昭和の電車 改訂版(73)ー国鉄キハ44000型ー 投稿日時: 2020年5月13日 投稿者: 米手作市 客車に準じる鉄道車両として気動車も好きだが、キハ44000は有名な割に見た記憶がない。画を見るとこの頃の地方線区用としては珍しい三扉。客車然とした木製一枚窓とのアンバランスがおもしろい。 のちにキハユニ15となるが、写真は撮っていないのでどなたか、写真を見せてください。キハユニ16でもOKです。 この記事を共有:Tweet印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(106)ー東急クハ3232号ー 昭和の電車 改訂版(91)ー尾道鉄道デキ1ー 昭和の電車 改訂版(86)ー大阪市電801型ー 昭和の電車 改訂版(50)ー山陽電鉄2012号ー 昭和の電車 改訂版(35)ー広電市内線152号ー 昭和の電車 改訂版(30)ー東急電鉄5000系ー 昭和の電車 改訂版(15)ー阪神電鉄112型ー 昭和の電車 改訂版(5)南海電鉄11001系
写真がありました。多分間違いないと思うのですが、間違っていたらごめんなさい。キハユニ16を先頭にキハ35が2両の3両編成が大築堤を下って来たところです。。1970年5月の加太で新歓旅行の時に雨が降っていたので村田屋の窓から撮ったものです。 返信 ↓
どですかでんさん ありがとうございます。たしか天ナラにキハユニ16がいました。私も撮った記憶があるのですが見つかりません。キハユニ15は数両しかないようなので写真を撮っている人はないと思います。 返信 ↓
Gordon Davis氏のスライドに、キハ44000時代の記録があるので、お目に掛けましょう。バス窓ですから2次形、キハ44004 – キハ44014の11両中の何れかです。昔から不思議に思っていることですが、旧称号時代のDCには、正面に車番表記がないものがありますね。記入のあるものもあり、これは配属区に任されていたのか、或いはどこかの時点で、記入するようになったのか?、ご存じの方は御教示下さい。場所は成田で、昭和31年の撮影です。 返信 ↓
宮崎繁幹さん、 いつもありがとうございます。 今度もデービスさんのカラー写真、すばらしい記録ですね!ところでご質問にある「気動車の正面の車番表記」は、貫通扉の前に跳ね上げてある踏み板裏側の表記でしょうか?運転席前の窓下に小さく書いてある車番でしょうか? 返信 ↓
米手さま 非貫通車ですので、窓下の車番の意味でした。気動車の正面表記は、新称号になってからも車種記号(=キハ)を付したもの、番号だけのもの、両方が見られました。なぜ統一されなかったのか、不思議に思っています。 返信 ↓
米手作市様 キハユニ15を撮っていますよ。昭和44年8月2日、岡山駅での津山線に入っていたキハユニ153 米トリ です。客車窓は1から4までの4両で、更にスカートが垂れ下がった原型を留めています。昭和55年7月19日に廃車になっています。 返信 ↓
米手さま質問の答えになるかどうか。室内の写真があったので、貼っておきます。これは新潟鐵工の記録写真なので、44008-44011の何れかの車内です。何となくモケットではなく、ビニールシートのようにも見えますが。 返信 ↓
米手作市様 引続き客車窓のキハユニ15の中で唯一貫通式に改造されたキハユニ154をお目にかけましょう。と言っても山形にいた実車には会う機会がなく、模型でのお披露目です。このキハユニはすでに手元になく、某氏に譲ってしまいました。 返信 ↓
井原さま お教え下さい。これで乗客を乗せて急行料金を取っていたのでしょうか?それともハ室は締切?キハ10系(本車はそれ以前?)の急行としては房総の海水浴臨(当時は準急か)などが有名で、料金ボッタクリの実例はありますが、きのくに号でそんなことがあったとは、とても信じられませんのでお尋ねする次第です。 返信 ↓
よく見るとおでこの所の塗分け線が少し7番と8番で違いますね。そうすると加太で撮ったキハユニ16は8番?そうすると天王寺から奈良から快速の亀山行が亀山から急行に引っ付いてぐるっと紀伊半島を回って天王寺に帰ってきた? 返信 ↓
