写真整理学 -5-

カラーポジ
カラーポジを撮り始めたのは大学1年生の時に、北海道へ行った時が初めてだった。当時は、現像料込みの値段で売られていた。カラーポジは、透過式で印刷に適したフィルムとされるが、当時は、もちろんそんな認識はなく、スライド上映会でみんなにも見てもらうのが目的だった。実際、あの頃は、鉄道同好会でもよくスライド上映会をやったものだった。すべて国産の銘柄で、フジとサクラを交互に使っていた。
ここからは以前にも書いたことだが、当時はフジのシェアが高く、優秀な製品という評価だった。いっぽうサクラは二流という評価だったが、数十年経ってみると、全く逆の結果となった。フジは、スコーンと色が抜けてしまって見るも無残な姿が多いのに対し、サクラは多少の褪色はあるものの、色抜けはない。製品の評価なんて、アテにならないとつくづく思ったものだ。

社会人になってからは、仕事絡みでポジを使うことも多くなり、とくに、モノクロを余り撮らなくなった2002年ごろから、一眼デジカメ導入までの約5年は、ポジが主流となった。実際、優れた風景の中を順光で適正露出で撮った鉄道写真は、我ながら惚れ惚れする、唯一無二の”作品”と呼んでもいいものだ。しかし、逆に言えば、たとえ半絞りでも露出を間違えば、目も当てられない結果となる。フィルムが現像から上がってきた時は、いつもドキドキだが、感動より落胆のほうが多かったポジではある。撮り貯めたポジは、通算246本、コマ数で約9000駒となる。
初めてのカラーポジは北海道へ行く途中に、都内各地で廃止予定の都電を写した(以前の掲示板で発表済み)。上は渋谷・宮益坂、右は高田馬場駅前。褪色・劣化は激しいが、45年前の都電も、何とかここまで修正できた。

保存方法は、大きく分けて二つ、初期は一点ずつマウントしたものを、専用のポジアルバムに収容、マウントには、適宜データの記入している。本数が増えると、この方式では追いつかず、マウントを止めて、スリーブ状態にして、缶・箱に収納している。スリーブには、自作の撮影ラベルを貼り、データを記入している。
ポジは、保存状態が一時悪かったこともあってカビが発生(湿気の多い押入れに長期間保管)、また前記のようなフィルム特有の経年変化により、褪色・劣化が激しい。デジタル保存は、カラーネガ以上に急務だが、現状はほとんど進んでいない。加えて、スキャンはなかなか難しいと感じている。褪色しても、軽度のものなら修正ソフトの褪色修正のボタンででほぼ一発修正できるが、褪色・変色の激しいものは、どうやってもダメだ。やはり色が残っていないことには、救済できないと痛感した。色調が正しく出ているポジは、逆にコントラストが強くなり過ぎて、黒つぶれ、白飛びが激しい。
過日、会社更生法の適用を受けたコダック社は、コダクロームに続き、最後まで残ったエクタクロームの製造中止を公告している。ほんの数年前まで、国内外からカラーポジが続々と新発売されて、色調や粒状など、選び放題だった時代が夢のように思えるほど、昨今のカラーポジの衰退には、その終幕が見えてきた思いがする。

ポジの整理は、一点ずつマウントしてスライドファイルに保存、スリーブで一本ずつ保存する2種の方式

久しぶりの京阪守口車庫 その2

別件でモノクロプリント収納箱をかき混ぜていたら、誰に貰ったものか不明の、しかもカラーネガDPE用機器からプリントされたものと思えるものが2枚出てきた。1枚はそれなりに判別できる8人の姿が、もう1枚は19人の姿がぼんやり見えるものである。19人の中で断定できるのは前列の大西顧問、その左の眼鏡男は清水孝一郎君?。後列に移り右から2人目は老人、鈴木アキちゃん、津川君、2人飛ばして旦那、次の眼鏡はtrukame?そして磯谷のオッサン、2人飛ばして高橋の御大、残る2人?となる。

さて何時見学に行ったものか、さっぱり分らない。老人は1958年秋から頻繁に守口車庫に出入していたから思い出深さがない。多分、当時車両課長であった伊藤さんにOK貰って皆さんを守衛小屋の前で待ち受けたのであろう。大西さんに顧問になって頂いたのは高橋御大卒業後であり、19604月以降となる。服装からして195912月か、19601月であろう。3000系の話など未だ聞けない時期で、1800系特急マークを背景にしている。

この頃の最新特急車1810系をバックにしてピンボケ写真の撮影者は不明

新京成モハ100形

乙訓の老人 様、皆様
藤本先輩が多忙につき、本日電話で打ち合わせの上 新京成モハ100形の写真を紹介させていただくこととなりました。よろしくお願いします。
昭和52年2月6日夕方 くぬぎ山車庫の柵の外からの写真です。


ロクサンスタイルのモハ109号車の更新後の姿です。

後期更新車で15両がこのスタイルになっています。
全金車で側面通風器、窓枠は木製で出場し新京成転属後にアルミサッシ化、ドアも交換されています。
その後昭和48年から始まった特別修繕で この後期更新車は先頭車12両、中間車3両となり この109号はパンタなしの中間電動車になっています。
当日の編成は前から109-131-104-107-1112-108です。


