秩父鉄道「2009年わくわく鉄道フェスタ」Ⅱ

引続き電車について解説する。

基本編成は3両で、元国鉄101系のデハ1000系10編成、元都営地下鉄三田線6000系のデハ5000系4編成、急行用の元西武101系のデハ6000系3編成、今年3月に入線した元東急8500系のデハ7000系2編成が在籍し、車両総数は19編成57両である。

デハ1000系

昭和61年から平成元年にかけて旧国鉄101系3両編成を12本購入し、デハ1000+デハ1100+クハ1200とした。平成6年から9年にかけて冷房改造が実施されたが、中間車のデハ1100には取り付けられなかった。この時に過電流対策と容量増加に対応するためデハ1000にパンタを増設して2丁パンタとなったため、多少イメージが変わった。昨年8月、熊谷が最高気温40℃を記録した日に羽生~熊谷間を乗車した時、ものは試しと非冷房車に乗ったが、あまりの暑さに早々に冷房車に退散した。引続きワンマン改造が実施され平成11年度までに完了した。今年3月、元東急8500系のデハ7000系が2編成入線したため代替で2編成廃車となった。残りの10編成は現在も主力として活躍しているが、車体及び機器の老朽化は否めず、平成24年度までに廃車予定となっている。平成19年10月、さいたま市に鉄道博物館が開館するのに合わせて、4編成を旧国鉄時代の塗装に変更した。今年創立110周年を記念してデハ1002の編成を旧塗装に変更、11月頃までにもう1編成旧塗装に変更される予定である。国鉄時代の旧番と現状をまとめると次の通りである。

  【現 車 号】                  【国鉄時代の車号】      【塗装】

1. デハ1001+デハ1101+クハ1201(クモハ100-117+モハ101-100+クハ101-58)   スカイブルー   

2. デハ1002+デハ1102+クハ1202(クモハ100-140+モハ101-179+クハ101-61)  秩父旧塗装

3. デハ1003+デハ1103+クハ1203(クモハ100-133+モハ101-118+クハ101-62)  標準色

4. デハ1004+デハ1104+クハ1204(クモハ100-183+モハ101-252+クハ101-75)  H21.3 廃車

5. デハ1005+デハ1105+クハ1205(クモハ100-166+モハ101-222+クハ101-64)  標準色

6. デハ1006+デハ1106+クハ1206(クモハ100-1013+モハ101-1013+クハ101-65) H21.3 廃車

7. デハ1007+デハ1107+クハ1207(クモハ100-130+モハ101-112+クハ101-66)  標準色

8. デハ1008+デハ1108+クハ1208(クモハ100-154+モハ101-212+クハ101-79)  標準色

9. デハ1009+デハ1109+クハ1209(クモハ100-174+モハ101-236+クハ101-80)  関西線色

10.デハ1010+デハ1110+クハ1210(クモハ100-160+モハ101-208+クハ101-73)  標準色

11.デハ1011+デハ1111+クハ1211(クモハ100-175+モハ101-237+クハ101-81)    オレンジ

12.デハ1012+デハ1112+クハ1212(クモハ100-192+モハ101-263+クハ101-82)  カナリア

★クモハ100-1013+モハ101-1013は武蔵野線用のAA基準改造車で旧番は次の通り

クモハ100-1013 クモハ100-53(新製時モハ90616)

モハ101-1013 モハ100-50(新製時モハ90109)

 

デハ1001+デハ1101+クハ1201 2156 三峰口

 

デハ1009+デハ1109+クハ1209 21516 羽生/この電車が熊谷到着後、そのまま臨時広瀬川原行となった。

 

デハ1011+デハ1111+クハ1211 2156 波久礼

 

クハ1211   21516 羽生

 

デハ1012+デハ1112+クハ1212 21516 広瀬川原

 

デハ1008+デハ1108+クハ1208 2156 三峰口 

デハ5000系

元都営地下鉄三田線の6000系で平成11年に入線した。都営6000系は昭和47年アルナ工機製で6両編成(1~8号車・8両編成の予定であったため3、4号車は欠)で当初非冷房であったが、平成2年頃冷房改造されている。秩父鉄道に入線したのは、1、6、8号車で、6号車にパンタ設置、8号車のTc化が実施された。車内の「アルナ工機」の銘板で何となく関西の香りを感じるのは私だけだろうか。旧車号との対照は下記の通りである。

【現 車 号】                       【都営三田線時代の車号】        

1. デハ5001+デハ5101+クハ5201  (6191+6196+6198)     

2. デハ5002+デハ5102+クハ5202  (6241+6426+6428)  

3. デハ5003+デハ5103+クハ5203  (6251+6256+6258)  

4. デハ5004+デハ5104+クハ5204  (6261+6266+6268)

 

デハ5001    2156 熊谷

 

クハ5201+デハ5101+デハ5001        2156 熊谷

デハ3000系

急行列車に使用されていた、旧JR東日本165系改造の3000系を置き換えるため、平成17年、西武鉄道の新101系を購入し、上り向きTcのMc化、中扉閉鎖2扉化、ロマンスシート化等が実施された。旧車号との対照は下記の通りである。

【現 車 号】                     【西武鉄道時代の車号】        

1. デハ6001+デハ6101+クハ6201(クハ1230・モハ230+モハ229+クハ1229)     

2. デハ6002+デハ6102+クハ6202(クハ1232・モハ232+モハ231+クハ1231) 

3. デハ6003+デハ6103+クハ6203(クハ1234・モハ234+モハ233+クハ1233)

★先頭のデハは中間モハにクハの運転台を接合して先頭車化

 