電気式キハ44100系の中間車キハ44200形(のちのキハ19)5両のうち4両がキニ16に改造され、更にキユニ19に再改造されました。そんなキユニ191を昭和44年7月31日 岡山駅で撮っていました。伯備線の列車だと思います。昭和54年6月8日に廃車となっています。客車列車と同様、気動車列車もバラエティーに富んだ時代でした。 返信 ↓
皆さん、多くの秘蔵写真を公開してくださり、誠にありがとうございます。やっぱり国鉄車輌はみんな、なにか撮っているものだと感心しております。 こう言う機会に投稿・回覧してください。写真も喜んでおります。ピンぼけ、露光不足、手ぶれも歓迎致します。古い写真に貴重な記録写真はあっても失敗写真はないのです。秘密にしないで発表をお願い致します。 返信 ↓
「きのくに」併結のキハユニは覚えています。椿行きでしたか? 確か客扱いはしてなかったので、実質キユニ?? ところで、電気式の時代は走行時に電車みたいにモーターの音がしたのでしょうか?エンジンの回転数で制御してたのでしょうか? 返信 ↓
天王寺15:00発の「きのくに」の先頭には天ワカのキハユニ16が連結されていました。もちろん客扱いはなし。和歌山では切り離されて、後続の普通列車の先頭についていました。(こちらはハ室は客扱い?)893-2様の写真はこの普通列車でしょうか? 天王寺では夕刊がいっぱい積み込まれていたと記憶しています。ある日、キハ36が代わりに連結されているのを見たこともあります。 どですかでん様ご撮影の加太大築堤を下る写真は貴重ですね。もしかすると、当時1形式1両で、湊町発名古屋行きの普通(奈良以西も久宝寺のみ通過。全線通しの車両はキハ35系2連)328Dに奈良~亀山間のみ連結されていたキハユ15 4の検査時等の代走かもしれません。ただキハユ15 4は当時天カメ区の所属でしたので、キハユニ16が天カメになかったとなれば、天ワカか天ナラからの借入車の可能性もあります。 返信 ↓
まほろばの鉄趣味住人様 どですかでん氏の加太でのキハユニ16は、私も少し驚きました。日常的にはキハユ154だと思っていましたので。貴殿のご推察のように代走かもしれませんね。加太を下ってくるキハユの姿を添付しておきます。 返信 ↓
まほろばの鉄趣味住人様 天王寺15:00発の椿行きのくにうろ覚えですが記憶にあります。きのくに11号だったでしょうか、椿行の急行は珍しかったので覚えています。キハユニの連結は大阪からの夕刊運送が目的でしたね、列車としてはきのくにが15:50和歌山着で55分発車、16:00の紀伊田辺行?か16:27湯浅行に連結されていたと思います。撮影は盛夏だったと思うので日の傾き具合から16-17時頃と思われます。 キハユ15は関西線で運用されていたのですね。和歌山線を通って和歌山駅に顔を出していたのは撮影しています。画像は今ならどこから撮ってんねん!とツッコミが入りそうですが何せ45年程前のことおおらかな時代だったということでご勘弁願います。 返信 ↓
関先生の絵になっている1次型の写真がありましたので、お目に掛けましょう。白黒だと色が判らぬので、一見、湘南電車のようだが、乗降口が垂れ下がっているのは客車のようだし、台車は気動車用と3種混合のような車輌です。撮影者、場所、日時不明と困った写真ですが、所属標記が「千キサ」の様ですから、新製配属直後の記録かと。「キサ」は木更津のことかな。しかし、写真では架線が見られるので、撮影地は千葉辺りでしょう。 返信 ↓
正面の写真も一緒にあったので、貼っておきます。自分で呈した疑問に、自分で回答しときます。どうやら正面の車番表記は、新製後の配属時にはあったが、その後なんらかの要因で、消されたようです。こんな顔をした車は、他にないので、番号は書いておく必要はないと思ったのでしょうか!? 返信 ↓
キハ44000は、昭和27(1952)年の製造です。先に御覧に入れた、Gordon Davis氏のスライドは昭和31(1956)年ですが、正面の車番表記はありません。2枚だけから断定はできないが、昭和30年頃には正面の番号は消されたのではないでしょうか。 少し掲載されている場所が離れましたが、車内写真に関し、頂戴したもう一つの御質問「ところで真ん中に見える握り棒みたいなのはなんですか?」につき、私見を交え、回答します。簡単な答えは、「ここが中央出入口なんです!」です。これでは、「そんなん、見りゃ判る!!」と御叱りを受けそうですね。そこで、ツラツラ考えるに。DCの場合、台車間の床下にはエンジンを吊る訳で、側板にでっかい穴ぼこ(=中央扉)が開くのは、ホントはマヅイ。後年のキハ35でも、問題になったと聞いています。従い、このジャングルジムみたいな握り棒は、乗客サービスみたいなふりして、床板と天井部を繋ぎ、車体構造の強化を図ったのではないでしょうか? まぁシロウトの勝手な想像ですので、半信半疑でお願い致します。 返信 ↓
