6年ぶりに開催されたWBCは、日本が3大会ぶり3度目の優勝で幕を閉じました。大会のMVPに選出されたのは、エンゼルス所属の大谷翔平選手。「大谷」駅は関西に2駅あり、今回初めて、投稿のために「大谷」の駅名標を撮影してきました。京阪京津線ですので、気軽に尋ねることができる「大谷」駅だと思います。https://news.ksb.co.jp/ann/article/14869313
ということで、今回は、WBC優勝記念として、優勝メンバーの駅名を取り上げてみました。
6年ぶりに開催されたWBCは、日本が3大会ぶり3度目の優勝で幕を閉じました。大会のMVPに選出されたのは、エンゼルス所属の大谷翔平選手。「大谷」駅は関西に2駅あり、今回初めて、投稿のために「大谷」の駅名標を撮影してきました。京阪京津線ですので、気軽に尋ねることができる「大谷」駅だと思います。https://news.ksb.co.jp/ann/article/14869313
ということで、今回は、WBC優勝記念として、優勝メンバーの駅名を取り上げてみました。
ほぼ同月同日シリーズ、3月の続きとして、しばらくデジカメで撮ったカラーを見ていただきます。私のデジカメ歴は2003年から始まっていますから、ちょうど20年になります。最初はコンパクトデジカメで、まだ画素数も色調も満足できるものではなく、もっぱら個人ユースとしての使いかたでした。画素数も多くなり、色調も安定してきた頃に、一眼デジカメを購入し、鉄道写真もフィルムからデジタルに移行します。高齢者がデジカメ時代と聞くと、つい最近のようにも思いますが、もう結構な年数が経過しました。初期の時代に撮った写真は、立派な古写真に入っているのかもしれません。事実、デジカメ初期に撮った内容を見直すと、今では見られない車両や鉄道ばかりで、改めて年月の隔たりを感じます。
2006年3月13日 横浜で「出雲」、113系を撮る
▲京都地区の113系が今月いっぱいで撤退することがアナウンスされているが、東海道本線の東京口で運転されていた国府津車両センターの113系は、E231系の投入で2006年3月18日改正で運用を終了した。これにより“湘南電車”発祥の地から、オレンジとグ
リーンの塗装が見られなくなった。JR横浜支社では、最後まで残った4編成に意匠の異なるヘッドマーク(シール)を貼付して走った。
小田原行き快速アクティー3715M クハ111-1405F 新子安
備中松山城は現存12天守のうち唯一の山城である。標高420mの臥牛山にあり、JR伯備線備中高梁駅から徒歩で20~25分かかり、高齢者にはタクシーの利用がお勧めである。この地は鎌倉時代から城や砦があったが、関ヶ原の合戦以降家康の傘下となり、小堀新助政次、その子政一が入った。政一は小堀遠州のことで城や庭造りの名人と言われた。現在の城は寛永19(1642)年水野(みずのや)氏の時代のものである。城主は目まぐるしく代わったが水野氏の後には播州赤穂の浅野氏となり大石内蔵助が城代となっている。昭和の初めの古写真を見ると天守はボロボロで崩壊寸前の姿である。明治6(1873)年の廃城令で藩主の居宅等は破壊されたが、天守や櫓、門等は不便な山の上にあったことが幸いし、そのまま放置され昭和16(1941)年に国の重要文化財に指定されている。
訪問したのは2002. 8.18の午後で暑い中を徒歩で行ってみると何と天守は工事中でがっかりした。▼
リニモや愛知環状鉄道の初乗りに満足し、愛環新豊田駅から名鉄豊田市駅に向かいました。ここから三河線終点の猿投(さなげ)に向かいます。
前回、東大邱で撮ったミカド形ボックス動輪の蒸機と狭軌の蒸機を「こんなんあるで韓国版」と称して投稿した。最後にまだナローの客車列車など残りがある旨述べたところ、訪韓実績ナンバーワンの米手作市さんから「余命いくばくない者はぶつぶつ言わんと早よ発表せい」とお叱りを受けた。よく考えたら年齢的にまさしくそのとおりであり、ここに残りを発表する。但し韓国の鉄道に知識がある訳でなく単なる観光旅行の次いでの写真であり説明するに至らない点をお許し願いたい。前回は狭軌ナローゲージのヒョーキ蒸機について乙訓の老人の甥さんに助けていただいたのでここに感謝申し上げたい。
