阪急のアロハ特急についての情報を教えて下さったどですかでん様、TMS181号(1963年7月号)に中島新治氏製作で、阪急800型アロハ特急が掲載されていました。記事にも「当時の常識を破って、黄色と空色の派手な塗り分けで登場して話題をまいた阪急802+805の自作ペーパー製」と書かれています。
2012年冬の中国鉄路の旅 Part4 国境の橋Ⅲ 琿春(珲春)
第5日目 11月16日
① 図門(Taxi)→琿春(珲春)→図们
② 図们20:30(K7368次)→翌日5:45长春
今日は、昨日のTaxiを再チャーターして、図们から東方向(珲春)へと向かい約60キロ先の国境の橋を目指しました。
【不運の鉄路】
1932年に「珲春鉄路」が設立され、1935年に満鉄北鮮線の訓戎~珲春(14.8キロ)が、762mmのナローゲージで開業しています。訓戎~水湾に架かる国境の橋はこの時に建設されました。
1938年には、「東満洲鉄道」に買収され、1939年には輸送力増強のために1435mmへと改軌されました。国境の橋も、この時点で付け替えられています。その後、珲春以降の延伸が続きましたが、1945年のソ連の突然の侵攻により鉄路は破壊され消滅したようです。わずか10年で消えた不運の鉄路です。
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小樽から江差へ、そして青森 1日目から3日目小樽まで
青森の写真展から1ヶ月以上が過ぎた。私も青森へ行くことにしたのであるが、せっかく北の方へ行くのであるからあちこち行ってみようと計画をした。そして考えたのがとにかく船で北上することにした。理由は運賃が安いからである。いろいろ考えた結果、奈良から近鉄で名古屋へ行き、太平洋フェリーで苫小牧へ。苫小牧からとにかく函館に行き、ここから青森へ行くことにした。帰りは再び苫小牧に戻り、今度は新日本海フェリーで敦賀へ。そして奈良に帰る計画である。せっかく北海道に行くのであるから、小樽と江差に行き、津軽海峡は船で往復することにした。その結果、船中4泊、夜行高速バス1泊、ビジネスホテル1泊という7日間の旅となった。
この旅では予期せぬことがあり、面白い旅となった。写真を中心にして構成したが、船とか建物などの鉄道以外の写真も多く出てくるので、この点は少しお許しを・・・
では、1日目から3日目の小樽までを。 続きを読む
2012年冬の中国鉄路の旅 Part3 国境の橋Ⅱ 開山屯へ
第4日目 11月15日
① 丹東 前日14:42(K7378)→11:38龙井
② 龙井(Taxi)→開山屯→図们
丹东~龙井の1,066キロを約22時間かけて走るK7378次は東北地区のみを走る列車としては、走行距離の長い列車の一つです。
走行する和龙~白河は途切れた路線でしたが、 最近つながりこの列車が生まれました。使用される車両は旧型緑皮車で、暖房は車両ごとの石炭炊きのボイラーです。しかし、乗り鉄には応えられない車両です。
ただ、食堂車がないことが問題ですが、我々二人の主食はビールと白酒ですので、よく来る車内販売で十分でした。 続きを読む
目撃者、探しています!
