モハ63形 → クモハ73形


  仙石線 陸前大塚~陸前富山間を走行する特別快速石巻行
  クモハ73003+サハ78008+モハ70124+クハ79230 の4両編成 (49-4-29)

関 三平さんの「昭和の電車」は、四国の電車が続いたので次は九州かと思っていたところ、63回に因んでモハ63→クモハ73であった。次回64回目は「クモハユニ64」ということはないだろう。

今回のイラストは電車の行先が「上野」になっているので常磐線のとある駅の風景と思われるが一寸見当がつかない。お判りの方はご教示願いたい。隣にはクモハ73の近代化改造車が描かれているので時期は昭和37年以降であることが判る。 

クモハ73形とそのグループは、戦後の国鉄を代表する通勤型電車で、東は仙石線から西は山陽本線の小郡まで活躍した。車体の老朽化や使用線区に応じて手を加えられ、施工時期や工場により差異のため、細かく観察すると1両として同一スタイルの車両が存在せず興味が尽きない。これらを全部解説すると500ページの本になってしまうので、クモハ73形の一部を紹介させていただきたいと思う。

クモハ73010/昭和23年近畿車輌でモハ63526として新製。27年3月吹田工場で改造。49年6月淀川区(片町線)で廃車。(47-12-1 住道)
モハ63形は、大阪向け車両と東京向け車両では仕様が異なっていた。外観上は運行窓が大阪向けが2桁に対し東京向けは3桁であった。
73010の経歴は、淀川区から36年11月に環状線101系化により東十条に転属、41年3月淀川区に戻ってきた。

クモハ73041/昭和22年日本車輌でモハ63593として新製。27年10月吹田工場で改造。59年8月広島区(可部線)で廃車。(50-2-2 広島)
広島区では当初呉線で使用し、後に可部線で使用した。窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

 クモハ73052/24年汽車会社でモハ63823として新製。28年3月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)

 クモハ73053/昭和23年汽車会社でモハ63769として新製。27年12月吹田工場で改造。51年10月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)

クモハ73059/21年日本車輌でモハ63393として新製。27年6月日本車輌で改造。54年8月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30下馬)
仙石線配置車両は防寒対策のため、暖房の強化、ベンチレータの取り替え、窓のアルミサッシ2段化、扉の半自動化が行われた。

クモハ73061/21年汽車会社でモハ63214として新製。27年6月日本車輌で改造。60年6月広島運転所(可部線)で廃車。(42-3-26武蔵中原区)

クモハ73062/23年汽車会社でモハ63746として新製。28年4月日本車輌で改造。49年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)

クモハ73073/22年川崎車輌でモハ63632として新製。27年7月日本車輌で改造。47年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT15。(47-2-16 京橋)

クモハ73075/22年日本車輌でモハ63419として新製。27年8月日本車輌で改造。51年12月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)
 

クモハ73081/22年汽車会社でモハ63215として新製。27年8月日本車輌で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-15 住道)

クモハ73083/22年日本車輌でモハ63395として新製。27年8月日本車輌で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-6-17 住道)
 

クモハ73091/昭和21年日本車輌でモハ63297として新製。27年9月日本車輌で改造。51年11月広島区(呉線)で廃車。(48-1-28 広島)


クモハ73098/23年川崎車輌でモハ63848として新製。28年4月汽車会社で改造。51年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はウイングバネのDT14。(48-4-30上:東塩釜 下:下馬 臨時快速「コバルト金華山号」)

クモハ73108/23年川崎車輌でモハ63802として新製。28年5月汽車会社で改造。52年3月淀川区(片町線)で廃車。(48-9-25 住道)
 

クモハ73129/23年汽車会社でモハ63755として新製。27年12月日本車輌で改造。47年2月沼津区(御殿場線)で廃車。(41-2-14 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73134/22年近畿車輌でモハ63544として新製。28年8月東急車輌で改造。51年12月青梅区(青梅・五日市線)で廃車。(49-5-1 青梅)
 

クモハ73159/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年9月汽車会社で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(49-2-1 大阪)


クモハ73189/21年川崎車輌でモハ63366として新製。27年12月汽車会社で改造。51年11月淀川区(片町線)で廃車。(45-11-15 京橋)
経歴は41年3月下十条から明石に転属、45年2月淀川に転属。暫く茶色のままで使用。

 クモハ73193/23年汽車会社でモハ63787として新製。27年12月汽車会社で改造。 47年4月沼津区(御殿場線)で廃車。台車はDT15。(41-1-23 京都)
経歴は40年12月蒲田から明石に転属、45年2月沼津に転属。

クモハ73205/23年汽車会社でモハ63779として新製。28年1月汽車会社で改造。 50年3月西明石区(大阪緩行線)で廃車。台車はDT15。(47-3-12 大阪)
 

クモハ73247/22年汽車会社でモハ63667として新製。27年10月東急車両で改造。 50年11月津田沼区(総武・房総・成田線)で廃車。(47-12-1 )

クモハ73273/23年汽車会社でモハ63771として新製。27年12月東急車両で改造。 52年3月武蔵中原区(南武線)で廃車。台車はDT15。(50-3-23 稲城長沼)
「稲田堤」の行先板は珍しい。

クモハ73287/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年1月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 下馬)


クモハ73295/23年川崎車輌でモハ63692として新製。28年2月日本車輌で改造。 49年12月鳳区(阪和線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 )
 

 クモハ73297/23年日本車輌でモハ63776として新製。28年2月日本車輌で改造。 55年7月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。(48-4-30 東塩釜)


 
クモハ73301/21年日本車輌でモハ63267として新製。28年5月日本車輌で改造。 52年8月鳳区(阪和線)で廃車。(47-12-10 天王寺)

クモハ73331/24年汽車会社でモハ63825として新製。28年6月汽車会社で改造。55年5月陸前原ノ町区(仙石線)で廃車。台車はDT15。(48-4-30 下馬)
 

 クモハ73337/24年汽車会社でモハ63801として新製。28年7月汽車会社で改造。53年8月弁天橋区(鶴見線)で廃車。(47-2-20 大阪)
 
 クモハ73403/25年川崎車輌でモハ63857として新製。当時新製されていた80系(湘南形)70系(スカ形)と同レベルで製作されたため、特に改造されることなく、28年6月改番。モハ63形出身の73形のラストナンバーであった。50年3月淀川区(片町線)で廃車。台車はDT14。(47-12-10 住道)


【近代化改造車】
モハ63形出身のクモハ73形、モハ72形が老朽化してきたため、昭和37年から大規模な改造が行われることになり、クモハ73形、モハ72形各44両と、ローカル線転用に伴うクモハ不足に対応するため、モハ72形に運転台を取付けクモハ73形500番台に改造する工事が20両実施された。外板の張替え、車内化粧板のメラニンプラスチック化、窓の2段化とアルミサッシ化等が実施され、見違える程になった。こちらについてもクモハ73形の一部のみ紹介する。
また、これらの改造以前に、昭和35年吹田工場で試験的に改造された車両についても紹介する。

クモハ73001/昭和35年12月吹田工場で実施された試作整備改造車。経歴は21年日本車輌でモハ63143として新製。27年3月吹田工場で改造。60年6月広島区(可部線)で廃車。(41-8-25 京都)

   クモハ73233/昭和36年4月吹田工場で実施された整備改造車。経歴は22年日本車輌でモハ63579として新製。27年9月東急車両で改造。51年4月淀川区(片町線)で廃車。(48-11-3 京都)
 
 クモハ73020/22年近畿車輌でモハ63506として新製。27年3月吹田工場で改造。40年2月鷹取工場で近代化改造。52年2月淀川区(片町線)で廃車。(48-2-4 住道)
 

クモハ73024/22年日本車輌でモハ63515として新製。27年11月吹田工場で改造。38年6月吹田工場で近代化改造。55年10月沼津区(御殿場線)で廃車。(47-3-1大阪) 

クモハ73028/22年川崎車輌でモハ63562として新製。28年3月吹田工場で改造。38年10月吹田工場で近代化改造。54年11月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)
 

クモハ73045/22年汽車会社でモハ63711として新製。27年10月吹田工場で改造。40年2月浜松工場で近代化改造。51年10月淀川区(片町線)で廃車。(48-7-15  住道)
 
