保存蒸機とその現役時代(9)

JR横浜線淵野辺駅南口から徒歩5分くらいにある鹿沼児童交通公園にも北海道五稜郭にいたD52が保存されている。大きな公園に比較的きれいな状態でD52235が保存されているが、これが少しややここしい。D52235のナンバープレートをつけているが他機ではないかとも言われている。詳細はよくわからないが、ロッドの刻印を見る限りD52235であるという報告とキャブが標準型であること、先輪がスポーク車輪であること、ドーム前デッキの手すりがないこと、煙室扉のフックの形状等々からD52138の可能性が高いという報告が錯綜している。電車でも例えばパンタグラフ等を廃車した車両から流用する話は聞いたことがあるし、台車などもたらい回しの例はよくある。蒸気機関車は先に廃車された同型機などから部品等を流用することが多かったのでなかろうかと推察する。手元にあるイカロス出版の保存車リスト2012を見ると、大井川鉄道のC11312とC12208は部品取り用とある。蒸機が廃車されるまでいろいろな経緯があったとは思うが、保存にあたって主要な本体部分がつけていたナンバーで保存されているものと思うのでこのD52についてはよくわからない。従って今回はD52235とD52138の現役時代を併載する。235号機については今回も総本家青信号特派員さんの作品を使用させていただいのでここに御礼申し上げる。

2013.6.8 相模原市鹿沼児童交通公園に保存のD52235

s-13.6.8淵野辺52235

D52235のキャブ(機関車運転室)は標準型で密閉式ではない↓

s-13.6.8D52235キャブ

児童用の説明板であるがやや補足すると新製後新鶴見、1952.9稲沢、1953.11吹田、1956.11姫路一、1960.10五稜郭、1973.5廃車となる↓

s-13.6.8D52235説明板

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駅を旅する 〈5〉

直方

筑豊地方には、拠点となる都市がいくつかあった。人口規模においては、当時では飯塚が第一位だったが、鉄道での中心は、何と言っても直方だった。

直方駅へ行けば、それが実感できる。駅には、四六時中、列車が出入りして、もうもうたる煙に包まれていた。“筑豊のスズメは腹の中まで黒い”と言われる。事実、直方で数時間ほど写して、駅の洗面所で顔を洗うと、シンダーで喉や髪の毛が真っ黒になっていた。公害や煤塵と言った認識に乏しかった時代だ。

初めて訪れた昭和40年代前半、石炭輸送のピークは過ぎていたが、それでも、多数の石炭列車が運転されていた。大きく分けて、伊田線沿線からの運炭列車、上山田線沿線から筑豊本線経由の運炭列車に分けられ、直方で組成され、または牽引機を換えて折尾・若松方面へ向かって行った。 直方IMG_0020sy▲直方駅。明治43年建築と言われるが、一昨年に解体され、新しい橋上駅となった。駅舎は、初代の博多駅を移築したものではないかと言われていたが、解体時の調査では、その事実はなかったと発表された。(平成2年)直方IMG_0058sy▲直方駅4番ホームに停車中の原田発門司港行き1732レ、C5519〔若〕、すぐ隣は直方機関区で、煙の競演がホームからでも見られた。(昭和44年)

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傷痍軍人!?東急クハ3232号

この車両を見たことがある人はいるのでしょうか?
ハコの裾に定規を当てると確かにゆがんでいます。こんな車両が本当に走っていたのか?と思いますが、あの頃なら何でもありかもしれませんね。東急クハ3232号_NEW東急クハ3232号(文)_NEW

瀬戸内マリンビューがゆく

呉線の観光列車として2005年10月から走り始めた「瀬戸内マリンビュー」は全線電化された線区を走るディーゼルカーとして珍しい存在です。土曜、休日のみ広島ー三原間を1往復します。車両は2両編成で、広島方が指定席のキハ477001、三原方が自由席のキハ477002です。快速列車として主要駅だけに停車し、広島・三原間を約2時間半で走ります。今日はクルマで少し追いかけをしてみました。