2012年冬の中国鉄路の旅 Part2 国境の橋
第3日目 11月14日
① ホテル7:30(車)→9:01上河口駅→10:55长甸駅→丹東駅
② 丹東14:42(K7378)→翌日11:38龙井
朝7時前に目覚めました。昨夕の新義州駅の列車が気になります。急いで屋上に上がって見ました。逆光の向こうに新義州駅があります。
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伊賀線廃線跡Ⅱ
KAWANAKAです。
錦秋版が2つ発表されて、まだ1つ叡電が出るのかも知れないが、そろそろ見納めなので、小生も休みを利用して小さな外回りをしているので、こんなことをしてまっせ、とお披露目したいと思います。
拙宅は高槻なので、休日の金券ショップに行けば200円で河原町か嵐山まで行けます。嵐電は乗り放題500円。
また近江八幡まで同じく金券ショップで900円くらいで近江鉄道の乗り放題は550円。この辺がリーズナブルに行ける範囲かと思います。そうそう京津線も500円やから安いわねえ。という訳で箱根や叡電ほどではないが、ぶらりと出かけました。嵐山から嵐電は桜と思いますが、いやいや紅葉もいけますのやでえ、というところを。第一、春の鳴滝みたいに押すなおすなの人出はありません。
まずは200円で嵐山へ。駅の線路脇のフェンスからできるだけ長焦点にすれば桜のあいだに存在感を出そうと頑張っているモミジが・・・。マルーンが同化していて鮮やかさは今ひとつかもしれませんが、確かに紅葉です。
次に嵐電で500円払って鳴滝を通って宇多野まで。
宇多野の陸橋から仁和寺(かな?)が見えます。枝と車両の関係が上手くいかずですが、遥かにお寺が望めるのが如何にも宇多野らしいです。
さて、ここでウロウロとしていますと、宇多野で下車する若い二人連れに出会いました。断る時間もなく、距離も離れていたので数カット撮りましたが、如何にも京都、なにかポスターになりそうな写真になりました。撮ったでー、ということで目的達成の感がしましたが。
さて、鳴滝は桜の名所ですが桜の紅葉もモミジのケバさがなく捨て難い。幸い同業者は皆無。落ち着いた色彩の中から電車が現れてきます。落ち着いてじっくり味わえる時間です。
京津線は紅葉は難しいのでまたの機会にして、550円で死ぬほど乗れる近江鉄道の無名の晩秋を載せて最後の投稿写真とします。場所はお分かりでしょうか。
一昔前の野蒜駅と仙石線
特派員さんより10月20日【25248】「被災地の鉄道はいま―1―」で仙石線野蒜駅の被災状況の報告があった。たまたま古いネガを見ていたところ、同駅の改築前の写真が見つかったのでご覧に入れたい。
前身の宮城電鉄時代が昭和3年4月18日、松島公園(現松島海岸)~陸前小野間の延伸開業時に建てられたものである。(50-5-2)
【同時期の仙石線風景】
(1)手樽~陸前富山~陸前大塚間
陸前富山~陸前大塚~東名間は海岸線ギリギリに線路が敷かれていた。陸前大塚~陸前小野間の津波による壊滅的被害は特派員さんの報告の通りである。
陸前富山駅/ (50-5-1) 電車はジュラルミン製のサハ78202(昭和21年川崎車輌製)の改造車クハ79902(29年大井工場で全金改造)。
陸前富山~手樽/(49-4-29) クモハ73319+サハ78+モハ70047+クハ79902
陸前富山~陸前大塚/ (49-4-29) クモハ73331+サハ78+モハ72132+クハ79926
陸前富山~陸前大塚/ (50-5-1) クモハ54004+サハ78+クモハ54105+クハ68062
陸前富山~陸前大塚/ (50-5-1) 103系と同様の車体に載せ替えたクハ79600番代とクハ72970番代の4連
陸前富山~手樽/(49-4-29) クハ68060+クモハ54107+サハ78226+クモハ54004
(2)高城町~松島海岸間
