。国鉄が破綻したのとよく似ています。
この事務所がオープンした時から知っておりますので、思い出もたくさんあります。天津は今やTOYOTAの中国生産の主要基地となり、関連企業を含め多数の日本人が駐在・出張で来られていますが、私が来た当時は会う日本人は顔なじみばかりの人数でした。この事務所も消えないで欲しいと願って、天津站へと向かいました。
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2010年 秋の中国一人旅 Part1 旅立ち

第1日目 10月21日 移動時間;15時間30分

① 自宅5:00→長岡天神5:19(阪急)→5:38南茨木5:45(大阪モノレール)→6:08大阪空港
② 伊丹7:15(JL102)→8:24羽田10:30(JL023)→13:38(現地時間)北京
③ 北京空港站14:40(空港快速)→15:15東直門(北京地鉄2号線)→15:35北京站
④ 北京站17:00(2号線)→宣武門(4号線)→17:30北京南站
⑤ 北京南17:50(C2059)→18:20天津19:10(Taxi)→19:30飯店

「春の桜前線追っかけ」「初夏の北海道」等々と国内撮影の旅を続けてきましたが、中国へは半年間も行っていません。これほど長く訪中していないのは、ここ10数年間で初めてです。家の事情もあって我慢してきましたが、ストレスは溜まるばかりなので老体には良くありません。思い切って出発する事にしました。
しかし今迄利用していた関空からのJAL中国線は経営悪化で順次廃止されて、9月末には北京線も消えました。名古屋からまだ運行されている天津直行便しかないと思っていましたら、羽田国際空港ターミナル10月21日にオープンする。中国線もありとの発表がありました。

セントレアまでなら約6,000円、関西空港は安く行っても約1,600円の交通費が必要ですが、伊丹空港なら680円と格安です。早朝の出発は、苦になりません。そして、少しでも安く旅をしなければならない年金生活者です。
予定を変更して伊丹空港から搭乗してのトランジットで北京空港に到着するコースとしましたが、今度は特典航空券が満席で取れません。予約待ちを余儀なくされましたが、日中間の問題発生でキャンセルが多数出たのでしょう。直前に21日の出発が決まりました。 続きを読む

追憶の九州 一人旅 (2)

早岐へ

土日2日間は九州内の新幹線・特急が乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を握り締めて、まず博多から向かったのは、早岐でした。「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」の3特急を併結した列車は、13両編成という最近では珍しい長編成です。
「はいき」という響きが、いかにも九州らしい好ましい駅です。長崎へは何度か行ったものの、脇にそれる早岐・佐世保は学生時代以来で、文字どおり思い出の駅を訪ねる旅でした。

駅舎は、40年前と変わっていなかった。中の待合室の様子もそのまま。もちろん細かくは改造もされているだろうが、40年前の思いが蘇ってきた。ただ、蒸機の時代は現業機関が集中し鉄道のまちとして賑った早岐も、単なる分岐駅となり、ずいぶん寂しくなってしまった。

0番ホームと1番ホームを見る。幅の狭いホームと、木組みの上屋が、いい味を出している。支柱の下部が補強してあるのは、九州の駅の共通のスタイル。早岐の駅名標をしみじみ眺めながら、過ぎし日を偲んでいた。

かつての早岐機関区は、とうの昔に姿を消したが、煉瓦造りの給水塔だけが、記念物のように置かれていた。左手に「早岐機関区発祥之地」の碑が見える。下掲の機関区とほぼ同位置からの撮影。

ハウステンボスから一駅だけの「ハウステンボス」が、先頭車改造された切妻のクハ783を先頭に入線する。ここで佐世保からの「みどり」と併結される。併結後は、両端が流線型のクハ783・クロハ782となるため、貫通面を見せたクハ783はこの佐世保~早岐~ハウステンボスでしか見られない。

早岐機関区の上路式ターンテーブルに乗るC57111。門鉄デフは、もっともポピュラーなタイプだが、C57にはいちばん似合っていたし、区名板の「早」が、いかにもC57のイメージに合っていた。1並びの番号もよく、言わば、もっともC57らしい、好きなカマだった。

早岐機関区は、佐世保・長崎本線用のC57、貨物用のD51、それに松浦線用のハチロク・C11が配置され、区には煙が絶えなかった。この年に初めて買ってもらった135ミリの望遠レンズを通して、区の賑わいを表現してみた。