三原駅の配線は1番線が呉線着発用、2番線が山陽本線下り、3、4番線が山陽本線上りとなっていて、呉線は1線しかありません。呉線の一部の列車は糸崎まで足を延ばすのですが、大半は三原折り返しです。列車本数も少なく すぐ折り返すので1線でこと足りているのですが、マリンビューは三原折り返しの間 約1時間の待ち時間があるのです。しかし三原駅には留置線がなく、この1時間の間に定期列車が1本折り返すため、1番線を空けて、逃げなければなりません。2.4Km先に糸崎駅があるので、糸崎に逃げればよいと思うのですが そうはしないのです。わざわざ17.2Km離れた忠海駅まで今来た道を引き返し、回送で忠海を往復するのです。なぜそんなことをするのか不思議なのですが、三原は広島支社管内、糸崎は岡山支社管内なので 広鉄と岡鉄には見えない壁があるのかと勘ぐってしまいます。でもそのおかげで 約2時間ほどの間に回送を含め クルマがあれば4ヶ所で撮影できるのです。

安芸長浜駅を通過する8232D三原行き

安芸長浜駅を通過する8232D三原行き

安芸長浜駅は忠海・大乗間に平成6年10月に開業した新駅です。呉線にC59,C62を追いかけた時代には無かった駅です。この駅は写真左手に広ろがる 地元ではデンパツと呼ばれている電源開発竹原火力発電所の正門前に作られました。昭和42年に1号機が稼働開始、2号機が昭和49年、3号機が昭和58年と現在3基が運転中です。初号機は老朽更新も計画中とのこと。この火力発電所は石炭火力で、写真のうしろに見える薄緑と白の大きな構造物は貯炭ドームです。石炭は船を横付けして陸揚げされます。原発が停まっているためフル稼働のようです。

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保存蒸機とその現役時代(8)

D52は広島のトップナンバー、梅小路のラストナンバー(468)を含め全部で7両保存されている。1と468以外は神奈川県に3両と静岡県に2両である。この2県に集中しているのは御殿場線で使用されたD52が関係していると思っていた。調べてみると御殿場線関係は3両で他の2両は意外で北海道から来ている。今回取り上げるのは北海道から来たD52136で保存場所は沼津駅北西10分にある高澤公園である。D52136は1944年汽車会社で製造され、稲沢区に配置。1946年から1960年までは姫路に配属、その後廃車される1973年までは五稜郭にいた。前半関西、後半北海道、保存は静岡ということになる。2013.7.28沼津市高澤公園の保存機D52136↓

s-13.7.28沼津D52136

現役時代の姿であるが、仁山越えでD51710[五稜郭]が前補機についた重連の2両目本務機がD52136[五稜郭]で136号機の写真はこれっきりである。1966年9月12日仁山~渡島大野下り貨物↓

s-66.9.12仁山D52710+D52136

まともな写真がないので、総本家青信号特派員さんに応援を求めたところ、即、快諾をいただいたので以下に発表させていただく。撮影は何れも1968年8月30日である。

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C57第4次形 12両勢揃い -4氏共同投稿-

DRFC会員の繋がりと、デジ青の力でC57第4次型12両の現役時代の画像が全部勢揃いすることができました。これまでに別途投稿された画像の再度掲載や、その後寄せられた珍しい画像をも併せてここに揃えます。奥山直秀さん、西村雅幸さん、準特急さんと筆者の4名共同投稿です。また、西村さんには製造所の製造番号などデータの提供をも頂きました。(文中敬称略)