特派員さんからの報告の通り、あおば通り~高城町間は復旧されているが、陸前小野までの区間は被害が甚大過ぎて復旧は2015年までかかると言われている。高城町~陸前大塚間は海沿いであるが松島湾の入り江になっているため津波被害はなく、護岸工事を実施した上で現ルートで復旧、陸前大塚~陸前小野間は山側に線路を移設して復旧の予定である。仙台~塩釜~石巻の都市間輸送の他、仙台への通勤、通学客、松島への観光客等多くの人に利用されている重要な路線であり早急な復旧をお願いしたい。
高城川の鉄橋を渡る クモハ73022他4連/ (50-5-1)
クハ79600番代とモハ72970番代の4連/ (50-5-1)
松島海岸駅に進入するクモハ54004他4連/ (50-5-1)
高城町駅で休車中のモハ70125/ (50-5-1)
モハ70は昭和46年1月から2月にかけて、明石から123~125、11月に新前橋から047が転入したが、朝のラッシュ時の収容力に難点があったため、車体新製のクハ79600番代、モハ72970番代と交代して、50年2~3月にかけて047、124、125の3両は松本区に転属した。125のみ仙石線に残ったが使用されることなく52年3月廃車になった。
松島海岸駅と東北本線松島駅を結んでいた宮城交通のバス(37年式日野RB10)/ (50-5-1)
(3)単線時代の本塩釜付近
撮影時、複線区間は仙台~西塩釜間で、西塩釜~東塩釜間が複線化されたのは56年11月であった。この区間は塩竈市内の中心部を通り複線化が困難であったため線路が付け替えられ、本塩釜駅と東塩釜駅は移転した。
単線時代の本塩釜駅は棒線にも拘らず仙台方面への折返し電車が存在した。
本塩釜駅前/ (50-5-2) 後ろにホームに電車が停車している。
駅の直ぐ横の踏切を渡る宮城交通のバス(46年式いすゞBU10P)/ (50-5-2)
本塩釜駅前の宮城交通のバス(38年式日野RB10)/ (50-5-2)
同 (40年式日野RC300P)/ (50-5-2)
元貸切車でヘッドライトきはいすゞのものを付けている。
本塩釜駅前の仙台市営バス(46年式RE100)/ (50-5-2)
当時仙台市交通局も塩釜までの路線を持ち営業所もあった。距離が長く交通渋滞のため定時運行が困難になったため50年代に廃止された。
スカイツリーと鉄道
今年5月22日スカイツリーが開業し、常磐線や「ゆりかもめ」の車窓から眺めながら通勤している。
しからば、スカイツリーを入れて写真撮影が出来ないものかと思うのが人情で、可能な場所を探してみた。
東武の浅草~とうきょうスカイツリー間、尾久駅構内、錦糸町駅構内は比較的有名であるため、それ以外の場所を紹介する。
京成電鉄押上線/四ツ木~立石間
葛飾区内に住んでいる関係上、所用で葛飾区役所に行くことがある。最寄駅は京成電鉄立石で、自宅からは京成バスで金町駅に出て、京成金町線で高砂まで行き、更に押上線に乗り換える。更に駅から区役所まで徒歩10分弱かかり、タイミングが悪ければ小1時間かかることがある。自転車で行けば少々遠いが、途中の待ち時間ゼロで約30分で到着する。
いつもカメラ持参で、帰宅時に立石駅周辺、高砂駅の開かずの踏切、柴又付近で撮影する。立石駅付近は家が建て込んでおりバックは良くない(現役時代に使っていた言葉で「クサイ」)が、柵が低いため編成写真の撮影は可能である。
ある日のこと、たまには別の場所でと思い、四ツ木寄りに行くとバックにスカイツリーを入れて撮影できる場所があった。
四ツ木駅の立石より一つ目の小さな踏切で、車が通らないので落ち着いて撮影できる。通行人のおばさんから「たまに撮影している人がいるよ」と声をかけられたので、隠れた名所かも知れない。
電車は京成、北総、京浜急行、都営地下鉄の各社の車両が入り乱れて昼間でも約5分間隔(上下合わせると2分30秒間隔)でバンバン来るので飽きることがない。立石駅を含む四ツ木~青砥間の高架工事が始まると撮影できなくなる可能性が高い。
都営5300形の北総鉄道直通車