 クモハ73114/23年近畿車輌でモハ63845として新製。28年6月汽車会社で改造。40年11月鷹取工場で近代化改造。55年5月沼津区(御殿場線)で廃車。(49-4-27  沼津)

  クモハ73359/23年汽車会社でモハ63759として新製。28年5月汽車会社で改造。38年2月吹田工場で近代化改造。54年9月沼津区(御殿場線)で廃車。(42-6-8  京都)
 
 クモハ73517/22年汽車会社でモハ63759として新製。28年3月豊川分工場で改造してモハ72231となる。42年3月大井工場で近代化改造と運転台復活。53年2月武蔵中原区(南武線)で廃車。(50-3-23稲城長沼)


ジュラルミン電車から全金属車に改造された車両と事故復旧時に全金属車に改造された車両、103系と同様の車体に乗せ換えた車両等については、機会があれば紹介したい。

2012年 春の中国鉄路の旅 Part14  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その3

今日は、まだ樺南林鉄撮影の3日目ですが、最終日です。昼前には、ハルピンに向けての帰路となります。小竹先生から、そしてO氏からも、まだこれからの旅の予定を決めておられないようであれば、我々の代表として残って、樺南林鉄の最後を見届けることも、選択肢の1つに加えて欲しいとのお話がありました。今回は、前回の44日間とは違って東北地区に絞って、国境沿いを回る乗り鉄旅をゆっくり楽しもうと思っていました。既に6日の满洲里行き、11日帰路のハルピン着までの切符は購入済ですので、11日以降に樺南林鉄への再訪問は、可能です。

多くの訪れる鉄ちゃん達を魅了した樺南林業鉄路です。ウヤが日常的でまた長期間に及び、中々運行に巡り合えなかった林鉄でしたが、今回は撤去完了日までの運行は確実です。どうしようかなと思案が続いていました。そろそろ結論を出さねばなりません。迷った挙句は、撤去最終日に何らかのイベントが実施されるようであれば再訪問、なければ皆さんと一緒に撤去途中ではありますが、見送った思い出を大切にしようと思いました。
王さんに林業局の偉いさんか、現地で運行に携わられた方々参加のイベントがあるかどうかの問い合わせをお願いしました。この返答次第で、今後を決めることにしました。

 

第17日目 5月5日 樺南林業鉄道撮影 3日目

今日も朝6時にロビー集合です。今日は昼までということで、 陀腰子までの区間で撮影で、バイクに乗っての山入りはありません。真っ直ぐに、樺南駅機務段に向かいました。
6:15、今日の1番列車の牽引は、3日間連続の168号機です。
ここで、柏崎からお越しのTHさん、町を歩いて郵便局や国鉄樺南駅に行ってみたいと、皆さんと別れて行かれました。THさんは、中国語を全く話せません。ちょっと心配な小竹先生は、携帯電話を渡されていました。でも鉄ちゃんは、このくらいの好奇心がなければいけませんね。私も中国語は少ししか話せませんが、いつもこんな調子でぶらりと大地の町々を歩いています。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part13  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その2

16日、最後の訪問地長春から、夜行寝台列車Z62次で北京へ、翌17日朝、北京からは昨年開通した京滬高速鉄道の商務車(グランクラス)に優雅に初乗車して、上海まで南下しました。上海から直ぐにJAL便に搭乗し、一昨日深夜の0時前に無事帰還いたしました。珍しく寝ずに待っていた家内の第一声は、「お帰りなさい。あらまあ、随分と引き締まった身体になったねえ! ぶよぶよ老人だったのに、お尻も上がって、足の筋肉はバリバリに硬くなってるよ! 凄いね。でもお腹は、元のままだねぇ。」 でした。毎日欠かさず、水代わりに何本も飲んでいたビールのせいですね。前回の44日間に続いて、今回も29日間に及ぶ長い旅でした。当分は、撮影写真の整理と投稿を続けながら、身体を休めます。

 

第16日目 5月4日 樺南林業鉄道撮影 2日目

今日は、ロビーに6時集合して、直ぐに樺南林鉄の起点の樺南駅へと向かいます。

▲ 今日の6:30の始発作業列車は、昨日同様に168号機が務めますが、機務段(機関区)から044号機も出てきて、デルタ線での方向転換に向かいました。両方とも動くようです。

▲ 6:38、市内の道路併用軌道には、作業員の乗る停車場がありました。ここで作業員数人を拾って、離合が出来る大金缸駅で途中停車してから、12.5キロ先の下樺駅へと向かって行きます。私達も後を追って、追い抜き、適当な場所での撮影ですが、今日は朝から厚い雲が覆っていて、芳ししカットは撮れません。

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本日の185系(157系色+湘南色)

本日のあかぎ4号の新前橋から上野9:41着と あかぎ1号上野19:00発の新前橋までと 関連の回送列車はOM08(157系色)とOM03(湘南色)の14連でした。185系の14連の運用はこれしかありませんので なかなかこの編成の組み合わせはお目にかかれません。運用をたどり今日こそと東十条で写してきました。18:40にやってきました。19:00上野発のあかぎ1号を写したいのですがは暗くてきびしいのでその前の回送列車です。雰囲気だけでもお楽しみください。


上野に向け快走(回送)中

左 OM03( クハ185-306)  右OM08(クハ185-214)です。

本日吾妻線で651系7連(K104)の試運転が行われたようです。近いうちに大宮の185系は655系に置き換わるようです。

山陽電鉄、標準軌間のモハ63型

モハ63、筆者にとって何とも懐かしい電車です。省線立花駅から三宮までの往復で何度も乗車しました。それから0番のキットを買い、初めて作ったのも、全長50cm近くのモハ63型模型電車でした。

尼崎から神戸に移住した1951年以後は、山陽電鉄700型としょっちゅう出会うことになりました。小学校校舎に接して北側が山陽電鉄東須磨駅です。5,6年生の時、我々は南側の教室でして、電車の見える北側教室がうらやましくて仕方がありません。よく北側教室に忍び込み、窓から駅を見下ろし、通過する700型などを見に行ったものです。

終戦後、国鉄同様私鉄も多くの車両を失い、輸送がままならぬ状況は諸兄ご存じの通りでした。国鉄で設計製造した63型を国鉄が一括発注し、私鉄に振り向けられた総数116両の内の20両(モハ63800-819)が山陽電鉄向けでした。その内の奇数番号車はクハでなく、モハの無電装車だそうです。製造は全車川崎車両。車両様式はモハ63型に準じているが、座席、天井、配線工事などの細部は、電鉄の注文に応じて改善されていたそうです。

山陽に入線当時、番号の内モハを取り、800-819をそのまま使用していたようですが、1949年700型700-719に改番されたので、筆者はその番号車を見ていません。また、入線時の窓は三段でしたが、のち二段に改造され、下側の窓には他の形式車両同様、保護棒が取り付けられています。また、下の写真717号車は未電装車ですので、屋根の先頭部にはパンタの設置予定スペースがそのままです。パンタ台はさすがに取り払われていますが。

初めて写真に撮ったのは、1960年9月モノクロでした。カラーは下の画像1962年1月が最初です。
この兵庫駅は1963年4月7日、神戸高速鉄道の開通にともない消滅しました。ここから西代駅までの約2km近くが道路併用軌道です。国鉄様式の大型車両が、電圧も軌間も異なる山陽電鉄に入線。その翌年に昇圧や駅ホームの延長など、幾多の困難を解消したとはいえ、道路併用軌道を走り、その上に長田では神戸市電と平面交差するのですから、それはそれは大変な事柄だったのです。

こちらは、姫路市の女鹿-白浜の宮間。筆者が正月に山陽電車を撮影する時はカラースライドでした。直線の多いこの区間は静かな播州米の産地でもありました。この辺りではさすがの大型車両でも様になります。

翌年の正月、須磨浦公園を過ぎて塩谷に向かう途中です。昔、右手石段組の坂道を上ると、藤田ガーデンがありました。今は失くなりましたが跡地に大きなマンションが建ち、当会の有名なお方が住んでおられます。