駅の構内で佐世保方から来たD51の貨物をとらえる。中間に石炭車も見えるが、これは松浦線沿線に小さな炭鉱があり、そこから運び出されたものだ。この時期、駅の構内とはいえ、上空を遮る架線もなく、実に広々としている。

高校生の私を早岐へ向かわせた最大の理由は、このC11の牽く特急「さくら」であった(写真は佐世保での撮影)。C11が佐世保~早岐の末端区間で特急「さくら」を牽くことが「鉄道ファン」に大々的に報じられていた。
早岐では、佐世保方に対してはスイッチバックとなるため、DD51の機回しの手間を省くため、この区間のみC11が先頭に立つというもの。最後の蒸機特急と言われ(その後「ゆうづる」で復活することは判明していない)、しかもヘッドマーク付きである。
勇躍、佐世保へ駆けつけたのだ。ところが、早岐から回送されてきた「さくら」を見て落胆した。ヘッドマークがない…。これでは入替中と変わらない。機関士に聞くと、いつも付けていないと言う。
あとで聞くと、ヘッドマークを付けるのは、取材や撮影ツアーで区に依頼があった時だけ付けているのだった。本には、ひと言も触れていなく、のちにある鉄道雑誌の編集長になる、その書き手をずいぶん恨んだものだった。

関西の電車・巡察の旅 その3


【お詫び】前回、最西端「網干駅の姿」を入れ忘れとなった。三河田原へ旅立ちの日となんら変わっていない。網干線沿線は、日鉄の撤退で過去の賑わいは薄れてしまった。

▲最西端・網干は2001年当時と変化なし

3日目:8月28日(土)、最終日である。ひょっとしてとの思いから2日目より早く家を出た。西向日6:13発普通を高槻で9300系快急に乗換え、淡路から大市交堺筋線を動物園前で降りた。先を急ぐなら天下茶屋で高野線に乗り継ぐのが本流だが寄り道するために、御堂筋線で天王寺へ出た。WCに立ち寄り近鉄阿倍野橋・河内長野行準急7:14発に間に合った。3+4の7両編成である。近鉄は名鉄と一緒で多両数固定編成を作らない。ここ南大阪線も2~4両編成の組み合わせで5~8連を組成している。列車によっては凸凹、色違い編成が現れる。そのうちに富田林到着。汐ノ宮は近い。なぜ汐ノ宮かと言うと友人がいる。3年前に電話があり「沖さん、隣に田中鎈市さんがいらっしゃるよ。京都在勤時代、電車の好きな変人が居た、と言ったら”それ、沖中はんやろ”と一発で当てはった」。電話を代わってもらいしばらく話したが、二人の接点が分らず尋ねた。汐ノ宮カメラクラブでご一緒であった。2人の年賀状の住所は番地が近接している。15年ばかり前、高野線・美加の台の住宅改修工事に行った時、河内長野から汐ノ宮を経て帰宅したが、どんなところか忘れてしまい、車窓で確かめたかったのだ。
河内長野の近鉄側の構内は南海側と比べると狭い。高野鉄道は19世紀末の開通、20世紀初頭開通の河南鉄道より早い。蒸気動車が乗り入れていた姿を想像してみた。接続の南海高野線は林間田園都市行急行、6000系8連がやって来た。南海は高野線の自社沿線開発を進め、改良工事に多額の資本投下した結果、資金繰りに困り倒産噂話で賑わったこともあった。さしずめ関西京成電鉄版である。京阪中之島線は自社建設線でないから気楽だろうが、東京メトロ副都心線と異なり、乗り手のないシーソーの片方みたいなもので、今後の大阪市の都市計画の進捗次第が命運を握っている。
林間田園都市下車は初めて、谷底の駅につきエスカレーター利用で改札口を出る。小さなロータリーにバス、タクシー乗り場があるが共に待機車はない。はるか南東方向にみどりに囲まれた住宅街が見える。近鉄が桔梗が丘団地を売り出した時、上本町から70㎞もあり狸の巣になるぞと従兄は冷やかしていた。林間田園都市は難波から39㎞、これならと思ったがバブル崩壊で苦労していると報じられた。10分ぶらつき、次の6000系8連急行で橋本に向かった。
南側の斜面を削り造成された小原田車庫には「天空」編成が留置されている。この車庫新設で急行の大運転(山線直通運転)は数えるほどになった。8連急行は8:39橋本に到着。