 ハ6101     2156 羽生

 

クハ6203   21516 羽生

 

クハ6203の前身クハ1233 18. 5.14 広瀬川原 

デハ7000系

デハ1000系の置換えのため、今年3月東急8500系を2編成購入した。編成は従来と異なり、両端電動車(Mc++Mc)となった。秩父鉄道初の界磁チョッパ制御車で、

扉横に開閉ボタンが設置された他、ドアチャイム、LED式車内案内表示器、車椅子スペースの新設等バリアフリー対応が実施されている。旧車号との対照は下記の通りである。

【現 車 号】                         【東急時代の車号】        

1. デハ7001+サハ6101+デハ7201  (デハ8509+サハ8950+デハ8609)

2. デハ7002+サハ6102+デハ7203  (デハ8709+サハ8926+デハ8809)

デハ7002とデハ7203は元中間車であったが、入線に際し運転台を取り付けている。

 

デハ7001+サハ6101+デハ7201    2156 熊谷

 

デハ7002+サハ6102+デハ7202(寄居発の臨時電車)21516 広瀬川原

 

デハ7202、クハ1209、デハ7201の並び  21516 広瀬川原

過去の車両については、機関車と併せて後日紹介する。

台湾鉄路全線乗車の旅 Part4 阿里山森林鉄路Ⅱ

第4日目 5月23日

① 沼平4:40→4:55祝山
② 祝山5:50→6:05沼平
③ 阿里山12:00→14:26トンネル
④ 樟脳寮15:05→16:09嘉義

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台湾鉄道全線乗車の旅 Part3 阿里山森林鉄路

祝、写真展開催!
ぶんしゅうは、何もお手使いできずで、もうしわけありません。
台湾鉄道全線乗車の旅日記を続けて、掲載させていただきます。

第3日目 5月22日

① 台北8:30-(自強1009)→11:44嘉義
② 嘉義13:25(阿里山森林鉄路)→17:32阿里山

今日は、ホテルで、朝食のサンドイッチとコーヒーを受け取れました。MTR車内の飲食は、厳禁罰金です。自強号の指定席券は、旅行社から受け取っています。ゆっくりと、台北駅ベンチで食べながら、列車を待ちました。嘉義までは、3時間余りの乗車です。席は、通路側でしたが、カメラを持っていると分ると、窓側席のおばさんが、換わってくださいました。今日も親切を受けての、スタートです。 続きを読む

写真展準備完了! 6日から開催

クローバー会写真展「鉄路輝く」が、いよいよ大阪・交通科学博物館で6月6日(土)から開催されます。

会員から寄せられた選りすぐりの写真は全部で90点。厳冬の北海道から、灼熱の九州から、はたまた砂塵舞う中国から、会員がヒマとカネに飽かして撮りまくった珠玉の作品が見事に揃いました。

プリントはフジカラーの極上仕上げ、大きく伸ばした写真との対話は、あたかも名画を見るような至福のひと時です。

これに先立ち、プリントのパネル貼り、会場での設営と、連日続けられた準備作業は、関係者の並々ならぬ努力と協力があってこその無事完了でした。

メール環境にある会員には、写真展の案内を配信していますので、ご確認ください。さあ、弁天町へ、交通科学博物館へ、写真展へ。

パネル貼りした写真を梱包して発送

1点ずつ実測しながらピンで貼り付ける

人間国宝の貴重な写真も展示、懐かしのマイテHMも

最後に看板を取り付けて設営完了

台湾全線乗車の旅 Part2 CK124平渓線を走る

5月21日

①台北7:30-(自強2031)→08:08瑞芳8:44(区間3209)→9:24菁桐
②菁桐9:32(区間3212)→9:56大華
 
 6:40、いよいよ平渓線へ向けての出発です。ホテルは、朝食付きでしたが、何と開始は、8時からと信じられません。安いホテルは、これだから困ります。朝食は断り、セブンイレブンでサンドイッチを買いました。

MTRで西門駅から、1つ目の台北車駅で下車、地下コンコースの台湾鉄路切符発売所で、自強号の指定席券を購入しました。わずか38分の乗車ですが、区間列車だと、1時間は、かかってしまいます。また、早朝は、直通も極めて少なく、乗り継ぎは、もっと時間がかかります。
瑞芳駅で下車、約30分の乗継時間を利用して、駅前の市場を覗いてみました。海に近いので、海産物は豊富です。新鮮な野菜も並んでいます。普段から、料理好きですので、こうやって地元の食材を見るのは、大いに興味があります。CK124の牽引する列車時刻は、分っていましたので、あらかじめ撮影に便利な、ダイヤグラムも準備しました。


平渓線は、1921年台陽鉱業の炭鉱専用線として、侯硐~菁桐間15.4kmが、開業しました。三貂嶺~侯硐間は、東部幹線の宜蘭線と同じ路線を走りますので、日本と線区名の設定が、異なっています。また、平渓線の一日乗車券は、瑞芳からとなっているところも、異なっています。

平渓線は、前回乗車しています。全線走行ビデオも撮影してありましたので、何度も見なおしました。撮影地は、大体決めましたが、2年間で変わっているかも知れません。CK124が走行する前に、再度確認をすることにしました。
瑞芳駅には、日本車両製のDRC1000型3両編成が、入線してきました。台湾の非電化ローカル線には、このDCが使用されています。
最終的には、やはり無難に、代表的な大華~十分間の、吊橋をバックにした鉄橋付近を撮影地に決めました。ロケハン列車から見ると、既に地元ファンが、来ています。