なるほど!それはその通りです。 客車でも魚腹台枠があるほど中央部のたるみは悩みのタネでした。それでは、と、次の悩みですが、どうして三扉にしたのでしょうか?まだ気動車の走る線区で三扉にしなければならないほどの混雑があったとも思えませんし、車体がたるんでも三扉車を作る理由が分かりません。
米手さま やはり通勤・通学輸送に配慮し、3扉としたのでしょう。千葉地区は、後にキハ35系が最初に投入された地域でもあります。だが結局失敗だったのでしょうね。直後に製造された、後続のキハ44100形・キハ44200形は、2扉で登場したのですから。 返信 ↓
宮崎繁幹様 一点だけツッコミを入れることをお許し下さい。キハ35系はまず関西線に投入されています。1961(昭和36)年12月のダイヤ改正で、阪奈間30分間隔での快速を含む大増発が行われました。房総地区への投入は翌年だったと思います。 いずれにせよ、ステップを残したままの3扉車は、台枠強度上のしわ寄せがどこかに来るということですね。キハ35系はご存じのとおり外吊り扉でしたから。それに比べると関東鉄道キハ900型は、同様の切妻3ドア(ただし片開き)ロングシート車ですが、ステップレスなので随分スッキリ、スマートに見えました。 返信 ↓
写真がありました。多分間違いないと思うのですが、間違っていたらごめんなさい。キハユニ16を先頭にキハ35が2両の3両編成が大築堤を下って来たところです。。1970年5月の加太で新歓旅行の時に雨が降っていたので村田屋の窓から撮ったものです。
どですかでんさん
ありがとうございます。たしか天ナラにキハユニ16がいました。私も撮った記憶があるのですが見つかりません。キハユニ15は数両しかないようなので写真を撮っている人はないと思います。
Gordon Davis氏のスライドに、キハ44000時代の記録があるので、お目に掛けましょう。バス窓ですから2次形、キハ44004 – キハ44014の11両中の何れかです。昔から不思議に思っていることですが、旧称号時代のDCには、正面に車番表記がないものがありますね。記入のあるものもあり、これは配属区に任されていたのか、或いはどこかの時点で、記入するようになったのか?、ご存じの方は御教示下さい。場所は成田で、昭和31年の撮影です。
宮崎繁幹さん、
いつもありがとうございます。
今度もデービスさんのカラー写真、すばらしい記録ですね!ところでご質問にある「気動車の正面の車番表記」は、貫通扉の前に跳ね上げてある踏み板裏側の表記でしょうか?運転席前の窓下に小さく書いてある車番でしょうか?
米手さま
非貫通車ですので、窓下の車番の意味でした。気動車の正面表記は、新称号になってからも車種記号(=キハ)を付したもの、番号だけのもの、両方が見られました。なぜ統一されなかったのか、不思議に思っています。
米手作市様
キハユニ15を撮っていますよ。昭和44年8月2日、岡山駅での津山線に入っていたキハユニ153 米トリ です。客車窓は1から4までの4両で、更にスカートが垂れ下がった原型を留めています。昭和55年7月19日に廃車になっています。
始めて見ましたが、お公家さんみたい!
でも、初期の気動車はいいですね。背ズリが低く、後頭部が後の人とゴツンしたものです。モケット張りだったか?
お公家さんとは言い得て妙ですね。
ホンマに!
米手さま質問の答えになるかどうか。室内の写真があったので、貼っておきます。これは新潟鐵工の記録写真なので、44008-44011の何れかの車内です。何となくモケットではなく、ビニールシートのようにも見えますが。
失礼しました。ファイルサイズが大きすぎ、写真が落ちてしまいました。リサイズして、貼り直しておきます。
思い出しました!
青いビニール張りでした。
ところで真ん中に見える握り棒みたいなのはなんですか?