▲大運転用2000系が待機する

留置線の2303+2353がホームに据えられので、その車内で林間田園都市で購入したサンドとヨーグルトを腹に収め、WCへ。これが失敗となった。用を達している間に2304+2354が山から下りてきて増結した。そこへ次の8連急行が到着した。空っぽだった2300系4連はあっと言う間に埋まってしまった。止む無く先頭2354号、転換クロスシート扉横の背もたれに立つことになった。座る筈であったシートには、中年のオッサンが背摺りを後ろ向きにして向かいのオバハンと声高に喋ってけつかる。くそったれ!大油断であった。
走り出して暫くして、扉に持たれていた妙齢の御婦人、「トイレに行きたい」と同行者に言っている。グループで高野山参詣のようで、「困ったわ」と言い合っている。高野下を前にして「次の駅なら確実にトイレがある。40分後の電車で追いかけ、極楽橋で落ち合ったら如何?」と声をかけてみるが、「ええ」と言ったまま。上古沢だったかな、到着前にWCが目に入った。「早く行ってらっしゃい!」と肩を押したら「極楽橋で待っててね」と言い残し降りて行った。
9:47、極楽橋到着。想定第1番目の南端で、3時間34分要した。汐の宮見物なければ確実に3時間以内で到着となったであろう。ケーブルをチラッと見て「こうやさん」。紙(髪)を落とすのではなく清水が洗い流してくれるWCへ。折返し、2番目の南端へ行くために留置中4連の先頭車に急いだ。今度は失敗しないぞ、2303号のかぶりつきだ。小走りで先頭車に行けば車内はガランとしており間に合った。2300系は全転換クロス車で、扉間は1人・2人掛け、扉妻間2人掛2列のロマンスカー、老人が眼の色変える理由がここにある。

▲米手作市氏はケーブルカーで下山する

▲極楽橋では特急は手前、急行なら向こうの電車に乗車する

▲高野線(山線)は本年開通80年を迎えた

高野線(山線)は本年開通80年を迎えたその昔1251系3連の上り急行の電制音はすごかった。それに比べると2300系の電制は静かなものだ。そして電制と空制切り替え時のショックがない。「次の高野下で”天空”と交換します」とアナウンスがある。何、これを知っていたら何処かで途中下車していたのに。席確保のため動かず”天空”の入構を待った。橋本着11:02着、8連急行と乗り換えとなり、11:11発で天下茶屋をめざす事にした。
天下茶屋では早く家を出たせいか腹が「グゥ」となり催促している。WCを出たらカレーショップが目に入った。そこで腹に収めて、3番線4号車乗り場に立ち和歌山港行き「サザン21号」を待つ。やって来た8連、後4連は満員、前4連はガラガラ。こんな事だと思い自由席車と指定席車の分かれ目に立っていた次第。すでに戒を犯しているから”迷わず指定席車”である。ガラガラの車内に6人目の乗客となった。追加料金¥500。そして和歌山市から港への気まぐれ客は唯1人だった。和歌山港13:13到着。想定第2番目の最南端には+206分、なんと西向日から7時間要したことになる。これが10年前だと「迷わず水軒」となるのだが、2002年5月26日廃線となった。昼間にも1往復あったから、行くに苦労はなかったが、高野線に行く楽しみはそがれた事になる。

▲和歌山港に間もなく到着

▲本日2本目にして最終列車到着の水軒

▲距離表の数値は難波が起点

和歌山港から難波へ直行しようと思い、折返しサザンの先頭車のカブリツキに行くと「鉄」らしき親子が先に頑張っている。そこで和歌山市で下車、WCとして14:00当駅始発特急で北に向かうことにした。難波、淀屋橋、出町柳と繋いで最北端、鞍馬到着17:02となった。和歌山港-鞍馬間は市駅で一服しなければ3時間15分位の所要時分で収まるだろう。鞍馬では孫との約束、天狗の面を撮るために折り返しを1本ずらしWCとした。

▲天狗の面がお出迎え、お見送り

鞍馬17:18発、出町柳、祇園四条、河原町、と繋ぎ東向日18:33着。改札口には総本家青信号特派員氏が待ち受けていた。もちろん生中で、関西の電車・巡察の旅を乾杯で終結するためであった。本日の行程12時間20分、運賃6,240円、3日間の運賃合計16,900円(座席指定券代は省く)の旅であった。今回の道中、WCが目立つが、歳を取ると1時間前後で催す前兆があり、失敗のないように早い目に処理していたからである。