終点の菁桐駅からバックして、大華駅で下車。ここからは、線路上を歩かないと、撮影地には行けません。列車ダイヤを再度確認して、徒歩中に走行しないのを確認してから、向かいました。駅間は、2.9キロですが、上り勾配です。駅間にある唯一のトンネルまで行くと、ご夫婦らしき若者が、いました。『ニイハオ』と、声をかけてみますと、日本語で返事がきます。こんな所で、日本の鉄ちゃんに会うとは、びっくりです。

どうして、こんな所にいるのかと聞くと、たまたま近くにある、有名な滝を見学に来たら、SLが走るというので、撮影するために、ここで待っていると言います。とてもいい写真が、撮れる場所ではありませんので、一緒にトンネルを抜けての撮影地を、勧めました。
先が見えている、それほど、長いトンネルではありません。トンネルを抜け、吊橋を渡って、撮影地に着きました。3人の台湾人の鉄道ファンが、三脚を立てて、準備していました。

やはり、台湾にも熱心な鉄道ファンは、いるのですね。彼らも、3人もの日本人が来たので、びっくりしていました。6人で、いろいろと話をして、CK124が来る時間を待ちました。

10:35、山間にドラフトが響き渡り、CK124が3両の客車を牽引して、やってきました。そして、最後部には、DHL107が後部補機として、連結されています。平渓線は、急勾配とトンネルが多いので、新鮮な空気を入れるための対応策だそうです。日本人ご夫婦の奥さんには、ビデオ撮影をお願いしました。

折り返しを、追いかけたいのですが、列車がありません。次の撮影は、十分駅付近と決め手、駅前食堂で、一緒に昼食をとりました。

聞けば、同じ職場に勤めていたが、辞めて、10泊11日の台湾旅行をしている。2度目の台湾で、前回は、1月に温泉旅行を楽しんだとの事ですので、情報を仕入れました。食事最中に、十分駅付近での撮影としました。


お2人と別れてからは、十分駅の裏山にある台糖媒礦博物館(旧平渓媒礦)を、目指しました。しかし、急坂を30分歩いても、たどり着けません。蒸し暑さで、とうとうリタイアせざるを得ないと、思った時に、1台の乗用車が止まってくれました。
開かれた窓から、『どこまで行かれますか?』と、日本語で尋ねられました。台糖媒礦博物館と答えると、『丁度、そこへ行くので、乗っていきなさい』と、ありがたいお言葉をいただきました。本当に助かりました。

運転しておられたのは、台糖媒礦博物館職員で、もう1人は、日本に留学して、台湾の会社に日本語通訳として、勤務していたが、先日辞めたので、旅行をしている若い台湾人でした。彼は、台糖媒礦博物館へ行くのは、遠いので、駅から電話をして、迎えに来てもらったのです。もし、行かれる方がおられましたら、電話をして送迎車を呼ぶ事をお勧めします。この道中は、きつ過ぎます。

日本語通訳付きとなると、おおいに助かります。館長が出てきて、博物館の案内をしてくれます。通訳は、彼がしてくれました。炭鉱廃止後に、当時を再現したDVDがあるというので、見せてもらいましたが、途中で停電しました。お詫びといって、冷たいジュースのサービスと、館長自らが、盛況だった当時の話をいただきました。

雷が鳴り出し、空が黒く鳴り出しましたので、炭鉱跡を見ながら、急いでの下山です。十分駅に着くと、激しい雷雨になりました。十分駅近くの古い商店・食堂街と、列車のマッチングが良かったのですが、丁度いい頃には、列車が来ません。

結局この日は、撮影を諦めて、台北へと彼と一緒に、話をしながら帰りました。瑞芳駅にて、台湾では初めての評判の駅弁を買い、車内で食しました。今日も、やさしい台湾人と、出会えた1日でした。 Part3へ続く

1953年高校生東京へ その4


先回からジャスト1か月経過してしまい、完全に気が抜けた発泡酒みたいだが4回目を。同行者は上野に着いたとたん、上野駅の後架(WC)で用心金ン千円を落としてしまい、意気阻喪してそのまま京都に帰ったので、撮影行は芳紀16歳半の小生1人である。


ED101 横須賀

このとき今少し知識や先達があって、電気機関車や電車なんぞ見向きもせず、小湊、九十九里、日本ニッケル、常総筑波、鹿島参宮鉄道などに行っていたら、と今になって悔しい次第である。このときの写真は従前殆どプリントさえしておらず、今回デジタルで自分自身が初めて見た!というものが少なくない。自分で言うのも恥ずかしいぐらい、本当に詰まらないものばかりで、要は早い時点で、それは自覚反省していたのだろう(そんなものをわざわざ他人に見せるな、という手合いが必ず居るだろうが)。

だが、そこが老人の厚顔無恥なところで、だれがどうい無理やり「ご高覧」に供する。行動範囲は情報不足でせいぜい横須賀、久里浜程度である。


ED1727 新宿

EF108 横須賀

EF506 東京

EF567 東京
EF5830 東京 先台車が鋳鋼製 後ろに暖房車を従えている

US ARMY 8585 (米軍貸与) 品川

このGE製電気式ディーゼル機関車は、米軍が占領各地に持ち込んだ規格機で、以前「おじん2人」シリーズのギリシャ編でご覧頂いた1D1マッカーサー蒸機(メーターゲージ)などと同様で、同系メーターゲージ機はフランス等欧州にも持ち込まれた。鉄道へのディーゼル燃料の割当がない時期(要するに敗戦―占領初期)から国鉄に貸与され、米軍関連物資や石油関連入換等に従事していた。関西では鷹取にも居り、海岸の石油基地までの貨物線(市電と平面クロスがあり、鷹取から南に分岐する区間は道路で残り、カーブが名残である)に働いていた。のちDD12になったのは周知で、確か廃車後名古屋鉄道が何両か購入したと記憶するが。優秀な機関車だったようだ。


