都電荒川線のクリスマス

12月22日と23日の16時~18時まで、荒川車庫に於いて正面にリースを取付けた花電車がクリスマスツリーと共に展示された。22日に会社帰りにコンデジで撮影したので報告方々ご覧いただきたい。運転されなかったのは残念であるが、今後もこのような形で活用されることを期待したい。


16時30分、現地到着直後の撮影。


到着1時間後17時30分頃撮影

8809との並び

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part8 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu)その2

第7日目 12月6日 雅満蘇

蒸気機関車が撮れないなら、せめてレールバスを入れて撮りたいと発車時間の確認をお願いしていましたが、 朝食中に出発してしまいました。関係者と連絡を取っていたアイグリさんでしたが、上手くいかなかったようです。仕方ありません、お奨めの撮影地に案内をお願いしました。


▲ グーグルから作成しました地図のとおり、路線は道路と離れています。アイグリさんの一押しは、かつて站があった雅山です。途中までは舗装された道路がありましたが、直角に右折して砂漠に入り、道なき道を適当に走ります。約30分で到着しましたが、列車交換が出来るようになっていました。周りに人家などありませんので、站というより信号所です。

雅山站から雅満蘇方向の小高い丘に登って、山口方面から折り返すであろうレールバスを待つことにしました。アイグリさんは、何度も電話して列車が来る確認をします。
待つ間にここに来た日本人はおられたのですかと聞きますと、旅行社のオオタニさんという方が2度、他に4人1組の日本人が来られています。欧米人も1組来られています。私達の訪問は5番目の案内ですと言われました。
さすが三道嶺のようにたくさんの列車が走行する事がなく、不定期で走っても一日1往復では、訪れる方はわずかのようです。
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梅小路機関車舘での「蛍の光」

梅小路機関車間の開館は1972年と記憶するが、1975年の大晦日、民放TV共同での「行く年来る年」の極めつけは梅小路機関車舘での、蒸機汽笛による「蛍の光」だった。この曲は8音階でできているから、8両の蒸機の汽笛共鳴室の容量を加減して1両1音とし、山本直純が指揮して、オーケストラをからませ「蛍の光」を演奏したのである。つまりは8両の蒸機に同時に火を入れたことであり、当然組合も、機関士や助手のOBたちも、全力を挙げ協力したのは間違いない。

これをM君が録音し、そのテープを貰っていた。最近はアナログテープを聴くこともほとんどなく、先だってテープデッキを使おうとすると、中に入れたままのテープ再生は出来るが、取出しが不能。当然交換もできない。修理に出すと直るかどうかといわれ、1万円ぼったくられたが、目出度く再生は復活。

で、本日何十年ぶりかで、M君のテープを再生してみた。後期高齢者の身体各部は老朽疲弊甚だしく、パッキンがことごとく劣化し、尾篭な話だがありとあらゆる排泄部がよろしくない。要は「締り」が悪い。当然涙腺(これも排泄部に違いなかろう)も著しく脆くなっており、すぐ泪が出るのは「生来」感受性が高いからだと強弁しているが、老齢劣化には違いない。

36年ぶりのテープは幸い健在だった。蒸気機関車の汽笛で音楽を演奏するというアイディアも良かったが、「蛍の光」の何ともいえない哀愁と蒸機の汽笛とのマッチが言葉に尽せない。

そういえばM君はDRFC-OB会に顔を見せなくなって久しいが、元気で商売に励んでいるんだろうなぁ。

連接車2

 年末の駆け込み投稿で賑わっております。大変結構なことですが、おかげで先日の連接車1もはるか彼方に追いやられてしまいました。私も駆け込みで連接車2を登場させます。前回は名古屋市電で終わりましたので今回は同じ名古屋の名鉄を採り上げました。

           1973.3.4 谷汲線更地2151+連接車401

           単車を改造して連接車にしたもの

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 岐阜行き880形 

          880形は美濃町線廃止後福井鉄道に譲渡 

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 関行き875+876 

          元札幌市A841+A842

年末 大慌ての決算報告(2)

「高崎周辺が騒がしい」と以前の掲示板にも投稿がありました。高崎を中心に群馬県下では”群馬デスティネーションキャンペーン”が繰り広げられ、「ぐんまツーデーパスSP」を手に現地を訪れました。9月は多くの鉄道イベントが目白押しで、C61も含めた蒸機の運転も盛んに行われましたが、イベントは避けてもっぱら私鉄巡りに時間を費やしました。
「ぐんまツーデーパスSP」は、2日間、群馬県下のJR・私鉄乗り放題で3600円、これまた超お買い得切符で、JR東日本の大人の休日倶楽部会員だとさらに安くなるため、わざわざ同会の会員になりました。JR西日本内の居住であっても、J東日本の格安企画切符は大きな魅力です。制限の多い格安きっぷをうまく利用できるのも、毎日が日曜日族の特権ではあります。