最初は角度を変えて再びボックス動輪のミカド形蒸機であるが、この機関車についてどなたか多少でも経歴がわかれば教えていただきたい 1971.4.24東大邱▼
1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る②
渋谷で撮ったあとは、以下のように、京王・小田急・都バスを撮り、最後は国鉄の列車も撮って、一日を終えます。前回の東急5000系、6000系、今回の京王3000系、小田急3000形など、その後、地方私鉄で第二の働き場所を見つけた車両も、今では、それもほとんど見られなくなり、時代の隔たりを感じます。
▲京王井の頭線のステンプラカー3000系が製造されたのが昭和37年、当時の「鉄道ファン」の表紙でも紹介され、編成ごとにカラーが異なる正面のFRPのマスクには強い憧れがあったが、乗ることも見ることもなく、今回初めて撮影できた。下北沢~新代田 (以下、昭和56年3月13日)
車を走らせていると、都道府県境をまたいだときに「ポン♪ 大阪府にはいりました!」と軽快な声でカーナビ君が知らせてくれます。一方で鉄道を利用していると、いつの間にか大阪府に入っていたという経験はたくさんあるかと思います。
そこで、皆様に鉄道路線での都道府県境またぎを意識していただくために、都道府県境の両サイドの最寄り駅名をまとめてみました。駅名喫茶店の中では、それほど人気のないメニューですが、めげずに4回目の投稿です。今回は京都編です。
“地元大事”と、関西の蒸機を連載していましたが、同じようなモノクロ写真だけ並べても、単調なこと甚だしく、もう少し地域、車両に変化が必要だと感じています。最近、身体が思わしくなく、自宅に籠って古いデータやフィルムを見直していると、「こんなモン撮ってたんか」というような写真も出てきました。「古い」というキーワードは、50年前であっても、20年前であっても、大きな価値を生みます。発表する機会は、まだ気力の残る今しかないと思いました。ただ成り行きで紹介するのではなく、何かの“括り”は必要でしょう。そこで、タイトルに掲げたように、古いネタであれば、ほぼ同月同日の切り口で何でも載せて行く、ゆるい括りとしました。今まであまり発表していない私鉄電車やバスなども、この際、蔵出ししたいと思います。
1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る①
そんな時、ある方から、地元大事はわかるけど人によって地元もいろいろあるでェ、もっと広い範囲、関東方面も紹介せえと、叱咤激励されました。確かにそうですね。そこで、手始めとして、昭和56年3月に行った東京の私鉄・バスめぐりを載せることにしました。この時は、先輩のTさんの結婚式に招かれて、東京へ行ったもので、式の前日に入り一日撮影したものです。乗り換えの合い間はあるものの、東京で丸一日、撮影に費やしたのは初めてでした。特段珍しいものはありませんが、年月が経ってみると、それなりの価値が出てきた例として、まず紹介します。
▲夜行バスに乗って早朝に東京に到着、廃車の始まった東急(初代)5000系を撮るのが第一の目的だった。大井町から大井町線に乗ると、まだ“青ガエル”を多く見かけた。デハ5000の最終車5055先頭の大井町行き 同車は松本電鉄モハ5005として譲渡された。 (以下、昭和56年3月13日)
今回は、JR線の起点・終点に注目してみました。拠り所によって起点・終点が異なる路線が数多くあり、まとめ作業は、なかなか大変でした。例のごとく、関東は怪しいです。系統の中で、横須賀・総武快速線は載せませんでしたが、埼京線や京浜東北線は載せました。とくに掲載基準は定めておりません。気まぐれであることお許しください。【2023/4/5修正】

↑ 写真はDRFCの現役生(ほたかさん)より頂戴しました。改めて御礼を申し上げます。宜しければ、こちらのブログ
https://hotaka-tetsudo.site/2022/02/hiei-bus-mystery.html
もお読みください。なかなか見栄えが良く、読み応えがあるブログだと思います。
デジ青探偵団の皆様、「京都バス(?)の謎」を解いてみてください。コメントお待ちしております。