B206 横須賀 多分米軍関連輸送用であろう


旧海軍5号機 久里浜

旧海軍2号機 久里浜

旧海軍施設部の建設用蒸機だが、敗戦後米軍の命令で旧軍、軍需工場等の施設が賠償物件に指定され、大蔵省管理となった。これらの解除は概ね1954年頃で、各地にかような放棄同然の車輌が存在した。2号は早い時点の本江機械=立山重工業製であることが、米国風サンドボックスで分かるが、5号のメーカーは不詳。一見日立風だが、どこか零細メーカーかもしれない。

台湾鉄路全線乗車の旅 Part1 旅立ち

6月の写真展への出展作品の選考が終わると、またどこかへと、行きたくなりました。気候が、丁度良い韓国鉄路か、2年ぶりの台湾鉄路にするか、迷っていました。どちらも、グルメも満載で、甲乙つけがたいと、ホームページを見ていたら、台湾鉄路の平渓線に、1年に2回しか走らないC124が、5月21日に走行するとの記事を、見つけました。プラチナチケットです。これは、乗ってみたいと、申込締切後でしたが、試しに、インターネットで申し込みをすると、キャンセルが出たのか、OKの返事が出ました。ラッキーです。これで、目的地は決まりました。出発まで、もう数日しかありません。阿里山森林鉄道にも行ってみたいので、航空券、鉄路切符とホテルの手配も、インターネット予約しました。

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韓国1971年その2

アンニョンハセヨ チョヌン準特急ラゴハムニダ

 前回、慶州の蒸機ミカサ他を発信しましてしばらく経ちました。多少痴呆が始まっており、前回は1970年4月で報告しましたが、正式には1971年4月22日から26日までの訪韓でした。謹んでお詫び申し上げます。さて、今回は4月23日慶州からバスで東大邱に出てソウルに向かった時の駅等の様子を載せました。

1971.4.23 慶州駅構内で入れ替えをするミカサ120

1971.4.23 ミカサ120 ナンバープレートはハングルでミカ3と読める

1971.4.23 大邱は韓国の大都市のひとつだが、東大邱は何も無く、駅だけが新しかった。ミカサのテンダーには石炭らしきものは見られず重油炊きなのでしょうか。

1071.4.24 東大邱駅の釜山行き特急 駅舎は新しいが賑わいが無かった

1971.4.24 同列車出発 後部客車

少し前の流鉄(旧流山電鉄)

引続き、現役時代の昭和43年4月8日、初めて訪問した時に撮影した画像をお目にかける。当時の在籍車両はモハ5両、クハ2両の計7両で、当時途中交換可能駅がなく、運転間隔を30分以下につめることができず乗客数に応じて、単行、2連、4連で運行されていた。

モハ100形(101~103、105)

南武線の前身、南武鉄道のモハ100形で、大正15年に101~106、昭和3年に107~111、昭和6年に112~115の15両が汽車会社で作られた。昭和19年4月1日付で青梅線の前身、青梅電気鉄道と共に買収されたが、車両の形式車号はそのままであった。流山には昭和24年12月26日の電化時に101~103の3両が入線、昭和30年にモハ105が入線した。各車両の経歴は画像のキャプションの通りである。

モハ101/前身は昭和3年製モハ107である。

 

モハ102/前身は昭和6年製モハ115である。

 

 

モハ103/前身は大正15年製モハ106である。

モハ105/前身は昭和6年製モハ113である。昭和24年12月電装解除されサハ代用となったが、昭和28年6月の改番で、片運のクハ6002となり可部線で使用されていた。入線時に手持ち部品で再電装と両運への復元が行われた。

クハ51/飯田線、豊橋~大海間の前身、豊川鉄道のクハ62が前身で、昭和2年川崎造船製である。昭和28年6月の改番で、クハ5601となり可部線で使用されていたが、後に福塩線に転属、昭和34年3月に廃車となり、翌年3月に入線した。

モハ1001+クハ52/西武池袋線の前身、武蔵野鉄道のデハ1321とデハ1323が前身で、共に昭和2年日本車両製である。昭和38年3月にまずクハ52が入線し、12月にモハ1001が入線した。常時2両ペアで使用されていたが、完全な固定編成ではなく、クハ52は元京浜急行クハ480形の車体を利用して作られたモハ1101と組むこともあった。また、クハ52は車体更新時に窓の2段化とアルミサッシ化が行われた。

 

サハ31(廃車)/昭和8年汽車会社で作られたガソリンカー・キハ31が前身。昭和24年頃にエンジンを降ろしサハとして使用されていた。昭和38年5月に廃車されたが、訪問時には休憩室として使用されていた。その後も解体を免れ、現在は流山運動公園で保存されている。エンジン他機器が全く付いてないが、戦前製の単車ガソリンカーの生残りとして貴重な存在である。尚、流山運動公園は流山駅から歩くと30分程かかるが、つくばエクスプレスの流山セントラルパーク駅からは10分位である。園内に入ってから場所がわからず探し回ったが、テニスコートの直ぐ後ろの森の中にある。以前は車内にも入れたようであるが、現在は、隣に展示されているD5114のアスベストが飛散する恐れがあるとかで、柵の中に入れない。

