湊町
少しの間、“廃駅”に戻ります。前掲の片町駅と同じく、大阪市内の終着駅だった湊町が平成6年になくなっています。ただ“廃止”ではなく、その後も「JR難波」に駅名改称されて存続し、駅も地下に潜っていますが、名称も位置も変わっていますので、“準”廃駅と言えるでしょう。
湊町の歴史を遡ると、大阪鉄道が、明治22年5月に湊町~柏原を開通させたことに始まります。明治33年には、大阪鉄道は関西鉄道に継承され、明治40年6月に湊町~奈良~名古屋が全通、その直後に関西鉄道は国有化されました。関西鉄道では、湊町は大阪方のターミナルとして位置づけられますが、国有化後は、名古屋方面へは、東海道線がメインとなり、関西本線はローカル輸送に徹することになります。ただ、唯一、東京から急行「大和」が運転されていましたが、それも昭和43年には王寺止まりとなり、のちに廃止されます。古い大阪人にとっての湊町は、京都で言えば京都駅山陰線ホームのように、煙が充満していたところだったのでしょうが、私には思い出は全くなく、駅名改称の前に一日だけ撮りに行っただけでした。▲地上駅の湊町は2面4線の頭端式ホーム、出入りしていた関西本線の電車は、快速は221系、普通は103系だった(以下、平成6年7月)。
▲当時の駅舎、駅構内が縮小されて、地下化工事、周辺の再開発が進んでいた。
近代化の遅れた関西本線だが、ようやく昭和37年になって3扉のキハ35系が投入された。奈良までの電化は昭和48年になってから。湊町周辺の再開発が、昭和60年から始まり、関西本線も地下化されることになり、旅客ホームだけに縮小されて、平成元年、南西へ少し移転した。平成6年には駅名を「JR難波」に改称した。今回の写真は、駅名改称直前の姿。平成8年に今宮~JR難波が地下化、JR難波はJR西日本では初の地下駅となった。同時に、関西空港が開港し、湊町発の関空快速が運転されるようになった。▲13時56分発の柏原行き、クハ103-180ほか。▲隣では大阪シティエアターミナル(OCAT)の建設が進んでいた。先ごろ、久しぶりにOCATへ行ったが、高速バスのターミナルとして賑わいを見せていた。▲昭和22年の地図、千日前通が湊町駅を囲むように迂回していた。撮影当時、駅は南へ少し下がって移転し、千日前通はまっすぐに直進するようになった。▲湊町駅が蒸機、客車で埋まっていた時代の昭和30年代の情景、Nさんのネガから転載。南側に陸橋があって、格好の撮影地だった。
湊町は初めて加太へ行った時に列車に乗車した駅です。天王寺でもよかったのですが、なぜか湊町からでした。それと高校の時に部活の夏期調査旅行で長野県に行くときに急行大和で東京へ、そして信越線で安中へ、そして中山道をたどる旅行でした。信越線の列車の接続を考えると急行大和がちょうどいい時間に東京につくので選んだのです。計画を組んで、宿泊地から列車の手配までしたのですが、顧問の先生にはえらい変わった列車を選んだなあ、と言われたのです。この時は天王寺から乗ったのですが、本当は湊町から乗りたかったのです。しかし、他の人のこともあるのでわかりやすい天王寺からの乗車としたのでした。ところで地図の説明で千日前通りが駅を囲むように迂回しているとありますが、赤い円の中をよく見ると「湊」という字の所に橋がありますね。どうも道頓堀川につながる掘割があるようです。私の持っている大正14年の復刻地図を見ると駅構内にこの掘割が入り込んでいるのが書かれています。これが千日前通りが迂回している理由ではないでしょうか。そういえば大阪駅にも舟運のための掘割がありました。同じような理由で掘割があったのだと考えてしまいます。
どですかでんさま
湊町の思い出、ありがとうございます。もう高校生の時に「大和」に乗って、東上されたのですか? まさに生粋の大阪人ならでは正しい列車ですね。千日前通、市電では九条高津線が線名ですが、湊町駅で鈎形になっている理由ですが、「大阪市電が走った街今昔」の記述によりますと、大阪鉄道が湊町駅を設置したあとの明治45年に“南の大火”と呼ばれる大火事が起きました。その際、道頓堀川の北沿いに敷設が計画されていた市電・道路を変更して、道頓堀川とは少し南側に並行するように造ったそうです。ところが、湊町駅が、道頓堀川に接近してあったため、やむを得ず鈎形に迂回したとのことでした。湊町駅の西側に掘り割りがあったのも事実で、戦後の地図でもその名残がありました。今まで紹介した尼崎港、片町と同様ですが、駅が設置された時は、旅客の便よりも、水運を利用した貨物の積み替えが、駅の立地として重要視されていたことが分かります。