▲上信夕景 出版社での仕事が予定外に早く終わったため、東京から明るいうちの高崎入りとなった。まだ宿へ入るには早い。日が暮れるまでのひと時に、ふと思い付いたのは上信電鉄南高崎~根子屋の烏川鉄橋だった。3年前に来た時は急にカメラの調子がおかしくなり、眼前を通過する電車を泣く泣く見送ったことがある。今回はリベンジでもある。南高崎で下車して歩き出すと、ちょうどいい具合に陽が傾き始め、鉄橋を渡る電車がシルエットになった。

▲”わ鐵”爽秋 群馬県下の3私鉄に全線乗車したが、いちばん印象的だったのは、わたらせ渓谷鐵道(わ鐵)だ。前身の足尾線から通じて初乗車となったが、沿線の光景にすっかり魅せられた。栃木県に入る北半分は、ずっと渡良瀬川に並行している。そして、沿線の上神梅、神戸、沢入、通洞、足尾などの駅をはじめ38の施設が登録有形文化財に指定されており、昔の国鉄時代が、ごく自然に、そのままの形で残っている。好天もあいまって、清々しい光景が続く。
終点の間藤から、川沿いに歩き、次駅の足尾まで来た。背後の緑、青空に木造駅舎が美しく映えていた。丸型ポストもいいアクセントになっている。つぎの列車が来るまで、ポッカリ空いた時間、付近をウロつくのが無上の楽しみとなった。すぐ近くで公開されている明治建築、古河掛水倶楽部も、たいへん興味深く内部を見学することができた。

阪神電鉄国道線(3)甲子園線

 さてさて、3回目は甲子園線です。当線は先の国道線建設のように、阪急や省線との対抗や、それらの防衛対策上から建設されたのではない。

『大正末期から昭和初期にかけて、阪神電鉄で推進された支線計画のうち、その使命がもっとも純粋に輸送・開発機能に置かれたのが、甲子園線である。当社は、大正1110月に買収した武庫川の支流であり、洪水対策から廃川になった枝川・申川の廃川地の開発のため、大正14年甲子園・甲子園浜間および甲子園・上甲子園問の軌道敷設特許を申請し、それぞれ翌大正15年に特許を得た。そして、早くも716日から甲子園・甲子園浜問、昭和3711日には甲子園・上甲子園間の営業を開始した。甲子園線はさらに昭和579日には、今津出屋敷線の一部である浜甲子園・中津浜問(複線、42チェーン13リンク)の営業を開始し、上甲子園。中津浜間を通常4車両で営業する体制となって、甲子園開発のバックボーンを形成した』のである。(阪神電気鉄道八十年史、阪神電鉄より)

 さらに、『昭和初期までに、大阪・神戸の2大都市よりも阪神問地域に人口増加が著しく進行し、市街化、住宅地化が拡がるようになった。昭和初期における支線展開やバス路線の開設は、こうした趨勢に対応するものである。』(中略)

『当社は,単なる路線展開にとどまらず、地域開発の形でこのような趣勢を積極的にリードした。その最大のものが甲子園開発である。甲子園は、大正1110月に兵庫県から410万円で譲渡された224000坪の枝川・中川廃川敷の開発から始まり、大正137月に完成した野球場が開発の初めであった。甲子園の住宅地としての開発は,大正151025日、株主総会で「食堂業及び土地家屋の売買等」を定款に追加を決議することから出発した。昭和371日から「甲子園住宅経営地」の第1回分譲が始まった。この第1回分譲地は、阪神本線の甲子園停留場の北側、旧国道付近から甲子園線沿いに拡がる中甲子園であった。』(出展:同上)

 このように、甲子園地区は北側の甲子園一番町から、海側の十番町に至るまでの街づくりがはじまり、甲子園線が活用されたのです。現在も、十番町を除いて地名番地がそのまま残っています。

国道側から眺めた甲子園線。今ちょうど211号が終点に到着して、客扱いを始めている。ドアーは車道側でなく、反対の軌道側を開けている。遠い画像だがステップの降りているのが見えます。

91号が軌道の下り車線側に入って来た。この後、客扱いと、Yゲルを転換し出発する。終点手前にX字クロスポイントがあり、亘ってから客扱いし直進で折り返す方法(上の写真)と、直進後客扱い(先のカラー写真)し、その後亘って折り返す二方法が採られていました。

同じ91号の反対側。右手が進行方向の浜甲子園側、電柱に駅名票が見える。乗車待ちらしき女性の姿も。左手が本線上甲子園。9191号。終戦直後の1947年、製造割当が少なく3両だけの製造になった内の1両。汽車製造製。