流鉄「明星」さよなら運転

流鉄(元総武流山電鉄で昨年8月1日社名変更)の「明星」編成(クモハ2003+モハ2101+クハ21)が4月29日「さよなら運転」を最後に引退した。同編成は平成7年12月、西武鉄道701系を購入したもので、入線に当りクハ1745+モハ745+モハ746+クハ1746の4両編成を、クハ1745の運転台部分をモハ745に接合して3両編成に改造する工事を実施している。今回の廃車による代替車はなく、同社の保有車両は3両編成×2本(流星/クモハ3001+モハ3101+クハ31・若葉/クモハ3002+モハ3102+クハ32)2両編成×2本(青空/クモハ2001+クモハ2002・なの花/クモハ2005+クモハ2006)の計10両となった。今年の11月頃に西武から元101系の2両編成が入線する予定となっているが、これが増備なのか代替廃車となる車両が出るのかは不明である。

当日は流山発8時56分から11往復し、馬橋発14時40分の列車がラストランとなり、流山到着後撮影会が実施された。今まで朝のラッシュ時は3両編成が3編成使用されていたが、4月30日から1編成2両編成が混在することになった。

平成17年8月24日「つくばエクスプレス」が開業し、鰭ケ崎駅から0.7キロ離れた地点に「南流山駅」、流山駅から1.5キロ離れた地点に「流山セントラルパーク駅」が開業した結果、都心に向かう通勤、通学客がそちらに流れてしまったため、乗客が大幅に減少し、ラッシュのピーク時でも2両で間に合うようになった。昭和48年4月1日武蔵野線府中本町~新松戸間が開業し、南流山駅が設置された時も乗客の逸走が心配されたが、都心に直結していないことと、貨物主体のため列車本数が少なく使い勝手が悪かったことにより等により、それほど影響はなかった。ウソのような話であるが、昭和60年頃まで帰宅ラッシュ時とも云える夜8時台に新松戸駅を発車する府中本町方面行の電車は1本しかなかった。

2両編成の「青空」と「なの花」はワンマン対応に改造されているが、現状は車掌が乗務している。会社の規模が小さく、従業員数も少なく、兼業といっても貸室業位しか行っておらず、人員削減は簡単にはいかないようである。

 

さよなら運転のヘッドマーク(流山向き)

 

最終1本前の馬橋行(小金城址~鰭ヶ崎間)

 

最終1本前の流山行(鰭ヶ崎~平和台間)

 

馬橋行最終(鰭ヶ崎~平和台間)

 

流山駅に到着した最終電車

 

到着後行われた撮影会

 

車内吊りのポスター

 

4月30日からの時刻表(一部列車が2両編成になっただけでダイヤ改正はない)

DRFC関東連絡網について

先日の犬山総会の頃から「関東にもOB諸氏が沢山住んでいるのに、世代を超えた付き合いが無いのは寂しいことだ」とか、有名撮影地で「どかんかー、ボケ~!」と怒鳴った相手がOB会員だったら恥かしいなどの話が出ました。
また京都や地方のOB諸氏が東京へ出張やプライベートで来られたとき、撮影の同行や心ばかりの歓迎の宴を催せれば、もっと楽しいだろうとも考えました。
そこで、どんな方々が何処に居らっしゃって鉄活動をされているのかいないのか、取り敢えずメールで連絡の付く方を対象に「DRFC関東連絡網」と言うメーリングリスト(ML)を作りました。
現在は10数名の参加者が居らっしゃいます。
参加資格は関東在住者に限らず、東京へ来られる機会がある方も歓迎しますので、奮ってご参加ください。
ML参加希望の申し込み先 → y_square@wta.att.ne.jp
 
さて今夜はミーティングと称し、顔合わせを兼ねて軽いお食事会(飲み会)を西新宿の都庁周辺で挙行しました。
参加者は準特急さん、シグマ太郎さん、デカンショまつり号さん、新所沢都民さん、曙太郎さん、ロギング太郎の6名です。
水曜日は「No残業day」と言う社会慣行があり、今後も1~2カ月に一回位のペースで気長に開催しようと考えています。
会場となるお店は客単価が3,000円ほどで済み、閉店が21時と極めて健康的です。
 
今回の会合で、
1.会の名称を「DRFC関東連絡網」とする。
2.会長を「準特急」氏とする。
3.副会長を「デカンショまつり号」氏とする。
4.MLの世話役を「ロギング太郎」とする。
ことを決めました。
 
今後は関東在住者への呼びかけを広め、OB会の関東支部への昇格に向けて、活動を進めてまいります。
皆々様の、ご支援をお願いします。
また「私は関東の○○さんと親交がある」などの情報がありましたら、上記メールアドレスへご連絡頂ければ幸甚です。

市電誘拐事件!?

京都市内の高架下(コンプライアンスのために場所を秘す)に保管されていた京都市電(700型、500型など)がいつの間にかなくなっているのに近くに住んでいる市電マニアが気づいて大騒ぎになっている。

いなくなったのが分かったのが10日の日曜日。散歩していた市電マニアがいつもの様に高架下に目をやると、トタン葺きの小屋は跡形もなくなりきれいに整地されていた。あわてて付近を探したが行方はようとして分かっていない。また今のところ身代金などの要求は来ていない模様。

だれか行き先を知っている方があれば編集部までご連絡願いたし。

老人の妄言

5月12日読売新聞夕刊に、佐藤優(同志社神学部出身・元外務省主任分析官)が「裏切りマナー」と題した一文を草している。冒頭に『旧ソ連崩壊前後の政争で裏切りを何度も目撃した。共産党に忠誠を誓っていた忠実な官僚が、崩壊後は、反共路線を掲げたエリツィン大統領の側近となった。こういう裏切りをした官僚が過激なほど反共的になった』こと。彼自身拘置所に512日収容されている間、旧同僚や親しくしていた学者などが検察庁に迎合したことも記している。

