山陽本線は先日海田市・瀬野間が開通しました。一方三原・瀬野間は不通でしたが、今日21日 白市・八本松間の区間運転が始まりました。これで不通区間は三原・白市間と瀬野・八本松間となりました。今日は区間運転の様子を見に行ってきました。
今日から開通した八本松・白市間各駅の利用者が広島に行こうとすると、バスで新幹線東広島駅に向かい、新幹線利用で行くしかない状況です。三原へは白市から代行バスを利用できます。 続きを読む
山陽本線は先日海田市・瀬野間が開通しました。一方三原・瀬野間は不通でしたが、今日21日 白市・八本松間の区間運転が始まりました。これで不通区間は三原・白市間と瀬野・八本松間となりました。今日は区間運転の様子を見に行ってきました。
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◆上目名で上下の「ていね」を撮影 昭和43(1968)年8月31日
連投で失礼します。北海道へ渡って、真っ先に訪れたのが上目名でした。駅前には一件の民家すら見当たらない北海道の寒駅が、一躍“C62重連の聖地”として有名な撮影地になりますが、訪れた当時は、まだ撮影者も数人で、駅を降りると、駅員からお茶を出してもらい、一服してから撮影地に向かったものでした。上目名を有名にしたのは、「鉄道ファン」昭和41年7月号の北海道特集号のなかの黒岩保美さんのエッセイ「北の旅の魅力」でした。その文をノートに書き写して、イメージトレーニングを重ねて、上目名に降り立ちました。
▲前日、「ていね」に乗って倶知安に着き、YHで久しぶりにまともな食事・風呂が得られた。なにせ京都を出てから、夜行3泊&キャンプ2泊で、身体はヘロヘロだった。ゆっくりして、9時58分発の列車に乗って、上目名へ向かう。目指すは150キロ地点、黒岩さんも紹介された、上目名から1時間近く歩いたところ。たしかに連続20‰勾配で、右に左にカーブして、好適地に思えるが、一歩、線路から離れると、背丈以上の熊笹がびっしり繁茂し、完全にお手上げ状態、結局、犬走りからしか撮る余地がない。13時前、向こうのほうから、“ザワザワ”とした音が聞こえてくる。これが、あのC62重連のブラストなのだった。上り「ていね」C62 3+C62 44
◆ “北のC62”に初対面&「ていね」乗車 昭和43(1968)年8月30日
この旅行は、同年8月23日から9月16日まで、北海道均一周遊券をフルに使った25日間の旅行でした。東北・北海道は全く初めての地で、さまざまなところへ行ったものです。当時の感覚では、C62以上に魅力的な対象がいくらでもありました。C62に費やしたのは、数日間にしか過ぎません。
▲花輪線龍ケ森での2泊の狂化合宿を終えて、東北本線奥中山で最後のD51三重連をDRFCメンバーとともに撮ったあと、いったん解散し、一人で青函連絡船「羊蹄丸」で津軽海峡を渡り、函館に0時45分に着いた。待合室でひと寝入りを目論むが、椅子はすでに占領されていて、床に寝るが、さすがに寒さを感じて北海道へ来たことを肌で感じた。5時48分、始発の松前行きに乗り、つぎの五稜郭で下車する。まもなく、通過するのが上り急行「たるまえ」、C62 32の牽引だった。「たるまえ」は、その一ヵ月後のヨンサントオ改正で「すずらん」に改称される、札幌発室蘭本線経由の函館行き夜行急行で、長万部~函館がC62の牽引だった。
“盆休み”のためか、本欄も開店休業の状態が続いていましたが、急に涼しくなってきましたので、私もこのあたりで復帰することにしました。先日は、ベテラン蒸機ファンの集まりに、準特急さんとともに参加する機会がありました。歳を重ねても、蒸機や鉄道写真に、ハンパないほどの情熱を持った方ばかりで、口角泡を飛ばして話が交わされます。話題は、実にさまざまですが、われわれの年代のこと、今や伝説と化したC62重連の話がよく出ます。
世のなか、エポックメイキングな社会事象の体験の有無で、世代を区分することがあります。たとえば前回の東京オリンピックであり、関西では大阪万博、阪神大震災と言ったところでしょうか。鉄道趣味においても同様で、C62重連は、まさに鉄道趣味史を時代区分する、歴史的な事象だと思います。私が経験したのはC62の末期に過ぎませんが、C62の時代を共有できた人間としては、復活蒸機しか知らない、若いファンや熟年復活組とは違う、ひそかな誇りを感じています。
▲私が初めて北海道に渡ったのが、ちょうど50年前の昭和43年8月のことだった。ほかの蒸機や私鉄も健在で、C62だけ目当ての渡道ではなかったが、初めての北海道で対面したC62との感動は忘れられない。当時は、通勤列車も牽いており、以前雑誌で見た同じ光景を撮りたいと、夜行列車で大沼へ来て、大沼を発車して函館へ向かう列車を、駒ヶ岳バックで撮った。
準特急さん、マルーンさん コメントありがとうございました。準特急さんは刺激を受けて近々田原本線を撮影に来られるようですが、総本家青信号特派員さんもコメントに書かれているように地味な路線なので撮影ポイントが見つけにくい路線でもあります。私は時々乗る時の車窓から見る風景を参考にして、ストリートビューで大体の目途を立てます。最終的には現地でうろうろして撮影ポイントを決めています。最近、近くなのでチョコチョコと撮りに行ってますが、以前はほとんど撮っていませんでした。意外とそんなもんです。参考になるかわかりませんが少しばかり写真をご覧ください。