211号の出発。客扱いを終わりYゲルを転換、少し先のクロスで下り線に亘り、甲子園浜に向かう。右手に駅名票、カラーでよく判る。進行方向にに第一生命のビルが、現在もこの地で同じ姿で残っています。


71
号。上甲子園行き。この71号は74号と共に、後にパンタグラフに付け替え、武庫川線に転出。その後尼崎市の公園に静態保存されています。(後述)

 
71号の後ろ姿。周りは敷地の広い戸建ちの、静かな住宅街です。

211号。甲子園駅の北側。緩やかなカーブを経て、北の方向上甲子園に向かう。

阪神本線甲子園。高架上が甲子園駅の西側部分。高架下の甲子園線甲子園駅を出発、北に向かう。付近の電柱に赤い“ワシとんかつソース”の看板が目立つ。近畿地方にとんかつソースメーカーは多いけれど今も残っているのかしら。電車と全く無関係な話でした。
 これで甲子園線と国道線の紹介はお仕舞いです。阪神パーク前や浜甲子園の写真はありません。子供たちを連れて阪神パークにレオポンを見に行ったことはあるのですが、子供たちに精一杯で電車どころでなかったのでした。

 

 尼崎市の公園2か所に、71号と74号が静態保存されています。

尼崎市藻川公園。フェンスが車両ぎりぎりに作ってあり、姿をよく撮影できません。上の覆いも屋根ギリギリです。腰下のマルーン色がすっかり褪せていました。近くで見るとさすがに大きいです。バスよりも大きいでしょう。電車側面に案内板がありました。

 

上の公園の近く、尼崎市水明公園。尼崎センタープール(競艇場)の北側にあります。ここもフェンスが二重。木が生い茂り全容が見えません。わずかに往年の姿を思い浮かべられる程度でした。寂しさが一層増しました。 

 電車好きの少年の頃、尼崎から神戸・平野の叔母宅へのルートが34通りありました。阪神電車本線出屋敷→三宮→神戸市電→平野。国道線→東神戸→脇の浜→市電。国道線→住吉駅前→省線電車→三宮→市電。省線立花→三宮→市電。 

 住宅が尼崎市の中南部でしたこの頃、阪急電車は全く利用しなかったですね。そして国道線、神戸市電がもうとっくに無くなった今、同じ尼崎市の阪急沿線に住んでいます。

年末大慌ての決算報告 (1)

年も押し詰まってきました。今年は、私自身の写真展がまだ開催中で、その準備・対応に忙殺され、掲示板投稿もままならない状態での年末突入となりました。個別の記事は今さら望むべくもなく、ここでは、今年をまとめて大慌てで振り返ることにしました。
毎日が日曜日状態が始まって3年目となる今年、鉄道旅行に関してはすっかり少なくなってしまいました。3泊程度の旅行が数回だけ、海外はもちろん、北海道・九州へも行かず、もっぱら近郊ばかりでした。堰を切ったように出かけた昨年とは大きな違いでした。さまざまな事情もありますが、のちほど述べる心情の変化に依るところも多いようでした。

▲3・11の最終「雷鳥」 今年、「雷鳥」がついに消えた。イヤほど走っていた「雷鳥」だったが、消えるのはあっけなかった。最終日の3月11日は朝から追い掛けた。15時過ぎ、新幹線京都駅を通ると、なにやら騒がしい。新幹線が運転抑止と駅の案内が伝えている。たいして気にも留めなかったが、電車内の乗客の会話から東北地方で大地震が起こったらしいことが判った。
夕方に発車する最後の「雷鳥」はどこで撮ろうかと考えた。「雷鳥」の運転初日の昭和40年12月1日、高校一年生の私は京都駅で撮った。同じ京都駅1番ホーム(現0番ホーム)で「雷鳥」を見送ろうと考えた。やや薄暗くなりかけた1番ホームに来たのは、ボンネットではないものの、国鉄色を纏った485系である。サイドだけなら45年前の光景と変わらない。運転初日、京都駅1番ホームにはほんの2、3人が写していたように思うが、今は自分の子・孫のような世代に取り囲まれて写していた。

▲激安切符で四国へ もっとも遠くへ行ったのは、バースデーきっぷを使った四国だろう(と言ってもわずか3日だが…)。この切符、誕生月のみの発売で、四国の特急グリーン車乗り放題で1万円ポッキリという破格もの。もっとも四国でグリーン車込みの特急は少なく、1度乗った切りだが、土佐くろしお鉄道も乗れる。私は初日から乗り倒し、予讃本線の一部を除いて、JR・土佐くろの全線乗車ができた。憧れの下灘へも夕方を狙って下車した。期待の夕陽はイマイチだったが、色温度を変えて楽しんでみた。
撮影以外に、旅行のもうひとつの目的である近代建築を中心にした街歩きにも精を出し、未踏の地であった愛媛県西部の八幡浜、内子、大洲、宇和島も短時間ながら訪問することができた。