京成電鉄からのリース車7260形もよく運用についている。
踏切の反対側から。千葉ニュータウン鉄道所属の9100形
【参考1】踏切の高砂側
青い京浜急行
京成電鉄3600系/両端がTcのため京浜急行には乗り入れない。
【参考2】立石駅の押上寄り踏切
バックの建物は電車で隠れる。葛飾区役所の最寄駅で乗降客は多いが各駅停車しか停まらない。
【参考3】高砂駅構内の踏切
高砂駅の青砥寄りのホーム端はお手軽撮影地として有名であるが狭いのが難点である。成田寄り2つ目の踏切の遮断機の横からの撮影で、ゴチャゴチャ観が何とも言えない。リバイバル塗装車、スカイライナー、シティライナーの撮影も可能である。
都電荒川線/荒川区役所前
三ノ輪橋終点からスカイツリーまで路線延長の要望が出ている。実現すれば経済効果は大きいと思われるが、三ノ輪橋付近の線路を付け替える必要があるため実現の可能性は少ない。
地平を走っているためスカイツリーの見える区間は少なく、都電と共に撮影できるのは荒川区役所前電停の早稲田寄りだけのため有名撮影地になっている。自宅から近いので気が向いた時に訪れているが同業者は見かけない。「写真館」に893-2さん撮影の夜景がある。
標準レンズではスカイツリーが小さくなってしまう。
反対側はこんな感じで、カーブの先は線路に沿って桜が植えられている。
以上2ヶ所紹介したが、他にも撮影可能な場所をご存知の方は是非ご紹介をお願いしたい。
京成電鉄では都内フリーの「下町日和きっぷ」を500円で発売しており、撮影には便利であるが日和らないよう有効に活用していただきたい。
山の上から見下ろすと
我が街には瀬戸内海国立公園の一部にも指定されている筆影山(ふでかげ山)があります。標高311mと麓から山頂まで歩くにはちょうど良い山で、野鳥も多くよく歩きに行きます。山頂からは瀬戸内海の多島美が楽しめますが、途中の登山道から見下ろすと M重工の和田沖工場が足元に広がります。広い構内には各種試運転線があって、広電の連接車やゴムタイヤ式新交通の走行試験を見ることができます。平成18年3月に廃車になった広電550型555号が何故か試運転線上に留置されています。広電旧型車の置き換え用に新製されたと思われる3連接車?も見えます。また草むらには関東から来たと思われる電車の車体も置かれていますが、何鉄道の何型なのか私には判りません。どなたかご存知の方はご教授を。
広電555号。廃車から6年を経て かなり色あせている。
広電旧型車の置き換え用新車?
手前は湘南モノレール401号。奥の電車は何者?
EVEにクローバー会も協力
以前の掲示板で奈良の駅名研究家さんから紹介があったとおり、26日(月)から3日間、同志社EVEが今出川キャンパスで行われ、現役の鉄道同好会の皆さんも恒例の鉄道展を開きます。ことしは、初めてクローバー会もEVEに参加、鉄道写真展を行います。写真は、この2月、烏丸御池駅ギャラリーで開かれた「鉄路輝く」の中から、選りすぐりの約30点を展示することになりました。
同志社EVE 鉄道同好会“鉄道展”
今出川キャンパス 扶桑館101教室 (ハリス理化学館の北側)
11月26日(月)~28日(水) 10時~20時(28日は18時まで)
各世代に思い出の残るEVE、その意義・内容も様変わりしていますが、それはそれとして、いっとき学生時代にタイムスリップしてみませんか。
▲某所から運び出し、会場に並べられた写真。足腰が弱ってきたにも関わらず運び出しに協力してくれた乙訓老人に多謝。
▲準備が一段落した現役生たち。展示はNゲージ運転会が中心だが、大阪地下鉄御堂筋線に関する研究成果の発表や、前面展望ビデオの上映なども。
▲扶桑館101教室。キャンパスの整備工事が急ピッチで進む今出川キャンパス、40年前の現役生はウロウロしながら会場に到着した。
錦秋箱根版
伊賀線廃線跡
錦秋の叡電だより -1-
