ここはどこ?私はだれ?ーお彼岸臨時列車ー
夏休み臨時列車に続いて「秋の臨時列車・ステイホーム号」のご案内です。
前回もそうでしたが、乙訓の長老様は撮りためた写真を鉄道毎にひとまとめにしていたようなのですが、実際はごちゃごちゃになっていて区分けに時間がかかりました。その中でどうしても所属会社・車種・場所などが判別できないものが出てきます。それをまたDRFC探偵団の皆さんに解明していただこうと思いました。
なお、以前にも投稿した車両があるかも知れませんが、改めてお教えください。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 (27)
旭川区C55 ② C55 47 322レの旅
前回に、宗谷本線のC55の華の運用は夜行急行「利尻」と書きましたが、もう一往復、昼間に全線を通して走る普通列車321レ、322レの牽引もありました。明るい時間帯ですから、車窓から見る最北の鉄路の絶景は欲しいまま、車内はガラガラ、交換のため途中駅の停車時間も長く、C55の撮影もゆっくりできる、まさに“乗ってよし、撮ってよし”の列車でした。この列車に乗車・撮影すると、なぜか同区のC55 47の遭遇率が高く、それだけ好調なカマだったのか、昭和48年の宗谷本線の完全DL化まで働いていました。
▲宗谷本線と言っても稚内~旭川は約250kmもあり、ほぼ南北に走っているので、気温や積雪量は各所で差があるが、3月ともになれば、南のほうへ行くほど、路盤の雪も消えて、すっかり春の装い。稚内発小樽行き322レを牽くC55 47〔旭〕+客車4両 音威子府~筬島 (昭和47年3月、以下同じ)
こんな時期ですが、また写真展 やってます。
9月に入っても周囲の状況は厳しいまま、活動も制限されて、無為に毎日が過ぎて行きます。老い先短い、やり直しのきかない高齢者にとっても辛い毎日です。こんななかでも、自分の“足跡”をしっかり残していくべきと感じるようになりました。
そんな思いを持って、また性懲りもなく写真展を行っています。「伝言板」では一端を伝えしましたが、「掲示板」読者の皆さまにも改めてお伝えする次第です。今までの写真展の経緯をご存じの方にとっては、“またかいな”と思われるテーマ・会場だと重々承知しています。
そこで、今回は、少しやり方を変えました。今までは自分の写真を中心に構成していましたが、クローバー会の先輩や、お知り合いから貴重な写真を使わせもらいました。写真の幅、とくに年代の幅が広がりました。写真を補足するキャプションは詳しく、またコラム記事も作成してトリビアな話を纏めるなど、文字情報にも配慮しました。そしてニューフェイスにも加わってもらいました。私もぞっこん惚れ込んだイラストレーター8590(ヤゴクレ)さんに「七条大橋」テーマで新作を描いてもらい、ほかの作品も展示、一段と華やかに賑やかな展示になったと思っています。
また実施に当たっては、私なりの“エコ”を実践したつもりです。写真については、新プリントを原則にしながらも、使えるものは再利用を心掛けました。額などの部材は、高価で重い金属・ガラスは一切使わず、リサイクルできる紙と木だけにして、持ち運びの軽量化も考えました。企画や前作業は、全くの一人で、老人にはハードな作業でしたが、その分、自分だけのカラーが出せたと思います。あえて統一感をなくし、ギッシリ感、ボリューム感を出しました。何とか乗り越えて、体力・気力がまだ残っていたことは高齢者にとっては収穫でした。
なお、このような時期のため、開場しているのは、週のうち(木)~(日)の4日のみで、(月)~(水)は休んでいます。ご注意ください。
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉖
旭川区 C55 ①
やっと最終テーマの旭川区のC55に着きました。わらくろ屋さんから、“ぜひやってくれ”とリクエストがあってから数ヵ月が経ちました。やはり、C55そのものの魅力、走っている宗谷本線の魅力も加わって、私も渡道のたびに行きました。なかでも、“抜海現地闘争”と称して、DRFCメンバー約10人で南稚内~抜海の中間地点まで行き、「利尻富士」の標柱の立つ海沿いの絶景地でバンザイ三唱したのは、DRFC時代の最大の思い出となりました。計4回の渡道で旭川区C55を撮っていますのでソコソコの点数があり、機号別に紹介します。
▲宗谷本線のC55と言えば、真っ先に浮かぶのが夜行急行「利尻」の牽引だ。下り稚内行きで迎える朝の車窓も格別だが、上り札幌行きが漆黒の宗谷本線を走り続けるのも、蒸機の良さをしみじみ感じさせてくれる。停車駅では、ほとんど列車交換があるため、たっぷり停車時間があって、夜間撮影にぴったりだ。眠い眼をこすりながら、三脚を抱えて夜のホームを右往左往したものだ。幌延 C55 43(昭和44年9月)