2両目のクハ131です。


3両目のモハ104です。
モハ104号車はモハ100形の最初の更新車(昭和28年)でシル、ヘッダ-付き、モハ101,118,123はノーシルノーヘッダーで 共に半鋼製車体の初期更新車4両グループの1両です。
このグループ4両は後の特別修繕からはずれ昭和54年に廃車されています。


4両目のモハ107です。
モハ109と同じ 後期更新車ですが、扉は交換されていません。パンタグラフは撤去され こちら側の運転台は方向板がありませんので使用されていないようです。特修後は片運転台車になっています。


5両目のサハ1112です。


6両目のモハ108です。
モハ109、モハ107と同じ後期更新車25両の仲間です。モハ107同様 扉は交換されていません。
特修後は片運転台車になっています。


モハ108号 からの6連です。右の編成はモハ122先頭の6連、左はモハ102です。
モハ102の左にモハ103、クハ2015、モハ118が続いています。6連です。

モハ122です。
柵の間から何とか写した1枚です。敷地外からの撮影で、後ろの5両は写せていません。
モハ122は昭和31年から始まった中期更新車6両(102,103,112,117,121,122)の1両で、初期更新車とほぼ同じスタイルの全金車です。モハ100形は新京成へ昭和38年から譲渡され、このモハ122はその第一陣の1両です。特修後はモハ112,121が片運車、このモハ122を含めた4両はパンタなしの中間電動車になっています。

モハ116です。
後期更新車の特修後のスタイルですが扉は窓の大きい旧式です。


2両目のクハ2015です。
後にサハ2015となっています。元国電モハ30161とのことです。


モハ103です。
中期更新車 先ほどのモハ122と同じグループの特修後の姿です。扉取り替え、パンタなしの中間電動車となっています。右も同じスタイルのモハ102です。
大正15年製の京成モハ100形25両全車が昭和54年(半鋼製車)、61年、62年(全金属車)まで活躍したのは時代が時代だったといえ長寿であったと思われます。
新京成の電車はあまり写した記憶がなく、今回の写真が唯一かもしれません。通りがかりに車庫の裏に車を止めて写したかと記憶しています。ちょうど特修の始まったころで様々な形態の姿が写っています。ご笑覧ください。犬伏

「久しぶりの京阪3000」によせて(46年6月6日の思い出)


我々の到着直後で「はとマーク」に蓋がされ、パンタが降りている状態。

昭和46年6月6日の京阪3000見学会の記念写真を見て非常に懐かしく思った。OBは、私、
KAWANAKA氏、KOBOYASHI氏の他にもSIKATAISODAKURODAの各氏のお姿も見える。模型をされていた方は前日の運転会で今日のことを知らされたのだろう。私は恐らく特派員氏から連絡をいただいたものと思われるが、噂の京阪特急の新車が営業運転の前に見学できるとあれば、皆さん万難を排して参加されたのであろう。
当日のネガには3000系の他、元京津線の72改造の構内入換車が写っており、こちらも見学、撮影できたことはラッキーであった。

来春、3000系の引退が報じられているが、私も来年3月末で雇用契約期間が満了する。引継ぎの関係で5月頃まではパートタイマーで不定期運行をするかも知れないが、「JR、メトロ、ゆりかもめ」通勤もカウントダウンになってきた。

中間車3102/方向幕は「普通・天満橋」を表示

 元京津線72の構内入換車/ポールがパンタに取替えられ連結器が取り付けられた位で、車体は72時代と変わらない。

2306/工場ならではの写真。

 112

見学会は午前中で終了し、午後はINUBUSE氏と近鉄南大阪線に行き、河内松原、道明寺、古市で撮影した。当時としてはごく普通の車両ばかりであるが、今見ると結構貴重と思われるので参考までに掲載した。

ク6682他5連の御所発あべの行準急/河内松原~恵我ノ荘

 荷電代用のモ5612+モ5613/道明寺

モ5656+モ5655の道明寺線ローカル/道明寺

ク6521他4連の吉野行急行/道明寺


 モ6017他4連の吉野行急行/道明寺~古市

 モ6852他4連の吉野行急行/道明寺~古市

東京スカイツリーから見る鉄道

毎日、通勤で東京スカイツリーの足元を通っていますので、折角ならば、早めに上りたいと思い、東京スカイツリーの事前予約にインターネットでチャレンジしたところ、第八希望の6月30日土曜日午前8時30分に当選したので、東京スカイツリーに上ってきました。

通勤で、毎日見れるはずですが、着席通勤なので、押上あたりは、夢見心地で通過しています。建設途上も、できてからもじっくり見たことありませんでした。

今から、25年前、何の因果か浅草支店に勤務を命じられ、ここらあたりは、セールステリトリーでした。自転車でよく営業に廻ったものです。

当時は、コンクリート工場があり、東武鉄道のED5000形が出入りしていました。よく仕事をサボって眺めたものです。

当時は、まさかここにこんなものができるとは、思いもよりませんでした。

当日、地上350メートルの天望デッキまでは、ほとんど待たずに昇れました。ここまで、2500円です。(通常は、2000円)

さらに、先の地上450メートルの天望回廊を目指します。天望回廊の切符を買うのに約10分。追加で1000円かかります。

合計3500円かけて到達した地上450メートルからの鉄道です。


浅草~東京スカイツリー間 300系と通勤電車(東武の車両に詳しくないので、形式がわかりません。)

