趣味誌の中では私は鉄道ピクトリアルを懐メロ的に捉えておりこの歳になっても購読を続けている。要するに自分と関係のある時代の古い写真が好きなのである。同誌の2019年10月号は「阪急電鉄京都線特急」の特集であり、掲載写真をみるとDRFC-OBからも5人の方、そして会友である河昭一郎さんのお名前も見られる。その中で圧巻は40~41頁桂川橋梁上の132の超特急である。
さて、本題のP-6であるが、同誌10月号本文の最初に掲載された鉄道友の会会員であり京都大学鉄道研究会OBの山口益生さんの「”P-6”にまつわる話」という記事に非常に興味を持った。改めてその部分を取り出してみて一部をそのまま引用させていただき私の久しぶりの投稿とした。
まず、我々はP-6、P-5(P-4)はよく知っているが、P-1は新京阪が買収した北大阪の車両ということで私はよく知らない。さらにP-2は電動車60両、P-3は付随車16両計76両の3扉16m級クロスシート木造車とのことであるが、いろいろと事情があって幻となったようである。このあたりは古い資料をよく発表されたと思うが見たことがない人間にはピンと来ない。
P-6の最大の特徴である幌は画竜点睛と称されている。これがないとP-6の顏でないと思っている人は私を含め多いと思う。この幌も雨天時に油を含んだ汚水が乗務員の制服を汚すということを聞いたことがあるが、幌が出っ張り過ぎて夜間作業員の姿が見え難く人身事故を起こしてしまい廃止されたということは始めて知った。
▼私は幌付きのP-6を見たことがなく、車庫で着脱式のそれを見たことがあり高橋先輩から「珍しいよ」と言われて撮るには撮ったが納得できるものではなかった。1968.05.30 桂
山口さんはP-6の乗心地が最低であると言われているがこれには正直驚いた。DRFC内部でも口の悪い人はP-6に乗ると痔になると冗談めいて言っていたことを思い出す。山口さんは「どうしてこうも良くないのだろう。周期の短い上下動がやけに気になる。他線、他社のどんな電車に乗っても、P-6より乗り心地の悪い電車にお目にかかったことはない」とまで言われている。オイルダンパや、ボルスタアンカを付けたりした台車もあったそうであるが、高速で走るP-6の縦揺れビビリ振動は独特なものでこれは今でもよく覚えている。しかし、高速走行のなせる業か私には意外と不快感はなかった。
▼1967.09.30 正雀 115の台車
▼1502のブリル台車 1968.10.08 桂▼P-6の車内 私はクロスシートのP-6は知らないが、この頃の関西各地では2扉ロングシート車は多く見られた。それにしてもP-6の乗心地は悪かったようで読書する人は目を悪くしたことであろう。
”「燕」を追い抜く「超特急」”は実際に実現したどうか定かではないが、運転士の時刻表裏面には「列車と競争」と落書きしたものがあったようで、大山崎の例の場所では機関車の後ろから時間をかけて抜き去るのは運転士冥利に尽きると興味あることが書かれている。「相手の機関士はもちろん互いの乗客まで、その顔色に闘志をみなぎらせ、手に汗握るしばしの緊張と興奮に浸り、吹き流す警笛はその絶頂であった」とは正しく名文である。
P-6の梅田乗り入れは1944年4月8日であったが1945年6月7~8日の淀川橋梁上での空襲で中止された後1948年8月11日に再開されている。3複線ができる前でP-6は宝塚線に乗り入れたようであるが、ここでまた次の様な面白い記述がある。「梅田行きが十三を出て淀川橋梁上に這い上がるが速度は出ない。主回路は1500Ⅴのままだからだ。この状態をP-6の贔屓はさすが貫録のある走りだという。メダカのように駆けずり回る神宝線の電車ははしたなく見えるという。身びいきもよいところだ。」 この表現で思い出すのはDRFC内部で行われた京阪-阪急戦である。どなたか忘れたがその時のゴネ押しに似てなくもない。
▼ゆっくりと堂々たる風格のP-6に対してスイスイと走るメダカと称された神宝線の小型車両。宝塚線の小型車両を撮ったことがないので同型の1966年6月6日宝塚南口の武庫川を行く今津線宝塚行き500、310形と同じ日の神戸線武庫之荘-西宮北口間の神戸行き920形を掲載してみた。P-6とは同じマルーンで同じ阪急のマークがついていたが全く生まれが異なることが子供心にもよくわかった。
▼最後に本文とは外れるが少し珍しいP-6の姿。私の頃は100形は大阪寄り、1500形は京都寄りが基本であったが時に100形が京都寄りに入り前パンタになることがあった。両運転台の車両でこの116は動態保存されている。1967年5月28日西向日町。
この他にP-6の乗務員が格好良くふるまった話などまだまだ出てくるが特に私が興味を持った内容を中心に報告させていただいた。新京阪P-6デイ100と言えば参宮急行デ2200、阪和モヨ100と共にと当時の最高峰の電車であったが意外な面を語っていただき嬉しく思う。山口さんはこの世界では第一人者であるが、最近の趣味誌にはあまり見かけない裏話などが面白く配置され技術に疎い私でも読みやすく何回も読ませていただいた。こういう記事をもっと見たいと思うのは私だけではないと思う。
準特急様