昭和の電車 改訂版(208)ー京阪電鉄京津線80型ー
前回の投稿時には1900生さんが「ここだけのナイショ話」を書いてくださっています。
また、湯口先輩の投稿もありましたのでリンクを致します。
京津線80型
広島短信
昭和の電車 改訂版(207)ー叡山電鉄デオ300型ー
と、言ってもだれも反応がないのは前回同様です。このデオ300は人気がないのか、あまり写真を見ません。私も撮っていなかったようです。
そこでこんな時の救世主・乙訓の長老作品集をあさってみました。
ところが長老様も興味薄とみえてほとんど見つかりませんでした。それでも数枚ありましたのでご覧下さい。街の風景も味わってみてください。
《特別寄稿》国電の北限を走ったウグイス色電車・・・河 昭一郎
国電研究家・河 昭一郎様より、みちのくを走り去った“ウグイス色の旧型国電”に関しての考察をご寄稿頂きました。なお、添付頂いていた写真は退色とひび割れがひどく、色調についてだけ補正をしましたが、乳剤面のひび割れ・キズに関しては触っておりませんのでご承知おき下さい。
昭和の電車 改訂版(206)ー北陸鉄道モハ5000型ー
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉕
C58④ まとめ
今まで紹介できなかったC58をランダムに紹介していきます。準特急さんが記しておられるように、C57なら番号ごとのスタイルが気になるのに、C58に至っては、十把一絡げで、番号を意識することはありませんでした。北海道のC58をまとめていても、たしかに一両ずつの個体差を意識することは少ないものの、それだけ、中庸で、穏やかで、いかにも日本の風土に溶け込んだ蒸機だと改めて感じました。温暖で純日本的な風景の方が似合うかも知れませんが、北海道の厳しい自然のなかで、逞しく生き抜いたC58に、また新たな魅力を感じたものです。
▲昭和44年8月、青函連絡船で早朝の函館に着いて、カーブしたホームで最初に写したのが、函館発上磯行き751レを牽くC58 213〔五〕だった。上磯まではわずか27分で、わざわざ客車列車を仕立てるのは、折返しの函館行きが通勤時間帯に当たるため。江差・松前線の旅客はほぼDC化されていて、C58が牽く客車列車は2往復のみで、貨物も牽いていた。五稜郭区には、8両のC58が配置されていた(昭和44年8月)。
昭和の電車 改訂版(205)ー旭川電軌モハ1000型ー
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉔
C58③ 最果ての根室本線を行く
釧路区C58のもうひとつの舞台が、根室本線釧路~根室の客貨列車の牽引でした。釧網本線の車窓と似た風景ですが、海岸線を走る区間があるのが特徴です。人口はさらに希薄で、駅周辺だけにわずかな生活があって、ほかは全くの原野・湿原が広がり、さらに最果て感が増してきます。さらに、釧路~根室には、通しの普通列車6本のうち1本だけがC58の牽く客貨混合列車で、あとはDC列車でした。貨物列車も走っているとは言え、駅間距離は10キロ前後のところが多く、釧網本線に比べると、アプローチの難度は高いと言えるでしょう。
▲太平洋に切り立った海岸段丘のうえを行く釧路発根室行き447レ、釧路~根室で唯一の客貨列車だった。吹き下ろす風が強く、黒煙が編成を隠してしまった。いまや水平線まで望めるとして著名な撮影地となったが、懇切丁寧なガイドもない時代、車窓からの印象だけ頼りに、駅を降りて闇雲に雪原を歩いて到着した。別当賀~落石 (昭和47年3月)
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉓
C58② 原生花園の夏と冬
釧網本線へは、昭和43年に訪れてから、その後も何回か訪れて走行中を撮影しています。釧網本線の撮影地と言えば、やはり原生花園の付近でしょう。夏は花、冬は流氷がアクセントになります。今でこそ原生花園の駅がありますが、当時は乗降場扱いで、ごく短期間の停車でした。そのため北浜、または浜小清水から歩くことになりますが、その釧網本線で客貨を牽いていたのが、北見区とともに、釧路区のC58でした。前記のとおり、釧路にC58は28両もいて、日本一のC58配置区で、釧網本線。根室本線で客貨混合列車を牽いて、活躍していました。