これは別段今に始まった事ではない。拙老幼少のみぎりの悲しい体験だが、戦時中「軍国おじさん」と称された人たち、教員が、学校だけでなく、町内にも必ず複数いた。当然職場にもいたのであろう。彼らは実に元気に「鬼畜米英」「撃ちてし止まむ」「神風が吹く」と唱えまわっていた。

それはそれでまあいい。新聞という新聞も全部が「軍国新聞」(朝日新聞は旗頭だった)だったのだから。問題は敗戦後で、彼ら、かの新聞は、ことごとくが手のひらを返し、生まれながらの平和主義者であったかのように、実に見事に「親米・平和主義者」に変身したのであった。ある数学の教師は、「英語はすばらしい。名詞に単数・複数の区別がある」といい、中学生だった拙老は、複数といっても、sがつくだけで2でも10万でも同じじゃないか、と感じた記憶が鮮明である。

鉄道趣味(というか、模型)界にもいた。戦時中の「科学と模型」誌に勇ましい「軍国模型観」めいたものを書き続けていたYなる御仁も、たちまち華麗に変身し、「自分は戦時中反戦主義者であった」「空威張りの軍部は着々と敗戦を招く」などと書きだした。流石にTMS誌で山崎主筆にボロクソに非難され、確かその後はピク誌に浜松工場のC53のことなどの短信ぐらいで姿というか、名前を見せなくなったが。

なんでこの欄にこんな事を、といぶかしく思われるだろう。こうした手合いは、別に軍国主義や平和、親米などとは、実は何の関係もない、とあるとき(勿論長じてからだが)気付いた。つまりは、常にその時代、最も有利で余人との差別化がなしえるものを、いち早く(他の人たちより)察知し、人より早く、かつ声高に、あたかもそれが自分の変わらぬ、昔からの信念であるかのように唱えているのである。

しかしそれとて、誰でも出来るというわけではないから、一種の能力、あるいは処世術には違いない。要は鉄面皮であり、恥知らずなのだが、こうした手合いに共通するのは、恐らく自分自身、その不合理性や非道徳性などに「全く」気付いていないことであろう。

で、この話は起承転結とは参らぬが、例えばかつての北海道C62騒ぎを思い出されたい。あの時、どれだけの人間が、集団ヒステリー状態で北海道へ行ったか。行った人間をこき下ろしているのではないから誤解の無いように願いたいが、この一連の蒸気機関車ブームで、俄かマニアがどっさり誕生し、しかも彼らに共通点があった。実は昔から蒸気機関車が好きだった、と異口同音に唱えていた事で、そんならもっと早く写真を撮っていればいいのに、と正直思ったものである。

次の共通点は、これらの「俄かマニア」のエネルギー発散状況が尋常でなく、拙老にはマニア歴の短さ(引け目?)を、ボルテージの高さで一生懸命補い、繕っていたように思えてならない。そして見事に、数年で彼らは姿を消した。要は「流行りもの」にいち早く飛びついただけで、彼らは今は何をターゲットにしているんだろうか。

これも誤解の無いように願いたいが、何をし、何に熱中しようと、他人や社会に迷惑を与えない限り、何時やめようと、その人の勝手である。これは拙老とて全く異論はない。しかし、どうもこういう御仁は、あることに熱中しているその間、なんやらいい訳?めいた、自分を納得させるような言動も必然のようだ。

最近若干下火になった感もないでもないが、燎原の火のごとく燃え盛り続けた「廃線跡訪問記」も、ややこれに似たところがあるように思える。これも別段人に迷惑をかけるわけではないから、何をしようと、書こうと、その人の勝手だし、現実にその本が「猛烈に」売れるのだから、そのようなものが書けない拙老にはねたましい限りである。中には廃止されないと興味の対象たりえないとしか思えない、ある程度の年齢の方も居られるが、彼らはその鉄道が健在な時には、一体何をしておられたのか。彼らも一種の「軍国おじさん」だと理解すれば納得もするのだが。

やれやれ、徹頭徹尾、老人の「怨み節」になってしまった。こんな事を書くとは、即ち先がそう長くないことでありますな。

伊予鉄道横河原線/森松線


森松駅

[2904]ぶんしゅう旅日記で伊予鉄道の鉄道線が出た。つい先頃路面電車の写真をこれでもかとばかりに並べ、多分に顰蹙を買ったばかりだが、横河原線ときては黙っておれない。で、また懲りずに40年以上前の写真を探し、いそいそとスキャンする事に。撮影は1965年7月12日と1966年4月29日。

周知の通り伊予鉄道は四国最初の鉄道(私設鉄道)であり、762mm軌間は我国最初である。機関車始め2軸客車は当初ドイツから輸入され、連結器は螺旋連環式だが、通常左右にあるバッファーが中央にユニコンのような1本のみ。

1911年以降路面電車が加わり、軌間762mmの主要線区は1067mm軌間に拡幅改築し電化。非電化の線区も次々と1067mmに改軌されたのは、単に貨車を直通させるためで、車体も連結器も元のまま。単に軌間を1フィート拡幅したのみで、予讃線が松山に達した以後も貨車の相互直通はなかった。

