▲阪神高速尼崎料金所の真下にあった尼崎港駅、そのルーツは、馬車鉄道に行き着くという古い歴史を持っていたが、昭和56年4月に旅客営業を廃止し、路線も昭和59年2月限りで廃止となった(以下、昭和56年3月22日撮影)。
続いて同じ兵庫県下の廃駅、尼崎港駅です。福知山線の支線となる、通称「尼崎港線」塚口~尼崎港の終点にありました。尼崎港線は、一日2往復、朝夕のみ旅客運転の線として有名でした。旅客営業は昭和56年4月に終えて、その後も手小荷物・貨物の営業を続けていましたが、昭和59年2月に廃止となり、尼崎港線の歴史を閉じました。
▲付近は工場地帯で引込線も多くあって、貨物ヤードが広がっていた。
尼崎港線のルーツは、馬車鉄道に行き着く。明治24年に開業した川辺馬車鉄道(尼崎~伊丹)である。途中の官設鉄道(東海道線)とは平面交差をしていたと言う。その路盤をほぼ継承した摂津鉄道が、蒸気化、1067mm改軌を行って、明治26年12月に尼ヶ崎駅として開業している。水陸の結節点である尼ヶ崎を拠点として、その後の福知山線の原型ができた。官設鉄道の交差地点には長洲駅ができた。
その後,後継となる阪鶴鉄道が、明治31年に東海道線神崎(現・尼崎)と塚口を結ぶ短絡線をつくり、大阪への乗り入れを果たすが、その結果、本来の尼ヶ崎へ向かう線は支線化された。その後、運転休止、貨物専用線になった時期もあったが、明治40年には国有化される。明治44年から旅客営業も再開、東海道線とは立体交差化されて付近の築堤上にも神崎駅が設置された。
昭和24年1月に、尼ヶ崎は、尼崎港に改称され、東海道線の神崎が尼崎となった。盲腸線と化した塚口~尼崎港は、「尼崎港線」と呼ばれ、長く旅客列車は2往復のみとなったが、昭和56年4月に旅客営業を廃止した。以後、手小荷物、貨物の営業を続けていたが、昭和59年2月にいずれも廃止となった。
▲尼崎港に着いた夕方の823レ、旅客営業廃止前で乗り納め客で賑わっていた。▲ホームから線路を横断すると駅舎側に行く。▲阪神高速の真下にあった尼崎港駅、有人駅で、切符売り場もあった。▲旅客列車は朝夕に各1往復のみ、DD13が客車1両を牽いていた。
▲駅名標と時刻表。▲客車は近代化済みの青塗装、アルミサッシのスハフ42だった。▲付近には河川、運河が広がり、かつては、船・陸の貨物中継地として尼崎港駅は賑わった。▲▲尼崎港駅常備の控え車が数両留置されていた。
▲駅の窓口には、記念の乗車券、入場券を買い求める客で長い列ができていた。
▲途中駅の金楽寺で、塚口発尼崎港行き823レを写す。デッキまで鈴なりだった。
▲金楽寺の駅名標と時刻表、駅名標の次駅「あまがさき」は、東海道線との立体交差地点に設けられた尼崎港線の尼崎駅で、時刻表には「国電尼崎駅と300メートル離れています」の注記があった。
1972年の尼崎港駅はこんなのでした。
金楽寺駅は駅名標が木製で、ホームの照明が変化した他はほとんど変わっていないようです。
井原様
貴重な写真、ありがとうございます。まだ上に阪神高速が通る前の時代ですね、駅舎は1979年ごろに建て替えられたと聞きますが、旧駅舎の写真は初めて見たような記憶があります。ここへの訪問目的は何だったのでしょうか。
塚口-尼崎港間を乗ったことがなかったので行ったのだと思います。尼崎港駅にロヒ658とロヒ661がいて、珍しいと思いました。
また前後賞ですがいかがですか?
オロナイン軟膏はたくさん頂きましたので他のものをお願いします。
ロヒ661です。
オロナイン軟膏以外で何がよいでしょうか。
私は金楽寺から乗車し、尼ヶ崎港へ行き、帰りは歩いて阪神の駅まで行きました。結局、塚口~金楽寺が未乗区間として残りました。このように乗りこぼしが多くあり、せめて今のうちにJR線を乗っておきたいと思っています。
井原さん、
「ヒ」の前にある「ロ」は何の意味ですか?また、控え車の上にある櫓は何に使うのでしょうか?
