駅名喫茶店(第120回:元は荘園だったのか?「荘」を含む駅名)の続きです。上ノ庄、中ノ庄、下庄と上中下が揃っています。
投稿内の2枚の写真は、日頃Xでお世話になっております、まるしてん様(@kokusanmai)よりご提供いただいたものです。誠に感謝申し上げます。
駅名喫茶店(第120回:元は荘園だったのか?「荘」を含む駅名)の続きです。上ノ庄、中ノ庄、下庄と上中下が揃っています。
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▲平渓線のローカル列車 三貂嶺-大華
▲DR2100・2400復活 内湾線 上員ー六家
▲台中港ー清水をゆくEMU500型の区間車
4月18日(金)
この日、4月18日は、前回の2月が日曜日の訪問で、台中港線はウヤだったので、手堅く平日での再挑戦です。また海線で莒光号も狙うことにします。これも前回、とんだハプニングで撮れませんでしたので回収させてもらいます。
もともとは台湾ではなく、上毛電気鉄道がデハ101を走らせるとかで、行こうかどうしようか、と考えていたのですが、デハ101の乗車が現地抽選で、大阪から高崎まで優等列車利用を東海道新幹線に限ったとしても片道16000円もかかるので、高いしどうしようか、と迷っていたのです。
高崎とは全然関連性はないのですが、ジェットスターが台湾便を増便し、空港利用料他諸手数料全て込みでほぼ30000円で行けることが判りました。台湾は、2月に行ったところでした。しかし大阪と変わらぬくらい寒く、途中で食べた貝の炒め物が恐らく原因だと思いますが、食当たりに遭い、途中から体に力が入らなくなり戦意喪失し帰ってきたので、どこかでやり直さねば、との気持ちが片隅にありました。
ということで、関西空港からジェットスターの夜行便で台北桃園をめざすことにしました。夜の23時35分に出て、到着が現地時刻1時30分だったので、朝までは空港で仮眠です。朝一番の空港バスで台北までは渋滞なしの約40分で着いてしまいます。
今回は、4日間だけなので高雄や台東までの長距離移動を要する高雄や台東は行かないと割り切り、せいぜい真ん中の台中あたりまでに区切っての撮影に勤しむことにしました。
消滅が取り沙汰されている客車急行の莒光号はどうなっているか、機関車の世代交代はどれくらい進んでいるかなどが関心事です。さてどうなっていることやら。
▲ 新鋭R200型牽引の貨物 瑞芳ー猴硐 続きを読む
<転職前の平日茨城行 2008.11.14>
私は平成20(2008)年の冬に2度目の転職をしました。10月下旬に勤め先が決まり、11月は有休消化と引き継ぎで日程的にも余裕があり、平日の休みを有効に使って小旅行に繰り出しました。鉄道+街歩き+ミュージアム巡りができる手頃な場所として、茨城県の那珂湊を選びました。常磐線の勝田からひたちなか海浜鉄道湊線に乗っておよそ15分、昭和の香りが残る那珂湊駅に降り立ちました。
今日は「こどもの日」です。ちなみに、こどもを含む駅名は、こどもの国(東急こどもの国線)、こどもの国(名鉄蒲郡線)、子供の国(日南線)の3か所です。
今回は「日本」を誇る駅名です。過去のメニューと重複していないテーマを毎回選んでいるつもりですが、果たしてどうでしょうか。
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京阪電鉄京津線の札ノ辻(昭和21年廃止)-浜大津(現びわ湖浜大津)間は大正14年5月5日に延伸が完成し、明日で開通100年となります。この延伸には紆余曲折があり、滋賀県の公文書館の資料に興味深いことも載っていましたので紹介させていただきます。(記載した番号は引用した滋賀県公文書館の資料簿冊記号と編次を表す)
京都-大津間の鉄道はすでに明治13年7月に国有鉄道が開通していましたが、互いの中心部を結ぶものではなく新しい路線が待望されました。明治20年代からいくつかの計画がありましたが、明治30年代終わりになって計画が進み、3社競願を調整して京津電気軌道が明治39年(1906年)3月に出願、明治40年(1907年)1月に京都三条大橋-大津御蔵町を結ぶ軌道敷設に特許がおりました。
当初の特許の浜大津側起点は御蔵町七番地で、これは現在京津線が東に曲がりびわ湖浜大津駅に入るところにあった旧京阪大津ビルの場所となります。
↑ 2018年当時の浜大津駅付近、正面の「庄や」が入っていたビルが旧京阪大津ビル。現在は取り壊されてマンションの工事中。(2018.3.7撮影)
九州の駅 〈12〉 北九州・筑豊の各駅で