▲路面電車の街で 四国でもうひとつ、高知・土佐電はりまや橋交差点で、四方向から来る路面電車を体感したかった。夕景を、まず交差点西の歩道橋から狙ってみた。泊まりも、すぐ近くにある、トレインビューが売り物のホテルを選んだ。朝のラッシュ時に、この交差点に立つと、まだ路面電車が街のインフラを維持していることが体感させられた。
ホテルの客室からも確かに、交差点の全景が俯瞰できる。すべてに渡り線のある交差点はここだけのようだ。普段は通らない渡り線を回送電車が行く光景も撮れた。ただ、背景に、以前はデパートがあったはずのところに、今は何とパチンコ屋が煌々と交差点を照らしている。これも地方都市の一断面でもあるのだった。

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part7 雅満蘇(牙曼苏;Yamansu) その1

第7日目 12月6日 哈密→雅満蘇

早朝6時前、哈密のホテルをアイグリさんも同行して出発しました。目的地の雅満蘇(牙曼苏)までは、約120キロ、鉱山鉄道の起点がある中国鉄路の山口站までは、鉄道線では97キロあります。道路灯もない真っ暗闇を東方向に約2時間強を走り、近くからは迷走を重ねてようやく8:14山口站に到着しました。以前に来た時の道がなかったそうです。 続きを読む

年末の広島

KAWANAKAです。

暮れも押し迫ったときに如何にも内容の乏しい投稿で申し訳ないが、仕事の合間をみて老年切符など利用してうろついています。ぶんしゅう氏には遥かにスケールが及びませんが、今月の初め広島にふらりと行ってきたのでお付き合いを。

実は関東支部の会合でI氏の広電写真に触発されて俄かに京都市電に会いたくなり出かけた次第。

そのことを西村氏に伝えたところ、多忙な中、三原でミニロケをご一緒することになった次第。氏は三原に居を構えられているが糸崎でお会いすることにした。昔、40年以上前2人で夏のくそ暑い中、降り立ったのが印象に残っており、会うなら糸崎ということにした次第。糸崎は知らないうちに無人になり、あまりの変貌振りに驚いたのであるが最近の人件費削減は凄まじいものがある(東京地下鉄でも長大編成のワンマンが進んでいるのでびっくりすることはないかもしれないが)。

西村氏推薦の目玉は、キハ47のマリンビューで電化の呉線を走っている唯一のDC。三原まで下った列車は広島へ向けての発車まで時間が長いので、三原のたった呉線の1線を明けるために忠海まで行って折り返すというスジになっていて(これは後ほど西村氏が確認)都合4本キャッチできる。

西村氏のパジェロでロケをさせて頂いたので、その1枚を掲載。小生は結局、折り返しに乗って広島へ向かうことにした。西村氏は所要のため広島には同行できなかったが、如何にも氏の人柄の丁寧な案内に感謝した次第。ご存知かどうか知れないが氏は野鳥や辻堂の研究でもそれなりの成果を出しており、改めて幅の広いのに感心した次第(その後、ロケで気になって仕方がなくなった)。

広島へは夕刻の到着、宿の袋町まで歩きながら撮影。

駅前ではお目にかかれなかった京都市電にやっと会えた。

あくる日、夜明け、車に被られないうちに撮影。撮りたかった如何にも広島らしい2枚を掲載。

ついでで申し訳ないが、往年の市電の風景を彷彿させる2枚。

約800枚の写真が残ったが、ロケの報告を兼ねて掲示させていただいた。

改めて西村氏に礼を言いたいと思う。

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part6 三道嶺 その4

第6日目 12月5日 三道嶺4日目

今日は三道嶺撮影の最終日です。今年2月に準特急先輩と来た時は、お互いに何も分からずで、ただ案内されるままでしたが、2回目とあって土地勘も出来ていて、今どこにいるのか分かっての撮影ができました。三道嶺4回目のO氏の存在も大きかったと思います。4日間のまとめの意味からも今日はバッチリと決めたいと起き上がりました。

▲ 8:54、3回目の朝の通勤列車の撮影。今日は少し先まで行ってみました。S字カーブを回って登り坂を上がってくるのが分かりました。日の出が後15分遅ければ、朝日をバックに撮れますO氏は一日ごとに1分間、日の出は違ってくると申されていましたので、来年2月初旬がベストになるのではと思われます。

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連接車1

 米手作市様より出し惜しみすることなく発表するように言われた。西鉄と今回の名古屋市電の拙作をとりあえずのせることとする。尚、車両の解説は知識がないので割愛させていただく。

 

 1967.9.8 西鉄大牟田線銀水~東甘木 502ABC 福岡方面各駅停車

 