 

東京スカイツリー~曳舟間  スペーシア100系と6050系快速

字左が東武鉄道。右が京成電鉄です。京成電鉄の下を東武鉄道 亀戸線が走っています。

京成線は、京成曳舟付近高架工事中です。

 

業平橋(東京スカイツリー)の電留線 200系と300系と6050系快速

一度は、昇る価値はありますが、何度もは・・・

天望回廊へは、天望デッキでチケットを買う必要がありますので、待ち時間を気にされる方は、早めの時間に昇られたほうが良いと思います。

こんなん出てきました

京阪3000の見学会のネガを探していたら、同じネガのなかに模型運転会のスナップがありました。これも日時、場所不明です。昭和47年4月から8月のあいだです。どこかのお寺を借りて運転会を行った記憶はあるのですが、どこだったのでしょう?「明治チョコレート」の工場と言えば茨木、高槻あたりにありますが、そんなところまでレイアウトを運んだのか・・・?だれか覚えておられませんか。

アメリカ鉄道のたび(その5)デュランゴシルバートン鉄道

デュランゴシルバートン鉄道はアニマス川沿いの渓谷を走る景色が人気で標高1984mのデュランゴから標高2836mのシルバートンまでの72.6kmの区間を3時間半かけて走ります。デュランゴはデンバーと同じコロラド州にあり、デンバー、フェニックス、ダラスからの飛行機便があって、比較的行きやすい場所にあります。このため、この鉄道の乗車をコースに入れている日本の一般ツアーもあり、恐らく日本でも一番知られた保存観光鉄道ではないでしょうか。この鉄道はシルバートンで発見された銀鉱のためのもので、1882年にデンバーまでの鉄道が開通しました。その後、鉱山の閉鎖とともに鉄道も一時期廃止されましたが、1940年代に銀に変わってウラン鉱石の精錬のために再開され、1960年代には国の歴史遺産に登録されたこともあって、観光鉄道に姿を変えて運行が続けられました。ある時期にはハリウッドがこの鉄道に目をつけ、いくつかの映画がここを舞台に作られました。「80日間世界一周」の映画も一部のシーンがここで撮られたそうです。

続きを読む

久しぶりの京阪3000

例の車石を実際に見てみようと大津の86さんに案内をお願いして、今日大津に行ってきました。京橋から浜大津まで京阪電車のルートで行くことにして、京橋から乗る特急を事前に調べるとと、これが3000でした。そして、京橋駅にてパチリ。先頭車で一番前で運転士のすぐ後の席で三条まで乗車しました。京阪特急として乗るのは何年ぶりでしょうか?

そして、40年ほど前の守口車庫での3000見学会の記念写真です。なつかしい顔ぶれがそろっています。その3000も来年の春に定年をむかえます。

写真整理学 -4-

前回、モノクロフィルムについての私の整理術については記しましたが、もうひとつ、カラーがありました。モノクロに長い間馴染んだ私も2002年以降は、カラーオンリーになりました。近年はデジカメも加わり、増殖を続けるカラーの整理は、今日的なテーマでもあるのです。
カラーネガ
カラーネガで鉄道を撮り始めたのは比較的古い。初めて一人で九州へ行った高校2年生の時、モノクロとともにカラーも加え、カメラ2台態勢となった。マミヤ製の怪しげなEEカメラだった。ところが、この昭和40年代前半、カラープリントの料金はL判一枚が100円ぐらいだったと記憶している。今の物価に換算すると300~400円程度になり、とても大量には撮れない。結局、15日間、九州へ行って撮ったのは、当時あった16枚撮りフィルムのうち数枚だけで、帰ってからまた別のところで撮る始末で、フィルム一本を一年近くかけて撮った。

45年前に初めて撮ったカラーネガでも劣化は余り見られず、スキャンデータに若干の修正を加えるだけで、この程度、見られるのは、カラーネガのアドバンテージだと思う。佐々機関区で撮ったレールバスの塗色も、一般気動車とは異なる赤2号だと理解できる。

その後も、カラーネガは撮るものの、その性格上、家庭の写真などが中心となるため、鉄道は合い間に散発的に撮る程度で、枚数はほとんど増えず、カラーの鉄道写真は、後述するポジに移っていく。しかし、2002年にモノクロを止めてしまうと、その代替として、カラーネガを再び使うようになり、それ以降はウンと増えることになる。ただ、それもデジカメの出現で、2005年には全く絶えてしまうことになる。
こんな経緯で、現在カラーネガとして保管しているのは、278本、コマ数で約1万枚ぐらいか、ただ、前記のような非鉄な写真も含まれるので、実際、鉄道関係は、その半分程度しかないと思う。
整理方法は、すべて同時プリントしているので、単純明快に撮影順にポケットアルバムに入れた時系列の整理方法を採っている。ネガは、カラーネガ独自の整理番号を振り、時代順にケースに入れている。問題点は、モノクロのベタ焼きと同じで、別にある撮影台帳との関連が弱いことである。カラーはとくに恣意的に撮ることが多く、撮影には連続性がないことも、台帳との関連性を弱くしている。ただ、現実的には、カラーネガの場合、ほかへ提供することは皆無に近いので、自分だけが理解できればよく、とくに不便を感じるケースはない。