この画像配信は今から50年前の昭和47(1972)年ごろの尼崎港線の尼崎港駅です、ちなみに尼崎港駅ですが元は阪神高速神戸線沿いにの下にありました。
尼崎港線は気になる路線でしたが、結局撮らず、乗らずでした。気になるというのは自転車に乗り西国街道を伊丹に向かい福知山線の撮影をした時にⅭ57+DD13を何度か撮ったことがありましたがこのDD13が尼崎港線で使われた後に戻ってくる姿ではないかと思っていたからです。当時の時刻表を見ると尼崎港線は朝1往復、夕方2往復で川西池田と尼崎港の間を往復していました。撮影は1963年2月3日でC57は福知山区58号でDD13はメモしていません。
準特急様
またまた貴重な写真、ありがとうございます。尼港線で、昼間に列車のない時間帯の牽引機については、私もよく知らないのですが、福知山線の列車に併結されて、宮原あたりに回送されていた可能性がありますね。C5758は福知山のカマで、京都では馴染みがありませんでしたが、福知山区で撮った記憶があります。
福知山区のカマ(C54、C55からC57になっていった)は昭和40年前後は毎日京都に大阪に顔を出していたと思います。また園部など京都近郊の列車は梅小路のC51やC57が、篠山口往復の大阪近郊列車は吹田第一のⅭ11が牽引していたように思いますがいかがでしょうか。
はい、山陰線の京都口では、たしかに昭和44年ぐらいまで、福知山区のC57が定期列車を牽いて京都駅まで来ていました。その後はDL化され、梅小路区のC57のみが京都~園部で運転をしていました。福知山のC57が来るのは、臨時列車だけになり、案外、福知山のC57には馴染みが薄かったのです。
昭和39年6月7日に梅小路でC5758を撮っていました。
国鉄尼崎港線尼崎駅の側には個人関係さんが住んでいた家がありますが多分今はありますかとのことですが、
国鉄尼崎港線尼崎駅の側には個人関係さんが住んでいた家ですが今はもうありません、
尼崎港線は、福知山線の支線と言うこともあり、思い入れがあります。最終日の最終列車に乗りに行きました。最終列車を牽引したのが、DD13256です。
記念に我が家にサボとDD13256の切り抜きいた車番を保存しています。
デカンショまつり号さま
さすが、お宝収集家、尼港線のサボと、DD13256の車番もお持ちですか、まさに、ここに写っているDD13ではないですか。最終日に行かれるなど、思い入れが深いことと思います。私が写しに行った時も、旅客営業廃止の直前の日曜日でした。高校生を中心に大勢が来ていましたが、それでも客車1両に乗れるだけの量でしたから、今から比べると、長閑なものでした。
1981年3月は、私も高校生でした。
特派員様には尼崎港線の詳しい歴史もご解説いただきましたが、阪神国道も未開通の大正14年の地図を見れば、尼崎港駅こそが尼崎駅を名乗るに相応しいこと、また次駅の位置が金楽寺であった必然性も見てとれます。
旧市街地に近いにもかかわらず、街はずれの本線に名前を奪われたという点では、岩国、倉吉、八戸などと同様ですね。
宇都家さま
いろいろな方からコメントいただき、嬉しく思います。私も尼崎の古地図を見ましたが、なんと尼崎港駅は、尼崎城のなかにあるのですね。付近にあった水路も、城の堀の可能性があります。たしか城は、最近復元されて、資料館もできたと聞きました。今の尼崎に、駅名は移りましたが、当時は一面何も無く、神崎と名乗っていた理由も分かります。
5枚目の画像配信は新しくできた尼崎港線の尼崎港駅のものです、新しくできた尼崎港駅は今から何年前のものでしょうか。
巽孝一郎さま
いつもご覧いただき、ありがとうございます。5枚目の駅舎の建設時期ですが、井原実さんの前駅舎の写真へのコメントで、1979年ごろと記しています。上を通る阪神高速神戸線の全通が1981年ですので、まず新駅舎を造り、そのあと、構内が縮小、整地されて、高速道路が建設されていったのではないでしょうか。
大きい丸い看板に尼崎線のりばが尼崎仮乗降場に設置をしたのは昭和時代でしょうかそれとも大正時代でしょうかそれとも明治時代でしょうか、
上記、私の『「ヒ」の前にある「ロ」は何の意味ですか?また、控え車の上にある櫓は何に使うのでしょうか?』との質問に関して樋口さんから解答をいただきましたので、了解を得た上で代理掲載致します。
《43・10以降に貨物のスピードアップをしたのですが、対応出来ない一部の貨車を65km/h制限としたものに付加している表記です。同時に「黄帯」を巻いています。
有名なモノは、北海道のセキ3000/6000や、一段リンクの2軸貨車が多いです。中には本件の控車のように、シュー式軸受け(に見える)のものも有ります。》
廣瀬さん、ありがとうございます。
全くの亀レスで・・・
櫓と言うか小屋というかに関しては・・・
良く知らないですが、待機スペースとどこかに書いてあったような気がします。「移動式詰所」って事でしょうか? 私が見た個体も、板張りのイスが有るだけでした(添付写真)。
降雨時でも、車上で待機することも多いですから・・・
待機の必要が無い、連絡船の橋梁用には、小屋が無かったように思います。詳細は貨車専門家に・・・
大阪市場 1981年
「櫓」に関する記述を見つけました。
やはり、手信号の中継のための様です。
櫓に乗務している職員さんも居ます。
岩堀春夫氏のブログです。
http://blog.livedoor.jp/nainen60/archives/76737755.html
大阪~神戸近辺の地域仕様の様で、他地域ではみかけませんね。
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3日前にも送信したのですが何らかのトラブルで書き込めていないようでした。
尼崎港線を調べていてここにたどり着きました。JR塚口駅の西出口階段を降りたところにある古い尼崎の地図には塗りつぶされていますが今も尼崎港線の路線と駅が残っています。
尼崎港線を調べていてここにたどり着きました。JR塚口駅の西出口階段を降りたところにある古い尼崎の地図には塗りつぶされていますが今も尼崎港線の路線と駅が残っています。