 1973.4.11 大牟田線宮の陣 501ABC 大牟田行き各駅停車

 

 1967.9.7 北九州線八幡駅前 3車体連接の1057ABC

 

 1967.9.7 北九州線八幡駅前 2車体連接の1037AB

 

 

 

 名古屋市電2写真は1968.11.8撮影 3006 2705 場所は高辻か沢上町

失業者二人の旅日記  初冬の大地へ  Part5 三道嶺 その3

第4日目 12月3日 三道嶺撮影3日目

今日は昨日のことのないように起床を30分早めて、 撮影現場には通勤列車が東站を発車する前の8時30分前には到着しました。ようやく東の空が赤くなり始めた8時40分過ぎに発車を告げる白い煙が上がり、ドラフト音が聞こえ始めました。


昨日同様のカットになりましたが、今日は後ろ向きの牽引です。ターンテーブルがありませんので、ズリ捨て路線用の上遊型なのでしょうね。しかし、昨日と同じく前照灯を点けずの走行です。線路上に邪魔物はないとの前提なのでしょうか。牽引機は、SY1304号機でした

 

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名古屋市電のびわこ号?

今年最後の掲載です!連接車で市電があったのですね。先の西鉄と言い、この名古屋市電と言い、当会には応援してくれる地元出身者が少ないようで、今回も反応の薄さが危惧されます。大脇仙人~!、藤本さん!乙訓の長老様、誰でもいいから解説して下さい。ここも1000リンギット賭けます。

阪神電鉄国道線(2)

 1945(昭和20)65日、B29から投下された焼夷弾が東神戸の街に雨霰の如く降りかかりました。小生の御年5歳前の、神戸の大空襲。当時日本の大都市の中で、神戸は最大の被害を受けました。近くの六甲山麓にあった高射砲は全く届かず、弧を描いて落ちるばかり(昼間は見えないが、夜間に見た大人の話)。

 神戸市灘区徳井町の我が家も全焼、自宅庭の防空壕を出て逃げました。見慣れた豆腐屋の中が真っ赤でした。途中石屋川かどうかわからないが、防空頭巾の上から消防団員に水をかけてもらい、母子3人(父はラバウルに応召)で逃げ延び、着いたのが御影公会堂でした。迎えに来た芦屋の祖母に連れられ、電線の垂れ下がった国道を徒歩で、同じく国道線の森市場まで行き、そこで暫く暮らしました。

 同じ日、同じ状況で御影公会堂に逃げ延びた主人公の話が、小説およびアニメ「火垂るの墓」です。小生より10歳年長の作者野坂昭如氏が、小生の近くにいたことになります。
 
 そんな話はとっくの昔。平和な時代になり、国道線を撮影したのがそれから16年後です。写真はその徳井からスタートして東に向かいます。

 開通時に設置された停留所の安全地帯は(前回の尼崎玉枝橋の写真を見て下さい)は、戦争中に軍により撤去されました。なんでも阪神国道がほぼ直線であった為に、いざという時飛行機の滑走路にするとか。けれど戦後も、停留所は復活されませんでした。写真のように道路上に、ただ白線で四角を描いたのみです。

 201201号。西向き、東神戸行き。1942年汽車製造・東京製。基本的な装備品やデザインは71形に同じですが、正面のデザインがやや平たくなりました。野田東神戸間の通し運転です。家並みの後方に六甲山が迫ります。
 
 当時の国道の詳しい記憶はありません。現代の国道を徳井から御影方面に進みます。
下の写真、右後方かすかに御影公会堂の先端が見えます。公会堂をバックにちゃんと電車を撮影するべきだったのに、目的が明確でなかった頃の撮影でして、今になって後悔頻りです。

 

 開通時のポールは、1949年Yゲルに付け替えられました。電車の神戸寄りに付けられています。

 

 201213209と共に戦後の1948年に製造。国道線最後の新造車となりました。野田側だけに連結器が付いています。連結器付の車両は数少なくなっていまして、今回紹介の中でもこの213207号車だけです。東向き、野田行きです。

 灘高前、甲南学園前を通り過ぎて、鳥居は三王神社です。阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、確かご家族の方が亡くなられたと記憶しています。

車両は、3190号。19291930年製造。製造時は3150号でしたが90号に改番されています。当初稼働していた2台電動機の1型(全部で50両)および51型(全部で16両)に代わり投入されました。4台の電動機を装備して長距離運転(わずか26kmですが)に備えたそうです。台車はボールドウィン64-20R、この台車は全形式共通です。
7177号。1937年合計10両製造されました。電動機4台装備、長さ14m近くの大型路面電車でした。側面の半分以上を窓が占めていて、車内が明るく、斬新なデザインは当時画期的だったと思われます。誰の命名か、金魚鉢というニックネームを貰っていました。平たいスマートなベンチレーター、ドアの開閉と連動するホールディング・ステップも装備していました。西向き。