カラープリントの整理は、市販のポケットアルバムに入れるだけ。分野別には編集せず、鉄道以外にも、興味の向くバス、近代建築、街並みも含めて撮影順に入れている。データは撮影日のみ記入、これを頼りに撮影台帳と照合する。

将来的なテーマとしては、ネガの劣化の前のデジタル化であるが、これには全く手が回っていない。カラーネガは、オレンジベースのため、劣化が進んでいるのか一見してよく分からないのも、着手を遅らせる理由のひとつである。ただ、楽観できるのは、ネガをスキャンしてデジタル化した場合の写真修整は、ポジに比べると、技術的には容易に行えること。カラーネガのデジタル化は、とくに急を要するものではなく、優先順位は低い。今しばらくは現状維持と言ったところだ。

いすみ鉄道と「あじさいの花」

本日 ムーミンとキハ52と菜の花で有名な「いすみ鉄道」へ初めて行ってきました。時々小雨の降るどんよりとした梅雨空からわずかな陽の光が見えた時 ちょうど「あじさいの花」の咲く小谷松駅に 最新鋭のキハ302がやってきました。上総中野15:08発大原行き、車庫のある大多喜駅の一つ手前の駅です。近くに民家や神社もありますが 乗り降りする人もなく 15:24に大多喜にむけて発車していきました。


大多喜駅でキハ201,キハ202、キハ205、キハ206,キハ301、キハ52を写し、記念乗車券やキハ52のストラップを購入し(売上貢献) 窓口で 「あじさい」の咲いている場所を教えていただき 小谷松に移動して写したのが 上の写真です。
あじさい電車として 箱根登山鉄道が有名ですが こちら いすみ鉄道も 「あじさい」のきれいな所が他にもあるようですのですのでまた行ってみようと思っています。犬伏

展覧会のご案内 鉄道絵葉書の世界

奈良県立図書情報館に行ったとき、「鉄道絵葉書の世界」のパンフレットが目にとまりました。天理大学付属天理参考館の第66回企画展で7月4日から8月12日までおこなっているそうです。パンフレットによると今回展示される資料は明治から昭和にかけてのものだそうです。詳しくは天理参考館のホームページをご覧ください。これによりますと展示資料はすべて天理参考館の収蔵品だそうです。鉄道模型走行実演もあるようです。ただし、運転日不定期ですので注意してください。写真に写っている案内チラシもPDFで見ることが出来ます。チラシだけではさびしいですのであやしい電気機関車の模型もついでに・・・ OBの方でこれについてご存知の方もおられると思います。なにせ、現役の時、だれかさんから作りかけの車体をいただいて、ありあわせのもので作ったものです。

富山で63スタイル2台で2題

大津の86さんのアメリカ土産話に圧倒されています。63スタイル話も意外な展開を見せ本来、戦時中の「ないない」づくしの中、如何に節約してものを作りだすかに英知を集約した話、これが標準型となっ事など現代人には信じられない話であろう。かく言う老人も気付いたのは終戦の翌年であり、これが国鉄→JRの標準スタイルになるとは夢にも思わなかった。

老人は196143日から1963914日まで生活の基盤を富山県西砺波郡福岡町(現高岡市)に置いた。最初の半年、隔週毎に富山に出るのが楽しみであった。もちろん富山地方鉄道訪問で当時、立山線と言っていた現上滝線で145146号と名付けられた2台の63スタイルの制御車が走っていた。さっそく南富山車庫にお邪魔して来歴をお尋ねしたところ、北陸本線直江津駅から浜辺に至る専用線で戦時中使用されていたもので、終戦と共に当線に「配給」を受けたものだとの返事が返って来た。恐らく信越化学の工場引き込み線だったのであろう。19579月、熊本電鉄で63スタイルの木造車を見ており、国電より一早く木造で食パンスタイルが「ないないづくし時代」に作られたことに衝撃を受けた。また京阪電車守口車庫のお邪魔虫であった1959年秋、戦時下の車両統制会から、京津線206両の車両鋼体化を木造車体とするなら許可する、との簡単な図面を見付け出していた。

こうした下地があったので、昭和19年新潟鉄工所製造だと言うので、木造車体で製作されたものを鋼体化したのかと尋ねたら、以外や鋼製車体で当社に廻送されて来たとの返事だった。ただし台車が貨車用TR26でした、との話には当車が製作された当時、人を人間扱いしなかった一部の階層がいた事に憤りを覚えた。転入当時、附随客車ハフ11,12として立山線に配置され、その後に電気配線と天井整備の上、蓄電池による電灯を設け、更に座席を新たに整備して走らせたとの話であった。これがクハ140145146号になったのは1951年のことで、乗務員扉を付け内装も当社の標準並みとしたとの事。その後台車は国鉄中古品の払い下げを受けたが、2両同型ではない。19615月撮影の姿を紹介しよう。