今年の紅葉は、いつになく早いようだ。遠隔地へは行けないが、同志社で取材の用件があった時に、出町柳から叡電の沿線へ、“外回り鉄”してきた。市内から30分も乗れば、紅葉真っ盛りの景勝地へ行けるのも、京都ならではの魅力だ。
▲最初は、八瀬比叡山口へ。4、5年前から、季節ごと、時間帯ごとに定点撮影している(以前の掲示板でも雪の情景を発表)。その定点場所は、終端にある。ステンレス製の柵、その中央にある柵の一段目の足場によじ登って、到着する電車を狙うもの。ここから見ると、駅のドーム屋根が、まるで額絵のように、なって、季節ごとにそれぞれの表情を見せる。電車の側面が夕陽に輝く瞬間を狙ってみた。
▲鞍馬本線では、市原~二ノ瀬間にある、“紅葉のトンネル”を、日没後にライトアップしている。よくできたもので、電車が近づくと、車内が消灯され、運転室の遮光カーテンも上げられる。乗客からは歓声が上がる。後部の運転台からスローシャッターで、流れて行く紅葉を狙ってみた。▲満員の「きらら」に乗って貴船口に到着した。紅葉がらみのイベントが行われているので、多くの下車客がある。ホーム横の紅葉も真っ盛りで、ライトアップがよく映えている。全面展望の「きらら」が、そのシルエットを残して、闇の中に消えていった。
2012年冬の中国鉄路の旅 Part1 丹東へ、北朝鮮にSLがまだいた?
10月の国慶節後に四川省の監獄鉄道と北台製鉄のスラグ捨てを撮影するため、訪中計画を組んでいましたが、反日運動勃発により止むを得ず延期としました。しかし、その間でも訪中される猛者軍団もおられて、行けるきっかけを待っておりましたら、中国鉄路撮影の第一人者の1人でおられる小竹直人先生より、北朝鮮沿いの断橋や路線跡を回ろうと思っているので一緒に行かないかとのありがたいお誘いを受けました。
11日のカミンディのイベントが終った翌12日、小竹先生の後を追いかけて旅立ちました。合流地は、北朝鮮と中国が最も交流がある町「丹東」です。交流を支えるのは、中朝友誼橋です。 ▲ 16:50、丹東で宿泊した丹東中聯大酒店の屋上から見た国境線の鴨緑江に架かる中朝友誼橋と鴨緑江橋梁のライトアップです。どちらも日本軍が建設しましたが、右側の鴨緑江橋梁の方は、朝鮮戦争時期にアメリカの空爆を受けて断橋となっています。橋の詳しい記事は前回訪問の紀行記をご覧ください。下記をクリックしていただければ、記事にリンクします。
被災地の鉄道は いま -4-
気仙沼線(2)
震災による津波被害で不通になった気仙沼線柳津~気仙沼間55.3キロは、ミヤコーバスによる振替輸送を行っていたが、JR東日本は、BRT(Bus Rapid Transit バス高速輸送システム)による運行準備を進め、陸前階上~最知間で専用道が完成したため、振替輸送に替わって列車代行バスの営業を開始した。
BRT専用道の陸前階上~最知間の現状を見ると、国道なら一直線で行けるところを、わざわざ迂回して専用道へ向かっているため、昼間は時間のロスを生じているが、朝の道路混雑時は定時性の維持に役立っているようだ。驚いたのは、バスロケーションシステムも使用した定時運転ぶりで、BRT専用道の途中に離合所が設けられているが、ここでピッタリ上下のバスが離合した。今年中には、専用道区間も延長が予定されているので、文字どおり高速・定時性が広範囲に維持されるのを期待したい。
気仙沼線の復旧については、地元とJR東日本との協議が進められ、最新のJR側からの提案では、これまで、BRTが最終的な復旧と捉えられるようになっていたが、「安全が確保された鉄道の復旧」に修正された。これは、従来の線路を放棄して、高台に新線を敷設することを意味する。しかし、通常の復旧費用をはるかに超える経費が必要で、JR東日本のみによる復旧費用の捻出は難しく,国による財政支援が必要としている。
しかし、BRTによる仮復旧は、鉄道トンネルも専用道路化して、柳津~気仙沼の全区間で計画されている。全く同区間で鉄道を敷き直すなどの二重投資はあり得ず、鉄道復旧は、机上の空論でしかないように思える。
