この年の桜のシーズンには、初めて、嵐電北野線の“花のトンネル”、鳴滝~高雄口へ写しに行きました。まだ旧型車体、ポール集電と、ひと昔前の時代ですが、この年の12月15日には、ポールからZパンタに換装されています。
▲旧型車体のモボ101が桜のトンネルを行く。zパンタ化の際に、車体を更新し、現在も見られるモボ101になった。
この年の桜のシーズンには、初めて、嵐電北野線の“花のトンネル”、鳴滝~高雄口へ写しに行きました。まだ旧型車体、ポール集電と、ひと昔前の時代ですが、この年の12月15日には、ポールからZパンタに換装されています。
▲旧型車体のモボ101が桜のトンネルを行く。zパンタ化の際に、車体を更新し、現在も見られるモボ101になった。
総本家青信号特派員さんの50年前の記録に特急「きりしま」が出ていました。その後九州内でも同一名の特急があったような気がしますが見たこと、撮ったことはありません。さて表題のC60の急行「霧島」ですが多分前日に博多で泊り翌1964年4月2日に博多6時57分発「霧島」に乘ったような記憶があります。次の鳥栖迄ED721[門司]に引かれて7時25分鳥栖到着でC6027[鹿児島]にバトンタッチした直後の写真です。寝台、食堂、1等車など伝統急行31列車らしい編成が東京から鹿児島まで連結されていましたがこんな撮影では機関車の記録だけです。この日は鳥栖で終日鹿児島本線(含む久大本線)、長崎本線を撮りました。▼
今年は、昭和で換算すると、昭和100年に当たるとか。6月に入りタイミングを逸したネタですが、またぞろ「昭和」に回帰、昭和100年の半分、昭和50年に戻ってみることにしました。昭和50年と言えば、私にとっては社会人3年目、忙しくもあり、仕事の面白さも感じていた頃ですが、趣味活動も忘れることはなく、対象も多様化、バスや街並みにも関心が向いてきました。日本からは蒸機が消える頃で、ポストSLとして、特急や電機にも焦点が集まっていました。京都では昭和49年に烏丸線が廃止、その次は、
昭和51年の丸太町・今出川・白川線の廃止までに2年間があり、昭和50年は京都市電においては、エアーポケットのような年でした。先ごろ昭和の時代を駆け抜けた長嶋さんが亡くなり、ひときわ“昭和”が喧伝されたものです。そんなときに、昭和50年を回顧するのも、あながちハズレではないと思います。まずはカラーポジのなかから、いくつかのテーマを選んでみました。▲私が最後に見た長嶋さんは平成時代のオープン戦、試合前に何かの表彰を受ける監督10年目の長嶋さん、右は入団4年目の松井秀喜と川相昌弘(1996年)。
岡山で583系を送る (昭和50年3月9日)
昭和50年3月に国鉄ダイヤ改正があった。新幹線の岡山~博多の開業がいちばんの目玉だったが、各地でも特急の増発、急行の削減が行われ、白紙改正級の変更だった。山陽本線はとくに激変で、岡山で新幹線接続していた、山陽・九州方面の昼行特急・急行39往復が全廃された。
▲特急「きりしま」は、昭和45年10月改正で京都~西鹿児島の583系として誕生、時間帯から徳山~熊本は無停車で博多も通過したのが特徴。その後、新大阪~西鹿児島になり、改正後もスジは残るが、「明星」に愛称が統合されるため、「きりしま」の名は消える。この日は改正前日のため、岡山止めだった。
筑肥線にりんかい線の車両が導入されるとの情報をキャッチしました。103系が置き換えられる見込みです。https://www.nishinippon.co.jp/item/1360805/
そういえば、ちょうど先週に加古川線の103系に会ってきました。この車両も残すは加古川線、播但線、筑肥線・唐津線のみとなり、乗るなら今のうちかと思います。

急ぎの用事で無ければ、姫路までは山陽電車がおすすめです。海は見える、明石海峡大橋を望める、途中で降りればカーレータ―、ホームを標準時子午線が通る駅、美味しいラーメンが食べられる、楽しむ要素が盛りだくさんです。

過去の駅名喫茶店の開店日を確認すると、6月の投稿が比較的少ないことが判明しました。祝日がないこの6月にたくさん投稿できるよう頑張ってまいります。
今回は兵庫県の第3セクターである北条鉄道です。今年2025年は播州鉄道として110周年、北条鉄道として40周年というメモリアルな年だったようです。

今日5月31日は小田急から西武へ譲渡された車両の国分寺線での営業開始日です。