空襲でかなりの被害があったが、敗戦後1950年に郡中線が電車化したのち、非電化で残った横河原、森松線は1954年蒸気機関車を廃止しディーゼル機関車に。客車、貨車は全部2軸車だったが、客車2両をつなぎ、旧軸箱守を生かしてTR23タイプ?のボギー台車(メタル軸箱とコロ軸受とがあった)をはいたボギー客車に改造。DL1両がボギー客車3両(型式ハフ550+ハ500+ハニフ570)を牽引するのが基本で、ラッシュには重連DLがボギー客車6両を牽く列車もあった。森松線は1965年12月1日廃止。横河原線は松山市-平井が1967年6月10日、平井-横河原が10月1日、それぞれ改築・電化されて今日に到っている。
横河原駅を裏から見る

横河原駅

横河原線の列車

退校時の見奈良駅 駅員はラッシュ時以外無配置

横河原駅の本屋内部の写真がなく、現在の姿と照合できないのが残念だが、森松は撮っており、恐らく雰囲気に大差はないと思われるので、代用させていただく。改札口上部の発車時刻表ではおおむね60分毎の発車で、発駅の松山市では30分毎に横河原、森松行が交互に発車。だから両線が分岐する伊予立花では、上下DL牽引列車が1時間計4本=15分毎に行き交っていたことになる。


森松駅改札口と出札口 7、1019時台以外は1時間1本しか列車はない

森松駅 結構駅員がいるのは当時どこでも同じ 手小荷物も扱っていた



伊予立花駅 上下DL牽引列車が15分毎に行違う プラットホームが低い

入鋏式車内補充券は通常丸穴パンチだが、伊予鉄道では駅改札口で使うパンチを車掌も使っていたのが極めて珍しく、他例を知らない。

江若バスの色

西村雅幸様

高島町駅の模型、細かい所までよく表現されており、感心して拝見しております。江若鉄道OBの方がご覧になれば泣いて喜ばれるのではないかと思います。

江若バスの写真は、鉄道廃止後も東京に引越しするまで、関係者の方とお付き合いさせていただいた関係で、ボンネット車、リヤエンジン車を含めていっぱいあり、ボンネット廃車時のイベント時のお手伝いをさせていただいたりしておりました。ボンネット車の最後の1両がいよいよ廃車になる時、会社の方に半分冗談のつもりで「以前走っていた栗原線と和邇~途中線に走らせたら」と提案したところ、その方から「運用を変更したから」と電話がありました。最終日に栗原バス停で、集落の人達がバスと一緒に記念撮影されているのを見て「よかった」と思いました。

 

滋2い1074(昭和41年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、堅田の名鉄マリーナホテルで送迎用として使用されていたが、現在は近江鉄道の所有となり、彦根市内で「ご城下巡回バス」として使用中。

 

滋2い1082(昭和42年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、濃飛自動車に譲渡され、観光路線で使用中。ボンネット部分が古いものと取り替えられたり、扉の移設が行われためスタイルは変化している。

 

 滋2い1081(昭和42年式BXD30) 昭和57年2月16日付廃車/最後まで残ったボンネットバスであるが、廃車後の動向は不明。多分どこかに残っていると思われるが営業用ではないのは事実である。

 

和邇・途中線の栗原道~下竜華間を走行する滋2い1074

 

栗原線の栗原道~栗原間を走行する滋2い1074

 

白髭神社前(右側は江若鉄道の線路跡) 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

 

朽木学校前の車庫 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

町居付近 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時/走行している道路は、京都と小浜を結ぶ通称「鯖街道」国道367号線であるが、今もこんなに狭いのだろうか。

 

坊村  昭和57年1月17日、お別れイベント走行時

 

江若鉄道バスの色を教えてください

江若鉄道高島町駅の本屋がほぼ完成しました。数枚の写真からのでっちあげですが なんとか雰囲気だけは再現できたのではと自己満足にひたっています。この他にも上下ホームの待合所や貨物上屋も完成し、日通事務所、タクシー営業所、保線小屋、便所のキットも出来上がって建物関係は大体揃ったので いよいよベース基板の作成、レール敷設などの工事を始めます。以前にも写真を投稿しましたが、駅前に江若バスが停まっていて、藤本先生から日野BT31型であることを教えて頂きました。BT31の図面も作って自作しようと意気込んでいましたが、曲線の多いバス車体製作は私の手におえず、断念してオークションでボンネットバスを手に入れてこれを江若鉄道バスに変身させることにしました。このモデルは1966年式いすずTSD40型で 国際興業飯能営業所のさわらび号です。江若にこの形式がいたようには思えませんが、色だけを江若風に塗り替えて再現しようと思います。さてここでまた問題はバスの塗装色です。おおよその色は記憶にあるものの、やはりカラー写真があれば見てみたいのです。欲を言えばボンネットバスの場合の塗りわけが判ればなお有難いのですが・・・。写真そのものでも、どこかのWEBサイトの紹介でも 何か参考になる情報を教えてください。今年は車両製作は少しお休みして 高島町駅の完成に向けて慣れない工作に挑戦です。ではよろしくお願いします。 

「みんなの鉄道」写真展のお知らせ

~おいでよ!レールエンターテイメント~と題して写真展が東京の富士フイルムスクエアー1階ギャラリー「PHOTO IS」で開催中です。

6月から弁天町・鉄道科学館でDRFC写真展「鉄路輝く」が開催されますがわれわれの腕前向上にはプロの作品を見ることが欠かせません。東京の六本木なので関西在住の我々はなかなか行けませんが東京支部員の皆さんは見てきて感想などを聞かせてほしいものです。