最終回の草津線蒸機は、貴生川から、甲賀、油日、柘植と巡ります。東海道沿いに古くから集落のあった草津~貴生川と比べると、この貴生川~柘植は、ローカル色も濃くなります。草津線の列車ダイヤを改めてみますと、撮影当時の昭和40年代、朝夕を中心に4往復の客車列車がありました。朝の下り3本は、草津からEF58に交代して京都までの直通でした。草津を早朝6:11に発つ上り722レは、亀山経由で紀勢本線を一周して、夜の20:51に和歌山市に到着する当時の名物鈍行でした。貨物列車は、亀山から梅小路へ向かう列車が多くあり、牽引機は、亀山区、奈良区の集煙装置付きのD51でした。SLブームの渦中で、関西本線では休日のたびにD51牽引のイベント列車が走り、その流れで、デフに装飾を入れた機も見られました。そんなD51の奮闘も、昭和47年10月改正でDD51と交代し、客貨からD51の姿は見られなくなりました。
▲柘植から油日寄りへ歩くこと数分、絵になる松、杉の並木が迎えてくれる。加太への移動にも便利なところで、お気に入りの撮影地だった。ここは県境を越えた三重県となる。 786レ D51 497 油日~柘植 昭和47年2月
<昭和30~40年代 生活の記録 写真と文章>
今回の京都市電の写真展では壁面の一角に「昭和30~40年代 生活の記録」のサブテーマを設けて40点弱の写真を展示しました。きっかけは昨年実家の遺品整理をしている時に大量に出てきたプリント写真です。普段の何気ない風景が克明に写されて、中には丸太町通りを走る市電を背景にした幼い日の私の写真もありました。私は小学校卒業の昭和43年までは河原町丸太町に住まいがありました。市電の写真展だから、このカットは使えそうだ。何なら、市電の写真の延長線上に、昭和30~40年代の写真の中で、当時の生活が感じられる写真をいくつかのテーマに分けて紹介できないだろうか。主たる来場者の50歳代以上の方にも抵抗感なく鑑賞していただけると思って企画を進めました。

実際会場で私と市電が写っているカットを説明すると、お客さまは納得してご覧になっていました。町内のレクリエーションの写真の前で「うちの町内ではびわ湖に水泳に行った」とか小学校の給食風景ではそれぞれの年代の献立が聞けて参考になりました。地蔵盆の写真で「八瀬の遊園地で遊んだ」の類の話ができるのも、写真展ならではです。

鉄道写真の展示会だから、鉄道100%の方が本当は望ましいのでしょうが、京都市電を核に、昭和30~40年代年代の写真や文章を通じて、当時の生活や人々の暮らしを振り返り懐かしんでもらうのを願って企画しました。お客さまの反応を見ても概ね好評でホッとしました。ギャラリーと言う空間を通じて、お客さまにどのようなメッセージを届けられるか。今回の写真展を通じて、そのヒントをもらった気がしています。
<写真上=寺町丸太町を西に入った北側。市電は1000形 昭和33年1月(2歳2ヵ月)写真下=会場風景>
クローバー会の長良川鉄道イベントの様子は、すでに事務局から報告記事が掲載され通り、天候に恵まれ北濃までの初乗りを満喫することができました。事務局殿に感謝です。私は帰路、美濃太田で皆様と別れて太多線で多治見に向かい、多治見で1泊後、やはり初訪問の鉄路を巡ってきましたので、その様子をご紹介したいと思います。長良川鉄道には平成13年の年末に、単身赴任先の高崎から三原にクルマで帰省する際に関駅に立寄って、2軸車のナガラ1形等を撮っています。その際に元気なナガラ201も撮っていました。
韓国の蒸機と言えば両数が多かったミカ3が思い出される。保存機もあることから私は韓国のD51と思っているが、アメリカンスタイルである。
1971.4.22 慶州駅のミカ3 120で跨線橋がなく小学生が構内踏切を渡って乗車した後に出発していった。▼
ミカ3は朝鮮戦争で分断された北にも残っていたはずで何両かは見ている。
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貴生川