 当時、神戸市の東端、東灘区。芦屋市との境界に近づいて来ました。

 

201214号は、戦時中の1943年汽車製造製です。東向き、野田行き。

 途中の芦屋市、西宮市の西部を飛越して、いきなり上甲子園に達しました。甲子園線との分岐点です。右の鉄柱に駅名票が見えます。赤の地色に白の駅名が描かれていました。

201203号は1942年、メーカーは上記に同じ、やはり戦時中製造です。野田-西宮間の区間運転車。

 カラー版の登場です。これまでの撮影時期から4年後、1968年撮影です。電車は後方の甲子園線へのポイントを通過、東に向かいます。

 武庫川の西側です。201204号が、武庫川の武庫大橋に向かい緩やかな傾斜を登ります。右手辺りに確か甲子園ホテル(阪神電鉄経営)がある筈です。

 204号の後ろ姿。右手に武庫大橋と、松の木が数本見えます。

 こちらは坂を下って西向き、東神戸行きの207号。先の213号同様連結器が付いています。右手松の木の前にある大看板は「阪神競馬場へ8km」の案内です。

 207号が丁度、大橋の中央付近を西に進みます。この頃はまだ車の通行が少なく橋は広々としていました。上の写真の1コマ前。撮影場所は行政区画上、西宮市。南側から北東方向を見ています。

東神戸行き206号。撮影は日曜日でして、やはり車が少なかった頃です。武庫川の両岸は共に(西宮市、尼崎市)松の木が沢山あり、これは半世紀後の今も変わっていません。撮影場所は行政区画上、尼崎市、北側から南西方向を見ています。

武庫川を渡り、さらに東に進み、東大島。車両は東向き、野田行きです。子供たちの頭のはるか上まで窓が拡がっています。いかに背の高い窓か、よく判ります。

 写真はここまでです。これから先の野田方面までは全く撮影していません。残念です。
下は国道線の未使用の軟券です。

次回は、甲子園線と71、74号車の保存(尼崎市の公園)写真です。
地図は、参考文献1「輸送奉仕の五十年」阪神電気鉄道株式会社より、引用しました。

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part4 三道嶺 その2

第4日目 12月3日 三道嶺撮影

今日も失業者二人は、7時起きです。と言ってもここでは、北京から西へ遠く離れた新疆ウィグル自治区、約2時間の実質的時差がありますので、5時になります。まだ真っ暗闇の街中で朝食のマンタ(ウィグル料理のパオツ)を買い込んで出発しました。このマンタ、食べると羊肉の肉汁が口中に広がり、絶品です。美味しい朝食に活力を加えて、目指すはO氏お奨めの朝1本の通勤列車の撮影です。

8:43、目的地近くで車を降りて、懐中電灯で足元を 照らしながら撮影ポイントに向かいますが、すぐにドラフト音が聞こえてきました。

▲ 8:49、朝焼けをバックに白蛇のごとき煙を残しながら通勤列車がやって来ました。線路際の小高い丘に駆け上がりかじかむ手でシャッターを押しましたが、撮影準備をする時間がなさすぎました。撮影場所のまだ先はどうなっているのかが分かりません。この路線は東站西站を結ぶ路線でこの通勤列車のみが定期で走ります。明日の朝にリベンジすることにしました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part3 三道嶺 その1

第3日目 12月2日
① 哈密站 13:30(チャーター車)→15:00三道嶺

哈密站から約1時間半、今年2月25日以来の三道嶺に到着しました。期待した天山山脈ですが、残念ながら霞んでいます。しかし今回は、今日を含めて4日間の撮影日を予定しております。何とか一日ぐらいははっきりと見えてくれるだろうと撮影開始しました。▲ 三道嶺では、採炭された石炭を積込み選炭場へと運ぶ運炭線が2本あります。こちらは、蒸気機関車が正向きになりますが、ズリ捨て線では、推進運転となっております。今回私達が狙うのは、天山山脈を背景に驀進する正向きの運炭列車(地点;A・C)、推進運行ながら夕日をバックのズリ捨て列車(地点;B)と、朝焼けをバックに走り来る朝1本の通勤列車でした。
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連接電車の急行列車・西鉄500型

先週の京阪びわこ号に続く「連接車」シリーズで西鉄500型。

と言っても西鉄とは全く無縁で知識もなし。むかしむかし、博多へ行ったとき、tsurukame氏の支配下にある金魚鉢似よく似た連接市内線を見たような見なかったような、程度。当会には西鉄マニアは居なかったようで、おそらく今回は盛り上がらずに終わることに1万ウオン賭けましょう。

 

失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part2 T69次に乗って

第1日目 11月30日

① 長岡天神 5:34(阪急)→5:49 南茨木 5:58(モノレール)→6;21大 阪空港
② 伊丹 7:20(JL102)→8:30 羽田 9:40(JL023)→12:50 北京(空港快速)→三元橋(地铁)→国貿

無事順調に北京空港到着しました。先に着かれたO氏とは、預け手荷物引渡場(バゲージクレーム)でお会いして、常宿にしている京倫飯店に直行しました.