出品者は、牛山隆信、栗原景、中井精也、真島満秀、持田昭俊、矢野直美、山崎友也

その他、特別イベントも開催されるらしい。入場料無料

【日時】5/27まで。 10:00から19:00

【場所】東京都港区赤坂9-7-3 東京ミッドタウン内 03-6271-3350

1953年3月高校生東京へ

先回が4月22日だったから、半月近く空いてしまったが、その3をご覧頂く。


小海線ホハ12000型から中央線に乗換え、甲府へ。かなり暗くなっていたが駅前の山梨交通を見る。この線は恐らく日本最後となったダブルポールが健在で、その後いきなりビューゲルになったと記憶する(乙訓ご老人さま、それでよろしいかな?)。動力車はすべて雨宮製とは、流石に雨宮敬次郎はじめ雨宮一族の出身地である。1号有蓋貨物電車は単台車でなく単軸受だが、両方の軸箱間に桁を渡し、モーターを支える変わった方式である。ほぼ同時に開発製造された2軸木製ガソリンカーも軌を一にする発想で、両軸箱で機関台枠を支えていた。


身延線クハ58007 甲府

これから身延線を乗り通し、富士か沼津で生まれた初めてのステーション・ホテリング(駅待合室で睡眠し一夜を過す=略してステホ)する計画だったが、途中天気が悪化し大粒の雨が半端でなく降りだした。そのうちダイヤも乱れて長時間の停車後、車掌が土砂崩れがあって不通になったので、この電車は身延で打ち切ると残酷に宣言。

身延駅に放り出されたが、ステホできる雰囲気はなく、疲労困憊していたので、やむを得ず宿を探す事にした。なるべく汚い(当然安かろう)旅籠=行商人や修験者用と思しき宿を選び投宿。16歳にして一人で宿(旅館などといえた代物ではない)に泊まった初体験ではあった。当時安宿は股旅映画のように、隣室との仕切りは襖のみで鍵もなく、貴重品は当然帳場に預ける。風呂も家庭用に毛が生えた程度のもので、1人が上がると女中さんが次の客に入浴順序の到来を告げ、愚図愚図していたら間引かれてしまう。宿賃は2食付で確か350円だったか。だから食事のグレードなんぞ知れているが、それでも家を出て以来はじめての、夕食らしい夕食ではあった。

翌朝になると、多少ダイヤは混乱していたが、幸い電車は動いていた。しかし天気が悪くカメラを取り出す気も起こらないほど。幸い東海道線まで出、沼津に着いた頃には回復した。凸型(流石に戦時型からは多少改修されていた)のEF13を初めて見、構内ではB6―型式2120のトップナンバ-が入換をしていた。B6は東京の周囲、大崎や田端等々にイヤになるほど、掃いて捨てるほど入換に従事していた。


EF1318 

EF1319

EF1318

EF57

モハユニ81も初めて見た
関西では見られない第一次型クハ86 金太郎腹掛けが大きくなっている
2120のトップナンバー

16連の湘南電車にもお初にお目にかかった。TMS誌で「東西電車自慢」があった際、東京方の赤井哲郎が、関西の80系急行電車に対し、「4連、確か4連でしたね。こっちは16連ですぜ。4倍ですぜ」と書いていたのが忘れられない。当時京都-神戸間の急行電車にはまだサハがはさまらない4連だったのである。


駿豆鉄道軌道線7

駿豆鉄道軌道線17

沼津駅前から路面電車が三島まで伸び、本線に接続していた。旧東海道に併用したのんびりした路面電車は、花巻電鉄鉛線は当然として、秋保電鉄(のち仙南交通)、松本電鉄浅間線と共に、大いに小生のお気に入りとなり、その後何度か訪れることになる。

2009年青春18きっぷの旅 Ⅳ-Ⅴ Part3 伊予電

① 宇和島6:17(626D)→8:36伊予市 キハ185-3103+キハ185-3106
伊予市駅で下車後、いつものように駅前の朝市場で、食い物を物色後に隣接する伊予電郡中港駅に着きました。駅は、それほど古くはありませんが、掲示板は、ご覧のようにレトロを残しています。   

運賃表を見ると、全線乗車するには、結構な運賃です。市内線では、1日400円全線乗車券(3月末までは、300円)が発行されていますが、残念ながら、郊外線には、1日乗車券の設定は、ありません。終点まで600円の切符を購入しました。 続きを読む

続:見に行くよりあらしません

高校同級生の葬儀ありで、西院着は11:40、やれやれ間に合った。やってきた準急最後部でロートルカメラを取り出しスタンバイ。桂到着、上りホームに7人。意外に少ない。そのうち1人は友の会のS君。「撮る位置違うやないか」と言えば、「さっきまでそこにいました」と。下りホームは3人。4人目と思っていたら「今日は、お元気ですね」、と声掛けあったので振り向いてみると関鉄の成瀬伸夫氏だ。仲間と2人。そしてもう一人。対岸はさらに増えて12、3人。特急の後追いで8300系6連が列車標識を「臨時」でやってきた。「あらしません」ではなく「ありまっせ」。

一仕事済ませて14:50に桂駅跨線橋へ。早いので中華料理屋で車庫配線眺めながらチビリチビリ。15:40に支払いすませ先に眼を付けておいた場所へ行ったら40ぐらいの先客あり。ホームから逃げ出してきたのかと思い声掛けしたら、「朝はホームで夕はここですよ」とサラッとおっしゃた。それから15分ばかり昔話のやりとり。本日は8304、8311、8313・6Fの順で6300系の戦列に加わった。成瀬氏も「河原町方面からの入れ込みより、特急からの乗り換え客の方が多いですょ」とおっしゃっていた。ならば河原町へ上らすより、その昔のように長天へ準急の後追いとし、河原町発の臨特接続とした方が、JR対策にならないかと思う。ちなみに今回の臨時列車、途中停車駅は烏丸、桂~嵐山間です。H.M.なし。