山陽に来た20両の内、2両を西代車庫の火災で失いましたが、18両が健在で撮影時にも頻繁に出会いました。
戦後の混乱期の電鉄に、大いなる貢献を果たしたモハ63型700形式ではありましたが、他形式へ転換車などを除き、老朽化が進み、20数年の活躍の後に、1969年までに廃車されました。

山陽電鉄とは無関係ですが、モハ63の話題のついでに、ジュラルミン電車のことを少し。

1946年川崎車両においてジュラルミン電車6両が誕生しました。モハ63400-402(電装して蒲田電車区に配属時は、モハ63900-902と附番された)、サハ78200-202です。下の写真は川崎車両の完成時の公式写真です。
(『蒸気機関車から超高速車両まで-写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-』、川崎重工車両事業本部、平成8年、交友社)より。 材料は終戦で不要となった航空機用ジュラルミン10万トン活用の一端として車両製造に向けられたものです。ただ、無塗装であったため、腐食が進み、のちに塗装されたり、全金属車に改造されています。(『国鉄電車の歩み』、交友社、『電車のアルバム』、交友社を参照)

アルミニウム金属を主体に、第二成分として銅を混ぜた金属アロイ(合金)がジュラルミンです。新幹線車両をはじめ、最近の車両に使用されるアルミ合金はアルミニウムに、第ニ成分にマンガンを、第三成分にシリカを(6N01)、もしくは亜鉛を(7N01)のアロイです。こうしたジュラルミンは立派なアルミニウム合金ですし、『ジュラ電』はアルミ合金製車両の先駆車でもあると筆者は考えます。勿論台枠は鉄、内装材に一部木材も使用され、オールアルミカーではありませんでした。オールアルミカーが誕生するのはジュラ電から16年後、山陽電車の2012+2505+2013です。やはり川崎車両製でした。これはオールアルミカーの第一世代車と呼ばれています。そして現代の新幹線車両などは第四世代のオールアルミカーと呼ばれています。調査事項も含め、この辺のことは、別の機会に稿を改めます。

コメント投稿機能の不具合について

こちら管理人の小西です。
先月末より、特定のユーザからコメントが投稿できないという不具合が報告されています。当初はよくあるスパムフィルタの検閲によるコメントブロックを疑いましたが、検閲リストに該当コメントが残っていないため、原因は異なるようです。

他にも調べてみたのですが、残念ながら現在原因不明です。drfc-ob.com開設からかなり時間が経過しており、掲示板のバージョンも古くなっているため、現状改善を願って最新版にアップグレードしてみる予定です。
アップグレードに伴い、掲示板の投稿画面の仕様(見た目など)が微妙にかわる可能性がありますが・・・悪しからず。

2012年春の中国鉄路の旅 Part12  小竹直人企画「最後の樺南林業鉄道、撮影ツアー」その1

第15日目 5月3日 樺南林業鉄道撮影 1日目

ようやく今回の旅も半ばとなりました。昨夕合流した今回のツアー参加者は、7名です。リーダーの小竹直人先生の他に、通訳兼案内人の中国人の王国軍さん、紅1点のアシスタントの王森玲さんを入れると10名になります。
参加者の方々は、 新潟の柏崎市からお越しのTYさんを除いては、中国鉄ちゃん歴が長い方ばかりで、大先輩です。TYさんも訪中は何回かされておられますが、中々鉄道撮影の機会がなかったと話されていました。

教えてもらう事が多い旅となりますが、昨日早速に愛用NIKON300Sの具合が良くない。明るい所でもピントが合わず、シャッターが切れないので困っていると相談しましたら、同じNIKONを使っておられる小竹先生はじめ、STさん、NHさん等から、「今どんなセッティングをされていますか? ふむ、ふむ・・、それなら、このようにした方が良いです。・・・どうですか?」 と、懇切丁寧に教えていただきました。教えてもらったセッティングに変えますと、あら不思議!、今迄が嘘のように快調にシャッターが切れるようになりました。ツアーに参加しますと、今迄知らなかった事( と、いうより不勉強 ) を、教えていただく機会にもなります。参加の大きなメリットの1番目でした。

フイルムカメラ時代は、使用するフイルムの選択、シャッタースピード、絞りのマッティングと、レンズやフィルターの差し替え等が、テクニックでしたが、デジタルカメラとなってからは、誰でもオートで、それなりの写真が撮れるようになりました。もっと描写を必要と望む人には、数々のセッティングを選択することが出来ます。しかしそれには、カメラの持つ様々の機能を熟知する必要があります。残念ながら、ボケが入ってきた老人には、教えてもらって、また勉強しても直ぐに忘れていきます。困った事ですが、乗り越えないと、狙ったカットは撮れないのでしょうね。、

昨夜の睡眠時間は、わずか約4時間弱でしたが、みなさん元気に朝7時半には1階ロビーに集合して、チャーターバスに乗車しました。

▲ 7:38、樺南林鉄の始発駅に到着しました。作業列車は、6時半頃に出ていましたが、機務段(機関区)には、C2-044号機が息づいているのが見えました。

▲ 先に出た列車を追いかける事になりました。8:25、樺南ファンには有名な、陀腰子の肉屋自宅に到着、ここで持てない不要な物は預けて、バイクに跨ります。私は、台湾と芭石鉄道での経験はありますが、怖くて不安です。8時30分過ぎには出発しました。


▲ ここからは、線路沿いの狭い犬走りを山に向かって一直線に走ります。橋があると、降りて渡れば、また乗ります。犬走りも左から右へ、また左へと走路を替えますので、その度に降りて、乗るの繰り返しです。

▲ 山に入ると急坂ですので、降りて上がり、また乗ってカーブが続く犬走りを快走します。走行スピードは、30~50km/hと、スリル感は満点です。怖い私は、必至でしがみ付いての乗車でした。
樺南はご覧のとおり、新緑にはほど遠く、雪解けが終わったばかりです。所々に残雪がありました。泥濘道も多くなってきました。時々、後輪がながれるので、ヒヤヒヤです。降ろしてもらって歩きます。
9:25、ようやく待ってもらっていた作業列車が見えました。峠の立新駅に到着です。


▲ 今は勿論使われていない 立新駅舎です。1974年の表示がありました。右は、休憩所です。かつて撮影華やかだった頃には、雑貨屋があって、奥の部屋は、泊まれる民宿になっていたそうです。最初は、2食付で50元(約650円)だった宿も、鉄ちゃんが押し寄せるようになってからは、100元、150元と値上げしていき、最後の頃には300元(約3,900円)にもなったと、小竹先生は言われていました。ここに何泊もされているO氏は、ひどい時はギシギシで詰め込まれて、身体を横にしないと寝れなかった。みんなは、ここを立新貧館と呼ぶと、分りやすい説明を入れてくださいました。


▲ 作業列車は、C2 +カブース+レールバス+貨車3両で編成されていました。このレールバスは、個人経営で線路を借りて、客を乗せて運行していたそうです。片運転台で、シートは木張りのクロスシートです。


▲ 9:30、給水を終えたC2-168号機は、ゆっくりと撤去作業現場へと推進運転で下りて行きました。

▲ 作業列車を見送った後は、
樺南方向から、もう1台の044号機も上がって来ます。王さん、下山してカマに乗り込み、煙演出をお願いします。11:57、王さんを乗せた044号機が上ってきました。煙のサービスです。この後2回も、フォットランをしました。


▲ 手前に引きつけてのカットを望みましたが、止まってしまい、先ほどまで我々の傍から離れなかったおじさんを乗せて立新駅に上がっていきました。どうしたのと聞きましたら、樺南名物の「おねだり」です。自分には何も行き渡らなかったので、こちらに来たわけです。タバコを渡して、一件落着ですが、ここまでくると、もう駄目ですね。おねだり癖が染みついています。


▲ 12:55、再び立新駅まで上がりますと、機回しを終えた044号機は、給水です。しかし、良く給水設備を残してありましたね。石炭は、貨車に積んでも運べますが、水は大量に必要ですから、なければ走れません。