小川駅の元小田急8561Fの西武8003F8103の東村山行きです。▼
2018年7月10日小田原線玉川学園前を通過する快速急行小田原行き8561です。この車両が上の西郡8103の編成で譲渡第一陣です。▼
過去に東急から名鉄へ譲渡されて例がありました。1978(昭和53)年5月6日木曾川堤の2881~3881の元東急の車両です。▼
関東の私鉄は興味がないとおっしゃられる方もおられますのでこれで幕引きです。
先月、本件列車をモデルとした鉄道模型が販売された。私自身はDE10形式への形式改善前までの数年間の付き合いであったが、懐かしくなり少しまとめてみた。
▲DF50 18+DF50 44+ホキ5200×18B、1983/04/03 入14便、多ノ郷~取卸場 続きを読む
2024年6月、伯備線の特急「やくも」で活躍していた381系電車が定期運用を終えました。
これにより国鉄時代に登場した特急型電車が全て定期運用を退きました。
日本全国の旅先でよく出会った国鉄型の特急がついに第一線から居なくなってしまいました。
幸いにも、381系最後の活躍を撮りに伯備線に何度か足を運ぶことができました。
本で読んだ「布原の三重連」と同じ路線が終焉の地となることに因縁めいたものを感じつつ、中国山地を走る振り子式電車を記録しました。

根雨駅で並ぶ「サンライズ出雲」(臨時)と新旧「やくも」。381系で採用された高運転台スタイルは後任の伯備線特急車両にも引き継がれました。
中国新聞記事から2件ご紹介します。まずは美祢線について。
もう2年も運休していて、時間だけが過ぎてゆく美祢線ですが、沿線自治体が希望する鉄道復活はどう考えても実現するとは思えません。いたずらに結論を先延ばしせず、1日も早くBRT化するのが落としどころのように思えてなりません。
叡電リバイバル721に別れ
手垢のついた写真や、超ローカルな話題を得々と載せています。いえいえ、写真はいつも撮ってますょ。自分が撮りたいものだけ、最小限の機材を持って、サクッと撮って帰ります。後期高齢者には、それで十分です。体力はまだ自信があるものの、長期間、旅に出る気力もありませんし、葬式鉄には近寄りたいとも思いません。でも季節の移ろいだけは、しっかり記憶に留めたい。一年を通じて、桜から新緑までの、この1ヵ月余りは、撮影には最適の季節だとつくづく思います。そんな思いで、近くを巡って記録を軽く総まとめします。
▲叡電では、700系の最後のリニューアル未施工車である721号を、昭和62年デビュー当時の「アイボリーとマルーン」の塗装に復刻し、「リバイバル721」として2025年2月から運転していた。雪の降った日にも出掛けたが、5月連休期間に運転を終了するため、桜の開花に合わせて行ってきた。正面に「EIDEN」ロゴも貼り付けられていた。
広電宮島線の低床連接車の先駆けである5000形は、ドイツ シーメンス社製のため電気部品を中心に交換部品が入手できず、5007号を部品取り用として廃車するなど保守に苦労されており、何編成かは荒手車庫で休車状態になっています。そんななか、荒手車庫に留置中だった5006号の屋根上の電気部品から出火したそうです。新聞報道では補助電源装置となっていますが、休車中でパンタは下ろしていたでしょうからなぜ発火したのかなど、詳しいことはわかりません。12編成ある5000形の廃車がさらに進むのではと思います。そう考えると還暦を過ぎた1900形が現役で活躍しているのは、勿論広電の車両保守部門の努力の賜物ですが、すごいことだなと感心します。
唐突に何のこっちゃ、と思われるでしょう。でも、これが理解できたら、よほどの“デ
ジ青通”です。丸太町かわみち屋は、京都で「そばぼうろ」「蕎麦饅頭」の製造、販売を手掛ける会社として知られていますが、5月20日で廃業のニュースが、地元新聞に流れ、衝撃が広がりました。聡明なデジ青読者なら、ひょっとして頭の片隅に残っているかもしれません。今を去る5年前、私と勘秀峰さんの2人で、京都市電写真展「市電が出会った街 河原町丸太町」を行ないました。丸太町かわみち屋は、その河原町丸太町の交差点にあり、地域を代表する店舗でもありました。▲これが「そばぼうろ」、決して高級な京銘菓ではないが、京都ではとくに粗供養に選ばれることも多く、昔から市民の定番の菓子だった。