先ずは、C57第4次形について、大御所の解説を引用します。
【C57第4次】ボイラの溶接工法が突き合わせで、缶板の厚さの2倍分だけ太くなり、結果的に缶水容量がわずかに増した。またキャブにはサイドドアが新設され、テンダは船底型を採用した。この台車には再び鋳鋼製側枠の揺れ枕式を用いたが、新設計でローラベヤリング付きである。C55形以来美しさを続けていた一直線の歩ミ板は、補助機器の部分にコニーデ形の迂回線をつくり、多少美観を損ねた。その上新製当初は動力逆転機が装備されていたので、第4次形は後述のC59形にかなりよく似た容貌である。なお全機種を通じ、詳しくみると、1軸従台車枠は時代により工法を変えており、3種類の存在が確認されている。
C57形は島秀雄が設計主任をした最後の作品である。と同時に傑作D51形との連歌でもあった。缶はほっそりと煙突は面長、煙室周囲は撫で肩で、ドームは豊満、女性的美しさを感じ、日本の近代蒸機のうち最も端麗とされている。
              出典:臼井茂信、『機関車の系譜図 4』、1978年11月1日、交友社

▼C57190【和】三菱重工製 No.523 和歌山機関区 1963.10.06 撮影者:奥山
 先輪の形状が不統一である
C5719001▼C57191【早】三菱重工製 No.524  鳥栖機関区   1962.08.29  撮影者:奥山
C57191▼C57192【宮】三菱重工製 No.525  鹿児島機関区     1970.09.20  撮影者:奥山
 これも先輪の形状が不統一である
C57192 続きを読む

オーストリアのたび(その3)

インスブルックの町をめぐった後翌日はÖBB(オーストリア国鉄)で20分ほど離れたイェンバッハに行きました。駅の北側にはコグ鉄道のアッヘンゼー鉄道、反対側には760mm狭軌のチラタール鉄道が走っています。アッヘンゼー鉄道は観光鉄道で、今年の場合5月1日から10月27日まで毎日3往復、ハイシーズンの5月25日から10月6日はさらに4往復が全列車SLで運行されます。これに対してチラタール鉄道は地域の足として年間を通してディーゼル機関車による運行で、6月1日~10月6日は観光用に毎日全線で1往復、さらに途中駅まで1往復のSL列車が運行されます。先にアッヘンゼー鉄道で往復切符を購入し、一番列車の到着を撮影してから、駅の南側に行き、チラタール鉄道の一番列車の発車を待ちました。

<柵の右側がÖBBの駅>        <反対側にアッヘンゼー鉄道のSLが見える>チラタール1e

<左側のバスに乗って乗客が来た>      <機関車をSLに付け替えて発車>

通常の列車はÖBBの一角にホームがありますが、SLはホームのないところに停まり、駅裏に乗りつけた大型バスでやってきた乗客は線路から直接列車に乗り込みます。2軸車、無蓋車など取り混ぜて14両の立派な編成の列車が発車していきました。SLの発車を見届けてから7分後に発車する通常の列車に乗ってSLを追いかけることにしました。通常の列車は30分ごとにあり、終点のマイヤーホーフェンまで2本の後続の列車がSL列車を追い越すので、途中下車してはSLの走行写真を撮ることができます。2つ目の駅で早速SLを追い越し、5つ目のフュンゲンハルトで降りてSL列車を待ち受けました。降りると反対側に小さなSLが2両の客車を引いて停まっていて、ホームではたくさんの人が写真を撮っています。 続きを読む

紀伊神谷駅-2013年5月の姿です

どですかでん様。今年5月通りすがりに下車して撮影しました。あれから39年、同じ角度の画像ですが、ほとんど変わっていないのが判りますね。ホームには昔通り、右手わずかに見える階段を上がります。人影のない新緑の駅は、すがすがしい空気に満ちていました。
紀伊神谷駅2013