追憶の九州 一人旅 (1)

先週、九州へ旅してきました。
北九州へは最近も何度か行っているものの、南九州となると大学生以来、40数年ぶりの訪問となりました。
同好の士とともに行く旅も楽しいものですが、自分の思いのまま、気の向くままに行動できる一人旅もいいものです。
私も定年退職後一年が経過しましたが、記録・撮影だけではなく、より広い視野をもって旅に出たいと念願しています。
私として心掛けていることは、
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
といった趣旨のもと、旅を続けたいと思っています。
今回の九州行きも、第一の目的は消えつつある車両の撮影だったのですが、多少なりとも上記の趣旨を受けたものでした。今回は、かつての撮影地・駅の再訪問について、いくつか拾ってみました。
 

 改良工事で消える折尾駅を再訪問
九州上陸後、まず訪れたのは、折尾でした。
ここは、筑豊への入口駅に当たり、高校生の時から、もう何度乗り降りしたことでしょう。しかし、永く親しんだ駅周辺も、大掛かりな連続立体化事業が進展し、駅舎の解体も間近いとの報を受けての訪問でした。

折尾駅は、明治24年2月に鹿児島本線、当時の九州鉄道が開業、同年の8月には筑豊本線、当時の筑豊興業鉄道が開業、それぞれ別地点に駅が設けらた。その後、立体交差の現在地に共同の駅が設けられ、これが日本で最初の立体交差駅となる。寄棟屋根、木造2階建て、コロニアル様式を持つ現在の駅は、大正5年竣工の二代目の駅舎。
連続立体化計画では、筑豊本線の線路を西側に付け替えて、鹿児島本線に寄り添うように高架化し、新しい駅舎を建設しようというもの。折尾駅も周辺の住宅・学校への下車客が増加し、今や北九州市では、小倉に次ぐ第2位の乗降客数となっている。それだけに、明治のままの駅ではさすがに手狭になってきた。

鹿児島本線と筑豊本線が斜めに立体交差する折尾駅は、迷路のように複雑だ。高架下の通路は、煉瓦造りになっている。少し前に、筑豊本線若松駅ホーム側に西口が設けられ、人の流れがさらに複雑になった。また、構外には、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結ぶ短絡線があり、ここを通る鹿児島本線~筑豊本線の直通列車は折尾が通過扱いになっていたが、ここにも折尾駅が設けられている。構内の各所には、特製の駅案内図が貼ってある。

駅前広場に進入するのは北九州市営バス。西鉄バスが独壇場の北九州にあって、若松、折尾周辺で辛うじて路線を持っている市営バスだ。長らく、クリーム地に紺帯という、いかにも路線バスらしい、塗色で親しんできた同バスだが、黄緑色をベースにした新色に変更中で、見たところ、半数は新色に変わっていた。ちょうど、北九州市の地場企業である、バス車体製造会社の西日本車体工業も廃業してしまった。折尾駅前を特徴付けていたバスの車体・塗色が消える日も近いようだ。

▲鹿児島本線の下をくぐって若松へ向かうキハ47。筑豊本線は、折尾以南は電化され、篠栗線とともに「福北ゆたか線」を名乗っているが、取り残された折尾~若松間は、愛称「若松線」として、DCが行くだけの完全な別線扱いとなり、列車も朝の一部を除き、折尾折り返しになっている。

駅前には、西鉄北九州線の終点として、路面電車が高架の駅舎に乗り入れていたが、平成12年11月に廃止されている。駅舎のあったビル全体も解体中であった。もうひとつ、駅前には、筑豊の歴史を伝える川がある。この川は堀川と言い、江戸時代に遠賀川の氾濫を抑えるために、灌漑・水運用に掘られた運河である。川沿いの道路にびっしり立ち並ぶ、原色看板の飲み屋。これも筑豊が殷賑を極めた時代の遺産でもある。再開発事業が進めば、この光景もどうなるのだろうか。

初めて、折尾に降りたのは、昭和42年の高校2年生のときだった。高架の鹿児島本線ホームから迷路のような通路を通って、地上の筑豊本線ホームに行くと、真正面にC55のスポーク動輪が飛び込んできた。その時の印象が余りにも大きくて、それ以降、何度も筑豊へ行かせる結果となった。雨のホームに到着したのは、逆行C556の牽く若松発飯塚行きの列車。こんな列車が堂々と本線上を走っていた。