以上がクハ1401451462台で1題目。次は話だけの2題目。1962年初夏、電鉄富山駅で客用扉が両開き3か所の片運制御車が目に入った。両端切妻で窓配置から言えば京阪20003期車(2025~)同系である。さっそく何物ぞと、南富山車庫に聞きに行った。越中鉄道の戦前増備車は5001系に取り替えられた後、立山線配置となった。その11.5m級のクハ101,102号を当時、本線クハ120形の車体延長工事を発注していた富士重工に送り込み、部材一部流用で18.5m級の制御車に仕立て上げたものだと教えられた。理由は高度経済成長時代を迎え、朝ラッシュ時の上市→稲荷町間救済のために145,146号の3扉に眼を付け、両開き扉にしたのが新車91,92号なのだ、とのお話であった。稲荷町から一駅南、立山線不二越間の朝ラッシュ時は、不二越工業を始め工場地帯で、稲荷町-不二越間には本線接続の出勤日のみ運転の臨時列車が、モニ6570形単行で運転されていた。座席は取り外されていた。クハ90形の写真は38豪雪で焼失、従って2題目は尻切れトンボで御免。

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形146号はTR-10系の台車で走る
クハ140形146号はTR-10系の台車で走る

アメリカ鉄道のたび(その4)デンバー2

コロラド鉄道博物館

この博物館はデンバー郊外のゴールデンという町にあります。前回の投稿で紹介したRTDのトリッププランナーに出ており、デンバーのダウンタウンからは直通はないものの、1度乗り換えるだけで、約1時間でいけるバス路線があります。これはいいと時刻を見るとなんと土日は運休になっています。距離が結構あってタクシーでいくらかかるか心配だったのですが、デンバー近郊タクシー料金検索と言うサイトを発見、検索すると$32とのこと、これならまあいいかとダウンタウンからタクシーで出かけることにしました。

続きを読む

全国安全週間のポスタ-


平成24年度 全国安全週間のポスターです。7月1日から7日とのことですが、どこかで見たことのある電車ですね。
本日 関東鉄道常総線の守谷駅で見かけました。犬伏

サハ78

5月21日【20523】「モハ63形→クモハ73形」に引き続き、同一グループの「サハ78形」について解説する。

サハ78形はモハ63形の付随車として作られた車両である。戦争末期の昭和19年に14両のモハ63形(63001~014)と共に8両(78001~008)新製された。モハ63形は電装品不足のため全車両「サモハ63形」で落成し、その後も電装されず、最終的にサハ78形3両(78304、306、310)とクハ79形11両(79100、102、104、106、108、110、112、216、242、244、246)になった。
折角新製したサハ78形であるが、翌年4月に001、003、004の3両が戦災で焼失してしまい復旧されることなく廃車になった。

昭和19年から20年にかけて、横須賀線のサロハ66形とサロ45形を、4扉に改造してサハ78形に編入する工事が実施され、サロハ66形は15両全車改造され、78009~023となったが、サロ45形は11両全車改造されて024~034となる予定が、5両が2等車として残されることになったため、025、026、028、029、033が欠番となった。改造車グループも戦災で013、014、019、022、031、032、034の7両が焼失した。

戦後の混乱期を乗り切るため、モハ63形と共にサハ78形も新製されることになり、昭和20年から23年にかけて133両作られ、100番台に番号区分され78100~239(203~209欠番)となった。200~202の3両はジュラルミン製(通称ジュラ電)であった。

桜木町事件後、緊急に車体整備が実施されたが、モハ63形のような改番はされず、戦災廃車による欠番もそのままであった。その際、未電装のサモハ63形96両を正式にサハ78形に編入し、300番台に番号区分して78300~395とする予定であったが、大部分の車両が運転台を取り付けてクハ79100番台に編入された。サハ78となったのは20両に留り、欠番が多数発生した。サハ78形編入車の車号は304、306、310、324、330、335、337、338、339、352、358、363、368、372、375、378、380、385、389、395の20両である。

モハ63形→クモハ73形の時と同様、代表的な車両についてのみ写真で紹介する。後年トイレ取り付けにより車号が変更された車両、モハ72の電装解除によりサハ78形に編入された車両については後日報告する。

サハ78008/昭和19年10月田中車輌製、新製時東神奈川に配置、24年8月宮原、26,年11月下十条、その後仙石線に行き47年2月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化、ベンチレータをグロベンから押込形への取り換えが行われた。49年10月廃車。(48-4-30 仙石線下馬)

サハ78010/昭和6年2月川崎車輌でサロハ66002として新製。20年1月大井工場で4扉化の上、現車号になり東神奈川へ、24年8月宮原、同年9月津田沼、40年4月淀川、同年9月明石、43年10月鳳、49年3月房総電化で津田沼、50年2月廃車。 (上:42-12-7尼崎 下:48-11-3 杉本町)

サハ78012/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66004として新製。20年4月大井工場で4扉化の上、現車号になり津田沼へ、40年4月淀川、49年8月廃車。(48-6-17 住道)

サハ78015/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66007として新製。19年12月大井工場で4扉化の上、現車号になり蒲田へ、25年1月宮原、26年11月蒲田、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、52年4月廃車。(47-5-1 沼津)
 

サハ78016/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66008として新製。20年2月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、40年10月鳳、49年4月房総電化で津田沼へ、50年2月廃車。(49-1-5 杉本町)
 

サハ78017/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66009として新製。20年2月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、24年8月明石、25年9月淀川、29年3月宮原、32年9月高槻、35年8月淀川、35年9月岡山、38年11月明石、39年9月岡山、41年8月明石、44年9月松戸、48年2月廃車。(上:40-8-18宇野 下:41-10-11京都)