▲ JL北京便の往路機内食。ラウンジでたっぷり朝食を食べましたので、丁度良いぐらいですが、昔と比べるとしょぼくなったのは否めません。

チェックイン後 鄧さん哈密までの切符を依頼していただいておりました北京中国国際旅行社の賀さんに到着の連絡を入れて、受取時間の打合せを済ませてから街に出ました。
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失業者二人の旅日記 初冬の大地へ Part1 旅立ち 

中国四川省の辺境の地でお会いしましたO氏とは、お互いに定年退職で失業者となりました身の上が同じです。日程を妨げるものがありませんので、ご一緒にSL撮影の旅をすることになりました。

第1回目は河南省建材廠と阜新・平庄、第2回目のエリトリア鉄道に次いで第3回目は、O氏から新彊ウイグル自治区の哈密近くあるという雅満蘇(Yamansu)に建設型SLが走っているらしい。欧米人は行っているようだが、まだ日本人が行ったというレポートを見たことがない。是非に行きたいと思っています。久しぶりに三道嶺やぶんしゅうさんがまだ行かれたことがない白銀もご案内したい。一緒に行きませんかとのお誘いを受けました。

三道嶺は、今年2月に準特急先輩に同行して参りましたが天山山脈が霞んで思っていた写真が撮れず、リベンジしたいと思っていました。 白銀 は上遊型が客車を牽引する有名な撮影地です。それに日本人がまだ行ったことがない雅満蘇と聞けば、行かないわけにはいきません。飛びつきました。

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阪神電鉄国道線(1)建設目的

   大御所、乙訓の老人からバトンタッチを受け、阪神電鉄国道線の一部を紹介します。悔いが残るのですが撮影しているのは、神戸市灘区八幡(やわた)から尼崎市西大島と、国道線の支線である甲子園線の上甲子園-甲子園間です。東神戸付近と西大島から東部野田方面を撮っていません。

 小生の幼少は国道線と共にあると言っても過言でないのに、それにチャンスもあったのに、撮影していなくて返す返すも残念です。悔いの多い人生、中でも最たるものの一つです。 

 そして小生、長じてから疑問であったのが、国道線建設の目的でした。関西における官設鉄道と私設鉄道、あるいは私設鉄道同士間の激烈な競争は敢えて言うまでもありません。阪神間はその最たるもの、皆様よくご存じの事柄です。大正年間、官設はまだ電化していないが、阪神電鉄、箕面有馬電気軌道の競争です。その中にスピード競争で勝ち目がない道路併用軌道線(阪神国道線)を何故に建設したのかです。

手許に三つの文献があります。これらに上記の疑問を解決してくれる記述がありました。

『輸送奉仕の五十年』(阪神電気鉄道、昭和30年) (文献1)と表記する。
『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道、昭和60年) (文献2)と表記。
『図説尼崎の歴史・下巻』(尼崎市、平成19年) (文献3)と表記。

文献1から引用します。

『国道線の開通 昭和のはじめに本線に並行して国道線が開通した。陸の大動脈阪神国道の完成に伴う副産物であった。それまでの阪神両都を結ぶ道路は昔「西の道」と言われた2間ほどの旧国道で、牛馬でさえ行き違いにひと苦労、そこへトラックなどの激増で全くの飽和状態になったため、大正8年大阪、兵庫の両政府が相協力して建設することに決定した。爾来七星霜、同151225日、あたかも昭和と改元されたその日から公用に供された。幅員15間(淀川以東は12間)、延長628町(約7キロ)、ほとんど直線的に阪神間の郊野を貫いた坦々たるアスファルトの新国道は、2,000万円の巨費を投じただけに、名実ともに東洋一の大道路として世人の目をみはらせたものである。

当社はその重要性に鑑み、いち早く大正92月にこの国道上に軌道施設を出願して122月に特許された。この為国道の幅員も急に3間広げることに変更された。(中略)軌道施設工事はわずか6ヶ月間の突貫工事をもって昭和2517日に完工した。翌5月18日新装の武庫大橋畔において国道と軌道の合同竣工式が挙げられ、運賃決定で当局と合意後の71日から開業したのである。 


                               
    