▲ 14:07、044号機は、道床から剥ぎ取った枕木を積んだ貨車を牽引して、山から降ろします。O氏お奨めの場所に行って、全員で撮りました。

15:40、今度は、立新から先の撤去現場最前線に行く事になりました。初めて私が先頭になって、下ります。10台もバイクが犬走りを走るのは、壮観です。
しかし、途中でレール切り作業を終えたおじさん、おばさん4人が、ボンベを犬走りに置いて待っていますので、通れません。
もうじき引き揚げ列車が来るので、もっと手前で撮りなさいと言われました。
私には、どこが良いのか分りませんが、この地での撮影経験者ばかりです。誰かが、「じゃあ、あそこにしましょう。」と言えば、すぐに「そうだな、あそこがいいなあ。」 と、直ぐに相槌が返ってきます。最後尾のバイクが、反対方向に向きを変えて、もと来た道を上がっていきました。

▲ 16:10、作業を終えた工事人達と、剥がしたレール、枕木を積んで列車がやってきました。春が来たとはいえ、まだ冬枯れの山に白樺の白さが引き立ちます。これが、樺南だったのですね。ただ、これで白煙でも良いので、出てくれば最高ですが・・・。


▲ これで引き揚げかと思いましたが、まだまだ追っかけがありました。立新駅での給水作業中に追い抜きました。撮影場所は、みなさん好みでバラバラになりましたが、私は小高い山に登って、立新駅をバックに入れたカットにしました。斜光には、逆光でしたが、山里の駅を出て走る雰囲気は出ました。煙があると、もっと良いのですが・・・。

▲ 陀腰子のこの村には、悲しい物語があります。開拓団のみなさんが、遠く故郷を思い浮かべながら、家の門は鳥居形にしました。今も残り、鉄製の新しい門までできていました。O氏からもお話を聞きましたが、投稿しています中国では、こういったプログや歴史については、アクセスが出来ないようになっていますので、また改めて調べて掲載します。

▲ 今日は、素晴らしい夕焼けが見られると期待して、追っかけを続けていただきましたが、追い抜けたのは、樺南市内に入ってからで、断念しました。


▲ 19:15、一旦ホテルの部屋に荷物を置いてから、夕食です。今夜は、羊肉しゃぶしゃぶ食べ放題、飲み放題です。王さんにタレのブレンドを各自頼んで、肉を鍋に入れますと、瞬く間になくなってしまいます。男9人ですから、食べるのは早い早い、ゆっくりビールも飲ませてもらえませんでしたが、追加、追加でたっぷり食べ、白酒もたっぷりといただきました。鍋の閉めは、鄭州で見たフィ麺ではありませんか。
明日は、早いので早くに部屋に戻って、即睡眠でした。   Part13  へ続く

 

2012年春の中国鉄路の旅 Part11 阜新からハルピンへ 小竹直人ツアーに合流

第14日目 5月2日  阜新からハルピンへ、そして樺南へ

① 阜新7:10(K7357次)→9:54瀋陽北 173キロ 2時間44分
② 瀋陽北11:31(T311次)→16:12   546キロ 4時間41分
③ ハルピン(チャーターBus)→2:52樺南賓館

今日は、鉄道写真家「小竹直人」先生のプロモートされたツアーに合流して、初めてで最後になる樺南林業鉄道ナローゲージへと参ります。この鉄路は、既に営業自体は終わっていて、線路の撤去作業のため蒸気機関車が復活運転をしています。大変珍しく、また貴重な撮影になろうかと思われますので、期待感一杯です。
▲ 4泊しました、阜新の中林国際酒店です。良い部屋でした。
6:20にホテルを出て、Taxiに乗って阜新駅へと向かいました。阜新駅では、11日の切符を買わなければなりませんが、售票処に並ぶと8時からの売り出しですと言われてしまいました。瀋陽北駅でも時間がありますので、大丈夫です。


▲ 阜新から瀋陽北までの列車は、阜新~北京北で使用された列車の間合い使用です。サボはそのまま、軟座車は、軟座寝台をそのまま使っていました。瀋陽北から乗車したT311次は、ハルピンまでに停車するのは、長春のみ。客車列車でありながら、140km/hで快走し、平均速度は119km/hの速さを誇ります。昼間でありながら、軟座寝台扱いで、RW19Kが使用されていました。通電もしていました。 続きを読む

2012年 春の中国鉄路の旅 Part10 興阜炭鉱のナローゲージと、阜新煤礦鉄路その3

第13日目 5月1日 興阜炭鉱のナローゲーと阜新煤礦鉄路 その3

今日は、阜新炭鉱撮影の3日目で最終日ですが、2人とも満足いく収穫がなく、ちょっと焦り気味です。天候は、昨日とは違っての快晴です。気合十分なO氏は、今日も朝5:30にはホテルを出て行かれました。一方の私は、まだ長い旅の中盤にも差し掛かっていません。ここで、エネルギー爆発では、身体が持ちませんので、ゆっくりとホテルで朝食を取ってから、谷さんを待ちました。

以前に訪問された中国鉄路に残る蒸気機関車探索にかけては達人の倉重さんは、阜新訪問時に興阜炭鉱のナローゲージにも、お立ち寄りでした。その訪問記によると、高徳駅の裏山奥に興阜炭鉱があるようです。
▲ 8時過ぎに、谷さんの愛車に乗って、ホテルを出発しました。五龙炭鉱のような大きな炭鉱とは違って、個人経営の小さな炭鉱が点在する中の山道を走りながら探します。迷走もありましたが、途中で谷さんが、ズリ捨て山に上がる1本の長いインクラインを見つけました。


▲ ご覧のように、数100m以上もあり、先が見えません。止まって
、反対方向のインクラインの起点を塀越しに見ますと、五龙炭鉱で見たと 同じ凸型の小型電気機関車が走っているのが見えました。ここです。間違いありませんが、炭鉱内にどうやって入れるかが問題です。 続きを読む

国鉄クモハ73=ロクサン

この連載も63回になったそうです。そのせいかどうか、今回はあの63の登場です。私には環状線(城東線)で活躍したオレンジ色の仲間を思い出されます。皆さんはどんな思い出をお持ちですか?

2012年 春の中国鉄路の旅 Part9 阜新煤礦鉄路 その2

第12日目 4月30日  阜新煤礦鉄路 その2

朝5時半、待ち合わせの時間通り、谷満春さんは愛車に乗って、迎えに来てくださいました。既に連絡をいただいていましたが、朝の上遊型蒸気機関車牽引の通勤列車だけでなく、昼間のDL牽引の列車も2週間前になくなり、今日現在も復活していないとのことです。もしかしてと少し期待感があっただけに残念ですが、仕方ありません。各地の炭鉱で走っていた通勤列車は、突然にこのようにして、なくなっていったのでしょうね。

▲  今日は足があるので楽です。早々に五龙炭鉱ズリ捨て線へと向かいました。迂回道路は、昨日私たちが乗った白タクのルートでよく分っています。途中で谷さんは、車を止めて、内側線の様子を見ています。何とズリ満載の貨車5両が置き去りにされています。これでは、次の列車は内側線には、入線不可です。 昨日同様の外側線に行くしかありません。

▲ 6:06、今日撮影の1番列車は、早々にフライアッシュ号です。昨夜のスッポンが良かったのでしょうか。朝から縁が良いですが、おいおい、またドスンで終わりです。また、がっくりです。 これには、谷さんも「え~、こんな事は初めてです。どうして?」 と、信じられない表情です。今日は、全車のお皿を傾けてのFA排出でした。 そして、今日は天候がよくありません。暑い雲に覆われて、風も強く、時折小雨が舞ってきます。

当分、フライアッシュ号は来ませんので、興阜炭鉱に走るナローゲージ撮影にしましたが、谷さん何を勘違いしたのか、3月に行って入れなかった五龙炭鉱内へと案内します。希望した場所は、ここではないと言いますが、すでに炭鉱内の職員とコネをつくってしまっています。困りましたが、仕方なく付いていくことにしました。原因は、谷さん地元鉄ちゃんなのに、興阜炭鉱に走るナローゲージを知らなかった事のようです。