岡山区在籍時は、17mのサハ17も混じった2.3.4扉、クロス、ロングシートの凄まじい混合編成で、山陽本線の三石~三原間と宇野線のローカルに使用されていた。

サハ78021/昭和7年3月川崎車輌でサロハ66013として新製。20年1月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、40年12月鳳、49年3月房総電化で津田沼へ、50年4月廃車。(48-11-3 杉本町)

サハ78023/昭和6年3月田中車輌でサロ45002として新製。12年3月大井工場でサロハ66015に改造、19年10月大井工場で4扉化の上、現車号になり三鷹へ、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年10月廃車。(49-4-27 沼津)

サハ78030/昭和6年5月田中車輌でサロ45009として新製。19年7月大井工場で4扉化の上、現車号になり三鷹へ、24年8月明石、25年9月淀川、26年11月蒲田、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年9月廃車。(上:43-4-6 沼津 下:49-4-27 沼津)

 サハ78106/昭和21年6月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年10月廃車。(49-4-27 沼津)


サハ78109/昭和21年8月近畿車輌で新製。南浦和に配置、46年1月淀川へ、51年10月廃車。
(48-7-1 住道)

 サハ78113/昭和22年8月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年7月呉線電化で松戸から広島へ、転属時に幡生工場でトイレ設置、46年9月広島工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化、51年4月御殿場線用として沼津へ転属、55年1月廃車。沼津配置の63系サハ78のトイレ設置車は450番台に改番されていたが、広島では改番はされず統一性はなかった。(上:48-1-28 広島 下:52-2-11 沼津)

 

サハ78119/昭和22年4月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年7月呉線電化で松戸から広島へ、47年1月広島工場でアコモ改善工事で窓の2段サッシ化とトイレ設置、51年4月御殿場線用として沼津へ転属、55年3月廃車。
(48-1-28 広島)


サハ78126/昭和21年12月近畿車輌で新製。南浦和に配置、45年12月淀川へ、51年11月廃車。
(48-3-21 住道)


サハ78156/昭和22年7月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年4月仙石線へ、46年5月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化とベンチレーターの取り換え。55年5月廃車。
(48-4-30 仙石線下馬)


サハ78163/昭和22年8月近畿車輌で新製。蒲田に配置、41年8月高槻へ、50年1月廃車。
(49-2-1 大阪)


サハ78167/昭和22年9月近畿車輌で新製。東京地区配置、54年10月東神奈川で廃車。
(47-5-1 東神奈川)


サハ78180/昭和22年11月近畿車輌で新製。蒲田に配置、41年9月高槻へ、50年6月廃車。
(47-1-20 大阪)


サハ78216/昭和24年2月近畿車輌で新製。東京地区配置、46年12月大井工場でも改善工事で窓の2段アルミサッシ化、青梅線、五日市線で使用後、52年11月豊田で廃車。
(50-3-23 拝島)


サハ78237/昭和24年5月川崎車輌で新製。南浦和配置、46年1月淀川へ、51年4月廃車。
(47-11-19 住道)

 サハ78310/昭和19年12月田中車輌でサモハ63011として新製。昭和26年12月大井工場で乗務員室を撤去して現車号に、東京地区配置後、45年12月松戸から淀川へ、51年4月廃車。サモハからの改造車は扉の開き方が異なる。オリジナル車は← ← → →と開くのに対し、4枚とも同一方向に開く。(49-3-23 住道)

 サハ78368/昭和21年12月近畿車輌でサモハ63346として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置後、仙石線へ、46年12月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化ベンチレーターの取り換え、54年8月廃車。(48-4-30 仙石線下馬)


サハ78375/昭和21年9月川崎車輌でサモハ63370として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置後、46年2月南浦和から淀川へ、52年2月廃車。(49-3-23 住道)

サハ78380/昭和21年10月川崎車輌でサモハ63380として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置、青梅線、五日市線で使用後、51年12月豊田で廃車。(50-3-23拝島)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊予鉄での出会い

 いささか古い話で恐縮であるが、昨年末、趣味仲間と車で一畑、伊予鉄、琴電等を訪問したのでその中で伊予鉄との出会いについて報告したい。その時の最大の目的は一つには1963年、1964年にローレル賞を連続受賞した井の頭線3000系、京王線5000系の生き残りを並べて撮ること、もう一つは京都市電であった2000形を撮ることであった。

 2011年12月3日伯備線、4日一畑、琴電を撮影後、松山市内勝山町のホテルに投宿。道後温泉も行かずにホテル前で三脚を立てて市内線電車の夜間撮影を試みたが、結局元京都市電は現れなかった。翌日も早朝からねばってみたが、ラッシュアワーに重なったのか2003、2005、2006に出会うことができた。正面の前照灯が2灯から1灯となり、多少面構えが変わっていたが、全体の面影は残っており懐かしい感じがした。JTBキャンブックス「京都市電が走った街今昔」(沖中忠順著、福田静二編)によると京都市電2000形は1964、65年に6両が登場し、1両は保存、5両は伊予鉄市内線で旧番号のまま冷房化の上、活躍中とある。2003、2005、2006の京都時代の同番号の2000形はないものかとネガを探してみたが残念ながら全くなく、唯一、卒業前の1969年2月の雪の降る日に京都駅近くで後姿を撮った2002があったので掲載する。  