貴殿のP-6に纏わる話、一々「そう、そう」と頷きながら読ませていただきました。
貼付の写真にも、しばしの間、懐かしさで眺め入りました。
特に、桂車庫内の108が私の目を引きました。
と言うのは新タイプの幌に替わって以降、着脱式なので前に幌を着けたままの姿を見た事が無かったので、一瞬「旧、前幌車」と見てしまいました。
しかし、待てよ。何かチョット変!と拡大して見て「な~んだ」新しい幌だ! 道理で変だったんだ。
でも、それはそれで珍しい姿を見せていただけたのでラッキー!でしたヨ。
さて、そのP-6ですが、国電にしか目が無かった小生が、高校1年の時に立花から総持寺に転居して始めてその存在を知って以来、その武骨で堂々としたP-6には本当に魅了されました。
それまで阪神間を生活圏として居た事も有って京阪間には縁遠く、京都にも国電が直通で便利でした。
しかし転居後、先ず驚いたのは総持寺や富田をダダーっと「轟音」を響かせて通過して行く4連のP-6でした。
それは、何処かで「戦車」と表現されていたのも頷ける豪快なものでした。
何よりも魅了されたのは、厳つい前幌を装備した姿で、西部劇にでも出て来そうな感じが好きでした。
その他、始めて十三からの梅田乗入れに乗った時、ヘトヘト感タップリの走りぶりに思わずクスクスと吹き出しそうになった事なども思い出します。
思い出せばキリがないので、後はP-6の次の機会に・・・。
ところで、小生のたった1枚の写真をよく見付けて下さいましたネ。
今回もピク誌の投稿期限に間に合わず、悔しい思いでしたが、ず~っと以前の忘れた頃の何かの機会に送付していた写真を利用していただいたようです。
写真と言えば、貴殿のおっしゃる通り福田さんが提供された2頁大のP-6は圧巻ですネ。
河 昭一郎様
総持寺ならP-6の故郷ですね。私は神足に下宿し、よく長岡天神駅側線の横にある中華料理店に行きました。今でもそうですが長岡天神は追い抜き駅なので側線で特急や急行を待避する列車の音を楽しみながらにんにくのよく入った餃子を食べたものです。P-6だけはドンドンと地響きを立てる様な感じで入線し、停車するとMGの音がえらく大きく感じたものです。電動車100は52.4トンと表記されていました。
河さま
大幅遅れのコメントで失礼します。今回のピク「阪急京都線特急」でも河さまの写真を拝見しました。ピクは、以前に投稿してボツになった写真も、きっちり保管してあり、時折、思い出したように載ることは、私も何回か経験しました。私の“提供”の「超特急」は、思いのほか、大きく扱ってもらいました。もとを正せば、芦屋におられた高名な鉄道写真家が、写真交換で手に入れられた写真で、「Nコレクション」で知られたうちの一枚です(戦前は写真交換が盛んでした)。その写真家の没後、当会の先輩がコレクションの一部が譲渡されました。先輩の許諾をいただき、原板をお借りして、スキャンしたものです。原板は、名刺版とごく小さなサイズですが、2頁大まで伸びたこと、私も驚きました。自分のスキャン、レタッチ技術に少し自信がつきました。
準特急様
お待ちしておりました。それもP-6で!
思い出深い電車です。準特急さんがP-6を熱く語られること、そして、仕事でP-6にお仕えしたこと!?等々
日本万国博覧会のシールや運転台の右側が開放されているのが印象的でした。
それにしてもこれだけの思い出が語られる電車に巡り会えたことは幸せなことだと感じ入っています。
ホームカミングデーでお目にかかれることを楽しみにさせていただきます。お体くれぐれもご自愛ください。
マルーン様
今慣らし運転中です。元新京阪の人を含め乗務員の方はP-6に愛着と誇りを持っていたことが山口さんの名文でよくわかります。その後の神宝線と同一規格になった710形は阪急最後の吊り掛け車であったが当時の私鉄界の優秀車であったのも事実です。しかし、お客さんは約30年P-6と710形の差をどれくらい認識していたのかは疑問です。いらんことを言いましたが11月は宜しくお願いします。
準特急様
ロングシートの車内写真ですが、これは川向うの京阪1000形か1100形の車内ではないでしょうか。貫通扉はなく、半室運転台のようです。ところでP-6の思い出ですが、まだ四条大宮が終点だった頃、親に手を引かれてホームで待っていると 轟音とともにトンネルからホームに入ってくるあのいかつい姿ですね。子供心にあの光景がしっかりと焼き付けられています。
西村雅幸様
大変失礼しました。ネガを見ますと阪急高槻市付近で713の急行を撮った後に京阪交野線に向かい1202~1105、1309~1307、を撮っていますのでP-6ではありません。この日はDRFCの皆さんと片町線や新田辺に行ったと思います。改めて1968年10月8日桂で撮影したP-6の車内に訂正させてください。なお、当時の阪急京都線の終点大宮は島式でなく相対式ホームであったと思いますが、学校帰りの中学生の時えらい目にあったことがあります。
懐かしや!P-6の車内写真。
角々しく、重厚感がありますね。走り出すとモーター音と共により重厚感を感じたものでした。
先頭車に乗務員の姿が写っていますね。真っ黒な詰め襟の制服であったことが伝わってきます。