もともと気仙沼線の使命として、気仙沼~仙台間の都市間輸送、短区間の通学輸送、この二つの需要しかないと言われていた。前者は、震災前、両都市間を結ぶ快速列車も設定され、それなりの乗車率も確保していたようだが、震災後は両都市間の高速バスも増強され、公共輸送を列車に頼る必要性はさらに薄らいでいる。後者の通学輸送でも、短区間の集中輸送なら、バスでも十分に賄えるはずだ。
柳津を出て、2時間10分、寸分の狂いもなく、定時に終点・気仙沼駅にバスは到着した。列車と代行バスで巡った被災地の一日、この目でしっかりと現況を確認し、私はさらに大船渡線、東北本線を乗り継ぎ、盛岡へ向かった。
▲「歌津」バス停に停車。バス停標識は、バスと同じ赤色のカラーになっている。地図と対比すると、この付近に確かに歌津駅があったはずだが、見渡しても、それを示すものは何もなかった。背後の橋脚のみは道路橋。▲陸前小泉駅付近の現状、河口付近で落橋したままの橋梁の下をくぐる。この高さまで津波が乗り越えたことがわかる。
▲本吉駅で3分の停車、高台にあったため、この区間では唯一被害を免れた駅で、駅舎も健在。2時間以上の乗車となるので、トイレタイムともなる。▲▲本吉駅構内はレールが取り外されていた。将来のBRT化の準備と思われる。▲陸前階上~最知間2.1キロが線路跡を利用した専用道路となり、本来のBRTシステムを見ることができる。陸前階上駅は、残った駅舎・ホームを再整備してバス停に転用、ロケーションシステムも待合室に設置された。▲最知駅は被害が大きかったため鉄道駅・ホームは撤去し、新たに対向式のバス停が設けられた。▲▲被災直後の最知駅(ネットから転載)。中央奥の塔屋が同一であることから、ほぼ定点であることが判る。▲最知駅に停車中のバス車内、途中から乗ってきた高校生もいたが、車内は閑散。現実、沿線に人家は全く残っていないのだから、乗客が少ないのも無理はない。▲▲BRT専用道の途中の離合所で、反対の上り方面バスと交換。▲気仙沼の市街地に近づいてきた。市街地はほぼ全滅状況だったが、今はほとんどそれが感じられないほどの復興ぶりだ。中央のイオンも浸水したが、今は盛業中。
▲定時に終点・気仙沼駅にバスは到着。すぐ転向して、バスは柳津へ向けて再び発車する。気仙沼駅は、高台にあるため、全く被害は無かった。気仙沼の市街地は、起伏が多いため、被害の差が顕著だった。気仙沼から北へ向かう大船渡線は不通のままだ。
近鉄モ6601系
ク6692他5連の準急 (46-6-6) 河内松原~恵我ノ荘
「昭和の電車」は再度戦前派古豪に戻り近鉄南大阪線モ6601形が登場した。私にとっては現役時代INUBUSE氏とよく撮影に行った思い出深い車両であるが、スタイルと使用線区がパッとしなかったことで人気がなく、近鉄の名車=モ2200形という図式が出来上がっていたため注目度が低かった。
しかし、我が国初の20m車体の電車、昭和40年代まで大阪阿部野橋~吉野間の急行の主力として活躍したこと等により、もっと注目されてもよかったと思うが、前述の理由により南大阪地方区で終わったのは少々気の毒であった。
モ6601形とその一族について概略を述べると、南大阪線の前身大阪鉄道では昭和4年3月29日、古市~久米寺(現在の橿原神宮前に相当)間を開業して吉野鉄道に乗入れ、阿部野橋~吉野間の直通運転を開始した。これに備え昭和3年にデニ500形35両(501~535)、フイ600形15両(601~615)、4年にデホニ550形7両(551~557)、5年にデホユ560形3両(561~563)の60両を一挙に新製した。制御器はABFM、電動機はウェスチングハウス586-PJ-5形127kw×4、台車は川崎車輌製ボールドウィン形であった。
デニの「ニ」は、大阪鉄道では新製順に「イ」「ロ」「ハ」と付けており「ニ」は4番目、「ホ」は5番目の新製車の意味である。
デニ500は扉間に40人分のゆったりしたクロスシートを備え、つり革はバネ付、床は特殊アスファルト塗りと豪華な仕様であったが、14年ロングシート化された。関 三平氏も書いておられるが扉は戦後まで手動であった。