        2012.12.5 勝山町 2003↑

 

        2012.12.5 大手町2006↑

 

 1969.2.28 京都駅近くの烏丸通と思われるあたり2002↑

 

 元京王3000系、5000系の出会いであるが、当日の運行状況から大手町駅で離合することがわかったので光線状態を考えて同駅の松山市駅側に陣取る。時間になりやって来たのは横河原行きクハ3506(元井の頭線クハ3775)で高浜行き後部のクハ765(元京王線クハ5777⇒クハ5857)と並んだところをキャッチ。朝陽に輝く出会いはよかったが、朝の斜め光線は架線や電柱の影の処理が難しい。それに元京王5000系自身いつまで残るのか予断を許さない時期に入ってきたように思う。古い写真は1968年5月27日聖蹟桜ヶ丘を出て多摩川橋梁に向かう京王八王子~調布間の各駅停車デハ5107+クハ5857吊りかけ車で松の木の影になっている後ろの車両が伊予鉄クハ765になるクハ5857である。新しい写真は2008年11月16日井の頭公園駅に進入する急行運用に入ったクハ3775で現在の伊予鉄クハ3506である。伊予鉄の3000系は譲渡に際し、VVVF化されて井の頭線時代よりも性能のグレードアップ化がなされている。京王線と井の頭線は明大前駅で上下交差しているが、路線の生い立ちやゲージの違いによりお互いが同じ会社の車両でありながら顔を会わせることはない。もっとも井の頭線の1800、1700、1710、1400、1200等は改軌して京王線に転属していった時代がある。その一部も伊予鉄に譲渡されており、京王と伊予鉄は縁の深い関係がある。本年5月1日に彩流社という出版社から発行された「京王線、井の頭線昭和の記録」の編著者三好好三さんは井の頭線と京王線の接点という項目の中で伊予鉄の同じ線路を走る元京王3000系、5000系のことを「本家でも実現しなかった夢の競演である」と述べられている。譲渡車両の今昔を記録してみたが、同じ車両を対比することは大変興味深いものがあり、私のような老人ファンならではの楽しみである。

 2012.12.5 大手町横河原行きクハ3506と高浜行き後部クハ765↑

  1968.5.27 聖蹟桜ヶ丘~中河原 デハ5107+クハ5857↑

 

 

   2008.11.16 井の頭公園 3775先頭急行渋谷行き↓

名鉄モ400

今日から“連接車”です。以前連載された連接車は戦前型、これからは戦後型だそうです。しかし、戦後の、まだ物資が潤沢ではなかった時代にこれだけの写真を撮られたことは、我が人間国宝やtsurukame、須磨の大人などの諸先輩方も驚きではないですか?記事の最後のところで「車体は二つあるのに1両と数えるか2両とかぞえるか・・・」とありますがなるほど、と感じました。

 

アメリカ鉄道のたび(その3)デンバー1

デンバーを訪れた一番の目的はビッグボーイのあるフォーニー博物館に行くことだったのですが、数年前に博物館が改築されて、ビッグボーイは室内展示になり、写真が撮りにくくなったということを聞いていました。ただ、デンバーにはトラムも走り、郊外にはグースが走るコロラド博物館などの見所があります。2泊して駆け足でしたがこれらを回りました。

続きを読む

関三平先生とはこんな人!

今日の夕刊に関三平先生のプロフィールがでていました。皆さんの予想と比べていかがでしたか?

岳南鉄道の機関車


                                 デキ1+デキ2       (
43-4-6)   岳南江尾

HPを開けると飯田線119系に変わって、3月16日で運行を終了した岳南鉄道の電気機関車と貨物列車の名場面が表示されるようになった。
最後まで残った機関車は、元松本電鉄のED402、403、元上田温泉電軌→三河鉄道→名鉄のED501、休車の元豊川鉄道→国鉄のED291の4両である。製造年の新しいED402、403は工事用に残るかも知れないが、古いED501とED291は稼働する機会は少ないと思われるが、由緒ある機関車であり是非残していただきたい。
岳南鉄道に足跡を残した機関車を入線順に紹介する。但し、昭和24年11月、開業時に駿豆鉄道から譲り受けた元国鉄アプト式電機のED4012、ED4013と26年5月駿豆鉄道から譲り受けた木製電機デキ3は廃車時期が早く写真が無いため割愛した。

デキ1・2(形式デキ1)
昭和27年3月、国鉄から譲り受けた、昭和2年ドイツA..G社製のB型機。当初は宇部電気鉄道のデキ1、2として誕生し、宇部鉄道との合併により同社のデキ1、2、18年5月鉄道省に買収されたが車号は変わらなかった。44年9月架線電圧1500Ⅴ昇圧時に廃車となった。/上:(43-4-6) 岳南江尾、下:(44-8-30) 岳南富士岡

ED301(形式ED3000
昭和28年帝国車両製の唯一の自社発注の新製機である。屋根の庇がデッキまで伸びた独特のスタイルであったが、出力が80KW×4と弱かったため、48年に廃車となった。当初はED3011を名乗っていたが、後日ED301に改番された。/(49-2-17) 岳南富士岡