▲夏の原生花園、と言っても、訪れたのが8月の終わりから9月上旬で、花の季節は過ぎていて、ほぼ草原が広がるだけだった。北浜、浜小清水からいずれも歩いて行けるが、とにかく、どこまで行っても同じ風景が続いているだけで、いくら本数が多くても、ワンパターンの写真で終わってしまう。貨物692レを牽くC58 408〔釧〕 客車(混合)列車だけでなく、このように純粋の貨物列車も少数ながら走っていた。北浜~浜小清水(昭和43年9月)
やっぱり蒸機が好き! 《区名板》で巡る北海道の蒸機 ㉒
また北海道に戻って、《区名板》を続けます。C58は、D51、9600と並んで北海道には多くいた蒸機で、昭和40年代前半には、五稜郭、苗穂、鷲別、北見、釧路区に配置されていました。その本場は道東地方で、石北本線、釧網本線、根室本線では多くの客貨を牽いていました。石北本線・釧網本線の北見~網走~釧路は、両端にある釧路、北見区のC58が一体で運用されていて、釧路区は28両配置で、日本一のC58配置区であり、北見区も10両配置でした。まずは、石北本線、釧網本線のC58の活躍を見ていただきます。
▲初めて北海道を訪れた昭和43年、釧網本線のC58の牽く混合列車に乗って、ゆっくり車窓の旅を楽しんだ。当時は、列車本数も多く、ほとんどの駅では、列車交換があって、例によって“窓から写した”だけの撮影を続け、初秋の一日、たっぷり北海道の良さを感じたものだ。釧路原野のなかにある細岡で交換する、C58 127〔釧〕の牽く混合628レ (昭和43年9月、以下同じ) 続きを読む
昭和の電車 改訂版(204)ー京王帝都5000系ー
中止続々 でもコレだけはやります!
コロナの感染状況も、ほんと深刻な状態になりました。それに、この長雨、心が沈みそうになりますね。当地にも緊急時代宣言が発出されて、とくに官公庁からみの催事
は中止・延期になっています。私も伏見区役所から依頼を受けて、龍谷大学で予定していたワークショップ「市電と深草の暮らし」も中止になりました。地元の小中学生からも参加希望をもらい、私も準備を進めていて、現地で今昔対比しようと思っていた矢先のことでした。残念ですが、仕方ありません。あと、京都市電関係の展示・講演が多く予定されていますが、これらも中止・延期の可能性もありますので、また本欄でお伝えしていきます。
さて、もうひとつ、私のほうで予定しています、写真展「思い出の七条大橋」は、誰の助けもなく、一人で勝手に行なうものですので、コレは、やります。ただし準備・実施は細心の注意を払ったうえで、日数を限定して行います。新しいポスターも作りました。写真だけでなく、新進のイラストレーターが描いた七条大橋も展示します。▲七条大橋に関係する市電・京阪の写真をお持ちでしたら、ぜひ提供してください。今からでも間に合います。
私の好きな電気機関車たち ⑰(終)
電機の似合う駅
電機シリーズもこれで最終とします。“電機のいちばん似合う駅は?”と考えることがあります。私個人としては、京都駅1番ホーム(現・0番)の西端から見る、上り列車の入線シーンも大好きです。当時、二本あった中線を“ダダッダー”と交差音を残して、外へ編成を振りながら、1番ホームで待つ乗客の前に進んで行きます。その先頭に立つ電機の迫力に惚れ惚れしました。
しかし全国的に見れば、やはり上野駅にとどめを刺すのではないでしょうか。東北地方への出発駅として電機の発着で賑わい、独特の終端駅の雰囲気を持ち、推進運転の入線・回送シーンも見られました。でも列車写真、編成写真として見れば、これほど写しにくい駅もありません。ここは、やはり人も絡めた終着駅としての雰囲気写真になるのでしょう。私も昭和の時代、上野駅は利用した口ですが、撮影はほとんどしていません。上野から出発する時は、座席のことが心配で、落ち着いて写すどころではなく、逆に戻って来た時は、ほとんどが夜行で疲労困憊の体で降りて、撮影意欲など湧くはずもなく、そそくさと去っていきました。
▲上野駅に似合う電機は、やはりEF57だろう。青森行き「津軽2号」を牽くEF57 5、8月も下旬になると、さすがに盆の頃の混雑はないが、出世列車として名高い「津軽」はよく混む。上野では、前へ行くほど空いているから、とにかく自由席車の一番前の車両に乗車、首尾良く右側窓寄りの席をゲット、編成調べをしてから、やっと落ち着いて牽引のEF575を観察できた。22時22分、“ピーィ”という甲高いホイッスルを残して上野を発車。1両目だから貫通扉の向こうにEF57のデッキがユラユラしているのが見える。気分は、もう東北・北海道だった(昭和46年8月)。
昭和の電車 改訂版(203)ー名鉄モ5200型ー
偶然見つけました!
おもしろいですよ!まあ、見て下さい。よく調べたものだ、と感心しました。
http://tetueizuki.blog.fc2.com/