直立不動で各列車を見守る律儀な駅長さん。(向こう側)上りこうや号(手前)下り極楽橋行き
紀伊神谷駅03

駅構内、極楽橋方向を背にして、紀伊細川方向を見ます。丁度橋本行きが下って行きました。
紀伊神谷駅02

お山には、時々墓参りに出かけますので、今後もお便りができると思います。昨年は極楽橋、上古沢、紀伊細川で撮りました。

はしーる電車は緑の電車、なーんなーん南海電車

総本家青信号特派員様のおかげで幼い頃の南海電車を思い出しました。加太線ではありませんが、よく祖母と一緒に学文路にいった時のことです。難波より緑の電車に乗って行ったのです。森林鉄道みたいな紀見峠越えを緑の森の中を緑の電車がくねくねと走っていったのをはっきりと覚えているのです。私の場合は南海電車といえは高野線でした。そして少しばかりの写真を。

まず、最初に緑の電車です。鉄道友の会に入っていた時に千代田車庫見学会に撮ったものです。ポジカラーですが保管が悪く、カビだらけになってやっとデジタル処理で何とか見れるようにしました。色は少し悪いですが緑の電車の雰囲気があると思います。

南海千代田-01

修正南海千代田-02

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保存蒸機とその現役時代(7)

東京には現在3両のC57が保存されている。大森の入新井公園の66号機は[35453]「保存蒸機とその現役時代(3)」で、小金井公園の186号機は藤本哲男さんが[25967]「保存されているEB10」の中の周辺の保存車両で紹介されている。今回はもう1両57号機を取り上げてみた。

57号機は新製後の配置は不明であるが、戦後北海道で長く使用された。引退後はどういう縁があったのかよくわからないが東京で保存されている。保存場所の大蔵運動公園は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅から南に徒歩15分くらいの所にある大きな公園である。57号機は雪国育ちのため、旋回窓やスノープローを装備しているが、デフの切り詰めがないので貴婦人を保っている。保存状態も良好に見えるが、前照灯とテンダーのライトには電球がなかった。また、現役時代のドームの後ろにある重油併燃装置は保存機では外されており、保存にはこれの方が望ましいと思う。

2013.5.28 世田谷区大蔵運動公園の保存機C5757↓

s-13.5.28大蔵C5757   C5757説明板↓

s-13.5.28大蔵C5757説明

1966年9月10日早朝5時33分網走からの急行「石北」518列車を岩見沢で降りる。5分停車の間に牽引機C6232を撮る。続いて5時44分に釧路からの急行「まりも」28列車が到着する。この牽引機がC5757[小樽築港]であった。雨の中での撮影で、C5757はこの時に出会ったのみでその後の再会は47年後であった。

s-66.9.10岩見沢C5757

以前、保存蒸機とその現役時代(2)で門鉄デフのD51272を取り上げたが、そのD51272が保存されている世田谷公園にはC5757の庭園列車があったので、併せて取り上げてみた。撮影は2012.11.28↓

s-12.11.28世田谷公園C5757模型

 

富士山麓電鉄モハ603→富士急行モハ3604

3606 50-3-23
車体更新でモハ3604に改番後で、正面に貫通扉が設置された。/富士吉田

セミボの次は富士山麓電鉄→富士急行が登場した。それにしても関 三平氏の電車好きは、筋金入りで、私等話題に付いていくのが精一杯で足元にも及ばない。
今回のモハ603は、関 三平氏が記述されておられる通り、経歴が複雑で、車体更新して改番後で解説する。
明治32年日本鉄道大宮工場製で客車として新製され、鉄道院に買収後の改造でナユニ5420となり、昭和16年青梅線の前身、青梅電気鉄道に払い下げられた。
青梅電気鉄道は、同時に払い下げられた2両の木製客車と共に木南車輌で半鋼製車体を新製して電車に生まれ変わった。全長18.8mの大型で広い窓と共に当時としては軽快な車両で、台枠、台車も新製されて、サハ700形サハ703となった。
(他の2両は鉄道省ホヤ6703→サハ701、ホハニ4053→サハ702)