近鉄田原本線は今年で100周年です。田原本線は「たわら・ほんせん」ではありません。「たわらもと・せん」です。元は大和鉄道という鉄道です。大正7年(1918年)4月に新王寺-田原本間が開通しました。いまは標準軌(1435mm)ですが開業当初は狭軌(1067mm)でした。大正12年には桜井まで延伸しました。しかし田原本と桜井間は昭和19年1月に戦争中に不要路線となり営業停止、廃線となりました。そして、昭和23年(1948年)6月には新王寺ー田原本間が改軌されて標準軌になり、電化されました。この時はまだ大和鉄道です。昭和36年(1961年)10月に信貴生駒電鉄と、そして昭和39年(1964年)10月に近畿日本鉄道と合併しました。そして、いまに至っております。今年は開業100周年として田原本線に今年の4月から赤色(レッドマルーン)の復刻色を塗られた編成が走り始めました。そして7月から緑色(ダークグリーン)の復刻色を塗装した1編成が100周年記念第二弾として走り出しました。赤の復刻色編成は撮ったのですが緑の復刻色編成はまだです。少し涼しくなったのでノコノコと写真を撮りに出かけていきました。といっても30℃ぐらいですが、35℃以上に比べれば・・・(なにか、感覚がおかしくなってしまう感じ)
作品を公開するに当たって作者名をどうするかで悩んだ。通称「大阪通信員」として洒脱な名文を投稿されている方の本名を出していいものかと言うことである。ご覧の通り、作品は詩情豊かに鉄道の青年期から壮年期への曲がり角を克明に切り取っている。ユーモアあふれる投稿とはひと味違う写真集なので、ここは本名を書かせて頂き、ご本人のお人柄をご理解頂こうと考えた。ご本人は21時を廻ったので、すでに眠っておられる。早朝に起きられて激怒されても、今度はこちらが眠っているのでいいと決断した。
中林英信氏は全国をくまなく撮影している。その作風は元祖青信号特派員氏や、故・天野克正氏に通じるものがある。氏が撮られた中から「混合列車」の数点をご覧いただきたい。なお、コメントは主にご本人が写真の裏に記入されたものを使用し、一部を編集した。
窓の開く客車
客車の魅力は、いろいろありますが、「窓が開く」のも、そのひとつでしょう。窓ガラスで遮られることなく、ナマの車窓風景をたのしむことができます。この季節なら、走るにしたがって涼風が入って来て、生き返った気持ちになります。最近聞くのは、小海線へ行っても、窓の開かない冷房付きの気動車ばかりで、窓を開けて高原の自然の風を入れたいと聞きます。とくに猛暑の今年、テレビでは「ためらわずに冷房を」と叫んでいますが、暑いときには暑く、涼しいときには涼しく感じる客車こそ、自然の摂理に合った乗り物だと思います。
「窓の開く」のは、自然が感じられるだけではなく、車内外で人と人との交流ができるのも、また客車の魅力です。車内から手を振って、外の人と一時の邂逅を楽しんだ幼い日の思い出は誰にでもあると思います。
▲クローバー会メンバーとともに、現地で前泊して、甲斐駒ヶ岳をバックにした小海線小淵沢の大カーブの先端にやって来た。イベント用として、C56の牽く混合列車が運転されていた。これは、定期の貨物列車に客車1両を連結したもので、列車番号も183レだった(昭和47年8月)。
客車時代の食事
最近、車内で駅弁を食べるシーンを、ほとんど見かけなくなりました。私は、駅弁に限らず、車内で食べるのは、周囲から目が気になって、どうも苦手です。その点、昔の客車では、人目をはばからず食事、駅弁を食べたりしたものです。かの有名な富士フィルムの「50000人の写真展・鉄道のある風景」に、昨年「窓」で入選された米手さんの写真も、客車で駅弁を頬張るDRFCメンバーを写したものでした。今のように、明るく開放的な車内では、食事をする雰囲気にはありません。ボックスシート、暗い車内ならではです。食べると言っても、コンビニも無かった時代、駅弁か駅ソバに限られて、たいへん貴重な食材でした。
▲正月明けの宇都宮駅、夜行列車を降りた身に、寒さと空腹がこたえる。向かいのホームからは、見るからに暖かそうな駅ソバの湯気が上がっていて、たくさんの客が群がっている。右手には、スハフ32 2362の狭窓が見え、その前を、寒そうな母娘が、白い息を吐きながら、通り過ぎた。
今回、ご紹介するのは広島行(呉線経由)のサボです。裏は、新大阪行(呉線経由)で、大 向と書かれていたますので、向日町運転所持ちのサボです。向日町運転所開設・新大阪駅開業が1964年ですので、それ以降使用されたものです。これも浮き文字といわれるものです。先般の諸先輩が投稿された呉線の蒸気列車の何かに使用されていたものかもしれません。経由の表記も前回の三角行のように下にあったり、今回のように右にあったり、経由の経が略されていたり、ローマ字があったりなかったりいろんなバリエーションがあり興味は尽きません。
今回のものは、新幹線開通から岡山開業までの間、新幹線に接続し、翌朝に広島に到着する夜行急行列車に使用されたものと思うのですが、いかがでしょうか?