▲ 炭鉱内は、外の周囲の光景とは一転して、とても綺麗です。O氏も 「随分と違うなあ、周りはどんなに汚く汚れていても、自分たちの働き場所だけは、綺麗にするのは、いかにも中国的だなあ。」 と、感心しておられました。私も、駐在時代に中国人の家庭に招待されましたが、ボロボロに近いマンション?でも、一旦部屋に入ると、随分と金をかけて、綺麗に豪華にしているのを見て、びっくりしましたので、このアンバランスは、よく分ります。
ヤードには、ナローゲージには珍しいクレーン車がいました。屋根に乗って、パンタの補修をやってますが、まさか通電していないでしょうね。小型凸型電気も初めて見ました。



▲  坑道用のバッテリーカーと
トロッコ達です。木材は坑道に使用されます。一応踏切もあります。注意マークは、汽車と違って凸型電気です。
炭鉱内では、カメラは厳禁です。 リーダーに見つかると処分されるので、決してみんなのいる所では見せないように注意を受けての撮影でした。

▲ 次のフライアッシュ号はいつ来るかです。谷さんは、FAを搬出する発電所に行ってみようと向かいますが、高徳駅から分岐した線路沿いに道路はなく、発電所正門からの出入りは部外者禁止です。
9:56、平安ヤード方面から推進運転で、ズリ捨て列車がやってきましたが、ここで機回しをして正向きに付け替えて、新邸方面へと向かって行きました。どこに行くのでしょうか?


▲ 谷さんの愛車はマツダファミリアですが、大きい割に1600㏄で非力です。それでも頑張って、ぬかるみあり、泥水の溜った穴ぼこだらけ、急坂ありの凸凹道を一生懸命のハンドルさばきで切り抜けましたが、夕刻には朝の美形が台無しになるほど、泥だらけになっていました。
12:50に朝からの場所に戻りますと、内側線に置かれていた列車は、ありませんでした。代わりに保線区員が大勢来て保守工事をやっていました。
12:57には、ズリ捨て列車が上がってきましたが、1両には何やら異質な物が満載されています。お皿が傾くと落ちてきたのは、ゴミばかりです。斜面が汚くなってしまいました。これでは、撮影に差支えます。ゴミ捨て列車は御免です。

列車が下って、しばらくの間は、外側線にも保線区員がやって来て、線路保守をちょっとやって帰っていきました。O氏は、「ここに来るのが仕事であって、保守はやってやらなくても関係ないんだろう。」 と、言われます。確かにその通りと相槌を打ちました。
外側線の撮影に丁度良い所からは、埋設されてしまった石炭が燃えて、いくつもの煙が出ています。そばによると、下からの熱気が伝わってもきます。やかんを置けば、湯が沸きます。
▲ 16:22、やっとフライアッシュ2号のご到来です。今度はこんもり山がありません。期待できます。
しかし、周囲の状況は刻々と悪化して、強風と巻き上げられたFA等々で、
視界は、さらに悪化してきました。

まず1両目が始まりましたが、少し巻き上がっただけでした。
4両目だけが舞い上がりましたが、3月に見たのは、こんなちゃちなもんではありません。まだ、FAが湿っているようです。
この頃から、カメラの調子が悪くなって、ピントが合わずシャッターボタンが押しても切れません。シャッターが切れても、ピンボケ状態ですので、オートフォーカスを手動に切り替えての撮影にしました。

こんな天候では、夕焼けもありません。今日は、フライアッシュ号も来ませんので、今日は、撮影終了です。 谷さんが薦める羊肉しゃぶしゃぶ屋へと向かいました。

▲ 阜新には、美食を求めてきたわけではありませんが、美味しい羊肉しゃぶしゃぶは、日本ではめったに食べられませんので、2人とも大満足です。

明日の予定ですが、谷さん今日の汚名挽回に 、自分も行った事がない、興阜炭鉱に走るナローゲージを一緒に探しに行くと言ってくれました。O氏は走行する蒸気機関車撮影に一辺倒ですので、明日午前中は、別行動としました。     Part10  へ続く

 

お山はシャクナゲが満開でした

5月11日、墓参りに行きました。新緑と共に、お山はシャクナゲが満開でした。お寺のシャクナゲは、庭と山の斜面の花々が揃って咲き、ここ10年で最高に豪華な佇まいでした。鉄道写真の中に、偶には花などもいかがでしょうか。

そして帰りには、例によって登山電車の撮影です。極楽橋駅そばの極楽橋の塗り直しが行われましたので、今回は橋を題材にしました。新緑の中、目にも鮮やかな朱色の橋です。待つこと20分ほど。ちょうどよく、こうや7号が上ってきて、入れ替わりに天空4号が下ってゆきました。

 下は、新緑に包まれた極楽橋駅の外側です。この駅の下車は初めてです。たった一つの自動改札機を通り抜け、180度反転して写真にある道路を行きました。写真の手前うしろ方向に極楽橋があります。写真左が高野線駅ホーム。右がケーブル乗り場。正面は、進行方向を直角に折れ曲がりケーブル乗り場に向かう回廊です。橋になっていたのは外に出て初めて分かりました。

昨年から、橋本-極楽橋駅間の駅名票が新しくなりました。10駅あるのですが、撮れたのは、停車中に撮れた3枚だけでした。車内の扉上部の案内板と共に、3駅を並べてみました。駅ごとに夫々の海抜が表示されています。残りの7枚は、来年のこの時期に撮りますので楽しみにしてください。

 

 

2012年 春の中国鉄路の旅 Part8 阜新煤礦鉄路 その1

書き洩らしましたが、昨夜から泊まっているホテルでも問題を抱えていました。O氏と一緒ですので、訪中前にホテル予約を済ましておかねばと、一般的な海外ホテル予約サイトにアクセスしましたが、中小都市ですので、扱いがありません。それではと、現地で日本語対応が出来て、中小都市でも検索できる楽旅中国に紹介依頼メールを出しました。宿泊時に問題が出た場合、直ぐの苦情対応ができますので、最近よく利用しています。
すると、1軒だけ、キングベットで紹介してきました。いや、紹介ではなく部屋が取れましたとの確定です。いかにも、中国のサイトです。おいおい、いろいろと星等級別の各ホテル・部屋の料金を聞きたいのだ。まだ確定ではない。それに、宿泊は1人ではない、男2人だからツインでないと困ると、返信しました。しかし、労働節連休で他のホテルとも満室で、この部屋しか空いていませんとの連絡です。交渉の結果、4泊のうち2泊はツインになりましたが、後はホテルに着いてからの対応を余儀なくされました。O氏も貞操の危機だと心配しておられます。

チェックイン時に、その旨をフロントいる若いお姉さんにに伝えると、「分りました。大丈夫です。4泊とも同じツインの部屋でお泊りできます。」との日本語の返事が返ってきました。ほっとしたと同時に 「え~」 と、2人ともびっくりです。北京や上海等の日系ホテルとは違って、ここは普通の日本人なら名前も知らない東北の田舎町です。国際ホテルとは名乗っていても、日本語対応が出来るフロントマンがいるとは、考えられません。
聞けば、1年間日本にいましたと言われます。 どこにおられたのですかと問いますと、何とシシャモで有名な北海道の鵡川で、ジャガイモの芋掘りをしていたと返答で、納得です。所謂、海外からの農業実習研修生として、働きに来ていた中国人だと分りました。

チェックイン後にも部屋まで案内してくださり、食事をしている間も気を使ってくれていました。ありがとうございました。

第11日目 4月29日  阜新煤礦鉄路 その1

今日から、阜新炭鉱撮影開始です。3日間を予定しています。内、30日だけは、朝の蒸気機関車が牽引する通勤列車を追っかけ撮影と、前回連れて行かれなかった興阜炭鉱に走るナローゲージも撮りたかったので、前回の案内人、阜新地元鉄ちゃんの谷満春さんに一日案内をお願いしました。
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2012年 春の中国鉄路の旅 Part7の2 平庄から阜新へ 改签大騒動

只今、この旅も終盤に近づき、今日は北朝鮮国境の町「图们(図們)」からの投稿です。もっとアトランダムに投稿したいのですが、途中でネットはあっても遅すぎたり、途中で切れたり、ど田舎に行くと、ネットがないホテルがあって一向に進みません。お許しください。
今日は、今回の旅の中でも1番の快晴です。図們江を挟んで北朝鮮が真近に見えます。対岸の鉄路に何か通らないかと思って来ましたが・・・。詳細は、紀行記で掲載させていただきます。