 
 野田阪神・東神戸間約26キロにわたり、国道の中央に施設された複線軌道には15mという日本で最も長い軌条を用い、鉄骨組立の側柱には煌煌と照明灯が輝きわたって大国道に美観をそえた。車庫は浜田の田んぼの中に設けられたが、路面電車のこととて30両の車両はすべて低床ボギー車で、これも日本最初のドアー・ステップ連動装置をするなど数々の新機軸が試みられた。しかし当時はまだ沿道に人家も少なく、神戸終点の連絡も悪く、阪神国道電軌の経営は危ぶまれた。
(以下略)』(文献1

  建設の様子が記載されていますが、疑問点の解消はできていません。                                                          

 

 相前後しますが、文献2に、明治43年初め頃からの電鉄株の急騰を背景に、出願ブームが起りつつあった当時の様子が記述されています。 

布引を起点として山手を通過し、西宮に達するという計画の灘循環電気軌道に、

『箕面有馬電軌は、大正元年819日、いち早く十三・門戸間の新線を出願し、灘電と接続することを企てた。電光石火の対応によって、阪神間の直通路線を入手しようと考えたのである。』(文献2 

その後、灘電が資金難となり、

『その買収・路線免許取得をめぐる係争のさなか、大正62月、箕電は灘電の軌道施設特許譲渡の認可を得、大正712月、箕電の勝訴が確定した。かくして、大正97月、灘循環線(現在の阪急神戸線)は開通し、当社の強力なライバルとして立ち現われることになった。』(文献2 

こうして、スピード競争はもとより多面的に、阪神・阪急のライバル活動が開始されて行きます。その後のことは読者ご存じの通りです。

 さらに文献2の、別の個所には

『併用軌道線の縮小と廃止 国道線は,昭和2当社子会社である阪神国道電軌㈱によって開通し、ほどなくして当社合併した。(中略)国道線は、阪神国道新設して、本線防衛という政策づき(註:下線は筆者挿入軌道敷当社費用負担によって,道路上建設された。(中略)併用軌道の輸送量は、戦中と終戦後20年代半ば頃にピークを記録して以後減少に転じていた(中略)30年代に始まったモータリーゼーションの進展によって、経営は困難の度合いを深めていった。』(以下略) 

と、新設国道に他社線が先に進出し、阪神本線に悪影響が及ぶ前の対抗処置だったことが明記されています。これが新設国道線に、阪神電鉄が道路併用軌道線を建設した真実であり、「建設目的は何か」という筆者の疑問への解答です。

国道線の経営が初めから楽ではなかったことも同時に伺えます。客が多かった時期はほんの一時期でした。
文献3に、

『鉄道と道路  現尼崎市域においては、(中略)明治38年には阪神電鉄が開業し、尼崎町中心部と大阪・西宮・神戸といった東西の市街地が結ばれます。大正期から昭和初年にかけては、これらに加えてさらに2本の重要な東西交通幹線である、阪急電鉄と阪神国道が開通することになります(中略)。 こうして開通した阪急神戸本線や阪神国道の沿線には、宅地開発や耕地整理がすすめられ、新たな市街地が形成されていきました。    

 開通当時、国道線の沿線は農村的雰囲気が漂っていましたが、大庄〔おおしょう〕村や小田村などで耕地整理が行なわれて急速に住宅化がすすんだこともあり、昭和10年代には利用者が大幅に増加していきます。戦争をはさんで、昭和20年代半ばにピークを記録しています。
 この時期、国道線の主力となったのは昭和12年製の阪神71型でした。屋根まで届くような縦長の窓が連なっているのが特徴で、流線型の開放的なガラス張りのデザインから「金魚鉢」との愛称で親しまれました。新時代の到来を予期させる、先進的な路面電車でした。

ところが、高度経済成長期に入るとともに、利用者数は減少に転じます。自動車の普及によって道路混雑が激しくなり、定時運行がままならなくなったのです。市内で一番利用者が多かったのは難波〔なにわ〕停留所でしたが、昭和27年に14,691人いた乗客数が、昭和37年には2,211人と半減。やがて、国道2号や周辺道路が渋滞する原因として、国道線がやり玉にあげられるようになります。累積赤字の負担に耐えかねていた阪神電鉄はもちろん、兵庫県や尼崎市も、廃止やむなしという方向へと流れていきました。 

昭和493月に上甲子園~東神戸間が廃止され、残っていた野田~上甲子園間も、昭和50年に営業を取りやめました。最終営業日の55日は、名残を惜しむ市民で終日ごった返しました。なお、金魚鉢こと71型電車は、市内の水明〔すいめい〕公園と蓬川〔よもがわ〕公園に保存されています。』(文献3)  

とあり、建設の過程、その後の状況、廃止前後の様子が記述されています。

 今回は国道線建設の目的や、その当時および戦後の様子と写真を文献から引用して紹介しました。次回は小生の写真で、
 第2回:八幡から西大島まで、カラー写真を交えて紹介します。
 第3回:甲子園線のカラーと7174の保存の様子を紹介します。