車体、台車、台枠が新製されているので、車両新製が認可されないため、苦肉の策として、改造名義にしたものと思われる。
サハ701と702は社線時代に、サハ703は19年4月1日鉄道省に買収後運転台が設置され、クハ700形クハ701~703となった。
クハ703は20年1月事故により休車になり、戦後24年1月富士山麓電鉄に譲渡された。

富士山麓電鉄では譲受け後直ぐに汽車会社で電動車に改造して26年1月モハ22として再起した。その後の改番でモハ603(関氏のイラスト)、39年に日本車輌で車体更新時に、貫通扉の設置、車内の蛍光灯化、自動扉化が実施され、モハ3604に改番された。

後ろに連結されているロハ901は、書類上は昭和25年小糸車輌製となっているが、実態は昭和3年川崎造船所製の元青梅電気鉄道モハ100形モハ103で、鉄道省買収後モハ100形モハ103となり、車号は同一であった。
青梅電気鉄道の電動車は、機器配置が特殊であったこと等により、早い時期に制御車代用になり、この車両も23年には早くも休車になった。
24年にサハ状態で富士山麓電鉄が譲受け、半室を2等車に改造してロハ300となり、その後の改番でロハ901となった。
44年に流山電鉄に譲渡され、西武所沢工場で運転台を設置してクハ53となり56年まで使用された。
ロハ901、流山電鉄クハ53共に撮影していないため、撮影された方は是非発表していただきたい。
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富士身延鉄道モハ100型

この辺になると全く理解できません。わかるのは赤富士ぐらいです。

富士身延鉄道モハ100_NEW富士身延鉄道モハ100(文)_NEW

加太紀行 〈下〉

南海加太線は、明治45年開業、北島~加太間の加太軽便鉄道をルーツとする。北島とは、現・和歌山市駅の裏を流れる紀ノ川の対岸(右岸)にあった始発駅(その後、廃止)で、翌年には紀ノ川を渡って、和歌山市に隣接する地点に始発駅を設けた。開業時は、コッペル製のB型機が3両用意されたと言う。

IMG_0001sy

「鉄道ピクトリアル」より転載

昭和5年に電化し、加太電気鉄道に社名を変更、昭和17年に南海に合併された。

その後、本線紀ノ川から東松江まで伸びていた、住友金属工業和歌山製鉄所に出入りする貨物線を電化して旅客線に転用することになり、昭和25年に営業を開始した。これが現在見られる線形となるわけだが、東松江~北島~和歌山市のルートも北島支線として存続していた。しかし、台風で紀ノ川橋梁が被害を受けたことなどにより、休止を経て、昭和41年に廃止となった。現在でも廃線跡が感じられる箇所が残っている。

なお、住友金属工業から出荷される鉄鋼製品は、加太線・国鉄経由で各地へ輸送していた。一日2往復の貨物列車は、昭和59年の国鉄貨物合理化まで続き、これが南海最期の貨物扱い駅となった。

2013_07_09_032sy▲二里ヶ浜。カーブ上に設置された対向式ホーム。2013_07_09_034sy▲二里ヶ浜駅は有人駅で、乗降人員は少ないながらも、駅舎はなかなかの規模。

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加太紀行 〈上〉

加太、と言っても関西本線の加太ではない。南海支線の終点にある加太である。

過日、回りまわってきた南海の優待乗車券を使って、南海和歌山市から加太線の乗車を行なった。

加太線は、南海本線和歌山市のひとつ手前の紀ノ川より分岐し、紀淡海峡に突き出た突端に位置する加太へと至る9.6キロの支線だ。電車はすべて、和歌山市の発着で運転されている。日中は30分ヘッドで2両編成がワンマン運転されている。

もとは明治末期に蒸気鉄道として開業した古い鉄道で、昨年、開業百周年を迎えた。単独で紀ノ川を渡った先に駅を設置した時代もあった。のちに南海本線の紀ノ川駅へ接続する形に変更するなど、歴史的に興味深い線である。