第10日目 4月28日  平庄から阜新へ
平庄10:35(4210次)→17:35阜新  337キロ 7時間

今日は、平庄から次の撮影地、阜新炭鉱へと向かいますが、乗車前に問題をかかえていました。問題は、昨日買った切符です。2枚の注文に1枚しか発券されなかったので、直ぐにもう1枚を買い求めましたが、ホテルで落ち着いて確認してみると、乗車号車が異なっています。同じ車両なら、人民がよくやっているように、別の人の座席と替わってもらえば済む事ですが、号車が違うとまず無理でしょう。残席情報では、座席は殆ど埋まっていません。少し早めに駅について、発車前にまた改签をしてもらえばいいだろうと安易に考えていました。

発車1時間20分前の9:15には平庄駅に到着しました。平庄駅は1日上下各5本の列車しか発着しません。朝発車する列車は、5:37・8:08・8:41・9:03で私たちの乗車する列車は、10:35と間合いがあって、售票処は空いています。昨日のように他の客に迷惑をかけることはないだろう、余裕で切符交換が出来るだろうと、售票処に参りました。
上手くしゃべれないので、改签と書き、同じ号車に換えて欲しいと頼みました。ところが駅員は、理解できず何やら説明をしますが、さっぱり分りません。何度同じ事を言ってもダメです。横から人民が助け船を出してくれますが、これも分りません。

こんな時は、鄭州鉄道日記さんに頼めば解決できると思い電話をしましたが、応答がありません。困りました。最後の手段は、中国鉄道倶楽部の隊長さんです。電話をしましたら、直ぐに出ていただけましたので、時間があるかどうかを聞いてから、困難な状況を説明し、助けを求めました。電話を窓口の駅員に渡して、切符交換の希望を伝えてもらいますと、「8号車なら空席あるが、それで良いかと聞いていますよ。」との事です。それなら、問題ありません。隊長さんにお礼を言って、窓口駅員にOKですと言いますと、換えてくれました。
しかし、切符を見ると、5月7日の切符ではありませんか。どこでどう違ったのでしょうか?、話しがややこしくなりました。直ぐにこれは違うと言いますが、ぼちぼち次の列車の切符を買う客が並びだしました。こちらは打つ手がなくなり、パニック状態です。

▲ 騒いでいると、別の駅員が窓口外に出て、私たちの所まで来てくれました。再度一から、落ち着いての説明をやり直しますと、分りましたと言って售票処員に指示して、私たちの希望通りの切符を発券してくださいました。この間、わずか3分。トラぶっていた時間は約50分近く、いったい何がどうしてこんなにややこしく、時間がかかってしまったのでしょうか?
この駅員の方は、待合室まで案内くださり、改札になると私たちの乗車する号車のホーム位置までも案内いただきました。ありがとうございました。



後で、講義中で電話に出られなかったが、どうかしたんですかと電話をかけてこられた、鄭州鉄道日記さん、事の一切を話してみますと、トラブルになった理由が少し見えてきました。

1番目の問題は、硬座車の発券された切符の改签(切符交換)の規定を、私が知らなかったということです。日本では、座席の変更に空席があれば応じてくれますが、中国鉄路では、一旦発券された座席指定切符の変更には、応じてくれないのです。
そのため、車内で客どおしが席を替わってもらいたいと頼んでいるのです。中国鉄路に乗車された方なら依頼をされたり、他の乗客のやり取りを見られた方もおられるだろうと思いますが・・・。
ただ、前回軟座寝台の座席変更には応じてくれました。これは、上段から下段への変更でしたので、料金も違っているので問題なかったそうです。同じコンパートメントに出来たのも、たまたま、もう1枚の切符と同室寝台席が空いていたからのようです。

もし空いていない場合は、一旦持っている切符を5%の手数料を支払って払い戻し、また新たに切符を買いなおす必要性があります。ただし、これには微妙なタイムラグを生じますので、その間に全国どこかの切符売場で別人が買ってしまい、「残席0」となった場合は、切符が買えなくなる可能性もありますので、要注意です。だったら、先に新たな切符を買ってから、前の切符を払い戻せば良いと、言われる方もあろうかと思いますが、実名制切符制度の導入後は、同一人物では、同じ区間の同じ列車の切符は、発券出来ないシステムになっていますので、この方法での購入は、不可能です。

※ しかし、この完璧だと思われる実名制切符制度ですが、逃げ口もあります。駅員とダフ屋が結託すると、第3者の身分証を使って、切符を買い占めてしまうのです。発車15~30前に改札を開始する中国鉄路駅です。我先にと殺到する乗客を前に駅改札や、混んだ車内では、飛行機のチェックインカウンターように、一人一人の切符と身分証を確認している時間も、それに対応できる職員数も不足しています。また、姓名、身分証番号(外国人はパスポート番号)を印刷していない、切符を発行している例もありました。別人が乗っても一見分りません。後で駅員が切符を、乗車する本人名に変えることもできるかも・・・。
他にも、逃げ口がありますが、長くなるので別の機会にさせていただきます。 まあ、一言で言えば、「中国でできないことは、何もない!」 です。

2番目も私の説明不足です。ちゃんと希望の内容を紙に詳しく書いて見せなければならなかったということです。話言葉が分らない以上、まず文章で書いて相手に示して、こちらの希望内容を伝えるべきでした。

しかし、今回何だ彼んだ申しても、希望通りの切符変更が出来ました。これについては、「ぶんしゅうさんたちが日本人で、言葉が分らずで困っているのを見て、また老人でもあったので、見るに見かねた親切な駅員が、規定を超えての指示を出してくれたのでしょう。また田舎の駅だったので融通ができたのかも。」との鄭州鉄道日記さんの解説です。
「外国人、老人、田舎の駅、親切な駅員」が、解決へのキーワードだったようです。今回のトラブルは、規定を知らなかった事に起因しますが、もう少し中国語を勉強して、また手抜きせずに、詳細をきちんと書いて窓口に提出する、必要がありました。隊長さん、お忙しい時にややこしい事に巻き込みまして、申し訳ありませんでした。これからご迷惑がかからぬように、気を付けますので、お許し下さい。


▲ しかし、一件落着で列車に乗ると、ガラガラです。おまけに増結された硬座寝台(普通席扱いで使用)が2両もある長編成です。空いている席に座ってボックス席占領です。途中の駅から乗車した客は、自分の席が私たちに占領されているので、私の席ですと言って、譲ると直ぐに、空いている席に替わっていきました。これなら、あんな大騒ぎをせずにそのままの切符で乗っても、全く問題なかったようです。

▲  乗車すると労働節3連休で小旅行に行くという大学生が乗っていました。一人がO氏に話しかけ、日本人と分ると、みんなが寄ってきて大変な状態です。私は、黒河に行く時に同じ洗礼に合って、長時間質問攻めに会いましたので、O氏にお任せしていましたが、最後は結局フラれてしまいました。

列車は、途中で単線の交換列車遅延で遅れたようでしたが、ほぼ定刻に阜新駅に到着しました。
下車後は、真っ直ぐに予約してあった中林国際飯店にTaxiで向かいました。いつもでしたら美味しいものを探しに町に行くのですが、ホテル付近は開発区で近くに飲食街はありません。おとなしくホテル内で食事をとり、明日への準備のため早めの就寝です。今日は、精神的に疲れた1日でした。部屋は、ベットも大きく、バスタブもあり、広さは70平米以上と、休むには最高でした。  Part8  へ続く

国鉄八本松材修場について

山陽本線八本松駅と言えば西の箱根、補機の活躍の場としておなじみで 現在でも日常的に後補機の活躍が見られる数少ないスポットになりました。八本松駅の歴史を見ると 明治27年6月10日の山陽鉄道三原-広島間の開通に始まりますが、開通当初は上り列車の後補機を切り離す場所として、また下り貨物列車に車側制動機を取り付ける場所として作業員詰所が設けられたのが始まりです。ところが折角列車を停めるのであれば、旅客扱いをしてほしいとの地元の熱心な要望により、明治28年4月4日に正式に八本松停車場となりました。ただ駅前には一軒も家はなく、少し離れた西国街道に茶店がある程度の寂しい場所だったようです。