九州編の最後として、若い頃によく行った北九州、筑豊の駅で見かけた列車を、時刻表とともに見て行きます。
▲門司港は、鹿児島本線の始発であるが、ほかにも日豊本線や筑豊本線へ向かう列車も発車していて、終端式ホームとも相まって、九州の鉄道の原点に相応しい風格があった。電化はされていたが、まだ盛んに蒸機が出入りしていた。列車は、門司港発、黒崎経由、原田行き627レ、これから門司、小倉と電化区間を走って、黒崎から短絡線を通って筑豊本線に入る。直方、飯塚などの産炭地の勢いがあり、始発からも結構な乗客が見られた。牽引のD6034は、デフを斜めに切り、パイプ煙突の出で立ちで、これはこれで、好ましいスタイルだった(昭和46年12月)。
前回、「四国総局管内の荷物輸送(客車編)」をまとめてみたので、「片手落ちだろう」と指摘される前に気動車についても調べてみた。ただ客車編同様、特に興味をもって接していたわけではないので、手元にある1982(昭和57)年11月15日改正の気動車運用表をベースに、その頃の状況をまとめてみた。
▲キニ15 1他DCとターレット、1980/09/13、阿波池田駅3番線 続きを読む
九州の駅 〈11〉 西鹿児島駅の重連列車
九州の県庁所在駅で、ひとつ鹿児島が抜けていました。鹿児島には、ご承知のように、西鹿児島(現・鹿児島中央)、鹿児島と、2つの主要駅がありました。ただ、以前から乗降数には大きな差があり、その後の新幹線の開業で、さらに拡大し、現在、鹿児島中央4万4千人/日に対し、鹿児島は4千人/日と大きく水をあけられています。ただ、昭和の時代は、機関区、客車区などの現業機関があって、運輸上の拠点は鹿児島、流動の中心は西鹿児島と、駅の性格が棲み分けられていました。そのため、両駅間には、回送列車が多く、さまざまな組み合わせの牽引機がよく見られたものでした。
▲西鹿児島で撮影した、西鹿児島発東京行きの特急「富士」である。日豊本線経由のため、同じ西鹿児島~東京を結ぶ鹿児島本線経由の特急「はやぶさ」よりも少し長く、当時は日本一長距離の列車だった。さて、これは、どんな状況なのか、実は、その前後の記録がなく、確証はないが、「富士」の編成は鹿児島で仕立てられ、西鹿児島への回送はC57+20系+DF50のプッシュプルで運転されホームに据え付け、そのあとC57のみ転線して、アタマに付いた状態と考えている。つまり前々回の佐世保~早岐の回送列車を中心として例と同じ状況だろうか。C57がアタマに付いたということは、このままの鹿児島へ行き、C57を解結、そこから正規のDF50+20系になったのではと考える。つまり、西鹿児島~鹿児島、わずか3.2kmではあるが、ここでも蒸機牽引の特急があったのだろうか(昭和44年3月12日)。
九州の列車 〈10〉 盲腸線の終点で
前項の佐世保から、松浦半島に沿った路線が松浦線(現・松浦鉄道)でした。運輸上の中心は機関区のある佐々で、ここから分岐していたのが、今回紹介する臼ノ浦線です。周辺には、小規模な産炭地があり、積出港への運炭を目的に佐世保軽便鉄道によって昭和6年に建設された762mmで、国有化、改軌ののち、戦後に臼ノ浦線となりました。佐々~臼ノ浦間3.8km、中間に駅はなく、旅客も朝3往復、夕1往復で、国鉄のなかでも、最小部類の盲腸線でした。終点の先に石炭の積出港があり、訪問した昭和44年にもまだ石炭列車が走っていました。
▲臼ノ浦駅で発車を待つ824D、門サキのキハ10 29単行、ホームは一面だけだが、石炭列車も運転されているため十分な側線があった。終端部は積出港と隣接していて、石炭を船に積み替えていた。折返し時間は4分だけで、慌ただしく発車、数人の乗客があったように覚えている(昭和44年3月)。
九州の列車 〈9〉 佐世保のプッシュプル運転
長崎県には、もう一つの中核都市として佐世保があります。佐世保線の早岐~佐世保では、その線形によりプッシュプル運転が日常的に行われていた興味深い区間でした。肥前山口方面から佐世保へ向かう列車は、手前の早岐で進行が逆になるため、牽引機の機回しとなるところですが、早岐~佐世保間はわずか8.9キロしかなく、機回しの手間を省くため、早岐に着いた列車の後部に別の機関車を付け、プッシュプルで佐世保へ向かいました。佐世保発の列車はその逆でした。
▲その代表が、特急「さくら」佐世保編成、写真は、C11 192牽引の東京行き「さくら」。DD51が本務牽引ではあるが、早岐で逆向になるため、本務機を機回しすることなく、C11が前部に付き、C11+20系+DD51のプッシュプル編成で同区間を走った。佐世保の構内は狭くて留置線もないため、早岐までの客扱い前後の回送を含めると、2往復のC11「さくら」が見られた。この光景は、昭和40年10月改正から、昭和43年10月改正までの3年間だけ見られた。C11 の次位は、旧型客車改造の簡易電源車マヤ20で、これもこの時代ならではの光景。