写真展では、皆さんから「そばぼうろ」の差し入れをいただき、会場でそばぼうろを食べながら、そのルーツや本家分家争いなど、時ならぬ“そばぼうろ論争”が巻き起こったことを懐かしく思い出します。
京都市電写真展 明日からです! | DRFC-OB デジタル青信号
展示写真の中にも、丸太町かわみち屋の看板が写ったものが数点ありました。ところが、2021年には、店舗が、製造所のある円町へ移転し、同じ丸太町でも、山陰線の車窓から見える丸太町かわみち屋となりました。そして、このたび、種々の理由で、廃業に至ったものです。
▲写真展ではエントランス部に、ギャラリー店主の厚意で、タタミ一畳大の大型カラーを展示した。その左、タイトル下にも、丸太町かわみち屋が写っていた。
▲勘秀峰さん撮影の同交差点では、奇跡的に3方向の②系統が顔を合わせて、タイトル通りの“出会った街”となった。背後の丸太町かわみち屋の看板も決まっていて、案内はがきに使った。
▲ “そばぼうろ”の記憶は、この黄色の缶にもつながる。しっかりした缶で、京都では、どの家でも、一つか二つは、収納缶として活用されていたはずだ。私は、記念切符や乗車券の保管に使っていた。
馴染みの菓子屋が消える、そういえば、吉本興業のお笑いの常設劇場だった、よしもと祇園花月も、8月になくなると聞きました。鉄道だけではない。町並みも変わって行くことを感じています。
九州編 〈14〉蒸機が後押しする急行列車
最後は、何度も訪れて、愛着のあった筑豊本線の列車をいくつかを紹介します。以前にも述べましたが、北九州~鳥栖には、鹿児島本線と筑豊本線の二つの経路がありました。優等列車は、途中に博多が所在する鹿児島本線経由ですが、当時の筑豊本線には石炭で繫栄する直方、飯塚があり、路線長にしても、単線・勾配区間があるものの、筑豊本線がわずかに短かく、一部の優等列車は筑豊本線を経由していました。
▲大阪~熊本の急行「天草」が、博多には寄らない筑豊本線経由の列車だった。蒸機ばかりの筑豊本線にあって、「天草」は唯一、鳥栖区のDD51が牽引する列車だった。ただ、筑前内野~筑前山家には冷水峠があって、冷水トンネルの前後に25‰勾配が連続する。さしものDD51でも客車10両では苦しく、飯塚からはD60が後補機が連結された。客車の編成にも興味が湧いて来る(昭和43年3月、筑前内野~筑前山家)。
九州の駅 〈13〉C50の牽く旅客列車
また投稿が途絶えてしまいました。なにか新規でもと思いながらも、古い時刻表と古い写真を、しばらく見ていただくことにします。もうこの回を逃したら、発表する機会はないと思います。手垢のついた写真ですが、58年前、こんな多彩な列車が走っていたことを知っていただけたらと思います。
▲昭和42年当時、前回(12)でも述べたように、日豊本線は、行橋の次の新田原まで電化していた。と言っても小倉から30キロほどの区間で、新しく421系電車も増備されていたが、電機の新製はなく、まだ客車列車が多く残っていて、貨物とともに、架線下を蒸機が牽いていた。牽引は、大分区のC57、門司区のD51が中心だったが、写真の門司港発柳ヶ浦行き1529レは、D51牽引から、行橋でC50に牽引機が交代し、柳ヶ浦を目指していた。機はC50 58で、デフには千鳥と波の装飾が入れられている(昭和42年3月、行橋)。
京都-大津間の旧東海道本線は明治12年8月にまず大谷-京都間が開業、翌13年6月28日の逢坂山トンネルの開通を待って、7月14日に明治天皇の試乗があり、7月15日より営業運転が開始されました。これは新橋―横浜間に遅れること8年、神戸-京都間に次ぐ、日本でも三番目の路線となりました。当時のルートは名神高速道路の蝉丸トンネル西口の手前に大谷駅が作られ、駅を出てすぐにトンネルとなります。逢坂山を貫くこのトンネルは日本最初の山岳トンネルで、さらにお雇い外国人の手を借りることなく作られたトンネルでした。当時は機械もなく、生野銀山の労働者がノミやつるはしを主体とした手掘りで掘りぬいたとされています。トンネルの西側入り口は名神高速道路の下になってしまい、トンネル坑口の上部につけられた井上勝の銘文は京都鉄道博物館に保管され、現在は昭和37年に建てられた石碑だけがその場所に立っています。
↑ 全長664.8mのトンネルを抜けた東側出口は当時のままの姿で残されていて、坑口上部には竣工を記念して当時の太政大臣三条実美の揮毫による「楽成頼功」扁額がかけられています。 続きを読む