草津線は、貴生川を境に様相が変わります。草津方は人家も多く、当時から京都方面への通勤圏に入っていて乗降も多く見られましたが、いっぽうの柘植方はローカル色が強くなり、勾配区間もあって蒸機の奮闘が見られました。街道の東海道も、貴生川までは並行するものの、水口から鈴鹿の山あいに入って行くため、草津線は貴生川~柘植の比較的平坦なルートを選択しました。
地図を見ると、貴生川付近の集落は杣川の対岸にあって、駅側にはほとんど人家が見られませんが、草津線が開業する前日の明治33年12月28日に、近江鉄道が彦根から伸びて来ました。昭和8年には信楽線も開業して、貴生川は乗換駅としての機能を持つようになります。
▲朝から降り続く雨のなか、機体をホームに映して、D51 841の牽く4791レが貴生川に到着する。駅の配線はその後も大きな変化はないものの、駅舎は橋上化されている。 昭和47年6月
TOMYTECの企画の一つである「鉄道むすめ」。ローカル鉄道を中心に、最近では数多くのキャラクターを目にすることができます。
私が興味を抱いたのは鉄道むすめの名前の由来です。なんと、その由来は駅名とのこと。「これは調べなくては。」と思い、TOMYTECのホームページを拝見しまとめてみました。https://tetsudou-musume.net/index.php
2023年3月17日(金)からは、デジタルスタンプラリーが始まるようで、少しホットな話題を今回提供させていただいた次第です。お孫さんを連れてのスタンプラリー、いかがでしょうか。【2023/10/6更新】
https://tetsudou-musume.net/contents/special/meguri2023/

石部から 三雲、貴生川へ
今回は2つ目の駅、石部から始めます。石部は、東海道51番目の宿場に当たり、草津線の南側に並行する東海道沿いには、今でも宿場町の面影が残っています。京からは9里(約35キロ)の距離となり、京を出発した初日の宿泊地として「京立ち、石部泊まり」と言われて、宿場は賑わったと言います。
石部からさらに三雲方面に歩くと、当時は、家棟川、由良谷川、大砂川と3つの天井川が流れていて、草津線は下を潜っていました。草津線の電化に際して、家棟川、由良谷川は平地化されて、うち家棟川の跡地には、新しく甲西駅や湖南市役所が建てられました。現在、天井川で残るのは大砂川のみで、煉瓦積みポータルが古い歴史を伝えています。
▲夕方の柘植方面の客車列車は、逆光上で撮るのに最適。背後には、いかにも秋らしい雲が漂っていた。726レ D51 178 石部~三雲 昭和47年9月
河 昭一郎氏から原稿を頂きましたので米手作市が代理投稿致します。
新幹線を走った阪急電車
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鉄印帳は、第三セクター鉄道等協議会に加盟、および関係する鉄道事業者が連携して、鉄道と地域の振興を目的としてはじめた企画です。(鉄印帳の前書きより)
https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/tetsuincho/
各鉄道会社の主たる駅に、鉄印帳と切符を持参し原則300円の記帳料を収めると、会社独自の鉄印がもらえる仕組みです。いわば御朱印帳の鉄道版です。鉄印帳の流れにのってか、最近では御船印帳なるものも登場したようです。
今回は、各鉄道会社において鉄印を入手できる駅名をまとめてみました。
一昨日行われた長良川鉄道イベントは好天に恵まれ15名の方が参加されました。3月18日のダイヤ改正でなくなるキハ85形「ひだ号」の乗車と長良川鉄道観光列車「ながら」で全線を乗ることが目的です。加えて美濃市で下車、旧名鉄美濃駅の見学と最終の岐阜では北口公園に保存されているライトアップされたモ513号も見ることにしました。
↑ 岐阜駅で遭遇した臨時のひだ号、車内は満席でホームにも多くの人がいました。
この日はキハ85形の乗車を目的とした臨時列車も走っており沿線には多くの撮り鉄が集まっていました。美濃太田駅に集合し10時45分発「ながら1号」に乗車、2両編成で先頭車は我々が乗ったビュープラン「森号」、後ろにはランチプラン「鮎号」が連結されています。「森号」にはアテンダントさんが乗車していて沿線の案内をしてくれ、グッズの販売もあります。 続きを読む