デニ502、520、529の3両は事故復旧時にTc化されフイ616~618となった。
新線の建設費と60両もの新車の建造費が経営を圧迫したが、14年6月阿部野橋駅が竣工、15年3月には紀元2600年記念事業として建設されていた橿原神宮総合駅が完成する等懸命の企業努力により立ち直りをみせたが、18年2月1日付で政府の要請により関西急行鉄道に合併した。関西急行鉄道は19年6月1日南海鉄道と合併して近畿日本鉄道になった。
近鉄合併後の改番でモ6601~6632、ク6671~6688、モニ6651~6657、モユ6671~6673となった。
26年から3扉化、31年にモニ6661形の荷物室、モユ6671形の郵便室が撤去され、モ6601形と同一になった。
45年頃から廃車が始まり50年までには全車姿を消したが、お別れ行事等はなくモ6601形一族らしいひっそりとした引退であった。
40年以上にわたり、吉野、飛鳥、橿原神宮への参拝客、行楽客の足として、沿線住民の大阪への通勤、通学の足として重要な役割を果たした功績は誠に大きなものであった。
形式別に写真と共に解説する。
モ6601形(6601~6613、6615、6618~6632)
デニ501~519は昭和3年田中車輌製、デニ520~535は同年川崎車輌製である。3扉化後、昭和28年から更新修繕が実施され、窓は下に100㎜拡大、ヘッダーの平鋼化、正面窓と戸袋窓のHゴム化が行われたが全車には及ばなかった。
モ6603、6616、6617の3両は電動機を取り外してTc化され、順にク6689、6691、6690となり、モ6614がモ6603に改番された。
モ6601~6608、6610~6613、6618、6631、6632の15両は吉野側の運転室を撤去して客室を拡張した。
モ6601/ (42-10-14) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ501。車体更新と片運化が実施されている。
モ6606/ (46-6-6) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ507。車体更新と片運化が実施されている。
モ6607/ (42-10-14) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ533の事故復旧時に車体を新製したためスタイルが大幅に変化した。
モ6609/ (46-6-6) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ510。車体更新は実施されているが、両運のままである。
モ6613/ (43-12-24) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ514。車体更新は未実施であるが、片運化されている。
モ6620/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ522。車体更新は未実施で、両運のままである。
モ6626/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ528。車体更新は実施されているが、両運のままである。
モ6627/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ529。車体更新は未実施で、両運のままである。
モ6629/ (49-1-4) 橿原神宮前
昭和3年川崎車輌製、元デニ531。車体更新は未実施で、両運のままである。
モ6651形(6651、6653~6657)
元デホ二560形で昭和4年川崎車輌製。デニ500形の大阪寄りに手荷物室(荷重2t)を設置し、運転室直ぐ後ろに両開きの荷物室扉があり、車内はオールロングシートであった。31年荷物室撤去後モ6601形と同じスタイルになった。