沿線の社寺などへの観光・信仰客輸送や、夏季は海水浴客輸送もあった。終点付近に、砲兵連隊の兵営もあり物資輸送もあった。のちに述べる、製鉄所からの貨物輸送で賑わった時期もあったが、すべてが無くなってしまった今、加太線には、静かな時間だけが流れている。

以下、電車の先頭から見た、加太線の車窓だ。

2013_07_09_007sy▲南海和歌山市駅に停車する、加太線の列車。当日は7195+7969の編成。3番線が加太線の専用ホームで、加太線百周年などの説明版がホーム支柱に貼ってある。

2013_07_09_009sy▲和歌山市を出る。右一線はJR和歌山方面に向かう紀勢本線、左二線は南海本線。右下にチラッと見える渡りは、JR線と南海線を接続している。かつて、南海から南紀方面への直通するDC・客車は、ここを通って国鉄に乗り入れた。現在でも、車両工場からの南海新造車の搬入は、このポイントが使われる。

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C57144写していました

準特急様

「保存蒸機とその現役時代」シリーズを毎回楽しみに拝見しています。今回のC57144の現役時代を撮影していました。昭和44年3月5日 室蘭本線沼ノ端ー植苗間です。

室蘭本線上り客レを牽くC57144

室蘭本線上り客レを牽くC57144

C57144は昭和15年10月 三菱重工神戸製で製番314、昭和51年3月1日 岩見沢一区で廃車となっています。沼ノ端は室蘭本線と千歳線の両方が狙える場所で、石炭満載で室蘭港に向かうセキ列車やヤマに戻る空セキ列車がD51牽引で頻繁に通過し、その合間にC57牽く客レが活躍していました。ただ 列車は頻繁に通るものの だだっ広い原野には高台というものがなく、撮影ポイントを探すのに苦労したことを思い出します。本シリーズの続編を楽しみにしております。

信貴電の不思議 じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川の橋脚が

  じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川橋梁の橋脚が~~~なんと・・・・。

IMG_3774

最初の「信貴電の不思議」で書いたように大和川橋梁の橋脚が開業当初のものかどうかわからなかったのです。社史に書かれていた橋桁数が現在の橋梁と異なっていたのでわかりませんでした。ところで、例の信貴電に関する奈良県公文書の中に大和川橋梁の図面がありました。これで開業当初の大和川橋梁がどんなものかわかりました。それを簡単に図にすると下のようになります。

 開業時の大和川橋梁の図

      開業時の大和川橋梁をデハ100が王寺に向かって走っていくの図

ご覧のように王寺側の橋脚数が現在と違っています。また橋桁の高さと長さが王寺側の6連と信貴山下側の5連では違っていることがわかりました。現在の橋脚は王寺側が3本抜けているのもわかりました。そして、その橋脚が抜けたところに痕跡があるか調べに行きましたが、その痕跡はありませんでした。ところが、偶然にも他の重要なことが発見できたのです。

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保存蒸機とその現役時代(6)

神居古潭に続き、同じ日に訪問した岩見沢市のみなみ公園に保存されているD51である。デフレクターを短く詰めた晩年の北海道の機関車の姿である。どうして短くしたのか理由はよくわからないが、原形を損なっており個人的には好きになれない。

岩見沢みなみ公園は駅から東側およそ15分くらいの公園で当日は私と同年齢の老人がゲートボールを楽しんでいた。保存機はなめくじドームのD5147で屋根付きのためか保存状態は比較的良好とみた。2013.7.2 岩見沢みなみ公園のD5147↓

s-13.7.2岩見沢南公園D5147

 

同機の説明板によると前配属機関区は東鉄局高崎機関区とある。↓

s-13.7.2D5147説明板

 

鷲別区に憩うD5147[岩見沢]の現役時代。煙突にクルクルパーといわれた回転式火粉止をつけているが、デフレクターも短くされる前でこの方が好みのスタイルである。↓

s-66.9.4鷲別D5147

 