この明治27年7月には日清戦争が始まり、9月には 東京から鉄道で直行できる西端であり、宇品港を擁する広島に大本営が置かれ、明治天皇も広島に移り住まわれるという年でした。明治28年には陸軍第五師団の原村演習場が賀茂郡原村に設けられて、八本松駅が最寄駅となり、この駅の重要性が増したのです。この原村演習場は現在も陸上自衛隊海田市駐屯地の演習場として使われています。その後この演習場の近くに陸軍兵器補給廠八本松分廠も設けられて、八本松駅から2.1Kmの専用線が敷かれました。ただこの専用線の開通年月日は調べきれていません。

 さて八本松駅からもう1本の専用線がありました。昭和15年に海軍が設けた呉海軍軍需部川上弾薬庫専用線2.5Kmです。戦後昭和21年に米軍に接収され、昭和27年に正式に在日米軍の弾薬庫となり 極東最大の弾薬庫として今日に至っています。この弾薬庫線跡は山陽線の車窓からもよくわかり、紹介もされている(※)ので今回は割愛しますが、両専用線がはっきりと記載されている 国土地理院発行の1/25000地図(昭和27年7月印刷版)をご紹介します。

左側が弾薬庫線 右側が補給廠線

八本松駅から広島方向に時計回りに延びているのが川上弾薬庫線です。一方八本松駅から三原方向に南東に向かっているのが補給分廠線です。戦後川上弾薬庫が在日米軍の管理下になったのに対して、八本松補給分廠はその専用線、敷地、建物を利用して昭和23年2月に起工し 国鉄の八本松材修場となり昭和24年2月に開場しています。その後昭和28年4月まで設備の拡充が続き、一時は100人を超す人が働く工場になっていました。この材修場の主な仕事はロングレールの接合で、当時最先端であったフラッシュバット溶接を駆使してロングレールを製作し、広島、岡山、米子、門司、大分、熊本、四国、天王寺各鉄道管理局区内へ供給していたそうです。ただこの材修場はすでに廃止されています。いつ廃止されたのかなど詳しいことは調べきれていません。

 私が三原に移り住んだのが昭和50年、ときどき広島に行くときにこの専用線の廃線跡があるのは見ていたのですが、何の廃線跡かはわからず仕舞いのまま月日が流れ、最近になって県立図書館や東広島図書館でようやく正体をつかんだ次第です。さて八本松駅でこの専用線があったことがわかる痕跡を見ることができます。もともと八本松駅の駅本屋は北側にあって 下りホームには跨線橋を渡る駅だったのですが、駅の北側と南側をつなぐ道路橋の建設に合わせて橋上駅化され、駅南側が正面のように変わってしまいました。この橋上駅に上がると 今も下りホーム側にかなり広いスペースがあるのがわかります。これが専用線の仕訳線跡です。丁度15年前の平成9年5月に撮影した写真と、先週撮影した写真を並べてみます。上2枚が下り広島方、下2枚が上り三原方で それぞれ上が15年前、下が今年です。平成24年5月8日撮影

 

以前は3線がスルーしていましたが、今は駐車場になり、下り方に2線が保線用に残されています。上2枚の写真で自転車置き場になってしまっていますが、今も石積みの長いホームが残っていて、陸軍演習場に向かう兵士らが乗り降りしたのかと思われます。呉海軍軍人の回想録などでも呉から列車で八本松に向かい、原村演習場へ行ったという記述が見られます。それぞれの写真を見比べるとレールこそ無いものの、15年経っても殆ど景色が変わっていないのも不思議な気がします。

さてこの八本松材修場線跡をたどってみようとクルマを走らせましたが、それらしき痕跡、遺構は全く見つけられませんでした。専用線跡は殆どが宅地か道路になっており、また終端の材修場跡地はシャープの系列会社の工場や調整池などになっていました。新興住宅地でもあり、旧家も見当たらず 40年以上も前の様子を聞く雰囲気でもないため、取材はここまでとしました。 地図で専用線中ほどに線路が南側に少し凹んだ個所がありますが、そのあたりの写真だけを下に示します。材修場側から八本松駅側を見たところで ゆるくカーブした道路が線路跡と思われます。

昨今 廃線跡探訪はちょっとしたブームのようでもありますが、特に軍用線はその性格上写真なども少なく、謎が多いだけに気になる存在です。この材修場線については 「トワイライトゾーンマニュアル」No.8の昭和26年版専用線一覧表では 大蔵省(旧広島陸軍兵器補給廠)専用線との記載があり、一方の弾薬庫線は「トワイライトゾーンマニュアル」No.11の昭和28年版専用線一覧表で駐留軍八本松軍用側線と記載されています。

最後に私の中で未だに疑問として残っているのは、どんな車両が走ったのかということです。材修場線については 以前 三原から八本松駅に近づいてゆく車窓から 遠くの畑の中に架線柱と架線が見え隠れしたおぼろげな記憶があります。補給分廠のころはともかく 材修場時代にはロングレールを積んだチキを電気機関車が牽いていたとしてもおかしくはないように思えます。当時ならEF15あたりでしょうか?  さて問題は弾薬庫線の方です。こちらは古い写真を見ても架線はなく、弾薬庫に蒸気機関車が入るはずもなく、そうするとディーゼル機関車しか考えられないのですが、昭和30年代の広島地区のDLと言えば 呉にいたDD11ぐらいしか思いつきません。どなたかの写真で呉線安浦駅で撮られたDD11の写真を見た記憶がありますから、同様に呉から八本松へ回送されて来ていたのかとも想像していますが、時系列的に検証できていません。どなたかこのあたりの事情をご存じありませんか。引き続き調べてみようと思っていますが、ご存じの方は是非ご教授を。

(※)弾薬庫線の探訪レポートはhttp://ameblo.jp/sukebe-ningen/entry-10496279719.htmlに詳しく述べられています。

こんなん、出てきました。(2) 明延の一円電車

 両親が住んでいた家の物置を片付けていると、あやしいダンボール箱があって、開けてみると40年ほどたった鉄道模型の遺物がありました。このときはこのダンボール箱を発掘調査をせずに、次の日に発掘調査をおこなったのであります。すると模型の遺物だけでなくカラースライドの入った箱があり、調べてみると高校生の時に撮った写真がありました。中には親父が撮った写真があり、還暦をすぎたおじいが小学生の時の姿が写った写真もあったのです。鉄道の写真では全部を調べていませんが、とりあえず見つかったのは「明延の一円電車」「播但線のC57、C57とDF50の重連、キハ58か28の急行列車」「日中線の列車 喜多方駅と熱塩駅」などです。とりあえず「明延の一円電車」の写真4枚を・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上の写真をごらんのようにフィルムは退色していましたが、エプソンのスキャナードライバーソフトにある退色復元をおこなうと何とか見られるようになります。ただし、カビとかフィルム表面が傷んでいると、カビの部分が青くなったり、フィルムの傷んだ部分が赤くなったりして、あとは画像処理で修復しないと戻りません。実際にやってみると正倉院の御物の修復みたいで、このような作業も面白いものです。親父も写真が好きで会社の仲間とよく撮影旅行に行っていました。モノクロ写真もありましたが、カラースライド写真も多く、よく家で映写会をしていました。そのときの映写機とスクリーンもまだあります。親父は晩年に撮った写真のほとんどがリバーサルフィルムで撮影してプリントしていました。発色がいいのでしょうか。

 左の写真がスライドフィルムです。紙のマウントを使用しています。これはまだ固定されていますが、はずれているものもありました。これを見ても退色しているのがよくわかります。

 撮影に使ったカメラはペンタックスSPでフィルムは富士フィルムです。さくらフィルムも時々使いました。親父は桜の花や紅葉など華やかな被写体や赤系統の色調の写真はさくらカラーで、新緑の風景など緑系統の色調の写真はフジカラーと使い分けていました。 いま使っているCANON EOS10のフィルムカメラは親父が使っていたものです。ただし、レンズは新しく買ったものを使用しています。

 

