廃駅をめぐる  【5】

片町駅

「廃駅」、兵庫から大阪へ移ります。平成9年3月のJR東西線京橋~尼崎の開業によって、片町線の片町駅が廃止されました。JR東西線の工事中、片町駅は仮駅舎となっていましたが、以下の写真は、仮駅舎になる前の片町駅です。

片町駅は、明治28年、浪速鉄道によって片町~四條畷9.8kmを開業したことに始まります。片町駅のあった場所は、寝屋川北岸に沿った、文字どおり片側にしか街がないような寂しいところで、なぜ浪速鉄道は大阪の始発駅としたのか、不思議な思いですが、川沿いにあったことを考えると納得がいきます。寝屋川を航行する船による物資輸送の代替、または船からの積替え輸送を担っていたのです。前掲の「廃駅」の尼崎港も同様ですが、明治期、蒸気鉄道の敷設は、旅客以上に、貨物輸送が大きな目的だったのです。

当時の片町駅の外観、昭和7年に片町線が電化され、関西に初めて国電が走った際に建てられた。真四角の何の愛想もない、無骨な造りだった(以下、昭和51年3月)。

改札口付近、つい最近のことのように思うが、自動改札もいっさい無い、昭和の時代の駅風景。
明治28年に片町~四條畷9.8kmが開業した浪速鉄道。途中駅は、放出、徳庵、住道だった。2ヵ月後には、大阪鉄道の梅田線(後の城東線→大阪環状線)天王寺~梅田(後の大阪)が開業し、片町線と直交するようになった。当初、大阪鉄道のみに京橋駅があった。明治30年になると、浪速鉄道は関西鉄道に買収された。開業から2年のことで、関西鉄道によって、木津方面に延伸され、片町線片町~木津が全通した。片町は、その後、京橋の北に新たにできた網島駅に旅客扱いが移り、片町駅は貨物専用となるが、網島駅の廃止により、再び客貨駅に戻っている。国有化のあと、昭和7年に京橋駅が立体交差化され、あわせて片町~四條畷の電化が完成。関西最初の国電が走り始めるが、片町と京橋は500mしかなく、京阪電鉄とも接続する京橋のほうが輸送上の拠点となった。片町のほうは、ポツンと一軒家状態で、長らく大都会の谷間のような駅として推移した。

駅は頭端式で、島式ホーム一本があって二面の乗り場があった。13時57分発の長尾行きが停車中。日曜日午後のホームは閑散としていた。片町線を担当する淀川電車区にも101系が入り始めていた。電留線は、以前には貨物ホームがあったようだ。

時は移り、片町線と福知山線を結ぶ、片福連絡線の地下化工事によって、片町駅は仮駅舎となった。そして、平成9年3月にJR東西線京橋~尼崎が開通、片町駅の手前で地下に入るルートとなり、片町駅は廃止、近くに大阪城北詰駅ができた。いまは愛称「学研都市線」は浸透しているが、片町駅がなくなっても、京橋~木津の正式名称「片町線」だけは残っている。

片町線で見掛けた旧型国電

片町駅で写したあと、四條畷へ行き発着する旧型国電を写している。前掲のように一部101系が入線していたが、73系の天下が続いていた。旧型国電は出自・改造が複雑で、趣味対象としてなかなかアプローチできなかった。今回も、本当の目的は、片町線沿線のバス撮影だった。四條畷駅は橋上駅の工事中、クモハ73081(手前)ほかの片町行き。

 廃駅をめぐる  【5】」への6件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    貴殿が取材された時期は73系の天下だった頃ですネ。
    ご存知この頃は、101系電車の台頭による72、73系の地方放出が真っ只中で、東京のポンコツ車には大変迷惑?した時代でした。
    クモハ31やクハ79の30番代車が主力だった小生の時代とはズレを感じますが、玉石混交の貴重な記録には懐かしさで一杯です。
    チョット奥目のクハ79の400番代車、クハ79のHゴム窓化車、クモハ73の吹工改造車、クモハ73の関東更新車など楽しく拝見しました。
    しかし、貴殿も仰る通り、国電ファンを任じている小生にもこの複雑怪奇な73系は苦手です。(笑)
    このシリーズは元の73系と、その後の72系に大別されますが、特に判りにくいのは旧73系の更新改造車ですネ。