対向する若松方面ホームから眺めたC55の牽く列車。ホームがずいぶん低い。この頃、筑豊本線の旅客列車は、DCもかなり入っていたものの、客車列車はすべてC55だった。周りの家並みを見ると、さすがに今昔の感がある。

2010年秋1番 Part3 水島臨海鉄道

10月4日
① 倉敷SH 2:40:→3:00 川鉄前車庫 3:10→3:30 球場前駅 3:40→4:00 倉敷SH
② 倉敷SH 6:10→6:40 球場前駅付近 7:30→7:50 浦田駅~弥生駅間
③ 浦田駅~弥生駅間 8:40→8:50 川鉄前車庫9:00→9:30倉敷市駅

ガラガラの国道を約10分も走りますと、水島色の2両と、2002年9月1日に赤穂線開業40周年を迎えた折にJRに貸し出され、国鉄色に塗り替えられた2両が車庫にいました。これで一安心です。

この日の運用は、
① 三菱自工前 6:46→7:12 倉敷市 7:18→7:44 三菱自工前
② 三菱自工前 7:49→8:15 倉敷市 8:20→水島8:46
以上の2往復が予定されていましたので、1番列車は球場前駅~西富井駅間の大築堤で撮ろうと、ロケハンにも向かいました。
今日は、ホテル自慢の無料の美味しい朝食は、6:30~8:30までなので、丁度撮影時間で食べられません。仕方なくコンビニでサンドイッチを買い、ホテルの部屋で食べながら、先日乗車時に撮った走行ビデオを見て、撮影候補地を確認して出発準備をしました。

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2010年秋1番 Part2 片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園

① 10月2日 長岡京21:30(中国道)→22:50加西SA (約100キロ)
② 10月3日 加西SA 6:00(中国道・播但連絡道)→6:40生野駅 (約31キロ)
③ 「道の駅あさご」 12:20(播但道・中国道)→14:20「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 (約120キロ)
④ 「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 16:20(山陽道)→18:30倉敷SH (約100キロ

キハ181系「特急はまかぜ号」と彼岸花とのツーショットも撮れたので、今日の目的は達成と納得して、雨の高速を「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」へと向かいました。

恥ずかしながら片上鉄道は、和気駅で車両を見るのみで、営業中に乗ったこともなければ、撮ってもいません。総本家さんは、何回か来たと話してくれましたので、目的地は熟知していると思っていましたが、やはり約40年前の記憶は沿線風景も変わっていて、確認できず近くに来ても迷走です。仕方ありません。いつものように嗅覚と勘を頼りに辿り付きました。
▲ 入場料は、200円。これで何回もDC乗車できます。保存費用もかかりますので、安すぎます。500円以上は取っても良いのではと思いました。

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ちょっと気になっていた電車

 能勢電に「日生エクスプレス」と言う阪急梅田直通の特急がある。趣味誌の阪急特集では必ずその姿が紹介され、一度は記録したいと思いながら今日に至っていた。今回、小学校の同窓会参加を理由にその撮影機会ができたので、古い写真と併せて報告する。

 能勢電は妙見山参詣を目的に設立され、先ごろ100周年を迎えた変貌著しい鉄道である。北摂を走る参宮電車(参宮は特に伊勢参りに使われる言葉であるが)のような存在で、始発駅川西能勢口を出た所と鶯の森~鼓ケ滝の猪名川橋梁には京阪電車顔負けの大カーブが存在した。 また、1960年代後半には多田グリーンハイツの開発に進出した西武グループの株買占めがあり、阪急が防衛したとの話も聞く。

2010.9.30 平野~一の鳥居 特急「日生エクスプレス」梅田行き8106

生憎の雨であった。十三のホテルを出てとりあえず山下まで行ってみる。通勤客が傘をさして並んでいる所に割り込んで撮るのも気が引けるので平野に戻り、一の鳥居寄りの山間ムードの残る踏み切りで撮影。それにしても昔の田舎電車風景は完全に消え失せていた。日本の鉄道で最も激変したのがこの能勢電であると思う。

 