 

岩見沢みなみ公園にはもう1両のC57144が保存されている。同機もデフレクターが短くなっている。この機関車は現役時代撮影していない。↓

s-13.7.2岩見沢南公園C57144

 

C57144の説明板  同機は新製後高崎、富山を経て昭和37年頃に北海道に渡り室蘭本線等で活躍した。↓

s-C57144説明

 

人と鉄道と-乗り易い電車-

前回のサンテ・チェンヌ、中心街の停留所背後はバスターミナルで、電車とバスの結節点となっている。ふと気付いたのが連接トロリーバス。11乳母車の母親が車内の人に何か話している。やがて12白髪の紳士が身を乗り出し乳母車を受け取り、ヤレヤレとなった。子供を乗せたままの最近の乳母車、どこの国でもバスに乗せるには苦労している。ドイツに入国して季節運行のナウムブルグ市電を訪ねた。市電は駅前ではなく徒歩10分の公園前からの運行であった。路上から車内への乳母車搬入は電車でも大変である。この時は13運転手君が父親に協力していた。

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画11,12、13

画11,12、13

 

今回の探訪テーマはノンステップカーの品定めである、快適性トップはカールスルーエの3車体連接車、14形式はデユワグGT-70/Nである。快適としたのは、最後尾部が展望室構造になっていたからである。それとは関係ないが客室の床高が超低床車の中では少し高く、出入り口部に勾配が15生じる。電車の乗り場(安全地帯)とステップ先端と歩道面の段差が15㎝と大きく、乳母車に乗っている子供も16少し気にしているようだ。歩道がない道路面からだと3840㎝となる。同じメーカーであるボンの6xGe13ZR NTは、中間車の構造が異なり乗降部と道路での段差が30㎝、17,18これならご婦人でも気軽に乗り降りできる。

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信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その2

いよいよ問題のボギー台車の考察をしようと思う。このボギー台車は単台車と違って写真が残っている。しかし、この写真は信貴電のデハ100形のものでなく池上電気鉄道(以下池上電鉄と略称)のデハ3,4のものである。池上電鉄は現在の東急池上線で大正11年10月6日に鎌田・池上間が開通した。信貴電の開業が同じく大正11年であるが5月16日より営業開始をしているので、池上電鉄の方が信貴電より5ヶ月ほど後で開業している。池上電鉄も開業にあたり日本電機車輌に4両発注していたが開業までに完成しなかったようだ。ところが信貴電では池上電鉄が開業に間に合わなかった村田式台車をはいた同じタイプの電車が走っていたことになる。この池上電鉄の電車はしばらくして完成して納車された。この4両のうち2両は問題の村田式台車で、残りの2両はブリル27GE1であった。村田式台車はこのブリル27GE1を改造したものと言われている。この村田式台車をはいた池上電鉄の電車と台車の写真は村田式台車を考察するのにたいへん重要な資料となった。

ボギーになった村田式台車は

はじめて見た村田式台車の写真の印象は“なんとキャシャな台車やな~!”というものであった。走っているうちにバラバラになるのではないかと思ったぐらいである。その村田式台車の姿を図1に示す。

村田式ボギー台車

図1.村田式台車

図1は奈良県公文書の図面から主要部を中心に作成したものである。当時(大正時代)としては珍しい全てコイルバネを使用している。外観からの印象では戦後の高性能台車のようであるが実際はどのような台車であったのか。そして特許車台動揺防止装置は?公文書の図面と池上電鉄の台車の写真から村田式台車を考察してみようと思う。

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富士山麓電鉄モハ603

富士急の前身なんですね。でもこの名前の方が今風のような気がします。

前回ご指摘の、岩瀬浜駅が神通川河口にある件が訂正されています。富士山麓電鉄モハ603_NEW富士山麓電鉄モハ603(文)_NEW