  2. 片町線は縁が薄く、小楠公の四条畷の戦いと落語の野崎詣り、東海林太郎の野崎小唄を知っているにすぎません。しかし、全く縁が無かったわけでもなく、昭和47年に一度だけ木津-京橋間を乗車しています。木津から10系気動車の単行で長尾へ行き、そこから先は色褪せたオレンジの古い国電に乗り継ぎました。ところが当時は旧型国電にも気動車にも全く興味が無く、写真はおろか自分が乗った車両の番号さえ記録しませんでした。何年か後に「鉄道ファン」で有名なベテランファンの「若き鉄道ファンへの提言」を読み、せっかく出かけたのだから自分が乗った列車の形式や何両編成だったのかくらいは記録しておくべきだったと後悔しましたが、後の祭りです。多分72系だったのでしょうが、ロングシートの色褪せた電車という印象しかありません。総本家様の写真を拝見し、番号までは分からなくても形式と編成両数が分かれば、立派な記録になり得ると気付きましたが、これもまた手遅れですね。
    片町線の開業時が浪速鉄道だったとは、気が付きませんでした。古い蒸気機関車が好きで、浪速鉄道の名前だけは以前から知っておりましたが、開業早々に関西鉄道に合併されたことも今回初めて知りました。また、片町駅の立地が舟運との結節点であったことも、水の都大阪らしいですね。
    片町駅の様子も良く分かり、大阪市内の駅にしては閑散とした雰囲気が伝わってきます。いかにも総本家様らしさを感じたのは二枚目の写真で、改札の外からホームに止まる電車だけではなく、子供を抱いた若夫婦を写し込まれ、ガランとした駅の風景が温かく感じられます。いや、よく見れば良く手入れされた樹木も写っています。昭和の駅には、今となっては見られない温かさがあったように感じますが、これは年齢のせいでしょうか?

    • 紫の1863さま
      暖かいお言葉、ありがとうございます。京都の人間からすると、片町線は、近くて遠い線でしたね。私も今回の撮影時に初めて片町線へ行ったと思います。紫の1863さんも同様でしたか、以前のコメントでは、木津付近の思い出も寄せてもらいました。“若き鉄道ファンへの提言”、そんな記事「鉄道ファン」にありましたね。かく言う私もカメラを持参していたのなら、なぜもっと記録しなかったのか、悔やむことしきりです。
      片町・京橋付近の鉄道の変遷は複雑ですね。私も浪速鉄道がわずか一年半しか存在しなかったこと初めて知りましたし、一時、大阪の旅客ターミナルとなった網島駅が、全く跡形もなく短期間に消え去ったことも気になります。ネットを見ますと、いまの大阪城北詰駅出口に「浪速鉄道片町駅跡」の碑が建っているそうです。

  3. 総本家青信号特派員様
    2月10日付け小生のコメントで、訂正です。
    『玉石混交』と記したのは『掲載された貴殿の写真を評価』したモノでは無く、写真に写っている『72や73の電車』その物を評価した表現ですので、ご了解下さい。

    • 河さま
      コメント、ありがとうございます。“玉石混淆”のお気遣い、恐縮です。片町線の車両変遷を見ますと、訪問した年に大阪環状線の101系が初めて片町線に転入してきたことが分かりました。その翌年には、72・73系の運用が終了しており、趣味的に見ると、片町線の激動期に当たっていた訳ですね。そんなことも気になって片町駅を訪れたのかも知れません。片町線の電車については、モデル8さん発行「片町線旧型国電等」では、昭和49年の車両が、当会の先輩方の貴重な形式写真が収録されています。私は戦後製造の20m4扉電車のことを単純に73系と呼んでいましたが、その出自から72系、73系と区分すべきなのですね。ご教示ありがとうございます。

  4. 浪速鉄道の片町駅跡の顕彰碑を撮った写真がありました。1枚だけだったので画像ファイルから探すのが大変でした。検索しやすくしないとあかんなと思いました。大仏鉄道ハイクの時にいろいろ調べて、すなわち関西鉄道からと奈良乗入を調べるとどうしても片町線が絡んできます。もともと浪速鉄道は2フィート9インチの軌間で計画されていたようで途中で計画変更になり、3フィート6インチになったとのことです。四条畷から新木津までは城河鉄道という会社が認可されていたのですが、すぐに関西鉄道に合併して関西鉄道で建設されました。ここも軌間が2フィート9インチで計画されていたのですが変更されています。関西鉄道の大阪都市部への乗り入れは並々ならぬ執念を持っていたようです。しかも標準軌仕様でトンネルも橋梁も作られていたようです。今でも同志社前駅近くに川をくぐるトンネルとして残っているようです。

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