2010.10.1 豊中 梅田行き特急「日生エクスプレス」 8041

 翌日は阪急宝塚線豊中駅で撮影。人間永いことやっていると雨の日も晴れの日も交替と言おうか平等にやってくる。雨でもくさらないこと。雨上がりの好天に恵まれ、連続してやってくる阪急ご自慢の電車の中で赤いマークの特急「日生エクスプレス」は一際際立って見えた。尚、余談であるが、以前阪急宝塚線には特急が走っていた。今は、急行が宝塚側終点部分が各駅停車となる以前の運行形態であり、、スピード制限が多いことも相俟って関東の相模鉄道に似た感じがしないでもない。

 

1965.10.29 平野 29

 新京阪P-4、P-5がポールを振りかざして走行し、鋼体化された単行の車両も居た頃で、妙見山を始め沿線の行楽地も賑わったであろう時代である。小生も小学校時代にこの電車に乗り、猪名川渓谷一庫(ひとくら)温泉でキャンプをしたり、秋の遠足で多田神社に行ったことがる。端正なスタイルの木造車であったP-4、P-5一族も翌年訪問した時はパンタ化されていたが、その後、阪急の小型車投入により間もなく消滅していった。なお、当時のメモに詳細な記録がなく、フィルムネガの前後から撮影した場所は平野駅と推察した。因みにこの頃の交換駅は絹延橋(車庫があった)、鶯の森、多田、畦野、山下で他に平野~一の鳥居に塩川信号所、笹部~妙見に隊道東口信号所があった。平野は妙見に向かって右側にホームがある行き違い不能の駅で写真からそう推察した。

 

1983.11 山下 日生線323+320

 320型は阪急小型車のうち最後まで原型に近い姿を保っていた。日生線と言うニュータウン開発に伴ってできた新線内専用に活躍する320型最後の頃の姿である。よく見ると後の320のパンタグラフは撤去されている。能勢電入線当初は500型と同じくステップをはずしていたが、阪急2100系改め能勢1500系入線とともに再びステップをつけたものと思われる。宝塚線急行の先頭に立っていた頃がこの電車の絶頂期である。

 

1983.11 笹部~光風台 妙見口行き610

 500型のモーター、台車等を利用して車体新製した車両で小型車ながら整ったスタイルで人気が高かった。最初の車両は800型と同じ様に非貫通スタイルでこれは人により好き嫌いがあった。

 

1983.11 笹部~光風台 川西能勢口行き1501

 元阪急2100系。能勢電の昇圧は1995年3月であり、この時期はまだ600Vで、この車両は600V車両として新製後昇圧→降圧→昇圧を経験して今日に至っている。この頃の能勢電はまだ単線ではあるが大型車両が入り始め、田舎電車から準大手並みに脱皮する過度期にあった。写真ではわかり難いが、山の上には戸建て住宅が見える。

 激変した能勢電車であるが、まだまだ探せば自然をバックに撮れるかもしれないと淡い期待を持ちつつ又、来年の紅葉の頃に再訪したいと考えている。

2010年秋1番 Part1 播但線を訪ねて

102 長岡京2130(中国道)→2250加西SA (約100キロ)
103 加西SA 600(中国道・播但道)→640生野駅 (約31キロ)
「道の駅あさご」 1220(播但道・中国道)→1420「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 (約120キロ)
「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 1620(山陽道)→1830倉敷SH (約100キロ)

今年の夏は本当に暑かった。そして長かった。家庭事情が突発し、長旅が出来ず「青春18きっぷ」を使って、秋の撮影ロケハンのために紀勢、福知山、播但、姫新、伯備、吉備線のローカル線や御坊、井原、水島臨港鉄道への日帰り乗車を続けていましたが、この程度では、ストレスは溜まるばかりで身体の健康上良くありません。

そろそろ短期間なら行けそうな状況となりましたので、北海道へ一緒に行った「総本家」さんと、毎月1回第1日曜日に保存会の手によって動態保存運行されている「片上鉄道」の様子を見に行こう。途中で播但線も撮りたいと計画していましたら、翌月曜日に「水島臨港鉄道」のキハ20形が沿線の修学旅行のために4両が定時列車として運行されるとの美味しい話が聞こえてきましたので、これも行かねばと話がまとまりました。

土曜日自宅で夕食を済ませてから「ぶんしゅう7号」にて、中国道を走り「加西SA」で、車中泊。翌朝夜明けに播但道を走り生野駅へと向かいました。生野駅からは、線路に沿った側道を走り定番の撮影地に着きましたが、天気予報どおり曇り空です。山間とあって、増感をしないと的確なシャッタースピードを得られません。

▲ 7:42 寺前発和田山行き1225D、キハ41-2003。
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