九州の列車 〈8〉 長崎駅の不定期急行
長崎駅もすっかり変わりました。私は、まだ新幹線開通後の長崎へは行ったことがありませんが、駅は高架になって、在来線も一新され、駅前の風景も激変したようです。訪問した昭和42年当時、長崎本線はもちろん非電化、単線でした。旅客列車はDCが多かったものの、朝にC57の牽く列車が残っていて、貨物もD51が牽いていましたが、優等列車はDD51化が完了していました。ただ、多客時に運転される不定期列車は、まだ鳥栖区のC60が牽いていました。
▲ C60 26[鳥]の牽く不定期急行、大阪行き「第二玄海」が長崎駅を発車する。夜行列車ながら、一等車1両で、あとはモノクラス編成であることが分かる。右手には、長崎機関区、客貨車区、貨物駅があり、広大な用地が広がっていた。この撮影位置まで、駅から行くのに、ずいぶん遠回りして行ったこと覚えている。長崎機関区には、配属車輌は無かったが、鳥栖、早岐の蒸機が盛んに出入りしていた。扇形庫はなく、機関車は広々した側線に停車するので、形式写真が撮りやすかった。長崎の先には、長崎港駅へのレールが伸びていて、駅は終端ホームもあったが、一部は通り抜けができる配線になっていた。
新規投稿やコメントを書き込もうとすると認証がうまくゆかず、10日が経ってしまいました。いつもお世話になっている管理者殿の手を煩わせて、ようやく投稿ができるようになりました。10日遅れの情報ですが悪しからず。
瀬野にあったスカイレールの解体工事が始まりました。
九州の列車 〈7〉 佐賀駅に発着する蒸機列車
佐賀は、昔から目立たない県庁所在地でした。いまも長崎新幹線は“佐賀飛ばし”しています。昭和の時代も、たしかに規模としては、ほかと較べて小さなものでしたが、駅には、長崎本線、佐賀線、唐津線が集まり、幹線の中枢駅らしい雰囲気を醸し出していました。
▲朝の佐賀駅、C57が朝陽を浴びて、佐世保発鳥栖行き426レを牽いて到着する。磨き込まれた早岐区のC57、この124号機は、ナンバープレートの取付位置がやや高い。打ち水されたホーム、2番線ホームの表示、木造の柱、ホームの売店、左手には、手小荷物も積まれている。左の広告を見ると、佐賀県らしく「サロンパス」の広告も。昭和ムードいっぱいの駅に、“シューシュー”とドレーンを吐きながらC57が到着するのが、眼に浮かぶ。乗車列車をホームで撮っただけの写真だが、こんな雰囲気の写真は大好きだ。なお、佐賀駅は昭和51年に高架化されている(昭和42年4月5日)。
第11日目 2月26日
今日はべトナム滞在最後の日です。正確には翌日早朝1時40分発の夜行便で帰国します。11泊12日の初めてのベトナムの旅が終わります。
最後は行ってみたかったハロン湾ツアーです。KKday企画の『【日本人専用ラグジュアリークルーズ(6時間乗船・冷房エアコン付き・豪華な海鮮ランチ・フォーの夕食付き)』4,808円を申し込んでいました。「当日の朝のピックアップ時刻: 8 時 00分、ガイドがホテルまでお迎えにまいりますのでホテルロビーにてお待ちください。」との連絡が届いていました。
少し遅れてバスは宿泊していますホテルに到着しました。2+1の豪華なバスでした。
▲ GoogleMapで検索しますとハノイ市内からは167km、高速道路を通っての所要時間は2時間23分と出ました。結構な距離です。 続きを読む
九州の列車 〈6〉 宮崎駅の“遜色急行”
九州の県庁所在地駅で見た各種の列車、つぎは宮崎駅です。先の熊本でも少し触れましたが、廃止された山野線を走る「からくに」という急行がありました。語源は、鹿児島・宮崎の県境にある霧島連峰の最高峰「韓国岳」に由来しますが、そのルートは今は無き廃止路線を経由するもので、車両については、一般型車両を使った“遜色急行”にふさわしいキハ52単行でした。
▲C55の煙が渦巻いている宮崎を発車するDC編成。当時はよく見られた併結編成だが、最後部の1両に注目、キハ52 52(鹿カコ)で、この車両のみ山野線を経由して出水に向かう急行「からくに」。途中から分割されて単行で走る。1両だけの急行は、九州では唯一だった。山野線は規格の低いローカル線で、途中にループ線があることで有名だった。山野線と宮崎との結びつきは希薄で、単行でもガラガラだったと言い、昭和45年に単独区間が快速に格下げされ、「からくに」の愛称も消え、山野線そのものも昭和63年に廃止されている(昭和42年3月29日)。