ED291(形式ED29)
昭和34年、国鉄から譲り受けた。昭和2年日本車輌製(電気機器は東洋電機)で、飯田線豊橋~大海間の前身豊川鉄道デキ52として誕生。鉄道省買収後、27年の改番でED291となり、34年3月廃車となった。かなり以前から休車中であったが、昨年再塗装され、外観は綺麗になった。/上:(43-4-6) 比奈、下/(49-2-17 比奈)


ED321(形式ED32)
昭和35年国鉄から譲り受けた。昭和2年三菱電機製で、飯田線辰野~天竜峡間の前身伊那電気鉄道デキ10として誕生。鉄道省買収後、27年の改番でED321となり、35年廃車となった。昭和51年水害で岳南江尾に取り残されて以来、留置されたままであったが、63年10月廃車になり解体された。/(44-8-30) 比奈


ED311(形式ED31)
昭和42年3月、伊豆箱根鉄道から譲り受けた。書類上は昭和28年西武鉄道所沢工場製であるが、前歴を遡ると旧国鉄アプト式電機ED4011に辿り着く。22年伊豆箱根鉄道の前身の駿豆鉄道が譲り受け、28年西武鉄道所沢工場で大改造して、機器、台車を取り替え、普通のB-B型になり、アプト式時代の面影は僅かに車体に残るのみとなった。42年3月に入線したが、5年後の47年廃車になった。 /(43-4-6) 吉原

ED281(形式ED28)
昭和44年8月、小田急から譲り受けた。昭和5年川崎造船所製で元小田急101として作られ、東急合併後デキ1021に改番された。側面の丸窓が特徴で、戦前では吉野鉄道→近鉄デ51、52以外に例は無い。63年まで在籍したが、60年頃からは休車中であった。/上: (45-9-14) 西武鉄道所沢駅/西武所沢工場入場時、下:(60-8-11) 岳南富士岡




ED271(形式ED27)
昭和44年9月、国鉄から譲り受けた。昭和3年日立製作所製で元南武鉄道1000形(1001~1004)の1002号機として新製、昭和19年8月1日戦時買収により鉄道省になったが、車号はそのままであった。27年の改番でED34形(ED341~4)のED342となり、昭和31年の再改番でED27形(ED2711~14)のED2712となった。私鉄時代から引き続き南武線、青梅線で使用されていたが、昭和43年に11と12が廃車され、翌年12が岳南鉄道に譲渡された。国鉄時代に側面の乗務員室扉が埋め込まれ、正面の扉から出入りするようになっていたが再度復活した。48年に廃車となり、僅か4年の在籍であった。/上: (44-8-30) 国鉄から入線直後のED2712→ED271、下: (45-3-11) 吉原


ED501(形式ED50)
昭和45年3月名鉄から譲り受けた。昭和3年川崎造船所製で、貨物営業最終日まで現役で稼働していた。経歴は複雑で上田温泉電軌デロ301として新製。予想外に貨物が少なかったため15年三河鉄道に売却して同社のデキ501となり、昭和18年名鉄との合併により同社のデキ501となった。主に比奈駅の入れ替え、小運転に使用されていた。/上:パンタグラフ1個時代 (45-3-11) 、下:比奈 (49-2-17 比奈

ED103(形式ED10)
昭和45年9月大井川鉄道から譲り受けた。昭和24年日立製作所製で、大井川鉄道電化時にE103として新製した。同時期のE101、E102が作られたが、こちらは三菱電機製であった。貨物量の減少により、岳南鉄道が譲り受け、本線貨物列車を牽いて活躍した。貨物量の減少により61年2月廃車になり、元の大井川鉄道に譲渡した。/上:大井川鉄道 E103 (43-4-6) 新金谷、下:
 (49-2-17) 岳南富士岡


 

ED402、ED403
昭和47年1月に入線した元松本電鉄のED402、403で、東京電力の梓川3ダム(奈川渡、水殿、稲核の各ダム)建設工事の資材輸送用として、402が40年10月、403が41年5月日本車両で作られた。ダム建設の主体となるセメントは、八高線高麗川駅の日本セメント埼玉工場から出荷され、D51の重連で八王子まで行き、EF64の重連で南松本へ、南松本からは再度D51で南松本~松本~渚まで行き、ここで松本電鉄ED40にバトンタッチされ赤松(現在の新島々)行き、トラックに積み替えられ建設工事現場に運ばれた。ダム建設工事が終了すると、仕事がなくなり岳南入りして貨物列車の主力として活躍した。上: 松本電鉄時代 (45-3-18) 森口、下: (60-8-11) 比奈
 



【借入車】
44年8月30日に訪れた時、名鉄デキ401が入線していた。架線電圧1500V昇圧時に改造工事で一時的に機関車不足になるため、名鉄から借り入れたものと思われる。
名鉄デキ401は昭和5年日本車輌製(機器はウェスチングハウス)で現在も健在でバラスト輸送に使用されている。/ (44-8-30) 岳南富士岡


岳南鉄道は営業収入の中に占める貨物輸送により収入のウエイトが高かったため、地元富士市では早くも廃止問題が話題に上がってきたようである。営業距離が9.2㎞と短く、沿線に目ぼしい観光地があるわけでもないが、今後とも地元の足として頑張っていただき、最悪の事態にならないように祈る次第である。