 左の写真は当時の切符です。1円の切符は鉱山に勤めている人や家族の人が乗るときに使用する切符で、10円はそれ以外の人が乗るときの切符です。ゴム印で押したもので「明神電車」とあります。裏はなにもありません。

 なぜ、一円電車に乗ったかというと当時は鉄道友の会に入っていて、阪神支部の見学会に参加したためです。友の会の会報も残っています。また、雑誌鉄道ファンにある友の会のページにこのときの様子が書かれてありました。また、発掘調査後、埋め戻したので調べるためには再度発掘調査をしなければいけません。そのうち、また発掘調査をするでしょう。当面は遺物や御物の修復技術の習得に励みたいと思っています。

2012年 春の中国鉄路の旅 Part7の1 平庄煤礦鉄路 その2

第9日目 4月27日  平庄2日目

今日は、 撮影開始前に平庄駅に立ち寄って、切符を買わなければなりません。
① 4月27日 平庄→平庄南     K7384 次  1枚  O氏乗車
② 4月28日 平庄→阜新       4210次    2枚   O氏と私が乗車
③ 5月  6
日 ハルピン→瀋陽北     D102次    1枚  O氏乗車
④ 5月  6日 ハルピン東→満州里 K7059次orK7091次 1枚 私が乗車

は、昨年5月に来た時に眺望がすばらしいと、平庄南駅の裏山に2人で登ったのですが、いくら待っても列車は来ませんでした。O氏は最近、中国鉄ちゃんの集まりで、ここで撮った人の写真を見せてもらったら、かなり良かったとリベンジに燃えておられました。TaxiやBusで行くより、丁度良い時間に列車がありましたので、これに乗車です。
私は、五家炭鉱の路線や駅がどうなっているのか見たかったので、Taxiで向かうことにしました。午前中の撮影は、お互いの希望を尊重して、別々に行動することにしていました。

は、次の撮影地阜新炭鉱へと向かう2人の切符です。もっと早くに買っておきたかったのですが、ネットの残席情報では、なぜか「0」が並んでいます。始発駅の赤峰からは、1,000席以上の残席があるのですが、2日前(当日含む)にならないと、平庄からの残席はありません。ネット情報のミスかと思い、昨日も着いてすぐに平庄駅售票処で確認したのですが、「没有」と言われ、今日になりました。

は、 鉄道写真家小竹直人さんがプロモートされた「阿里河森林鉄道」のフォトランツアー(5月2日~6日)に参加後に、解散場所のハルピンから、日本へ帰国される飛行機の出る瀋陽へ向かわれるO氏の切符です。

は、同じく解散後にロシア国境の町満州里へと向かう私の切符です。

これだけの多種な切符です。間違いがあってはならないと、メモ用紙に分けて書き、售票処に2人のパスポートと共に提出しました。

ところが、ちゃんと書いたつもりでしたが、售票処駅員から「どの列車に誰が乗るのか?」と聞かれました。 あ~やっちゃいました。いつもは、同時にこんな多種な切符を買っていませんでしたので、名前まで書いていませんでした。ボケて頭が回らなくなっていた私のミスです。すみませんと謝って、再度説明して発券していただきましたが、受け取って確認すると、の切符が1枚しか発券されていません。今度は、駅員のミスです。もう1枚発券していただきました。
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元気な四国の私鉄は老人のアイドル

伊豫のプリマドンナ100形、200形は新製時、両運非貫通であった。3連化の時に片運改造がボツボツ始まり、貫通基本編成が定着した。1965年頃から西武所沢車両により車両更新が開始され、最初はプリマドンナより古い車が導入され、見た時はがっくりした。その後、冷房車導入で京王電鉄の支線か思われるぐらいに統一された。遠州鉄道と共に地方線区では最も優秀な民有鉄道と言われている。
それに比べ土佐電は、ヒイヒイ言いながらも話題に事欠かぬ存在で、今も観察をかさねている。2005年に訪れた時はまだ新駅着手の時で、竣工するや行きたかったのだがドタマの関係でドクターストップとなった。昨年GW、ぶんしゅうさんにおねだりして新駅拝見が実現した。
今年3月17日、善通寺へ向け出発した。18日琴平駅で500号急行をお迎えした。琴電から記念品グッズとお土産を頂いた。それというのはお使いになった写真、老人が1958年9月9日に撮影したものを採用されたのである。各駅にA4版が、
高松築港、瓦町、仏生山、一宮、滝宮、琴平にはA2版で張り出された由。残念ながら他用で乗れなかった。
81年前に輿入れの時はマドンナと言われた?
立派な駅前から走り出す電車は恥ずかしそうだ

81年前に輿入れの時はマドンナと言われた?これが駅舎かとびっくりした立派な駅前から走り出す電車は恥ずかしそうだ

2012年 春の中国鉄路の旅 Part6 平庄煤礦鉄路 その1

第8日目 4月26日  平庄1日目

瀋陽19:05(K
7362次)→5:35平庄
574キロ 10時間30分

平庄を訪れるのは、昨年5月、今年3月に続いて3回目です。中国鉄ちゃんで訪中50回以上を誇られる、O氏もなぜか同じです。近くの元宝山には、何回か行かれているようですが、ここに蒸気機関車が走っているのは分ってはいたけれど、前進型が驀進する集通線等々、行くなら優先すべき撮影地がいくらでもあった。ここや阜新が注目されだしたのは最近で、蒸気機関車が撮れる場所がなくなったせいでもあると言われます。

1回目2回目とまずまずの撮影はできましたが、確かに平庄では、際立って素晴らしいと感動を持てる撮影場所はありませんでした。
しかし、いつもは平凡単調でDATAから、消してしまいたくなる撮影場所でも、いくつかの条件が揃えば、一転してしまうことがあります。今迄撮り逃がしたのは、西露天口からのズリ捨て列車でした。特に山に夕日が沈む頃の光景は、考えただけでも心が躍る瞬間です。
今回、私たちが平庄に来た目的は、ただの石が突然にダイヤとして輝く、この瞬間を撮りたいがためです。滞在2日間をこれに賭けたいと思ってきました。今日は、雲1つない雨上がりの快晴です。条件1をクリアーするでしょう。きっと素晴らしい夕焼けが見られる事を期待しました。


▲ 常宿化してきた宝山大酒店にチェックインして、ホテルの朝食をとった後、直ぐにTaxiで撮影目的地に向かいました。
10:14
に到着、中々の場所です。ズリ捨て列車がくれば、そこそこの写真は撮れます。近くにいた作業員も10:20には上ってくると言われますが、煙は見えてもここまでやって来ません。
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けったいな切符

連休明けの一昨日、ライナー券の販売異常に遭遇しました。
青梅ライナーは下の写真右上の磁気券で発売され、中央ライナーも同様の磁気券または右下の携帯かPC利用の予約システムを利用するのが常ですが、朝5時過ぎの予約システム開始直後に携帯で予約しようとすると既に満席との回答です。
仕方なく立川駅の券売機の前に並ぶも、いつもの発売開始時刻を過ぎても「準備中」の表示が出たままです。
やきもきする内に駅員が数名現れ「今朝は発売機がつかえませんので駅員が販売します」と宣まいました。
ここで発売されたのが左側の軟券です。しかもファーストナンバー!(青梅ライナーは3号車が先頭車です)

JRではいろんな事態を想定して準備しているんだなぁと改めて感心しましたが、切符収集マニアにとっては美味しい異変です。
かつてライナーの運転取り止めで払い戻しの経験はしましたが、こんなのは初めてです。
5月14日からスマートフォンでも予約サービスが可能になる由で、その関係で券売機のプログラム設定などが入れ替えられたのが原因ではないかと“勝手に推測”しています。

私は朝錬と称し通勤途上で出逢う車両達の定点観察を行っていますが、立川駅で朝錬(次の写真が撮影対象)したあと、ライナーに乗車すると新宿駅でわずか1~2分の間に観察できる非情に効率の良い朝錬(撮影対象は下の写真)が出来ます。

新宿朝錬は丁度、大相撲の幕内力士による土俵入りを見ている様な感じがします。しかも通勤ラッシュによるダイヤの乱れなどで登場順序が日々変わるのも、程好い緊張感を生じます。