モ6652は電動機を取り外してTc化され、ク6692に改番された。
モ6653/(43-8-25) 二上山~二上神社口
元デホ二553で、車体更新と片運化が実施されている。
モ6656/ (43-8-20) 古市
元デホ二556で、車体更新、片運化は未実施である。
モ6661形(6661~6663)
元デホユ550形で昭和5年川崎車輌製。デニ500形の大阪寄りに郵便室(荷重2t)を設置し、運転室直ぐ後に窓1つおいて片開きの郵便室扉があり、車内はオールロングシートであった。31年郵便室撤去後はモ6601形と同じスタイルになった。
モ6663 (43-8-25) 二上山~二上神社口
元デホユ553で、車体更新は未実施である。モ6661形は全車車体更新、片運化は実施されなかった。
ク6671形(6671~6692)
デ二500形のTcとして昭和3年川崎車輛でフイ601~615の15両を新製した。吉野側に運転室のある片運車であった。
前述の通りデニ502、520、529の3両の事故復旧時にTc化してフイ616~618となり、近鉄合併の改番でク6671~6688となった。モ6601と同様に26年に3扉化された。
更にモ6603、6616、6617、6652の4両が電装解除されてク6689~6692となった。
ク6672/ (43-8-20) 古市
元フイ502で、車体更新が実施されている。
ク6675/ (49-1-4) 橿原神宮前
元フイ505で、車体更新は未実施である。
ク6678/ (42-10-14) 道明寺
元フイ508で、事故復旧時に車体を新製したためスタイルが変化した。
ク6682/ (46-6-6) 河内松原~恵我ノ荘
元フイ512で、車体更新は未実施である。
ク6686/ (46-6-6) 古市~道明寺
元デ二502→フイ516で車体更新は実施済である。
ク6692/ (46-6-6) 古市
モ6652の電装解除車で片運化されているが阿倍野橋寄りの乗務員室扉が残されている。
【参考】
関 三平氏は右上の円板表示について触れておられるが、昭和42年頃でも見られた。写真は道明寺線運用のモ5625+5626が車両交換で古市検車区に回送されるところである。/(42-10-14) 道明寺
江ノ島電鉄500系
米手作市様投稿の10月30日【25745】関 三平氏「昭和の電車」に「江ノ島電鉄500系」が登場した。
改造車といえ車体は新製で、流用されたのは主電動機、コンプレッサー、台車等ごく一部の部品にすぎない。
昭和31年に201の改造名義により東洋工機で501が、32年に115、117の改造名義により東急車両で502が作られた。スタイルは若干異なり502はヘッドライトの左右にタイフォーンがあり、より精悍な顔付きになった。ノーシル、ノーヘッダーの車体、両開き扉、曲面ガラスを使用した正面窓等、ヨーロッパ調のスタイルは時代の最先端を行くものであった。
車号は京阪びわこ号と同様、2車体で1両とみなし同一車号としたが、程なく鎌倉側の車両を551と552に改番した。
関 三平さんのイラストはポール時代であるが、39年頃Zパンタ化、更に46年頃パンタ化が実施された。
我々の年代ではポール時代の写真は無理であるが、幸いZパンタ、パンタ時代は辛うじて撮影していたので貼り付けた。
その後、59年から60年にかけての車体更新時に曲面ガラス部分を2分割の上、平面ガラス化、両開き扉の片開き化、ヘッドライトの窓下への移設が実施され、スタイルが変わってしまった。更に平成元年から2年にかけて台車交換によりカルダン駆動化、12年にブレーキのSMEから電空併用電気指令式化等、足回りの近代化が実施されたが、冷房化が困難なため14年1月501が、15年1月に502が運転を終了した。
車体更新以降の写真がないので、撮影された方は是非公開をお願いしたい。