米手作市様
引続き客車窓のキハユニ15の中で唯一貫通式に改造されたキハユニ154をお目にかけましょう。と言っても山形にいた実車には会う機会がなく、模型でのお披露目です。このキハユニはすでに手元になく、某氏に譲ってしまいました。
失礼しました。井原様撮影のキハユニ151も貫通化改造されていました。これも米トリです。
岡オカにもいたようで、スミマセン。
正面が改造されて湘南顔ではなく、且つ良い写真ではないので恥ずかしくて出せなかったのですが、キハユニ15 1岡オカです。キハユニ15 3と見比べてください 1979年10月28日 岡山。
井原さん
真横からの写真は大変貴重です。西村さんの写真と比べて、顔が違うだけでなく“貴重感”が漂ってきます。見たかったなァ。昭和54年までいたのですね。
キハユニ16は急行としても走っていました。きのくに4号 303Dにぶら下がって天王寺を目指すキハユニ16 8 山中渓 1974年1月3日。
井原さま
お教え下さい。これで乗客を乗せて急行料金を取っていたのでしょうか?それともハ室は締切?キハ10系(本車はそれ以前?)の急行としては房総の海水浴臨(当時は準急か)などが有名で、料金ボッタクリの実例はありますが、きのくに号でそんなことがあったとは、とても信じられませんのでお尋ねする次第です。
誤解を招く(気を持たせる)不適切表現をお詫びいたします。下の方のコメントのとおりではないでしょうか。
関西線快速のキハユニ16 7です。乗車するとしたらキハ35系とどちらに乗りますか? 天王寺 1971年2月16日。
勿論です!
よく見るとおでこの所の塗分け線が少し7番と8番で違いますね。そうすると加太で撮ったキハユニ16は8番?そうすると天王寺から奈良から快速の亀山行が亀山から急行に引っ付いてぐるっと紀伊半島を回って天王寺に帰ってきた?
キハユニ16 8は、天王寺で折り返しきのくに11号112Dの先頭にたって山中渓をがんばって通過して行きました 山中渓 1974年1月3日。
私もキハユニ16は撮影していましたので参加させてください。撮影は’75~’78年頃で場所は紀勢本線海南駅です。今は高架駅になってしまい面影はありません。
奈良線にもキハユニ16は毎日走っていました。キハユニ1610は奈良寄りが定位置で京都駅着発が12:00頃でした。
電気式キハ44100系の中間車キハ44200形(のちのキハ19)5両のうち4両がキニ16に改造され、更にキユニ19に再改造されました。そんなキユニ191を昭和44年7月31日 岡山駅で撮っていました。伯備線の列車だと思います。昭和54年6月8日に廃車となっています。客車列車と同様、気動車列車もバラエティーに富んだ時代でした。
ついでにキユニ19の未完成模型をご紹介します。貴鉄道でキユニのニーズがあれば、直ちにお譲りしますので ご一報下さい。
皆さん、多くの秘蔵写真を公開してくださり、誠にありがとうございます。やっぱり国鉄車輌はみんな、なにか撮っているものだと感心しております。
こう言う機会に投稿・回覧してください。写真も喜んでおります。ピンぼけ、露光不足、手ぶれも歓迎致します。古い写真に貴重な記録写真はあっても失敗写真はないのです。秘密にしないで発表をお願い致します。
「きのくに」併結のキハユニは覚えています。椿行きでしたか?
確か客扱いはしてなかったので、実質キユニ??
ところで、電気式の時代は走行時に電車みたいにモーターの音がしたのでしょうか?エンジンの回転数で制御してたのでしょうか?