混合列車の魅力
客車列車は数多く乗りましたが、「混合列車」となると、乗車機会はウンと少なくなります。それでも、思い出してみると、釧網線、根室本線、石北本線、五能線、日中線、大社線、木次線、高森線、肥薩線で、蒸機の牽く混合列車に乗った記憶があり、昭和40年代、まだこれだけの混合列車が残っていたことに改めて驚きました。どのローカル線でもあったわけではなく、客車列車のスジがあるものの、旅客数は少なく、貨物量も少しはある、このような客貨のバランスがあって、混合列車が設定されたようです。乗ってしまえば、客車列車と変わりはありませんが、発車時のショックで前に貨車が連結されていることを感じ、途中駅では、旅客ホームのないところでも平気で停車し、客扱いが終わっても、悠然と貨車の入換えに励むなど、混合列車ならではのシーンが見られました。
▲石北本線は、本線格で、客貨もほかの線区よりは多いから、混合列車もスケールが大きい。これはDRFCメンバーとともに、下り「大雪6号」に乗り、遠軽に着いて、始発の523レに乗り換えたもの。生田原で補機が付いて9600+D51の重連となり、貨車も長く、その編成にも興味が湧く。常紋に向けて、列車は力闘を始める(昭和44年9月)。
調子に乗って、三角行きのサボを投稿します。
三島行きと同じく大宮のもので浮文字です。経由入りで熊本経由となっています。
裏は大阪行き 同じく熊本経由です。熊本経由以外で大阪から三角に鉄道では行けないはずですが、三角というあまり聞き慣れない場所に行く客車なので、親切に表記したものと思われます。それにしても大阪から三角にいく列車があったこと自体驚きです。きっと天草に渡る人たちが乗車していたんでしょうね。

しかしながら、手持ちのサボのなかには、大阪から長野や田口(妙高高原)に行くものがありますが、北陸線経由か中央線経由か表記のないものもあります。どういう基準だったんでしょうか?
デカンショまつり号です。
PCが壊れてしまい、新しいPCを購入しました。少し遅くなりましたが、エキスポこだまのサボを投稿します。
大 宮 (大阪鉄道管理局 宮原客車区)のサボで、収集家の中では、浮文字と呼ばれているものです。裏面はなく、青焼きコピー(懐かしいですね。)の大阪行きが貼られています。ご承知の通りエキスポこだまは、上りのみの運転でしたので、大阪行きは、他の臨時列車運転の際、大阪行きとして使用したものと思われます。
他、いろんなサボが手元にありますので、折を見て発表したいと思います。希望の行き先などありましたら、リクエストお待ちしています。

夜の客車
今では死語に近くなりましたが、“夜汽車”という言葉があります。窓から洩れる室内灯、照らし出された乗客の姿、発車ベルが鳴り終わり、一瞬の静寂のあと、耳をつんざく汽笛、ゆっくりホームを離れていく列車…、これは、もう客車でしか演出し得ない、夜汽車のイメージではないでしょうか。
なにゆえ、夜の客車は、絵になるのでしょうか。やはり白熱灯の暖かい光があります。もちろん蛍光灯の客車もありましたが、客車は白熱灯に限ります。加えて一枚窓が連続して続く規則性、また、ブドウ2号の濃い塗装が、窓とのコントラストを出している。これらが相乗して、哀感さえ漂う夜汽車のムードを演出しているのではないでしょうか。
▲九州の名物夜行鈍行門司港~都城の1121レ、1122レ、早朝を走る1121に比べて、ずっと夜間の1122は、見どころは少ないが、時間調整もあって、とくに吉松~人吉の各駅では停車時間が長く、バルブ撮影に適している。ここ大畑は、周囲に一軒も家もなく、漆黒の世界がひろがるが、D51 1058の前照灯と客車から洩れる光だけが、“夜汽車”の雰囲気を演出していた(昭和45年9月)。