天王寺15:00発の「きのくに」の先頭には天ワカのキハユニ16が連結されていました。もちろん客扱いはなし。和歌山では切り離されて、後続の普通列車の先頭についていました。(こちらはハ室は客扱い?)893-2様の写真はこの普通列車でしょうか? 天王寺では夕刊がいっぱい積み込まれていたと記憶しています。ある日、キハ36が代わりに連結されているのを見たこともあります。
どですかでん様ご撮影の加太大築堤を下る写真は貴重ですね。もしかすると、当時1形式1両で、湊町発名古屋行きの普通(奈良以西も久宝寺のみ通過。全線通しの車両はキハ35系2連)328Dに奈良~亀山間のみ連結されていたキハユ15 4の検査時等の代走かもしれません。ただキハユ15 4は当時天カメ区の所属でしたので、キハユニ16が天カメになかったとなれば、天ワカか天ナラからの借入車の可能性もあります。
まほろばの鉄趣味住人様
どですかでん氏の加太でのキハユニ16は、私も少し驚きました。日常的にはキハユ154だと思っていましたので。貴殿のご推察のように代走かもしれませんね。加太を下ってくるキハユの姿を添付しておきます。
まほろばの鉄趣味住人様
天王寺15:00発の椿行きのくにうろ覚えですが記憶にあります。きのくに11号だったでしょうか、椿行の急行は珍しかったので覚えています。キハユニの連結は大阪からの夕刊運送が目的でしたね、列車としてはきのくにが15:50和歌山着で55分発車、16:00の紀伊田辺行?か16:27湯浅行に連結されていたと思います。撮影は盛夏だったと思うので日の傾き具合から16-17時頃と思われます。
キハユ15は関西線で運用されていたのですね。和歌山線を通って和歌山駅に顔を出していたのは撮影しています。画像は今ならどこから撮ってんねん!とツッコミが入りそうですが何せ45年程前のことおおらかな時代だったということでご勘弁願います。
皆様
どですかでん氏の加太でのキハユニと同じ編成を、木津駅で撮っています。撮影年月日不明。
関先生の絵になっている1次型の写真がありましたので、お目に掛けましょう。白黒だと色が判らぬので、一見、湘南電車のようだが、乗降口が垂れ下がっているのは客車のようだし、台車は気動車用と3種混合のような車輌です。撮影者、場所、日時不明と困った写真ですが、所属標記が「千キサ」の様ですから、新製配属直後の記録かと。「キサ」は木更津のことかな。しかし、写真では架線が見られるので、撮影地は千葉辺りでしょう。
正面の写真も一緒にあったので、貼っておきます。自分で呈した疑問に、自分で回答しときます。どうやら正面の車番表記は、新製後の配属時にはあったが、その後なんらかの要因で、消されたようです。こんな顔をした車は、他にないので、番号は書いておく必要はないと思ったのでしょうか!?
宮崎繁幹さん、
これは知りませんでした。始めて見ました。
でも、違和感がありませんね。いつ頃まであったのでしょうね。
キハ44000は、昭和27(1952)年の製造です。先に御覧に入れた、Gordon Davis氏のスライドは昭和31(1956)年ですが、正面の車番表記はありません。2枚だけから断定はできないが、昭和30年頃には正面の番号は消されたのではないでしょうか。
少し掲載されている場所が離れましたが、車内写真に関し、頂戴したもう一つの御質問「ところで真ん中に見える握り棒みたいなのはなんですか?」につき、私見を交え、回答します。簡単な答えは、「ここが中央出入口なんです!」です。これでは、「そんなん、見りゃ判る!!」と御叱りを受けそうですね。そこで、ツラツラ考えるに。DCの場合、台車間の床下にはエンジンを吊る訳で、側板にでっかい穴ぼこ(=中央扉)が開くのは、ホントはマヅイ。後年のキハ35でも、問題になったと聞いています。従い、このジャングルジムみたいな握り棒は、乗客サービスみたいなふりして、床板と天井部を繋ぎ、車体構造の強化を図ったのではないでしょうか? まぁシロウトの勝手な想像ですので、半信半疑でお願い致します。
なるほど!それはその通りです。
客車でも魚腹台枠があるほど中央部のたるみは悩みのタネでした。それでは、と、次の悩みですが、どうして三扉にしたのでしょうか?まだ気動車の走る線区で三扉にしなければならないほどの混雑があったとも思えませんし、車体がたるんでも三扉車を作る理由が分かりません。
米手さま
やはり通勤・通学輸送に配慮し、3扉としたのでしょう。千葉地区は、後にキハ35系が最初に投入された地域でもあります。だが結局失敗だったのでしょうね。直後に製造された、後続のキハ44100形・キハ44200形は、2扉で登場したのですから。
やっぱりそうですよね。
気動車の三扉は、その後ずっと後まで作られなかったのを見てそう思いました。
宮崎繁幹様
一点だけツッコミを入れることをお許し下さい。キハ35系はまず関西線に投入されています。1961(昭和36)年12月のダイヤ改正で、阪奈間30分間隔での快速を含む大増発が行われました。房総地区への投入は翌年だったと思います。
いずれにせよ、ステップを残したままの3扉車は、台枠強度上のしわ寄せがどこかに来るということですね。キハ35系はご存じのとおり外吊り扉でしたから。それに比べると関東鉄道キハ900型は、同様の切妻3ドア(ただし片開き)ロングシート車ですが、ステップレスなので随分スッキリ、スマートに見えました。